2006年07月26日 

東北の歴史ミステリーその9〜泰衡は本当に凡愚の将だったのか

yuda ユダと言えば、聖書によれば銀貨30枚で師イエスを裏切った男である。イエスはユダに裏切られて十字架にかけられ、その結果、ユダの名前は「裏切り者」の代名詞になった。

 ところが、1970年代にエジプトの砂漠で発見され、アメリカのナショナル・ジオグラフィック協会の支援プロジェクトが復元、解読に成功して今年4月に全容が公表された1700年前のパピルス文書「ユダの福音書」という文書には、その「常識」とはまったく異なる内容のことが書かれてあったという。

 それによれば、これまで「裏切り者」の代名詞だったユダこそ、実はイエスの一番弟子であり、イエスは自らの魂を「肉体の牢獄」から解放するために、ユダに指示して密告させたとも書かれているのだという(詳細は、ナショナル・ジオグラフィックの特集ページ)。今年4月以降、「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 2006年 05月号」で特集が組まれたのを皮切りに(アマゾン該当ページ )、「ユダの福音書を追え」(アマゾン該当ページ )「原典 ユダの福音書」(写真参照アマゾン該当ページ )、「ビジュアル保存版 ユダの福音書」(アマゾン該当ページ )など、関連書が相次いで刊行されている。

 もちろん、そこに記載された内容が歴史的真実かどうかは分からない。しかし、今私たちが歴史を知ることができるのは、今に至るまで残された文書によってである。ところが、残された文書がすべて真実を語っているとは限らない。ひょっとしたら失われた文書の方に真実に近い内容が記載されていることもあるかもしれない。しかし、それはその文書が失われたままである限り、永遠に分からないことなのである。

 さて、泰衡がこれまで時代の流れも読めない暗愚な人物と捉えられたきたのは、実はよくよく考えてみると、鎌倉方の「公文書」である吾妻鏡の影響が大きい。吾妻鏡を読んでみると、泰衡という人物を徹底して矮小化して書いているように取れるのである。

 目に付く例を挙げてみよう。奥州藤原氏と源氏の事実上の決戦の場になった阿津賀志山(あつかしやま)で、自軍が大敗したことを聞いた泰衡は「周章度を失い、逃亡し奥方に赴く」とある。慌てふためいて逃げ出したと書いてあるわけである。

 平泉に戻った泰衡は、「縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず」という状況だったという。頼朝の追撃に怯えて自分の屋敷にとどまることもできなかったそうである。まるでその場で見ていたような書きぶりであるが、当然頼朝軍はこの時まだ北上の途上だったわけであるから、本当にそうだったのか確たる証拠があるわけではない。

 北上する泰衡は数千の軍兵に囲まれ、「一旦の命害を遁れんが為、隠れること鼠の如く退ぞくこと雛に似たり」と評されている。一時の命惜しみのためにネズミのように隠れ、雛のように逃げたということである。泰衡の意図が本当にそうだったのかどうか分からないが、少なくとも鎌倉方はそのように見ていたわけである。

 吾妻鏡のこうした記載をそのまま受け取れば、泰衡は逃げ回るばかりの、将の器にない小心者というレッテルを貼られてしまうことになる。しかし、よくよく見てみると、今まで挙げた例はあくまでもその時の勝者の側から見た、極めて一面的な見方であると言うこともできる。さらに言えば、これらの記述は、必要以上に泰衡という人物を矮小化しているようにも思える。

 では、もし吾妻鏡の編者が泰衡ないし奥州藤原氏を必要以上に低く書いていたとして、その動機は何なのだろうか。普通に考えれば、奥州藤原氏は想像以上の難敵だったと書く方が、それに勝った鎌倉側の株もより上がりそうなものなのに、である。

 私は、その動機は鎌倉側の奥州藤原氏に対する強烈なライバル意識の故だったと考える。いずれ紹介することもあるだろうが、源氏と奥州藤原氏は、共に武家の棟梁の座を争っていた関係であったようである。しかも、文治五年奥州合戦で勝敗がつくまでは、三代百年にわたって奥州には覇を唱えてきた奥州藤原氏の方が源氏に先行していたと見ることもできる。平泉が「藤原王国」の「首都」として栄華を極めていた時、鎌倉はまだ都市づくりが始まったばかりの「発展途上の町」だったのである。事実、奥州から鎌倉に戻った後、頼朝は、もちろん奥州藤原氏の鎮魂の意味もあったのだろうが、平泉の二階大堂を模して鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立している。

 しかし、鎌倉側としては、そうした奥州藤原氏の態様を認めることは自らのプライドが許さない。武家の唯一の棟梁は鎌倉でなければならないからである。そこで、できる限り貶めて記載することによって、奥州藤原氏は武家の棟梁に相応しくない、武家の棟梁は唯一鎌倉だけであるということを強調したかったのではないか、と私は推測している。

 勝者が歴史を規定する時、当然自分たちにとって都合の悪い内容は削除、ないし黙殺するはずである。鎌倉方にとって都合の悪い内容とは、鎌倉に先行して奥州に武家政権があった、ということをおいて他にはないであろう。よって、仮に奥州藤原氏の政権がそうした性格を備えたものであった場合、これを徹底的に矮小化し、そうではなかったことにしてしまうということが考えられる。それは、鎌倉政権こそが初めてで唯一の武家政権であるということを主張したいがためのことだったのではないだろうか。

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