2012年12月29日 

私的東北論その41〜「震災遺構」をどうするか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 1 「東北復興第7号が12月16日に刊行された。

 今回、砂越氏は、「東北の『伝説』の真偽を追求し、東北の歴史・文化の定説をひっくり返そうというチャレンジ」の連載開始を高らかに宣言された。貴重な試みだと思う。 その掘り起こした東北文化を共有し、自信を取り戻し、復興という難事業に東北全体で、東北人が同胞となって取り組もうという呼びかけでもある。そして、早速「埋もれた東北文化を掘り起こす旅」を始めた。この辺りの行動の速さはさすがと言う他ない。

 他にも、前号に引き続いての郷土芸能取材、古山拓氏の「ケルトと東北」シリーズの完結編、げんさんによる九州と東北の比較文化論など読みどころ満載である。「笑い仏」さまの連載は今回、「笑い仏」さまが逗留された當麻寺中之坊院主の松村實昭師が寄稿されている。

 この第7号に寄せた私の拙文が下記である。


「震災遺構」をどうするか

議論が分かれる「震災遺構」の取り扱い
 東日本大震災発生からまもなく一年九カ月になる。大津波によって甚大な被害を受けた沿岸地域でも瓦礫の撤去は進んでいる。それに伴って議論の的となっているのが、「震災遺構」の取り扱いである。

 震災後マス・メディアによって繰り返し報じられた、陸に打ち上げられた大型船、建物の二階部分に乗った大型バスや観光船、転倒した鉄筋コンクリートの建物、鉄筋の骨組みだけになった建物、これらは津波のとてつもない威力をまざまざと見せつけた「生き証人」である。こうした「震災遺構」は瓦礫の撤去と被災地域の復興が進むにつれ、徐々にその数を減らしてきている。つまり、こうした地震や津波の恐ろしさを物語る遺構も瓦礫と一緒に撤去されつつあるのである。

 このことについて、意見は真っ二つに分かれている。一方は「あると地震の恐怖や亡くなった家族のことを思い出すので早く撤去してほしい」というもの、もう一方は「地震や津波の恐ろしさを後世に伝えるものとして保存してほしい」というものである。
 

他地域における先例
 実は、こうした「震災遺構」の保存については、同様の議論が過去に地震に見舞われた地域でも起こっている。そして、それに対してどのような結論を出したかについては、地域によって異なっているのである。

 九三年に北海道南西沖地震による津波と火災で一九八名の犠牲者を出した奥尻島では、「震災遺構」は残されなかった。海水に浸かった建物の保存や維持管理の困難さ、遺族感情への配慮がその理由だったようである。壊滅した集落の跡地には公園ができ、慰霊碑も立っているが、震災そのものの痕跡は残っていないそうである。島は復興したが、一方で震災の記憶の風化も指摘されている。

 九五年の阪神大震災では、神戸市は大火災に見舞われた。その火災に耐えて残った公設市場の壁は、「震災の語り部」として海を隔てた淡路島の北淡震災記念公園に移設されて保存された。「神戸の壁」と呼ばれるこの震災遺構も、神戸市自体は保存に消極的で、地域でも必ずしも保存に賛成の声ばかりではなかったという。そのような時に、対岸の淡路島の旧津名町長の故柏木和三郎氏が受け入れを表明してくれたため、震災後つくられた北淡震災記念公園で保存されることになったのだそうである。神戸市でも現在、「海を渡った」この「神戸の壁」を除けば震災の爪痕を感じさせるものはほとんどないようである。

 一方、〇四年の新潟県中越地震を経験した長岡・小千谷両市は昨年、地震の「メモリアル拠点」として残された四つの施設と三つの公園を結んだ「中越メモリアル回廊」を立ち上げた。これは被災地をそのまま「情報の保管庫」にする試みとのことで、それぞれの拠点を巡って、震災の記憶と復興の軌跡に触れてもらうことを目的に整備されたのだそうである。土砂崩れでできた「天然ダム」によって水没した家屋がそのまま残されたメモリアルパークもある。車が土砂崩れに巻き込まれた現場はそのまま慰霊のためのメモリアルパークとなった。

 このように、地震一つ取ってみても、撤去、移設、保存と、地域によって取られた対応は異なっていることが分かる。日本では地震だけでなく、火山の噴火による災害もある。九一年には雲仙・普賢岳噴火で四三名もの犠牲者が出た。その後、現地では火砕流で焼けた小学校や自動車、土石流で埋没した住宅群が保存された。三宅島の噴火でも溶岩流に埋没した学校や土石流に埋没した神社が残されている。


「原爆ドーム」に学ぶ
 こうした事例を参考にしながら、今回の大震災においても「震災遺構」の取り扱いについて考えていかなければならない。もちろん、瓦礫と一緒に撤去してしまうのが最も簡単である。それ以降の保存や維持のための費用も掛からないし、被災者も見る度に震災のことを思い出さなくても済む。

 しかし、本当にそれでよいのだろうか、と思うのである。失ったものは二度と戻せない。見るのは辛い、その気持ちは分かる。しかし、辛い、という今の気持ちだけで即撤去してしまう前に、将来のためにもう少し考える時間が必要なのではないかと思うのである。

 もう一つ、参考にしたい事例は、広島市にある「原爆ドーム」である。原爆ドームは、元々広島県物産陳列館として竣工され、その後広島県産業奨励館と改称された。四五年八月六日に広島市に落とされた原子爆弾により、爆心地から約一六〇mの距離にあったこの産業奨励館も爆風と熱線で大破し全焼、当時建物の中にいたおよそ三〇人の人は皆即死だったそうである。

 戦後、そのてっぺんの形から誰からともなく「原爆ドーム」と呼ばれることになったこの旧産業奨励館についてはやはり、記念物として残すべきという声と、被爆の悲惨な記憶につながるので取り壊すべきという声に二分されたという。保存に向けて大きく動き出したきっかけは、一歳の時に被爆し、六〇年にわずか十六歳で白血病のため亡くなった楮山ヒロ子さんが残した日記に書かれていた「あのいたいたしい産業奨励館だけが いつまでも おそろしい原爆を世にうったえてくれるのだろうか」という言葉だったそうである。

 これを契機に保存を求める声が次第に高まり、六六年広島市議会は「原爆ドーム保存を要望する決議」を採択する。そこには、「ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた二〇数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである」とある。この翌年、第一回の保存工事が行われた。被爆から実に二二年後のことである。その後、九六年に世界遺産への登録が決定したのは周知の通りである。


「間接資料」と「実物資料」
 「百聞は一見に如かず」と言う。原爆ドームは核兵器の恐ろしさを如実に物語る象徴的存在となった。我々は、あの建物を見る度に、自分が体験していなくても、広島を襲った悲劇に思いを馳せることができる。

 今回の地震では、多くの人が携帯のカメラなどで津波の写真や動画を撮影した。たくさんの証言もある。「震災遺構」がなくても、それらが地震や津波の恐ろしさを伝えてくれるのではないか、そのような意見もあるだろう。もちろん、それはそれで震災の貴重な記録である。しかし、それはあくまで記録である。

 記録は、博物館学の観点から見れば「間接資料(二次資料)」である。それに対して、「震災遺構」のようなものは「実物資料(一次資料)」と呼ばれる。記録に加えて、地震や津波の恐ろしさを他の何よりも雄弁に語ってくれる「震災の語り部」たる「震災遺構」があれば、それらがまさに、原爆ドームが終戦から六七年経った今も戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継いでいるのと同様に、これから先も自然災害の恐ろしさと防災意識の大切さを教え続けてくれるに違いないと思うのである。


被災全市町村が最低一つ震災遺構保存を
 先の原爆ドーム保存を求める決議になぞらえれば、震災の遺構を保存し、後世に残すことは、地震で亡くなられた二万近い霊に対しても、また災害からの復興を願う人々に対しても、我々が果たさねばならぬ義務の一つである、と言える。

 この国では、どこにいても地震を始めとする自然災害のリスクからは免れ得ない。私たちが遭遇したこの上なく恐ろしく悲しい体験を、自分や自分の大切な人の身を守るための方策と共に他の地域の人たちに伝えることは、私たちにしかできないことである。そしてそれは、震災後、全国各地から寄せられ、今も続いている支援の手に対する、私たちができる恩返しの一つでもある。

 他地域の人たちだけのことではない。この地域の将来の世代の人たちのこともある。私たちは大震災のことは決して忘れない。私たちの子どもの世代も大丈夫だろう。しかし、その子どもやその先の世代となればどうだろうか。それら先の世代でも、見れば地震や津波の恐ろしさが伝わる、そうしたものを残すことは、やはり私たちの責務ではないだろうか。

 もちろん、残すと判断するのは、今すぐでなくてもいい。ただ、将来の可能性のために、震災遺構となりうる対象の早期撤去については、しばし留保してほしいと思うのである。広島の原爆ドームが保存されるまでには二二年の歳月が必要だったが、その間原爆ドームが撤去か保存かという判断を留保されたために、保存の機運が高まった後の保存が可能となったのである。もし戦後すぐ撤去され、被爆を物語るものが何も残っていなかったとすれば、当然保存を求める動きもなく、世界遺産登録もなく、日本に住む誰もが被爆の悲劇の手掛かりとしていつでも思い起こすことができるあの建物の映像もなかったわけである。

docx 今回の大震災で東北は、北は青森の三沢市から南は福島のいわき市まで、太平洋岸のほとんどの市町村が被害を受けた。私は願わくは、これらの被災した市町村がそれぞれ、最低一つずつでも、大震災の痕跡を伝える遺構を残してくれればよい、と強く思っているのである(写真は津波によって3階建ての建物の上に乗り上げた乗用車。震災直後随所で見られた光景である)。


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この記事へのコメント

1. Posted by gillan   2012年12月29日 10:44
高衡の足跡を追うのその後も、楽しみにしています。
                      奈良
2. Posted by 大友浩平   2013年01月15日 12:36
奈良さん、ご無沙汰してます。
高衡の記事についてのコメント、ありがとうございます。
高衡については今のところ、あれ以上の情報は持ち合わせていないのですが、いつか配流先だった神奈川県内、藤原範季のいた京都府内で高衡の足跡を探してみたいとは思っていました。
いつになるかは分かりませんが、気長にお待ちください(汗)。

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