2014年02月17日 

私的東北論その52〜東北古代中世史研究の巨星・高橋富雄氏を偲ぶ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohokufukko19 「東北復興」の第19号が12月16日に発行された。この号では、昨年10月に亡くなった東北史研究者の高橋富雄氏について書かせていただいた。

 その時その時の歴史を中央からの視点で捉える、いわゆる「中央史観」の呪縛から、東北の歴史が解放されたのは、ひとえに氏の生涯に亘る東北史研究の最大の成果と言ってよいと思う。

 本文中でも紹介している「甦るみちのく中央」について、氏は、「一方には『木を見て森を見ない』ような『お国自慢』にとどまっていることのないように自戒するとともに、他方では、万事我が物顔に振舞う『お仕着せ中央史観』は綺麗さっぱり脱ぎ捨てて、『全く新しく日本を見直し考え直す 地方(じかた)日本学』を目ざすもの」と言っておられる。

 まさに地方史を考える際にこの視点をこそ中心に置くべきものであると思う。


東北古代中世史研究の巨星・高橋富雄氏を偲ぶ

生涯東北の歴史を追求した碩学
 高橋富雄氏が一〇月五日に亡くなった。九二歳の大往生であった。東北の古代中世史研究における、文字通り「巨星」と言うべき大きな存在であった。

 氏は一九二一年に岩手県北上市に生まれ、その後東北大学教養部で講師、助教授、教授を務め、その後盛岡大学学長、福島県立博物館館長を歴任した。およそ東北史の研究者の中で氏の影響を受けなかった人は皆無なのではないかとさえ思われる、それほどの存在感であった。

 驚くべきことに、氏は三年前まで岩手県一関市の市民有志と立ち上げた「みちのく中央総合博物館市民会議」の場で、何度も東北の歴史について講演を行っていた。三年前と言えば氏は実に八九歳。生涯現役で東北の歴史を追い続けた研究者だったのである。

 氏のその「みちのく中央総合博物館市民会議」における講演内容は、実にありがたいことにすべて、同会議のサイト「みちのく中央磐井歴史物語」(http://iwaigaku.com/)で読めるようになっている。これは本当に貴重な遺産である。

 ここで語られている内容は、文字通り氏のそれまでの東北に関する歴史研究の集大成と言うべきものである。そしてまた、氏のそうした講演内容を含む同会議での研究成果は「甦るみちのく中央」として、歴史春秋社から「高橋富雄東北学論集」の一冊として二〇〇九年に出版もされている。

「阿久利川事件」の発生地を同定
 ウィキペディアで氏のページを見てみるまで知らなかったのだが、氏は中世に東北を十二年の間戦乱に巻き込んだ「前九年の役」の発端となった、いわゆる「阿久利川事件」の発生地が宮城県栗原市志波姫の迫川流域であることを突き止めたとのことである。

 東北人にとって、この阿久利川事件は重大な事件である。東北を支配下に置こうと陸奥守として下向してきた源頼義に対し、当時岩手県の北上川流域の「奥六郡」を勢力下に置いていた蝦夷の安倍頼時はとことん恭順を貫いて合戦を回避する。ところが、源頼義が陸奥守の任期切れで帰京する日を翌日に控えた夜に、頼義の郎従の宿営が何者かに襲われた。頼義はこれを安倍頼時の息子の貞任の仕業だとして、貞任の首を差し出すよう頼時に要求したが頼時はこれを拒否。このことがきっかけで前九年の役が勃発するのである。

 その時の頼時の言葉が残っている。「人倫世に在るは、皆妻子のためなり。貞任愚かといえども、父子の愛、棄忘すること能はず。一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。関を閉ざし、来攻を甘んじて聴かざるにしかず。況や吾が衆もまた、これを拒み戦うに足りず。未だ以て憂いと為さず。たとえ戦さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずやと」(陸奥話記)。

 「人の道が世にあるのは、すべて妻子のためである。たとえ貞任が愚かだとしても、父子の愛を捨て忘れることなどできない。ひとたび貞任が誅されてしまったら、私に(それ以上〉何を忍べというのか。(衣川の)関を閉ざし、(頼義が)攻め来るのを甘んじて(受け)、(その言い分など)聴くべきではない。私の同胞たちもまた、(頼義の要求を)拒み、戦うことに躊躇する者などいない。たとえ戦況が不利となって私や皆が死ぬことになっても、それは致し方ないことだ」。そのような意味である。

 この阿久利川事件が、実は源頼義が仕組んだ自作自演、でっちあげであったことは歴史家の間ではほぼ既定の事実とされている。源頼義の宿営を頼義が東北を離れる前日に襲うことのメリットなど安倍側には考えられない一方、頼義側にすれば襲われたことを大義名分にして任期切れでも帰京せずに済み、安倍氏相手に合戦を始めるきっかけを得られるというメリットがあるからである。

 結局のところ、前九年の役は、東北をどうしても支配下に置きたいという源頼義の私利私欲がもたらした、東北に住む者にとっては甚だ迷惑この上ない合戦であったわけだが、その発端となったこの阿久利川の場所が、長らく不明であった。高橋氏は地道な文献研究とフィールドワークとでその地を同定したのである。

平泉の文化遺産の持つ意味
 先ほど、「みちのく中央総合博物館市民会議」での氏の講演内容を、氏の「集大成」と表現したが、実はそれだけではない。氏は「新説」も披瀝していた。例えば、一関市東山町にある「二十五菩薩像」についてである。この「二十五菩薩像」、どれ一つとして完全なものがなく、またこの地に洪水が起きた際に流れ着いたという伝承は残っているものの、その成立の過程も謎に包まれていた。

 氏は「みちのく中央総合博物館市民会議」主催の講演の中で、この「二十五菩薩像」について、「平重盛を弔うために制作され、この地に安置された」と主張した。そして、その観点から二十五菩薩像ができた経緯やそれがことごとく破壊された理由を解説しているが、なるほど説得力のある説だと思った。

 このように、氏は東北の歴史に対して、終生変わらぬ興味と情熱と探究心とを持ち続けておられた。そして氏の研究は、東北の歴史を日本史の中にどのように位置づけるべきか、東北に住む者がそれをどのように理解すべきか、についての方向性を明確に示してくれたと私は考えている。

 世界遺産となった平泉の文化遺産。それらの価値、そしてそれらを築き上げた奥州藤原氏の時代をどう解釈すべきか。それを考えるのに最適な書はあまたある平泉関連の書の中でも、氏の「平泉の世紀―古代と中世の間」(教養文庫)であると思う。

 平泉の百年を通じて、東北とは何か、その東北にあって平泉の持つ意味は何なのか、実に明確な主張として伝わってくる。この書籍を読んでから平泉を訪れ、中尊寺や毛越寺を見ればきっと、より多くのものが観えてくるに違いない。

 本書の中には、平泉とは何だったのかについての氏の解答が様々な角度から示されているが、平泉が築き上げた文化について氏は、

「平泉では、三代そろってみずからを『東夷』『俘囚』と遜称したのに、『みやこ』はこの人たちを、公然と『夷狄』『戎狄』『えびす』と賎称した。にもかかわらず、その平泉は『みやこの文化』を『みやこさながら』に受け入れた。そして『みやこ』同等もしくはそれ以上の『みやこ』文化に再創造した。今日、金色堂以上に京都的・貴族的な総合日本文化はない。毛越寺浄土庭園以上に王朝の風雅を今にとどめる庭園遺構はないのである」

と指摘している。加えてもう一つ、政治的には、

「平泉にも『一天の君と雖も恐るべからず」の覚悟はできていた。…(中略)…ただし、それは『みちのく』を否定する政治に対する、いやイデオロギーに対する民族自決の主張である。国府や鎮守府や朝廷が一方的な主張に出ない限り、平泉は、自分だけが日本であるという主張はまったくしなかった。はっきり、『もう一つの名誉ある日本の創造』という自覚に立っていた。それ以上でも、それ以下でもなかった。それはこれまでかつて『人格』であることを認められなかった『エゾの国』『縄文の国』に、人格としての独立を克ち取り、それに実あらしめる系統的な政治の主張だったのである」

と強調している。

 本書を読むと、奥州藤原氏は高橋富雄氏という、自分たちの主義主張を余すところなく伝えてくれるスポークスマンを持った、そのようにすら思える。

東北の「今」へと続くその目線
 なおかつ氏は、決して歴史という「過去」だけに目を向けていたのではない。歴史研究を通して得られた知見は、東北の今へと続いていた。先述の「みちのく中央総合博物館市民会議」の学習講座「武家政権としての平泉政権」で、氏は平家や源氏が中央で国家政治を牛耳った武門だったのに対して「平泉」が東北という限られた地方の「田舎の政権」だったということで二流にも三流にも格を下げて評価するというのがこれまでの常識だったことを挙げて、以下のように述べておられる。

「私はこういう歴史常識を全面的に切り替えるような『歴史学の構造改革』がなされねば、日本は変わっていかないと考えているのです。そしてそういうことを、こちらから発信するには、皆さん方のように私と同じく、東北という地に生まれ育ち、そしてその東北で仕事をしているみんなが、そういう東北そのものに自信を持つような学問をしっかり身につけるということ、これがまず第一です。次にそれが、他人にじゅうぶん通用して、そういう考え方に納得までにしていただける、そういったところまでこの勉強を詰めていくことが大切でないかと、そう思っているんです」。

 そして、「地方の時代」を考える際に、東京など中央の大都市圏の人たちが恩恵に与ってきたものの「おすそ分け」をもらうという考え方を根本的に改めて、「ヤマトとか京都とか東京とか、そういうところで考えられていた日本ではなく、これまでそういう大都市、ミヤコにならないでいた地方というものがもつ独自の意義や価値を再評価していくことで、新しくこれを、中央、東京とか京都とか奈良などと五分と五分に並べ、最終的にはこういう新しく発見された、まだ眠っていた日本の呼び覚まし、イノチの吹きかえし、具体的なかたちづくりとなっていくことで、そこから新しい日本づくりの指導原理が創りなおされていく」ことが「地方の時代」なのだと喝破されている。

 その上で、「一世紀、百年の長きに亘って『地方の時代』というものを、実績をもって代表した歴史」である「平泉」こそが歴史の中で「地方の時代」というものを、きっちり考えることのできる具体的な代表例であると強調しておられる。氏の東北に対する汲めども尽きぬ思いがここにはある。氏のこの思いにこそ我々が学ぶべき本質がある。

 唯一残念だったのは、氏がご存命の間に直接お会いしてお話をお聞きすることができなかったということである。是非一度お会いしたいとは常々思っていたが、日常の些事に追われて結局そのための行動を起こさずじまいだった。「思い立ったが吉日」と言うが、まさに思い立った時が「機が動く」時なのだと今更ながら実感した。今はただご冥福をお祈りすると共に、氏が残してくれたものを私なりに紐解きながら、いささかなりとも受け継いでいければと強く思う。

 そうそう、氏は三年前、蔵書およそ五〇〇〇冊を、平安時代の高僧徳一の研究で交流のあった福島県いわき市の長谷寺に寄贈したのだそうである。寄贈された蔵書は同寺の倉庫を改修した「高橋富雄博士記念文庫」に収蔵されているとのことで、ぜひとも一度足を運んでみたいものである。


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