2012年09月12日 

東北の歴史のミステリーその29〜骨寺村は平泉の「浄土」の原型か

120825-121645 新聞報道によると、世界遺産に登録された「平泉の文化遺産」への追加登録を目指す5つの遺産が、日本がユネスコの世界遺産委員会に提出する登録候補一覧表、いわゆる「暫定リスト」に記載されることが決まったという。その後、推薦書を作成・提出して世界遺産委員会の判断を待つ、という手順を踏むことになるらしい(岩手日報記事毎日新聞記事)。

 今回追加登録を目指す5つの遺産とは、前回平泉の文化遺産が世界遺産に登録された際に除外された柳之御所遺跡達谷窟(たっこくのいわや)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡である。これらが除外された経緯については以前触れたが、要は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」としての関連が薄いと見なされたということである。すなわち、これらの遺跡は今回の登録で最も重要な要素である「浄土」を表すものとは解釈されなかったということである。

 その時も書いたが、これら5つの遺産全部が「浄土」という観点から追加登録されるのは現実的には難しい、と私は考えている。日本側の関係者は、仏教徒でないイコモス(ユネスコの諮問機関)の委員に「浄土」を理解してもらうのは難しいということを口にするが、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が世界遺産に登録されたという事実を見る限り、イコモスの委員はかなり的確に「浄土」というものを表す文化遺産を捉えてくれている、と言える。認められた5つは誰が見ても浄土との関わりが明らかである。

 これに対して、追加登録を目指す5つの遺産は必ずしもそうではない。と言うか、遺産によって「浄土」との関わりには濃淡があるように見える。柳之御所遺跡は奥州藤原氏の居館だったとされるが、現段階では少なくとも「浄土」との関わりが密接とは言えない。もっと厳しいのは白鳥舘遺跡で、安倍一族の白鳥八郎則任の居館跡がなぜ構成遺産となるのか、私にもよく分からない。白鳥舘遺跡が構成遺産に含まれていたのは、登録延期となった「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」の段階だが、その白鳥舘遺跡の箇所を読んでも浄土との関わりがやはり分からない。

 一方、達谷窟は発掘調査の結果、かつて浄土庭園があったことが判明しているのだが、肝心の平泉の文化遺産を遺した奥州藤原氏との関連が弱い。一説には奥州藤原氏初代清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立した、とも言われるが、その面からの関連性をさらに追求する必要があるのではないだろうか。長者ヶ原廃寺跡に関しては以前も触れたが、浄土庭園はないものの、ここから見える夕陽は春と秋の2回、初代清衡が造営した中尊寺の「奥の院」と伝えられる霊峰月山の山頂に沈むことが分かっている。この意匠が後の、三代秀衡が建立した、やはり春と秋の2回金鶏山に沈む夕陽が見られる無量光院にも引き継がれたとも考えられるので、その面からの関連を追求するのがよいのではないだろうか。

 さて、残る一つが骨寺村荘園遺跡である。これは平泉の中心部から西に約12劼里箸海蹐琉豐愡塰椹地区にある中世の荘園の遺跡である(上写真参照)。中尊寺の経蔵別当の領地であり、中尊寺に残る絵図や文書によって確認できる中世の荘園が、現在もその形を留めているという遺跡で、国内でも貴重なものだそうである。現在国宝となっている、紺の紙に一行毎に金字と銀字で書き分けながら全ての仏典を書写した「紺紙金銀字交書一切経」は、奥州藤原氏初代の清衡が発願し、自在房蓮光という僧が統括し、8年の歳月を掛けて完成させたものだが、その功績によって蓮光は清衡によって中尊寺の経蔵別当に任ぜられ、骨寺村を知行したということである。

 現在史跡に指定されている山王窟(さんのうのいわや)、白山社、伝ミタケ堂跡、若神子社(わかみこしゃ)、不動窟(ふどうのいわや)、慈恵塚(じえづか)、大師堂などは、いずれも中世の絵図にもその位置と名称が描かれており、その遺跡としての価値に疑いはない。ただし、やはり今回のこの世界遺産に登録された平泉の文化遺産との関わりについては、もちろん中尊寺との関係は密接であるものの、肝心の「浄土」との関わりについてはそれほど深くないのではないか、そう考えていた。

 しかし今回、実際に現地を訪れ、地元のガイドの方にお話をお聞きしたところ、立派に(?)浄土との関連がありそうだということが分かった。関連があるどころか、むしろ浄土の原型はこちらだったのではないか、という印象すら持った。以下にそうした骨寺村荘園遺跡の特徴を紹介してみたい。

konoatari この骨寺村、つまり現在の本寺地区のある地域の地形だが、南に磐井川、北に本寺川が流れ、周囲を山に囲まれた平地である。この本寺地区の西方には平泉野(へいせんの)という頂上付近が平らになった小高い台地状の地形がある(左写真の赤字の辺り)。まずこの地名だが、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは不明だが、「平泉」の文字が使われており、嫌でも平泉との関連を類推せざるを得ない。そして、江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」という書物には、当時の地元の古老から聞いた話として、なんと、この平泉野には平泉の中尊寺と毛越寺の前身となる寺院があった、という内容の記述があるというのである。

 そこでなるほど、と思ったのは、これら中尊寺と毛越寺の由来についてである。中尊寺の寺伝では、中尊寺は嘉祥三年(850年)に慈覚大師円仁が開山したとされているのだが、一方で中尊寺は藤原清衡が平泉を本拠と定める際に最初に建立した寺として知られているのである。また、毛越寺も中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山したと伝えられているが、実際には藤原基衡及びその子秀衡が建立している。現代の発掘調査などの結果からは円仁の開山は裏付けられてはおらず(すなわち平安時代前期の遺構が出土していない)、この、中尊寺や毛越寺に関する、寺伝と吾妻鏡などに残る開基の記録との間の相違をどう解釈するべきか、というのが私の中ではちょっとした疑問だったのである。実際、円仁開山の記録を単なる伝承と捉える見方も少なからず存在していたのである。

 この点に関して、この骨寺村に残る伝承の通りに、中尊寺や毛越寺が元は平泉ではない別のところに円仁が開山した寺院として存在して、それを清衡や基衡が移転させて平泉の地に新たに大伽藍を建立した、と仮定すれば、円仁開山と奥州藤原氏開基の間の齟齬はなくなる。すなわち、現在の場所の発掘調査をして円仁開山の証拠が出てこないとしても、それは元々別の場所にあったのであるから当然のことである。

 ちなみに、この「骨寺村」というちょっとインパクトのある地名の由来だが、慈恵塚に名を残す慈恵大師良源の遺骨が祀られてあるから(発掘調査の結果から慈恵塚からは遺骨は発見されなかったそうであるが)とか、合戦で命を落とした兵の遺骨を埋めた地であるからといった説がある。この「骨寺」がその後「本寺」に変わったのだが、この「本寺」の意味は先に紹介した、中尊寺や毛越寺の元となった寺があったことに由来する、との説もあるのである。

 他に、江戸時代の紀行家菅江真澄も、平泉野について、「大日山中尊寺」の跡があると記している他、このあたりにあった寺院を鳥羽院の治世の頃に関山に遷したということで、そちらも平泉の里になったと記している。この記載からは、現在関山中尊寺として知られる中尊寺は、平泉野にあった頃は大日山中尊寺と号されていたこと、その後移転されたのは鳥羽院の頃だということがわかるが、この移転の時期は以前紹介した有名な中尊寺建立供養願文に残る年代と一致している。

 もう一つ重要な点がある。骨寺村からは西方に中世の頃から霊峰として知られる栗駒山を望めるが、なんと、春と秋の彼岸の中日、骨寺村からは栗駒山の山頂に沈む夕陽が見られるのだそうである。これには長者ヶ原廃寺跡、無量光院跡と同様、この地の浄土との関わりを感じずにはいられない。

 これまで見てきたように、骨寺村は中世の荘園の様子が今も残る貴重な遺跡であるが、決してそれだけではない。「浄土」をキーワードとして平泉の文化遺産との関わりがあると考えられるのである。骨寺村に関しても、荘園遺跡ということよりも、こうした「浄土」との関連から追加登録を目指すのがよいのではないかと思うのである。そのためには平泉野における発掘調査が鍵となる。現在までのところ、まだ平泉野から平泉前史を窺わせる出土はないようであるが、今後に期待したいところである。


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