2007年08月24日 

東北の歴史のミステリーその15〜藤原秀衡の孫が創建した寺院が京都にあった

951a5086.jpg 京都に大報恩寺というお寺がある(写真参照)。千本の地にあるので、地元では千本釈迦堂という名前で親しまれている。その名の通り、釈迦如来を本尊とする真言宗に属するお寺である。この大報恩寺、鎌倉時代初期の1227年に開創されたが、開創時の本堂がいまもそのまま残っている。

 この本堂が実は京都市内では最古の木造建造物とのことで、国宝に指定されているが、今でも自由に堂内を参拝できるのがすごい。開創当時は倶舎、天台、真言の三宗兼学の道場として朝廷に認められ、その後釈迦念仏の道場としても隆盛を極め、その様子は徒然草227、237段にも記述があるそうである。

 本堂以外にも本尊厨子と天蓋、本堂来迎板壁仏画、本堂棟木と棟札が国宝に指定され、本尊の釈迦如来像はじめ、釈迦の十大弟子像や六観音像など多くの鎌倉時代の仏像が重要文化財に指定されている。本尊の釈迦如来像以外は本堂左側の霊宝殿に収められ500円の拝観料で見学することができる。本尊の釈迦如来は秘仏だが、ちょうど訪れた時が精霊むかえ・六道詣りの時期で、貴重なこのご本尊を目にすることができた。

 この大報恩寺を開創したのは、義空上人という僧である。義空上人は19歳で叡山の澄憲僧都に師事し、その10数年後、この千本の地を得て、苦難の末に本堂をはじめ諸伽藍を建立したとのことである。

 ところで、この義空上人は、なんと奥州藤原氏の三代、藤原秀衡の孫なのだそうである。以前紹介したように、藤原秀衡には6人の男子がいたことになっているが、その中の誰の息子だったのか気になるところである。霊宝殿に展示してあった大報恩寺の縁起を記した古文書には、藤原忠明の子とあって、藤原忠明の名の脇に注釈として「秀衡息」と記されてあった。出生は「出羽国雄勝郡千福里」で承安二年、西暦で言うと1172年生まれとのことである。京都では平清盛が権勢の頂点を極めていた頃である。

 この藤原忠明という人物は、これまで知られている秀衡の6人の息子の誰でもない。「忠」の字が共通している三男忠衡のことか、あるいはこれまで知られている以外に存在した男子なのかもしれない。

 また、この義空上人が生まれた千福里という地名は、今の雄勝郡内には見当たらない。ただ、考えられる場所として、一つは旧雄勝町(現湯沢市雄勝町)の下院内に千福寺という寺があり、その近辺か、あるいは雄勝郡を含む仙北三郡の仙北のことを千福とも記したという記述があるので、それが誤って雄勝郡内の地名として伝わったかのいずれかかもしれない。

 もう一つ驚いたのはこの義空上人、文治二年(1186年)、15歳の時に鎌倉の月輪房阿舎利の童子役となったことである。義空上人はその後、19歳で剃髪して叡山に行くが、それまで鎌倉にいたということになる。義空上人が鎌倉に行った時期はまさに平泉と鎌倉が抜き差しならない状況になりつつあった頃である。この時の義空上人の役割はもしかすると、この時期の鎌倉の動向を逐一平泉に伝えるということにもあったのかもしれない。

 しかし、その3年後、文治五年(1189年)に奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされてしまう。鎌倉にいた義空上人はそれをどのような思いでみつめていたのだろうか。その翌年、義空上人は剃髪し、叡山に向かうのである。奥州藤原氏が滅んだのを目の当たりにして、残りの人生を仏道に捧げ、一族の菩提を弔うと共に、その意思を継いで一切衆生を仏教によって救わんとする道を選んだのではないだろうか。義空上人が苦難の末開創したという大報恩寺を見ると、そのような思いがするのである。

 奥州藤原氏の仏教王国はあえなく滅びたが、その種子は鎌倉を経て遠く京の都まで飛び、そこで新たな花を咲かせたのである。


追記(2007.9.2):義空上人の父親である藤原忠明だが、よく考えてみると藤原秀衡の三男、忠衡とするのは無理があることに気付いた。忠衡は文治五年奥州合戦の直前に兄泰衡によって討たれたことになっているが、その時の年齢は23歳だったと言われている。当時、義空上人は18歳だったので、忠明=忠衡説は死亡時の忠衡の年齢が正しいとすれば成り立たないことになる。

 義空上人が生まれたとされる「出羽国」に関わりがあったと考えられる秀衡の息子は、「出羽冠者」の号を持つ五男の通衡だが、三男の忠衡が文治五年時点で23歳だったとすると、通衡はさらに年少だったことになり、やはり義空上人の父とはなり得ない。

 ちなみに、次男泰衡は死亡時35歳とも25歳とも言われる。泰衡が35歳なら義空上人くらいの息子がいてもおかしくない計算である。ただ、忠明=泰衡とは考えにくい。また、長兄国衡の年齢は分かっていないが、恐らく泰衡よりもかなり年上だったのではないかと思われる。

 まったくの想像だが、出羽国出身の奥州藤原氏の家臣あるいは縁戚にあたる者の中で、秀衡の娘と結婚して婿養子になった者がいて、藤原姓を名乗っていたということは考えられるかもしれない。婿養子に「秀衡息」と記載するかどうかという問題はあるが。


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この記事へのコメント

1. Posted by 田村應   2012年04月19日 16:38
はじめまして。田村ともうします。実は、家が平泉藤原氏の藤原泰衡公の末裔になりコメントを登校しました。泰衡公が滅ぼされたあと泰衡からすれば孫にあたる子供を大友氏に預けられ大友氏一族として育てられ生き残こりました。
2. Posted by 大友浩平   2012年04月23日 12:23
田村さん、コメントありがとうございます。
なんと、田村さんは奥州藤原氏の末裔の方なのですか。
実は私も以前、「藤原泰衡の子」について考えたことをこのブログに掲載したことがありましたが( http://blog.livedoor.jp/anagma5/archives/51824729.html )、そのさらに子が大友氏(豊後の、ですよね?)に預けられたということなのですね。
とても興味深いお話です。
ぜひお手すきの際に詳しいお話を教えていただけたらと思います。
今後ともよろしくお願いします。

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