2018年02月08日 

私的東北論その105&東北に関係する書籍その9〜「玉虫左太夫が見た夢」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興」第68号では、幕末の仙台藩士玉虫左太夫を主人公に据えた小説「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」について取り上げた。玉虫左太夫の遺した業績については、もっと評価されるべきと思う。


玉虫左太夫を扱った小説
「竜は動かず」 「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」(上下巻、上田秀人、講談社)は、幕末に活躍した仙台藩士、玉虫左太夫を描いた小説である。この歴史の谷間に埋もれてしまった玉虫左太夫という名前を、聞いたことはあるという人は仙台に住んでいる人の中には割と多いのではないかと思うが、彼が為した業績を言い表せる人はそれほど多くないのではないだろうか。

 玉虫左太夫については、本紙第8号で早くも大川真氏が述べている。その中で氏は、「奥羽越列藩同盟の『集議』重視の政治システムは、明治維新の『敗者』=『遅れた』『敗れた』地域である東北にも先進的な政治構想が存在していることの証左と言いうる」と指摘した上で、玉虫左太夫をその奥羽越列藩同盟の「中心的なイデオローグの一人」と位置付けている。そして、玉虫左太夫の書簡にある「人心ヲ和シ上下一致ニセンコトヲ論ス」といった内容を紹介して、「当時としては画期的な内容が盛り込まれている。そしてほとんど看過されていることであるが、こうした先進的な政策が幕末の東北で提言されていることは震災後で大きな意味を持つと私は信ずる」と結んでいる。

小説の中の玉虫左太夫

 本書で描かれる玉虫左太夫は以下のような人物である。――仙台藩の下級武士で、学問を究めるために脱藩して江戸に出奔。苦労を重ねるが、後に幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所の長官となる林復斎に見出され、林の紹介で仙台藩の儒学者・大槻磐渓と邂逅し、大槻の推挙で仙台藩主伊達慶邦との目通りも叶う。林の推挙で堀織部正の従者として蝦夷地を視察し、条約の批准に渡米する外国奉行新見豊前守の従者として太平洋を渡ってアメリカに上陸し、その後アフリカ、インドネシアを経由して世界一周して日本に帰国。その際に見聞きしたことの詳細な記録を「航米日録」としてまとめる。勝海舟や坂本龍馬と交流を持ち、松平春嶽や久坂玄瑞とも接触、仙台藩の命で風雲急を告げる京洛の動静を探る。大政奉還後、新政府から会津討伐を命ぜられるに際して、仙台藩を中心に旧幕府に匹敵する総石高260万石の奥羽越列藩同盟結成のために奔走、盟約づくりにも関与する。同盟崩壊、仙台藩降伏後、仙台藩の反佐幕派によって切腹させられる。

 小説の中で玉虫左太夫は、「日本は忠義を芯とし、礼節を重んじ、受けた恩を忘れぬ国でございまする」と主張する。日本では手柄を立てて与えられた禄や庇護は代を重ねて子々孫々まで受け継いでいけるという保障があるおかげで、武士は安心して戦場に赴けたわけで、自分が討ち死にしても、跡継ぎさえいれば家は残り、家族の生活は守られたのである。したがって、アメリカに対しては、「国をまとめた大統領といえども、次の入れ札で負ければ、ただの人に落ちる。本人でさえ、そうなのでござる。子や孫など一顧だにされませぬ。これでは忠義などありませぬ」と最初は否定して見せる。

 しかし、アメリカについては一方で、船上で艦長が一水夫の死を我が子を亡くしたように悲しむのを見て、「亜米利加が強いわけがわかりました。上の者と下の者が相和すれば人々の心は自(おの)ずから良き方向にまとまりまする。建国以来亜米利加で謀反がない理由もここにあるのでは」と、その情の深さに大いに感じ入っている。

 また、元の身分が低いがために、事あるごとにあからさまな嫌がらせを受けたり、足を引っ張られたりしたために、「馬鹿が上にいないという点は、大いにうらやむことである」「血筋と生まれだけで、さしたる学もない連中が、重臣だと幅をきかせる」と嘆く。そうした中で孫ができたことで、「能力さえあれば、男女に変わりなく頭角を現せる世」であるアメリカの姿が玉虫左太夫の中で大きくなっていくのである。

奥羽越列藩同盟の盟約
 玉虫左太夫はそうした中、奥羽越列藩同盟の軍務局議事応接頭取という外交官ともいうべき役職に就いた。奥羽越列藩同盟は会津、庄内への恩赦を要望する嘆願を出し、続いて盟約を作成する。盟約の全文は小説中には出てこないが、実際の盟約は以下の通りである。

今度、奥羽列藩仙台に於て会議し、鎮撫総督に告げ、盟約を以て公平正大の道を執り、同心協力、上王室を尊び、下人民を憮恤し、皇国を維持し、而して宸襟を安んぜんとす。仍て条例左の如し。
一、天下の大義を伸べるを以て目的と為し、小節細行に拘泥すべからざる事。
一、海を渉る同舟の如く、信を以て居し義を以て動くべき事。
一、若し、不慮危急の事あらば、比隣の各藩、速やかに援救し、総督府に報告すべきの事。
一、強きを負み弱きを凌ぐ勿れ、私に利を営む勿れ、機事を泄す勿れ、同盟を離する勿れ。
一、城堡を築造し、糧食を運搬する、止むを得ずと雖も、漫りに百姓をして労役し、愁苦に勝えざらしむる勿れ。
一、大事件は列藩集議、公平の旨に帰すべし。細緻は則ちその宜しきに随ふべき事。
一、他国に通諜し、或ひは隣境に出兵す、皆同盟に報ずべき事。
一、無辜を殺戮する勿れ、金穀を掠奪する勿れ、凡そ、事不義に渉らば、厳刑を加ふべき事。
右条々、違背あるに於ては、則ち列藩集議し厳譴を加ふべき者なり

 崇高な精神が現れた見事な盟約である。これらの中で、玉虫左太夫がその権限を使って入れ込んだものが5番目の「やむをえずといえども、みだりに百姓を労役させて憂い苦しませてはならない」という項目であった。東北の百姓を、アメリカで目の当たりにした奴隷にしてはならないという強い思いだった。

 本紙第11号で紹介した小説「蒼茫の大地 滅ぶ」で、野上青森県知事は奥羽越列藩同盟の敗因として、「三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった」として、特に「何よりも農民の協力拒否が敗北につながった」と指摘していた。しかし、奥羽越列藩同盟の側には、元々農民を戦争に巻き込まないための盟約が存在していたのである。

 小説中では逆に、勢いづいた会津藩がこの盟約を破って、白河領で密かに農民に食糧を拠出させ、防衛陣を構築するための人夫も徴発するが、そのために恨みを持った農民が新政府軍を手引きして間道を案内した結果、立石山の陣を奪われて形勢が不利になる様子が描かれている。

知られていない理由

 白河の関に差し掛かった玉虫左太夫に、「ここを封じれば……奥州は独立できるか」との思いが脳裏をよぎる。奥羽越列藩同盟については前述の「蒼茫の大地 滅ぶ」でも説明されているが、元々会津、庄内両藩の恩赦を嘆願する同盟だったが、この嘆願が新政府に拒絶された後は、北部政権の樹立を目指した軍事同盟となった。この新しい政権の樹立というのは、新政府とは別の政権を創るということで、いわば新政府からの独立を目指したものと言えるのだが、敗北したこともありこの辺りが過小評価されているのではないかと感じる。輪王寺宮公現法親王を推戴し、「東武皇帝」として即位し、改元も行ったという説もあるのだが、資料が乏しく、統一した見解が得られていない。

 玉虫左太夫らが日本人として初めて世界一周した万延元年遣米使節も、あまり知られていないのではないだろうか。少なくとも、学校教育の中ではいわゆる「岩倉使節団」の方がはるかに著名である。玉虫左太夫自身のこともあまりにも知られていない。

 それは、これらはいずれも「敗者の歴史」であることが理由であるように思える。敗者の歴史は、勝者によって書き換えられるのが常である。とりわけ、新政府にとっては、自分たちとは別の政権が一時的にではあっても存在したという事実は、到底認められないものだったに違いない。

 作者の上田秀人氏は、インタビューの中で、この小説を書いた理由について、「幕末は維新を興した側から語られることが多い。じゃあ私は違う方向から、あの時代を眺めてみようと考えました」と答えている。視点を変えるとまったく違った歴史が見えてくる。この小説はそのまたとない好例であろう。

もし玉虫左太夫が生きていたら

 ところで、この小説のタイトルの「竜は動かず」の「竜」は何を表しているのだろうか。「竜」と言えば「独眼竜」政宗のことがまず思い浮かぶ。「竜は動かず」はこの「独眼竜」政宗の築いた仙台藩が、結局戊辰戦争ではさしたる働きができなかったことを示しているのかもしれない。小説中で仙台藩は、「かつて奥州に覇をはった仙台伊達も、二百六十年をこえる泰平に戦を忘れていた。戦場で討ち死するかもしれないとの恐怖は、実戦経験のなさも加わって勝とうという強固な意思を奪った」と書かれている。奥羽を代表する大藩である仙台藩が、泰平にあぐらをかくことなく軍備や組織の近代化を図っていたとしたら、奥羽越列藩同盟はまた違った展開を見せていたのかもしれない。

 あるいは、時代の変革を「竜」にたとえて、結局奥羽越列藩同盟が目指した「もう一つの日本」が日の目を見なかったことを、このタイトルは伝えているのかもしれない。様々な失策が積み重なって奥羽越列藩同盟は敗れ去ってしまったが、それでも盟約にあるような崇高な精神は、なくならずに今の東北にも伝わり、受け継がれているようにも思う。

 玉虫左太夫、本来は禁固7カ月で済むはずだったが、政敵によって切腹させられてしまった。もし本来の禁固だけで済んでいたら、仙台は、そして日本はどのように変わっただろうか。第14号で取り上げた会津の山本覚馬の業績を見ても、玉虫左太夫ももし生きていたとしたら、相当のことを成し遂げたに違いないと思う。その山本覚馬と玉虫左太夫がもし邂逅していたら、きっと意気投合して、相互に大いに刺激し合ったのではないか、などとも夢想するのである。

 なお、玉虫左太夫が遺した「航米日録」、7年前に「仙台藩士幕末世界一周」(荒蝦夷)というタイトルで玉虫左太夫の子孫である山本三郎氏の現代語訳で刊行されている。併せて読んでみたいものである。

 この「航米日録」にも出てくるが、この世界一周の航海中に玉虫左太夫はビールを飲んでいる。キリンビールのサイトにある「ビールを愛した近代日本の人々」の中に玉虫左太夫も紹介されている。世界を目の当たりにしながら飲むビールが、玉虫左太夫にとってどのような味だったのか、聞いてみたいものである。


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