2008年02月26日 

東北の歴史のミステリーその19〜なぜ「阿津賀志山」だったのか

00ad1e74.jpg 吾妻鏡によると、この防塁の存在は鎌倉側も察知し、畠山重忠は鋤や鍬を持った工兵隊80名を同行させ、夜のうちにこの堀を埋めてしまったという。しかし、延べ25万人が半年以上かけて築いた大規模な防塁を80人が一晩のうちに埋めてしまえるものだろうか。この記述の背景には以前も書いたが、鎌倉側の「平泉側のやることなどこの程度」ということを強調したかった意図があるように思えてならない。

 そのことを暗示しているような文献があった。「義経とその時代」(大三輪龍彦、関 幸彦、福田豊彦編、山川出版社、アマゾン該当ページ )に収録されている吉井 宏氏の「阿津賀志山防塁を考える」である。そこには以下のようにある。

 「堀の埋め土を発掘断面図でみると、埋め土のほとんどが水平に堆積しているのがわかる。凹部に自然に土が堆積していくときには凹部の形状にあわせてレンズ状(三日月状)にたまっていくものであるから、水平堆積は人為的に埋めた証拠と考えることができる。ただしその堆積状況は耕土を意味すると思われ、けっして鎌倉軍が堀の片側から一気に土砂を流し込んだというものではない。つまり発掘地点のどこからも工兵隊の作業痕跡は発見されなかったのである」

 とすると、吾妻鏡にある畠山隊の記述は単なる「フィクション」か、または仮に本当に埋められたのだとしてもそれは広大な防塁のごくごく一部にとどまり、吾妻鏡の記載から想像されるようなほどの範囲が埋められたのではなかったのではないかと考えられる。

 実際には、堀を埋める埋めないよりも大きかったのは、安藤次なる地元民に案内させ、鎌倉側の小山朝光ら7騎が阿津賀志山の西部の山の道なき道を越え、国衡の本陣の北方に出て鬨の声を挙げて濃霧の中、矢を放ったために、平泉側が大混乱に陥ったことであったようである。いわば、源平合戦の一の谷の戦いの鵯越のようなことを鎌倉側にされてしまったのである。

 この壮大な防塁で安心してしまったのか、奥州軍がこの阿津賀志山から外に動かず、守りに徹していたことは返す返すも残念なことである。防塁で鎌倉軍を足止めしつつ、史実とは逆に、奥州軍の方が急峻な山道を越え、阿津賀志山の南から鎌倉軍の横手に奇襲をかけていたらどうなったかと想像するのである。

 ましてや、この合戦、頼朝が奥州制覇という父祖の宿意を晴らすべく、前九年の役で源頼義が勝利を収めた厨川の柵に到着する日にちまで前九年の役終結の日に合わせたが、それは旧暦の9月17日である。この年の9月17日は新暦で言うと10月28日である。すなわち、かつての奥州軍が得意とした騎馬兵を主体としたゲリラ戦に持ち込んであと1月ほど持ちこたえることができていれば、東北は本格的な冬を迎え、「アウェー」で冬の寒さに慣れていない鎌倉軍との力関係も変わったのではないか、それこそ前九年の役の折に、安倍貞任が源頼義に冬場の戦いで壊滅的な打撃を与えたという「黄海の戦い」の再現になったのではないか、と想像するのである。

 ところで、前述の吉井氏は面白いことを書いている。阿津賀志山の防塁は未完成だったというのである。氏は、まず元寇の防塁や万里の長城などを例に、こうした防塁は軍事的な防塁であると同時に異民族・異文化との境界を示しているものである」と指摘している。つまり、奥州藤原氏側から見ると、鎌倉軍の進軍は仏都平泉を蹂躙せんとする「異民族」の侵攻だったというわけである。その上で氏は、阿津賀志山の中腹で終わっている防塁は、「本来はどこまでも西に延びて日本海に通じるべきものであった」としている。それによって、「自分たちの領域を阿津賀志山以北に設定し、これよりは『奥州夷狄』の地であることを宣言した」というのが吉井氏の解釈である。

 吉井氏は阿津賀志山の戦い以降、奥州軍が総崩れになった理由を、「阿津賀志山という境界線を越えられたこと」によるものだと指摘している。つまり、単なる防衛線ではなく、心理的な境界線でもあった阿津賀志山を越えられてしまったことによる「深刻な敗北感」が奥州軍や泰衡自身を襲ったというのである。これまでにないユニークな視点だと思う(写真は阿津賀志山山頂から見た福島盆地。819年前この地に立った奥州側の大将軍、藤原国衡に眼下の鎌倉方の大軍はどのように映ったのだろうか)。

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この記事へのコメント

1. Posted by 山田 久夫   2016年01月07日 12:12
阿津賀志山防塁のミステリー。
誰もが懐く吾妻鑑のミステリーですね。
答えは簡単です。吾妻鑑は江戸時代に平安時代や鎌倉時代の史料をもとに創作された歴史史料風の物語であり、史実にはない曲筆が織り込まれたために了解不能な記述が多いのだと私はおもいます。
阿津賀志山防塁西暦780年から785年にかけて作られた要害であることが史料から確認できます。
二千人の兵士が約五年の歳月をかけて作ったものであり、藤原泰衡が数ヶ月で作ったものではない。
多賀城国府や、平泉藤原氏も虚構である。
故に、東北の歴史はミステリーが多く了解不能な記述が多いのです。
2. Posted by 大友浩平   2016年01月28日 17:17
山田さん、以前もコメントいただきましたね。
今回もまたとても独創的なご見解ですが、このコメント欄で断片的にご指摘いただいてもその全貌は分かりかねますので、ぜひ山田さんのご持論を拝読できるサイト等をご紹介いただけるとありがたいです。

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