2013年09月27日 

東北の歴史のミステリーその30〜なぜ会津は「仏都」になりえたのか

 大河ドラマで会津を舞台とした「八重の桜」が放映されている。その中では、明治維新前後に会津を襲った悲劇が克明に描かれているが、そうしたあまりに過酷な体験を経た後でも、会津は実に会津である。会津を訪れると、街の中の至る所で、東北の他のどこの地域にも似ていない、会津の佇まいを感じることができる。そしてそれは、会津の人たちがその地にそれまで受け継がれてきたものをいかに大切にしているかの現れであると言える。

 この会津らしさ、一般的にはまさにその明治維新の折に浮き彫りになった、江戸時代を通して受け継がれてきた会津藩の気風によるものと思われている。ところがどうもそうした会津の独自性は、実はもっと古くからあったもののように見える。そのことを特に平安時代の会津に焦点を当てて考えてみたい。

 東北で「仏都」と呼ぶのにふさわしい地域として岩手の平泉、並びにその周辺の北上川流域を挙げることに反対する人はほとんどいないと思われる。では、それに次ぐ地域はどこかと東北全域を見ていくと、会津はその最有力候補であることが分かる。東は猪苗代町から西は会津坂下町まで、国宝、重要文化財の仏像が今も多く残っている。JR東日本も、そうした「仏都」としての会津を前面に出した観光パンフレットを作成したりしている。

 どうして、平泉から遠く離れた会津が、このように平泉に次ぐ仏教が興隆した地域となりえたのだろうか、というのが私の最初の疑問だった。位置関係から考えて、奥州藤原氏の影響とはなかなか考えにくい。もし平泉から遠く離れた会津が、平泉の影響で多数の寺院が作られたというのなら、会津よりももっと平泉に近い地域にはさらに多くの寺院があってしかるべきである。奥州藤原氏の影響でないとすれば、その規模から考えて、奥州藤原氏に匹敵する実力者が会津にいたのだろうか、とも考えたが、そのような話は聞いたことがない。では、これらの貴重な仏像を有する寺院が多く集まる会津の成り立ちをどう考えたらよいのだろうか。

130908-100921 磐梯町に日寺跡という国指定の史跡がある。発掘調査の成果を踏まえて最近、中門と金堂が相次いで復元されて話題を呼んだ。今も休日や観光シーズンには多くの人が訪れている。この慧日寺、かつては会津地域一帯に大きな影響力を持った寺院であったらしい。元は平安時代初め、徳一の開基と伝えられる。徳一は法相宗の僧侶で、最澄や空海と仏教の教義を巡って論争を展開したことで知られる。ちなみに、徳一開基と伝えられる寺院は、北関東から福島、山形南部まで広く分布している。

 慧日寺はそうした徳一開基と伝えられる寺院の中でも特に規模が大きかったようで、東国の拠点寺院として、最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3,800を数えたと伝えられる。慧日寺は会津一帯に広大な寺領を持ち、その勢力は極めて大きかった。この慧日寺の勢力下で、会津地域には多くの寺院が次々に建立されたようである。

 この時代の会津の「独立性」を物語る出来事があった。前九年の役と後三年の役の間の1080年、陸奥国司から朝廷に対してある提案がなされた。提案の内容は、会津は国司による監督が困難なので、陸奥国から切り離して別の国として独立させるべし、という驚くべきものであった。この提案は却下されたが、当時の会津を取り巻く状況が窺えるエピソードである。地方の豪族はおろか、国司さえも会津には介入できずにいたのである。後三年の役を経て奥州藤原氏が陸奥出羽二国の実権を掌握したと言っても、そのような会津に容易に影響力が及ぶとは考えられない状況だったわけである。会津は慧日寺の影響力の下、いわば外部からの干渉を受けない、半ば独立した地域だったのである。

 こうした会津の慧日寺勢力と連携した豪族もいた。越後に威勢を振るった城氏である(城氏については以前ここで触れた)。越後の阿賀野川流域にある荘園が城氏によって慧日寺領として寄進されたという記録もあり、また会津坂下町にある陣が峯城跡は城氏一族の居館だったと伝えられる。両者の関係は奥州藤原氏との関係とは比べ物にならないくらい緊密であったようである。

 源平合戦の最中の1181年、城長茂は平氏の命により木曽義仲追討の兵を挙げる。この時、城氏と連携していた慧日寺の浄丹坊(乗湛坊とも)は慧日寺の影響下にあった会津の4つの郡の兵3,000を率いて城氏に合流した。そして、城長茂と共に信濃の横田河原で木曽義仲と合戦した。しかし結局、城長茂は敗れ、浄丹坊は討死したとの記録が残っている。周知の通り、藤原秀衡は平氏からの要請を黙殺し、源氏追討の兵を挙げていない。こうしたことから見ても、奥州藤原氏の影響力は会津地域には及んでいなかったことが分かる。

 その後の会津を巡る動きが実に興味深い。木曽義仲に敗れた城氏は衰退して会津への影響力は低下し、慧日寺勢力も壊滅的な打撃を受けた。城長茂は本拠の越後を離れ、慧日寺の勢力下にある「会津の城」(先述の陣が峯城とも言われるが不明)に逃れようとした。ところが、そこに藤原秀衡は、郎従を遣わして城長茂一党を再び越後へと追い払い、会津を押領した、との記録が残っているのである。詳細は不明だが、城氏と秀衡の郎従との間で武力衝突もあったかもしれない。この記録から見ても、奥州藤原氏の影響力が会津にまで及ぶようになったのは、奥州藤原氏三代秀衡の時代の、それもかなり後の方であったことが窺える。これによって奥州藤原氏はようやく今の東北地方のほぼ全域に勢力を及ぼせることになったわけだが、もし慧日寺勢力が木曽義仲に敗れることがなかったとしたら、秀衡も会津には手を出せず、会津の「独立」はそのまま保たれたのではないかとも思われるのである。

 それにしてもつくづく、この会津の占める位置の重要性を思わずにはいられない。今でこそ会津は、東北新幹線、東北本線、東北自動車道といった東北と首都圏とを結ぶ幹線から外れた地域だが、それも言ってみれば明治以降の政策によるもので、古代から近世に至るまで、会津は交通の要衝の地であった。そもそも会津という地名の起こりが、崇神天皇の時代に諸国平定の任務を終えた四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来すると言うが、これは「待ち合わせ」に好都合の場所だったからこその伝承であろう。

 慧日寺のある磐梯町とその隣にある猪苗代町にまたがる縄文時代の法正尻遺跡からは、東北南部を代表する大木式土器、それに関東地方の阿玉台式土器や東北地方北部の円筒土器と共通する土器、新潟に分布する馬高式土器に似た土器が出土しており、会津地域とその周辺の様々な地域との間に交流があったことが窺える。また、時代は下るが伊達政宗がこの地を領土としていた蘆名氏を破って会津を領土としたばかりか本拠を会津に移したこと、それ以後も蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明といった並み居る武将が入封し、最終的に会津松平家がこの地を治めたことも、会津の地政学的な重要性を物語っている。藤原秀衡による城氏駆逐の動きもこれらと同様の意味合いを持っていると言えるのではないだろうか。

 さて、その後の慧日寺である。源平合戦期の敗戦でその勢力は一時衰退するが、その後文治五年奥州合戦を経てこの地を治めることになった領主の庇護を受けるなどして伽藍の復興も進んだようである。しかし、1418年に金堂、僧坊などがことごとく焼亡、その後復興されたものの、先述の伊達政宗と蘆名氏の1589年の合戦の際の戦火で、再建された金堂を残して伽藍が全て焼失、その金堂も1626年に焼失したという。江戸時代に入り会津松平氏の保護を受けて再建されたが、かつての規模にはほど遠かったようである。結局会津は敗れて明治の世となり、慧日寺も1868年に発令された神仏分離令によって廃寺となった。そして、1872年の火災で再度金堂が焼失してしまった。その後、地元の復興運動が聞き入れられ、1904年に慧日寺は「恵日寺」として復興された。慧日寺跡に近い地に現在も恵日寺は存在している。こうして見てくるとこの慧日寺、会津の盛衰を物語る貴重な「生き証人」と言えるかもしれない。

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔