2016年03月12日
私的東北論その78〜5回目の「3・11」
昨日は、この日が「3・11」と呼ばれるようになって5回目の日だった。
震災に関して言えば、別にこの日だけが特別な日というわけじゃなく、一年365日毎日が復興に向けた大切な一日一日だと思っているのだが、それでもやはり、5年が経っても、この日だけはいつもと比べてほんの少し、心の中がざわざわとさざ波を立てているのを感じるのである。
通勤途中のとあるタクシー会社は弔旗を掲げていた。
職場から見える仙台の街中の風景は既に震災前と変わりなく、復興特需を一身に集めて一人勝ち状態と見られることもしばしばであるが、ひとたび仙台市のその沿岸に足を運んでみると、目の前の風景と彼方に見える市街地の風景とのあまりのギャップに愕然とする。
写真にははっきり写っていないが、津波で根こそぎ倒された沿岸の防風林は、懸命に植樹作業がされているものの、いまだ櫛の歯が欠けたような状態である。
地元紙「河北新報」の一面は見開きに広げるようになっていて、見出しには「あすへ歩む あの日胸に」とあった。
今年も午後は休みを取って、その沿岸に足を運んだ。
途中、若林区役所にある献花台には、多くの花が供えられていた。
この花の数だけ、ここに足を運んで祈りを捧げた人がいるのだと思うと、改めてこの震災がもたらした悲しみの多さに思いが至る。
沿岸の荒浜では、地区唯一の寺院、浄土寺で今年も追悼法要が営まれていて、たくさんの人が手を合わせていた。
震災直後、「海岸に200人〜300人の遺体」との衝撃的な報道がされたここ荒浜。
その報道は実は誤報であったが、随分後まで真実と思われていた。
実際には、ここで亡くなった方は173名、遺体が見つかったのも震災直後ではなくその後の捜索の結果であったし、見つかった場所も海岸などではなくほとんどがより内陸の南長沼周辺であった。
ここの防潮堤工事は昨年末に終わり、自由に海岸に足を運べるようになった。
この日の海は、時折波しぶきが消波ブロックに打ちつけていたものの、概ね穏やかで5年前に10mの津波が押し寄せたことなど想像もできない。
その防潮堤、従来のものにさらに上乗せされたことが見て取れる。
海岸に近い一画には、震災前後の荒浜の写真が数多く掲示されていた。
震災前の人々の生活の営みが窺える写真と、震災後の同じ地区とは思えない荒涼とした景色の写真。
この地区の人々の暮らしを一瞬にして奪った大津波の脅威を今さらながらに感じた。
震災直後、助かった人が避難した荒浜小学校では、今年もHOPE FOR projectが、土に還るエコバルーンに花の種を入れてリリースした。
飛んで行った花の種がどこかで花を咲かせることを想像すること、それもまさにHOPEである。
夜は、お気に入りのビールを飲んだ。
肴は、子どもの頃、弟と一緒によく食べたやきとりの缶詰である。
この日だけは奮発して大きなサイズのものである。