2018年05月04日 

世界遺産以外の平泉オススメスポット(※7/23追記・現在67箇所)(東北のオススメスポットその13)

 「私的東北論その107」で紹介した「平泉町観光振興計画(案)」(PDF)への意見書の中で、「平泉は世界遺産だけの町ではない」ということで、「世界遺産以外の観光資源についてもしっかり情報発信を」ということを述べた。
 とは言え、駅や観光案内所で手に入るマップには世界遺産を構成する中尊寺毛越寺観自在王院跡無量光院跡、金鶏山の5つに、柳之御所遺跡達谷窟高館義経堂くらいしか載っていない。平泉文化遺産センター柳之御所資料館にも行ってみたが、これら以外の遺跡について載っているマップはない、とのことだった。
 ならば自分でつくるしかないかと思い、先月1日掛けて平泉町内と旧衣川村の一部地域を改めて巡ってみた。巡ってみて改めて感じたのは、やはり平泉は世界遺産に登録された遺跡だけの町ではないということである。もちろん、登録された5つの遺産は素晴らしいものだが、決してそれらだけが平泉なのではない。それら以外の遺跡も能弁に平泉が何たるものかを語っているように思われた。
 以下に、それらについて紹介してみた。とりわけ、「平泉の世界遺産はもう見飽きた」という方々にぜひお役立ていただきたい。
 紹介文の中に度々、平泉の中央、東方、南方、西方、北方の五方鎮守(四方鎮守とも)のことが出てくる。かつて平泉には、中央に惣社、東方に日吉、白山の両社、南方に祇園社、王子諸社、西方に北野天神、金峯山、北方に今熊野、稲荷等の社があったとされる。個人的に、それらを巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけだと思うのだが、それらのうち、東方の「日吉、白山両社」は現在の白山妙理堂、南方の「祇園社」は現在の八坂神社、北方の「今熊野」は現在の熊野三社でほぼ間違いなく、西方の「金峯山」は金鶏山、花立廃寺跡という可能性が高いと考えられるものの、中央の「惣社」については意見が分かれている。もう一つ西方の「北野天神」については、現在の毛越けごし地区に北野天神社があるとの話もあったが、今回確認できなかった。次に訪れた際に詳しく調べてみたい。 南方の「王子諸社」、北方の「稲荷社」についても同様である。
 あ、ちなみに、以下の遺跡は単に私が足の向くまま回った順番に並んでおり、並んでいる順番には特に意味はない(笑)。我ながらよく一日で回ったものである。
 なお、遺跡の中には学校や私有地などもあるので、無断での立ち入りは厳禁である。
世界遺産以外の平泉オススメマップ これらの位置関係を示した「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」も作ってみた。併せてご参照いただきたい。

追記(2018.6.26)
 前回回り切れなかった場所をいくつか追加した。既存の場所にも必要に応じて説明を追加した。また、前回見つけられなかった西方鎮守の一つ、北野天神社も、やはり場所が分からず困っていた時に通りすがりの老婦人にお聞きしたところご存じで、連れて行って教えていただいた。感謝である。
 八坂神社と共に南の鎮守である王子社跡も見つかった。北の鎮守の一つである稲荷社だけがまだ見つかっていない。これについては稿を改めて検討する予定である。

追記(2018.7.23):別稿で不明だった北の鎮守(当ブログでは西の鎮守)の稲荷社の場所について特定したのでその場所も加えた。また、泰衡妻が夫を弔うために建てたとの伝承が残る奥州市前沢区の月山神社(既に掲載している奥州市衣川区の月山神社とは別)も加えた。


伽羅之御所きゃらのごしょ
伽羅之御所跡三代秀衡、そして四代泰衡の私邸である「伽羅之御所」がこの付近にあったと考えられている。政庁であった柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたち)が「首相官邸」だとすれば、この伽羅之御所は「首相公邸」に当たると言える。現在は、住宅地の一画にその旨を伝える案内板が設置されている。





無量光院むりょうこういん
WP_20180520_17_14_19_Rich世界遺産の構成遺産の一つ。三代秀衡が建立した寺院。宇治平等院鳳凰堂がモデルとされるが、それよりもさらに一回り大きかった。春、秋の彼岸近くには、無量光院の西方にある金鶏山きんけいさんの山頂に日が沈み、その夕日の光を後光として本尊の阿弥陀如来が浮かび上がる意匠だった。現在、その建物は失われたが、池を含む庭園が復元されている。写真中央に見えるのが金鶏山である。

追記(2018.6.26):写真を差し替えた。


白山妙理堂はくさんみょうりどう
白山妙理堂十一面観音を祀る。平泉には中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、東には白山社と日吉社が鎮座していたとあることから、ここはその東の鎮守があった場所と推定されている。境内を囲む周辺の低地は、当時あった「鈴沢の池」の跡である。

追記(2018.6.26):現在は白山社のみだが、かつては日吉社も並び立っていたとされる。その日吉社だが、別の場所に移転していた可能性もある(後述)。


平泉町役場
平泉町役場案内板はないが、役場周辺からは大型の建物跡が出土していている。役場のすぐ北には幅20mという当時のメインストリートと思われる東西道路の遺構が出土し、役場から白山社(現在の白山妙理堂)までも幅10mの南北道路が確認されており、出土遺物からも「平泉館ひらいずみのたち」に準ずるような施設、あるいはかなり身分の高い者の邸宅があったと推定されている。



平泉中学校
平泉中学校平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、このうち西の鎮守として北野天神と共に金峯山きんぷせんが勧請されたという。この平泉中学校近くに金峯山社趾が残っているという話があったが、確認できなかった。なお、金鶏山が金峰山であるとする説もある。

追記(2018.6.26):今回分かったのだが、平泉中学校は移転して現在の地にあり、金峯山社趾が残っていたのは以前あった場所、現在平泉文化遺産センターのある場所である。ただし、現在の平泉中学校のすぐそばでも現在発掘調査が行われており、ここはここで何かあったようである。


龍玉寺りゅうぎょくじ
WP_20180410_09_15_04_Rich平泉中学校の南にある寺院。いずれ稿を改めて紹介する予定だが、北の鎮守の稲荷社の別当だった隆蔵寺りゅうぞうじが1875年(明治8年に)火災で全焼した後に移転して建立された後継寺である。(2018.6.26追加)

追記(2018.7.23):隆蔵寺と稲荷社については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく取り上げた。


観自在王院かんじざいおういん
観自在王院跡世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡の妻が建立した寺院。基衡が建立した毛越寺に隣接する。基衡の妻は、奥州藤原氏の前にこの地を支配した安倍氏の棟梁貞任の弟宗任の娘だったと伝わっている。毛越寺同様、浄土庭園を持ち、現在はそれが復元されて史跡公園となっている。元は基衡の居館で、基衡の死後、妻が夫の極楽往生を願って寺院に改修したという説がある。

追記(2018.6.26):上記で紹介した「基衡の死後、妻が」という説は成り立たないことに思い至った。基衡妻である安倍宗任の娘が亡くなったのは基衡よりも先である。それを嘆き悲しんだ基衡によって現在まで毛越寺に伝わる「哭き祭なきまつり」が生まれたとされる。尤も、安倍宗任の娘以外にも妻がいたのだとすれば、その矛盾は解消する。


毛越寺もうつうじ
毛越寺世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡が建立した寺院。往時には中尊寺を凌ぐ規模を誇ったという。全国で唯一、平安時代の浄土庭園が完璧な形で残り、国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けている。奥州藤原氏滅亡後、南北朝時代までに戦乱や野火などで建物は全て失われ、長らくこの浄土庭園だけが残っていたが、1989年(平成元年)に平安様式の新本堂が建立された。

追記(2018.6.26):特別史跡の指定名称は「毛越寺境内つけたり鎮守社跡」である。平泉の鎮守社跡のいくつかが毛越寺境内の飛び地として同じ特別史跡に指定されている。その件についてはいずれ稿を改めて検討したい。


平泉小学校
平泉小学校毛越寺の向かいにあり、三代秀衡の長男国衡の邸宅、国衡館くにひらだてがあったと伝わり、実際に建物跡も出土している。国衡は西木戸太郎と号し、その名の通り、平泉の南西端の関門の役割を果たしていたものと考えられる。毛越寺側からでは分からないが、平泉への入り口となる南側から見るとかなり高台にあることが分かる。なお、国衡館の南には三代秀衡の四男高衡(隆衡)の邸宅、高衡館たかひらだてがあったとされているが、場所はまだ特定されていない。なお、国衡館、高衡館のあった場所については、柳之御所の西側だという異論もある。


平泉町立幼稚園・平泉保育所
平泉町立幼稚園・保育所三代秀衡の長男国衡の居館である国衡館くにひらだてがあったとされる平泉小学校の南に隣接している。ひょっとすると国衡館の南にあったという三代秀衡の四男高衡(隆衡)の居館である高衡館たかひらだては、この辺りにあったのかもしれない。






柳之御所やなぎのごしょ遺跡
柳之御所遺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。奥州藤原氏の政庁である「平泉館ひらいずみのたち」があった場所と比定されている。長らく、北上川に削られ失われたと考えられてきたが、国道4号線のバイパス工事で出土。遺跡の重要性を鑑みて保存が決定し、バイパスの方がルートを変更した。現在、史跡公園として整備が進んでいる。おびただしい数の出土品があり、それらは史跡公園に隣接する柳之御所資料館に収蔵されている。ちなみに、柳之御所という名称は、「幕府」と同じ意味の言葉「柳営りゅうえい」から取られたものという説がある。


高館義経堂たかだちぎけいどう
高館義経堂源義経の居館「高館」があった場所で、義経終焉の地とされている。義経の木像と、義経主従の慰霊塔がある。ただ、義経が襲撃されたのは藤原基成の居館「衣河館ころもがわのたち」とあり、衣河館は高館義経堂があった場所とは全く異なる場所にあったとされているので、この地が義経のいた場所であるという確証はない。北上川を見下ろし、束稲山を望む眺望は素晴らしい。

追記(2018.6.26):「衣河館」は、別に挙げている衣川を挟んで平泉の対岸、旧衣川村にある「接待館遺跡」だという説が大勢である。


卯の花清水うのはなしみず
卯の花清水高館義経堂たかだちぎけいどうの北側の入口近くにある湧水。松尾芭蕉と共に旅をした曽良が、源義経の老臣、十郎権頭兼房を偲んで詠んだ「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」という句にちなんで名づけられた。残念ながら1993年(平成5年)の道路拡張工事の後、湧水は枯れてしまったが、曽良の句碑がある。




熊野三社くまのさんじゃ
熊野三社中央、東、南、西、北にあったという平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとされているが、この熊野三社がその今熊野であったとされている。熊野蔵王権現を祀り、子守社、勝手社という末社もあったという。ただし、元の熊野社が野火で焼失した安土桃山時代の1571年に花立山に移され、その後1891年(明治24年)に現在の平泉文化遺産センターのある場所に移され、さらに1954年(昭和29年)に現在の地に移された。焼失の際に持ち出された十一面観音掛仏は同社の宝物として保管されている。

追記(2018.6.26):「熊野三社」とはてっきり「本家」同様、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智のことだと思っていたのだが、そうではなく、上で紹介した子守社、勝手社の末社が合祀されて「熊野三社」となったとのことである。


花立廃寺はなだてはいじ
花立廃寺跡金鶏山きんけいさんの東、平泉文化遺産センターに隣接している。礎石などが出土しており、ここに寺社があったことが窺える。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、中央の惣社がこの花立廃寺だったのではないかという説がある。今は芝生の公園となっている。

追記(2018.6.26):確かにこの花立廃寺が惣社だという説もあるのだが、それよりもまず、ここは西の鎮守の一つである金峯山社の跡であるという説の方が強い。なお、文化庁の表記は「花館廃寺」だが、地元での表記や学会論文での表記はほとんどが「花立廃寺」なので、ここでは「花立廃寺」と記載する。

追記(2018.7.23):「平泉の鎮守社を探せ!」で書いたが、花立廃寺跡は、当ブログでは「西方鎮守」ではなく「北方鎮守」であったという立場を取っている。


平泉文化遺産センター
WP_20180520_15_09_17_Richかつて平泉中学校があった場所。今は見えないが、ここの玄関付近からはかつて礎石跡が出土している。花立廃寺と対をなすほどの規模のもので、五方鎮守のうちの中央惣社の跡でないかとする説もあり、当ブログでもその説を取っている。(2018.6.26追加)







花立溜池

WP_20180520_15_11_44_Rich熊野三社の一段下にある溜池。現在は溜池だが、奥州藤原氏時代には、花立廃寺と関係する浄土庭園だったのではないかとする説がある。(2018.6.26追加)








照井堰てるいぜき
照井堰三代秀衡の家臣としてその名が知られる照井太郎高春(高治とも)が築いたという、総延長64kmにも及ぶ堰。現在も1,000ha以上の水田に用水を供給している他、毛越寺の浄土庭園の大泉が池に注いで、曲水の宴の遣水の水源にもなっている。「疎水百選」に認定されている他、「世界かんがい施設遺産」にも登録されている。

追記(2018.6.26):平泉を歩いていると、そこかしこで「照井堰」に出くわして、その度に「ここもそうか」と驚かされる。












金鶏山きんけいさん
金鶏山世界遺産の構成遺産の一つ。標高98.6mの円錐形の山で、平泉のランドマーク的存在。三代秀衡が富士山に似せて一晩で築き、山頂に雌雄一対の黄金でできた鶏を埋めて平泉の鎮護としたという伝承や、子孫のために一万の漆の盃に黄金を載せて埋めたという伝承が残る。山頂からは大規模な経塚が発見され、信仰の対象であったことが窺える。5分ほどで山頂まで行ける。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、西の鎮守の一WP_20180520_11_10_41_Richつとしてその名が登場する金峯山k(きんぷせんはこの金鶏山のことだとする説がある。また、熊野三社の由緒には「金峯山社はその中央総社なり」という説明がある。なお、金鶏山の読み方について平泉町、平泉観光協会は「きんけいさん」としているが、文化庁は「きんけいざん」としていて統一されていない。

追記(2018.6.26):写真を追加した。読み方については、地元の表記の方を優先させて、ここでは「きんけいさん」とした。


千手院せんじゅいん
千手院金鶏山きんけいさんの入り口近くにある寺院だが、現在は千手観音を祀った千手堂のみが残っている。詳しい由来は不明だが、千手堂内には本尊の千手観音の他、弁財天、「藤原三将軍」(初代清衡、二代基衡、三代秀衡か)の位牌、三代秀衡の木像、愛染明王、不動明王、道祖神が安置されているという。




源義経公妻子の墓
源義経公妻子の墓金鶏山きんけいさんの入り口近くにある。義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後、自害しているが、ここはその義経の妻子の墓と伝えられている。元は金鶏山の山麓にあったが、その後現在の場所に移されたという。






倉町くらまち遺跡
倉町遺跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の向かいにある。伝承の通り、大きな高床式の倉庫跡が出土している。奥大道を通ってくると突如として現れる、左手に浄土庭園と大伽藍を抱える毛越寺や観自在王院を望み、右手に見上げる高さの蔵がずらりと並んでいる光景はさぞや壮観だったことだろう。




道路側溝と塀跡
道路側溝と塀跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の前を東西に通る道路の遺構が出土している。幅は20mあり、当時のメインストリートだったとされている。道の両側には側溝が確認されており、ここはその南側の側溝である。同じ場所からは塀跡も出土している。大型の建物を囲んでいた塀とのことである。




稲荷社跡
WP_20180721_11_25_18_Rich_LI中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、西の鎮守である稲荷社があった場所については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく検討したが、現在のところ毛越地区の公葬地(共同墓地)下にある田地のどこかである可能性が高い。なお、稲荷社は一般に北の鎮守とされているが、当ブログでは西の鎮守であったという説を取っている(詳しくは「平泉の鎮守社を探せ!」を参照)。(2018.7.23追加)


北野天神社
WP_20180520_08_46_00_Rich中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、毛越寺の西、毛越けごし地区にあるこの北野天神社は、西の鎮守の一つとして挙げられている「北野天神」である。
案内板などがなく分かりづらいが、奥州藤原氏の時代からずっとこの地に祀られてきたようである。(2018.6.26追加)




照井道てるいのみち
WP_20180520_08_41_08_Rich北野天神社から白山社につながる小径を、地元の人たちは「照井道」と呼んでいるそうである。その名の通り、道の脇には「照井堰」が流れている。(2018.6.26追加)








白山社はくさんしゃ
WP_20180520_08_39_33_Rich北野天神社から「照井道」を辿っていくとすぐある。
白山妙理堂、中尊寺境内の白山神社、長島地区の白山神社以外にもこうしてひっそりと白山社があるところに、平泉における白山の影響力を窺い知ることができる。(2018.6.26追加)





自性院じしょういん
自性院奥州藤原氏時代にこの地にあって観音霊場として栄えた智覚院はその後、江戸時代初期に廃絶したが、1888年(明治21年)になって江刺の自性院をこの地に移すという形で再建された。聖観音を本尊とする。






伝勅使館でんちょくしたて
伝勅使○伊豆権現堂いずごんげんどう近くの空き地に、「伝勅使○」と書かれた木の柱が立っていた。○は文字が薄れて判読不能。勅使と来たら「館」か。勅使と聞いて思い起こすのは、源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた後、三代秀衡は朝廷からの勅使を勅使館に招いて饗応し、館の外に一歩も出さずに帰したという話である。ここがその勅使館であれば、平泉の中心部からも離れ、確かに勅使は平泉の様子を少しも観察することができなかったに違いない。

追記(2018.6.26):平泉町立図書館で文献を調べたところ、「勅使館跡」の表記を見つけることができたので、伏字を「館」に替えた。


伊豆権現堂いずごんげんどう
伊豆権現堂三代秀衡が伊豆から勧請したと伝わる。伊豆権現と十一面観音を安置する。急な石段を2分くらい登ると本殿がある。入り口の説明には「高台からの眺めは素晴らしい」とあるが、実際には木々に囲まれて眺望は限定的である。






稲荷社
WP_20180615_16_27_26_Rich伊豆権現堂近くの宝積院という寺院の中にある稲荷社。五方鎮守のうちの北の鎮守の稲荷社か!と思いきや、この稲荷社が勧請されたのは江戸時代の文化文政年間とのことで、残念ながら無関係のようである。昔、北上川の洪水の折に流れ着いた観音も祀っているそうで、それにちなんで寄水観音堂と名付けられ、西磐井三十三観音霊場の一つともなっている。(2018.6.26追加)



鬘石かつらいし
鬘石奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。昔、この地方を治めていた悪路王あくろおうは、美しい娘がいると聞くとさらってきていたという。逃げ出した娘はすぐに捕まり、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に流され、その首が下流のこの大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたということから、この巨石を「かつら石」と呼ぶようになったと言われている。



姫待瀧ひめまちのたき
姫待瀧奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。この地方を治めていたという悪路王あくろおうが、さらってきた姫が逃げ出した際、この滝で姫を待ち伏せしたと伝わっている場所である。







達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり
WP_20180520_09_23_52_Rich平泉から達谷窟に向かう途中にある稲荷神社。追って別稿にて紹介するが、昭和に入ってから勧請された新しい稲荷神社だそうで、残念ながら奥州藤原氏時代の五方鎮守の一つ、北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。
なお、入口が極めて分かりづらい。(2018.6.26追加)




達谷窟たっこくのいわや
達谷窟世界遺産への追加登録を目指している遺跡。悪路王あくろおうが住んでいたという伝承がある。悪路王は一説には坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首領阿弖流為あてるいのことだとする見方がある。悪路王を討った後、悪路王が籠った窟屋に田村麻呂が清水寺を模してこの毘沙門堂を建立したと伝わる。浄土庭園の跡が出土しており、平泉遺跡との関連も指摘されている。源義家が彫ったという北限の磨崖仏がある。初代清衡と二代目基衡が七堂伽藍を建立、基衡は薬師如来を奉納したという。


八坂神社やさかじんじゃ
八坂神社平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、南の鎮守として、祇園社と王子諸社が勧請されたとある。祇園地区にあるこの八坂神社が当時の祇園社であったと伝わる。南北朝時代に修験の僧都、良珍が再興を図り、江戸時代まで祇園宮と称されたが、明治8年に八坂神社と改称された。





王子社跡おうじしゃあと
WP_20180520_09_44_32_Rich上記八坂神社の国道4号線を挟んで向かいにある路地を50mほど入ったところにある。五方鎮守の一つ、南の鎮守の「王子諸社」の跡とされる。現在は小さな祠が2つ残っているだけであるが、祠の中には木造の神像が祀られている。(2018.6.26追加)





日吉神社ひよしじんじゃ
WP_20180520_10_18_00_Rich南の鎮守である八坂神社、王子社跡よりもさらに南の大佐地区にある。「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。五方鎮守のうち、東の鎮守の一つである日吉社が何らかの理由でここに移された可能性がある。
別当である木村氏宅を通らないと行けないので、必ず一声掛けてから参拝すること。どちらにせよ、行き方を教えていただかないとまず行けない。(2018.6.26追加)


武蔵坊弁慶大墓碑
武蔵坊弁慶大墓碑中尊寺の入口付近にある、源義経の忠臣、武蔵坊弁慶の墓と伝わる場所。中尊寺の僧素鳥が詠んだ「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」の句碑があり、その句の通り、大きな松が立っている。







赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん
赤堂稲荷大明神中尊寺がある丘陵にある。旧国道4号線沿いにある大きな鳥居はかなり目立ち、離れている東北本線からもよく見える。しかし、縁起に関する説明がないので詳しい成り立ちは不明。鳥居をくぐって急な階段を登っていくとまず拝殿があり、さらに登るとその名の通り、朱塗りの本殿がある。中央、東、南、西、北にあった平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとあるが、この赤堂稲荷大明神がその稲荷等社なのかどうかは不明。

追記(2018.6.26):稲荷社については別稿で論じる予定だが、中尊寺に尋ねたところ、この赤堂稲荷大明神の前身とされる「閼伽堂あかどう」の存在は中世まで遡れるものの、現在の赤堂稲荷大明神自身は明治4年の建立とのことで、どうやら北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。


中尊寺ちゅうそんじ
中尊寺世界遺産の構成遺産の一つ。初代清衡が建立した寺院。清衡が整備した、東北の北端外ヶ浜(青森市)と南端白河関(福島県白河市)を結ぶ幹線道路、奥大道おくだいどうのちょうど中間地点に建っている。中尊寺建立供養願文には、戦乱で多くの人が亡くなった東北をそのままこの世の浄土としたいという清衡の思いが示されている。清衡が安置したという「丈六皆金色の釈迦如来」と同じ本尊が、2013年(平成25年)に現在の本堂に安置された。


金色堂こんじきどう
金色堂中尊寺ちゅうそんじの中にある、唯一無二の皆金色の阿弥陀堂。日本の国宝第一号だった。皆金色は仏の住む浄土を表したもので、全面に金箔が押された以外にも、南洋の夜光貝を用いた螺鈿細工、象牙や宝石による装飾など、当時の芸術工芸の粋を極めた造形が施されている。初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代泰衡の首級が収められ、葬堂としての性格も持つ。四代に亘る遺体がそのまま保存されている例は世界的にも極めて珍しいとされる。


白山神社はくさんじんじゃ
白山神社中尊寺ちゅうそんじの開祖と伝わる慈覚大師が加賀の白山から勧請したという、中尊寺の敷地内にある神社。境内にある能楽堂は国の重要文化財に指定されている。現在も薪能などが奉納されている。







源義経衣川古戦場碑
WP_20180520_15_37_46_Rich平泉文化史館の敷地内にある、衣川の合戦の場所を伝える碑。ただ、義経の居館が高館にあるという前提での比定地であるので、実際にはここではない可能性が高い。建物の中からは「弁慶立往生跡」も見える。(2018.6.26追加)






接待館せったいだて
接待館跡中尊寺の対岸の衣川沿いにある。三代秀衡の母親がここで道行く旅人をもてなしたという伝承があり、この名がある。かなり大規模な邸宅跡が出土しており、柳之御所やなぎのごしょ遺跡と同様に大量のかわらけなども出土していることから、柳之御所と同等の重要な施設であったことが窺える。三代秀衡の正妻の父で、京の摂関家藤原氏に連なる藤原基成の居館「衣河舘ころもがわのたち」の跡ではないかという説もある。写真中央右寄りに見えるのが月山である。


衣の関道ころものせきみち
衣の関道初代清衡が北は外が浜(青森市)から南は白河関(福島県白河市)まで整備した当時の「東北縦貫道」である奥大道おくだいどうは、平泉では中尊寺の境内を通すようにしていた。これに伴って、衣河関ころもがわのせきも安倍氏時代に難攻不落と言われた場所から、中尊寺の北側で衣川を渡る手前に移されたという。その新しい衣川関から衣川を越えて北上する道の通称が衣の関道だとされる。


七日市場なぬかいちば
七日市場跡その名の通り、奥州藤原氏の時代に毎月七日、十七日、二十七日と七のつく日に市が立ったという伝承がある地。平泉の市街地内で最も繁昌した市場になったという。







神明神社しんめいじんじゃ関の神明せきのしんめい
神明神社(関の神明)初代清衡が七日市場なぬかいちば地区内の衣の関道ころものせきみちわきに伊勢大神宮を勧請し、神明神社として地区民の信仰を集めたという。衣川関の近くにあったことから「関の神明」と称された。ただ、清衡は平泉開府に当たり、天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取などを注意深く排除し、一切勧請していないため、その清衡が伊勢大神宮を勧請したという伝承については疑問を感じる。


渕端諏訪大明神社ふちはたすわだいみょうじんしゃ旗鉾神社はたほこじんじゃ
渕端諏訪大明神社(旗鉾神社)かつてこの地を本拠とした安倍氏の棟梁、安倍頼時が兵器を祀って鎮護の神と崇めたという。その後、この地に住んだ三代秀衡の三男忠衡が再興し、自身の守り本尊である魚籃観音を祀ったと言われている。






並木屋敷なみきやしき
並木屋敷奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にここ衣川を本拠とした安倍頼時が政庁を構えたとされる場所。安倍氏を滅ぼしてその後陸奥、出羽を治めた清原氏も三代に亘ってこの地を政庁、もしくは居館としたと伝えられている。清原氏の時代には衣川柵ころもがわのさくと呼ばれていた。





泉三郎忠衡供養塔
泉三郎忠衡供養塔泉ヶ城いずみがじょうのある土地の高台にある三代秀衡の三男忠衡の供養塔。現在この地に住んでいる葛西さんが個人で建てた。供養塔のある一帯は葛西さんの私有地である。







泉ヶ城いずみがじょう
泉ヶ城三代秀衡の三男忠衡の居館だったと伝わる。平泉の北端に位置し、南端の国衡館くにひらだて高衡館たかひらだてと共に、平泉への関門となっていたと考えられる。衣川に囲まれた天然の要害で、現在も狭い橋が一本あるだけなので、車では行きにくい。橋を渡って少し行ったところに、「泉ヶ城」と刻まれたこの地に住む葛西さんが建てた小さな石碑がある。なお、忠衡の実際の居館については、柳之御所の南の泉屋いずみや遺跡の辺りとする説もある。


琵琶館びわだて成道舘なりみちだて
琵琶館(成道舘)跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にこの地を治めた安倍氏の棟梁貞任の庶兄成道の居館だったとされる場所。衣川が琵琶の形に流れているのでこの名があるという。







小松館こまつだて
小松館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏の棟梁貞任の叔父の僧、良照の居館であったと伝えられる場所。前九年の役の際、ここで源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃ったとされる。







衣河関ころもがわのせき
衣河関跡奥州藤原氏よりも前の安倍氏の時代に、蝦夷の領域と朝廷の領域との境にあった関所である衣河関があった地とされる。眼前を流れる衣川の両岸が断崖絶壁となっており、「封じれば誰も破ることができない」と言われた天然の要害。現在はその上を、橋を渡して東北自動車道が通っている。奥州藤原氏の時代にはこの衣河関はここから東の中尊寺ちゅうそんじ寄りに移された。


荒沢神社あらさわじんじゃ
荒沢神社月山神社がっさんじんじゃの参道の入り口付近にある神社。月山神社はかつて女人禁制だったが、この荒沢神社は女性も参拝できたという。








月山神社がっさんじんじゃ
月山神社衣川を挟んで中尊寺ちゅうそんじの対岸にある円錐形の山、月山の山頂にある神社。かつては中尊寺の奥の院として大いに栄えたという。山頂に着いて鳥居の正面に目に入るのは拝殿であるが、実はその裏にさらに本殿がある。月山の山頂に向かうルートは、東側の麓にある三峯神社みつみねじんじゃから登る道と、北側の麓にある月山神社の鳥居をくぐって登る道の2つがあるが、どちらも山頂までは10分ほどで行けWP_20180520_15_57_54_Richる。三峯神社から登る道の途中には、風光明媚なスポットがある。

追記(2018.6.26):写真を追加した。








和我叡登挙神社わかえとのじんじゃ
和我叡登挙神社月山の山頂にある月山神社がっさんじんじゃの拝殿の奥にある本殿の前に何気なく巨石があるが、それが実は和我叡登挙神社である。東北の土着の神と言われる荒覇吐あらはばき荒吐あらばきとも)の神を祀っている。東北で拝殿を持たない巨石を祀った神社は概ね荒覇吐神を祀ったものであるが、中尊寺の奥の院として栄えた月山神社と同じ敷地に荒覇吐神を祀った神社があるのは興味深い。奥州藤原氏の仏教文化が実は東北古来の神とも結びついていた証左とも取れる。


三峯神社みつみねじんじゃ
三峯神社月山の麓にある神社。源頼義、義家が前九年の役で安倍氏に苦戦していた折、日本武尊が東夷征討に際して武州三峰山に登って諾冊二尊を奉祀したという故事にあやかって陣中で諾冊二尊を奉祀し、安倍氏を討った後に祠を立てたという。江戸時代の享保元年に埼玉の秩父にある三峰神社から改めて分霊が勧請された。




館跡たてあと
館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、奥州藤原氏の前にこの地を治めていた安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えられている。以前は上衣川にある「安倍館あべたて」を本拠としていたが、頼時の代にこの地に本拠を移したという。






長者ヶ原廃寺ちょうじゃがはらはいじ
長者ヶ原廃寺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。源義経を奥州藤原氏の下に案内した金売り吉次の邸宅跡という伝承があり、「長者ヶ原」の名があるが、発掘調査の結果、寺院跡であることが判明した。奥州藤原氏の時代には既に廃寺となっていたと考えられており、奥州藤原氏よりも前にこの地域を支配した安倍氏に関連した寺院とされている。ただ、この場所から見る夕日は春と秋の彼岸の日にはちょうど月山山頂に沈むと言い、後の無量光院むりょうこういんの意匠の参考にされた可能性がある。


室の樹跡むろのきあと
WP_20180520_16_35_42_Rich奥州藤原氏(秀衡、あるいは秀衡の母親とも)が御室御所みむろごしょの庭木をこの地に移し替えて庭園を造ったため、この名で呼ばれている。
平泉に逃れてきた源義経主従がここにあった屋敷に居住したという伝承もある。
今は春の桜がきれいである。(2018.6.27追加)






九輪搭くりんとう
九輪搭跡初代清衡が母方の祖父であり、かつてこの地を治めた安倍頼時を供養するために九輪塔を建てたと伝わる地。この一帯は今も九輪堂という地名である。清衡は九輪塔の周辺を園地として整備し、大きな池と2つの築山をつくったとされる。残念ながらそれらは現在は失われているが、地元の人が築いた安倍一族の鎮魂碑がある。



瀬原古戦場せはらこせんじょう
瀬原古戦場跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏が源氏と戦った前九年の役の際、安倍氏がこの地で、対する源氏をあえて本陣におびき寄せる作戦を立てて源氏に大損害を与えたと伝えられる古戦場である。







向館むかいだて
WP_20180520_16_48_26_Pro奥州藤原氏とは直接関係ないが、安倍氏の一族で前九年の役の折に安倍氏を裏切った安倍富忠の屋敷跡と伝えられる。(2018.6.26追加)









北館遺跡きただていせき
WP_20180520_17_02_23_Rich奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の安倍氏一族の居館の一つと伝えられる。西暦1300年頃に南蘇坊なんそぼうという行脚僧が植えたと伝わる一本桜は今も毎春見事な花を咲かせる。(2018.6.26追加)







月山神社
WP_20180722_16_31_49_Rich_LI奥州市前沢区生母にある、奥州市衣川区の月山神社とは別の月山神社。四代泰衡の妻が、非業の死を遂げた夫を弔うために、羽黒派修験者の法印継清に命じて勧請させたという伝承が残る。元々経塚山にあったが、1878年(明治10年)に現在の地に遷座したという。元の神社は「奥の院」として今も京塚山に残る。(2018.7.23追加)



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