2009年11月20日 

東北の歴史のミステリーその24〜消えた?「奥十七万騎」

165234.jpg 今でも覚えているのだが、中学校の時の歴史の副読本に東北の歴史について説明した冊子があった。その「奥州征伐」の項には(「征伐」というのは鎌倉側から見た一方的な表現であるので現在では「文治五年奥州合戦」という名称が定着している)、「なぜ源頼朝は28万4千もの大軍を率いて奥州に攻め込んだのでしょうか」という問いかけがあり、当時義経びいき、奥州藤原氏びいきだった私が、「そうだそうだ、いったいどんな理由があって東北に攻めてきたんだ?」と思いながら読み進めると、次の文章が「それは奥州藤原氏の兵力が20万騎と言われていたからです」と来て、「そっち(兵の数)の話かよ〜」と肩透かしを食らったような思いをした記憶がある(笑)。

 当時、 奥州藤原氏の擁する兵力は17万とも、18万とも、あるいは20万とも言われていて、それこそ今世界遺産登録を目指している通りの浄土思想を基調とした「平和国家」の顔の一方で、平氏や源氏とも単独で対等以上に渡り合える強大な軍事力を持っているとされていた。頼朝は平氏追討に当たって、自ら鎌倉を動くことはなかったが、それは背後に控える奥州藤原氏の「奥十七万騎」を脅威に感じてのことだったとも言われる。

 ところが、いざ文治五年奥州合戦となると、以前紹介した阿津賀志山の合戦で大将軍に任ぜられた泰衡の兄、西木戸太郎国衡が率いたのは二万騎だったと吾妻鏡にはある。しかも、阿津賀志山以降は散発的な抵抗はあったものの、大規模な合戦らしい合戦はなく、平泉は事実上「無血開城」だった。出羽方面でも戦闘が行われたと記述があるが、阿津賀志山以上の兵力がそちらに集結したと考える理由はない。してみると、17万騎どころか、実際にはほんの数万騎が、頼朝率いる大軍(もちろん28万4千騎という数字には誇張もあるだろうが)と戦ったわけである。ならば、奥州藤原氏が誇った残りの兵力は戦わずしてどこに消えたのか。

 前回、東北のオススメスポットとして、平泉衣川を紹介した(ここここ)が、両地域を比較して「おや?」と思ったことがある。史跡(地名にのみ言い伝えが残っているものも含めて)の数に、平泉と衣川とでは違いがあり過ぎるのである。すなわち、平泉は奥州藤原氏が100年の栄華を誇った地であるにも関わらず、それにしては遺跡の数が少なすぎやしないかということである。

 というのも、既に紹介した通り、衣川の遺跡、そしてそれは多くが安倍氏に由来するものだが、非常に多いのである。1日で全部回ろうと思ったら、それこそ誇張ではなく朝から夕方までかかる。安倍氏は当時奥六郡を中心とする大きな勢力であったが、陸奥出羽両国の全体を掌握していたわけではなかった。一方、奥州藤原氏はその両国、つまり今の東北地方のほぼ全域を掌握していたとされている。それにしては、その本拠地たる平泉に往時を偲ばせるような遺跡が少なすぎやしないだろうか。

 衣川には安倍氏が乗馬5〜600頭を繋いでいたという場所(「駒場」という地名で残っている)や「乗馬訓練場」跡(「馬駆」という地名で今も残っている)まで残っているのである。いかにも騎馬兵を主体とした精強な兵を率いた安倍氏にふさわしい伝承だが、対して奥十七万騎を誇る奥州藤原氏の訓練場跡があったという話はついぞ聞いたことがない。もちろん、安倍氏の訓練場をそのまま引き継いだということなのかもしれないが、それであれば「安倍氏の」ではなく、より新しくより強大な勢力を誇ったはずの「奥州藤原氏の」という伝承になってもよさそうなものである。

 これはいったい何を意味するのかと考えてみると、実は「奥十七万騎」は「虚構」と言うか、「誇大広告」だったのではないかということである。それだけの兵力はなかったが、そう喧伝することでかつての前九年の役のように、奥州を我が物にせんとする源氏のような勢力に外部から攻め込まれることを未然に防ごうとしたのではなかったかという気がするのである。

 その「情報戦略」は、頼朝が朝廷の制止を振り切って有無を言わさず攻め入ってきたことで「実像」が露呈して瓦解した。その実像とは、阿津賀志山の地で、全国から動員された頼朝の大軍を3日足止めするのが精いっぱいの兵力だったということなのではないだろうか。

 本当の意味での「判官びいき」、と言うか、義経が好きな人にしてみれば(かつての私もそうだったが)、奥州藤原氏のこのようなあっけない終焉をとらえて、義経さえ生きていればこのようにたやすく滅びることはなかったろうに、と思うものだが(以前紹介したが、「義経記」の作者もそのようなニュアンスの言葉で最後を締め括っている)、もしこのような圧倒的な兵力の差が端からあったのだとすると、仮に義経が生きていたとしても状況は同じであったかもしれない。いや、「ゲリラ戦」が得意だった義経がいればやはり状況は違っていたはずだ、という反論が即出そうではあるが。

 写真は残念ながら平泉の世界遺産登録に当たっての構成遺産からは外された白鳥館遺跡から見た北上川である。この遺跡は安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の館跡と伝えられる。その立つ場所から考えて、奥州藤原氏時代にも重要な役割を果たしたのでは、とも思われるのだが、少なくともそのような伝承は聞いたことがない。

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この記事へのコメント

1. Posted by げん   2010年02月19日 06:08
はじめまして、私も仙台在住のものです。
「上村十二人衆」について調べるうち、こちらに
辿り着きました。奥州合戦における泰衡について
の考察、平泉を東北州成立後あらためて首都とす
る案など、共通した考え方が多いので大変驚いて
おります。違う点といえば、沖縄の文化と互角に
戦える東北文化には、岩手、特に遠野の「しし踊り」
があるぞ、というところでしょうか。
現在の「じゃじゃや」によく行きますが、あのよう
な紆余曲折があったとは!頑張って頂きたいものです

ちなみに、こちらで紹介されたほうではない、もう
一店のほうのアイリッシュパブにて、音楽活動など
しております。そちらのお店もよろしければ、是非!
2. Posted by 大友浩平   2010年02月23日 14:28
げんさん、コメントありがとうございます。
同じお考えの方がおられると知って、とても嬉しく思います。
「上村十二人衆」をご存知とは、只者ではないですね(笑)。

ブログもちょっと拝見させていただきましたが、げんさんの東北に対する思いが伝わってきました。
佐々木喜善については、私もいつか書こうと思っていましたが、げんさんに書いていただいたのでとりあえず私が書かなくてもよさそうです(笑)。

そうでした、東北には「鹿踊り」や「鬼剣舞」がありましたね。
確かに、これらは、沖縄のエイサー隊と互角以上に渡り合えますね。

「じゃじゃや」は実は最近、ちょっと遠くなったこともあってご無沙汰してしまっています。
もしご主人がおられたらよろしくお伝えください。

もう一軒のアイリッシュパブとは、五橋にある自家製ベーグルのおいしいあのお店ですね。
そちらもいずれ「実地調査」をして(要は飲みに行くってことですが)紹介させていただきます。

道州制実現が近くなってきたら「平泉を東北の州都にする会(仮)」を結成しましょう(笑)。
今後ともよろしくお願いいたします。
3. Posted by げん   2010年02月26日 22:02
こちらのブログにもお出で下さり
有難うございます!私のほうはふと思いついた走り書き
のような記事が多いのでお恥ずかしいのですが・・

私も過去、あつかし山(らしき山?)に登って眼下の
平野を見渡したり、泰衡公逃亡の足跡を追う旅を決行
した事がありました。泰衡が脱いでいった兜と鎧を別
々にまつった神社があるのには驚きで、かなりカリス
マ性を持った人物だったのか?と想像させました。
「桃枝村」の話は聞いた事あったのですが、本当に
あるのですね・・!

平泉と仙台の関係は、スコットランドのエディンバラ
とグラスゴーのような感じでしょうか 最大の都市の
役割は仙台が果たし、平泉は東北六県(+できれば新
潟も友情参加で 笑)が意見を出しあい、首都として
再建してゆくのがいいと思います。

「じゃじゃや」私も少し距離あるので冬の間はなかな
か足運べなかったのですが、そろそろ季節到来です

それではこちらこそ何卒よろしくお願い致します。

4. Posted by 大友浩平   2010年03月05日 13:37
げんさん、コメントありがとうございます。
そうですか、げんさんも阿津賀志山に登り、また鎧神社、兜神社にも足を運んだのですね。
どこかですれ違っているかもしれませんね(笑)。

桃枝集落の藤原姓は本当にありました。
これなどもまさにげんさんの言われる泰衡のカリスマ性の現れと見ることもできそうですね。

そうですね、仙台はあまり出しゃばらずに「支える役割」に徹した方がうまく行くように思います。
新潟にも加わってもらうのもいい案ですよね。
書こう書こうと思って書いてませんでしたが(笑)、昨年国交省がまとめた「東北圏広域地域計画」も7県をひとまとまりにしていましたし。
7県がまとまると人口1,210万人、圏域内総生産43兆円の、欧州中規模国と同等の「国力」となるのですね。
この「奥州」(正確には奥羽越ですが)が、これら歴史ある欧州の国々と渡り合っていくことを考えると、やはり歴史ある平泉が「首都」に相応しい気がしますね。

またいろいろ教えてください。
5. Posted by はぐりん   2011年09月29日 16:33
お邪魔します(^^)

奥州の騎馬部隊は強かったといいますね。
実際前九年の合戦では安倍氏の部隊が徹底抗戦し、朝廷軍を長年にわたり苦しめているわけで。
ただ、その時戦ったのは安倍氏の支配下にあった軍隊だけでしょうし、戦の規模自体も、奥州合戦とは比べ物にならなかったでしょう。

はたして藤原氏が、安倍氏の軍隊の強さをそのままに、それを奥州全土に拡大した軍事組織を築いていたかというと、疑問符がつきますよね…
政治的、経済的な面では裏付けがあっての安定した統治だったかもしれませんが、軍事面は弱かったのでは?と思います。

そもそも泰衡が義経を襲撃し得たこと自体、奥州に「戦はできない」という判断があったことの表れだと思いますし。(全面戦争が可能である中での当主の独断、暴走といったものではないと思います。第一、そんなこと絶対に周りが許さないです)
6. Posted by 大友浩平   2011年10月05日 13:30
はぐりんさん、またまたコメントありがとうございます。

安倍貞任が源頼義を打ち破った黄海の戦いでは、安倍軍4,000に対して頼義の軍は1,800であったと「陸奥話記」にはありますね。
吾妻鏡にある頼朝軍284,000は誇張としても、恐らく兵の数は一桁は違っていたのでしょうね。

私も、奥州藤原氏の軍は言われていたほど数も多くなく、強くもなかったのではないかと思ってこのブログを書いたのですが、とすると一つ引っ掛かるのが秀衡の遺言ですね。

吾妻鏡には「義経を大将軍として国務を執らしむべし」とあり、玉葉には「義経を主君として国衡泰衡両人はこれに給仕し、三人一味となって頼朝を襲う計略を巡らすべし」とあります。
「大将軍」というのは軍司令官ですから、臨戦態勢で国務をせよと。
しかも、「宣伝通り」の力を持っていない兵でもって、守るのではなく頼朝を襲えと言っています。
こうした遺言を残した秀衡の真意がどこにあったかというのが、奥州兵が弱かったとすると、謎ではあります。
もちろん、頼朝に対する牽制、威嚇の意図であえてそのような内容の「遺言」を広めたというのであれば分かるのですが。

これからもいろいろ考えてみたいと思います。

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