2011年09月06日 

東北の歴史のミステリーその25〜藤原泰衡の子は3人いた?

090828-174639 以前、泰衡の子が山形県酒田市に逃れてきたのではないかということを書いた(ここここここ)。その後、さらに調べてみるとより詳しいことが分かった。庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授三年(1377)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」とのことである。

 実際、因島(旧因島市は合併して現在は尾道市)には藤原泰高(康高)の伝承があるようである。例えば耳明神社(みみごじんじゃ)がそれである。ブログなどでもその名が現れたりしているので(参照サイト)、因島の人にとっては藤原泰高は馴染みのある人物のようである。

 ただ、「最上川河口史」にある、泰高が開拓したという「津軽の外ヶ濱」の「牧畑」とはどの辺りなのか分からない。青森県内には該当しそうな地名が見当たらないのである。単なる推測だが、「外ヶ濱」の「牧畑」は津軽ではないのではないだろうか。例えば、隠岐の西ノ島町には「牧畑」があって(参照サイト)、「外浜」という地名がある(参照サイト)。ここでは「牧畑」は地名ではなく、「畑を区切り放牧と耕作を輪換する畑」のことだそうだが、想像を膨らませれば、ひょっとすると泰高は隠岐の外浜を開拓したのかもしれない。さらに言えば、隠岐は知っての通り、かつては流刑地だったので、ひょっとすると泰高は鎌倉に見つかって命は助けられたものの隠岐に流されたのかもしれない。その後赦されて熊野に移り住んだ可能性もある。

 泰衡の子については、実は酒田市以外に平泉から北に70km弱のところに位置する岩手県紫波町にも伝承がある参照サイト)。現在の紫波町は当時、奥州藤原氏初代清衡の孫の樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟が治めていた。兄弟の館である樋爪館は五郎沼の近く、現在の紫波町立赤石小学校の場所にあったとされるが、この五郎沼の名前の由来は、五郎季衡が幼い頃によく泳いで遊んだことからつけられたという。

 太郎俊衡は文治五年奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。

 「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。

 岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは吾妻鏡にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。

 つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内(系譜には「佐比内」とあるがこれは紫波町内にある地名であり吾妻鏡の記載にある秋田県の「比内」の誤りではないだろうか)で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は13歳だったことになる。

 ここで注目すべき記述がある。「岩手県史」で紹介されている系譜の「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ」という記述である。一人は秀安であるとして、もう一人は誰だろうか。「岩手県史」の編者はこの「二子」を時衡と秀安のこととしてさらっと流しているが、兄時衡は父泰衡と行動を共にしたわけであるから、「俊衡ニ委」ねられたのが時衡のことでないのは明らかである。そこで思い出されるのが、酒田に逃れたという泰高である。すなわち、俊衡に委ねられたのは、秀安、そしてもう一人は泰高のことだったのではないだろうか。

 一旦俊衡に預けられたうちの一人がなぜ酒田に逃れたのか。恐らく俊衡は、二人とも見つかった時のことを考えたのではないだろうか。万が一泰衡の二人の子が同時に幕府に見つかって殺されでもしたら、奥州藤原氏の血統が途絶えてしまう。そう考えて、一人は自分の元に置き、もう一人は徳尼公と36人の家臣に託して遠くに逃れさせたのではないだろうか。それが酒田に落ち延びた泰高ではなかったかと思うのである。

 さて、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社に関する伝承にも泰衡の子のことが出てくる。奥方は夫泰衡の跡を追い子供3人と侍従を連れて現在西木戸神社のある地までやって来たが、泰衡は既に4日前に河田次郎に殺されたと知り、悲嘆のあまり子供を従者に託して自害したというのである。西木戸神社にある説明板には3人の子のことは出ていなかったが、一部にはそのような伝承もあるようである(参照サイト)。

 そうすると、泰衡の子は、時衡、秀安、泰高、それに西木戸神社までやってきた3人の子と、合わせて6人もいることになるが、さすがにこれは多すぎのような気がする。泰衡の父秀衡には泰衡を含めて6人の子(国衡、泰衡、忠衡、高衡(または隆衡)、通衡、頼衡)がいたことが分かっているが、秀衡は66歳まで生きたとされる。対して泰衡は35歳(25歳という説もあるがそれだと時衡が20歳で討死というのと計算が合わない)で死んでいる。そう考えると、泰衡の子はやはり最大でも時衡、秀安、泰高の3人で、西木戸神社に伝わっている3人の子というのはこの3人のことを言っているのではないだろうか(従って、3人の子は泰衡の奥方と行動は共にしていなかったことになる)。ついでに言えば、これまでの情報を整理すると、長男は時衡(文治五年奥州合戦時に20歳)、次男が秀安(同じく13歳)、三男が泰高(同じく10歳未満)ということになる。

090828-174248 上の写真は五郎沼である。中島もあって、俊衡が治めていた頃は浄土庭園だったのではないかという気もしている。同様の見方をしている方は他にもおられるようである(参照サイト)。五郎沼の案内板には五郎沼に隣接して樋爪館と大荘厳寺があった様子が再現されている(右写真参照)。これを見ると、当時の樋爪館周辺は、「ミニ平泉」とでも言うべき街並みがあったことが窺える。

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この記事へのコメント

1. Posted by はぐりん   2011年09月13日 21:32
はじめまして。楽しく拝見させていただいてます。

つい先月初めて平泉に行くまで、私も泰衡については世間一般の人とだいたい同じように(?)思っていましたが…
ひょんなきっかけから、「ん?冷静に公平に見てみると違うんじゃないかな?」と思うようになりました。
ほんとにこの人、不当に評価されすぎだと思います。そしてこの人に対するみなさんの言葉遣いの思いやりのなさといったら…

奥州藤原氏に興味を持って、『炎立つ』などを読んだり、歴史を学んだりするうちに、どうしてかわかりませんが、いつの間にかすっかり泰衡の味方になってしましました(笑)
「暗愚」「裏切り者」などとレッテルを貼って、みなさん好き勝手言ってるような気がして、憤りを覚えることも多々あります(^^;)
その背景には、国民的ヒーローたる義経と、彼を保護した秀衡を贔屓する心理が根強くあると思われるため、これを変えるのはなかなか難しいとは思いますが…

これからも楽しみにしております。
2. Posted by 大友浩平   2011年09月13日 23:03
はぐりんさん、コメントありがとうございます。

そうなんですよね、泰衡はあの貴族社会から武家社会へと変わる激動の時代の中、やれることを精一杯やったんだと私も思います。
「炎立つ」じゃないですけど、泰衡はいかに陸奥・出羽をそのまま残すかに心を砕いたのではないかと思います。

平泉しても、泰衡が立て籠もっての徹底抗戦をせずに撤退したからこそ、灰燼に帰すことなくそのまま残ったわけですし。
今、こうして平泉の遺跡が世界遺産になることができたのも泰衡のお蔭とも言えると思います。

泰衡はお母さんが京都の殿上人である藤原基成の娘ですけど、何と言うか、東北人らしさを一番備えていた人のようにも思います。

お互い、泰衡の名誉回復のために頑張りましょう(笑)。
これからもよろしくお願いします。

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