2008年10月27日 

東北の歴史のミステリーその21〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

db49b607.jpg 山形県の沿岸、庄内地方の酒田市には、その発祥に奥州藤原氏にまつわる話が伝わっている。文治5年(1189年)の奥州藤原氏滅亡の際、藤原氏の遺臣36騎に守られて藤原秀衡の妹徳子(あるいは徳の前)、あるいは側室泉の方と称する女性が平泉を逃れ、現在の酒田市周辺に落ちのびたのが、酒田市ができたきっかけだというのである。酒田まで落ちのびるに当たっては、あえて最短ルートであった最上川を下るルートを取らず、一度現在の秋田市まで出てから南下したと伝えられ、秋田県内にも女性が乗ってきた白馬が途中で死んだのを祀った寺があるなどの言い伝えがあるそうである。

 この女性は最初出羽三山の一つ、羽黒山の山奥の立谷沢で過ごしたが、その後向酒田(現在の酒田市街地から見て最上川を挟んだ対岸)の袖の浦(現在の酒田市宮野浦)、飯盛山にひそみ、泉流庵を結び徳尼公となり、藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り、建保5年(1217年)4月15日87歳で没したそうである。

 徳尼公の結んだ「泉流庵」とは、「平泉から流れてきた」ことを表しているそうである。後に泉流寺と改称された。現在の泉流寺(参照サイト、酒田市のサイト内の該当ページは現在エラーで表示されない)は酒田市の中心部、酒田市総合文化センターの南隣にある。

 徳尼公没後、遺臣36人は地侍となり、廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築いた。36人の遺臣の末裔はその後酒田三十六人衆と称され、幕末まで酒田を「自治都市」として運営したそうである。

 現在、泉流寺には開祖徳尼公の木像がある。これは元あった像が宝暦元年(1751)に焼失した後、明和元年(1764)三十六人衆の一人、本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせたもので、今に伝わる徳尼公像をまつる廟も寛政2年(1790)本間光丘の寄進によって建立された。境内には三十六人衆記念碑があり、今も徳尼公の命日である4月15日には三十六人衆の子孫によって徳尼公の法要が行われているそうである。

 ところで、最初羽黒山で過ごした徳尼公はなぜ酒田に移ったのだろうか。修験道の本拠地、出羽三山の羽黒山にいれば、めったに幕府の探索も入らず、身の安全を図れたのではないだろうか。どうやらそれにはやむにやまれぬ理由があったようである。

 建久4年(1193年)、源頼朝は土肥実平を建築奉行として羽黒山に黄金堂(こがねどう)を寄進したのである。この黄金堂は羽黒山の入り口近くに現在も存在し、山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対して小金堂とも言われている。この頼朝による黄金堂建立をきっかけに自分の身に追及の手が及ぶのを恐れた徳尼公が羽黒山を出て、酒田に移ったのではないかと考えられている。しかし、そもそも徳尼公が平泉を逃れたこと自体、大きな謎があるように思うのである(写真は泉流寺内にある徳尼公廟である)。

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