2006年06月16日 

東北の歴史のミステリーその7〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

08134ec7.jpg 奥州藤原氏四代泰衡は、源頼朝に追われ、蝦夷地に逃れようとして、贄の柵(にえのさく、現在の大館市二井田付近)の河田次郎を頼って立ち寄ったところを、河田次郎の裏切りにあって殺されてしまう。ここに奥州藤原氏は滅亡したわけである。文治5年(1189年)9月3日のことである。

 泰衡の首は河田次郎が頼朝の元に持参するが、頼朝は「譜第の恩を忘れ主人の首を梟」したことを責め、河田次郎を斬罪に処した。その後、首のない泰衡の死体は、里人が錦の直垂に大事に包んで埋葬したという。その墓が「にしき様」と呼ばれ、錦神社となり(写真参照)、今に至っている。泰衡の死から800年以上経った今も、泰衡の命日である旧暦9月3日には、お祭りが催されているという。

 ところで、河田次郎がどのように泰衡を殺害したかについては、吾妻鏡には詳しくは記されていないが、地元ではその経緯を詳しく語り伝えている。それによると、河田次郎は泰衡をかくまって罪になるより、泰衡を討って頼朝から恩賞を得ようと考え、主人殺しの罪にならずに泰衡を討つ計画を練った。そして旧暦9月3日の夜、河田次郎は多くの家来を使って、頼朝の大軍が贄の柵に攻め入ったように見せかけ、泰衡が観念して切腹するように仕向けた。この計画は成功して、河田次郎は泰衡の首をはねたのだという。

 江戸時代の紀行家菅江真澄は享和3年(1803年)にこの地を訪れ、錦神社にまつわる村人の心やさしいはからいと、泰衡の命日にちなむ行事を「贄能辞賀楽美(にえのしがらみ)」という紀行文に書き残し、泰衡が頼みにしていた旧臣に裏切られ、露のように命を散らせたことを偲んで、「たのみつる その木のもとも 吹風の あらきにつゆの 身やけたれけむ」という歌を詠んでいる。

 ちなみに、泰衡最期の地である贄の柵があった場所は正確には特定されていないそうであるが、大館市二井田の中心部に程近い、それも贄ノ里という地名の所には八幡神社がある。そして、この八幡神社には泰衡も合祀されているのだという。現地を訪れたが、残念ながら神社の由来などが書かれたものがなく、詳細は不明だった。

 ただ、周囲よりも若干高台にあり、近くには犀川という川が流れており、柵として適した場所であるように思えた。この八幡神社の辺りがかつて贄の柵のあった場所かもしれない。泰衡がここに祀られているのもそうした理由であれば合点がいく。さらに想像を膨らませれば、八幡神社は源氏の守り神である。かつて贄の柵だった泰衡最期の地に八幡神社を建立し、泰衡を祀ったのは実は頼朝その人だったのではないかという気もする。

img113 一方、錦神社から南西に直線距離にして約3kmほど離れた大館市比内町八木橋字五輪台には西木戸神社という神社がある。この神社は、泰衡の妻北の方を祭神とする神社である。

 北の方は、平泉を逃れて贄の柵を目指す泰衡の後を追うが、この地にたどり着いた時、泰衡が既に4日前に河田次郎の変心によって討たれたと聞かされた。絶望した北の方は、従者由兵衛に後事を託して自害した。里人がその心根を憐れんで祠を建立し、五輪の塔を納めて北の方の霊を慰めたのが、この神社の始まりなのだという。現在残る五輪台の地名もそこに由来するが、以来800年以上の長きにわたって里人の寄進が続けられているという。

 この西木戸神社は、泰衡の死体が埋められた錦神社の方を向いているのだそうである。夫泰衡に再会することなくこの世を去った北の方の思いを少しでも叶えてあげたいというこの地の人々のやさしい心を感じさせる事実である。

 なお、この西木戸神社の名前の由来ははっきりとはしていないが、この神社のある一帯が泰衡の異母兄西木戸太郎国衡の采邑地だったから、と地元では伝えられている。

 これら2つの神社の存在を見ても、もちろん「怨霊を恐れた」ということもあったのかもしれないが、泰衡という人がその時代の庶民に慕われた存在だったことが窺えるようにも思える。志半ばにして斃れた君主とそれを手厚く葬り、その跡を800年以上もの間大切に守ってきたその地の人々。やっぱりどうも、凡愚のイメージとは結びつかない気がするのである。

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