2012年02月09日 

東北に関係する書籍その5〜「東北独立」を扱った小説

i_std_bsc_02_1-1a 上巻の白眉が先に紹介した、地方自治についての憲法解釈を巡るやり取りだとすると、下巻、そして本小説全体の白眉はもちろん、野上青森県知事による東北地方の「独立宣言」である。小説の中では、野上知事がテレビとラジオで緊急会見を開き、それを宣言している。首都圏を目指したおびただしい数の東北地方の難民が、難民受け入れ拒否を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した直後のことである。以下がその全文である。

 故郷を捨てた難民のみなさん。

 これから、わたしの述べることを、心して、聴いていただきたい。これは難民となって異郷を彷徨(さすら)うみなさんだけではなく、東北地方の全住民に聴いていただきたい。

 わたしは、昨日、難民受け容れを拒否するとの都知事声明を聴いた。それにつづく、沿道各県県知事の声明も聴いた。わたしは、そのことを予測していた。予測はしていたが、わたしの力では流民、難民となって旅立つひとびとを喰い止めることができなかった。いま、総数で百五十万を超すひとびとが故郷を捨てている。わたしは、都知事声明を聴いて、泪を流した。入都を拒否され、国道以外の通過はならぬと各県から通告されたみなさんは、わが同胞である。

 今日、難民と警視庁との激突も、聴いた。みなさんの攻撃は失敗に終わった。怪我人が二百余人。死者が三十二人。その他、荒川の水に消えた者がかなりある。極秘の警視庁情報だ。

 みなさんの敗北は最初から予想できた。三浦都知事は綿密な計画を樹(た)てていたのだ。すでに入都している六十万人の難民に専門家をまぎれ込ませて、暴徒化を口族(けしか)けた。とうぜん、暴動が起こった。都知事はそれを背景に、難民受け容れ拒否を断行したのだ。

 諸君には死の行進が課されている。現在、五本の国道を埋めた難民の数は約六十万人だ。都知事および、沿道各県知事は、六十万人の難民に死を宣告した。親を、子供を、犬猫を抱いた諸君は、飢えに苦しめられ、妻や娘を売りながら、ふたたび歩いて荒れはてた故郷に向かわねばならない。諸君に死を宣告したのは、なにも都知事、各県知事だけではない。もっとも諸君に無情だったのは、中央政府だ。政府が難民受け容れ対策をたてさえすれば、このような悲惨な状態にはならなかった。

 中央政府の東北蔑視は、いまに、はじまったことではない。

 わたしは、ここで過去に触れざるを得ない。

 わが東北地方は、明治絶対政権誕生前夜に、中央と生存を賭けて戦ったことがある。いわゆる、戊辰戦争だ。一八六七年。将軍徳川慶喜の大政奉還と同時に、薩長土は王政復古の宣言を行なった。時の京都守護職であった会津藩主松平容保が徳川家に味方したのは許せないというのが、口実だった。だが、それは口実だ。本音は東北地方諸藩を武力で叩きのめすことにあった。叩いて、ひれ伏させないかぎり、維新以降の主導権確立が危ないとみたのだ。当時の書簡で木戸孝允は、こう、述べている。<確乎、御基礎の相立候事、戦争より良法ござなく……太平は誓って血をもってのほか買求め相済まざるものと思考仕り候>と。

 薩長土は、松平容保死罪、庄内藩主酒井忠篤は領地没収との方針をたてた。朝廷より奥羽鎮撫総督をいただき、大山格之助、世良修蔵などを参謀として、進軍を開始した。東北諸藩に対しては会津、庄内両藩討伐令が下った。だが、東北諸藩は従うはずがなかった。逆に、明治元年に東北諸藩は奥州白石に集まって同盟を結んだ。

 四月十九日。世良参謀を斬った。そして、五月、仙台で東北二十五藩の大同盟が成った。さらには越後諸藩も加えて、奥羽越大同盟となったのだ。奥羽越大同盟は輪王寺宮法親王を擁立して<東武皇帝>と称し、東北地方の独立を宣言した。年号も、大政元年と改めた。諸外国に独立宣言を発し、ここに敢然と中央政府に独立戦争を挑んだのだ。

 だが、戦いは敗れた。六月にはじまり、十月に終わった。敗因は三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった。何よりも、農民の協力拒否が敗北につながった。東北地方の自然条件はきびしい。農民は戦争どころではなかった。戦争は階級の争いである。自分たちには無縁だとみた。

 しかし、わたしにいわせれば、当時の農民の戦争拒否は残念だった。戦わねばならなかったのだ。全住民が挙げて、奥羽越同盟軍に馳せ参じるべきだった。戦いを放棄したばかりに、明治政府に隷従する身となった。ここに、中央政府の東北地方蔑視がその芽をふいたのだ。

 明治政府は富国強兵を方針とした。富は関東以南に築き、強兵は東北地方に求めた。

 無数の東北地方の若者が戦いの最前線に送られて、死んだ……。

 たとえば、ここに、一つの資料がある。

 明治二十五年に完成した林野行政による、官有林、民有林の区分だ。例をとる。奈良県の民有林は九十九・七パーセント。官有林は、わずか〇・三パーセントしかない。わが東北地方はどうか。官有林が宮城県で六十六パーセント。山形県八十三パーセント、福島県八十パーセント。秋田県はじつに九十四パーセントだ。そして、青森県。ここは九十七パーセントが官有林に没収されておる。

 農民は完全に山林から締め出された。中央政府によって生活の根拠を断ち切られたのだ。それまでは自由に木の枝や下草を取りに入山したのが、いっさい禁止された。当時の大林区署・小林区署、つまり、営林署の役人が警官と同じ支度であったのは、入山者を取り締まるためであった。東北地方の農業経営には山林原野が最重要であった。そこから飼料肥料の供給をたえず仰いでいたのだ。生活の根を絶たれた農民は、土地を捨てて都会に出るしかなかった。富国を急ぐ政府には、産業を支える低賃金労働者が必要だった。中央政府は東北地方の山林を国有林として農民の生活を奪うことで、労働力を得ようとした。

 幾多の婦女子が売られ、男は戦場にて、死んだ。

 都会に出た学業もなく、技術もない東北県人は、賤民として扱われた。ひとたび恐慌が襲うと、真っ先に馘(くび)を切られた。故郷には水呑み百姓の父母がいる。そこに戻れば喰えるだろうというのが、政府のことばだった。<今日の経済を考えるとき、人間の力で失業者を防ぐことはできやしません。とうぜん不景気は来る。失業者はできるのです。それはもう、わたしは当然だろうと思う。すこしも不思議はない>大蔵大臣井上準之助はそういった。内務大臣安達謙蔵は、こういった。<東北地方人の失業は、失業にあらず、帰村すればそれで済むのだ>と。また、雑誌「改造」の座談会で、こうも述べている。<そこは東洋流の家族制度のおかげで欧米とはよほどちがうのですね><失業手当てなどやると、遊民、惰民を生じるから、そういう弊害を極力防ごうと考えている。いかに日本の政府が民衆政治になったからといって、民衆におもねってそういうことをしたら、百年の禍根を残すと思うのです>と。

 賤民は故郷に追い返された。

 妻の身売り、娘売りがつづき、子供を買う最上婆アがあらわれた。東北地方の歴史はこの身売りにつきまとわれている。

 いまも、諸君は、わが妻や娘を沿道の男たちに売りながら南下している……。

 中央政府は、東北地方住民が貧しいのは土地が狭いからだと、定義した。その定義は満州占領の布石だった。広大な満州へはばたけと、大宣伝をはじめた。そして、若者はぞくぞくと満洲に渡った。政府の真の狙いは現地調達できる兵力にあった。

 話を現時点に進めよう。

 日本の高度経済成長が緒についた昭和三十六年、政府は、農業基本法を制定した。農業従事者と他産業従事者の所得格差をなくするための法律だとある。一戸当たり二・五ヘクタールの耕地があれば、他産業従事者と同じ所得があげられるから、小規模農家はやめろといった。そして、工場を東北地方に大量進出させた。これが、経済成長を遂げさせる基盤になった。その結果が貿易収支の黒字となり、その見返りとして諸外国の余剰農産物が法外な安値でどんどん入ってくるようになった。

 政府は稲作の減反を命じた。

 アメリカ産の飼料を使って家畜を飼えという総合農政がはじまったのだ。


 ――諸君は故郷を捨てた。巨大な難民の群れとなって、南下した。そこに諸君を待ち受けていたものがなんであったか。中央政府の壁だ。抜きがたい東北地方蔑視の壁だ。飛蝗来襲と同時に中央政府は東北地方から備蓄米を運び去ろうとした。そして、六千億の援助で、われわれを見捨てた。諸君の飢えは、だれも考えない。明治以来、中央政府は一貫してその棄民政策を取りつづけている。それでも、諸君は東京にさえ入ればなんとかなるだろうとの、幻想をいだいた。その諸君を待ち受けていたのは、警察力によるシャットアウトだった。諸君は幻想を打ち破られた。いまは、醒(さ)めるべきだ。すでに、その時がきている。

 わたしは、ここに、諸君に要請する。

 北に帰りたまえ。

 歩けない者は協力して連れ戻りたまえ。夫は、妻を沿道の男に差し出すのは、やめることだ。いかに苦しくとも、盗みはするな。犯罪は起こすな。全員で協力し合うことだ。落伍者は出すな。故郷まで、いかに遠かろうとも、自身の足で歩いて戻ることだ。

 わたしは、再度、要請する。

 諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。

 百五十万難民に、要請する。北に帰りなさい。

 諸君の安住の地は、北にしかない。

 故郷に戻りさえすれば、わたしが、諸君の食糧は保証する。

 わたしは、ここに、東北六県知事会を代表して、宣言する。われわれは、日本国から独立する。

 この大演説を聞いた、打ちひしがれた東北地方の難民たちの様子を作者はこう描写している。

「ことばにならない声が、国道を埋めた。透明で巨大な何かが、雨の国道を、難民の間を、走り抜けた。
 どよめきが野上高明の声を掻き消した。
 ボリュームはいっぱいに上げてあるが、それでもどよめきに掻き消された。
 号泣が湧いた。
 だれもかれもが、泣いていた。他人の目をはばかる者はなかった。何万という男女が、闇の底で泣き伏した」


 この野上知事の演説の中では、明治以降東北が置かれてきた状況が浮き彫りにされている。その中で、私もこれまで知らないでいたことがある。官有林と民有林の比率の件である。東北地方と他地域との間にそれほど割合に差があるのだとすれば、それは明らかな不均衡・不平等以外の何物でもない。現代ではどうなっているのか。そこで早速調べてみた。データは「2010年世界農林業センサス報告書」の第7巻「農山村地域調査報告書−都道府県編−」にある。結論から言うと、この小説中で野上知事が挙げているのは明治時代のことであり、現在ではそこまで極端な差ではないが、依然として西日本と比べて東北地方の国有林比率は高い。なるほど、明治維新以降の東北地方の貧しさは単に気候的な問題ではない、そのような政策的な理由もあったのかと勉強になった。

 例えば、演説中で例に挙げられている奈良県では、現在でも現況森林面積283,900ha中、国有林は12,701haで4.5%、民有林は271,199haで95.5%を占める。これに対して、東北各県を見てみると、青森県は615,064ha中、国有林375,903ha(61.1%)、民有林239,161ha(38.9%)、岩手県は1,147,152ha中、国有林360,716(31.4%)、民有林786,436(68.6%)、宮城県は408,510ha中、国有林121,793ha(29.8%)、民有林286,717ha(70.2%)、秋田県は820,640ha中、国有林373,509ha(45.5%)、民有林447,131ha(54.5%)、山形県は643,395ha中、国有林329,653ha(51.2%)、民有林313,742ha(48.8%)、福島県は936,128ha中、国有林372,449(39.8%)、民有林563,679(60.2%)と、明治時代よりは比率が下がっているものの、依然西日本に比べて高い割合を占めている。それが目で見て分かるのは、「私の森.jp」の中にあるこのページの図(上の写真)である。

 震災復興を巡るこれまでの動きを見て分かったことがある。「中央政府」は地方に財源や権限を譲り渡す意思は微塵も持っていない、ということである。未曾有の大震災に際してさえそうなのだから、平時にそうした議論が進むと考えるのは望むべくもないのだろう。

 野上知事の「独立宣言」、フィクションの話でありながら、同じ東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 東北地方人たる名誉を守れ。
 自分の足で大地に立て。
 東京都に未練を抱くな。
 中央政府に幻想を抱くな。
 たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな。


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