2008年01月27日 

東北の歴史のミステリーその18〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

b2743c21.jpg さて、もっとも、泰衡が阿津賀志山に防塁を築いたのには、積極的な理由だけではなく、もう一つやむを得なかった理由もあるようである。それは、奥州藤原氏の支配形態と関係している。

 すなわち、奥州藤原氏が陸奥と出羽の広大な二国を実効支配していたとは言っても、その状況は北と南ではずいぶん違っていたということである。北は泰衡を討った河田次郎が吾妻鏡で「累代の家人」と書かれているように、奥州藤原氏に臣下の礼を取っていた豪族が多かったのに対し、南は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠しており、奥州藤原氏はそれらのうちの有力者とは乳母関係、あるいは婚姻関係を通じて関係を深めていたという側面があるのである。

 鎌倉側と対峙する局面となった際、陸奥の南(南奥)、領域で言うとほぼ今の福島県地域であろうが、その地域にはこれまでどおり奥州藤原氏との関係を続けようとする武士団と、鎌倉側につこうとする武士団とが、それぞれの領域争いも絡んで分かれて存在し、一枚岩ではなかったのである。実際、文治五年奥州合戦後も旧来の領土を安堵された豪族も南奥には少なからずいたことが分かっているが、それは紛れもなく鎌倉側についたことを表している。

 吾妻鏡の文治五年奥州合戦の部分を読んでいて不思議に思っていたのは、海道軍、大手軍、北陸軍と3つに分けた鎌倉側の軍のうち、頼朝率いる大手軍と日本海岸を北上した北陸軍が奥州側と交戦した記録はあるが、福島の太平洋岸を北上した海道軍が奥州軍と交戦したという記載がなかったことである。それは、福島の太平洋岸を押さえていた武士団は頼朝に従い、交戦しなかったか、あるいは交戦した軍があったとしても書くに値しないくらい散発的な抵抗でしかなかったということなのであろう。

 実際、福島県いわき市にある飯野八幡神社には文治二年に頼朝の意向に従って八幡神社に宮換えしたという記録が残っているそうである。文治二年と言えば、北方の王者と言われ、歴代の奥州藤原氏の中でも最大の勢力を誇ったと言われる三代藤原秀衡が在世中のことである。頼朝の対奥州戦略は水面下でそのように着々と進んでいたわけである(写真の向こうに見えるのが国道4号線から見た厚樫山(阿津賀志山)。まさに、それまで真っ直ぐ伸びてきたこの国道の行く手を阻んでいる)。

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