2012年07月26日 

私的東北論その35〜平泉を草創した藤原清衡の願いとは(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 2 7月16日に砂越豊さんの作る電子タブロイド紙「東北復興」の第2号が発刊された。今回の号では砂越さんの石巻復興に関する渾身の取材記事が読める。げんさんの論考も大変参考になる。ぜひご一読をオススメしたい。

 その第2号に寄せた私の拙文が以下である。






 


平泉を草創した藤原清衡の願いとは

世界遺産となった平泉の意味するところとは
 前回、「東北独立」を掲げて東北が一つとなること、東北がひとつになった暁には平泉こそがその中心地にふさわしい、ということを書いた。今回はこの平泉について考えてみたい。

 昨年、平泉にある中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の六つの史跡が世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。東北では、縄文時代からのブナの森がそのまま残る白神山地が世界自然遺産に登録されているが、世界文化遺産への登録は平泉が初めてである。この「世界遺産効果」で平泉を訪れる観光客の数は大幅に増加しているそうである。

 平泉の文化遺産、登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」というものである。中尊寺を建立した奥州藤原氏初代の清衡は中尊寺を建立し、二代基衡は毛越寺を建立し、三代秀衡は毛越寺を完成させ、無量光院を建立した。中尊寺の金色堂、毛越寺の浄土庭園、無量光院越しに金鶏山山頂に沈む夕陽、いずれも浄土を表している。

 奥州藤原氏が三代揃って浄土を表す寺院を建立した、その意味するところは何だったのか。そうした寺院を建立することで自身の来世の極楽往生を願ったのだろうか。それとも、浄土はこういうものだということを示す「テーマパーク」のようなものを作りたかったのだろうか。

 世界文化遺産に登録された平泉の六つの構成遺産については、「現世における仏国土(浄土)の空間的な表現を目的として創造された独特の事例である」と説明されている。簡潔かつ的確な表現である。しかし、今に残る構成遺産は、ただ単に「浄土とはこのようなものである」ということを表現しようとしたのにとどまったのではない。奥州藤原氏は初代の清衡以降、この東北の地をそのまま浄土としたいと考えた。その祈りが込められたものこそが、今回世界遺産に登録された建築・庭園・遺跡なのである。

「中尊寺建立供養願文」が語ること
 当時の平泉は「平和」と「平等」の理念を持っており、それは世界各地で戦乱の絶えない現代にも誇れるものだった、と地元では胸を張る。なぜそのようなことが言えるのか。その根拠は今に残された「中尊寺建立供養願文」である。その中では、清衡がなぜ中尊寺を建立しようとしたか、その思いが余すところなく語られている。

 特に印象的なのは「二階の鐘楼一宇」について書かれたくだりである。この鐘楼には大きな鐘が懸けられた。その鐘について供養願文では、「この鐘の音はどこまでも響いていって苦しみを抜いて安楽を与える。それはあまねく皆平等である。官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことは、昔から今に至るまで幾多のことであった。獣や鳥や魚や貝が人に殺されることも過去から今まで数え切れない。それらの魂はあの世に去ってしまったが、その骨は朽ち、今もなおこの世の塵となっている。鐘の音がこの地を揺り動かす度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導かせよう」と書いている。

 ここに清衡の思いが集約されている。敵味方を問わない。それどころか、人であるか人でないかすら問わない。とにかく、自らの生を全うできなかったあらゆる生き物の魂を皆平等に浄土に導きたい、そう言っているのである。なんと壮大な願いであろうか。

中尊寺、奥大道、村々に置かれた寺院の意味
 そして、それが虚言空語に終わらなかったところが清衡のすごいところである。しかも、清衡の願いは、死んだ者を浄土に導くことだけにとどまらなかった。東北の地に今生きている者をも浄土に導こうとしたのである。清衡は東北の南端の白河の関(現在の福島県白河市)から北端の外ヶ浜(現在の青森県青森市)まで「奥大道(おくだいどう)」という「幹線道路」を整備した。そのちょうど 中間 に 中尊寺をつくった。その奥大道には、約一〇〇mおきに阿弥陀如来が金で描かれた傘卒塔婆を立てたと伝えられる。また、清衡の影響下にあった奥羽の一万余りの村にはそれぞれ寺院を置いた。

 余談だが、この「奥大道」という名称。なぜ「大」という名称がついているのだろうか。現代に住む我々は、ただ単に道幅の大きな幹線道路だったからだろうとしか考えない。しかし、ならば同じように「幹線道路」であった東海道や東山道も同じように「大」がついてしかるべきだが、そうなってはいない。「奥大道」のこの「大」は、仏教で「人智を超えた偉大な」という意味の「摩訶(まか)」と同義だという(摩訶不思議の「摩訶」である)。「摩訶」はサンスクリット語の「maha」の音に漢字を当てたもので、「maha」は漢訳では他に「大」「多」「勝」の字も当てられる。従って、「奥大道」は「みちのくの偉大な仏の加護に守られた道」という意味なのである。

 さて、これらはいったい何のためのものであったか。それは、この東北の地が仏の加護の下にあることを、この地に住む人々に伝えたかったのである。東北の地は古くから戦乱に明け暮れた。しかも、それは東北の地に住む者が望んで起こしたものではなく、いつも中央からの「侵略」に対する抵抗という形であった。 故なくして戦に巻き込まれて命を落とす理不尽、それがこの地に住む者にとって過酷な現実であった。

110820-130735「この世の浄土」実現への清衡の取り組み
 清衡自身も過酷な前半生を送っている。幼い頃に前九年の役で父親を殺され、母親は父親を殺した敵方である清原武貞に嫁がされた。その後起こった後三年の役では、母親がその武貞との間に産んだ異父弟家衡に自分の妻子を皆殺しにされ、自らの手でその家衡を討った。戦乱がもたらす無残さを身を以て嫌というほど味わわされたのが、他でもない清衡その人だったのである。

 清衡はだからこそ、過去から今に至るまで、そのようにたくさんの人が命を落としたこの東北の地を、丸ごと浄土にしようと考えた。浄土は来世にあるのではなく、この世から来世まで続いているものだということを、清衡は伝えたかったのである。その清衡の意図を今に伝えるものこそが、平泉の文化遺産なのである。

 清衡は、平泉に中尊寺を建立し、村々に寺院を建立してこの東北の地が浄土であることを示す一方で、東北が戦乱に巻き込まれない浄土とするための政治工作を中央に対して行った。 当時の関白藤原師実の子、師通の日記 に「清衡が初めて関白師実に馬を献上した」との記述がある。 当時、みちのくの馬は名馬として殊の外珍重された。馬だけではなく砂金も献上したと見られる。清衡からの貢物によって中央では、そのように労せずして欲しいものが手に入るのであれば、わざわざ大きな犠牲を払って戦をしなくてもよいのではないか、というように意識が変わっていったのだろう。結果として、清衡はその後もおよそ一〇〇年に亘って中央から攻められることのない、平和な東北を実現したのである。(写真は二代基衡の妻が建立したという観自在王院の浄土庭園)

110820-114954今だからこそ受け止めたい清衡の願いとメッセージ
 阿弥陀如来のいる極楽浄土は、この地から十万億土を隔てた西の果てにあるという。であるならば、極楽浄土というのはなんと遠いところにあるものだろうか。しかし、清衡の伝えたかったことは、そうではなく、「浄土というのは今ここにあるのだ」ということである。自分たちのいるこの場所が浄土だとは、なかなか実感できないことではある。しかし、我々の目に最も近いところにありながら見えないまつ毛のように、浄土も私たちのすぐそばにありながら見えにくいもの、と考えることはできないだろうか。

 そのことを伝えるために中尊寺はつくられ、清衡の遺志を継いだ基衡、秀衡によって毛越寺も無量光院もつくられた。「多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする」という清衡の願いを、そして「我々の住むこの地こそが浄土である」という清衡のメッセージを、先の大震災で大きな痛みを受けた今だからこそ、もう一度東北に住む我々は心して受け止めたいと思うのである。(写真は無量光院跡、 中央遠くに見えるのが金鶏山)


anagma5 at 21:30│Comments(0)TrackBack(0)clip!私的東北論 

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