2011年04月01日 

私的東北論その16〜津波の彼方に消えた弟へ

110316-150042 ひどい地震だった。3月11日午後2時46分。「東北地方太平洋沖地震」と名付けられたその地震では、ものすごい揺れが5、6分も続いた。「もういい加減止まってくれ」と思わず叫んでしまいそうな強く、長い揺れだった。とんでもない地震が来たと直感した。その後すぐ、東北と関東の太平洋側すべてに出された「大津波警報」。「津波警報」の上に、さらにそんなのがあるとはその時まで知らなかった。そして、その通りに押し寄せた大津波。仙台湾に押し寄せた津波の高さは何とおよそ10mにも達したという。仙台がそんなとんでもない津波に襲われるとは想像だにしなかった。

 仙台を含む宮城県はたびたび強い地震に襲われてきた。いわゆる「宮城県沖地震」である。30〜40年おきに起こるというM7.5クラスの地震は、私がまだ子どもだった1978年にも起きた。それから33年。次の地震が起きてもおかしくはないと、それなりに備えも心構えもしていたつもりだった。しかし、実際に起きた地震は、子どもの頃に体験した地震とはまったく次元の異なる巨大地震だった。

 起こると分かっていた地震があっただけに、宮城県や県下の各市町村もその1978年の地震を基に、着々と対策を立てていた。宮城県沖地震で仙台の沿岸に押し寄せる津波の高さは最大で2〜3mと推定され、それに基づいて仙台の海岸には高さ5mの防潮堤が築かれていた。その防潮堤は今回の津波の前にはまったく無力だった。信じられないことに津波は、その防潮堤をやすやすと乗り越え、すべてを押し流してしまった。

 もちろん、対策が功を奏したこともあった。直下型でなかったということもあるだろうが、あれほど長く、強く続いた揺れにも関わらず、仙台市内では倒壊した建物はほとんどなかった。だから、地震そのもので命を落とした人の数はそれほど多くなかった。これは宮城県沖地震を踏まえて見直された建築基準法の成果だろう。しかし、想定外の津波が多くの命を奪い去ってしまった。

 私の弟は、仙台市内では特に津波の被害がひどかった荒浜地区を抱える若林区役所に勤務していた。まちづくり推進課という部署にいた。広報活動などもその業務の一環であったらしい。地震の後、弟は荒浜地区の住民に津波襲来の危険を知らせるため、市の広報車で出掛けて行った。そして、そのまま戻ってくることはなかった。

 いなくなったから言うわけではないが、とにかく優しく、いつも自分のことは置いておいて相手のことを先に考えるようなヤツだった。これでもかって言うくらいに親孝行していた。親孝行らしいことをちっともしていなかった私の分を補って余りあるくらい、いろいろよく気がついてはあれやこれや世話を焼いていた。

 安月給のくせに発泡酒や第三のビールじゃなく地ビールばっかり飲んでいる兄の私のことも心配してくれて、よく好物の銀河高原ビールを差し入れしてくれた。松島ハーフマラソンや日本の蔵王エコ・ヒルクライムで完走した時はご祝儀とか言って、やまやの商品券を1万円分もはずんでくれた。以前、このブログで宮古のレトルトカレーのことを書いたら、一風変わった品揃えが特徴のつかさやに並んでいたすべての種類のレトルトカレーを買って持ってきてくれた。店の人には「レトルトカレーの研究でもするんですか?」って聞かれたらしいが(笑)。ちなみに、このものすごい量のレトルトカレーは、今回の震災直後、食料が手に入りにくくなった際に、とても役に立ってくれた。

 仕事にもとにかく一生懸命だった。昨今、とかく公務員バッシングが喧しいが、中には弟のような真摯に職務に向き合っている人も少なからずいるのである。問題があるとすれば、それはそうした人材を使いこなせないトップの方にある。

 あの日、区役所を出て荒浜に向かった弟は、その仕事熱心さゆえに、逃げ遅れる人があってはならない、一人でも多くの人を助けたい、と、つい無理をしてしまったのだろう。もしその時、「無理しないですぐ帰って来い」と言っても、きっと弟は聞き入れなかっただろう。そういうヤツだった。

 数日前に弟が乗っていた広報車だけが若林区荒浜南長沼近辺で見つかった。両親がすぐに現場に足を運んだが、その場に居合わせた地元の消防隊の隊長は、「この車とはあの日、何回もすれ違った。一生懸命避難を呼び掛けていた。そのお陰で何人の人が助かったか分からない。立派でした」と言ってくれたらしい。父親は「立派でなくても生きて帰ってきてほしかった」と言ったそうだが、親の気持ちとしては本当にそうだったに違いない。

 私もまったく同じ気持ちで残念でならないが、その言葉を聞いて少し救われた気がする。弟はその最期の時まで、自分に課せられた職務を全うしたのだ。「最期までよく頑張った」と褒めてやりたい。警察官や消防隊や自衛隊ではない、たまたま人事異動でそうした部署に配属されただけだったにも関わらず、弟は自らの生命を賭して地域の住民の安全を守ろうとしたのである。私などには到底なし得ない、非常に崇高な行いを、弟はやってのけたのである。

 そうだと分かってはいても、たった二人きりの兄弟、いないというのはやはり寂しいものである。弟のようにいまだ行方の分からない人は、分かっているだけでもいまだ1万8千人もいるそうである。その1万8千人の人の行方を心配する人の数はその何倍もいる。そうした人たちの嘆きや悲しみは、本当に痛いほどよく分かる。

 でも、幸運にも生き残った私たちは、この場に立ち止まっているわけにはいかない。また元の日常を取り戻すために立ち上がらなければ、弟のように不幸にして人生を中座せざるを得なかった多くの人たちに対して申し訳が立たない。どんなにどん底まで打ちのめされても、そこからまた這い上がる力を、私たち人間は生来持ち合わせていると思う。命ある限りは、いくらでもやり直しはできる。そう強く思って、もう一度、あの何気ない、でもこの上なく幸せだった暮らしを自らの力で取り戻すのだ。

 ことに、ここは東北である。東北は、古より様々な災厄に見舞われてきた。今回のような自然災害にも数限りなく襲われた。時の権力者にいわれなく攻められたことも歴史上、幾度もあった。東北に住まう人たちは不屈の精神で、打ちのめされたどん底から、その度に立ち上がってきたのである。そうした人たちがいてくれて、今の東北はある。今回もそうでなければ、それは東北ではない。もちろん、時間は必要だろうが、東北は必ずやそこに住む人たちの力で復活する。


 写真は、弟を探しに行った時に撮ったものである。何もかもなくなった。あるのは瓦礫の山だけである。これ以上ない、ひどい有様である。でも、この無残な光景ですら、いつの日か必ず元の、あの海沿いののどかな普通の風景に戻るはずである。



純平へ
こんな形でもう会えなくなってしまうなんて夢にも思わなかった。本当に残念だ。こんなことならもっともっといろんなことを話しておきたかった。
もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、次もまたぜひ仲のいい兄弟として一緒に生まれたいな。次に生まれ変わる時は、面倒見がよくてしっかり者のお前の方が兄貴でいいぞ。
オレが死んで生まれ変わるまでにはまだ時間がありそうだから、それまでは、お前が大好きで命まで捧げたこの仙台の街が、あまたの悲しみを乗り越えて復活する様を、どうか見守っていてくれい。

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by 秋田戸隠 三浦   2011年04月02日 13:07
この度の震災によるご被災、心よりお見舞い申し上げます。 何と申し上げてよいのか言葉が見つかりません。

秋田でも被災地の為に出来ること、私なりに考え行動していきます。

ビールが取り持ったご縁ですので、またどこかでお会いできますよね!

弟さんの分まで頑張って生きてください。
2. Posted by 佐久間   2011年04月02日 22:08
秋田でお会いして以来、なかなか再会がかなっていませんが、そんな事があったとは…つつしんでお悔やみ申し上げます。

こちらは幸いにも大きな損害も無く、日常の生活が戻りつつありますが、東北が元通りになるには、いったいどれくらい時間が必要なのか…
3. Posted by 仙台在住のものより   2011年04月02日 23:21
仙台市に住んでおります。
たまたま、このブログを読みました。
読んでいて胸が締め付けられました。
地震後初めて多賀城近くまで今日、車を走らせました。
目の前に広がる光景が嘘のようでした。
弟さん、すばらしい方ですね。
荒浜は地震が起きてからまもなく津波が来たそうです。
停電でテレビから情報を得られない、車も無くラジオを
聞く余裕も無かった方たちにとって
弟さんが命をかけた放送は、多の方を救ったことだろうと思います。
弟さんの分まで精一杯生きてください。

4. Posted by ドイツより   2011年04月03日 06:38
ビールの美味しいドイツ在住の者です。仙台市出身で、今も実家があります。故郷の惨状に、毎日胸が締め付けられる思いです。
今日、本当に偶然に、このブログと出会いました。


生きて帰ってきて欲しかった、というお父様の言葉がとても重く、つらく感じます。だれでもそう思うのが自然だと思います。

だからこそ、この貴重な話を聞いた私達が、「こんなに立派な、使命感のある職員の方がいた」という事実を伝え、感謝していかなければいけないのだと思いました。確かに、多くの方が、弟さんの放送により、救われたと信じてやみません。

私も、故郷のために、ドイツに住む日本人とともに、募金活動を街中で行っています。驚くほど多くのドイツ人の友人や、街の方が、賛同してくれています。
世界が応援しています。東北は、仙台は、きっと復興します。
5. Posted by 秋田より   2011年04月03日 19:52
仙台地ビールで検索していたときにこちらもブログにたどり着きました。
コメントしたことはなかったけれど、それからずっと読者でした。

震災からものすごく人の死に敏感になっています。
命って本当にひとつしかないんだと思い知らされる毎日。

津波が何もかもさらってしまったあの映像を見て泣いていましたが、悔いのないようにきちんと生きていかないといけないんだなぁって。

泣いたり、話したりはメンタル的に大事なことだと思います。
私はわたしのできることをします。
大友さんもできることを1つづつ重ねていけることお祈りしています。




6. Posted by 大友浩平   2011年04月06日 13:00
秋田戸隠 三浦さん
ご無沙汰してます。
コメントありがとうございます。
このブログ、実は出張先の秋田で書きました。
こちらにいると日々のことに追われてなかなかまとめてものを書く時間がなかったので。
時間がなくてそちらに寄れなくてすみません。
地震から全然飲んでないので、このまま弟が見つかるまでは禁酒しようと思ってますが、見つかったら即行でお邪魔したいと思いますので、おいしいビールを準備しておいてください(笑)。
7. Posted by 大友浩平   2011年04月06日 13:00
佐久間さん
覚えていてくださってありがとうございます。
先日秋田にお邪魔しましたが、節電が徹底していることに驚きました。
そう言えば東北でも計画停電の話がありましたね。
被災地は除外されるということですっかり頭の片隅に追いやられていましたが、皆さんが節電してくださって、こちらに問題なく電気が来ているのだといことが初めて分かりました。
仕事でお世話になっている方々も、岩手の沿岸に交代で炊き出しに行っていただいているとのことでしたし、本当にそうした有形無形の支援がありがたいです。
8. Posted by 大友浩平   2011年04月06日 13:01
仙台在住のものよりさん
コメントありがとうございます。
本当に、仙台の街中にいると少しずつ日常の光景に戻ってきていますが、沿岸部の光景は大部分まだあの日のままですよね。
弟は自分のやるべきことを最後までやり遂げたのだと思います。
私もその爪の垢を煎じて、自分にできることをしっかりやっていきたいと思います。
9. Posted by 大友浩平   2011年04月06日 13:01
ドイツよりさん
コメントありがとうございます。
仙台でもドイツに倣ってオクトーバーフェストをやり始めましたが、いつか本場のオクトーバーフェストに行ってみたいです。
今回は日本全国のみならず、世界各国から様々な支援やメッセージをいただいて、本当に心強いです。
それを力に変えて、また元通りの東北にできればと強く思います。
10. Posted by 大友浩平   2011年04月06日 13:01
秋田よりさん
私の拙いブログをずっと読んでいただいていてありがとうございます。
一人ひとりが、自分にできることを少しずつやっていけば、それが合わさって東北復興の大きな力となるのだと思います。
そうしていつの日か「あの時は大変だったね」と、それこそおいしい地ビールを飲みながら話せたらいいなと思います。
ぜひその時は「秋田戸隠」の三浦さんのところで一緒に飲みましょう(笑)。
11. Posted by あつし   2011年04月19日 22:45
弟さんが行方不明とだけは聞いていたが、キミの文章を読んで、あらためて残念でならないよ。
なんて言葉をかけて良いかわからないけれど、弟さんの分まで親孝行してあげてくれ。
そんな気分にはならないかも知れないけど、弟さんが見つかったらば、また震災前のように呑んでしゃべりに行こう!いつでもお供させてもらうよ。
12. Posted by 大友浩平   2011年04月21日 15:48
コメントありがとう。
飲みたい気分ではあるのだが、もうちょっと頑張ってみよっかなって思ってる。
ま、首尾よく願いが叶ったら、ぜひ一緒に飲もう。
会場はもちろん、「秋田戸隠」な(笑)。
13. Posted by ブルーバードつながりの知人   2011年11月29日 18:59
はじめまして。

日記投稿日時より時間が経ってしまいましたが、純平さんが約10年前に乗っていた
日産ブルーバードをきっかけに知り合いました。

当時、私は高校生で、通学のためにH駅を使っていました。

駅横に停まっていたブルーバードがいつも気になり、たまたまブルーバードをイジっていた時に、声を掛けたのが始まりでした。

約1年前に、自分もブルーバードのオーナーとなりネットで調べていた時に、純平さんのブログを見つけ、約10年振りに再会しました。

その時に、シート2脚と競技用のシートベルト、momoステアリングを譲ってもらいました。

今は車両買い換えの為、別なオーナー様の所にブルーバードはありますが、ステアリングとシートベルトは保管してあります。

大友浩平さんのブログをたまたま見付け、純平さんの訃報を知りました。
このブログが無かったら、仏壇に手を合わせることも、ブルーバード引き渡し前日に純平さんの元に行けなかったと思うと、偶然が重なりあっているんだな…と、思っております。

長文ならびにまとまりのない文面で、申し訳ありません。
14. Posted by 大友浩平   2011年12月03日 00:51
コメント、ありがとうございます。
ブルーバードつながりの知人さんのことは母親から聞いていました。
遠いところ、わざわざ実家に足を運んでいただいてありがとうございました。
私はZ20ソアラが好きで乗っていましたが、弟はとにかくあのブルーバードが大好きでした。
両親のために(あと私のためというのもあったようですが)エスティマを買うという決断をしなければ、きっと今も乗り続けていたと思います。
その意味で、パーツをもらってくれる同じブルーバードが好きな人がいて、本当によかったと思います。
あのブルーバードのことを熱く語り合える友人は、私の知る限り弟の周りにはいなさそうでしたし(笑)。
これからもぜひ楽しんで車に乗ってくださいね。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔