2013年06月20日 

私的東北論その46〜東北の「独立」はお話の中だけのことか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

イメージ 11 4月16日に「東北復興」紙の第11号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「松島・石巻復興レポート」と題して、松島と石巻の復興の現状についてレポートしている。また、道州制推進知事・指定都市市長連合が主催した「道州制推進フォーラム」についても詳しく報じている。新聞各紙が小さな扱いだっただけに、砂越氏のレポートは貴重である。スコットランドのローランドと東北の福島を「ボーダーズ(国境)」というキーワードで対比させたげんさんの論考も興味深かった。

 また、まつもとけいこ氏の寄稿「墓で眠っていないで起きてください!」も極めて印象的であった。氏によれば、岩手の民俗芸能は、その8割が供養のためのものだが、その供養とは「鎮魂」ではなく「魂奮い(たまふるい)」なのだそうである。「やすらかに眠ってください」ではなく、墓前で地を踏みしめ反閇し、笛や太鼓を激しく打ち鳴らして、「眠っていないで起きてください。そしてあの世まで持って行った無念な気持ち、やりたかったこと、我慢出来ないことを私たちに話してください。生きている私たちがその無念を晴らしますから」と魂で語りかけるものなのだとのことである。これは目からウロコであった。そのように見ると、民俗芸能の見方も随分変わってくる。そしてそれは、いわば今の震災復興にも密接につながるものであると言うことができるわけである。
 
 その第11号に寄せた拙文が下記である。西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」については、本ブログでも3回に亘って詳しく取り上げたことがあるが、今回はそのダイジェスト版に、その後の情報を付記したような感じである。なお、文中で紹介している原 亮氏の素晴らしいプレゼン「新生東北の門出、前途は実に洋々たり」のスライドはここでシェアされている。


蒼茫の大地滅ぶ上東北の「独立」はお話の中だけのことか

東北の「独立」を扱った小説
 東北の独立を扱った小説として最も有名なのは、井上ひさしの「吉里吉里人」だろう。これは、東北地方のある小さな村が政府に愛想を尽かして、「吉里吉里国」を名乗って独立を宣言する、というものである。昨年も村雲司の「阿武隈共和国独立宣言」が出てちょっとした話題になった。こちらは、「阿武隈村の人々が長年培った独自ブランドの米や牛豚鶏が都会の消費者に認知され、ようやく落ち着いた生活を手にした矢先に起きた福島第一原発事故…」という設定である。

 東北を舞台として日本からの独立を描く小説はこのようにいくつかあるが、中でも東北六県全部が日本国から独立を果たす、というスケールの大きなストーリーが特徴的なのが西村寿行の「蒼茫の大地、滅ぶ」である。現在では絶版となってしまっているが、上下二巻からなる大作である。実は以前、拙ブログでも詳しく取り上げたことがあるのだが、今回は再度この小説を題材に、東北の独立について考えてみたい。

 飛蝗というトノサマバッタなどの変異種がいる。時折大量発生して大集団を作り、植物や作物を食い尽くす蝗害を引き起こす。その飛蝗が中国大陸で大発生して総重量二億トンという想像を絶する巨大な群れとなり、日本海を渡って東北地方に襲来、東北地方はありとあらゆる農作物を食い尽くされ、深刻な飢餓状態に陥るという設定である。

 「そんなこと起こるわけがない」と思ってしまうが、実は有史以来現代に至るまで人類は度々蝗害に襲われている。日本でも、二〇〇七年に開港寸前の関西空港第二滑走路にトノサマバッタが数百万匹という大量発生をしたことがあった。実害はなかったが、このように何の前触れもなくバッタが突然大量発生することはあり得るのである。

 飛蝗が最初に降り立った青森県では津軽平野の農作物が瞬く間に食い尽くされる。与党の幹事長を務め次の総理とまで言われながら中央政界を引退して青森県知事となっていた野上正明は、東北六県から若者を六〇〇〇人集めて「東北地方守備隊」を結成させ、混乱の収拾に努める。一方、政府は被害の拡大に備えて、全国の備蓄米を東北分も含めてすべて首都圏に集めようとするが、食糧難に喘ぐ東北からの備蓄米の搬出は東北地方守備隊に阻止される。その後、飛蝗は岩手県へ南下、さらに宮城県、秋田県、山形県へも広がり、米や野菜は軒並み食い尽くされ、食糧難が深刻になり、治安も悪化する。蝗害の影響で株価が大暴落、円の価値も下がる。政府が決定した被災地支援は六〇〇〇億円の救済費割り当てのみ。失業や食糧難で暮らせなくなった東北地方の住民は一五〇万人もの難民となって首都圏を目指すが、東京都は難民の流入を警察力で阻止し、東京都周辺の各県も難民の滞在と国道以外の通行を禁じて締め出しを図る。苦境に立つ東北地方の住民に向けて、野上知事は他の東北の知事と共に、東北六県の日本国からの独立、そして「奥州国」の建国を宣言する、というのが「蒼茫の大地、滅ぶ」のストーリーである。

 蝗害以上に「東北の独立」が現実にあり得ない設定ではないか、と思われるかもしれない。しかし、実は東北が実際に独立を目指したことが歴史上あったとされる。本書の中でも紹介されているが、他でもない明治維新の時である。

 この時、奥羽越列藩同盟は輪王寺宮公現法親王を推戴した。輪王寺宮公現法親王は「東武皇帝」と称した。年号も「大政」と改元した。諸外国に使者を送り貿易開始の要請も行った。これはまさに「もう一つの日本」ができたような様相である。当時のニューヨークタイムズは、「日本の東北地方に新帝が立ち、二人のミカドが並立する状況になった」と伝えていたそうで、国際的に見ても日本という国が二つに分かれたという認識があったようである。しかし、奥羽越列藩同盟側の敗戦と同盟自体の瓦解により、この「もう一つの日本」が日の目を見ることはなかったわけである。

憲法に見る地方の独立
 日本国憲法の第九二条では「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とされている。また、第九四条では「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされている。九二条の「地方自治の本旨」とは通常、住民自らが地域のことを考え、自らの手で治める「住民自治」と、地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていく「団体自治」の二点からなるとされる。九四条では、地方公共団体の特定の地方における行政機関としての役割を定めると共に、地方における「独自立法」としての条例制定権を認めている。憲法はこのように、地方自治についてあえて一つの章を設けてその権利を保障している。その上に立って、小説の中で野上知事は、九二条は「確認事項」であって、憲法で言う地方公共団体は国家の成立以前から自然発生的に存立しており、そこに自治権も自然発生的に成立していた権利であるから、個人の基本的人権と同様に、地方自治の権限を国が立法で制限することは許されない、と主張している。

 にも関わらず、国と地方の間に厳然たる上下関係があるように見えるのは、事ある毎に槍玉に挙がる「三割自治」の問題のためである。一方に憲法で認められた「地方自治の本旨」というものがありながら、実際には財源を押さえられているために、国の意向に沿った形でしか自治体はその権限を行使できないという実態があるのである。最近、「一票の格差」を巡って「違憲」「違憲状態」という判決が相次いで出されたが、国と地方を取り巻くこのような固定化されている現状こそ「違憲状態」なのではないだろうか。

 かつて沖縄の読谷村長だった山内徳信氏は「地方は末端にあらず、国の先端なり」と喝破した。この言葉に込められた地方の気概に、今だからこそ思いを至らせるべきだと思う。地方のことは地方にいる自分たちが最もよく分かっているのだという自信と確信を持って、画一的な国の方針を超えた地方の独自性、自立性を、憲法に明記されている趣旨に則って確立していく時期に来ているのではないだろうか。たとえ財政の自立は難しいのだとしても、精神の自立から始めることは可能である。

東北の「独立宣言」
 本小説の白眉は何と言っても、東北の「独立宣言」の箇所である。小説の中で、東北から首都圏を目指した多数の難民が、「難民受け入れ拒否」を告げた東京都と荒川で衝突し、多数の死傷者を出した。その直後、野上知事はテレビとラジオで緊急会見を開き、東北の独立を宣言したのである。

 その中にこのようなくだりがある。「諸君には東北地方人たる名誉を守ることを、願う。自分の足で大地に立つことを、お願いする。諸君に武器を向けた東京都に未練を抱くな。中央政府に幻想を抱くな。たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」。フィクションの話ではあるが、東北に住む者として、強いメッセージを感じる。

 今、東北は小説の中の蝗害に勝るとも劣らない大震災からの復興の途上にある。その震災復興を巡るこれまでの動きを振り返ると、残念な思いに駆られることも少なからずある。そこにこのメッセージである。

 曰く、「東北地方人たる名誉を守れ」、「自分の足で大地に立て」、「東京に未練を抱くな」、「中央政府に幻想を抱くな」、「たとえ、飢え死のうと、意地は捨てるな」、である。

 中央政府に過剰な期待を抱くことは禁物である。なぜなら、そこにいる人たちは、この地にいないからである。では、東北の復興は今後も進まないかと言えば、決してそのようなことはないと私は確信している。

 先日素晴らしいプレゼンテーションに接して、まさにわが意を得たりという心境だった。Fandroid EAST JAPAN 理事長の原亮氏は、大震災後、東北の地で「自らの手足と知恵で自走を始めた人たち」を多数紹介しながらこう言う。「東北は『人』という最大の資源を手にいれた」と。では、東北がさらなる発展を起こすための可能性、その条件面でのアドバンテージはどこにあるのだろうか。原氏は、東北は「課題先進地」だと指摘する。大震災でさらに拍車のかかった少子高齢化と過疎、その大震災では情報通信技術の限界や脆弱さも経験している。これらが「東北版リバースイノベーション」につながるのだ、と原氏は言うのである。「リバースイノベーション」とは、新興国で生まれた革新的な製品やサービスを先進国に逆流させる新しい経営手法のことである。「人」を得た東北で生まれた様々な分野の革新を日本の他地域、さらには日本国外にももたらす、そのような復興の姿が垣間見えるのではないだろうか。

 「グローカル」という言葉を最近よく聞く。「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」考え方のこととされるが、逆にローカルな営みが持つ可能性の大きさにも、その適用範囲を広げられるのではないかと私は考える。

 原氏は、東北に集う「人」に対して、ー走する意識とスキルを持つ、地域や分野を超えた対話を仕掛ける、Lね茲鯊臙世忙廚ど舛、の三点を要請している。確かに、そうした人がこの東北の地で相互に影響力を及ぼし合えば、自分たちで決め、自分たちでつくる、東北の未来への道筋が拓けてくるに違いない。

 東北の「独立」は、必ずしも政治的な独立を意味するのではない。東北にいる人たちが、自分たちのことは自分たちで決める、ということを決め、そのことを様々な場面、様々な領域で確かに実行に移した時、その時こそが東北が「独立」する時なのだと思う。


anagma5 at 20:35│Comments(0)TrackBack(0)clip!私的東北論 

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