2015年07月31日 

私的東北論その71〜東北観光を平泉を中心に点から線、そして面へ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

高蔵寺阿弥陀堂 「東北復興」第37号が6月16日に刊行された。この号では、東北の観光客数がなかなか震災前の水準に戻らない中、震災の年に世界文化遺産となった平泉がその後も堅調な観光客数を維持していること、平泉に代表されるこの世の浄土を表す建築・庭園や奥州藤原氏関連の遺跡は平泉だけにとどまらず、東北全域に残っていることを踏まえて、東北の観光を平泉に関連付けて面的に展開していくことを提案した。

 本文中で「紙面の関係でやむなく割愛させていただ」いた東北各地の遺跡としては、以下のようなものがある。

奥州市・旧衣川村(岩手県)
初代清衡が祖父である安倍頼時の慰霊のために建てたという九輪塔跡が残る。
 
奥州市・旧江刺市(岩手県)
初代清衡が平泉に移る前の40年余りをすごしたという豊田館跡、その清衡の産湯に使ったという泉がある走湯稲荷社や清衡のへその緒を祀ったという藍婆社もある。奥州藤原氏時代の金山の一つという戸中金山跡もある。

花巻市・旧東和町(岩手県)
初代清衡が深く信仰し、108体の仏像と社堂を寄進したという丹内山神社、四代泰衡が藤原三代を供養するために十一面観音を安置したという石鳩岡観音堂がある。

鹿角市(秋田県)
尾去沢金山がある。また、秀衡の長男国衡が修復したという大日堂もある。

大館市(秋田県)
泰衡が埋葬された錦神社、泰衡の奥方を祀った西木戸神社がある。

横手市(秋田県)
清原氏の居館跡ともいう大鳥井山遺跡がある。ここは清衡の次男正衡がこの地を治めたとの伝承も残る。

涌谷町(宮城県)
最古の産金地として知られ、黄金山神社がある。
 
栗原市・旧花山村(宮城県)
花山廃寺跡からは発掘調査で浄土庭園が確認された。

白河市(福島県)
白河の関。清衡が建立したという一丁仏が残る。吾妻鏡に記載のある「傘卒塔婆」だという説もある。

白水阿弥陀堂 中尊寺金色堂との関係で取り上げた東北にあと2つある平安時代の阿弥陀堂、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)と白水阿弥陀堂(福島県いわき市)も興味深い。現存する平安時代の阿弥陀堂は全国で7つだそうだが、そのうち3つが東北に残るというのは、この時期の東北がまさに奥州藤原氏の治世だったことと深い関わりがある。

 以下がその全文である。

 

3年連続200万人超の観光客が訪れた平泉
 周知の通り、東北で唯一の世界文化遺産が、岩手県平泉町の「平泉─仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」である。この平泉町を訪れる観光客の数は、世界遺産に登録された2011年の翌年から3年連続で200万人を超えている。また、震災のあった2011年は東北各地とも観光客数が大きく減少したが、平泉町には、その年の6月に世界遺産に登録されたこともあってか、震災の前年2010年すら上回る192万人の観光客が訪れている。

 震災以降、東北を訪れる観光客数は減少している。主な被災地である岩手、宮城、福島の3県だけではない。震災後、東北の6県全てで観光客数が落ち込み、2014年現在でも、震災前の2010年の観光客数を山形のみが辛うじて上回ったという状況である。良くも悪くも東北六県は、観光においても一蓮托生という状況である。それだけに、岩手で最も小さな自治体であり、町内に宿泊施設も少ない典型的な通過型観光地であった平泉町の健闘ぶりが光る。
 
平泉の文化遺産だけでは見えてこないもの
 観光振興は、震災後の東北復興にとって、欠くことのできない要素であるだけに、そのバロメーターとしての観光客数の回復は喫緊の課題である。それに関して私が提案したいのは、「平泉」をキーワードとし、平泉を基点とした、東北各地の「観光連携」を強化するということである。

 今更言うまでもないことだが、奥州藤原氏が勢力を振るったのは平泉周辺のみならず、現在の東北地方のほぼ全域に及んでいた。従って、東北各地には、奥州藤原氏に関わる伝承や遺構が残っている。しかし、それらは一部を除いて本当に知られていない。これは奥州藤原氏の「この世の浄土を創る」取り組みの全貌を知るという点からも、大変残念なことである。

 奥州藤原氏はわずかに平泉だけをこの世の浄土としたかったのではない。中尊寺に残されている供養願文にある通り、古くから官軍、蝦夷が多数命を落としてきたこの東北の地全体を浄土としたかったのである。

 その奥州藤原氏の思いを知るためには、世界文化遺産の5つの構成遺産だけでは到底足りない。もちろん、中尊寺の金色堂も、毛越寺の浄土庭園も、観自在王院跡の浄土庭園も、金鶏山も、無量光院跡も、そうした取り組みを今に伝える貴重な遺産である。しかし、奥州藤原氏の目線は自分たちのいる平泉の範囲だけにあったわけではなかった。平泉の遺産を見ているだけでは、そのことが見えてこないのである。

平泉を基点とした観光連携の可能性
 平泉にある世界文化遺産の5つの構成遺産は、いわば3つのカテゴリーに分けられる。中尊寺の金色堂は阿弥陀堂、毛越寺と観自在王院跡にあるのは浄土庭園、金鶏山は単独でも信仰の対象となった山だが無量光院跡との組み合わせが重要な意味を持つ。これらは形こそ違うがいずれも「浄土」を表している。

 平泉との関わりで真っ先に思いつくのが、金色堂以外に東北にあと2つある阿弥陀堂である。一つは福島県いわき市にある白水阿弥陀堂、もう一つは宮城県角田市にある高蔵寺阿弥陀堂である。白水阿弥陀堂は奥州藤原氏初代清衡の娘徳姫が建立したものである。浄土庭園の中に阿弥陀堂があり、その意味では中尊寺金色堂と毛越寺浄土庭園の特徴を併せ持つような阿弥陀堂である。ちなみに白水(しろみず)は地名だが、その由来は「平泉」の「泉」の文字を2つに分けて名づけたものとの伝承がある。

 高蔵寺阿弥陀堂は、奥州藤原氏三代秀衡夫妻が建立したとされる。なぜ秀衡がこの地に阿弥陀堂を建立したかについては以前拙ブログで論じたことがあるが、平永衡の供養のためだったのではないかと私は考えている。

 余談だが、中尊寺金色堂は奥州藤原氏三代の遺体と四代泰衡の首級が納めれられていることから葬堂であったと解釈され、初代清衡が自身の極楽往生を願って建立したものと言われることもあるが、私はこの説は採らない。供養願文で別け隔てのない極楽往生を祈念した清衡が自分だけの極楽往生のために葬堂を築くだろうか、というそもそもの疑問がある。私は、金色堂は東北のために戦って命を落とした父・経清の極楽往生を願うものだったのではないかと考えている。高蔵寺阿弥陀堂もその延長線上にあり、やはり東北のために戦って命を落とした経清の盟友・平永衡の供養のために、永衡に縁のこの地に築いたものであろうと考えている。

 これら2つの阿弥陀堂は、中尊寺金色堂と「阿弥陀堂つながり」である。

5つの構成遺産と関連のありそうな遺跡
 白水阿弥陀堂には浄土庭園もあり、その意味では毛越寺や観自在王院跡と「浄土庭園つながり」でもある。世界文化遺産登録からは漏れてしまったが、同じく登録を目指していた遺産のうち、同じ平泉町内にある達谷窟毘沙門堂にも実は浄土庭園があったという伝承があり、今後それが発掘されればやはり「浄土庭園つながり」である。

 岩手県紫波町にある樋爪館は、初代清衡の四男清綱に始まると言われる樋爪氏の居館だったところで、その周辺は「ミニ平泉」の様相を呈しているが、館の南に面して今も残っている五郎沼は元は浄土庭園であったと言う。また、宮城県栗原市の旧花山村にある花山廃寺跡からは発掘調査の結果、浄土庭園の跡が確認されている。これらも「浄土庭園つながり」である。

 金鶏山と無量光院跡との関係はまた独特である。無量光院跡から見る夕陽は、春と秋の年2回金鶏山山頂に沈むが、その時の夕陽は無量光院の本尊の阿弥陀如来の光背に重なり、まさにこの世の極楽浄土を感じさせる意匠となっていた。

 やはり世界文化遺産登録からは漏れてしまったが、平泉の南隣の岩手県一関市内にある骨寺村荘園遺跡もやはり浄土との関わりがある。骨寺村荘園遺跡は中世の絵図にある田園が今もそのまま残っていることが特徴としてよく言われるが、そればかりでなくこの地には元々中尊寺の元になった寺院があったとの伝承が残っている。それだけでなく、ここから見る夕陽が春と秋の年2回、栗駒山頂に沈むのである。

 平泉の北隣の奥州市の旧衣川村には月山という小高い山があり、山頂にある月山神社は中尊寺の奥の院とも称された。同じ旧衣川村にある長者ヶ原廃寺跡から見る夕陽もやはり春と秋の2回月山山頂に沈むとのことで、これらは金鶏山・無量光院跡と「夕陽つながり」である。

後代と違った「金」の意味合い
 「浄土」という点では、金との関わりも見逃せない。仏の世界は皆金色とされ、それを表現するのに金は欠かせなかったが、当時わが国で唯一の産金地帯が奥州藤原氏が君臨した東北であった。岩手県西和賀町には鷲之巣金山跡があり、「秀衡掘り」の名も残る。秀衡街道と呼ばれる、金が運ばれたという古道があり、秀衡が建立したという久那斗神社(仙人権現社)もある。

 岩手県陸前高田市には玉山金山跡があり、坑道跡が今も残る他、金商人だったという吉次の屋敷跡もある。秋田県鹿角市には尾去沢金山があり、近くには秀衡の長男国衡が修復したという大日堂が今も残る。宮城県涌谷町はわが国最古の産金地で、黄金山神社がある。岩手県江刺市にも奥州藤原氏時代の金山の一つという戸中金山跡がある。

 これらの金山から産出される金は当時、富や権力の象徴であったのではなく、仏の世界を具現化するのに欠かせないものだったのである。後代の足利義満の金閣や豊臣秀吉の黄金の茶室はまさに富と権力の象徴だったのだろうが、それと同じ目線で金色堂を見てしまうと理解を誤ってしまう。

奥州藤原氏と関わりの深い遺跡
 浄土との関わりだけでなく、奥州藤原氏そのものとの関わりが見える遺跡はさらに多い。宮城県南三陸町がある本吉郡は秀衡の四男の高衡が治めていたとされ、町内にある朝日館跡、保呂羽神社、大雄寺、荒沢神社、田束山などに、高衡や奥州藤原氏に関係する伝承が残っている。

 山形県酒田市は奥州藤原氏の残党、酒田三十六人衆が築いたとの伝承が残る。この36人は、秀衡の妹とも後妻とも言われる徳尼を守護してこの地まで逃れてきたとのことである。徳尼はこの地に泉流庵という庵を構えて一族を供養し、それは今も泉流寺として残っている。また、秋田市で徳尼が乗ってきた白馬が死に、その地に草庵を作り祀ったのが現在の白馬寺の所縁とも言う。

 秋田県鹿角市にある桃枝という小さな集落は、ほとんどの家が藤原姓である。昔源頼朝に追われて落ちてきた泰衡は、この地に宿陣した際、つき従ってきた家臣に「もし自分が戦死したら藤原の姓を継ぐように」と言い残し、それでこの地に残った家臣は皆藤原姓を名乗ったのだという。

 また、宮城県塩竈市の鹽竈神社には、秀衡の三男忠衡が奉納したという「文治の燈籠」がある。青森県五所川原市の旧市浦村には十三湖があるが、ここはかつて秀衡の弟が治めた一大貿易港だったという伝承がある。

 他にも紹介したい遺跡がまだまだあるのだが、紙面の関係でやむなく割愛させていただく。
 
東北のスケールメリットを活かせる連携を
 このように、東北各地に平泉の文化遺産や奥州藤原氏に関連する遺跡・遺構が残っているのである。こうしたそれぞれの点を線で結び、面的に展開していくことができたならば、東北の観光はより活性化し、平泉のみならず東北全域をこの世の浄土とすることを目指した奥州藤原氏の取り組みもよりよい形で理解できると思うのである。

 平泉も3年連続200万人超とは言え、その観光客数は微減傾向にある。他地域と連携することは、平泉自身の観光振興にもプラスになるはずである。平泉と、平泉と関連のある地域がまず連携してそれらを周遊するプランを作って平泉の文化遺産だけでは飽き足らない観光客のニーズに応え、その平泉と関連のある地域がまた別の地域と連携してさらにその先にも足を延ばしたい観光客のニーズに応えるプランを作る。そのようにして、東北の各地域が観光面で連携のために知恵を絞ることで、この東北のスケールメリットが観光に活かせる。平泉は決して東北の各地域にとって、「他人事」ではないのである。


anagma5 at 22:54│Comments(0)TrackBack(0)clip!私的東北論 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔