2014年07月28日 

私的東北論その58〜「福島」はまるごと「危険」なのか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko25 「東北復興第25号が先月6月16日に発行された。一面は各所で話題となった日本創生会議の「全国1800市町村別・2040年人口推計結果」について。他に、山形で行われて今年も盛り上がった「東北六魂祭」のレポート、第3回の「とにかく東北を語る会」のレポート、げんさんの「連載むかしばなし『芭蕉の辻で会いませう』」、MONKフォーラム代表の長谷川稔氏による「笑い仏さん〜福島への行脚」など、今回も充実した内容であった。

 その中で私が何を書いたかと言えば、やはり話題となった福島について取り上げたあのマンガのことだった。書くのは気が重かったが、何も言わないでおくことはできないと思い、書いた記事である。ただでさえ、この問題については、東北の中でもその見方は分かれている。必要なことは、異なる見方に基づく議論がきちんと行われること、その際事実と仮説とを混同しないことであると考える。


「福島」はまるごと「危険」なのか

「美味しんぼ」騒動
 非常に気が重い。この話題に触れることが、である。触れれば恐らく「福島第一原発がある福島は危険だ」と主張する人からの反発を招くだろう。それでも、この話題については、私も言っておきたいことがある。それはやはり書いておくべきだろうと思った。
 
 賛否両論が喧々諤々噴出した、かの「美味しんぼ」の「福島の真実」編が及ぼした影響は大きい。低線量被曝による鼻血については、私はその科学的論拠を知らないが、それだけでなくあそこで論じられていることには、作者の思い込み、あるいは予断による決めつけが横行しており、それが私から見ると、福島のいわれなき「危険の引き受け」につながっているように見える。あの事故から3年経った福島に沸き起こった「福島=危険」の論陣、ここで再考してみたいと思う。


横行する印象操作
 作中の最も衝撃的な場面としてネット上でも繰り返し伝えられている、福島第一原発を見学に行った主人公が帰ってきて鼻血を出す場面。所詮はフィクションではないか、という見方もある。普通のマンガならそう割り切ることもできる。ただ、ここには実在の人物が登場する。前・双葉町長の井戸川克隆氏は作中で、主人公が突然鼻血を出したのを見て、「私が思うに、福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたからですよ」と語る。
 
 実に巧妙である。架空の人物の中で、実在の人物に語らせる。読み手は実在する人物の言うことは現実のことなのだろうと受け取りがちである。
 
 鼻血が出る人がいるのが事実として、それを被曝と結びつける根拠がどこにあるのか。作中では、岐阜環境医学研究所所長の松井英介氏が、「放射線は直接粘膜や毛細血管の細胞・DNAを傷つけますが、同時に水の分子が切断されて細胞の中にできる、ラジカルによる間接作用が大きいのです」と述べているが、当の松井氏が「まだ医学界に異論はあります」と認めている通り、単なる仮説である。にも関わらず主人公に「そうか、それで鼻の粘膜の細胞が破れて鼻血が出るんだ」と納得させているのは明らかに印象操作である。 


何が「真実」なのか
 作者は自身のブログに、「私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と書いている。しかし、逆に「2年取材してこれか」、との感が正直否めない。結局、自身の考えに基づく結論が先にあり、その考えに合致する主張のみを取り入れ、そうでない主張は全く示されていない。取材期間が長ければその内容が真実に近づくとは限らない、という好例とも言える。
 
 作中に登場して「福島がもう取り返しのつかないまでに汚染された」、「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できない」と発言している福島大学行政政策学類准教授の荒木田岳氏は、事前に自らの発言を作品で使わないよう求めたとのことだが、編集部が「作品は作者のもので登場人物のものではない」との理由で却下している。取材対象者の思いよりも作者の主張を通すことが優先されたわけである。

 ちなみに、この「福島の真実」編、この部分だけが取り沙汰されているが、その前には主人公たちが東日本大震災の後に6回福島の取材に行ったことになっており、その中で福島の食べ物の安全性についての取材も行って、「安全が証明されている食べ物を食べないともったいない」とも主張している。その主張と後半のこの「福島は危険」という「真実」は、どうにも相容れない印象がある。後半の「福島は危険」の方が作者の最も言いたかったことであるとするならば、前半の「もったいない」は単なるお体裁にしか過ぎないことになる。


「福島」とはどこだ?
 作中では荒木田氏の発言のみならず、再三再四「福島は危険」と連呼される。先述の井戸川氏も作中で「今の福島に住んではいけないと言いたい」と発言している。では、この「福島」とはいったいどこのことなのか。まさか福島「市」のことではあるまい。となると、これは福島県全体のことを言っていると解釈せざるを得ない。
 
 関東や近畿にいる人にはあまり実感できないかもしれないが、福島県を始め、東北各県は軒並み面積が広い。とりわけ福島県は、北海道、岩手県に次いで、全国第三位の面積を持つ大きな県である。まずこのことがよく理解されていないのではないか。
 
 確かに、福島県内に福島第一原発の周辺を始めとして、いまだ高線量の地域が存在するのは紛れもない事実である。しかし、例えばラーメンで有名な喜多方市などは福島第一原発から100km以上離れている。仙台市や山形の米沢市、さらには栃木の那須塩原市や茨城の日立市の方が福島第一原発に近いのである。それでも喜多方市は同じ福島県という、ただそれだけの理由でこれらの都市よりも「危険」なのだろうか。
 
 そもそも、放射能が危険と言うのなら、その問題を福島の県境の内側に押し込めることに何の意味があるのだろうか。事故発生当時の放射性プルームの汚染ルートから見れば、福島の西部会津地方よりも栃木や茨城、群馬、埼玉や東京の一部などの方がはるかに危険ではないのだろうか。危険があるのを福島県内に限定してしまうことは、福島県内で問題のない地域に「濡れ衣」を着せる一方、福島県外で問題があるかもしれない地域のことを見えなくしてしまっている。


「そばもん」のアプローチ
 ネット上にはこの「美味しんぼ」、「マンガとして面白くない」という意見もあった。なるほど、確かにこの視点も重要である。描かれていることが真実かどうかという議論ばかりが先行しているが、そもそもこれはマンガというジャンルの一つの作品である。その出来不出来を論じる視点があってしかるべきである。
 
 その視点で見ると、確かにこの問題になった「福島の真実」編、マンガとしてもそれほど面白くない。登場人物がことごとく作者のスタンスに立っており、作中に異論、反論は現れない。登場人物が語るセリフは作者のスタンスを是とするものばかりである。ストーリーに振幅がなく、ただ単に作者の主張が登場人物の口から代わる代わるに述べられるだけである。一人の人物のモノローグでもよいのではないかと思わせられるくらいである。
 
 ちょうど同時期に「福島」を扱ったマンガがあった。ビッグコミックに連載されている「そばもん」である。その名の通り、蕎麦をテーマにしたマンガで、この時期に福島の会津そばについて取り上げられている。
 
 「そばもん」のアプローチは「美味しんぼ」とは対極にある。「会津そば―山都編」では、全国を放浪中の主人公のそば職人が、「震災後3年、会津のそばを訪ねる」という企画で取材するライターに同行、そこで会津の人々のこれまでの苦労とそばづくりに対する熱意と努力が明らかにされる。ただ、それだけでなく、このライターが「福島産のものは食べないという読者もいる」と主張して、福島産の安全性について丁々発止の議論となるのだ。
 
 こうした展開であれば、賛否双方の主張が明確になった上で話が進んでいくので論点が自ずと整理される。ストーリーとしても面白い。しかも、よく分からない根拠によって「被曝した」とか「住めない」とか主張することもなく、あくまでそれに関するデータを明らかにした上で考察が進められている。片や登場人物全員の語りだけで不安を煽る展開、片やデータに基いて賛成反対双方の議論が進む展開、どちらに説得力があるかは言うまでもない。
 
 この「会津そば―山都編」の前編は異例なことに、期間限定ではあったが全文がネット上で公開された。この問題に対する「そばもん」の作者の並々ならぬ意思が窺える。
 

問われている私たちの心構え
 「美味しんぼ」では作中で主人公の父親が、「福島に住んでいる人たちの心を傷つけるから、住むことの危険性については、言葉を控えるのが良識とされている。だが、それは偽善だろう」と述べている。しかし、まず、そのような「良識」はない。リスクについての情報があればそれは隠さずに公開されることを福島の人たちも求めているはずである。ただし、それはそのことがそれこそ「真実」であった場合、という大前提がつく。今回のような被曝の影響とは立証されていない鼻血をあたかも被曝したために出たものと印象づけようとしたり、広大な福島全土が住むのに危険な地域であるかのような言説を振り回したりというのはまったくそれには当たらない。もっと言えば、どちらが「偽善」かと言えば、自身の頭の中にある「真実」のみに固執し、それに反対する指摘には耳を傾けず、徒に人心の不安を煽る方が「偽善」と言えるのではないだろうか。
 
 福島第一原発事故が未曾有の惨事であることは言うまでもない。その影響が今後数十年、あるいは数百年に亘って残り続けることも疑い得ない事実である。また、放射性物質、特にそれが人体にもたらす影響については分かっていないことも多い。そこで多様な意見が出ることは、本来望ましいことである。今回の作者の主張もその文脈では多様な意見の一つとして尊重されてしかるべきである。
 
 ただ、今回どうしても看過できないと思ったのは、本来そうした多様な意見の一つでしかないはずの「福島は全部危険」という意見をあたかも「真実」であるかのように伝えたという、その伝え方の姿勢である。
 
 と同時に、今回のことは福島、そして東北に住む私たちが試された機会でもあったと思う。数十年、数百年のスパンで考えなければいけない今回のこの福島第一原発事故に関してはきっと、これからも時折思い出したように今回のような言説が何らかの形で飛び交うことになるに違いない。その時に今回のようにただ単に風評被害の発生を心配するだけではなく、全く根拠の伴わない言説に対してしっかりと根拠を挙げて反論し、論破していく必要があるということである。

 今回の作中でも、福島の人たちの「人の良さ、我慢強さ」が言われているが、謂れのない非難や中傷を受けた時には、そうした美質を擲って的確にこちらの意見を表明していくことが求められている、と私は思った。今回のことは、今後折に触れて続くであろう「汚染された東北」にまつわる言説(そしてそれは「蝦夷」と呼ばれた古の東北の人たちが辿った道でもあるが)に対する私たちの心構えを問うものだったと考えたい。


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