2014年03月14日 

私的東北論その53〜藤沢町40年の歩みに見る住民自治(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko_20 「東北復興第20号が1月16日に刊行された。この号で砂越氏は、「『東北を世界にアピールするプロジェクト』を立ち上げ、東北を活性化し、復興し、再興させよう」と呼び掛け、実際に「東北を世界に!」プロジェクトを募集している。

 世界遺産に登録された平泉の中尊寺金色堂に使用された夜光貝は南洋のもの、紫檀は東南アジア、象牙はアフリカ象のものであるとされる。金色堂を見るとそのまばゆい金に目が行くが、金は東北で産出されたものであるので、実は本当に珍しいのはこれらの材料だったのだが、それらを奥州藤原氏は、北方貿易という京都を経由しない独自の交易ルートで入手していたという。

 奥州藤原氏の頃の東北が当時の中央を経由せずに直接世界とつながっていたことを思えば、今の東北がまた東京を経由せずに世界とやり取りすることも不可能ではないことのように思える。

 さて、この号で私が取り上げたのは、その奥州藤原氏の拠点平泉にほど近い、岩手県一関市藤沢町で40年に亘って取り組まれてきた住民自治についてであった。この仕組み、他地域にとっても大いに参考にすべきものであると思う。


藤沢町40年の歩みに見る住民自治

「地方の課題」に先に直面していた藤沢町
 岩手県南部に藤沢町という町があった。今は合併して一関市の一部となっている、山あいの小さな町である。仙台から行くと、新幹線で一関まで三〇分前後、そこから藤沢町まではバスで約一時間掛かる。だから、一関市中心部に行ったことのある人は多くいても、そこから藤沢町まで足を伸ばした人はそれほど多くないだろう。もっとも、岩手サファリパーク、館ヶ森アーク牧場、キリシタン殉教公園といったスポットがあるので、それらを訪れた人はいるかもしれない。

 しかし実は、藤沢町は知る人ぞ知る、住民自治のモデルケースの一つとしてよく取り上げられる町である。しかもその歴史は四〇年近くに及ぶ。おおよそ地方自治を本格化たらしめるための地方分権が本格的にクローズアップされたのは、一九九五年の地方分権推進法成立以降である。その四半世紀も前に、藤沢町では住民参加による自治が始まっていた。これは特筆すべきことである。

 いったいどうしてそのようなことが可能になったのか。その背景をひも解いてみると、藤沢町には本当に已むに已まれぬ状況があったことが分かる。藤沢町は一九五五年に旧藤沢町と周辺の三つの村が合併して誕生した。当時の人口は一六〇〇〇人を超えていたが、その後急速に過疎化が進み、一九七一年には過疎地域の指定を受けた。一関市と合併する直前の人口は九〇〇〇人を割り込んでいた。現在、多くの地域で高齢化と人口減少が課題となっているが、藤沢町は既に四〇年も前に同様の現実に直面していた。そして、この課題を解決するために始まったのが、住民自治の仕組みであったのである。

町唯一の病院に見る先進性
藤沢町の地域包括ケアの拠点藤沢病院 私がこの藤沢町のことを知ったきっかけは、国民健康保険藤沢町民病院(現・一関市国民健康保険藤沢病院)の存在である。この病院は二〇一一年まで一七年連続黒字決算で、二〇〇八年には自治体立優良病院として総務大臣表彰も受けている。全国の多くの自治体立病院が慢性的な財政赤字に苦しむ中、山あいの五四床の小さな自治体病院がなぜ一七年連続で黒字経営を成し得ているのか、ということに最初に興味を持った。

 藤沢町には、県立病院が一九六八年に廃院して以来、病院がなかった。当時、住民の実に八割が町外の病院に搬送され、そこで最期を迎えるという現実があった。そこで藤沢町は病院建設計画を打ち出した。予想される経営困難を理由に県や国は計画に猛反対し、容易には実現しなかったが、町の努力が実り、県立病院廃院から四半世紀が経った一九九三年に藤沢町民病院が誕生した。いざふたを開けてみたら、経営困難どころか黒字経営を続けて今に至っているのである。

 そのことに大いに注目したのであったが、実際に藤沢病院の病院事業管理者で院長の佐藤元美氏にお会いしてお話を聴いてみたところ、黒字経営はあくまでも結果であって、その取り組みの内容こそが特筆すべきものだということがよく分かった。

 過疎地域にあり、藤沢病院が町で唯一の病院であるという事情から、藤沢病院は保健・医療・福祉を一体化して提供する「地域包括ケア」に先進的に取り組んでいた。毎年夏に開催する、宿泊を伴う「地域医療セミナー」には全国各地から多くの医療関係者が集い、藤沢病院の先進的な取り組みを学んでいく。

 様々な取り組みの中でもとりわけ目を引いたのが「地域ナイトスクール」と呼ばれる、病院職員と地域住民とが直接対話する場づくりである。病院職員はそこで地域住民の病院への意見や要望を聞く。一方、地域住民は病院職員が日々何を考えて医療に取り組んでいるかを知る。そうした相互理解を促進する場であると共に、地域住民の病院運営への参加の場ともなっている。黒字経営の要因は多くあるが、この「地域ナイトスクール」によって、絶えず地域住民のニーズを的確に把握し、それに応える医療を提供してきたこともその大きな要因の一つである。そしてまた、こうした「地域ナイトスクール」のような試みが地域住民に受け入れられる余地があったのは、この町に住民自治が着実に定着していたが故のことであると言える。

藤沢町の画期的な住民自治
 では、藤沢町ではどのような住民自治が行われていたのだろうか。藤沢町ではまず、町内に四三ある行政区すべてに「自治会」を設立した。各自治会には役場から「地域担当職員」を派遣、自治会の住民と地域担当職員は地域懇談会を開催、住民から出された要望やアイディアを「ミニ地域開発計画」としてまとめた。各自治会の「ミニ地域開発計画」は全自治会が参加する藤沢町自治会協議会の場にもちより、議論して優先順位づけなどを行う。町は協議会から提出された案に基づいて総合開発計画を策定し、予算化する、といった仕組みである。

 この仕組みの下では住民は、自分たちの要求だけを主張していればよいというわけにはいかない。同じように出された他地域の要望も見ながら、全町的に見てどの項目の優先順位が高いのかについての判断を迫られる。各自治会から出された計画に基づいて町の計画が策定されて予算も決まるとなれば、自分たちの声が行政に反映されるのと同時に、そこには相応の責任も生じる。

 こうした仕組みを支えるための仕掛けもあった。最初に行ったことは「研修バス」を購入したことであったという。物見遊山の旅行ではない、住民と役場職員が他地域に出掛けて学習するために使うバスである。そもそも住民と役場職員が同じバスに乗って視察に行くという形も珍しいが、それも共通の知識の上で議論をするという土台作りに役立った。また、町内では住民向けの研修会も活発に行われた。人材育成がこの仕組みの肝であったことが窺える。

 話し合いの中では、どこまでを行政が担い、どこまでを自治会が担うかという役割分担も議論された。就職のために町を離れた若者を呼び戻すために企業誘致が図られた際には、企業を誘致する土地の確保が自治会に任され、自治会は候補地の地権者と交渉して用地を確保するという働きもした。住民の主体的な行動が町政の前提にあったわけである。

 他の地域から見ると度肝を抜くような一連の住民自治の仕組みは先述の通り、過疎化という已むに已まれぬ状況から生まれた。こうした住民自治の仕組みを強力なリーダーシップを以て推進した当時の町長、佐藤守氏は言う。

「過疎で怖いのは、人口の流出だけではない。むしろ、住民が地域への誇りや希望を失ってしまう『心の過疎』の方が怖い」

 そうした中で地域再生の基礎をどこに置くかを考えた時に、それは「残った住民を基礎に置いて地域を再生していく以外にない」ということだったのである。

藤沢町方式を一つのお手本に
 藤沢町での住民自治の取り組みは、今この時期、地域にとって大いに参考にすべき事例だと強く思う。道州制下における基礎自治体の役割についてはいろいろと議論がされているところであるが、その大きな役割として道州制基本法案では、「住民に身近な地方公共団体として、従来の都道府県及び市町村の権限をおおむね併せ持ち、住民に直接関わる事務について自ら考え、自ら実践できる地域完結性を有する主体として構築する」とある。

 ここで「住民に直接関わる事務について自ら考え、自ら実践できる地域完結性を有する主体」とあるが、「住民に直接関わる事務について自ら考え、自ら実践」するためには、住民のニーズを把握し、それに基づいた施策を講じることが不可欠である。そのためには、住民のニーズをすくい上げることのできる仕組みが必要となるが、藤沢町での四〇年に亘る取り組みが何よりの参考になると強く思うのである。過疎化に対応したその仕組みは、人口減少時代を迎え、高齢化が進展する現在にもマッチするものであると言える。

 ただしここで、この仕組みを導入したことが即現在の課題解決に直結すると考えることには慎重であるべきである。印象に残った佐藤守氏の言葉を紹介したい。氏はこう言った。

「我々は受益者にはなれない。作った人が受益者になるというのはなかなかないものだ。今、我々は一〇〇年前に作ったもので生かされているのだ。今やっている我々も一〇〇年後の住民に対する負託者となる。そう思ってほしい」

 目先の利益にとらわれることなく、中長期的な視野に立って地域に何が必要かを考えることが、一〇〇年後にも続く地域を作るために必要なことであるのである。

希望のケルン(「まちの総合情報誌ふじさわ」2011年5月号より) 旧町役場の前に、「希望のケルン」と名付けられた記念碑がある。一九九〇年に、当時の全住民と四三自治会が持ち寄った石を積み重ねて造られた四角錐型の碑である。「石」は「意志」に掛けられ、町づくりにさらに挑む全住民の意志を形にしている。この、町づくりに取り組む意志、特に同様の地域を多く抱える東北は、一つの範として見習いたいものである。


anagma5 at 19:15│Comments(0)TrackBack(0)clip!私的東北論 

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