2015年03月03日 

私的東北論その66〜特殊公務災害逆転認定までの経緯◆屬箸△訃男表隶の証言」

150303-014654 前回、特殊公務災害に認定されるまでのおおよその経緯について説明した。最初に特殊公務災害非該当との決定がなされたのは地方公務員災害補償基金仙台支部だが、その決定に至るプロセスでは、弟が津波避難の広報活動を行った仙台市若林区荒浜で、同様に避難誘導を行っていた若林消防署荒浜航空分署の署員から、発災当時の状況について証言を得ていた。

 その一部は以前紹介したが、それは仙台支部の決定通知書にあった記載を引いたもので、ごく断片的なものであった。その後、支部審査会に対する審査請求の段階で両親の代理人となった土井浩之弁護士が、支部審査会に要請して当該証言の全文を入手した。その内容は詳細かつ具体的で、今まであまり知られていなかった、地震発生当日の荒浜地区における津波避難のための活動の実際について知ることができる貴重な資料となっている。そこで今回はその証言の主要部分について紹介したい。

 ちなみに、日付は2011年6月28日となっている。地震発生から3ヶ月あまり後のことで、当時の記憶もまだ正確かつ鮮明に残っていたと考えられる。以下がその証言である。


 「平成23年3月11日午後、私は若林消防署で訓練業務にあたっておりましたが、午後2時46分の大地震発生により、『市内上空からの被害調査』の任務指示で急いで所属(荒浜航空分署)へ戻り、帰署途上大津波警報の発表を知りました。津波到達予定時刻は3時00分と予想され、同時刻に荒浜航空分署に到着しました。

 その後、津波到達予定が3時30分に変更になったことから、その時刻ギリギリまで、荒浜地区の住民の避難誘導にあたることにしました。活動は、深沼橋からさらに海側に入った辺りの住民を消防車に乗せて荒浜小学校に避難させたり、通行していた一般車両に避難者を乗せて東部道路より西に避難させるように指示を出したり、避難誘導や救助活動を実施していました。小学校までを何度も往復し、その最中に、若林区役所の広報車らしい車を何度か見たような記憶があります。後日車両の発見に立ち会った際に、『あのときの車じゃないか?』と感じました。私ばかりでなく、同僚も、当該車両を『震災当日、現地で見かけた記憶がある』と言っています。

 現地では、私たち消防局の他、警察、さらにもう一台の車両が、避難の広報をしていたと思います。『区役所の車かな?』と思っていました。

 私たちは、津波が迫っている情報を消防ヘリコプターからの無線で得ていました。私は同僚に、『言葉なんてどうでも良い。『逃げろ!』で良いから、大声で呼びかけろ!』と指示し、住民を学校に避難させる途中も、ずっと広報し続けました。一人でも多くの住民を避難させなければと、とにかく必死でした。

 しかし、県道塩釜亘理線沿いのコンビニの前では市民の反応が鈍かったのも事実です。座り込んで何かを食べている人たちすらいました。『ここまでは来ないだろう』と、皆思っていたのでしょう。確かに今までの経験では、これほどまでの大津波が来るとは、誰も予想していなかったと思います。

 『荒浜航空分署の出場体制を立て直す必要と、2機目のヘリコプターを出場させるから、すぐ戻れ!』という命令(3時40分)がなかったら私たちも津波に巻き込まれていたと思います。荒浜航空分署職員の使命は、消防ヘリコプターを活用して上空からの避難誘導と津波到達してからの人命救助です。とにかく分署に戻る必要がありましたので、最後に住民を(車内に)乗せ、隊員は車両の上に乗って荒浜小学校に向かいました。そのとき、上に乗った隊員が、津波の白波が迫って来るのを遠方に見たと言っていました。3時50分に小学校を出発し、53分に分署に到着しました。大津波が分署を襲ったのは、その僅か1分後のことでした。私たちも、まさに間一髪、命が助かった状況です。

 分署からの命令により荒浜小学校を離れるとき、荒浜新一丁目の住宅街の方向から、避難を呼びかける広報車の声が響いていたのを記憶しております。

 後日、荒浜でたくさんの住民が亡くなったことを知りました。あれほど力を尽くしてたくさんの方々を避難させたけれど、まだ多くの住民が荒浜地区に残っていたのだなと思うと非常に残念です。」


 以上が荒浜地区で避難誘導に当たっていた消防署員による3月11日の状況についての証言である。いろいろなことが分かる。消防と警察以外にもう一台避難広報をしている車があり、この消防署員はその車を区役所の車と認識していたこと、県道塩釜亘理線付近の地域住民の反応は鈍く、逃げようとしていなかった人もいたこと、消防署員が署に戻ろうとした3時50分の段階でまだ避難を呼び掛ける広報の声が聞こえていたこと、などである。

 この、消防や警察や区役所が避難誘導をすることは、これまた以前も書いたが、「仙台市地域防災計画」で定められている。「地震災害対策編」の第3章「災害応急対策計画」の「5 津波応急対策計画」では、津波発生時における人的被害を最小限に止めるため、津波予報の収集・伝達、海面監視及び避難体制について定めている。そして、その実施機関は、消防部、区本部、宮城県警察の3者とされているのである。

 なお、避難誘導体制のうち避難広報等については、「避難勧告等を行ったときは、消防車、広報車及び報道機関との連携等により迅速に地域住民等に対し周知徹底を図」るものとされているが、今回のこの証言からは消防と区役所が相互に連携した様子は窺えない。未曽有の大地震で多少なりとも混乱があったのだろうが、消防が把握していた「津波接近!」との情報が、弟の乗った広報車にも伝わっていればと残念に思うところである。

 ちなみに、なんと3月28日に弟が乗っていた車が発見したのも、4月28日に弟の遺体を発見したのも、この証言をしてくれた消防署員の班だったとのことで、「縁があるのかな」と思ったそうである。弟の遺体が発見された南長沼付近では、住民の遺体も数多く発見されており、そのことからも、大津波が押し寄せる最後の最後まで、広報していて津波に巻き込まれたのではないか、とこの消防署員は推察している。そして最後に、今回のことは、「仙台市の大津波に対する避難誘導のあり方として多くの教訓を残してくれ」たとして、その「死を無駄にすることなく、私たち仙台市職員がやるべきことは、これからの安全安心な仙台市の復興に、また、これからの津波対策に生かしていくこと」であり、それが供養になると締め括っていた。

 このように、現地での弟の様子について、もちろん詳細に観察したり言葉を交わしたりしたわけではないにせよ、見ていた人がいてくれたことは率直に言って嬉しいことである。この証言によって、弟が最後まで地域住民のために避難の呼び掛けをしていたことが、弟だったらそうしただろうなとは思っていたが、それが単なる身びいきではなく分かったのである。

 冒頭の写真は、弟の遺体発見時に会ったその消防署員を父親が撮影したものである。連日の捜索活動の疲れの色も見せずに、弟の遺体発見時の様子について丁寧に説明してくれたそうである。 


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