2007年02月17日 

東北の歴史のミステリーその14〜海を渡った奥州藤原氏

45f3380f.jpg 奥州藤原氏が源頼朝の侵攻に遭ってあえなく滅亡してしまったのは文治五年(1189年)である。吾妻鏡には、泰衡は「夷狄嶋を差し、糠部郡に赴く」とあり、北海道を目指して逃亡したと書かれている。

 既に紹介したように、泰衡はその後なぜか北海道には渡らず、贄の柵(秋田県大館市)で河田次郎に討たれ、その生涯を終えるが、実際に北海道に渡った奥州藤原氏ゆかりの人々もいたようである。これは以前、コメントを寄せてくれた瑠奈氏に教えていただいた。

 北海道に義経が渡ったという伝説があることは知っていたが、奥州藤原氏の関係の人々が渡ったことは知らなかった。その後調べてみると、確かに北海道の渡島半島の各地には、奥州藤原氏の人々が渡ってきたという伝承が残っていることが分かった。

 正保二年(1645年)に成立した松前藩の史書「新羅之記録・上巻」には、「右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御たまひし節、糠部、津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す」とある。また、大正七年渡島教育会が編纂した「凾館支庁管内町村誌・其二」(道立文書館所蔵) の吉岡村の項でも、同じく松前藩の史書「福山舊事記(ふくやまくじき)」に「文治五年七月十五日鎌倉将軍右大将頼朝公藤原泰衡追討ノ節津軽糠部ヨリ里人多ク当国ヘ逃渡リ初メテ定住ス」とあることを紹介している。

 いずれも、糠部や津軽の住人が北海道に渡ってきたとしているが、それ以外の地に住んでいた人も含めてこれらの場所から北海道に渡ってきたと考える方が自然な気がする。糠部や津軽の地域は実際には頼朝に攻められていないのであるから、「難民」が発生したのだとすると、それは他の地域から逃れてきた人々だと考えられる。吾妻鏡には泰衡は「数千の軍兵に圍まれ」ていたとある。ひょっとするとこの数千の軍兵の一部が泰衡の死後、北海道に渡ったとも考えられる。

 ちなみに、「凾館支庁管内町村誌・其二」は、同じ吉岡村の項で「津軽ヲ距ルコト僅カニ七里自然ノ港湾ヲ有スル當地ノ如キ最初ノ上陸地点ナルベキカ」として、これら奥州藤原氏ゆかりの人々の最初の上陸地点は吉岡だったのではないかと推測している。また、江差町の「桧山沿革史」 によれば、 これら奥州藤原氏のゆかりの人々がその後定着した所は、吉岡、松前、江差の三ヶ所であると記されている。したがって、これらの町では、町の開基を1189年としているようである(「福島町史」、「古代・中世の松前」など参照)。

 では、これらの町に奥州藤原氏ゆかりの人々が上陸し、定着した形跡が何らかの形で残っているかというと、残念ながら残ってはいなかった。江差町の郷土資料室(現在移転作業中)で話を聞いたが、当時の北海道は擦文文化の時代であり、発掘された土器の特徴などから北東北と交流があった形跡は見られるものの、文字として残っている同時代の資料はなく、また館の跡なども残っていないとのことであった。館と言えば、渡島半島では「道南十二館」と呼ばれる中世の城館跡が残っているが、これはもっと後代のものである。

 しかし、奥州藤原氏ゆかりの人々が新天地である「夷狄嶋」で覇を唱えたであれば、それは後世まで続いて例えば道南十二館の時代の資料にもそのように記載されていたと考えられるし、そうでないところを見ると、この時代に渡ってきた人々はこの地で静かにひっそりと暮らしていたのかもしれない(写真は松前町から見た冬の日本海。818年前、この日本海の荒波を乗り越えて渡ってきた東北の人々がいたのだろうか)。


追記(2011.9.13):江差町の郷土資料室は現在、旧檜山爾志郡役所に移転し、「江差町郷土資料館」という名称になった。

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