2008年11月02日 

東北の歴史のミステリーその22〜酒田市の成り立ちと奥州藤原氏

24ba41a2.jpg 徳尼公はなぜ平泉を逃れなければならなかったのだろうか。普通、戦に敗れても棟梁の妻が殺されることはない。奥六郡の覇者であった安倍氏が滅ぼされた前九年の役で、安倍氏側について殺された藤原経清の妻は、源頼義側につき安倍氏に代わって奥六郡を収めることになった出羽の豪族清原氏の清原武貞に再嫁させられる。

 このことについては、かつては女性が「戦利品」扱いされた表れと捉えられたが、実際はそうではなくその地の人心をつかむためには、後家の処遇が鍵だったのである。事実、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦の後、藤原秀衡の後家が平泉で存命だったことを受けて、幕府が憐憫の情を持って対応するよう奥州総奉行に命じたことが、吾妻鏡に書かれているのである。

 そこでまた疑問が出る。秀衡の後家(これは本妻、すなわち泰衡の母だろう)が奥州藤原氏滅亡後も平泉にとどまっていて危害を加えられることがなかったにもかかわらず、なぜ秀衡の妹あるいは側室は平泉を逃れなければならなかったのかということである。何か平泉にとどまっていてはいけない理由があったのだろうか。

 そう考えると、後に徳尼公と称された女性は、決して頼朝に見つかってはならない何かを持っていて、そのために平泉を離れなければならなかったのではないだろうか。それはいったい何だろうか。平泉の繁栄を支えた黄金に関する何かか、それとも…。

 私にとって以前から疑問だったのは、泰衡の子がどうなったかということである。殺された時泰衡は35歳だった(25歳という説もある)。当然子供がいて不思議ではない年齢である。しかし、吾妻鏡には、泰衡の子が見つかって殺されたといったような記述はない。では元々子供がいなかったのか。以前、泰衡の妻については、夫泰衡の後を追って自害した場所が神社になっていることを紹介した。しかし、そこでも2人の子供のことについては何も触れられていない。

 そこで考え付いたのが、徳尼公は実は泰衡の子を守って平泉を逃れたのではないかということである。そう考えれば、徳尼公が平泉を離れなければならなかったことにも合点がいく。自身は殺されることはなくても、泰衡の子となれば殺されることはほぼ間違いない。それでその子を連れ、家臣に守られて酒田まで落ちのびたのではないだろうか。

 そう思って調べてみたら、やはりそのような伝承はあった。酒田市が発行した「酒田の歴史探訪」には、「平泉藤原家の遺臣三十六騎が藤原秀衡の後室と言われる徳姫と、泰衡の一子・万寿のお供をして平泉を逃れました」とある。万寿というのは元服前の名前のようなので、事実とすると泰衡の子はまだ幼かったことになる。

 泰衡の子万寿はその後どうしたのだろうか。徳尼公が天寿を全うし、三十六騎の遺臣が地侍となったことは伝わっていても、万寿がどうなったかは伝わっていないようである。しかし、状況から見て、きっと万寿もまた幕府に殺されたりすることなく、無事自分の人生を全うしたのではないかと思うのである(写真は現在の酒田市宮野浦の海岸。巨大な風車が並んでいる)。


追記(2010.9.5):「吾妻鏡」の文治5年(1189年)11月8日には、「泰衡の幼い子息の居所がわからないので探し出して身柄を確保せよ、その名前が若公(頼朝の子・頼家)と同じ名前(万寿)であるから、名を改めるように」との指示が出されている。これを見ると、幕府は泰衡に子があったことは把握しているが、その居場所については把握していなかったことが分かる。また、その後所在が明らかになったという記述もない。

 改名の指示も出ているが、これは本人がいる、いないに関係なくできることである(逃亡中の義経が「義行」「義顕」と二度も改名されたように)。

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