2012年05月30日 

東北の歴史のミステリーその28〜高衡の足跡を追う

111007-165831 文治五年奥州合戦において、高衡は、兄の泰衡が9月3日に河田次郎に殺害された後、頼朝の陣に投降する。9月18日のことであったという。高衡の投降を以て、奥州藤原氏の残党はことごとく捕虜となったこととなった、と同日の吾妻鏡には記されている。いわば高衡の投降は、文治五年奥州合戦に終止符を打つものであったわけである。8月7日に阿津賀志山で両軍の合戦が始まってから投降するに至るまでの高衡の足取りについては、鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」には記載がないが、仙台市の近辺に伝承としては残っている。

 仙台市の南隣、宮城県名取市に高舘山(たかだてやま)という標高204mの山がある。「高舘」という名前から義経のことを連想させ、実際義経がこの山に逃れていたという伝承もあるが、奥州藤原氏に関する伝承の方が地元ではよく知られている。伝承によれば、奥州藤原氏三代の秀衡はこの高舘山に城を築いたという。高舘城と呼ばれるこの城の遺構は今も確認され、東西400m、南北500mに亘って空堀や土塁、郭などの跡が見られる。一帯のうち、南に張り出した一角は今も「秀衡が崎」という名で呼ばれている。

 江戸時代の文化8年(1811年)に成立した「嚢塵埃捨録」には、文治五年奥州合戦の折、本吉四郎高衡と日詰五郎頼衡、名取別当の金剛坊秀綱が高舘城に籠り、2万の兵で鎌倉軍を迎え撃ったとある。高衡と共に高舘城に籠ったとされる日詰五郎頼衡という人物については、日詰五郎という名前からは以前紹介した五郎沼の名前の由来とされる樋爪五郎季衡を連想させるが、頼衡という名前は秀衡の六男の名前でもある。しかし、前回も紹介したように「尊卑分脈」によれば頼衡は文治五年奥州合戦の前に泰衡によって討たれたことになっているので、高舘城に籠った人物はその頼衡ではなく、日詰という姓が冠せられていることから、樋爪一族の誰かであったと考えられる。また、名取別当の金剛坊秀綱については、阿津賀志山の戦いの時に国衡と共に鎌倉軍を迎え撃った金剛別当秀綱と同一人物と思われるが、吾妻鏡によれば金剛別当秀綱は阿津賀志山の戦いで討ち取られたことになっている。

 ただ、吾妻鏡の記述には混乱も見られ、やはり討ち取られたことになっている佐藤庄司基治が、合戦後赦免されたとの記述もある。基治については、吾妻鏡以外の書物でも「信達一統誌」では生け捕りの後赦免され、後に大鳥城で卒去したとあり、「大木戸合戦記」にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある一方、「観述聞老志」や「封内名蹟志」では文治五年奥州合戦で戦死したとあり、真相は不明である。従って、金剛別当秀綱についても、阿津賀志山で戦死せず、逃れて高衡の籠る高舘城に合流した可能性はあると言える。

111007-172243 ちなみに、この高舘山には熊野那智神社もある。名取市高舘地区には他に熊野新宮社と熊野本宮社があり、紀州同様、熊野三山が揃っている。文治五年奥州合戦の折、「泰衡一方後見」と記される熊野別当、そして名取郡司が捕縛され、後に放免されているが、この名取という地域、そして熊野神社も奥州藤原氏を支えた一勢力であったことが窺える。

 「平泉志」には、「本吉冠者隆衡は数箇所に奮戦し、平泉没落の際に俘虜となりて降を請ひければ(文治五年九月十八日)、鯆卿其武勇を愛惜せられて死を免し相模國に配流せらる」とある。高衡が相模国に配流となったことは吾妻鏡にも記載があるが、それ以外のことについては吾妻鏡にはない記載である。高衡が流罪で済んだのは以前にも書いたが、前九年の役を忠実になぞった頼朝の意図によるところが大きいと思うが、この「平泉志」の記載が事実であれば、高衡は文治五年奥州合戦で高舘城での戦いだけでなく何度か転戦し、しかも頼朝からその武勇を惜しまれるくらいの戦いぶりをしたということになる。

 相模国に配流された高衡のその後については吾妻鏡などにはしばらく記載がないが、文治五年奥州合戦から12年後に起こった建仁の乱(1201年)の際に突如その名前が登場する。

 頼朝の死後、梶原景時が鎌倉から追放され、その後一族共々討たれるという、世に言う「梶原景時の変」(1199年〜1200年)が起こる。梶原景時と言えば、源義経を讒訴して失脚に追い込んだとされ、またいずれ書こうと思っているが、文治五年奥州合戦で捕虜となった平泉方の由利八郎にも横柄な態度を取って由利八郎を激怒させるなど、とかくネガティブなイメージがつきまとう。義経好きだった子どもの頃の私にとっても、梶原景時はとにかく大悪人で、「景時が義経のことを讒言しさえしなければ義経と頼朝が仲違いすることもなかったのに」などと思っていたものである。しかし、今にして思えば吾妻鏡などに景時のことが悪く書かれているのは、何よりその後の「梶原景時の変」を正当化する意図もあっただろう。元々景時自身が平家方から源氏に寝返った経歴を持つからか、そうした世のイメージとは裏腹に、景時には敗者に対する寛大さも窺える。その証左は城氏に対する処遇である。

 建仁の乱は、梶原景時が討たれた1年後、城長茂ら城氏一族が幕府打倒を図って起こした乱である。城氏は越後を拠点としていた豪族で、遡れば平氏に連なる。城氏という名は秋田城介を務めた家柄であることに由来するという。源平合戦(治承・寿永の乱)の折、源氏への背後からの牽制のために藤原秀衡が陸奥守に任ぜられたが、同じ時に同じ理由で城資永が越後守に任ぜられている。城長茂はその資永の弟である。城長茂は、藤原秀衡がその後も平泉を動かずに「武装中立」を維持したのとは対照的に、急死した兄の跡を継いで平家方として源氏の木曾義仲と戦ったがあえなく敗れた。平家滅亡後は囚人となったが、文治五年奥州合戦では頼朝に従い、それを契機に御家人に列せられた。

 この城長茂を頼朝に仲介して取りなしたのが梶原景時であったのである。文治五年(1189年)の7月19日、まさに頼朝が奥州藤原氏征伐に出発する日のことである。吾妻鏡によれば景時が頼朝に「城四郎長茂は無双の勇士です。今は囚人となってはいますが、このような時にこそ連れて行くべきでしょう」と進言して、頼朝の同意を得ている。それを長茂に伝えたところ、長茂は大いに喜んで頼朝に付き従ったという。頼朝は、長茂が囚人で旗印がないのではないかと考えて自分の旗印を貸与しようと伝えるが、長茂は自分の旗印があるからとこれを断り、そばにいた家臣に「この旗を見て、散り散りになっている私の家臣達がきっと集まってくるだろう」と言ったという。城長茂にとって文治五年奥州合戦は城氏の再興を図るまたとない機会となったのである。

 従って、城長茂は景時に対して並々ならぬ恩義を感じていたに違いない。建仁の乱が景時が討たれて1年後に起こっていることから見ても、長茂が最初に襲撃したのが有力御家人を結集して「景時糾弾訴状」を作成した結城朝光の兄小山朝政の宿館であったことから見ても、この挙兵は景時の仇を討つという側面があったのではないかと考えられる。

 そして、この城氏が起こした建仁の乱に、なんと高衡も加わっているのである。城氏は、奥州藤原氏にとってはこの文治五年奥州合戦で敵対した間柄であるばかりか、これまたいずれ書くことがあるだろうが、秀衡の時代に会津を巡って戦ったこともある相手なのである。その両者が合力して幕府転覆を目指して挙兵するというのは俄には考えがたいことであるが、そこにはやはり梶原景時の存在があったのではないかと考えられる。すなわち、景時は、高衡に対しても城長茂同様に、配流された後の赦免を取りなしたりするなど目をかけていたのではないだろうか。そう考える理由は後述する。

 高衡は城長茂らと共に京に上った。長茂と高衡は当時の土御門天皇に幕府追討の宣旨を求めるが得られず、逆に後鳥羽上皇からは長茂追討の宣旨が出されてしまう。長茂とその一族はやむなく吉野の奥に逃れたがそこで討たれた。高衡も、父秀衡と親交があったという藤原範季の館に逃れたが、その後討たれたという。ちなみに、この藤原範季という人物は、平清盛の姪の教子を妻としつつ、頼朝の弟範頼を養育し、陸奥守や鎮守府将軍(秀衡の次の鎮守府将軍である)として東北にも下向し、頼朝に追われる身となった義経を一時匿い、幼少の頃の後鳥羽天皇を養育したという、何とも興味深い経歴を持った人物である。高衡が討たれたことを聞いた範季は嘆息したという。一方、京で長茂や高衡が挙兵するのと時期を合わせて、越後でも城長茂の甥の資盛らが挙兵した。一時は有名な坂額御前の奮闘などで幕府軍に大きなダメージを与えるが、結局こちらも幕府軍に鎮圧された。

 余談だが、後鳥羽上皇はこの後に承久の乱を起こして失敗する。もし、この建仁の乱の時に長茂と高衡に追討の宣旨を出していたらどうなっていたか興味あるところである。京と越後での同時挙兵、城氏と奥州藤原氏という名族同士の連合、これに幕府追討の宣旨が加われば、あるいは承久の乱ではできなかった反幕府勢力の糾合に成功していたかもしれない。

 さて、梶原景時の一族は、「梶原景時の変」の折に実に33名も討ち取られたそうだが、実は逃れて生き延びた者もいる。梶原景時の兄影實(かげざね)もその一人だが、影實が逃れた先はなんと現在の宮城県気仙沼市であった。気仙沼市唐桑町に現在もある早馬神社(はやまじんじゃ)は、この影實が家の脇に社を建て、源頼朝、弟の景時、景時の子景季の冥福を祈り、菩提を弔うために創建した梶原神社が始まりと伝えられる。神社の創建は、景時が命を落としてから17年後の1217年のことという。

 その後、梶原神社は景時の三男である影茂の子、つまり景時の孫に当たる影永が、影實の養子となって神職を継いだ。影永は早馬大権現を勧請し、それが現在の早馬神社となったそうである。今も気仙沼市には梶原姓が数多く残る。それは逃れてきた梶原一族がこの地に安住できたことを示している。

 この気仙沼市唐桑町、前回紹介した、高衡の伝承が色濃く残る本吉郡に隣接し、本吉金を産出した本吉郡と同様に気仙金を産出し、奥州藤原氏の黄金文化を支えたと言われる気仙郡にあった。影實が逃れてきた当時はもちろん、既にこの地域に高衡はいなかったわけであるが、恐らく高衡にゆかりの人物がまだ数多く残っていたに違いない。景時の一族がこの地域に落ち延びてきたのも、そこに定住することができたのも、その高衡との縁があったためではないだろうか。そして、それは投降した高衡を、景時が厚遇したことの何よりの証ではないだろうか。記録としては残っていないが、私にはそのように考えられるのである。

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔