2013年11月09日 

私的東北論その48〜勝者の歴史、敗者の歴史(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko_14 もはや旧聞に属することだが、「東北復興」紙の第14号が7月16日に刊行された。その中では、山本覚馬を取り上げた。同じ「馬」という字がその名につく坂本龍馬と比べると、あまりに知名度に差があるが、その唱えた主張、成し得た成果はもっと注目されてよいのではないかと思った。

 以下がその全文である。






勝者の歴史、敗者の歴史

山本覚馬という人
 NHKで東北を舞台にしたドラマが放映されている。一つは岩手県久慈市をモデルにした「北三陸市」が舞台の連続テレビ小説「あまちゃん」、もう一つは福島県会津地域が舞台の大河ドラマ「八重の桜」である。「八重の桜」は毎週見ているが、私がとりわけ注目したのが、「八重の桜」の主人公、八重の兄、山本覚馬という人物である。同じ東北にいながらまったくの不勉強で、このような人物が会津にいたことをこの大河ドラマを見るまで知らないでいた。

 この山本覚馬、遡れば山本勘助に連なり、代々兵法指南として会津藩に仕えてきた山本家の六代目当主、砲術指南役の権八の長男として誕生した。多くの人材を輩出した会津藩の藩校日新館で頭角を表し、二二歳で佐久間象山の塾に入り、吉田松陰や勝海舟や橋本左内と共に学ぶ一方、弓馬槍刀の師伝を得て藩主から賞を受けたという、いわば文武両道に秀でた人物だった。その後も蘭書を学び、洋式砲術を学び、会津に戻って日新館の教授に就任、蘭学所を開設、一方で藩の軍制改革も訴えて一時は禁足処分となるものの、一年の後に軍事取調役兼大砲頭取に抜擢された。

 その後、京都守護職に就任した藩主松平容保に従って京に上って黒谷本陣で西洋式軍隊の調練に当たる一方で、洋学所を主宰して会津藩士のみならず在京の諸藩士に洋学の講義も行ったという。

 禁門の変では砲兵隊を率いて参戦して戦果を挙げ、その勲功で公用人(藩主が幕府の要職にあるときに対幕府・諸藩と情報交換などを行う外交専門の用人)に任ぜられた。これによって覚馬は、幕府や諸藩の有力人物と交わる機会が増え、その活動範囲を広げるが、眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になってしまう。その後、長崎に行って会津藩の新式銃の購入の交渉を行っているが、この時に長崎にいた外国人と多く交わったようである。

獄中でまとめられた新国家への建白書
 大河ドラマでは、都で王政復古が宣言された後に始まった「鳥羽・伏見の戦い」の折、山本覚馬は松平容保に停戦を願い出るべく動き出すが、その途上薩摩兵に捕らえられ投獄されてしまう。牢獄の中で、視力を失い、会津救済の願いも取り次がれず、失意の中にいた覚馬は、「ただ身一つで立ち上がればよい!…立ち上がれ!」と、生前の吉田松陰の声を聞く。

「立ち上がれ…。そうが…。まだある!俺に出来る事が、まだ一つだけ!」

そう言って覚馬は、獄中で新国家への意見書を書き始めるのである。視力を失っていたので、同じ牢に投獄された門下生に口述筆記でまとめさせる。途中、牢番に嫌がらせで何度も破り捨てられるが、覚馬は自分の胸を叩いて、

「言葉はみんな、ここにある!ここにあるもんは、誰にも奪えねえ!」

と言い、また最初から書き始めさせるのである。

「管見」で言わんとしていること
 こうして牢獄の中で出来上がった山本覚馬の新国家への意見書が「管見」(管見とは「細い管を通して見る」という意味で、自分の知識・見解・意見を視野の狭いものとしてへりくだっていう語)である。ただ、現存する複数の資料のうち、内容的により完全なものとされる資料には「山本覚馬建白」との題が付けられている。

 自身と会津藩を取り巻く逆境の中でまとめられた「管見」だが、その内容がまたすごい。学校教育の中で学んだ歴史だけが頭のなかにあると、「新政府軍=開明派」、「旧幕府軍=守旧派」という二項対立の中だけで両者を捉えがちであるが、「守旧派」の代表と目されがちな会津にこのような建白書をまとめた人物がいたことに驚きを禁じ得ないのである。

 その中には極めて多様な項目が取り上げられており、かつそれぞれの項目について詳細に覚馬の見解が記されている。私なりにまとめてみると、概ね以下のようになる(「山本覚馬建白」の内容による)。

 政権:憲法の制定、三権分立
 議事院:二院制の議院の設置
 学校:人材育成のための学校の整備
 変制:制度の変革、新聞紙の制作
 撰吏:能力のある人材の登用
 国体:石高に対する課税、兵制改革、国民の均等な負担
 建国術:商業活動を基軸とした資本の増大と産業の活性化
 製鉄法:溶鉱炉を使う製鉄所の設置
 貨幣:適正な品位の貨幣の鋳造、藩札等私的通貨の禁止
 衣食:西洋風の暖衣肉食の励行
 女学:女子に対する高等教育
 平均法:長子相続から平等な相続への遺産相続の法制化
 醸酒法:米不足を解消するための米醸造の禁止、麦、葡萄、芋等を使った醸造
 条約:瀬戸内海を航行する際の規則の策定
 軍艦国律:国による軍艦の建造
 港制:輸送コスト削減のための港からの水路の設置
 救民:政治の責任としての感染症対策
 髪制:髷の習慣の廃止
 変仏法:僧職者への官許制の導入
 商律:貿易時の海難事故に備えた船舶保険、貨物保険、生命保険の創設
 時法:二四時間制の導入
 暦法:太陽暦の導入、元号の廃止
 官医:西洋医学に通じた医師の育成
 小引:確固たる国是の策定と富国強兵の達成

 このように、国体に関することから髪型に関することまで、実に幅広く新国家像について提言している。憲法の制定や三権分立、二院制の議院の設置など、外国人も含め、様々な人物と交流していた成果がこの「管見」には現れている。この時代に女子に対する高等教育の必要性を指摘するのは、あるいは八重という男顔負けに活動する妹の存在が念頭にあったかもしれない。

 やはり新政府に大きな影響を与えたとされる坂本龍馬の「船中八策」よりもはるかに網羅的でかつ具体的である。事実、この「管見」を目にした西郷隆盛や岩倉具視らは、その内容に驚嘆したと伝えられている。

勝者の歴史、敗者の歴史
 ところで、もちろん私の不勉強もあるのだろうが、普通に考えてこれほどの人物がそれほど知られていないのは、山本覚馬が会津の人物であったことと無関係ではないのではないだろうか、と思わざるを得ない。

 我々が知る歴史は、その時々の勝者によって記述される。そこに記されるのは勝者の言い分であり、敗者の言い分が残されることは少ない。また、勝者にとって都合のよい事実が大きく取り上げられ、都合の悪い事実は矮小化して取り上げられるか、事実そのものが改変されて取り上げられるか、全く取り上げられないかのいずれかの経過を辿ることが多い。

 幕末の歴史について我々が見聞きする情報も、新政府側から見たものであることが多い。その中では、旧幕府側の事情や動向は、あまり語られない。山本覚馬の例も、そうした事情で人口に膾炙することがこれまで少なかったのではないかというような気がするのである。

藤原泰衡に見る敗者の描かれ方
 敗者が必要以上に矮小化されて記録される例として私が真っ先に思い出すのは、奥州藤原氏四代目の藤原泰衡についてである。この藤原泰衡、歴史上の人物の中でも人気の高い源義経を討った人物として、そして何と言っても平泉の百年に終焉をもたらした人物として、すこぶる評判が悪い。加えて、源頼朝が東北に攻め入った時に一戦もせずに逃げ回り、挙句の果てに家臣に裏切られて殺害されるという最期を遂げたということも、評判の悪さに拍車をかけている。

 しかし、よく考えてみると、そうした悪い評判の原因となっている情報のうちのかなりの部分は、実は勝者である鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」によるところが大きい。

 文治五年奥州合戦で泰衡について書かれた箇所を見ると、「慌てふためいて逃げ出した」、「急いでいて館にも立ち寄れなかった」、「命惜しみのためにネズミのように隠れ、鳥のヒナのように逃げた」などと表現されている。

 まるでその場で見ていたような書きぶりであるが、源氏の軍は泰衡が北方に転じたこの時まだ平泉へ北上する途上だったわけであるから、本当にそうだったのか確たる証拠があるわけではない。そしてまた、泰衡の行動の意図が本当に逃げ回ることにあったのかどうかも分からない。吾妻鏡には、少なくとも鎌倉方はそのように見ていた、ということが書かれているに過ぎない。にも関わらず、泰衡の評判はこの吾妻鏡によってほぼ決定づけられてしまっているという現実があるのである。

「敗れても、滅びても…、まだ残るものはある!」
 さて、大河ドラマ「八重の桜」に戻ると、会津城下に戦火が迫る中、京都では覚馬が新国家への意見書「管見」を書き上げた。その時に覚馬は言う。

「敗れても、滅びても…、まだ残るものはある!」

 歴史上の山本覚馬が同様のことを言ったかどうか定かではないが、大変印象に残る言葉である。考えてみれば、東北の歴史はいつもそうだったのではないだろうか。阿弖流為以来(実はさらに遡るが)戊辰戦争に至るまで、東北は時の権力者と戦い、敗れ、滅びたが、それでも何かを確かに残してきた。

 阿弖流為は理不尽なものに抵抗する蝦夷の精神を、奥州藤原氏は今なお世界に誇れる平和の理念と、この世が浄土であることを示した文化遺産を、そして戊辰戦争で敗れた奥羽越列藩同盟は、東北が一つになれる可能性を、そうしたものを後世の東北人に残してくれた。

 勝者の歴史には残らなくても、東北には、先人たちが自らが敗れ、滅びても残したものが、間違いなく残っている。山本覚馬も歴史の教科書には登場しないが、獄中で理想の国家像を思い描いて残した彼の「管見」は残っている。そしてそれは、今も東北にいる我々に何かを言わんとしているかのようである。

 最後の「小引」の中にこのような覚馬の言葉がある。

「国家騒擾の際会に乗ずれば変制も仕易しやすきものにて、追々文明の御政体御施行なるべく」

 国家的騒乱の機会に乗じれば体制変更もしやすく、追って先進的な政体も施行されるだろう、と言っている。今回の東日本大震災も「国家騒擾」と捉えれば、まさに今やらなければならないことは「文明の御政体」を創り上げることだと言えるのではないだろうか。


anagma5 at 15:06│Comments(0)clip!私的東北論 

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