2015年12月30日 

私的東北論その75〜今、平泉研究が面白い!(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」第41号が10月16日に刊行された。この回では、平泉に関する現在の研究成果の一端を紹介した。近年の発掘調査の成果により、奥州藤原氏の東北並びにその周辺における動向が明らかにされてきていて、かつその内容がとても興味深い。今後さらにどのようなことが明らかになるのか興味津々である。

 なお、こうした平泉研究の成果については、毎年1回開催される「平泉文化フォーラム」でも公表されている。次回の平泉文化フォーラムは、2016年1月30日(土)、31日(日)、一関文化センターで開催される(参照サイト)。


今、平泉研究が面白い!

推理小説を読むような面白さ
 最近、平泉について書かれた新著を読むのが楽しい。あたかも、推理小説を読むがごとく、それまで知られていなかった謎が次々と明らかになるような、知的好奇心を満たす内容がてんこ盛りである。いったいどうしてここへ来てそのようなことになったのだろうか。

 その大きな要因は、発掘調査の進展である。そのお陰で、従来の「奥州藤原氏は実質的には奥六郡と仙北三郡を支配していた一地方豪族に過ぎない」というような、奥州藤原氏を過小評価するような論説が覆された。そして、奥州藤原氏が現代の我々が想像する以上に当時のグローバルスタンダードを踏まえていて、平泉の文化も、京の文化を模倣することで成り立っていたようなものではなく、極めて独自性を備えた文化だったことが明らかになってきたのである。

 特に、入間田宣夫「藤原清衡〜平泉に浄土を創った男の世界戦略」(集英社、2014年9月)と斉藤利男「平泉〜北方王国の夢」(講談社選書メチエ、2014年12月)は、近年の発掘調査に基づく最新の知見を余すところなく披瀝しており、文字通り目から鱗の内容も数多い。前者では、奥州藤原氏初代清衡に焦点を当て、清衡は閩国王・王審知の仏教立国事業を知り、そうした当時の東アジアの仏教のグローバルスタンダードに則って国づくりを進めていたとしている。一方後者では、奥州藤原氏の在りようは、過去に存在した渤海王国に比すべきものとして、朝廷の支配下にあった一地方政権という枠を超え、北方世界に広く影響力を及ぼした政権との見方を示している。

京都とは異なる平泉の神仏
 平泉の仏教文化は、京都のものを取り入れたものというのがこれまでの見方であった。もちろん、大きな影響を受けたことに間違いはないが、平泉の仏教文化は京の都を飛び越えて、さらに当時の東アジアのグローバルスタンダードに準拠していたことも明らかになってきた。

 当時の京の都の御願寺(天皇・上皇・皇后などの発願によって建てられた寺院)は、宇宙の中心仏とされた毘盧遮那如来(大日如来)を本尊とし、それに五大明王を祀るという真言密教色の強いものであった。これに対して同じ御願寺である中尊寺の鎮護国家大伽藍一区や毛越寺では、顕教寺院の特徴の方が強く現れ、釈迦如来や多宝如来、阿弥陀如来が本尊で、大日如来の使者である五大明王も一切導入されなかった。五大明王の下で行われる五壇護摩法は夷族や怨霊の調伏を目的に行われており、当の夷族の長を自任していた奥州藤原氏にとっては排除すべきものだったのである。と同時に、これは京の仏教文化に対する独自性の追求でもあった。

 独自性の追求は、仏教だけでなく、神社においても見られる。平泉には天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取も一切勧請されなかった。それに対して勧請されたのは仏教に関わりの深い日吉、白山、金峯、熊野、王子など洛外の諸社、洛中では上下貴賤の分け隔てなく信仰された諸社に限られたのである。

 このように平泉では、平安京とは異なる論理で勧請される神が選ばれたことが分かる。とりわけ重大なのは、藤原氏の祭神である春日も勧請されなかったことである。奥州藤原氏が、藤原氏の血を引き、藤原を名乗りながらも、京の藤原氏とは一線を画する意識でいたことが窺えるわけである。そこには、中央の論理を一貫して排除する姿勢が感じられる。

東北各地で見つかる奥州藤原氏の出先機関
 平泉の柳之御所遺跡で多数出土することから「平泉セット」と名付けられた、平泉型てづくねかわらけや白磁四耳壺が出土する遺跡が、特に平泉以北の東北の各地で見つかっている。平泉型てづくねかわらけは宴会用の土器、白磁四耳壺は輸入陶磁器である。これらが出土する遺跡は、奥州藤原氏かそれに連なる勢力の居館だった可能性が高いのである。

 その代表的なものとしては、青森県内の蓬田大館遺跡、内真部(4)遺跡、新田(1)遺跡、浪岡城跡内館遺跡、中崎館遺跡、秋田県の矢立廃寺、観音寺廃寺、岩手県の比爪館跡、田鎖車堂前遺跡、川原遺跡、宮城県内の花山寺跡、多賀城跡、大古町遺跡、福島県内の白水阿弥陀堂境域などがある。

 これによって、奥州藤原氏は東北全域を支配下に置いていたのではなく実際には奥六郡と仙北三郡を押さえていたに過ぎないというような指摘は、明確な根拠を以て否定されるわけである。

関係者を驚かせた北海道の出先機関
 関係者にとって衝撃的な発見が、この中の新田(1)遺跡、そして北海道の厚真町の宇隆1遺跡であった。新田遺跡は、港湾機能を伴った集落遺跡で、平泉政権の外港的位置づけの出先機関があったと見られている。さらに、宇隆1遺跡では、北海道で唯一奥州藤原氏時代の尾張常滑窯の壺が出土した。この壺は、平泉との結びつきを示しているのみならず、その形状と出土場所の特徴から、奥州藤原氏が各地に築いた経塚の外容器であったと見られ、平泉からこの地域に派遣された者が造営したと考えられているのである。

 遺跡のある場所はまさに道央の入り口である。それまで、本州から渡った人々がこの地に居を構えるようになったのは室町時代と見られていたが、宇隆1遺跡の出土物は、実は既に平泉の出先機能を持つ拠点がこの地にあったことを物語っているのである。

 これによって、奥州藤原氏の影響力の及ぶ範囲は、陸奥出羽両国にとどまらず、道南を越え、道央の入り口にまで達していたことが明確になったわけである。中尊寺供養願文で清衡は、自らを「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)として、「出羽・陸奥の土俗」を従え、さらに「粛慎・挹婁の海蛮」をも従えていると書いている。従来は、その表現を大仰に過ぎると見る見方がほとんどだったが、実際に海を越えて、奥州藤原氏の影響が及んでいる地域があることが明らかになったわけで、供養願文にあるこのくだりはそれ相応に根拠があることだったわけである。

「大平泉」の都市機能
 平泉自身も世界遺産に登録された中尊寺や毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山のある区域のみにとどまるものではないことが明らかになってきた。奥州藤原氏の前の安倍氏の拠点だった衣川地区からも「平泉セット」が平泉に引けを取らないくらい大量に発掘され、奥州藤原氏時代にもこの地区が「副都心」として機能していたこと、さらに白鳥舘、本町、祇園といった地にも都市集落が形成され、これらを含めて「大平泉」とも言うべき様相を呈していたことが分かってきたのである。

 このうち衣川は、水陸両方の交通の要衝で、水上交通、陸上交通を通じてもたらされた物資が集まって賑わっていたところだったという。白鳥舘には川湊があり、水上から物資が運び込まれた地であると共に、かわらけや鉄製品、銅製品、石製品、水晶細工などを生産していたと見られる工房跡が見つかり、一大手工業生産地であったことが明らかになった。本格的な発掘調査はこれからだが、本町や祇園にも川湊があり、やはり白鳥舘同様の都市機能があったと見られている。当時京の都に次ぐ人口10万人を擁する都市であった平泉の都市機能について、だいぶその詳細が分かってきたのである。

周知の事実に対する洞察
 最新の発掘調査に基づく研究成果だけでなく、周知の事実に関するなるほどと思わせられる深い洞察もあった。例えば、「千僧供養」。僧侶千人を集めて読経させるという一大イベントだが、これを清衡は延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺といった日本の大寺で行っただけでなく、中国の天台山国青寺でも行ったと伝えられている。当時、千僧供養というのは、天皇や上皇、摂政や関白が主催するものだったとのことで、それを一介の地方豪族である清衡が行えたことのすごさ、しかも日本だけでなく中国でも行えたことのすごさに思い至った。中国で行ったことについては、日本に藤原清衡ありという印象を中国国内に植え付けるだけの効果があったに違いない。

 また、「御願寺」であることもそうである。中尊寺は白河上皇の御願寺で、つまり白河上皇の発願による寺ということになっている。当時の京の都では、上皇や天皇の発願による御願寺が多く建立されたが、地方豪族の建立した寺院が御願寺となる例などは空前絶後ということである。しかも、御願寺であるからには、供養願文も白河上皇が主語になる書き方になるべきであるところ、有名な中尊寺の供養願文は、清衡の思いがふんだんに盛り込まれた文章になっているのがそもそも異例であるということである。

これからがさらに楽しみな平泉研究
 入間田宣夫氏は言う。「あれや、これやで、平安京のモデルをストレートに受け入れるのにはあらず。どちらかといえば、東アジアのグローバル・スタンダードに準拠するなかで、それにあわせて東北日本の風土に即応するなかで、さらには武家好みのスタイルを模索するなかで、平安京のモデルさを選択的に採用・アレンジすることによって、平泉の文化はかたちづくられることになった」と。

 斉藤利男氏も言う。「平泉と奥州藤原氏の歴史・文化に対しては、これまでも大きな注目がなされてきた。だが、そこには、古代蝦夷研究と平泉研究の発展に大きな足跡を残した高橋富雄氏を別として、『日本列島北部辺境の一地方史』という視点が強く働いていたように思う。しかし本書で述べたように、平泉と奥州藤原氏は、南の琉球王国と同様、決して『日本国の一地方』という枠組みには収まらないものであった」と。

 これからの平泉研究がさらにどのように展開していくか、実に楽しみである。

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