2013年03月11日 

私的東北論その43〜弟の最後の足跡を追う

弟の死から2年が経って
130311-144629 東日本大震災発生から2年が経った。書くべきことはいろいろあるのだろうが、この日に当たって何を書くかと考えた時に、やはりこの地震で命を落とした弟のことを書いておきたいと思った。

 弟は、仙台市若林区役所の区民部まちづくり推進課地域活動係の主事として勤務していた。2011年3月11日(金)午後2時46分に東北地方太平洋沖地震が発生し、直後に区役所内に若林区災害対策本部が設置された。弟は、若林区の沿岸地域である荒浜方面の広報活動を行うよう命ぜられ、午後3時17分に公用車で出動した。広報活動に当たっては、仝道塩釜亘理線より東には入らないこと、▲薀献をつけながら行くことの2点が指示されていた。午後4時5分頃、広報活動を命じた上司が弟の携帯電話に連絡したが、連絡が取れなかった。その後3月28日に乗っていた公用車が発見され、その1ヶ月後の4月28日、弟は、若林区荒浜字南長沼にある南長沼で(ややこしいがそこにある南長沼という沼がそのままその周辺の地名になっている)遺体で発見された。

 これが、震災発生当日から遺体発見までに事実として分かっていたことの全てである。これ以上のことはもはや分かることはないだろうと思っていたのだが、その後、弟の最後の足取りに関して分かってきたことがある。弟のことを忘れないためにも、記録として残す意味でも、ここにまとめておきたい。

 写真は、今日の午後2時46分に撮った、弟が見つかった荒浜の南長沼の様子である。誰が供えてくれたものか、花が手向けてあった。


なぜ弟は沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのか
図1aa 今更ながら、なぜ弟は津波の危険が迫る仙台市の沿岸地域に出掛けていかなければならなかったのだろうか。ちょっと長くなるが、「仙台市地域防災計画」にある記載を紹介しておきたい。その「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者であり、このうち区本部の担当業務は、…吐箸隆躙雲や避難方法等に関する住民への周知、避難勧告、指示に関すること、H鯑饅蠅粒設及び運営管理に関すること、つ吐箸亡悗垢訃霾鵑療礎、避難誘導に関すること、とされている。津波発生時には、消防と区役所(の災害対策本部)と警察の三者が役割を担うことになっていたわけである。

 津波情報の収集伝達については、「消防部は、仙台管区気象台、宮城県及び宮城県警察本部等から伝達される津波情報を受信した場合は、次の伝達系統に基づき、関係する部、区本部及び市民に対し速やかに伝達する」ものとされており、仙台市内の各区は消防局防災安全課からの情報伝達を受け、広報車によって市民に津波情報を伝達する旨が図示されている。このうち、沿岸住民等への情報伝達については、「消防部及び関係する各区本部は、津波予報の発表と同時に次の手段で『海面監視・警戒要領』に基づいた区域内の住民等に対し、津波に関する情報を伝達する」とされている。「次の手段」としては、\臑羯堋吐半霾鹽礎システム、警鐘の打鐘又はサイレンの吹鳴(消防部)、消防車、ヘリコプター(消防部)及び広報車(区)による巡回広報、つ内会長等への連絡(区)、ナ麁撒ヾ悗箸力携、ε里療塰漂劵瓠璽襦△裡兇弔挙げられている。区役所の役割として、広報車による巡回広報で市民に津波情報を伝達することが規定されているわけである。

 避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図り、また、避難誘導にあたっては安全な経路を選定するとともに、高齢者及び障害者等の災害時要援護者に十分配慮する」こととされている。弟はつまり、この仙台市地域防災計画の地震災害対策編における災害応急対策計画の津波応急対策計画に記載されている区本部に割り当てられた担当業務の遂行のために荒浜地区にて広報活動を行ったわけである。

 荒浜地区中心部を図1に示す。後に示す消防隊員の証言に基づく消防隊員の行動範囲と弟の行動範囲も書き入れてみた。青が消防隊員のたどった進路、赤が弟がたどったと考えられる進路である。


「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の意味
図2 広報活動を行うに当たって、先述の通り、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示が出されていた。これはどういうことだろうか。これは「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいた仙台市の「津波ハザードマップ」によるものと考えられる。その予測図のうちの荒浜近辺の部分を図2に示す。図2図1で示された周辺の地域も示している。この津波ハザードマップでは、県道塩釜亘理線よりもさらに東、荒浜地区で言えば、荒浜新のさらに東が津波浸水予測地域となっている。

 なお、津波ハザードマップでは、海岸に近いエリアについて、津波警報が出た際に避難勧告が出され、大津波警報が出された際に避難指示が出される津波避難エリア機図2の右側の斜線部分)、気卜拈椶靴織┘螢△蚤臘吐鳩拱鵑出された際に避難指示が出される津波避難エリア供図2の左側の斜線部分)が設定されている。「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という指示は、この津波ハザードマップに基いて、津波による浸水が予想される津波避難エリア亀擇哭兇鯣鬚韻覦嫐9腓いあったことが分かる。もっとも、実際には海岸から直線距離で0.9kmのところにある県道塩釜亘理線どころか、そのはるか西、海岸から3.2kmの仙台東部道路まで津波が押し寄せたのは周知の通りである。

 ところが、弟の特殊公務災害の申請などの過程で、地震発生当日、やはり「仙台市地域防災計画」に基づいて、同じ地域で住民の避難誘導にあたっていた仙台市消防局若林消防署荒浜航空分署の消防職員の証言として、何と以下のような証言が得られたのである。

 /湿其兇らさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させる等していた際に、区役所の広報車らしき車を何度か見たような記憶がある。
 ⊂男俵匹里曚、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしており、「区役所の車かな」と思っていた。
 9喇擁署からの戻るようにとの命令を受け、午後3時50分に荒浜小学校を出発し、午後3時53分に荒浜分署に到着し、1分後に津波が到達した。
 ぞ学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶している。

 また、3月28日に、弟が乗車していた公用車の発見に立ち会った消防職員は、「あの時の車じゃないかと感じた」と証言しており、別の消防職員も以前紹介したが「災害当日、現地で見かけた記憶がある」と証言しているのである。これらの証言は何を意味しているのだろうか。

 証言から、この時の消防職員の活動範囲は、図1に示した通り、荒浜橋を渡った海岸に極めて近い地域から、この地域唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校の間である。その範囲で市の広報車を見かけたということは、弟の広報車も県道塩釜亘理線より東の地域で活動していたことを示しているに他ならない。私はてっきり、弟は事前の指示通り県道塩釜亘理線の西側あるいは県道塩釜亘理線沿いで広報活動をしていたとばかり思っていた。なぜ、弟は、立ち入るなと言われていた県道塩釜亘理線より東で広報活動を行っていたのだろうか。


県道塩釜亘理線より東で目撃された理由を解く
 上記の通り、消防職員の証言から、弟の乗った広報車は、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」の事前指示にも関わらず、その東に位置する荒町新地区にて活動していたと判断できる。それはなぜだったのだろうか。

 「仙台市統計書『平成23年版』」によると、荒浜小学校区すなわち荒浜地区は世帯数782、人口1,920人である。この荒浜地区内の各町丁目名毎の世帯数をポスティング業者のサイト等で確認してみると(参照サイト)、平成17年の数値だが、県道塩釜亘理線の東側にある荒浜新1丁目、2丁目に合わせて333世帯、すなわち全体の約43%の世帯が集中している。荒浜新を除く荒浜に440世帯があるが、そのうちの多くの世帯は消防職員の行動を見ても分かる通り、荒浜新のさらに東側つまり海側にある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山と呼ばれる各地区にある。

 これが何を意味するかと言えば、荒浜地区の世帯の大半は県道塩釜亘理線の東側から海岸付近に集中しているということである。図らずも図2の津波浸水予測図に、これらの地域に多くの家屋が集中している様子が図示されている。もし、こうした状況であるにも関わらず、事前の指示通り、県道塩釜亘理線より東側に立ち入らないとすると、荒浜小学校区の大部分の世帯に対して津波避難の呼び掛けができないことになるわけである。

 すなわち、荒浜地区の世帯に対して津波からの避難を呼び掛ける広報活動を行うという業務と、県道塩釜亘理線より東には入らないことという指示との間には、相反するものがあった。荒浜地区の大多数の世帯に対して避難を呼び掛けようとすれば、県道塩釜亘理線より東に立ち入らざるを得ず、県道塩釜亘理線より東には入らないという指示の通りにしようとすれば、荒浜地区の大多数の世帯には避難の呼び掛けができない、という状況だったわけである。

 従って、この荒浜地区の大多数の世帯に対して即座の避難を呼び掛けるためには、どうしても県道塩釜亘理線の東側に立ち入る必要があったのである。そして―、弟は避難の呼び掛けの徹底の方を優先して、県道塩釜亘理線より東で避難広報活動を行うことを選んだのである。

 さて、「津波浸水予測図」は前述の通り、「平成14年度仙台市地震被害想定調査報告書(概要)」に基づいて作成されているが、同報告書における想定の前提は、単独型(M7.5)と連動型(M8.0)の宮城県沖地震であり、それより大きな地震については一切想定がされていない。津波の予測について、「単独モデルでは,津波の波高は小さく,浸水域は大変小さいことが予測されています。また,連動モデルでは,単独型モデルと比べて津波の波高は大きくなり,浸水域も大きくなりますが,極沿岸域に限定され,仙台港周辺での浸水高さは30〜110cmが予測されています」とある。

 今から見るとまったく楽天的との誹りを免れ得ないような想定であるが、要は「津波浸水予測図」における津波浸水予測地域はすなわち、当時の予測で最も大きな連動型(M8.0)の地震であっても、仙台港周辺で最大110cmの津波と予測されていたわけである。前述のように「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、この想定に基いて、荒浜新の東側一帯が津波浸水予測地域であることを踏まえて、さらに安全マージンを取って伝えられたものと考えられる。

図3 しかし、今回の地震でこの荒浜地区を襲った津波の高さは10mに達していたことが荒浜小学校に残った津波の痕跡から明らかになっている。平野部としては世界最大級だそうである。想定の10倍近い津波が押し寄せたのである。残念ながら、「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」という事前の指示は、あまり意味を持たなかった。東日本大震災後に改定された新しい津波ハザードマップ(図3参照)では、津波警報で避難勧告が出される津波避難エリア気帽喇与恵篭茲魎泙瓩晋道塩釜亘理線以東の全域が含まれることになり、津波避難エリア兇聾道塩釜亘理線の西側一帯が含まれることになった。


なぜ被災するまで現地に留まっていたのか
 気象庁がまとめた「東北地方太平洋沖地震による津波被害を踏まえた津波警報の改善の方向性について」によって、今回の地震における津波警報発表経緯を追ってみると概ね、

 ゞ杁淬録迷報における地震波データの処理で、地震検知から約105秒後に地震の規模を最終的にM8.1と推定した。
 地震発生の3分後、津波警報第1報(高さ予想は宮城県6m、岩手県・福島県3m)を発表し、直ちに検潮所等による津波の監視を開始した。
 C録免生の13分後、津波観測データに基づき、大船渡で第1波引き波0.2m、最大波0.2mと報じた。
 15時10分頃から岩手釜石沖などのGPS波浪計において潮位の急激な上昇が観測されたため、15時14分に津波警報の第2報を発表し、予想される津波の高さを宮城県10m以上、岩手県・福島県6mなどに引き上げるとともに津波観測情報を発表した。
 イ修慮紊盂ご濾婉瓩慮…所における津波の観測状況から、津波警報の続報を発表した。

となっている。

 これを見ると、地震発生から3分後に、既に宮城県沖地震における想定を上回る6mの高さ予想を伴った津波警報が出されていることが分かる。さらに気象庁は、地震発生から28分後の午後3時14分には予想される津波の高さを宮城県で10m以上と上方修正している。

 弟が荒浜地区に向けて出発した午後3時17分の時点では、既に気象庁の津波の高さ予想は宮城県内で6mから10m以上へと引き上げられていたことになる。すなわち、想定をはるかに超える津波が荒浜地区を襲う可能性があることは若林区役所を出発しようとしたこの時点で既に分かっており、その上で前述の「仙台市地域防災計画」で区本部の役割として規定されている住民への避難誘導のために荒浜地区に向かったわけである。当初の「津波浸水予測図」の想定の下では、県道塩釜亘理線より東の荒浜新地区などは、津波浸水予測地域から外れ、危険のない地域であったが、その後想定外の大津波警報が出されていたことからも分かる通り、これらの地区は一転して「危険地域」へと変わっていたわけである。

 先に挙げた通り、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るとされている。ところが、予想を超える巨大な地震に遭遇したためか、先の消防職員の証言から判断しても、「消防車、広報車及び報道機関との連携等」が積極的に行われた形跡は見られない。当時は、にも関わらず「迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」ることが求められていた状況であったのであり、その任務の遂行のためには、事前の「県道塩釜亘理線より東には入らないこと」との指示を敢えて踏み越えて、県道塩釜亘理線の東の荒浜新地区にて避難広報活動を行う必要があったわけである。

 繰り返すと、仮に事前指示通り、県道塩釜亘理線より東に足を踏み入れず、その以西を範囲として避難広報活動をしていたとしたならば、荒浜地区の大部分の住民に対して津波からの避難を周知徹底させることは不可能であったはずである。弟は、命じられた荒浜地区における避難広報を徹底するために、消防職員の証言にある通り、荒浜新の住宅街に入って避難呼び掛けをしていた。それは、県道塩釜亘理線よりも東に位置する荒浜新地区で避難呼び掛けを行えば、荒浜新地区はもちろん、同地区の東側に隣接し、荒浜地区の世帯の多くがある荒浜北丁、中丁、南丁、西、一番山の各地区の住民に対しても避難広報の周知徹底を行うことは可能だからである。

 さて、事前指示の2つめは「ラジオをつけながら行くこと」であった。弟が避難広報活動を行っていた時点では、気象庁の津波警報発表経緯に見られる通り、ラジオは気象庁の大津波警報の内容や、仙台平野よりも早く津波が襲来した三陸沿岸地域における状況を繰り返し伝えていた。したがって、ラジオから情報を得ていたならば、弟は、自らが大変な生命の危機に曝されていることを相当程度理解していたに違いない。

 では、にも関わらずなぜその危険な地域に、最終的に被災するまで留まっていたのか。消防職員の証言い砲△訥未蝓⊂男豹Πが荒浜地区を離れようとしたその時にも荒浜新地区からは避難を呼び掛ける広報車の声が響いていたのである。この時に弟もその場を離れてくれていれば、と思わずにはいられないが、それを解く手がかりとなるのは東京経済大学の吉井博明氏による「津波避難行動に関する調査結果」である。これを見ると、三陸沿岸の市町村と今回弟が赴いた荒浜地区のある仙台市若林区とでは、津波に対する意識に大きな差があったことがわかる。

 例えば、実際に避難した人に「地震発生の何分後に避難開始したか」を聞いた結果の平均は、三陸沿岸の南三陸町や女川町が11分であるのに対し、仙台市若林区は16分と、5分もの差がある。津波からの避難において、この5分の差はあまりにも大きい。「津波来襲確信度」についても、南三陸町では「津波が必ず来ると思った」と答えた人の割合が63.0%なのに対して、仙台市若林区では28.6%である。仙台平野は長らく津波に襲われた経験がない。荒浜地区の住民も三陸沿岸の住民と比較すると、「地震即避難」という意識が薄いと言わざるを得ない状況であったのである。

 実際に避難をした住民を比較しても三陸沿岸と仙台市若林区とではこれだけ差があるのである。しかも、この調査はあくまで「避難して助かった人」への調査である。津波から避難しなかった人の多くは津波に巻き込まれてしまったと考えられるので検証は不可能だが、避難しなかった人の割合も恐らくは三陸沿岸よりも仙台平野の方がはるかに高いはずである。弟は、三陸沿岸の住民に比べて津波に対する危機意識が高いとは言えなかった荒浜地区の住民に対して、身に迫る危険を感じながらも少しでも多くの住民を避難させようと繰り返し避難を呼び掛け続けたのであり、その結果津波により命を落としてしまったのだろう。

 もちろん、そのことで荒浜地区の住民を責めることなどできない。私とて、仙台平野をこれだけの津波が襲うとは思ってもいなかった。他の多くの仙台市民もそうだったのではないか。恐らく住民だけではなく行政もそうだったのだろうが、三陸沿岸の自治体に比べて仙台平野沿岸の自治体では、津波に対する防災教育も十分行われていなかった。以前紹介したように、歴史を紐解けば、この地を再三大きな津波が襲っていたことは分かるのだが、そうしたことも十分意識されていなかった。

 だが、次は同じ言い訳は通用しない。日本で百万都市がこれだけの津波に襲われたのは、恐らくここ仙台が初めてである。ひょっとすると、世界でも例がないのではないだろうか。ならば仙台は今後同じような津波被害が他地域で繰り返されないように、特に平野部を襲う津波について研究を重ね、日本のみならず世界にその情報を発信していくのが、責務とも言うべき役割であろう。

 当日の乗車車両である仙台市の公用車スズキ・エスクード・ノマドが見つかった地点は荒浜新から西に約500m離れた荒浜南長沼地区内であり、荒浜新で津波に遭遇し、津波によって西に運ばれたと推定すると辻褄が合う。ただし、弟は最後、車に乗ったまま津波に巻き込まれたのではなかったようである。弟の遺体は、広報車が見つかった場所からさらに西に数10m離れた沼の中から見つかっている。発見された広報車は、リアウィンドウが割れていたが、シートベルトは外れた状態だった。確かに津波の力はものすごいのだろうが、だからと言って、事故の衝撃でも外れないことを想定して作られているシートベルトを外してまで人間を車外に攫っていくことまでは考えられない。弟は自分でシートベルトを外して車外に出たのである。

 その理由は恐らく渋滞である。当日津波からの避難の車で県道塩釜亘理線はかなり渋滞していたという証言がある(参照サイトの<8>)。とすると、荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路も同様だったに違いない。弟が区役所から荒浜地区に向かった道路の逆方向の車線もそうだったろう。残念ながら、荒浜地区への車での出動は、行けはしても戻ってくることは困難な「片道切符」だったわけである。

130311-153825 左の写真は、今日の午後3時38分に撮影したものである。荒浜地区から県道塩釜亘理線に出る道路である。つまり、海を背に西の内陸部に向かう道路である。右に写っているのは、この地区唯一の避難場所であった仙台市立荒浜小学校である。今日は午後3時まで、この地区の合同慰霊祭が行われていた。この地区の住民はほとんど他地区で避難生活を送っているので、この慰霊祭に参加するために殆どの人が車でこの地を訪れた。それが終了して帰途につく車が列を連ねているのが分かる。恐らく震災当日も、避難しようとする車が同様に列を連ねていたに違いない。

 津波の襲来を目撃したのか、最後の瞬間、弟は車を離れ、走って避難をしようとしたのだろう。海岸沿いの防潮林を超えてくる巨大津波を間近に見て弟は何を思ったろう。その後、陸上でも30km/h以上という津波の速さには勝てず、弟は結局は津波に巻き込まれてしまった。その時刻は、荒浜地区に隣接する名取市で津波第一波の到達時刻が午後3時50分だったこと、消防職員の証言があることなどから、恐らく午後3時53分頃だったものと考えられる。

 若林区役所から荒浜地区までは、私の自転車で飛ばして15、6分である。車だともっと速いだろうから、午後3時17分に若林区役所を出て、弟が荒浜地区に到着したのは恐らく15時30分前後、そこからの20分間余りの時間は、弟の生涯で最も重大な時間だった。弟は文字通り命を賭して、命ぜられた住民避難のための広報活動に最後の最後まで尽力したわけである。

 弟の友人で、このブログにも何度かコメントを書いてくれた高橋さんが、ご自分のブログに弟のことを書いてくれた時に、荒浜出身の方からコメントをもらったそうである。その方の叔母さんが津波の危険を察知して避難したのは、どうやら弟の広報活動のお蔭だったらしい。なんでもその方の叔母さんは、停電で情報がない中、避難を呼びかける声が尋常な様子ではなかったから外へ出たのだそうである。きっと弟の必死の思いが声に出ていたのだろう。それによって避難を促すことができたのであれば、任務は間違いなく遂行されたわけである。

 コメントを残してくれたその方は、私の両親に宛ててこう結んでくださっている。

最後の最後まで、市職員として任務を全うされた息子さんのおかげで、たくさんの命が救われました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます

 この言葉は弟への何よりの手向けである。

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この記事へのコメント

1. Posted by 高橋   2013年03月13日 01:58
ご無沙汰しております。
お変わりございませんか?
日曜日にご実家にお伺いして
お線香をあげさせていただきました。
ありがとうございました。

純平の足跡を追われたのですね。
手掛かりが少ない中で地理的な分析も含めて
詳細に調べられて大変感嘆いたしました。
地図上で見ると荒浜新で津波に遭遇して
西方へ流されるとたしかに発見場所との
辻褄が合いますね。

震災以降にたまたま知り合った方の
ご実家が若林区で理容店を経営されていて、
同乗していたSさんのご近所だそうで
昔からお店によく訪れていたそうです。
その弟さんも常連のお客様だとか。
人の縁とは不思議なものです…。
2. Posted by 大友浩平   2013年03月14日 12:46
高橋さん、こちらこそご無沙汰です。
実家を訪ねていただいた件、南長沼で両親から聞きました。
午後2時46分に南長沼に行った時には来てなかったのに、その後3時50分くらいにもう一度行ってみたら来ていました。
両親にとっても、地震発生の時刻より津波到達の時刻の方が重要なようです。
今回のブログ、消防隊員の方から証言を得られたことが大きかったです。
そのお蔭である程度足取りが掴めました。
Sさんの件、ご遺族の了解を得ていないことからこのブログでは触れていませんが、弟もとてもよくしていただいていたようです。
本当に人の縁ですね。

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