2006年04月07日 

東北の歴史のミステリーその4〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?

e8195066.jpg では果たして、金色堂に納められている首級は経清のものなのだろうか。これについては、私はまだ高井氏に全面的に賛成ではない。経清の首と考えると生じる疑問がいくつかあるからである。

 まず、経清の首が釘付けにされたという記述はないということである。吾妻鏡には、前九年の役の安倍貞任の例にならって泰衡の首を釘打ちしたとはあるが、前九年の役の折に経清の首も貞任と同様に釘打ちされたとは書いていない。ただ、これについては、経清も貞任と同じ先の戦の首謀者であるから同様に釘打ちされたと見てもよいかもしれない。

 次に、なぜ、この首級が三代秀衡の遺体の脇に納められていたのかということである。これが経清の首で、金色堂が経清のためのものであったとするならば、三代秀衡の遺体の脇に安置されているという状況には違和感がある。独立して安置されるか、少なくとも初代清衡同様中央に納められるべきではないだろうか。

 そして、これが最大の疑問なのだが、もしこれが経清の首ならば、泰衡の首はどこへ行ったのかということである。さらされた後、粗末にされた(捨てられたなど)ことは考えにくい。なぜなら、この文治五年奥州合戦は、吾妻鏡も「義顕(義経)といい泰衡といい、させる朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡する」(宝治二年(1248年)二月五日条)と認めているように、実は頼朝の「私怨」から行われた戦である。そのような場合、敗者は怨霊となって祟るというのが、日本における「怨霊信仰」である。頼朝は当然泰衡の首を丁重に葬ったはずである。その安置先としてはやはり金色堂よりふさわしい場所はないと思われるが、もしこの首を経清のものとした場合、泰衡の首はどこに行ってしまったのかが新たな疑問として浮上するのである。

 ただ、経清の首とする高井氏の説に有利と思われる状況もある。それは他でもない、「泰衡の首級」の状況そのものが物語っている。昭和25年の御遺体学術調査の報告書に書かれているのだが、泰衡の首には7回斬り付けられた跡があるという。また顔の表面には無数の刀傷もあるという。7回斬り付けられたというのは、鈍刀で首を切られた経清の状況に符合する気もする。

 泰衡は、実は奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた文治五年奥州合戦では、一度も頼朝軍と戦っていない。その泰衡になぜ無数の刀傷があるのか。泰衡が比内(現在の秋田県大館市比内)を治めていた郎従の河田次郎の裏切りにあって殺されたときにつけられたのか。しかし、吾妻鏡によれば泰衡が河田次郎を頼って贄の柵に身を寄せた時、泰衡に従う兵は数千いたという。その中で河田次郎が泰衡の首を取るのは正面からの戦ではまず無理で、ちょうど源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて尾張の長田忠致の元に身を寄せた時、入浴中に襲撃されて最期を遂げたように、だまし討ちにするしかなかったはずである。そうすると激しい合戦の後を物語るような刀傷はいかにも不自然ではある。

 殺された後頼朝らによってつけられたという見方もあるかもしれないが、傷には前後関係、すなわち時間の経過があるという。つまり治りかけのものから討たれる直前のものまであるという。このように見ると、これはむしろ、12年に及んだ長い戦のその最後の乱戦の中生け捕りになった経清のものとする高井氏の見方にもそれ相応の説得力がある。

 結局のところ、真相は4体の遺体のDNA鑑定でもしない限りは明らかにならないのかもしれない。そもそも、もともとこの首級は、寺伝では泰衡に殺された忠衡のものだとされていたのである。ならば忠衡の首はどこへ行ったのかという疑問もあり、義経生存説を唱える人は、これこそ義経が生きていた傍証で、義経は殺されたと見せかけて姿を消した忠衡の案内で北に逃れたのだと言うのである。

 英雄不死伝説は多いが、その最たるものが「義経北行伝説」であると言える。が、それほど英雄視されていなかった泰衡にも実は不死説がある。次回はそれを見てみたい(写真は金色堂を風雨から守っている覆堂)。

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