2007年10月13日 

東北の歴史のミステリーその16〜首途八幡神社は奥州藤原氏の京都出先機関跡か

7949e581.jpg 以前紹介した大報恩寺(千本釈迦堂)から東に500mほど行った所に、首途八幡神社(かどではちまんじんじゃ)という神社がある。源義経が16歳の時に鞍馬山を抜け出して藤原秀衡を頼って金売り吉次と共に奥州に向けて旅立つ際に、道中の無事を祈願した神社とも言われ、今も旅行安全などにご利益があるとして信仰を集めているそうである。

 この首途八幡神社について、江戸時代初期の貞享元年(1648年)に黒川道祐が著した、京都の地誌学の古典と言われる「雍州府志」という書物には、「西陣五辻南桜井辻子(現在の上京区智恵光院通今出川上ル)に橘次(吉次)が在り。このところ、売金商橘次末春の宅地なり」、「源義経は橘次の東行に従ってここより首途(門出)す」とあり、元々ここは義経にまつわる話には必ず登場する金商人、金売り吉次の屋敷跡だとする説があるのである。

 ところで、金売り吉次という人物についても謎が多い。京都と奥州を行き来した金商人だというのがもっぱらの見方だが、上の「雍州府志」を見ても分かるように、「吉次」を「橘次」と記している文献もある。「橘次」(きちじ)は元々は「橘次郎」(たちばなじろう)という名で、商人ではなく実は侍で、後に義経の家来となったという説もある。源九郎を「げんくろう」と読み慣わすのと同じだというのである。確かに橘姓はこの時代の東北の武士に比較的よく見られる姓である。この説の通りだとすると、吉次は本当は奥州ゆかりの武士だったということになる。

 なお、京都には、「平泉第」(ひらいずみてい)という、奥州藤原氏の出先機関があったと言われている。この出先機関が辺境であった奥州と京都とのパイプを確保し、対朝廷工作などを担っていたというのである。この時代、奥州は半独立国状態であったので、言ってみれば平泉第はその「大使館」だったとも言えるかもしれない。ただ、実際にこの平泉第が京都のどこにあったのかは分かっていない。吉次が金商人ではなく奥州ゆかりの武士であり、かつこの首途八幡神社がその屋敷だったとすると、ここがかつての「平泉第」だったのかもしれない。歴史家の角田文衛氏が既に指摘している通りである。

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