2008年10月06日 

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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この記事へのコメント

1. Posted by 利府太郎   2008年10月18日 09:58
実は利府太郎は、角田で育ちました。

高蔵寺は中学校の遠足で、歩いて行きました。(中学校から片道10劼曚品發い討いました。)

昨年、仙台・宮城DCのプレ年でしたが、家族5名で特別に御開帳していただき、阿弥陀如来をみてきました。(父が歴史好きで、お寺の方に無理を言って見せていただきました。)

高蔵寺の阿弥陀如来は華やかさはありませんが、素朴な土地柄に合っていると思います。

故郷の話題を取り上げていただき、大友さん本当にありがとうございました。

ゆっくりお話する機会があれば、高蔵寺の話題で盛り上がりましょう。
2. Posted by 大友浩平   2008年11月14日 14:30
利府太郎さん、コメントありがとうございます。
利府太郎さんは角田のご出身だったのですね。
高蔵寺、本当にいいところですね。
私の大好きな場所の一つです。

ご本尊の阿弥陀如来、お寺にお願いするとご開帳の時でなくても見せてくれるようですね。
私の父親もそう言っていました(笑)。

3. Posted by カーテンコール   2009年11月13日 14:10
突然お邪魔いたします。
平永衡のことを調べているうちに貴兄のブログに偶然辿り着きました。
そして、私とまったく同じことを考えられておられることを知りました。
  ≪高蔵寺阿弥陀堂は平永衡のために建てられたものだったのかもしれない≫
私は歴史には全くの素人ですが、各地をマラソンしながらその土地の歴史ロマンを求めて楽しんでいます。
これからもよろしくお願いいたします。
4. Posted by 大友浩平   2009年11月17日 12:01
カーテンコールさん、コメントありがとうございます。
ブログも拝見させていただきました。
なるほど、高蔵寺阿弥陀堂は平永衡の居城の西に位置するのですか。
それはまさに永衡のためにこの阿弥陀堂が建てられたのでは、という仮説に説得力を持たせてくれる重要な事実ですね。
貴重なご示唆をありがとうございます。
あ、ちなみに、私も昨年、今年と、思いつきで松島ハーフマラソンに出場しました。
ひょっとしたら、どこかですれ違っていたかもしれませんね。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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