2006年03月30日 

東北の歴史のミステリーその3〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

1fa3428b.jpg 先に紹介した「中尊寺建立供養願文」には、鐘樓の洪鐘について、

「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、蝦夷の兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります」(佐藤弘弥氏訳)

とある。中尊寺の建立は、そうした過去に命を落とした人や生き物を供養し、この奥州の地を仏国土(浄土)にするということが目的の一つとしてあったわけである。

 中尊寺は鳥羽天皇の御願寺という形を取っていたので、その落慶法要には、都から多くの貴人が訪れた。それらの貴人たちは当然、落成した中尊寺に向かって手を合わせたのだろうが、もう一つの意図と前回言ったのは、金色堂のことである。この「中尊寺建立供養願文」には金色堂のことが出てこないのである。では、落慶法要の時点で金色堂はまだ完成していなかったのかというとそうではない。「棟木墨書銘」によれば、金色堂はこの落慶法要が営まれる2年前の天治元年(1124)には既に上棟されていたのである。中尊寺供養願文に現れないということは、金色堂の存在は、落慶法要の時点では公表されていなかったということなのではないか。そのことは何を物語るのか。

 ところで、金色堂を巡る謎の一つは、これが何なのかということである。何なのかというのはつまり、藤原三代が納められていることから、当初から「葬堂」として想定されたのか、当初は本尊として阿弥陀如来が安置されていることから「阿弥陀堂」として建立され、結果として葬堂になったのかということである。

 この点を巡っては、葬堂説、阿弥陀堂説双方の研究者からさまざまな考察が出されているが、供養願文に登場しないという点から見ると、やはり「葬堂」だったのではないだろうか。つまり、葬堂という「私的なもの」だったからこそ、あえて供養願文では触れなかったということである。阿弥陀堂であれば、「皆金色」とされる極楽浄土をこの世に具現化したものとして声高らかに謳ってもよかったはずである。

 金色堂に安置されている地蔵菩薩六体の存在も葬堂説を補強している。阿弥陀堂説の論者からは、阿弥陀如来と地蔵菩薩との関係について、横川(よかわ)流浄土教の影響とする説も出されているとのことだが、では横川流浄土教が平泉にどのように影響を与えたのか今一つよく分からず、やや牽強付会の感がある。しかも、横川流でいう、阿弥陀、観音、勢至、地蔵、龍樹の「弥陀五仏」は、当然ながら安置されるのは通常一体ずつである。金色堂のように六体の地蔵菩薩が安置されているのは、「輪廻転生の六道の入口に立って衆生を教化する」という地蔵菩薩本来の意図が明示されたものと見るのが自然である。

 以上のような点から、金色堂は葬堂だったと考えられるが、では誰の葬堂だったかという問題がある。これまでは、清衡自身が死後葬られていることから、自分自身のための葬堂だったと考えられていたが、この見方にはどうも違和感がある。「中尊寺建立供養願文」で亡き魂への供養を高らかに謳いあげた清衡が、自分の来世の極楽往生のために葬堂を築くだろうか、という疑問である。従来の葬堂説では、この点がどうもしっくりこない感がある。

 高井氏は、この金色堂こそが、清衡が自分の父経清の首を安置し、供養するための葬堂だったと結論付けているのである。この見方には私も賛成である。確かに、清衡自身のためではなく、陸奥のために戦って命を落とした父のための葬堂だったとすれば、供養願文の趣旨ともまったく相違しない。しかも、経清は先の「前九年の役」の首謀者、「戦犯」の一人である。その経清を祀った金色堂を、都から来た貴人の前に堂々と披露するわけにはいかなかったのである。

 しかし、だからと言って清衡の意図は、ただ天皇の御願寺である中尊寺の落慶を祝うために都から貴人を呼び寄せたのではなかったものと考える。元々、東北の側から見れば、紛れも無い「侵略戦争」であった。清衡の意図は、実は、都から来た貴人に、中尊寺の広大な敷地の一角にあった金色堂にそれと知れずに手を合わせさせたかったのではないだろうか。

 落慶法要が行われた大治元年(1126)3月24日は地蔵の縁日でもあるという。これはただの偶然と見るのではなく、そこに何らかの意図があったと見るべきだろう。その意図とは、すなわち、先の戦で父経清討伐を命じた朝廷の側の人間に、手を合わせさせたかったということなのだと考える。逆に言えば、そのためにこれだけの規模の大きな寺院を天皇の御願寺という形を取って建立したのだ、とも言える。

 もちろん、朝廷に無用の介入をさせないために、清衡自身の権勢を示し、奥州を掌握していることを高らかに宣言する必要もあったろうが、それだけでない、公にはできない意図もあったのではないだろうか。いわば、中尊寺の中に金色堂があるのではなく、金色堂のあるところに誰もが手を合わせる寺院を、清衡は作りたかったのではないかと私は考えるのである(写真は中尊寺月見坂)。

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