2015年09月30日 

私的東北論その73〜いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

150806-093509 8月16日に刊行された「東北復興」第39号は、「笑い仏」特集であった。同紙にその旅の模様が連載されてきた「笑い仏」さんが、この8月に最終目的地である福島に到着したのである。

 富岡町の浄林寺にてその開眼供養が行われることになり、そこに私と同紙編集長の砂越豊さん、さらに「とにかく東北を語る会」にも来ていただいたNPO法人STELA副理事長の坂本拓大さんの3人で参加してきた。その開眼供養の模様は砂越さんの記事や、「笑い仏」プロジェクトを進めてきたMONKフォーラムの平原憲道さんの記事に詳しいので、私は少し別の角度から書いてみた。以下がその全文である。

いわきと富岡で見聞きして考える震災復興の現在

「笑い仏」さん、ついに福島へ
 「笑い仏」さんがついに、3年余りの旅を終えて福島に到着した。福島第一原発から直線距離で約11kmの場所にある富岡町の浄林寺がその最終目的地である。8月6日にその開眼法要が営まれ、檀家の方々を中心に、約150名の方が集まった。恐らく今号では編集長の砂越さんやMONKフォーラムの平原さんがその模様を詳細に報じておられることと思うので、ここでは、震災発生から4年5月が経過した現時点での復興について、いわきで見聞きしたことを基に、改めて考えてみたいと思う。

「記憶の記録プロジェクト『田』」
 私は、仙塩地区の医療・介護関係者でつくる「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の取り組みがマスメディア等でほとんど報じられていないということに問題意識を持ち、それらの方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただいている。

 東日本大震災は我々にとって未曽有の災害であったが、歴史を紐解くと過去にも同様の震災が繰り返し起こっていたことが分かる。それは他地域においても同様で、少なくともこの国にいる限り、どこにいても今回のような震災に遭遇するリスクは存在する。したがって、今回の震災体験から得た学びや知恵を他の地域の人や、この地域のこれからの人に伝えていくことはこの上なく重要なことであると思うのである。

いわきで聞いた震災のこと
 この「記憶の記録プロジェクト『田』」の活動の一環として、7月26日、27日の両日、「震災復興交流訪問活動 in いわき(田旅いわき)」と銘打って、いわき市内で9人の医療・介護関係者の方々に震災体験についてお聞きしたが、聞けば聞くほど、現在のいわきの置かれている状況の難しさを思い知らされた。

 いわきはその市域の北端が福島第一原発から30km圏内にあるために、原発事故の影響を受けたと思われている。事実、震災直後、物資はいわきにはなかなか届かなかった。中通りの郡山までは物資が来ていたが、そこからいわきには当初輸送されなかったのである。やむなくいわきから郡山まで物資を受け取りに行った事例が数多くあった。大手のマスメディアも3月下旬までいわきには入らなかった。実際には当時の風向きの関係でいわきのある福島の浜通り南部よりも、中通りの県庁所在地福島や郡山の方が放射線量が高かったというのは大いなる皮肉であった。

 いわきは、あまり知られていないことだが、東北では仙台に次ぐ人口第2位の都市である。つまり、仙台を除く東北の他の5県の県庁所在地の人口をも上回る。同じ浜通りの福島第一原発に近い双葉郡の町村の避難者を受け入れるキャパシティーがある都市は、浜通りにはいわきを措いて他にはなかった。もちろん、中通りの福島や郡山、会津の会津若松なども相応に大きな都市ではあるが、気候が違う。浜通りは住むのに実に快適な地域で、夏は内陸の中通りや会津ほど暑くならず、冬は東北の中で最も温暖で雪もほとんど降らない。こうした浜通りに長らく住んだ人が中通りや会津、ましてや他地域に移り住むには相当なストレスがあったことだろう。

 その意味では同じ浜通りの南端にあるいわきは、原発事故から避難してきた人たちにとっては住みやすい場所だったに違いない。それでいわきには2万人超の避難者が移り住んだ。しかし、そのことが元からのいわき市民との間に軋轢を生んでしまった。片や住み慣れた故郷を離れざるを得なかったとは言え、東電からの多額の賠償金を得ている人たち。片や原発事故の風評被害に苦しみながらも、東電からの賠償は一時金としてほんの数万円得ただけの人たちである。急激に人口が増えたことで、道は朝晩渋滞するようになった、病院の混雑は増した(しかも避難者の医療費は無料である)、賃貸物件が不足した、保育園の待機が深刻になった、賠償金を元手にいわき市内の土地や家が買われて地価が上がり家を建てにくくなった、かつ避難者の大部分は住民票をいわきには移していないので実質的に人口が増えたにも関わらずいわきの税収はほとんど変化がない、そのような声を聞いた。

「他の地域が同じ目に遭ったら助けたい」
 このプロジェクトの活動をしていてよかったと思う時がある。震災発生から4年以上経って、震災のことを日常の中で振り返ったり、他の人と話したりという機会は着実に少なくなってきている。そうした中で改めて話を聞かせていただくことで、もちろんこちらにとっても様々な気づきや学びがあるが、それと同時に話をしてくれた人にとっても震災当時に思いを馳せ、そこから今に至った経緯を振り返ることで、同じように気づきや学びがあるようなのである。

 避難者を受け入れたことによって生じた軋轢について語ってくれたお一人が、ふと気づいたように「でも、それは本筋と違うよね」と言った言葉がとても印象的だった。何が復興の本筋なのか。避難者同士の境遇の差を論じることが復興につながるのでは、少なくともない。元からいわきに住んでいた人にとっては確かに理不尽に感じることがあるに違いない。しかし、願わくは、そうした彼我の差を乗り越えて、共に手を携えての震災復興を成し得てほしい。

 東北第二の都市であるいわきは、いわば浜通りの市町村の「兄貴分」である。2万人以上もの避難者を一手に受け入れるというのはまさにそのポジションに相応しい、さすがの対応ぶりであったと思うし、先ほど述べた気候風土の点や多くの人を受け入れられる余地のある都市規模ということを考えても、他の市町村では同じように対応することはとても不可能であったろうと思う。人口の急増の影響はあろうが、多くの市町村で人口減少が止まらない中での人口増を、地域活性化や震災復興のエンジンに据える取り組みへとつなげていく方策を今後考えていければよいのではないかと思うのである。

 今回お話をお聞きした中のお一人である長谷川祐一さんの言葉を紹介したい。長谷川さんはいわき市内の本拠を置く調剤薬局タローファーマシーの代表取締役として、震災直後県外への撤退事例が相次いだ中でも市内に踏みとどまり、必要な薬を患者に提供し続けた方である。他の地域の人、この地域のこれからの人に何を一番伝えたいかとの問いに長谷川さんはまず、「僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい」と前置きした後、「震災に遭った人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい」と言った。そして、「他の地域が同じ目に遭ったら、今度は僕らが助けたい」とも言った。今回の震災体験を無駄にせずに活かしたい、助けてもらったお返しにそれを活かして今度は他の地域の役に立ちたい、そのように話す人は長谷川さんだけでなく、いろいろな方の口からも出た。被災し、被災から立ち上がろうとしている人に共通の思いなのだと思う。

「常磐線」で見た震災のこと
 そのようなことを考えさせられた「田旅いわき」の翌週の「笑い仏」さんの浜通り入りであった。「田旅いわき」の時は、仙台から東北本線で郡山まで行き、そこから磐越東線でいわきに行ったが、今年1月末に福島第一原発付近の区間で代行バスの運行が開始され、代行バスを2回乗り継げば何とか仙台からいわきまで常磐線経由でも行けるようになっていたので、今回はそちらを利用してみた。

 最初の代行バス区間である宮城の山元町から福島の相馬市までは、まちづくりに合わせて順調に鉄路の再建も進んでいた。しかし、次の代行バス区間である南相馬市から楢葉町までは、福島第一原発のある帰還困難区域を通る関係で、常磐自動車道と国道6号線という幹線道路こそ開通したものの、まちはいまだ再建の緒にすら就いていない。国道沿いの人のいない街並みを見ながら、ひとたびあの事故が起きて、何気ない日常を送っていたこの住み慣れた地を、心ならずも離れざるを得なかった方々の心境はいかばかりだったかと、改めて考えた。

開眼法要で見聞きした震災のこと
 開眼法要が行われた浄林寺も帰還困難区域にあるため、ご住職の早川さんも毎日いわきから車で通っているが、寺の檀家となっているこの地域の皆さんも同様で、普段は様々な地域で避難生活を送っていて、お盆前の施餓鬼法要の折には集まって先祖供養をしているそうである。

 開眼法要もその施餓鬼法要の日に合わせて営まれたので、境内や本堂は大入り満員状態だったが、いわき市内はもとより、仙台や首都圏から来た檀家の人もいて、あちこちで積もる話に笑顔の花が咲く様子が見られた。地域のコミュニティーに果たす寺院の役割の大きさを実感した。

 作者の山本竜門さんが、微笑を湛えた「笑い仏」さんについて、「笑顔を見ると笑顔になる。皆さんにたくさんの笑顔がもたらされますように」と挨拶された言葉が印象的だった。また、早川住職の「諦めたらそこで終わり。し太く頑張ろう」との言葉も、現状が現状であるだけに身に沁みた。

 いわき市内は仙台と同じく、開眼法要が営まれた8月6日から3日間七夕まつりであった。街にたくさんの人が溢れ、浴衣姿の子供達もたくさん見掛けたが、今回様々な調整の労を取ってくださった左雨弘光さんの「子供達が何も気にせずにこうして自由に外に出られる日常が本当にありがたい」という言葉には、本当に実感がこもっていた。

 取り戻せていない日常もまだある。一方で、震災前の通りに戻った日常もある。そしてそこにはそこに住む人の様々な思いがある。いろいろな困難に直面しながらも、その目線は今の先を見ている。まさしく「震災は終わっていない」が、そこからの復興を目指す人は元気である。そのように実感できた2度のいわき訪問であった。


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