2017年09月29日

私的東北論その100〜「観光とは外向きのことだけではない」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日刊行の「東北復興」第63号では、前号に引き続いて仙台の観光について、前橋と金沢との比較で考えてみた。それぞれ仙台にとって参考になりそうなことがあり、とても興味深かった。

 それにしてもこのブログの中の「私的東北論」、ついに100本目の記事である。よもや地ビールの話題よりも先に100に到達するとは思ってもいなかった(笑)。東北について毎回好き放題に書いているが、恐らくこれからもそのスタンスは変わらないものと思われる。とりあえず、以下が今回の全文である。


観光とは外向きのことだけではない

仙台のイメージとは

 前回は仙台市の観光について、普段あまり比較されることのない前橋市と金沢市との比較で考えてみた。今回も引き続き、この両市との比較で仙台市の観光を考えてみたい。

 まず、仙台市の観光について考える材料としては、「平成27年度仙台市観光客動態調査報告書」が参考になる。インターネットと仙台市内での聞き取りで仙台市のイメージや観光資源の認知状況、来訪者の動向などを調査したものだが、これを見ると、仙台が外からどのように見えているのかがよく分かる。

 まず、仙台の「情緒イメージ」として多く挙げられているのが、「歴史のある」(52.6%)、「伝統がある」(38.0%)、「文化的な」(25.6%)、「落ち着いた」(20.8%)などである。これらは同じ政令指定都市と比べても仙台が優位なイメージである。例えば、「歴史のある」は名古屋25.8%、福岡21.3%、札幌20.0%、「伝統がある」は名古屋19.1%、福岡18.0%、札幌15.6%、「文化的な」は札幌17.6%、福岡13.4%、名古屋13.2%であるので、仙台はこれらの都市よりもかなり「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」都市と見られているのである。

 せっかく他の政令指定都市よりもこのようなイメージで仙台を捉えてもらっているにも関わらず、仙台はその強みを活かし切れていないように見える。「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」仙台に行きたいと思った人が実際に仙台に来たとして、仙台のどこに行けば、これらを体感できるのかと考えてみると、甚だ心許ない気がするのである。

 ちなみに、金沢は「歴史のある」が69.8%、「伝統がある」が64.8%、「文化的な」が45.6%と、いずれも仙台のポイントを上回っており、金沢はこうした情緒イメージが仙台よりも強いことが分かる。金沢の場合、金沢城&兼六園、茶屋街といった観光資源があり、足を運べば歴史や伝統を体感できる。また、金沢には「金沢なんでも体験プログラム」という、加賀友禅、金箔工芸、九谷焼、加賀蒔絵といった金沢の伝統工芸や伝統芸能などを気軽に体験できるプログラムが用意されており、まさに金沢の文化を体感できる体制が整っているのである。このように金沢は、仙台以上に「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」と評価されたイメージを、実際に体験できるハードやソフトがあるわけである。そのことによってさらにこれらのイメージが強化されるという好循環が生まれているのではないだろうか。仙台が金沢に学ぶべき点はまずここにあると思われる。

海から山までつながっている仙台

 ちなみに、同報告書では、「観光資源イメージ」についても調べている。それによれば、仙台の観光資源イメージとして、「美味しい食べ物・飲み物がある」が53.8%、「美しい自然や景勝地に恵まれている」が43.0%、「伝統的文化がある」が28.5%と高い。

 「美味しい食べ物・飲み物がある」は札幌(71.0%)、福岡(61.5%)よりは低いが名古屋(47.8%)や金沢(47.6%)よりは高い。これは恐らく、牛たんと海産物が牽引しているものと思われるが、こうした明確なイメージを持ってもらえるアイテムがあるのは強みであることが分かる。

 「美しい自然や景勝地に恵まれている」も、金沢(49.2%)や札幌(46.8%)よりは低いが、福岡(12.4%)や名古屋(7.8%)よりは圧倒的に高い。これは「杜の都」のイメージや、実際に自然が多く残されていることによるものと思われるが、このことが体感できるスポットが青葉通りや定禅寺通りだけというのではやはり不十分である。

 あまり普段意識されていないことだが、仙台は太平洋から奥羽山脈までを含む多様な地域である。太平洋沿岸から山岳地帯までが全てある、自然の様々な姿を見ることのできる貴重な地域である。これは大きな強みであると思うのだが、このことを前面に出した観光案内などは今のところないように思う。海も平地も山も、全部の自然を体験できるパッケージができるとよいのではないだろうか。

 「伝統的文化がある」は金沢(55.3%)には比ぶべくもないが、名古屋(19.1%)、福岡(13.6%)、札幌(11.1%)を上回っている。先に紹介した「金沢なんでも体験プログラム」のようなソフトの充実が望まれる。

前橋に学ぶ伝える工夫
 観光に関しては、どう伝えるかも大変重要である。せっかくいい観光資源を持っていても、その存在やそのよさが伝わらなければ観光にとっては意味がない。その点で、前橋に行った時に手に取った観光パンフレットが実に秀逸だった。

およそ観光パンフレットとは思われない「kurun」の表紙 手書き風の文字で「kurun」と書かれ、そばに「まえばし くるん」と小さく書かれているが何のことかよく分からない。表紙は饅頭か何か、あまり見たことのない食べ物らしきものを目のところに持ってきている女性の写真で、下の方にはこれまた手書き風の文字で「Take Free」と書かれているが、表紙だけ見た限りでは、これが何の冊子なのか分かる人はそういないのではないかと思われる。

 中を開いてみると赤城神社、るなぱあく、弁天通り、チーズ工房、前橋の地酒、アーツ前橋などがグラフ雑誌のような感じで紹介されていき、焼きまんじゅうのところに来てようやく表紙のよく分からない食べ物が焼きまんじゅうという前橋の名物であることが分かる。他にも、自転車、まつり、音楽、文学などのことが書かれ、裏表紙まで来てようやく「くるん」というのが「来る?」の群馬方言で、かつ「前橋市に来たくなるように作られた冊子」であることが説明され、「前橋市観光パンフレット」という記載を見てようやくこれが前橋市のつくった観光パンフレットであることが分かるという寸法である。

 通常、パンフレットというのは、その地域の観光資源についての情報をこれでもかというくらいに詰め込んでいて、網羅性はあるもののインパクトに欠ける面がどうしても残る。その結果、読み手の印象に残らず、実際に足も運ばれないということになってしまう恐れがあるわけである。

 この「kurun」はその点を見事にクリアしている。他の地域にはない、前橋ならではの観光資源だけをピックアップし、その魅力をインパクトのあるタイトル、デザイン、写真でこれでもかというくらいに強調しており、それらを読み手に深く印象付けられる構成となっている。

 観光パンフレットというのは、その地域の「名刺」とでも言うべきものである。「私はこういう者です」ということを初対面の相手に伝える役割を持っているものである。ビジネスで初対面の相手にいかに自分のことを覚えてもらうかが大事であるのと同様に、その地域のことを分かってもらい、実際に足を運んでもらうことが観光パンフレットのミッションであるとするならば、その中身については、名刺が様々に工夫されているのと同様にもっと工夫されてしかるべきであると思う。

 なお、「kurun」はウェブ上でも閲覧できるのでぜひ一度見てみていただきたい。

金沢に学ぶ目指す都市像の明確化

 一方の金沢については、観光についての戦略やプランが実に充実している。観光を都市運営の柱にしようという強い意志と意欲が感じられる。金沢市のサイトを見てみると、「金沢魅力発信行動計画」(2012年2月)、「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」(2013年3月)、「金沢市国際交流戦略プラン」(2015年3月)、「金沢市観光戦略プラン」(2016年3月)、「世界の交流拠点都市金沢重点戦略計画」(2017年2月)など、観光や国際交流を強く意識して、そのために金沢として何を重視し、何を実践していくかを折に触れて明確にしているその姿勢がよく表れている。

 これらの文書を見て感じるのが、金沢が目指す都市像が、観光政策というフィルターを通して明確になっているという事実である。自分たちの住む都市がどのようなもので、これから何を目指すのか、ということは、多くの場合、意外に明確になっていないし、そこに住む人たちの間の共通理解にもなっていない。金沢では、観光政策という対外的な対応策の立案という形を借りて、そこの部分を明確にしている。言ってみればこれは、外に向けているようでいて、実は内に向けても発信しているように見えるのである。

 例えば、「金沢魅力発信行動計画」では、「金沢が培ってきた文化の継承・活用・育成」について、真っ先に「歴史遺産・伝統芸能等の文化に対するアイデンティティの形成」を挙げている。「歴史遺産や伝統芸能等の文化による魅力あるまちづくりを進めていくためには、まずその前提として、市民自らが金沢の文化の重要性や固有性を十分認識することが不可欠」と、そこには書かれている。つまり、観光を通じて、自分たちが何者なのか、何を大事にする(しようとしている)住民なのかを明確にしているのである。

 「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」には、世界の交流拠点都市としての機能を高めていくためには、「市民協働によるまちづくりを進めていくことが重要です」とある。してみるとこれは、一見観光政策のように見えて、実はまちづくりのことを謳っているのだということに気づく。この、観光とは結局のところ、自分たちが何者なのかを問い直し、明確にし、発信する一連のプロセスであると規定して、それを実際に実践している金沢の在り方は、大いに参考にすべきであると思う。

 その手掛かりとして、他からどう見えているのかを知り、その強みを活かす、強化することは重要である。その意味で、冒頭に紹介したような調査は有用であると思うが、肝心なのはその結果を踏まえた対応である。すなわち、金沢のように、具体的に何をするかを平易な言葉で内外に伝えようとするアクションである。金沢の「金沢市観光戦略プラン」には「かがやく」、「ひろげる」、「つどう」、「めぐる」、「もてなす」、「そだてる」、「つなげる」という、分かりやすく書かれた7つの基本戦略とそれに伴う主要施策が明示されている。観光を通して、自分たちの目指す都市像を自分たちで描く努力をすることが、自分たちにとっても重要であることに気づくべきである。


anagma5 at 00:26|PermalinkComments(0)clip!私的東北論 

2017年08月18日

私的東北論その99〜「観光都市としての仙台を三都市の比較で考える」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 7月16日刊行の「東北復興」第62号では、観光都市としての仙台について考えてみた。5月に機会があって前橋市と金沢市を訪れた際にそれぞれ印象的だったことがあったので、この2つの都市と仙台との比較の中から何か新しい視点が見出せないかと考えてみた次第である。

 以下がその全文である。


観光都市としての仙台を三都市の比較で考える

前橋、金沢、仙台

 東北における観光については、本連載でも何度か取り上げている。その中では特に、東北各県同士の観光領域における連携の促進について書いて来たように思う。今回は、東北全体ということではなくて、一都市に絞って見てみようと思う。具体的には私の住む仙台市である。

 今年5月に、前橋市と金沢市に足を運ぶ機会があった。観光に関してそれら2都市で感じたことはいろいろとあった。仙台が何かの領域で比較される場合、比較の対象となるのは大抵同じ政令指定都市であることがほとんどである。観光についてもしかりで、都市間比較の対象というのは仙台の場合、同じ政令指定都市、とりわけ札幌市、広島市、福岡市辺りと比較されることが多かった。

 もちろん、前橋市、金沢市と仙台市とでは、人口など都市の規模の面では異なるわけで、それで今まであまり比較されてこなかったわけだが、そうした差異をこの際度外視して見てみると、仙台の今後を考える際に参考になりそうなことが意外に多くあることに気がつく。

 今回はそうしたことについて取り上げてみたい。

三都市の比較
 まず三都市の比較である。前橋市は人口約33万5千人、金沢市は約46万6千人、仙台市は約108万5千人である。面積は前橋市が311.59㎢、金沢市が468.64㎢、仙台市が786.3㎢である。人口は仙台市が最も多く、前橋市が最も少ないが、仙台市は面積も大きく、前橋市は面積も小さいので、人口密度は三都市でそれほど大きな差はない。1平方キロメートル当たり前橋市が1,080人、金沢市が994人、仙台市が1,380人である。

 次に、三都市の特徴を見てみる。三都市とも県庁所在地で旧城下町であることは共通しているが、まず前橋市は赤城山の南麓に位置する内陸の都市で、寒暖の差は大きい。冬は「赤城おろし」と呼ばれるからっ風が吹き下ろし、雪は少ない。市の中心部にあるJR前橋駅は上越新幹線や上越線からは外れており、高崎駅での乗り換えが必要である。この高崎駅のある高崎市は人口で前橋市を上回っており、両市は群馬県内において「ライバル」と見なされることが多いようである。この辺りは福島県における県庁所在地福島市と人口で上回る郡山市の関係に似ているかもしれない。前橋市も仙台市と同様、戦災で市街地が焼けた歴史を持つ。かつ仙台市と同様、ケヤキが街路樹として植えられており、また街中を「広瀬川」が流れている。農業産出額は全国の市町村中16位で、特に畜産業の産出額は全国6位である。豚と乳用牛が突出しているが、前橋市では「TONTONのまち前橋」と銘打って、オリジナル豚肉料理を売りにしている。

 金沢市は、言わずと知れた旧加賀藩百万石の城下町であり、戦災の被害を受けなかったことから今でも江戸時代以来の街並みが残る。国の出先機関や企業の支社・支店が置かれることが多く、北陸三県の中の中心的都市でもある。日本海側気候で冬期の積雪は多い。元々、日本三名園の一つである兼六園や市内に3か所ある茶屋街、長町武家屋敷跡などの歴史的な建造物、加えて金沢21世紀美術館などの観光資源は特に著名だったが、北陸新幹線が延伸したことで首都圏からのアクセスが飛躍的に向上し、観光客増につながっている。伝統野菜である加賀野菜と豊富な海産物を用いた加賀料理、老舗の和菓子、日本酒などの評価も高い。最近では金沢カレーも有名である。加賀友禅、金沢箔などの伝統工芸もよく知られている。

 最後に仙台市である。伊達六十二万石の城下町として栄えたが、戦災によって歴史的建造物はあまり現存していない。江戸時代から防風・防火のための植林が奨励されたために伝統的に街中に樹木が多く、そのために明治時代の終わり頃から「杜の都」と称されている。この伝統は戦災復興の際にも受け継がれた。太平洋側気候で冬期の積雪は東北の中でも少ないが、奥羽山脈から乾燥した北西の季節風が吹き下ろすことが多く体感温度は低く感じる。夏期は海風の影響で気温はあまり上昇せず、真夏日や熱帯夜は比較的少ない。夏の「仙台七夕まつり」を始め、「仙台青葉まつり」、」「SENDAI光のページェント」、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、「みちのくYOSAKOIまつり」など一年を通して様々なイベントが開催される。主な産業は卸売業・小売業、サービス業で、総生産額の約8割を占める。食では牛たん、笹かまぼこ、ずんだ餅などが有名で、三陸の魚介類、仙台牛、ブランド米も知られる。

 私の理解している範囲では三都市はだいたい以上のようなプロフィールを持っている。

観光に関する三都市の現状
 さて、それではこれら三都市の観光についての現状を見てみよう。

 前橋市の観光入込客数は2015年に668万2千人。群馬県内からが528万9千人で、県外からは139万3千人である。宿泊客数は25万9千人である。群馬県全体の数字しか見つからなかったが、宿泊客のうち東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の一都三県で全体の約6割を占め、外国人宿泊客の割合は0.8%となっている。この割合を前橋市の宿泊客数に当てはめてみると外国人宿泊客数は3千人弱と際立って少ない。東京が近いことがあって、前橋市に宿泊するという外国人は少ないのであろう。

 金沢市の観光入込客数は北陸新幹線が開業した2015年に1006万4千人と初めて一千万人を超えた。このうち兼六園には308万9千人、金沢21世紀美術館には237万3千人が訪れていて、この2つが金沢市内で最大の観光資源であると言える。一方、金沢市近郊の湯桶温泉には6万4千人と、それほど多くの人は訪れていない。観光客の発地は、石川県内が350万8千人、関東が251万5千人で新幹線開業前の139万人から倍近い伸び、関西からは105万2千人となっている。宿泊客数は約343万6千人である。若干古いデータになるが、2013年の外国人宿泊客数は15万6千人であった。

 仙台市の観光入込客数は2015年で2229万4千人と初めて二千万人を超えた。宿泊客数は575万2千人であり、このうち外国人宿泊客数は11万6千人である。市内の主要観光地への観光客数は、秋保温泉が116万1千人、宮城県総合運動公園に147万3千人、楽天koboスタジアム宮城に141万4千人、仙台城址・瑞鳳殿・仙台市博物館が90万人、定義如来に84万9千人、八木山動物公園等に69万8千人となっている。

 興味深いのはイベントへの参加人数で、最も人が多く集まるイベントは今や「仙台七夕まつり」ではなく「SENDAI光のページェント」で301万人、次いで「仙台七夕まつり」が217万7千人、その次は「みちのくYOSAKOIまつり」で96万7千人、以下「仙台青葉まつり」96万人、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」が70万人などとなっている。

 仙台市は前橋市の3.3倍、金沢市の2.2倍の観光客が訪れているわけだが、人口比で見ると前橋市は人口の19.9倍、金沢市は21.6倍、仙台市は20.5倍で、さすがに金沢市が若干高いが、三都市でそれほど大きな違いはない。際立って異なるのは外国人宿泊客数で、前橋市が極めて少なく、仙台市は全体の数の割に金沢市よりも外国人宿泊客数が少ない。金沢市が前橋市、仙台市より明らかに外国人宿泊客数が多いのは、歴史遺産の数の差であるように思われる。戦災で焼け野原となった前橋市と仙台市は、歴史を感じさせる建造物やスポットが金沢市に比べて圧倒的に少ない。その差が外国人宿泊客数の差となって現れているのではないだろうか。

 金沢市を訪れた際に特に印象的だったのは、平日だったにも関わらず、観光客の数が非常に多いということであった。兼六園とそれに隣接する金沢城はもちろん、ひがし茶屋街、近江町市場など、どこに行っても観光客と思しき人たちが大挙して歩いていた。特に目立ったのはやはり外国人観光客であった。

検討に値する四ツ谷用水の復活
 ところで、私が金沢市でいいなと思ったのは、街中に江戸時代からの水路が今も残っていることである。表通りから一本路地に入るとそこには鞍月用水が流れていた。他にも中心部には辰巳用水、大野庄用水という、合わせて3本の水路があり、これが都市景観に文字通り「潤い」を与えている。前橋市でも金沢市ほどの規模ではないが、同様に水路があった。先に書いた「広瀬川」が実は江戸時代に整備された用水で、現在は河畔緑地が整備されてやはり素晴らしい都市景観をつくり出している。

 仙台の広瀬川は街中からはやや外れたところを流れているため、街中でこうした「水のある風景」を見ることはない。実は仙台にも江戸時代に造られた「四ツ谷用水」という用水があり、現在の市街地の至るところを流れていた。ところが、上下水道の整備によって生活用水としての利用が減少したことや、車社会の到来で水路にフタがされたことによって、地上から姿を消す部分が多くなり、今では街中ではほとんどその姿を見ることができなくなっている。

 一度地上から姿を消した用水を復活された事例が仙台市の隣の山形市にある。同じく旧城下町である山形市にもかつて山形五堰と呼ばれる水路があったが、やはり時代の移り変わりと共に暗渠となり、その存在すら知らない市民も多かったという。そうした現状に対して、街中にオアシスのような空間を創造するということで、中心部の七日町商店街の店主らがまちづくり会社「七日町御殿堰開発株式会社」を設立、7年前に五堰の一つ「御殿堰」を「水の町屋七日町御殿堰」として街中に復活させたのである。この御殿堰、新たな観光スポットとして市民や観光客の憩いの場となっている。

 仙台でも昨年、四ツ谷用水の一部である「桜川」を歴史遺産として復活させようという「仙台『桜川』を復活する市民の会」が立ち上がった他、仙台市の環境共生課も6年前から「四ツ谷用水再発見事業」として各種イベントを開催している。こうした官民の動きがうまく合わされば、四ツ谷用水の復活も現実味を帯びてくるのではないだろうか。

 現在、戦災で焼失した仙台城の大手門を復元させる動きも出ているが、合わせて四ツ谷用水も復活させることで、より旧城下町に相応しい歴史を感じさせる街並みとなるに違いない。

 これまで「杜の都」として売ってきた仙台市だが、四ツ谷用水を復活させて旧仙台藩の時と同様、樹木が豊富で水路が巡る「杜と水の都」としてバージョンアップできれば、観光都市としての仙台市の魅力はより高まるのではないかと考える。


anagma5 at 00:48|PermalinkComments(0)clip!私的東北論 

2017年08月05日

東北で地ビールが飲める店その76〜山形県村山市

 村山市は山形県の内陸中央部、村山地域にある人口約25,000人の市である。東沢バラ公園のバラ、最上川の三難所舟下りあらきそばに代表される田舎そばなどで有名である。

170804-182722 この村山市内で地ビールなどが飲める店だが、村山市の中心街のある楯岡地区には見当たらなかった。ただ、郊外に1軒あった。それが「ひつじや」(村山市富並4220-15、TEL0237-57-2862、平日11:30〜14:30、17:00〜21:00、休日11:30〜21:00、火曜定休)である。

 ひつじやでは自家飼育の羊と畑で取れた季節の野菜のジンギスカンが食べられるが、クラフトビールも置いてあるので、それを飲みながらジンギスカンの味わうことができるのである。私が訪れた際にはスコットランドのブリュードッグのビールが2種類置いてあったが、日本の地ビールが置いてあることもあるようである。

 なお、ひつじやでは、一週間に一頭分の羊肉を提供しているとのことで、ジンギスカンを注文するとその全ての部位が味わえるが、一週間に一頭分限定ということで、食材の在庫状況によっては臨時休業となる場合があるので、事前に電話での確認・予約が必須である。

 ところで、ビールを飲まないなら問題ないのだが、このひつじや、車以外でのアクセスがあまりよくない。最寄り駅はJR奥羽本線の袖崎駅であるが、そこからは約5km、歩くと1時間は掛かる。平日なら村山市市営バスを利用する手もある。JR村山駅から「山の内〜(長島)〜北村山公立病院線」に乗ると、ひつじやのある富並地区まで行ける(最寄りの停留所は「森」)。ただ、本数があまりない(富並に向かう便が3便、富並から帰ってくる便が4便)。昼に行くことを考えると、村山駅前発13:05森着13:48の「2便」があるが、村山駅に戻ってくる最終便である「4便」が森発14:23なので、ジンギスカンを食べていられる時間は実質30分くらいしかないことになる。夜に行くことを考えると村山駅前発17:25の「3便」があるが(森着17:49)、帰りの便はないので袖崎駅まで歩くか、タクシーを呼ぶ必要がある。JR村山駅でレンタサイクルを借りるという手もある。ただ、JR村山駅からひつじやまでは約9kmあり、レンタサイクルで40分は見ておいた方がよい。また、ひつじやでビールを飲んでしまうと帰りは押して帰ってこざるを得ないので、さらに時間が掛かる。

 ただ、そうした点を勘案しても、一度訪れてみる価値のあるお店であることは間違いない。クラフトビール以外にもワインや日本酒も充実しているので、ビール好き以外にもおススメである。



2017年08月03日

私的東北論その98〜斉藤竜也さんのこと(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された「東北復興」紙の第61号には、前月の5月に急逝した青森の斉藤竜也さんのことについて記した。生きていればきっと、青森をもっともっと変えていったことだと思う。本当に残念である。しかし、死がすべての終わりでないということをも、斉藤さんは教えてくれた気がする。以下がその時書いた全文である。


斉藤竜也さんのこと

12640273_447731762094105_277118839127586074_o 今回は東北・青森に生きた一人の人について書いておきたい。

 斉藤竜也さんは北海道出身の37歳。大学院を修了した後、青森市の介護事業所へ就職。ヘルパーステーションの管理者として仕事をする傍ら、「Link with」という任意団体を立ち上げて活動していた。

 「Link with」は、青森市内の医療職や介護職つないで仕事でも連携できる関係性を構築する場をつくることで、そこに住む人が医療や介護が必要になった時に切れ目なくよりよい医療や介護を受けられる地域をつくろうとしていた。

 設立は2014年9月、そこからわずか2年8か月の間に、「Link with」は少なくとも15回のイベントを開催し、地域をつくるたくさんの人と人とつなげてきた。「Link with」は「つなぐ」、「結びつける」、「きずな」の意味だという。青森県はかねてから、団塊の世代が75歳となる2025年に向けて、「保健・医療・福祉包括ケアシステム」を構築しようと取り組みを進めていた。その実現のためには、保健、医療、福祉それぞれの関係者が自らの枠を超えてつながり、連携していくことが必要となる。「Link with」はそうした面においての「つながる機会の創出」を会の目的としていた。

 斉藤さんは「Link with」のブログにこう書いていた。

「同じ職種や分野、職能団体で顔を合わせたり研修をする機会はそれぞれあるしネットワークもないわけではないけれど、それを越えて情報交換をしたり集まる機会はほとんどないよね。だとしたら、飲み会からでもいいからそういう場を作れたら、もっと地域に自分たちができることを探っていけるし自分自身の幅にもなっていくよね。じゃぁ、まずは自分たちのお知り合いに声をかけて、交流会をしてみよう!!」

 北海道から青森に来たということで元々の知り合いが少なかったであろう斉藤さんはきっと、地元の人以上に知らない者同士がお互いがつながることの重要さに気づいていたのだろう。仲間と共に「Link with」を立ち上げ、2014年11月15日に「Link with」として初めての「福祉と医療の情報交流会」を開催した。そこには行政、医療、福祉関係者ら52名が集まった。今までになかったつながりが生まれた瞬間だった。

 実は、斉藤さんが立ち上げた「Link with」と同じような活動をしている団体が仙台にもある。「ささかまhands」という団体である。「ささかまhands」は「Link with」ができる前年の2013年3月に設立された。仙台での地域包括ケアシステムの具現化を目指し、そのために多職種がスムーズに連携できるよう、各種交流会や研修会を企画していた。

 代表の須藤健司さんは、そうした取り組みについて、2014年3月に開催された全国介護事業者協会(民介協)の「第8回全国事例発表会」で発表していたが、その発表を斉藤さんが会場で聞いていて、終了後須藤さんに声をかけて、青森でも同じようなことをやりたいんだと話したそうである。

 翌2015年2月7日、その「ささかまhands」が主催した「自分らしい暮らしが出来る仙台を考えるシンポジウム」が仙台市内で開催され、そこに斉藤さんも参加した。この時のことについて斉藤さんは、自身のfacebookで、「ささかまhands、シンポジウム(総勢250名の参加)と懇親会(総勢100名の参加)と参加させていただきました!いや〜規模がでかい!」と綴っている。私はこの場で斉藤さんと初めてお会いした。自分の住んでいる地域をよりよいものにしたいという思いが言葉の端々から感じられて、初対面ながらすっかり意気投合した。

 その後、斉藤さんは青森でほぼ2〜3ヶ月に1回のペースで多職種が集う会合を企画した。毎回キャンセル待ちが出るくらいの盛況で、青森の多くの専門職がこのような場を求めていたことが如実に表れている。

 青森県内では、こうした様々な専門職による自主的な団体が相互に交流する集い「青森サミット」を2015年から開催し始めた。その第2回の「青森サミット」が2016年9月10日、「Link with」の主催で青森市内で開催された。1年半前、斉藤さんが驚いた「ささかまhands」シンポジウムの2倍もの約500名の参加者が会場に集結した。斉藤さんは三村青森県知事に講演を依頼し、青森県の目指す保健・医療・福祉包括ケアシステムについて話してもらっていた。

 この日のことについて斉藤さんは、「参加総数500名弱、今日の準備のために約1年、でも今日という日はあっと言う間の1日でした。そして一生忘れられない1日になりました。協力いただいた方々に感謝感謝!」と書いている。しかし、斉藤さんは本当は2,000名くらいの人に来てもらうことを目指して準備を進めていた。この「青森サミット」の開催に当たって、斉藤さんは勇美記念財団から助成金を得ていたが、その報告書の中で、参加者数が目標に達しなかったことに触れ、「『地域包括ケア』につて知らない方が多い、興味のある方が少ないという事が言えると考えます。『地域包括ケア』の主役は地域住民ですので、主役無しで専門職だけが地域のために行動しないよう心掛けなければいけません。地域に必要な事・モノを知るために、地域に暮らす住民と対話をする場をつくる事が課題です。そしてその場をつくる事ができる一つのツールとして自主団体がある事を、継続して広めていきたいと考えています」と振り返っていた。

 これはまさに斉藤さんの書いている通りで、人が自分の住み慣れた場所で最期まで暮らしていける地域をつくるためには、専門職だけの力では足りず、何よりその地域に住む人自身が当事者として専門職と一緒に地域づくりを考えていく必要がある。「Link with」の次の展開として、斉藤さんは地域住民を巻き込んだ動きを考えていたようである。

 その前提としてはやはり専門職同士の分野を超えた結束を深めていく必要があり、斉藤さんはその後もそうした人たちが集う場をつくり続けた。2017年4月22日の第11回企画「好きです青森〜あなたのために、私ができること〜」には、小野寺青森市長も駆けつけた。その小野寺市長には、8月19日に第13回企画として「好きです青森!青森市長 小野寺晃彦さんと話そう」のテーマで講演してもらう予定になっていた。人をつなぎ、地域をつくる、そんなみんなの輪の中にはいつも、斉藤さんがいた。

 2017年5月13日、斉藤さんは急逝した。4月に37歳になったばかりであった。その日、出勤せず、連絡もつかないことを心配した職場の上司が斉藤さんの自宅を訪ねたところ、ベッドの中で斉藤さんが既に亡くなっていた。警察による検死の結果、就寝中に心不全を発症したとのことであった。

 5月17日に北海道から来たご両親と一緒に、斉藤さんの遺体はフェリーで故郷に向けて出発した。青森港には、斉藤さんの死を悼む仲間がおよそ50名集まり、「まいける ありがとう」の横断幕を掲げて見送った。斉藤さんは「麺屋まいける」と称しており、仲間たちは彼のことを「まいける」と呼んでいた。「麺屋」はラーメン好きのところから、「まいける」はマイケルジョーダンが好きだったところから考えたらしい。

 設立してから3年弱の間にたくさんの人と人をつなぎ、斉藤さんは、旅立った。青森県内に職種を超えた新しいつながりをつくり続けた。人と人をつなぎ続け、ものすごい速さで人生を駆け抜けていってしまった。

 亡くなるほんの数時間前の5月12日23時32分。斉藤さんは、「ささかまhands」が毎年開催し、私も実行委員として協力している「MEDプレゼン@仙台」への参加を申し込んでいた。私も実は8月19日の「Link with」の集まりには参加するつもりでいた。何もなければ、今年は斉藤さんと二度、仙台と青森で話をすることができたはずであった。そうして話ができたならどんなによかっただろう。しかし、それが叶わなかった現実は何と悲しいのだろう。つくづくそう思った。

 しかし、斉藤さんが亡くなったという事実は消せなくても、斉藤さんがつないだつながりはこれからもずっと決して消えない。斉藤さんが亡くなったという連絡をくれたのは、斉藤さんと一緒に「Link with」の活動を行ってきた仲間の人だった。もちろん、私は面識もないし、話したこともなかった。そのような人と何人もつながれた。斉藤さんが仙台に来るつもりだったということを知って、斉藤さんの仲間が2人、「MEDプレゼン@仙台」に参加してくれ、会って話すことができた。斉藤さんは自らの死を以てすら、人と人とをつなげたのである。

 斉藤さん亡き後の「Link with」がどうなるのか心配だったが、仲間の皆さんが引き続き斉藤さんの思いを引き継いで活動を続けるとのことである。斉藤さんが目指した、大切な一人ひとりがつながってつくる地域。これからも同じ東北の中で、一緒に人をつなぎ、そうした地域をつくることを続けていきたい。人をつなぐ者同士がつながり、さらにそのつながりを広げていきたい。この東北の地に生まれ、育ち、暮らしている人が、「ここで生きてよかった」と感じられる地域を、一緒につくっていきたい。

 「小さな思いを形にするために、何ができるか まずはやってみよう! 私たちの未来のために行動しよう!」

斉藤さんの言葉である。

 昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るとは限らないのだ、ということは、6年3カ月前に嫌というほど痛感したことであった。いつの間にかまた、そうしたことを忘れかけて、迂闊にもあたかもずっと変わらないかのような毎日を送り続けていたことに思い至った。もし明日が来なかったとしても、今日できることを今日のうちにやっておく。少なくとも今日、自分の目指す方向にちょっとでも向かうことができた、そう思える日々を重ねていくことが、何にも増して大事なことなのだ。斉藤さんからそのことを改めて教えてもらったように思う。


anagma5 at 00:03|PermalinkComments(0)clip!私的東北論 

2017年08月02日

私的東北論その97〜「東北でよかった」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙、今年の5月16日に刊行された分で60号に達した。月刊なので足掛け5年ちょうどである。この間、ひと月も休まずに同紙を刊行し続けた砂越豊氏には心から敬意を評したい。5年を一区切りとして完結させる考えもあったようであるが、東北の復興が今に至っても道半ばであることもあって、さらに続ける決意を固められた。
 バックナンバーを見てみると、その時々で課題となっていたことが的確に取り上げられている。その意味で、同紙は東北の復興に関しての貴重な記録の一つである。今後の展開にも期待したい。
 さて、その記念すべき5周年、60回目の原稿は例のアレについてであった。以下がその全文である。


「東北でよかった」

「あっちの方だったからよかった」

 今村雅弘氏が復興大臣を辞任した。自身が所属する派閥のパーティーでの講演の中で、「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」と発言したことがきっかけとなった。

 恐らく、被災地が東北だったからこれくらいの被害額で済んだのであって、これが首都圏だったらこんなものでは済まないはずだ、ということを言いたかったのだろう。ただ、それにしても、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」はいかにも余計である。災害が起きたのがどこだったからよかった、どこだったらよくないということはない。どこであっても、災害が起きてよかったということはない。

 そして、もう一つ、「あっちの方」という言葉である。むしろ、この言葉の方に今村氏の東北に対するスタンスが表れているのではないかと思った。東北は「あっちの方」、つまり「こっち」じゃない。どこか遠いところ。自分のいる場所とは違うところ。東北に対するそのような今村氏の認識が感じられる。

 今村氏は、「総理からの御指示や内閣の基本方針を踏まえ、現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と就任時の記者会見で述べている。「被災者に寄り添って」と言うが、自分だけ被災者と違うところに身を置いていて、どうやって寄り添うつもりだったのだろう。

 前復興大臣が東北の復興に対して、全く無関心であったとは思わない。福島の企業を訪問した時にもらったアニメ柄のネクタイを、「風評対策を含めて、とにかく地元のいろいろ企業を元気にしようという思いで」締めてきたと語っているし、辞任の前日には岩手の三陸鉄道の「三鉄オーナー」にもなっている。ちなみにこれは、岩手県へのふるさと納税「ふるさと岩手応援寄付」で三陸鉄道への支援のために10万円以上寄付した人のことで、「オーナー」は今村氏が5人目であった。JR九州出身の同氏らしい復興支援と言えた。

 ただ、残念ながら、ご自分の発する言葉に対する感度がそれほど高くない方だったのかもしれない。講演後の記者とのやり取りでも、この発言の何が悪かったのか全く分かっていない様子であった。そこの感度は、今村氏の発言についてその後にすぐさま謝罪した安倍首相とは対照的であった。安倍首相は、「まず冒頭ですね、安倍内閣の今村復興大臣の講演の中におきまして、東北の方々を傷つける、極めて不適切な発言がございましたので、総理大臣としてまずもって、冒頭におわびをさせていただきたいと思う次第でございます」と述べた。恐らくその時点で、「この発言はかばい切れない」と思ったのだろう。


「東北でよかった」の劇的転換
 さて、そのような今村氏の「東北でよかった」発言とその後の辞表提出を受けて、私はfacebookに、「生まれ、育って、今も生活している場所が『東北でよかった』と、心底私は思ってます。前復興大臣も一度住んでみたらいいと思う。ホントいいところなんだから。(^▽^)」と投稿した。日が変わって4月26日の0時59分のことだった。普段、飲み食いした店の話や参加した会合の模様を発信するのがほとんどの私の投稿の中では、異例な感じの投稿だったが、お蔭様でいつもの倍以上の「いいね!」やたくさんのコメントをいただいた。

 私の友人も同様に、「僕は生まれたのが『東北で良かった』。音楽を学んだのも『東北で良かった』。僕の街もステキな街だし、死ぬまで東北に住んでいたいゼ。東北の田舎の人たちだから助け合えたし乗り越えられた。東北『が』良かったって言い間違えたんじゃないかな?まあ、関東の爺様の言うことにいちいち腹は立てない。この機会に、みんな東北一度は来て見て。」と投稿していた。

 一夜明けて、私のそのfacebookの投稿へのコメントで、ツイッターのハッシュタグで「#東北でよかった」がすごいことになっていることを教えてもらった。見てみるとそこには予想だにしなかった投稿が並んでいた。東北の美しい景色や美味しい食べ物の画像、心に残るエピソードなどが、「#東北でよかった」のハッシュタグと共に大量に投稿されていたのである。

 どうやら、最初のうちはやはりこの「#東北でよかった」のハッシュタグは、今村氏の発言を批判、非難するものばかりであったらしい。ところがその後、この「#東北でよかった」が、まさに「東北でよかった」という意味で投稿されるように変わり、その意味での投稿が圧倒的な数に上ったのである。なんという鮮やかかつ素敵な切り返しだろう。様々な画像に添えられていたメッセージも印象的なものが多かった。

「#東北でよかった 生まれた場所が」
「#東北でよかった ボクらのふるさとが」
「綺麗な景色 優しい人達 旨い飯…(酒…) 生まれた場所が #東北でよかった」
「私の大好きな、愛すべき地方が #東北でよかった」
「2008年から、震災を経て、2014年まで住んだ宮城・仙台は、私にとって第二の故郷。心から #東北で良かった」
「故郷を離れても忘れない。あの町で育ってよかった。#東北でよかった」
「生まれも育ちも、良かったと思える場所だよ。ご飯が美味しい、素朴な人々、のどかな景色。これだけで東北でよかった、なんだよ いいとこだよ、東北」
「震災後、東北に5回旅行しました。福島、宮城、山形、青森の地元の人たちはいつもあたたかくみんな親切で、東北に遊びに行って良かったなあと思っています。まだ訪れていない所へも旅しようと思います」
「初めて鉄道目的の旅行で、迷った時、優しいおばあちゃんに教えてもらいました。 あの時のことは忘れられない」
「かなしみも よろこびも すべてつつんでくれる #東北でよかった」
「みんな! #東北でよかった ってのは、こういうことを言うんだってことを教えてやろうぜ!」
「失言で終わらせないのは確かにいいな。というわけで、去年の仙台七夕。夏は東北各地で祭りが開催されます。おいでよ東北」
「このハッシュタグがいい意味で使われてトレンドに上がっているのが東北民としては嬉しい。」
「これぞ東北の心意気」
「生まれた場所が #東北でよかった こんなにも強い仲間がいる。おいでよしてる仲間がいる」
「#東北でよかった のタグが素敵な写真でいっぱいで、本当に東北は良いなと思いました」
「ひどい言葉を言われても、ひどい言葉で返さないで、何言ってんの、私たちの住む地の素晴らしさを知ってよって、みんなが笑う、そんな東北でよかった」

 東北に住む人、東北に縁のある人、東北に心を寄せてくれている人によるこれらの投稿、本当に素晴らしいとしか言いようがない。


復興大臣が今村氏でよかった
 そしてまた、これらの東北に関係する人たちによる投稿を見た人たちからも、好意的なコメントがものすごい数投稿されていた。曰く、

「なんて強くて綺麗なタグ…」
「このタグ、なんとなく見てみたら『東北本当にいいところだよ!東北に生まれて良かった!東北に行って良かった!』的なツイートで溢れてたから世界は本当に美しいなおい!ってなった」
「こういう失言を明るく変えていく流れ好きです」
「愛にあふれたタグになっていた」
「すてきな使い方になっていて涙が出た」
「さっそく #東北で良かった  という言葉の『良い東北を広げよう』としてるツイートを発見し、心打たれました…」
「みんな東北のハッシュタグが素敵な方に使ってていいなって思った」
「タグが素敵すぎる」
「不適切発言を裏返すこのタグには感動。震災を経験したからこその団結力」
「震災にも負けない人たちを見ることができた」
「このハッシュタグのお陰でほっこりした」
「美しい国。『よかった』って言葉はこう使うのだね。とても素敵な意味に変わってる、このハッシュタグ」
「ステキなタグになって本当に嬉しい 私  関西人だけど、さんさやはねこを踊った事があるんだわ」
「あぁなんて素敵なタグなんでしょう」
「なんだろうこのタグ…目から水滴が…」
「このタグ泣くよ… 東北は行ったことないけど絶対行きたい土地の一つ」
「変な意味を持ったタグを乗っ取ってオラが町自慢の幸せなタグに変えてしまう東北人の図々しさ大好き」
「失言が、#をつけたことで郷土愛に変わった。失言する人がいる一方で、その失言を『東北の魅力を発信するハッシュタグ』にして、東北を盛り上げよう、応援しようとする人もいる。そんな国でよかった。こんなに泣けるハッシュタグは初めて」

このように、「東北でよかった」という言葉が、発せられた時の意味を離れて、一夜のうちに本来の意味を取り戻したことに対する驚きと称賛の声が溢れていた。

 この「東北でよかった」、同時多発的に起こっているのが興味深い。私のfacebook投稿はこれらツイッターの投稿とは関係なく行ったものだし、友人のも恐らくそうだ。ツイッターだけではなく、インスタグラムでも同様に「#東北でよかった」のハッシュタグでの画像がものすごい数投稿されている。「東北でよかった」と思っている人がそれだけ多数いて、今村氏の発言が引き金となって、ネットに溢れ出たということだろう。

 「東北でよかった」が「東北においでよ」につながっている投稿の多さも特筆に値する。私の投稿も友人の投稿も東北に来てみることを勧めているし、多くのツイッターの投稿も東北の素晴らしい景色や美味しそうな料理の画像を投稿して「東北においでよ」と投稿しているものが多い。

 このように「東北でよかった」のハッシュタグで東北に来ることを勧めている東北人に対して、既に「おいでよ族」という称号(?)も与えられている。こんなツイートがあった。

「『東北で良かった』についた悲しいイメージを払拭するかのように、『#東北でよかった 』とタグ付けしてTLに流れる東北の生命力の強さを現す光景…… さすが、おいでよ族の民たち」

このツイートに対して、

「そう。我らはおいでよ族の民」

と返している人もいた。

 この「おいでよ」という投稿の多さこそ、東北に住んでいる実に多くの人が、自分たちの住んでいる土地に対して愛着を持っていること、誇りを持っていること、心底いいところだと思っていることの何よりの現れであると思う。それが夥しい数の「東北ってこんなにいいところなんだよ、とにかく一度おいでよ」という投稿になっているのである。

 最後に。今村氏のあの発言がなかったら、これら東北を巡る数多くの素晴らしい投稿もなかったわけである。誰も言わないが、私はあえて言おう。復興大臣が今村氏でよかった、と。


anagma5 at 23:44|PermalinkComments(1)clip!私的東北論 

2017年07月31日

私的東北論その96〜2回目の「仙台防災未来フォーラム」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第59号では、昨年初開催された「仙台防災未来フォーラム」について取り上げた。この取り組み、ぜひ今後も毎年続けてほしいものである。以下がその全文である。


2回目の「仙台防災未来フォーラム」

「仙台防災未来フォーラム」とは
 3月12日、「仙台防災未来フォーラム2017」が開催された。昨年3月の第46号で取り上げたが、一昨年仙台で開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年初開催された、地域における防災の取り組みを共有し、これからの防災について考えるためのフォーラムである。

 震災の発生から6年が経過した。この間の震災の経験や教訓を、地域を超えて、世代を超えて、どのように伝えていくかについては、多様な主体、媒体が手探りで様々な取り組みを続けている。そのような中で、この「仙台防災未来フォーラム」は、仙台市が主催し、震災経験の伝承や、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災といったさまざまなテーマについて、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えるという趣旨で開催されている。

 一昨年の3月に開催された「第3回国連防災世界会議」には、世界185か国から6,500人以上が参加し、成果文書として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。「仙台」の名を冠するこの防災枠組は、防災に関わる新たな国際的な取り組みの指針で、期待される成果と目標、指導原則、優先行動、関係者の役割や国際協力等が規定されている。枠組の策定に当たっては、東日本大震災からの復興を目指すこれまでの取り組みを踏まえて、多様な主体の関与や防災・減災への投資、「より良い復興(Build Back Better)」の重要性などが日本から提案され、その考え方がこの枠組の中には取り入れられている。

 「仙台防災未来フォーラム」は、この国連防災世界会議の仙台開催から1周年となったのを機に昨年3月に開催され、今年が2回目である。仙台市では現在、子供から高齢者まで、性別や国籍の違い、障害の有無などによらず、地域のすべての関係者が自助・共助を担うという地域づくりを進められている。フォーラムは、そうした取り組みを踏まえ、防災の担い手たちが自分たちの取り組みを共有・継承することで、新たなネットワークを生み出し、未来の防災に貢献することが目的とされた。


「インクルーシブ防災」とは

 今回のフォーラムのテーマは「経験を伝える・共有する・継承する」で、6つのテーマセッション、ミニプレゼンテーション、連携シンポジウム、各種関連イベント等が開催された。6つのテーマセッションの一つは「インクルーシブ防災を目指した地域づくり」である。「インクルーシブ防災」とは、障害者や高齢者などを含む、あらゆる人の命を支える防災を目指していこうという考え方である。東日本大震災を機に防災・減災への関心は高まり、日頃からの備えと対策が必須だと言われているが、災害発生時の対応はまさに平時の取り組みの延長であるとされる。そしてまた、災害が発生した際の安心・安全の確保には、普段からの地域住民の相互理解とネットワークの構築が大切である。

 このセッションでは、そうしたことを踏まえて、「仙台防災枠組」に記載されたステークホルダーの役割を問いつつ、インクルーシブ防災をめざした地域づくりについて議論が行われた。その中で、立木茂雄氏(同志社大学社会学部)は、「災害時の当事者力イコール防災リテラシー」で、防災リテラシーは「理解×備え×とっさの行動」と指摘していた。そして、平時のケアプランから個別に災害時ケアプランを作成する『別府モデル』を構築しようとしている取り組みについて紹介した。山崎栄一氏(関西大学社会安全学部)は、法学の専門家の立場から、「インクルージョンとは、排除・除外のない状態」で、そこには「意図的な差別的取り扱い」以外に、「無配慮・無関心によるもの」もあるとした上で、各種の支援制度には、「支援」、「配慮」に「参画」を加えた三要素の連動が必要と指摘した。阿部一彦氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「障害による暮らしにくさは個人の問題でなく、多くは社会環境によって作り出される」と訴えた。

 コーディネーターの三浦剛氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「地域に住む住民を理解し、日頃からの関わりを通してどのような支援が必要か把握していくことが『我がこと・まるごと地域づくり』の推進につながる」とまとめたが、フロアから発言した熊谷信幹氏(柏木西部自治会防災担当)は、「『インクルーシブ』と言うが、そもそも障害者基準で防災システムを作るべき」と主張した。「誰でも年老いたら障害者」であり、「障害者は多数派」なのだから、「『障害者も交ぜてくれ』という話は筋違い」だという論旨で、フロアから拍手が起こっていた。

 他には「"地域のきずな"が生きる防災まちづくり〜仙台市の事例から学ぶ」というテーマセッションもあった。「持続可能な防災まちづくり」を進めていくために、日頃からの“顔の見える”人と人とのネットワークや地域コミュニティづくりがまず大切ということから、「日常的にまちづくり活動が活発で、それが防災の優れた取り組みにもつながっている」という事例を共有し、コミュニティーにおける地域防災の今後の活動や課題解決のヒントを考えるという趣旨のセッションであった。登壇した今野均氏(片平地区連合町内会)の「防災活動はまちづくりの一つ」という言葉に如実にそのことが表れていた。

 また、菅井茂氏(南材地区町内会連合会)は、「自分達のまちは自分達で守る。自分の命は自分で守る。そのために地域で顔の分かる関係の構築が大切」と訴えた。町内会として他の被災地に「押しかけ支援」としてできる範囲の支援・協力を行ってきたを続けてきた福住町町内会の菅原康雄氏は、その秘訣として「できることから始める」を挙げた。その上で、「自助・共助に加えて、自制(見返りを求めない)・他助が大事」として、「自助・共助で助かった命で他を助ける」ことの重要性も強調した。

 こうした発表について、佐藤健氏(東北大学災害科学国際研究所)は、「日常的なまちづくり、ひとづくり、きずなづくりの取り組みが防災力を高め、活動の持続可能性と次世代の人材育成という波及効果ももたらす」として、そこでは「ソーシャルサポート」と「コミュニティ・ソリューション」の2つがキーワードであるとした。


「多様な主体」による防災・減災
 フォーラムのまとめとして、「クロージング」が行われた。ここでは、それぞれのテーマセッションでの議論結果が報告されると共に、それを基に震災の経験や教訓などを伝えることについて、その大切さや課題について考え、多様な主体(マルチステークホルダー)による防災・減災の取り組みの今後の方向性などについて参加者で共有した。

 「ともに考える防災・減災の未来〜『私たちの仙台防災枠組講座』、『結プロジェクト』合同報告会〜」の保田真理氏(東北大学災害科学国際研究所)は、報告会の模様を紹介しつつ、「社会の構成員全てが共に考えることがレジリエントな社会をつくる」と述べた。「もしものそなえ SENDAIと世界のつながり〜伝えよう、共有しよう、継承しよう〜」の秋山慎太郎氏(JICA地球環境部)は、JICAの取り組みを伝えつつ、「伝えていく中で、伝えられる側、伝える側双方の学びが重要。それがもしもの備えにつながる」と指摘した。

 「震災から6年・教訓伝承と防災啓発の未来〜連携と発信の拠点づくりに向けて」と「次世代が語る/次世代と語る〜311震災伝承と防災〜」の武田真一氏(河北新報社防災・教育室)は、「震災だけでなく、地域の過去や未来、希望も併せて伝えることでさらに(震災のことを)伝えられる」と強調した。ミニプレゼン・展示ブースの小美野剛氏(JCC-DRR事務局)は、「教訓を未来の活動につなげる」ことの重要性に言及しつつ、「全ての活動は共感に基づく」こと、そしてこれからは「単なる支援から、新たな価値の創造への移行が必要」であることも併せて主張した。

 コメンテーターの松岡由季氏(国連国際防災戦略事務局)は、一連の発表を踏まえて、「『レジリエント』と『インクルーシブ』が仙台防災枠組のキーワード」であり、「社会全体が『レジリエント』であるためには『インクルーシブ』である必要がある」とまとめた。また、「伝承は人の命を救う力がある」とも述べた。もう一人の立花貴氏(公益社団法人MORIUMIUS)は、「防災は日常の延長線上」にあるとして、「地域の取り組みが有事にも機能」するとした。また、「単なる事実でなく、そこに込められた思いを伝える」ことが震災の伝承においては重要であるとも指摘した。

 会場では、「救州ラーメン」も販売された。東北の被災地での提供食数が10,000食超というプロジェクトで、博多ラーメンの老舗「秀ちゃんラーメン」によるラーメンの炊き出しを通じた復興支援である。また、仙台市内では2月から3月に掛けて、今回のフォーラムに関連して、様々な防災・減災・復興に関するイベントが開催された。まさに「多様な主体」による防災・減災の取り組みである。


六県連携でより幅広い発信を
 仙台市では、11月に「世界防災フォーラム/ IDRC 2017 in SENDAI」の開催が決定した。スイスのダボス2年に1回開催される防災の国際会議「国際災害・リスク会議」(IDRC)で発表されたもので、東北大学、仙台市が中心となって内外の防災関係者が集い、震災の教訓・知見の発信や議論を行いながら連携を強化する場として開催するもので、今年だけでなく、以降も隔年での開催が予定されているという。

 仙台防災未来フォーラムに加え、世界防災フォーラムも開催されることとなり、東日本大震災への対応、そこからの復興に関する情報発信を継続的に行っていく場が着々とつくられていることは実に喜ばしいことである。願わくは、これを仙台市だけの取り組みとするのではなく、宮城県内の他の市町村や東北の他の五県とも連携して、より幅広い情報を発信していってほしい。

 岩手県内の沿岸市町村の復興への動きは仙台市とはまた異なるし、福島県内の沿岸市町村は言うまでもなく原発事故による影響が加わってさらに複雑な課題への対応を余儀なくされている。あまり知られていないが、青森でも津波によって24平方キロメートルが浸水し、死者も出ている。直接の被害が軽微であった秋田・山形両県では、被災地のバックアップという点で重要な役割を果たしており、そこでの知見も大いに伝えられるべきである。せっかくの震災から得た知見を地域や世代を超えて発信していく場である。より多くの知見をより多様な視点から伝えるということに、今後はより力を入れていくべきであると考える。


anagma5 at 23:52|PermalinkComments(0)clip!私的東北論 

私的東北論その95〜震災から6年ということ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 だいぶ間が空いてしまい、その間、またしても「東北復興」紙に寄稿した記事の再録が滞ってしまっていた。以下は3月16日に刊行された「東北復興」紙第58号に寄稿した原稿の全文である。この時期はどうしてもやはりこの話題である。


震災から6年ということ

6年という歳月

 今年の3月11日で、東日本大震災の発災から丸6年になる。先日、同じ仙台市内に住む知り合いと打ち合わせの日程調整のやり取りをしていて、「3月11日は空いてますか」と聞かれた。その日は静かに故人に思いを馳せる日にしたいので、そのように返事したところ、「そう言えばそうでしたね」という答えが返ってきた。別にその人が無神経というわけではない。震災から6年という年月は、そのような時間だということである。

170310-025005 他人事ではない。私の左手首にはいつも水晶のブレスレットがある。震災で亡くした弟の遺体が地震発生からちょうど49日目に見つかって、これでようやく葬式をあげることができるとなった時に、手元に数珠がないことに気づいた。どれだけそれまで、死から縁遠い日常を送っていたのかと思ったが、ともあれ急いでお気に入りの石である水晶で数珠を作ってもらった。その時余った水晶の玉でブレスレットを作ってもらったのである。

 弟の死を忘れないように、そして、いつ死がやってくるか分からないということを忘れないようにという意図を込めて、その日以来、このブレスレットを肌身離さず身につけてきた。ところが、先日、温泉に行った時に、なんと脱衣所にこのブレスレットを忘れてきてしまった。すぐに思い出して取りに戻って事なきを得たが、我が身にしてそうである。そもそもこのブレスレット、震災から6年が経って、毎日身につけることは習慣になってはいても、これを見て死を意識するということは本当に少なくなってきているのを感じている。


3月11日に行われるイベント
 仙台市内では、2年前に開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年開催された「仙台防災未来フォーラム」が、今年も3月12日(日)に仙台国際センターを会場に開催される。フォーラムでは、震災経験の伝承、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災などのさまざまなテーマから、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えることとなっている。

 このフォーラムには今年も足を運ぶつもりで、恐らく来月のこの欄でその模様を紹介できると思うが、このフォーラムに伴って開催される関連イベントの中に、フォーラムの前日の11日に開催されるものがかなりある。もちろん、震災のその日に震災について考える趣旨のイベントを開催することを否定するものではないが、私としては追悼のための行事ならともかく、先に書いたように震災当日は静かに故人を偲ぶ日にしたいと思っているので、震災当日に開催されるこのようなイベントには、恐らく今年も、これからも、ずっと参加しないだろうなと思っている。

 来年は3月11日が日曜日となる。この「仙台防災未来フォーラム」も来年は3月11日に開催されてしまうのだろうか。願わくは、来年はどうか3月11日以外の別の日曜日の開催となることを。


「カレンダー記事」の功罪
 毎年この時期になると、新聞やテレビで東日本大震災関連の記事や特集番組が増える。このように定期的に報じられる新聞記事のことは「カレンダー記事」、「あれから何年もの」と呼ばれるようである。ジャーナリストの烏賀陽弘道氏や作家の相場英雄氏はこうした「カレンダー記事」を批判している。烏賀陽氏は、カレンダー記事はその日が来たら自動的に記事が発生するので記者の能動性を奪うものとし、「思索を深めるための記事がいつの間にか自己目的化」していると批判する。相場氏も、カレンダーに合わせた取材態勢が継続されることから、関連する報道が逆にその時期まで減ってしまうことを批判する。特に相場氏は「在京の大メディア」にその傾向が強いとして、逆に岩手、宮城、福島の地元紙、テレビのことは、「自らが震災の被害に遭っている上に、身内同然の同胞が苦しんでいる姿を、地元メディアは今も追っているのだ」と、その報道姿勢を高く評価している。

 確かに、岩手日報や河北新報、福島民報、福島民友などは、「カレンダー」によらず継続的に震災関連記事を配信している。ただ、必ずしも地元だけではなく、例えばNHKは「東日本大震災プロジェクト」を組んで、「明日へ つなげよう」を合言葉に6年前から変わらずに震災関連の番組を提供しているし、最近では朝日新聞も「てんでんこ」というタイトルで、東日本大震災を中心に「日本の『いま』と『これから』を見つめ直して」いくという趣旨の連載記事を毎日掲載している。

 考えてみれば、地震発生から6年が経って、多くの地域で復興はまだ道半ばという状況ではあっても、日常押し寄せるたくさんのニュースがそうした東北各地の状況の上に積み重なっていく現状では、自ずと震災関連のニュースは少なくなっていかざるを得ない。その意味では「自動的に記事が発生する」という「カレンダー記事」であっても、毎年定期的に震災のことを多くの人に思い出してもらえるきっかけにはなるのではないかと思う。


復興「てんでんこ」
 「てんでんこ」という言葉については以前この欄でも取り上げたことがあるが、元々は、「てんでんばらばらに」の意味で、地震が来たら一人ひとりが必死で逃げろという三陸沿岸に伝わる教訓である。震災から6年を迎えるに当たり、そこから一歩進めて、一人ひとり震災について考える、一人ひとりこれから先の生き方を考える、という意味での「てんでんこ」があるのではないだろうか。

 震災以後、一人ひとり置かれた状況は全く異なる。衣食住を取り巻く環境も全く違う。仙台市や宮城県岩沼市のように、仮設住宅が全てなくなった地域もあれば、岩手県の釜石市や大槌町、山田町、陸前高田市のようにいまだ3,000人前後の人が仮設住宅での暮らしを続けている地域もある。

 避難指示区域を抱える福島県の浜通り地域の町村では、避難指示区域が昨年9月時点で3分の2にまで減少しており、この春に飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町にある地域が解除されればさらに避難指示区域は減少するが、解除イコール復興ではない現状がある。先日、浪江町に行ってきたが、そこで目にした「町おこしから町のこしへ」の文字は胸に突き刺さった。震災前はいかにして町おこしをするかを考えていた。ところが、震災後は「おこす」前にいかにして「のこす」かを考えなければいけない状況に置かれてしまったわけである。

 このように、当然地域によって状況が全く異なるわけで、そうすると当然そこに住む人の心持ちもそれぞれ異なる。その胸の内は、そこに住んでいるその人にしか分からない。十把一絡げにして、「被災地の復興は」などと語ることはもともと不可能なのだ。

 未曽有の大災害を経て、何かを参考にしてということも難しいし、この先どうしていくのがよいのかの答えが見えているわけでもない。だからこそ、「てんでんこ」なのである。一人ひとりがそれぞれ自分のこれからを考える。自分にとってどうなることが復興なのか、そのために今何をしていくのがよいのか。

 一人ひとり、目指すところは違っても、また歩み具合は違っても、少なくても目指すところに向かってちょっとずつでも歩いていれば、その積み重ねが復興になるのではないかと思う。もちろん、疲れたら休めばいい。道のりは長い。飛ばし過ぎれば息切れする。目の前にあることを、一つずつ、少しずつ、である。


忘れることと忘れてはいけないこと
 震災から時が経つにつれて、震災のことが忘れられてしまうことへの懸念がある。しかし、どんな出来事であっても記憶の風化、忘却からは免れ得ない。他地域の人のみならず震災を体験した人であっても、つらい体験をそのままの形で抱えてその先を生きていくことはしんどいことである。忘れることは人間の偉大な能力であるともいう。そう考えれば、冒頭に紹介した知り合いは、3月11日イコール震災という束縛を超えて、すっかり震災前の日常に戻れたのだ、と解釈することもできるかもしれない。

 ただ、忘れることはできても、なかったことにすることはできない。たくさんの人が亡くなったあの震災から得た教訓だけは、しっかりとこの地の次の世代に引き継いで、また他の地域の人にもしっかりと伝えて、二度と同じような被害が起きないようにしていかなければならない。

 その意味では、先に紹介した「仙台防災未来フォーラム」はとてもよい取り組みであると思うし、各地域における震災遺構の整備も本当に意義のあることであると思う。忘れられることを心配するより、本当に忘れてほしくないことを発信し続けること、それこそが大切なのであるに違いない。

 私としても、ここでこの時期にこのように書いていることが「『カレンダー記事』じゃないか」と言われないように、これからも震災のことは折に触れて発信し続けていきたいと思う。


anagma5 at 23:42|PermalinkComments(0)clip!私的東北論 

2017年06月07日

ついにできた!仙台初の地ビール!〜東北で地ビールが飲める店その75

DSCN0649ことあるごとにぼやいていたのだが、日本の百万都市の中で地ビールがないのは仙台だけである。
宮城県内には4つの地ビールがあるが、いずれも仙台市ではない。
誰か造ってくれないかなぁと常々思っていたのだが、今年の初めくらいから、どうやら仙台にブルーパブ(ブルワリーとパブが一体となった店舗兼醸造所)ができるらしい、という話をあちこちで聞いた。
ただ、その詳細がさっぱり分からず、いつ、どこで、誰が始めるのか分からないままでいた。

そうしたところ、塩竈市内で私の行きつけのお店の一つである「Bar Argon」のマスターの武藤さんから、仙台でブルーパブを立ち上げるという人と会った、という話を聞いた。
武藤さんもゆくゆくは塩竈で地ビールを醸造しようと準備している人なのだが、そのために税務署主催の講習会に参加した折に、その人と会って連絡先を交換してきた、とのことだった。
そこで武藤さんが聞いたというその人の電話番号を教えてもらい、電話してみた。

電話の相手は今野高広さんという方で、ちょうど去年の6月から準備を進めていたそうである。
これまではいつ醸造免許が得られるか分からなかったので積極的には情報を発信していなかったそうだが、その醸造免許が順調にいけばこの8月にも得られる見通しとなったので、ちょうど情報を発信し始めようとしていたところだったとのことであった。
今野さんはベルギービールがお好きで、それで当初はベルギービールのお店を始めようと考えていたが、仙台市内には既にダボスを始め、ベルギービールのお店が複数あったことから、差別化を考えてブルーパブを始めることにしたそうである。

ぜひ中を見せていただきたいとお願いしたところ、準備中のそのブルーパブを見せてくださるということで早速足を運んでみた。
場所は若林区穀町(こくちょう)の穀町郵便局の斜め向かい辺りで、既にお店の内装はほぼ出来上がっていた。
自宅を改装して造ったカウンター席が6席のお店で、やはり自宅内にある醸造所でできた出来立てのビールが飲める。

住所としては若林区石名坂だが、ビールの名称は「穀町ビール」、そしてブルーパブの名称は「ビア兄(にいに)」となるそうである。
元々ベルギービールがお好きということで、ハイアルコールのビールなども醸造する予定とのことであった。

素晴らしいと思ったのは、この「穀町ビール」、県外には卸さないつもりだということである。
その心は、このビールが飲みたいということであればぜひ仙台に足を運んでほしい、という願いからで、そうでなくてどこでも手に入るようだと地域活性化にはつながらないという問題意識が今野さんにはおありだった。
逆に仙台市内では飲めるお店をここ以外にもつくりたいそうで、早くも既に10くらいの飲食店が「穀町ビール」を置いてくれることになっているそうである。
また、宮城県内の地ビールは店に置きたいと考えているとのことであった。

醸造免許は8月にも得られる見通しとのことで、そこから醸造を始めて、順調にいけば8月末から9月には開店できるようである。
この穀町、私の職場から徒歩で5分くらいのところである。
そのような場所にブルーパブができてしまったら毎日のように通ってしまうのではないかと今から心配であるが、とにかく開店が待ち遠しいところである。


追記(2017.9.29):ブルーパブ「ビアニーニ」(最終的にこの表記になったらしい)の開店日が決まった。1か月後、10月29日(日)の昼12時とのことである。楽しみである。

追記(2017.9.29):10月29日(日)は1日限定のプレオープンとのことであった。11月以降については、仕込みの日程が決まり次第改めてアナウンスがあるそうである。

追記(2017.10.29):
DSCN0917穀町ビール」の醸造所兼店舗である「ビア兄(にいに)」のプレオープン、12時からとのことで、12時に行ってみたら既に行列ができていた。
この日はプラカップで1杯500円で提供されていたが、その場で飲む人の他に、瓶での購入を求める人も多くいて、用意した瓶はあっという間に品切れとなっていた。


DSCN0918この日飲めた「穀町エール」は濃褐色のアルコール度数10%のビールであるが、濃厚ながらとても飲みやすい味に仕上がっていた。
ベルギーのトラピストビールと同系統の味、と言うとベルギービールが好きな人には分かってもらえるかもしれない。
ハイアルコールのビールを作りたいというお話は以前伺っていたが、よもやそれを最初に造ってしまうとはすごいの一言である。
これからどんなビールが出てくるか楽しみである。

DSCN0922お店の方は今野さんご夫妻が切り盛りされていたが、ご近所の方、今野さんご夫妻のお知り合い、そして私のようなビール好きが、初対面ながらお互いに和気あいあいと話しながら仙台初の地ビールとなるこの「穀町エール」を飲んでいた。
人と人の距離を近づけるビール、そしてお店であった。

なお、正式オープンは11月20日(月)となるそうで、それ以降は、月・木・金の19時から22時までの営業となるとのことである。
また、荒町の及川酒造店で瓶が購入できる他、一番町の「旨い屋 楓」、国分町の「仙一ホルモン」、「アナログガーデン」でも「穀町ビール」が飲めるそうである。


追記(2017.11.10):瓶の「穀町エール」がこれである。
171110-183330アルコール度数10%を表す「」があしらわれている。
今のところまだ一般には販売されていないが、及川酒造店では11月20日(月)から販売開始とのことであった。

なお、明日11月11日(土)も19時から22時まで、「ビア兄」が臨時オープンするそうである。
プレオープンには行けなかったが20日(月)の正式オープンの前に飲みたい、という人にはうってつけである。


2017年06月06日

「東北絆まつり」は「東北地ビールまつり」だった!〜東北で地ビールが飲める店 番外編その36

map6月10日(土)、11日(日)に「東北絆まつり」が仙台市内で開催される。
東日本大震災の犠牲者の鎮魂と東北の復興のために震災のあった2011年の7月に仙台から始まった東北六魂祭は昨年の青森で東北六県の県庁所在地を一巡したが、その後継イベントとして、「多彩な東北が、熱い絆でひとつになる」をコンセプトとして再度仙台を皮切りに開催されることになった今年初開催のイベントである。

東北六魂祭と同様、東北六県の県庁所在地の夏祭り、すなわち青森市の青森ねぶた祭、盛岡市の盛岡さんさ踊り、仙台市の仙台七夕まつり、秋田市の秋田竿燈まつり、山形市の山形花笠まつり、福島市の福島わらじまつりが一堂に会するが、それだけでなく、会場には東北各地のグルメや物産も集まる。

その中で、国分町の元鍛冶丁公園で「牛たんと東北地ビール祭り」が開催されることはサイトの情報で知っていたのだが、実はこの「東北絆まつり」、それだけには留まらなかった。
アンバーロンド」の田村さんに教えてもらったのだが、この「牛たんと東北地ビール祭り」では岩手県一関市のいわて蔵ビールと、アンバーロンドがチョイスした12種の東北の樽生地ビールが飲めるとのことだが、それ以外の会場でも実は東北の地ビールが飲めるそうである。
具体的には、東北絆まつりのメイン会場である西公園では秋田市のあくらビールと盛岡市のベアレンビールが、「みやぎきずな市」が開催される市役所の南側の市民広場では宮城県加美町のやくらいビールと宮城県角田市の仙南クラフトビールが、「東北うまいもの広場」が開催される勾当台公園では秋田県仙北市の田沢湖ビールと福島市のみちのく福島路ビールが、それぞれ4〜6のタップで用意されるとのことである。

加えてこの両日は東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である楽天Koboスタジアム宮城で「クラフトビールと餃子WEEK」が開催中であり、そこでは岩手県遠野市のZUMONAビール、いわて蔵ビール、やくらいビール、神奈川県厚木市のサンクトガーレンなどが飲める。
また、国分町にある「CRAFT BEER MARKET」でもこの両日は、30タップのうち半分が東北の地ビールとなることになっている。
これらを合計すると、「東北絆まつり」の期間中、仙台市内では一部重複はあるものの、なんと90種類近くの地ビールが樽生で飲めるのである。

これだけ多くの地ビール、それも特に東北の地ビールが集まる機会というのは、東北各地で開催されるビールフェスティバルでもそうそうあるものではない。
その意味では、この「東北絆まつり」、実は「東北地ビールまつり」と言い換えることもできるのではないだろうか。
ビール好きの人にとっては堪えられない2日間になりそうである。


2017年03月24日

私的東北論その94〜これからのまちづくり、地域づくり(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」紙では、これからのまちづくり、地域づくりについて、見聞きしたことを基に論じてみた。



これからのまちづくり、地域づくり


「地域包括ケアシステム」から「地域共生社会」へ
3087_001 「地域包括ケアシステム」については、「東北復興」第55号で取り上げた。いわゆる「団塊の世代」が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みを市町村ごとに構築するというものである。

 その実現のための取り組みが現在、全国各地で行われているが、さらに厚生労働省では現在、この「地域包括ケアシステム」を深化させ、「地域共生社会」の実現を目指している。これは「高齢者・障害者・子どもなど全ての人々が、一人ひとりの暮らしと生きがいを、ともに創り、高め合う社会」とのことで、その一環として主に地域の高齢者を想定していた「地域包括ケアシステム」から一歩進めて、これまで高齢者、障害者、子どもなど対象者ごとに「タテワリ」だった福祉サービスを「まるごと」へと転換することが想定されている。

 「一億総活躍社会」づくりが進められる中で、今後は福祉分野においても、「支え手側」と「受け手側」に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティを育成し、公的な福祉サービスと協働して助け合いながら暮らすことのできる社会づくりが必要だということで、そのために「他人事」になりがちな地域づくりを地域住民が「我が事」として主体的に取り組める仕組みを作るとともに、市町村においてそうした地域づくりの取組の支援と公的な福祉サービスへのつなぎを含めた「丸ごと」の総合相談支援の体制整備を進める必要があるとされる。

介護保険への反省
 さて、長々と国の動向について紹介してきたが、考えておく必要があることは、これからのまちづくり、地域づくりは、単に地域に賑わいを増やす、交流人口を増やす、といったような方策に代表されるような活性化された地域をつくるということではなく、その地域の人が住み慣れた自分たちの地域でこれからも暮らし続けることができる地域をつくる、という方向に舵を切り始めたということである。そしてまた、他ならないその地域に住む一人ひとりが、そのために「他人事」ではなく「自分事」としてそうしたまちづくり、地域づくりの担い手となることが必要である、ということである。

 では、「担い手」として何をすべきなのか。それは、端的に言えば、互いにつながり、支え合うことである。第55号で「第4回 町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」の基調講演で、内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏が「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と述べていたことを紹介したが、これはまさにそのことを指している。

 山崎氏は厚生労働省時代に介護保険法の成立から実施、改正まで関わり、「ミスター介護保険」との異名を持つ人だが、その山崎氏はこの後の基調鼎談で、「介護保険サービスは、都市部はともかく、地方ではメリットだけではなかったのではないか」とも語った。また、省内の若い職員には、「介護保険のことだけやっていると、介護のことが分からなくなる」とアドバイスしていたというエピソードも披露している。介護保険の「生みの親」自らが、介護保険の下で専門職が提供するサービスについて、自己反省とも取れる見方をしているのである。

 何が反省材料なのかと言えば、それは介護が必要な人への支え合いを全て介護保険サービスに委ねてしまったことが、地域のつながりを切り、お互いの支え合う力を弱めてしまったのではないか、ということである。

 もちろん、そうしたことから年々膨らむ介護給付費が国の財政を圧迫しているという側面もある。このままでは団塊の世代が75歳以上となる2025年には介護保険制度が立ち行かなくなるのではないかという危機感が国にはある。ただ、そうしたことだけではなく、自分たちの住んでいる地域へのコミットメントこそが、人口減少を伴う超高齢社会におけるこれからのまちづくり、地域づくりにおいて重要なポイントだということは、第55号で紹介した奥会津の方々の言葉から如実に窺える。

震災の前からあった助け合い、支え合い

 去る2月2日、仙台市内で「第1回宮城発これからの福祉を考える全国セミナー」が開催された。現在、新しい介護予防・日常生活支援総合事業の創設、包括的支援事業の充実を柱とする新しい地域支援事業への対応に各市町村は追われている。新しい介護予防・日常生活支援総合事業においては、これまで介護保険サービスとして提供されていた要支援1、2の高齢者への訪問、通所といった介護予防サービスの大半が市町村の事業として移管されることになっているが、そのうちの「B類型」のサービスなど、「住民主体の自主活動として行う生活援助等」(訪問型サービス)、「体操、運動等の活動など、自主的な通いの場」(通所型サービス)と規定されているのである。地域の住民主体でお互いの助け合いや居場所づくりを進めるというのである。今後は間違いなくそうしたまちづくり、地域づくりが進んでいく。

 この日の全国セミナーでは、そうした制度変更を踏まえて、今後どのようにまちづくり、地域づくりを進めていくか、各自治体におけるこれまでの取り組み事例などが発表されたが、地域の住民が互いに助け合い、支え合う地域をつくる大きなヒントは、震災からの復興プロセスの中にもある。宮城県保健福祉部長寿社会政策課長の成田美子氏は、「震災支援・支え合いのノウハウを地域包括ケアに活かし、発信していく」と述べたが、宮城県サポートセンター支援事務所長の鈴木守幸氏も、「宮城は震災で多くのものを失ったが、地域力や住民力といった財産を得た」と指摘した。1月21、22日にやはり仙台市内で開催された「第5回日本公衆衛生看護学会学術集会」の基調講演で東北大学大学院医学系研究科教授の辻一郎氏も、地縁・血縁から「知縁」へということで、「共通の興味・関心・利害で結ばれる人間関係が重要」として、「家族でない人が同居・隣居して助け合っていく新しい形の介護・看取りが必要」で、「震災のプレハブ仮設住宅にそのヒントがある」と強調していた。

 ただ、こうした地域における助け合い、支え合いは震災を契機に生まれたものではない。辻氏は震災直後に支援に入った避難所での体験を紹介しながら、「東日本大震災の被災地では、『地獄』の中で人々が『天国』を創出していた」と評しつつ、「それができたのは人と人のつながりがあったため」としていた。そうした元からこの地域にあった「人と人とのつながり」という「ソーシャル・キャピタル」こそが復興・再生を助けてくれるものであったわけである。

 全国セミナーにおいて実際に支援に当たっている当事者の発表からもそのことが強く感じられた。南三陸町社会福祉協議会で生活支援コーディネーターを務める芳賀裕子氏も「つながりづくりがこれからのまちづくり」と強調した。石巻市社会福祉協議会で地域福祉コーディネーターを務めている小松沙織氏は、「地域のチカラは、誰かを想う気持ち、喜びや困りごとに共感する気持ち、そうした想いから生まれる。それは昔も今もこれからも変わらない」と述べた。東北福祉大学総合マネジメント学部教授の高橋誠一氏も、「住民ができることを(専門職が)邪魔しなければいろいろ発展がある」として、そうした地域の「お宝」を探すことが重要であると指摘した。仙台の小松島地域包括支援センターの生活支援コーディネーターである岩井直子氏も、「地域の一人ひとりが『宝箱』を持っていた」として、地域の人々のそれまでの人生経験が地域づくりのアイディアに活かされていることを小松島地域での実例を通して紹介していた。北上市保健福祉部長寿介護課包括支援係主任の高橋直子氏も、「新しい事業に取り組むのではなく、今ある自治・互助を活かしてよりよい形にしていく」と述べた。

地方こそ地域づくりのトップランナー
 高齢者、障害者、子どもなどが自立した生活を営むために必要な支援を実施する団体やそれらの団体のネットワーク組織を支援しているNPO法人全国コミュニティライフサポートセンターの理事長である池田昌弘氏の示した図が、これからの地域づくり、まちづくりのあり方をよく整理していた。地域には、専門職など「支援のプロ」、地域住民など「地域のプロ」、そしてその両者をつなぐ「つなぐプロ」という、「地域づくりを支える『三種のプロたち』」がいる。そして、制度を活用したサービスや制度外で行う生活支援サービスなど「フォーマルな資源」、住民主体の支え合い活動や得意分野のおすそ分け活動などの「インフォーマルな資源」、そして外部の人には見えにくく、内部の人にとっては気づきにくい「ナチュラルな資源」という、「地域での生活を支える『三種の資源』」がある。「ナチュラルな資源」はその地域の伝統や文化、そしてそれまでのつながりや支え合いといった「宝物」から成り立っている。そのような構図である。

 住み慣れた地域での暮らしを支える「三種の資源」いずれでも「つながりをきらない」がキーワードとなる。「三種のプロ」による支え合いは、「つなぐプロ」が接着剤となって切れ目なく連携していく。そうして、豊かな緑を茂らせるどっしりとした大樹のような地域ができるわけである。

 その土台となる根っこの部分はその地域に住む一人ひとりである。時代が変化し、その都度生じる課題に柔軟に対応しつつも、助け合い、支え合いといったこれまでこの地域に大事に受け継がれてきたものについては、揺らぐことなく次の世代に伝えていく。そうした先に、これからのまちづくり、地域づくりがある。

 2月1日に開催された塩釜医師会の在宅医療研修会でも、東京大学恒例社会総合研究機構特任教授の辻哲夫氏は、「地域の中で皆で役割分担すれば、住み心地のいいまちになる」として、そのようにして「できる限り元気で、働けて、住んで、弱っても安心できる地域」があれば、「超高齢社会は決して恐れることはない」と強調した。その上で、「地方は人と人のまとまりがある。大都市は危うい。地方からまちづくりをして日本の未来をつくってほしい。地方は地域包括ケアシステムにより近い距離にある」と、この地域にエールを送ってくれた。

 大都市圏と地方との格差のことばかり話題になるが、ことまちづくり、地域づくりに関しては、地方はトップランナーとしてその先頭を走っていることを我々はもっと誇りに思ってもいい。そして、その上で自分たちの住む地域をもっといいものにしていくための歩みを続けていけばよいのである。


anagma5 at 01:14|PermalinkComments(0)clip!私的東北論