2006年05月19日 

東北の歴史のミステリーその5〜泰衡は死んでいなかった?

ae68235d.jpg 泰衡不死説を主張しているのは、楠木誠一郎氏である。氏は、著書「歴史おもしろ推理 謎の迷宮入り事件を解け」(二見文庫、写真参照アマゾン該当ページ )で、この泰衡の首級について「<藤原泰衡謀殺事件の謎>金色堂に眠るミイラが物語る驚愕の策謀」として真っ先に取り上げている。

 その中で、楠木氏は先に紹介した御遺体調査の結果分かった藤原三代の頭骨と泰衡のものとされた首級の顔高(眼孔の中心から顎の先までの長さ)を比較した。その結果、三代の頭骨が初代清衡(118mm)、二代基衡(129mm)、三代秀衡(137mm)と少しずつ長くなっているのに対して、泰衡の首級は突然初代清衡のものよりもさらに短くなっている(116mm)という事実を論拠に、これは泰衡ではない別の誰かの首級であると主張しているのである。

 また、楠木氏は、この首級が泰衡のものと判断された当時の状況にも目を向ける。吾妻鏡にあるが、河田次郎が泰衡の首を持参した際、鎌倉方では捕虜となっていた平泉方の赤田次郎に首実検させた。泰衡の顔を見知った者が鎌倉方にいなかったからということだが、楠木氏はこの場で河田次郎と赤田次郎が目配せして、身代わりの首を泰衡のものとした可能性が強いと指摘している。

 この楠木氏の推理だが、疑問点がいくつかある。まず、首実検は確かに吾妻鏡にある通り平泉方の赤田次郎だけで行ったのだろうが、その後この首級は釘打にしてさらされているのである。もしそのさらされた首級が泰衡のものでなかったなら、その際に「恐れながら…」と鎌倉方に訴え出る者がいなかったのだろうか、という疑問がある。平泉側のすべての人間が泰衡のものでないと知っていて、それでも全員が知らないふりをしていたということはちょっと考えにくい。

 また、泰衡のものとされる首級が三代の首よりも小さいからと言って、即別の人間の首だと断ずるのも乱暴な気がする。そもそも、初代清衡から三代秀衡までだんだん長くなっているのは事実としても、それがその後もずっと続くとも思えない。そうでなければ、我々の頭は昔の人に比べてかなり大きいということになってしまう。

 では、顔高だけではなく、頭骨の形そのものから判別はできないのだろうか。親子であれば当然骨格は似るはずである。果たして、頭骨の形から親子関係は分かるのだろうか。そこで、親子鑑定なども手掛けている法医学の先生に聞いてみたが、残念ながら形だけで親子かどうかを判別するのはまず無理とのことであった。

 状況的にも、泰衡が実は生きていたということを示すものは何もない。義経に関しては生存伝説が東北のあちこちに残っている。もちろん、だからと言って義経が生きていたと断定することはできないのであるが、泰衡に関してはそのような「実は生きていた」とする伝承が一つもない。それどころか、泰衡最期の地、贄の柵(秋田県大館市二井田付近と言われる)の近くには、首のない泰衡の死体を埋葬した錦神社という神社がある。里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したことがその名の由来とのことだが、この故事を見てもやはり泰衡はこの地で死んだと考えるのが自然な気がする。

 もっとも、以前紹介した金色堂はなぜ建てられたか―金色堂に眠る首級の謎を解く」にあるように、金色堂に納められている泰衡の首級が実は泰衡のものでないのだとするとその首級の行方が気になるところではあるのだが。

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この記事へのコメント

1. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:16
はじめまして。突然のコメント失礼致します。
深い考察や郷土愛溢るる東北の紹介楽しく読ませて頂きました。
特に白神ラスクが美味しそうで、今度買ってみようと思いましたよ。

ところで、こちらで
>泰衡に関してはそのような伝承が一つもない。
と書かれてらっしゃいますが、少ないですが泰衡生存伝説もあるようです。
北海道の檜山支庁がそれですが、「本格的な開発が始められたのはおよそ800年前といわれ、
2. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:18
道内でも極めて古い歴史を有している。
1189年に源頼朝が奥州を制覇したとき、藤原泰衡の一族が本道に逃れてきたのがはじまりと伝えられている」そうです。
http://www.hiyama.pref.hokkaido.jp/etc/appearance/page01.htm

また秋田県能代市二ツ井町切石に兜神社、薄井に鎧神社と言う神社があるのですが、ここは落ち延びる途中通りがかった泰衡が疲労甚だしく、兜を切石に脱いで川を渡り、さらに鎧を薄井に脱いで逃げた時の物で、
3. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:20
これを彼の死後御神体として社に祀ったのが由来とされています。
ちなみに、こちらの兜は出羽国第一の古兜と鑑定されているそうです。
http://www.iimachi-akita.jp/ro/kaido/dai2/hutatui/kiri/kabuto.html
http://www.iimachi-akita.jp/ro/kaido/dai2/hutatui/hii/yoroi.html

上記の紹介サイトでは、「しかしその後泰衡公は肥内郡贄柵(現在の北秋田郡比内町)で郎党河田次郎によって惨殺〜」と続きますが、
4. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:22
しかし蝦夷が島へ渡ろうと平泉から急ぎ十三湊を目指していた泰衡が一度能代市二ツ井町まで行き、鎧兜を捨ててから、手前の大館市二井田の贄の柵へ戻って討たれたとは地理的にもおかしく(逆ならまだ順当なんですが)、贄の柵で討たれたとされる泰衡の首は身代わりのもので、本人は二ツ井を通り、十三湊から蝦夷が島に無事逃れたという説があるそうです。

吾妻鏡にある泰衡が己が比内にいると、わざわざ自分の居所を
5. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:24
知らしめるような投げ文を頼朝の元へ届けさせたのも、いきなり河田に誰の物とも判らぬような首を持っていかせても信憑性は薄いが、事前にそうして文で泰衡は比内にありと前情報を与えておけば、よりその首が鎌倉方に泰衡のものであると認定される可能性が高まるという策だと。

だからと言って義経同様それだけでは、泰衡が生きていたと断定することはできないのですが、こんな説もありますよと言うことで書かせて頂きました。
6. Posted by 璃奈   2006年05月20日 17:29
字数制限に引っかかってこんな分割した投稿で、しかも長々と失礼致しました。すみません。
それではこれからも更新楽しみにしてますね。
7. Posted by 大友浩平   2006年05月21日 14:14
 璃奈さん、はじめまして。詳細かつ丁寧なコメントありがとうございます。兜神社、鎧神社は、名前を耳にしたことはあったのですが、そのような由来が伝えられているとは知りませんでした。確かに、にえの柵があった大館市の西ですから、由来の通りとすればなぜそこで鎧兜を脱いでまたにえの柵まで戻ったのか疑問ですね。ぜひ一度現地に行ってみたいと思います。
 北海道の檜山支庁のお話も興味深いですね。そちらにもぜひ、次の青春18きっぷの時期に行ってみたいと思います。よかったらこれからもたまに見ていただいて、いろいろと教えてやっていただけたら嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。

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