2006年05月26日 

東北の歴史のミステリーその6〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか?

7e24cb1d.jpg 子どもの頃、私は泰衡が大嫌いだった。小学6年の頃、学校で歴史を勉強したが、中でも源平合戦での義経や弁慶らの活躍に心躍らせていた。親に平泉中尊寺に初めて連れて行ってもらって、そこでねだって買ってもらったのが「平泉ものがたり 秀衡と義経」という当時中尊寺で出していた小冊子であったというくらい、義経が好きだった。

 となると当然、兄頼朝と不仲となって窮鳥の如く東北に落ちてきた義経を温かく迎え入れた秀衡は偉大な人物で、それに対して「義経を大将軍として鎌倉に対抗せよ」という父の遺言を守らずに義経を討ち、あげくに頼朝に攻められて東北の黄金の一世紀を終焉に導いた泰衡はどうしようもない馬鹿者だということになる。そして「あの時泰衡が義経を討たなかったら…」、と800年も前の出来事に対して、子供心に地団駄踏む思いでいたものである。

 その後も泰衡に対する私の評価はやっぱり芳しいものではなかった。奥州藤原氏を描いた高橋克彦の「炎立つ 伍」(講談社文庫、アマゾン該当ページ )を最初に読んだ時も、「泰衡のことを無理やりよく書きすぎじゃないか」と抵抗を覚えたくらいである。私に限らず、東北人の泰衡に対する評価というのは、だいたい似たようなもののような気がする。端的に言ってしまえば、「偉大な父親の跡を継いだボンボンのバカ息子」というイメージなのではないだろうか。

 その最も手厳しい意見は、松田弘洲氏が「津軽中世史の謎〜虚構の"津軽安東氏"を切る」(あすなろ舎、津軽共和国文庫ぁ砲涼罎能劼戮討い襪發里任△蹐Α松田氏は泰衡のみならず奥州藤原氏そのものを批判する。「"平泉文化"というのは、平泉藤原氏が陸奥・出羽の庶民を酷使して、しぼりあげ、自らのために造営した"仏教文化"のことである」として、「泰衡は平泉から北上川の上流に向かって逃亡したわけだが、その地はもと安倍一族の根拠地である。平泉の藤原氏が、己れの栄華のためだけに富を集積せず、地方豪族が成長するための余地を残していたとしたら、北上川の上流にいくらでも頼るべき柵、頼るべき軍勢は存在したはずなのである」、「平泉軍が北上川の上流に退却したのち、再び押し出して来れなかったのは、平泉藤原氏の治政(原文ママ)がいかなるものであったかを、そのまま物語っているのである」と述べている。

 実際に、奥州藤原氏の治世がどのようなものであったかを知るすべはないので、この松田氏の見解が是か非かは判断できかねる。ただ、後で書くが、首のない泰衡の遺体を里人が丁寧に錦の直垂で包んで埋葬したという錦神社、それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻北の方が夫の死を知って自害したのを憐れんで里人が建立したという西木戸神社の存在を考えると、奥州藤原氏はそこまで庶民を「しぼりあげ」てはいなかったのではないかという気がする。

 さて、泰衡を嫌いだった私だが、最近少しずつ泰衡に対する見方が変わってきた。実は泰衡はそれほど暗愚な君主ではなかったのではないか、と思うようになってきたのである。そう思うようになってきた理由はいろいろある。それを少しずつ書いていきたい。

 秋田県の北東端に鹿角市がある。その鹿角市の中心部花輪から山間の方へ、直線距離にして9kmくらい南下していくと、桃枝(どうじ)という集落がある。戸数は20戸に満たない、目立たない小さな集落であるが、この集落は非常に興味深い。実は、この集落、ほとんどの人が藤原姓なのである。この地域に伝えられている話によると、昔源頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残したのだという。泰衡の家臣の一部は泰衡の死後もこの地に残り、それでこの地に住む人々は皆、藤原姓なのだそうである。

 この逸話は先に挙げた「炎立つ 伍」でも取り上げられていて、自分の一命と引き換えに奥州を救おうと死を覚悟した泰衡が家臣たちに藤原の姓を与え、後を追って死のうとする家臣に対して「藤原を名乗るからには生き延びよ」と諭したことになっている。その巻の中でも印象的な場面の一つである。

 実際、桃枝集落の一角には墓地があるが、墓のほとんどが藤原姓である。他には綱木姓の墓が2、3あるだけである。そして、藤原姓の墓に刻まれた家紋はすべて、奥州藤原氏と同じ「下がり藤」の紋である。それらの墓の一つに墓誌が刻まれていた。それには「我が藤原家の先祖は、今を去る事七百九十余年の昔、平泉を落ち給う泰衡公に属従し、此の地に至り、浪人して山深く隠れ住み、千古不斧の大森林に開拓の鍬を振っていた。(以下略)」とあった。

 この桃枝のある場所は、実は泰衡が蝦夷地に向けて落ち延びようとした道からは外れている。蝦夷地に向けて落ち延びようとしたのであれば、清衡が整備した奥大道を北上したものと考えられるが、桃枝はそのルートからかなり外れているのである。周囲を山に囲まれた地であるから、実際には泰衡自らここを訪れたのではなく、泰衡の死後、その遺言をおしいだいた家臣たちがひっそりと移り住んだ地なのだろう。

 ただ、泰衡が本当にどうしようもない凡愚の将であったなら、その藤原の姓を800年もの間桃枝の人々が大事に名乗り通してくるというようなことはなかったのではないかという気がするのである(写真は桃枝集落の入り口)。

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この記事へのコメント

1. Posted by 璃奈   2006年06月11日 16:35
大友さん、こんにちは。璃奈です。
前回のコメントには丁寧なレスをありがとうございました。

今回の記事も大変興味深く読ませて頂きました。
桃枝に行かれたんですね!他の記事でもそうですが、大友さんってホント行動力のある方で尊敬してしまいます。

私も泰衡公が暗愚だったというのには疑問です。
大友さんが仰っている通り桃枝の藤原姓の件もそうですし、錦神社で遺体を丁寧に錦の直垂で包んで埋葬し、
2. Posted by 璃奈   2006年06月11日 16:36
祀ったというのも本当に「しぼりあげて」いたら、地元の人間に恨まれていたでしょうし、そうしたらそんな丁寧な扱いはされなかったような気が私もします(南都焼き討ちで南都の人間の激しい恨みを買っていた平重衡の斬首後の首のない遺体は奥方がもしやと案じて引き取りに行かせるまでは、斬首された木津川の川原に打ち捨てられたままだったそうです。恨まれてたら放置ですよ)
3. Posted by 璃奈   2006年06月11日 16:38
先の錦神社では毎年泰衡公の命日である旧暦九月三日には祭礼が催されてるそうです。
桃枝の藤原姓同様本当に酷い領主だったら、800年もの間祭礼が続くことはなかったとこちらの件でも思います。

それでは次の更新も楽しみにしています。失礼します。
4. Posted by 大友浩平   2006年06月16日 23:29
璃奈さん、コメントありがとうございます。livedoor側の設定で、どうもコメントが200字に制限されてしまっているようで、いつもお手数をお掛けしてしまってすみません。璃奈さんはかなり歴史にお詳しいですね。勉強になります。
錦神社には、実は私も、桃枝を訪れた後、行ってみました。800年もの間地元の人に大切に守られてきているのですよね。すごいことだと思います。亡き泰衡の遺徳を感じさせる気がします。

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