2007年12月09日 

東北の歴史のミステリーその17〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

519272c9.jpg 以前、私がかつて義経が好きで泰衡のことが好きではなかったということを書いたが、その理由の一つが奥州藤原氏滅亡前夜の「阿津賀志山(あつかしやま)」にもあった。

 子供でも読める義経の伝記は大抵義経記を中心に源平盛衰記、平家物語などにある義経の話をミックスして書かれているが、秀衡臨終の場面はだいたい義経記に則して書かれている。義経記を読むと、秀衡は死の直前、

「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。たとひ下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つとも」

と遺言している。

 つまり、「秀衡は自分の死後頼朝が朝廷の宣旨や院宣をたてに義経を討て、その暁には常陸(茨城県)も与えるぞと言ってくるだろうが、それに乗ってはいけない。鎌倉から使いが来たら首を斬って戦の用意をせよ。国衡に念珠関(山形と新潟の県境)と白河関(福島と栃木の県境)を防がせ、義経を奉じればそなたらは安穏だ」と遺言したというのだ。ところが、実際には泰衡はこの偉大な父の遺言に背いて、あろうことか義経を討ち、これで一件落着かと思いきや、義経がいなくなってこれ幸いとばかりに突如頼朝に攻められる。驚いた泰衡は奥州の南端、福島と栃木の県境の白河を固めることができず、慌ててもっと平泉寄り、福島と宮城の県境にある阿津賀志山に防塁を俄かごしらえで作るが、ここを破られると一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣の河田次郎に討たれて最期を遂げるという筋書きである。

 義経記の最後はこう結ばれている。

「故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、いかでか斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり」。

 読んでいる昔の私も、まったくこの作者と同じ心境で、「口惜し」がっていたものである。

 東北の南端を固めずに易々と宮城県境付近まで鎌倉軍の侵入を許してしまったことも私としてはかなり口惜しかったものである。なぜなら、この一連のストーリーで言えば、「阿津賀志山」(現在では厚樫山と表記する)というのは、泰衡の「先見性のなさ」の現われであって、鎌倉軍の進軍が早かったために奥州と坂東との境界であった白河以北を捨て、宮城・福島県境付近に防塁を築かざるを得なかったということになるからである。

 しかし、では実際のところ本当にそうだったのかと言うと、実はこの阿津賀志山の防塁はそのような慌てて作った俄かごしらえのものではないことが、発掘調査の結果既に分かっている。この作業には、半年以上かけて、延べ25万人が動員されたと推定されている。現在でもその遺構の一部は福島県国見町に残っているが(写真参照)、阿津賀志山の山麓に端を発して、現在の国道4号線、JR東北本線とほぼ重なると思われる奥大道を寸断してさらに東進し、阿武隈川にまで至るおよそ4kmにも及ぶ長大な防塁である。二重の堀とその前後の三重の土塁からなり、そこから地元ではこの防塁のことは二重堀(ふたえぼり)と呼ばれているが、確かにいかにも駿馬の一大産地であった奥州に築かれた防塁らしく、福島県立博物館にある復元模型などを見ると、ここを騎馬で越えるのはほとんど不可能と思えるような構造の防塁である。

 ちなみに、この阿津賀志山防塁、元寇の際に築かれた福岡市の元寇防塁、太宰府の水城防塁と並んで日本三大防塁の一つに数えられている。とても、その規模から言っても急造の不完全な防御施設と言って済ませられるような類のものではない。つまり、泰衡は鎌倉軍の侵攻が行われることを事前に察知して、ある程度の時間的余裕(とは言ってももちろん時間は限られていただろうが)を持ってこの防塁を築いたと言えるのである。

 また、この阿津賀志山の地を選んだというのも非常に合理的な理由があってのことである。福島県中通り北部から宮城県に入ろうとする境界にこの阿津賀志山はあるが、ここはまさに天然の要害である。今でも、ここを通るJR東北本線、東北自動車道、国道4号線のすべての行く手を阻み、そのためこれらの鉄道、道路は阿津賀志山を大きく迂回し、その合間をそれこそ肩を寄せ合うように通り抜けているのである(ちなみに、JR東北新幹線だけは阿津賀志山の西にトンネルを掘り真っ直ぐ走っている)。まさにここを閉鎖されれば、鎌倉側の大軍がその先に進むことは極めて困難な、そのような場所なのである。

 これに対して、奥州最南端の白河の関があるところは、栃木県との県境付近であり、今も残っている関所跡の南には「峠の明神」が祭られてある県境の峠があるが、「天然の要害」と言えるような地形ではない。ただ登って下るだけの地形である。誰かが言っていたが、白河の関は「交通検問所」のようなもので、陸奥と坂東の境界線を示すという意味合いが強く、決して外的の進入を防ぐのに適した場所とは言えないのである。

 事実、関所跡を見ると、一応周囲は堀が廻らされているが、ここに籠って外敵を討つなどというのはほとんど不可能と思えるような代物で、奥州藤原氏やその前の安倍氏、清原氏が築いていた柵と言われる防衛拠点とは比ぶべくもない。特に、この時代には既に関所としての機能は失われていたようで、白河の関はまさに単なる境界線でしかなかったわけである。泰衡には、阿津賀志山にこそ防塁を築く積極的な理由があったわけである。

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この記事へのコメント

1. Posted by 山田   2012年10月11日 06:00
私の歴史研究では多賀城は陸奥国府ではない。陸奥国府は現在の福島県庁の場所、大仏城と呼ばれた場所です。
厚樫山防塁は藤原氏が築いたとする説も疑っております。俄に作る事が出来ない規模ですね。
既に、多賀城は陸奥国府跡ではない事を証明しましたが、さらに証拠を見つけていると、有りました。そこには厚樫山防塁と思われる記述がありました。
北方から信夫郡内にあった国府を守る為の施設ですね。延歴四年四月七日の大伴家持 言(ごん)す。
に書かれています。
東北の歴史はもう一度検証しなおす必要があります。歴史学者も何故か固定観念で歴史を考えているため間違いを信じこんでいる。
勿論、藤原三代も福島市内に住んでいました。平泉説も間違いです。歴史資料を見れば明らかです。
解説本は平気で間違いを容認している。
厚樫山防塁も藤原泰衡が頼朝軍に備えた説も間違いだと考えられます。
2. Posted by 大友浩平   2012年10月16日 13:26
山田さん、コメントありがとうございます。
とても独創的なご見解ですね。
このコメント欄では山田さんの御説の全貌を解説していただくのは難しいと思いますので、どちらか参考になるサイトなどございましたら教えていただければと思います。

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