2012年05月28日 

東北の歴史のミステリーその27〜高衡の足跡を追う

090608-161345 藤原高衡(隆衡とも書く)は奥州藤原氏三代秀衡の四男である。これまでも紹介したが、奥州藤原氏の最盛期を築いた秀衡には国衡(西木戸太郎)、泰衡(伊達次郎、泉冠者)、忠衡(泉三郎、泉冠者)、高衡(本吉冠者、本吉四郎)、通衡(出羽冠者、出羽五郎)、頼衡(錦戸太郎)の6人の息子がいたとされる。

 これらの息子の通称については資料によって混乱もあって詳細はよく分からないところがある。「尊卑分脈」では五男の通衡に「泉三郎」が冠せられて三男の忠衡は「泉冠者」となっているが、泰衡に「泉冠者」を冠している資料もある。五男に「三郎」は妙である。六男頼衡の「錦戸太郎」は読みが同じ国衡に冠せられている資料も多い。そもそもなぜ六男の頼衡が太郎と呼ばれているのかも不明である。

 なお、五男の通衡、六男の頼衡については「吾妻鏡」にもその名が見えず、資料に乏しい。通衡については、明治初期に著された「平泉志」には一説に「仙北五郎利衡」という名も見られることが指摘され、また「尊卑分脈」では出羽押領使であったとの記載があるが、吾妻鏡には泰衡が陸奥と出羽の押領使を継いだとあるから、通衡が出羽押領使であったとの記載が事実かどうか疑問である。ただ、出羽冠者、あるいは仙北五郎という称号から(仙北は秋田県南地域を指す)、出羽方面に何らかの関わりを持った人物であろうことは推測できる。

 頼衡については、「平泉志」では「頼衡あるは信ずるに足らず」とされ、秀衡の子息は5名とされているが、一方で岩手県紫波町の小屋敷地内には錦戸太郎頼衡の墓と伝えられる自然石の角柱がある。当地に伝わる話では、頼衡は父秀衡の死後、源義経に通じたことから兄泰衡との間に不和を生じた。身の危険を感じた頼衡はひそかに平泉を脱出して、北方に逃走したが、現在の紫波町と雫石町の境にある東根山(あずまねやま)の山麓で追手に捕えられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳だったとされる。これをあわれんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓だとのことである。また、以前も紹介したが、青森県の旧浪岡町(現在の青森市浪岡町)には、頼衡が兄泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京太夫と名乗ってこの地を支配、津軽浪岡氏の祖となったとの伝承が残っている。

 さて、知っての通り、奥州藤原氏は文治五年奥州合戦において滅亡してしまった。長男国衡は阿津賀志山の戦いで敗走する途中で討ち取られ、次男で家督を継いだ泰衡は平泉から比内(現在の秋田県大館市比内町)まで逃れたところで家臣の河田次郎の裏切りにあって殺された。三男の忠衡はこれより前、義経に与したとして泰衡に討たれた。六男の頼衡も「尊卑分脈」では忠衡同様に泰衡に討たれたとされる。五男の通衡は消息不明である。一方、高衡は文治五年奥州合戦の際に最終的に投降し、相模国に配流となったが合戦後も生き残った

 秀衡の息子たちがそれぞれ東北のどの地域を拠点としていたのかについては、高衡以外必ずしも明確ではない。ただ、長兄である国衡については、大日堂舞楽で知られる秋田県鹿角市の大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)に、秀衡が国衡を奉行として大日堂を修復・再建させたとの言い伝えが残っている他、以前紹介した泰衡の奥方を祀った西木戸神社の名前の由来が、一帯が西木戸太郎と呼ばれた国衡の采邑地であったためと説明されているところから見ても、現在の秋田県鹿角地域を基盤としていた可能性がある。実際、鹿角地方には尾去沢鉱山があり、秀衡の時代から金が産出していたとされるので、産金地域であるこの一帯を国衡が押さえていたということは十分考えられる話である。

 次男の泰衡については、伊達次郎と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は三男忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治五年奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。

 三男の泉三郎忠衡については、宮城県塩竈市の鹽竈神社に、忠衡が寄進したとされる燈籠が現存している。「文治の燈籠」と呼ばれている鉄製の燈籠がそれである。松尾芭蕉が「奥の細道」に書き残したところによると、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあったそうである。忠衡がこの鹽竈神社のある地域と関連を持っていた可能性も考えられる。塩竈市は、古くは陸奥国府があった多賀城への荷揚げ港として栄えている。もし忠衡がこの地域と深い関わりを有していたのだとすれば、対国府の折衝などを担っていた可能性もある。

 ちなみに、この文治3年(1187年)という年は、奥州藤原氏にとって激動の年であった。まず2月に兄頼朝に追われた源義経を迎え入れた。その後4月には頼朝から秀衡に宛てて三万両という膨大な金の供出を求める書状が届いている。頼朝が平泉に対して圧力をかけ始めたことが見て取れる。秀衡はこの要求を拒絶している。また、この燈籠が寄進された後の9月には義経を匿っていることが知られ、頼朝の要請を受けた院庁からそれについての下文(くだしぶみ)が出されている。その翌10月にはなんと当の秀衡が病に倒れるのである。こうした刻々と変わる状況の中、忠衡はどのような思いでこの燈籠を寄進したのだろうか。

 五男の通衡については先述のように、出羽地域との関わりが考えられる。ただ、長兄の国衡が鹿角という一地域を押さえていたのだとすると、それに対して五男の通衡が出羽全域を押さえていたとは考えにくいことではある。六男の頼衡についてはまったく資料がない。紫波町に残っている伝承通り、文治五年の時点で16歳前後だったとすると、まだ特定の地域を基盤として持っていなかった可能性はある。

090608-161909 さて一方、四男の高衡については、本吉冠者あるいは本吉四郎と呼ばれている通り、ほぼ間違いなく宮城県の沿岸北部の本吉地域を基盤としていたことが伺える。実際、本吉地域には今も高衡に関する伝承があちこちに残っている。まず、本吉郡南三陸町志津川にある朝日館跡写真上)は、高衡の館跡とも伝えられている。朝日館跡の案内板には「藤原秀衡の四男本吉四郎高衡は本吉庄の荘園管理のため、ここ朝日館を根拠とした(1180年頃)と伝えられ(古城書上、封内風土記)、古来本吉金をはじめとする諸物産の重鎮となった所である」とある。志津川の南西に位置する標高372mの保呂羽山(ほろわさん)の山頂には保呂羽神社があるが、この神社には高衡が尊崇した旨の言い伝えがある。やはり南三陸町志津川にある大雄寺(だいおうじ、写真中)は高衡によって開基されたと伝えられている。また、荒沢神社には平泉の中尊寺で作成された紺紙金泥経の一巻が伝えられており、平泉との強いつながりを窺わせる。

 南三陸町と北隣の気仙沼市とにまたがる標高512mの田束山(たつがねさん、写真下)は古くから霊峰として知られ、三代秀衡が篤く信仰した山と伝えられる。安元年間(1175〜1177)に秀衡によって再興され、山上の羽黒山清水寺、山腹の田束山寂光寺、北嶺の幌羽山金峰寺などは七堂伽藍の壮麗な構えとなり、新たに七十余坊を設けたと言われる。この時代、山中には大小の48の寺院があり、坊は旧来のものと併せて100を越えたとされる。そして、秀衡は高衡に命じて山神祭礼を司らせたと言われる。山頂には平安時代末期のものとされる経塚が現存し、やはり平泉との深い繋がりが見て取れる。このように本吉地域には高衡や奥州藤原氏に関する伝承が数多く残っているのである。これほど奥州藤原氏に関する伝承が多く残っている地域は、平泉を除けば他にはないのではないかと思う。

090608-175506 本吉地域にはまた、産金遺跡も数多く残っている。秀衡が高衡にこの地を治めさせた大きな理由の一つがこれだったのではないだろうか。国衡の采邑地と伝えられる鹿角地域と同様に、秀衡は東北の主な金の産出地については自分の息子などに直接統治させていたということが考えられる。

 この高衡が歴史上表に現れた場面を見てみると、まず義経が木曾義仲と戦った宇治川の戦いにおける梶原景季と佐々木高綱の有名な先陣争いの場面である。「源平盛衰記」には、この2人が先陣を争って乗っていた馬がいずれも「陸奥国三戸立の馬」で、「秀衡が子に元能冠者が進たる也」とある。「元能」は「本吉」と同義で、名馬を鎌倉方に進上した人物が高衡のことであることは疑い得ない。

 その義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、吾妻鏡では新田冠者高衡と伝えているが、この人物もまた高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと考えられる。

 本吉地域には当時本吉荘という荘園があり、本吉冠者の名を持つ高衡がその荘司を務めていた可能性もある。この本吉荘、奥州藤原氏について言えば、二代基衡との関わりでよく知られる。当時本吉荘は藤原摂関家領だったが、「悪左府」と呼ばれた左大臣藤原頼長(大河ドラマ「平清盛」にも現在登場中である)が、本吉荘を含む東北にあった自分の5つの荘園の年貢の大幅な増徴を命じた。これに対して基衡は5年以上に亘って頑として首を縦に振らず、結局頼長が当初の要求よりも上げ幅を大幅に小さくしたことでようやく両者の交渉が妥結した、という話である。頼長が保元の乱で敗死した後、本吉荘は当時の後白河上皇の後院領となったため、高衡は院ともつながりを持っていた可能性が強い。

 こうしたことを考え合わせると、高衡は奥州藤原氏の「対外交渉」的な役割を担当していた人物であったとも考えられるように思う。

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