2012年08月31日 

私的東北論その36〜東北の「国力」を知る(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 3 「東北復興」の第3号が8月16日に刊行された。今回の号では、砂越氏は東北の祭りや芸能にスポットを当てている。また、2020年のオリンピックに、東京だけでなく東北も開催地として名乗りを上げて復興を加速させるよう提言している。

 他に、今回の号からは、私の「仏友」(?)である平原憲道氏が共同代表を務める「MONKフォーラム」が立ち上げた「笑い仏プロジェクト」の連載も始まった。これは、鳥取県倉吉市の著名な仏師である山本竜門さんが作られた「笑い仏(がれき光背仏)」を地震禍と原発禍に見舞われた福島に届ける、というもので、鳥取を出て目的地である福島まで途中各地のいろいろなお寺に立ち寄り、福島の現状を伝える写真展も行って義捐金を募りつつ、いろいろな方と縁をつな ごうというプロジェクトである。

 この第3号に寄稿した拙文が下記である。
 

東北の「国力」を知る
秋の大潟村
「東北」とはどこか
 東北地方をデータで捉えた場合、どのような姿が浮き彫りになるのだろうか。今回は東北の「国力」を見てみたい。
 
 その前に、東北地方と言った場合、どこからどこまでをその範囲とするかが問題となる。一般によく受け容れられているのは、青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島のいわゆる「東北六県」を以て東北地方とする考え方である。一方、立法や行政、経済の面では、新潟を含めた七県を以て東北地方とする例も多くある。かつての「東北三法」や地方行政連絡会議法ではこれら7県を東北地方と位置付けている他、国土交通省の東北地方整備局の「東北圏広域地方計画」はやはり七県をその対象としている。東北に本社や拠点を持つ企業でつくる東北経済連合会も七県が活動エリアであり、東北電力も七県を事業地域としている。ここではひとまず、六県を指す場合には「東北地方」、七県を指す場合には「東北圏」と使い分けておきたい。

東北の秘められた実力
 さて、その「東北圏」であるが、東北地方整備局のサイトではその概要について、「東北圏は、人口約一二一〇万人、GDP四二兆円と欧州の中規模諸国(オランダ、スイス、ベルギー等)とほぼ同程度の人口・経済規模を持ち、三〇万人以上の都市は仙台市以下六市あり、国際空港や主要外貿コンテナ取扱港湾もそれぞれ複数存在しているなど、自立圏域としてのポテンシャルを有しています。人流・物流・通信・居住地移動・進学行動・企業活動といった社会経済活動において結びつきがみられ、一つのまとまりを形成しています。また、周辺道県も含めた道県境を超える広域連携の取り組み実績も多くみられます」と説明されている。
 
 国の出先機関がいみじくも指摘しているように、東北圏は「自立圏域としてのポテンシャルを有している」のである。「自立圏域」とは、「自分たちだけでやっていける地域」であるということに他ならない。その人口やGDPは欧州の中規模国に比肩しうる規模であるのである。こちらの「奥州」はあちらの「欧州」の国々と互角に渡り合える実力を秘めているというわけである。
 
 まずこのことがこの地に住む我々にとってもあまり知られていることではない。何となく、首都圏や中京圏、関西圏から見ると一歩引けを取る、遅れた地域であるかのような印象を持ちがちなのではないだろうか。肥大化した都市圏との比較はあまり意味のあることではない。日本の外に目を向けた方が、本当の姿が見えてくるようである。
 
 もちろん、問題もある。例えば歳入構成比であるが、全国平均と比べ、東北地方は歳入に占める地方税の割合が低く(全国平均三一%、東北地方一九・三%)、逆に、地方交付税(全国平均二〇・〇%、東北地方二十九・〇%)と国庫支出金(全国平均一五・七%、東北地方一七・九%)の占める割合が高い。これはすなわち、他地域よりも国の財源に依存する度合いが大きいということである。このことによって施策の自由度をより奪われている、と見ることもできる。税源移譲の問題が地方分権にとって大きな課題であることは、ここからも読み取れる。

「自給自足」ができる東北
 東北が大都市圏に比べて遅れているという印象を持ちがちな要因の一つは農業にあると言えるかもしれない。東北は産業に占める農業など第一次産業の割合が高いが、そもそもこの第一次産業という言い方も、経済発展につれて第一次産業から鉱工業などの第二次産業、そしてサービス業などの第三次産業へと産業がシフトしていくとするクラークの産業分類によるものである。この考えに従えば、農業の割合が高いというのは経済発展していないことの現れということになる。
 
 しかし、実際には一概にそうとは言えない。それこそ欧州にはオランダやデンマークなど農業立国を基本とする国がある。これらの国では第一次産業は決して遅れた産業ではない。日本で農業と言うと「衰退産業」のレッテルを貼られがちだが、欧州では農業は国際競争力を有した輸出産業である。東北も農業の成長産業化に力点を置くべきだが、全国一律の現在の農政ではなかなか進展が見られないのが現状である。
 
 宮城大学副学長の大泉一貫氏は、「農業において『余ったら輸出』というのが世界の常識だが、『余ったら生産調整』が日本の常識」と言う。まさにその通りである。氏の主張で最も同意できるのは、「東北は食料供給地域ではない」というものである。東北と言うと、まさに自他共に認める「食料供給地域」である。しかし、これからは、食料を「供給」するのではなく、味、品質共に優れた東北の食料を、日本含め世界中に売り込む、そのような意識が必要なのである。
 
 その東北の農業の実力について見てみよう。よく取り沙汰される「食料自給率」は、平成二一年度の確定値で、全国平均四〇%に対して東北地方は一〇九%であり、新潟も一〇〇%である。つまり、東北圏は「自給自足」でやっていけるのである。何と言っても食は生命活動の基本であり、それを圏域内でまかなえることの意味は大きい。もちろん、細かく見ていくと米や野菜、果物、魚介類は一〇〇%を超えている一方、小麦や肉類、牛乳・乳製品は自給率が低いなど、「得意分野」には偏りもあるが、それでも、いざとなれば自分たちだけで食べていける、ということの安心感は大きいように思う。

電力資源の可能性
 東北と言えば、食料と同時に電力の供給地域でもあった。とりわけ今回の大震災で原発事故の深刻な被害を受けた福島は、原発以前から水力発電で首都圏に電力を供給してきた。福島にとって電力産業は地域経済を支える大きな産業であったのである。そうした経緯の中に福島第一原発、第二原発の誘致もあった。

 東北のエネルギー資源を考えると、今後は敢えて危険な原発に手を出さずとも、電力を域内でまかなうことは可能となっていくに違いない。その期待が掛かるものの一つが、地熱発電である。火山国である日本は国土の小ささとは裏腹に、なんと世界第三位の地熱資源を有しているが、その中でも東北地方には有望な地域が数多くある。具体的には青森の八甲田地域、岩手・秋田の八幡平地域、岩手・宮城・秋田の栗駒地域、福島の磐梯地域などである。特に、磐梯地域には最大で、原発二基分にも相当するという地熱資源があるとされる。

 東北電力の原発は女川と東通の二箇所で合わせて三二七・四万ワットを発電しているが、東北地方の地熱資源のポテンシャルは約五五〇万ワットである。もちろん、その全てを活用できるわけではないだろうが、これを有効活用しない手はない。
 福島では他にメガソーラー計画や洋上風力発電所の計画も進行中で、こちらもその今後に大きな期待が持てる。

「黄金の国」復活も
 東北と言えば、平安時代まで我が国唯一の産金地帯であり、そこで産出される黄金が奥州藤原氏の力の源の一つであったことはよく知られている。奥州藤原氏初代の清衡が建立した総金箔貼りの金色堂はその象徴だが、清衡はまた、宋から「一切経」を購入するのに、砂金一〇五〇〇〇両を費やしたそうである。ちなみに一〇五〇〇〇両は約一七三〇kgに相当し、現在の金の価値(七月二四日の相場は一グラム四二一七円)に換算すると約七三億円にもなる。
 
 そうしたことから日本は「黄金の国ジパング」とされたわけであるが、一説には、奥州藤原氏が一〇〇年で費やした黄金の総量は二〇〇〇万両(=三三〇トン)だったとも言われる。もちろん、現在ではそのように大量の黄金を産出してはいないが、一方で昨今「都市鉱山」という言葉をよく耳にするようになった。廃棄された家電製品などの中に含まれる貴金属を含む希少金属(レアメタル)を鉱山に見立てた言葉であるが、なんと我が国の都市鉱山は世界有数の資源国に匹敵する規模になっているそうである。
 
 その中で、金は約六八〇〇トンあって世界の現有埋蔵量四二〇〇〇トンの実に約十六%にも相当するという。奥州藤原氏が一〇〇年で費やした量のなんと二〇倍以上もの金が、我が国には眠っているというのである。日本は今もまさに「黄金の国ジパング」なのである。

 こうした都市鉱山に眠っているレアメタルのリサイクルにおいて、国内はもとより世界の最先端を行く企業が東北にある。秋田県小坂町にある小坂製錬である。ここでは何と一九種類もの貴金属を含むレアメタルを回収できるという。これだけの種類の金属を回収できるのは、小坂精錬を含めて世界中でわずか三箇所しかないそうである。この小坂製錬を含め、東北地方には七つの製錬所が立地し、銅・鉛・亜鉛等の輸入鉱石からの製錬と廃棄物等からの非鉄金属全般のリサイクル生産に関して、日本の三〜四割のシェアを持っている。東北はかつての奥州藤原氏時代と同じような「鉱業立国」も可能なのではないだろうか。

自ら持つものに正当な評価を
 東北人は他の地域よりも「謙譲の美徳」において秀でているように思える。しかしそれはともすると、自ら持つ価値を過小評価してしまうことにもつながる。これまで見てきたように、東北の持つ実力は、欧州の一国にも勝るとも劣らないレベルのものであるが、それを正当に、等身大に評価することは、特に私たち東北人にとって大いに必要とされることなのではないかと思うのである。(写真はどこまでも続く秋田 ・ 大潟村の秋の田園風景)


anagma5 at 20:38│Comments(0)TrackBack(0)clip!私的東北論 

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