2006年03月14日 

東北の歴史のミステリーその1〜常識の中に潜む「非常識」が面白い

b66b2fcc.jpg 私は、オリジナル楽器を使ったクラシックの演奏が好きである。オリジナル楽器というのは、作曲者が生きていた当時の楽器のことで、それを用いることによって現代の楽器が奏でる響きと異なる、作曲者の頭の中に鳴り響いていたであろう響きが再現できる、というのがその謳い文句である。オリジナル楽器で演奏が劇的に変わったのは、ヴィヴァルディやバッハ、ヘンデルなど、バロック時代の音楽の演奏である。

 かつては、現代の大オーケストラが「分厚い響き」で演奏していたのが、イ・ムジチやシュトゥットガルド室内管弦楽団など室内オーケストラが小編成できびきびした演奏をするようになったのも大きな変化だったが、オリジナル楽器を用いたオーケストラの演奏はそこからさらに、演奏を違ったものにしてくれた。ラインハルト・ゲーベルとムジカ・アンティクヮ・ケルン、ジョン・エリオット・ガーディナーとイングリッシュ・バロック・ソロイスツ、トン・コープマンとアムステルダム・バロック管弦楽団、ファビオ・ビオンディとエウロパ・ガランテなどの演奏は、特に好きである。現代楽器の室内オーケストラの演奏は、軽快で小気味良いが、オリジナル楽器による演奏を聞き慣れた耳には、メリハリがなくやや面白みに欠ける印象がある。

 それは、オリジナル楽器の演奏は、使用する楽器がそれまでのオーケストラと異なるというだけでなく、その当時の演奏習慣などの研究成果を反映させることによって、楽譜の解釈そのものがまったく異なるためである。バロック時代の楽譜というのはメトロノームもまだ発明されていないし、強弱の指示もロマン派の音楽のような後世の作品に比べると極端に少ない。かつては、それをそのまま演奏することが作曲者の意図を表現する方法だと考えられていた。

 が、当時の演奏習慣についての研究が進むにつれて、そうではないことが分かってきた。楽譜に指示されていなくても、音型によって強弱やリズム、テンポをある取り決めの下に変化させることは、当時は自明のことだったらしい。オリジナル楽器を用いた演奏では、当時の楽器だけではなくそうした当時の演奏法も尊重して演奏されることが多いので、楽譜に指示がなくても非常にメリハリのある溌剌とした演奏が多い印象がある。

 バロック時代という用語は、もともとは美術史からの転用であるが、バロックの元の意味は「いびつな真珠」だそうである。この言葉は、いみじくもバロック音楽の特徴をよく現しているように思われる。すなわち、すべての音符が均等なのではなく、強い音、弱い音、(同じ音価でも)長い音、短い音などがあり、そうした音の「不均等」がバロック音楽の特徴とも言えるからである。

 チェンバロの演奏など聴くとそれがよく分かる。チェンバロは強弱の変化がほとんどつけられない。だから、楽譜にある通りイン・テンポで弾いてしまっては、この上なく単調になってしまう。ところが、当時の習慣に基づいた演奏では、弾かれるまでにほんの少し間がある音、少し長めに弾かれる音、逆に短かめに弾かれる音、などで、実質的にそれぞれの音に「差」がつけられている。これらが、およそ単調とは程遠い演奏を生み出している。表面上楽譜に忠実ということを謳った演奏に聞き慣れた耳には、まさに「いびつな」演奏に聞こえるだろう。事実、オリジナル楽器の演奏が出始めの頃は非常に「クセのある」演奏ということで、当時は聴く側にもかなり抵抗があったようである。

 当初、オリジナル楽器の演奏はバロック時代にとどまっていたが、そのうちその枠をはみ出し、古典派の音楽も演奏されるようになった。ハイドン、モーツァルト、と続き、ベートーヴェンの作品もそのレパートリーに入ってきた。

 このオリジナル楽器によるベートーヴェンの演奏の中で、唯一「第九」の演奏だけは私としてどうにも受け入れられなかった。ベートーヴェン自身による、当時発明されたばかりのメトロノームの指示を厳格に守るのはよいのだが、それだとどう考えてもあまりに遅すぎて「ノリの悪い」箇所が少なくとも大きく2箇所ある。第2楽章の中間部のトリオと、最終楽章のテノールソロからかの有名な「歓喜の歌」の合唱に至る部分である。

 出始めの頃のオリジナル楽器による第九では、軒並みこれらの部分のテンポが我慢できないほどに遅い! 例えば、オリジナル楽器演奏の旗手と言われたクリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管弦楽団の演奏などがそれである(アマゾン該当ページ )。 彼らのバロック音楽やハイドンの演奏は大好きだったので、この第九はことさら残念であった。それまできびきびと小気味よく進んできただけにこれらの部分の遅さは余計に際立っている。この部分を評して、当該CDの解説文には「(オリジナル楽器の演奏としては)意外なほど堂々としている」などとあったが、いや、どう聞いても「堂々」とは感じられなかった。ただひたすら、のろい!のろ過ぎる!

 本当にベートーヴェンはこのような指示をしたのだろうかと首を傾げたくなるのだが、実際楽譜にはそのように記されている。数々の名演がある現代楽器による演奏では、端からこうしたベートーヴェンのメトロノーム指示など忠実に守っている演奏はほとんど皆無なので問題ないのだが、作曲者の意図に忠実であろうとするオリジナル楽器の演奏では、どうしてもこの部分が気になってしまっていた。

 ところが、である。94年に出たジョン・エリオット・ガーディナーオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク&モンテヴェルディ合唱団CDアマゾン該当ページ)は、このイライラ、もやもやを見事に吹き飛ばしてくれた。彼らは、この部分をなんと従来の倍のテンポで演奏している。そして、それは何も根拠なくやっているわけではなく、綿密な考察の結果そのような結論に落ち着いたということである。

 彼らのベートーヴェン交響曲全集アマゾン該当ページ)のCDに初回特典として、その辺りのことも含めて語ったインタビューCDが付属しているが、それによると指揮者のガーディナー曰く、

「ベートーヴェンは実際には、甥のカールに筆記させて『8分の6拍子で84』と言ったのですが、カールはそれを『付点四分音符』でのことだと考えて書いたのです。言いかえれば、一小節を二拍に数えた『84』だと思ったのです。皆さんにも判断していただきたいのですが、そうではなく、ベートーヴェンは小節全体を指していた、と考えられるのです。これも言いかえれば『付点二分音符』が『84』ということです。こうして美的には完全に変わってきます。なぜならテノールが街の反対側からニュースをもって登場し、それが次に爆発するようなフーガを導くことになるからです。ほとんどの指揮者はフーガをそれらしく鳴らせるという曖昧な正当化のために、そこでテンポを上げています。しかし、じっさいにはベートーヴェンの自筆譜では(この録音以前にそれを尊重した人はいなかったと思うのですが)、『この箇所に至るまでは、センプレ・リッテッソ・テンポ(つねに同じ速さで)』と記されています。これが問題の糸口です。また『一小節が84』という事実は、伝統的なフランス革命の軍隊行進曲のテンポであるらしいこととも通じています」

ということなのである。

 メトロノームの指示という、それまで正しい「常識」とされていたことが、「センプレ・リッテッソ・テンポ」という別の指示を糸口にして、これまでの2倍のテンポという「非常識」が新たな常識へと変わったわけである。そして、その2倍のテンポが、「伝統的なフランス革命の軍隊行進曲のテンポ」という傍証を得て、さらに確からしさを増しているわけである。

 さて、「東北の歴史」と銘打ちながら、延々と関係のない話をしてきてしまったが、言いたかったのは、このように今まで「常識」とされていたような既成概念を打ち崩してくれるような新事実、新解釈の出現というのは、それ自体第一級の「ミステリー」と言えるのではないかということである。ベストセラーになり、最近文庫化された「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン作、角川書店、アマゾン該当ページ )もそうだし(これは元々「ミステリー」だが)、私が最近読んだ本では「ゴータマ・ブッダ考」(並川孝儀著、大蔵出版、アマゾン該当ページ)もこれまで言われていた釈迦像を覆すような解釈が多々あり面白かった。私の好きな音楽、中でもとりわけ好きなバッハに関して言えば、「バッハ―伝承の謎を追う」(小林義武、春秋社、アマゾン該当ページ )も、同じように上質のミステリーを読むようなドキドキワクワク感があった。

 新シリーズとして、東北の歴史に焦点を当てて今後いろいろなことを取り上げていきたいが、今まで言われているような「常識」的な内容を再度列記しても面白みに欠けるので、私自身が見聞きしたり読んだりしたことで面白いと思った内容をこれから随時紹介していきたいと思う。

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