2018年06月29日 

平泉の鎮守社を探せ!〜東北の歴史のミステリーその31

 前回、「世界遺産以外の平泉オススメスポット」で、「五方鎮守を巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけ」と書いた。
 しかし、いざ鎮守社のことを調べてみると、コトはそう簡単には進まないことが分かった。あった場所が分からなかったり、分かっていても解釈や見解が分かれていたりするものがいろいろあるのだ。
 
ここでもう一度整理しておきたい。平泉の鎮守社について書かれている資料は、鎌倉幕府の「公文書」である「吾妻鏡」である。東北に攻め入り、平泉を占領した頼朝に対して、中尊寺と毛越寺の僧侶が平泉について説明した文書(「寺搭已下注文じとういかちゅうもん」と呼ばれる)を提出しているが、その内容が「吾妻鏡」の中に丸々引用されている。その中で、奥州藤原氏三代のことや中尊寺、毛越寺のことに加えて、平泉の鎮守社のことも説明されているのである。
 それによれば、「中央に惣社そうじゃ。東方に日吉ひよし白山はくさんの両社。南方に祇園社ぎおんしゃ王子諸社おうじしょしゃ。西方に北野天神きたのてんじん金峯山きんぷせん。北方に今熊野いまくまの稲荷いなり等の社なり」とある。稲荷等の「等」の字が気になるが、少なくとも、平泉には中央の惣社に、東西南北に2つずつ、合わせて9つの鎮守社があったことが分かる。
 四方鎮守、あるいは中央を含めて五方鎮守と言われるこれら9つの鎮守社のうち、存在した場所などについてほぼ異論がないのは、南方の「祇園社」、「王子諸社」と、西方の「北野天神」、北方の「今熊野」、の4つくらいで、あとは何がしか見解の相違がある。
 それらも含めて、では、9つの鎮守社が現在いったいどんな状況なのか、私の調べた範囲でまとめてみる。

中央惣社
 惣社というのは、地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことであるが、平泉の惣社があった場所については大きく見解が分かれている。
 その主なものは3つあり、

 \省の鎮守で金峯山社にほぼ比定されている(異論はある)花立廃寺が惣社も兼ねていたという説
 花立廃寺の約50m北方(現在の平泉文化遺産センターの玄関付近)で出土した礎石建物跡が惣社だったという説
 E貶の鎮守で日吉、白山社に比定されている(後述の通りこれにも異論がある)現在の白山妙理堂が惣社だったという説

がある。
 ,砲弔い董金峯山は金鶏山だとする説が有力だが、金鶏山は平泉のランドマーク的存在であり、金鶏山東方にある花立廃寺が金峯山社で惣社も兼ねていたというのは首肯できる話ではある。についても、現在の白山妙理堂は陸奥守となった三代秀衡の居館柳之御所遺跡(平泉館)からも近く、国司が国に祀られている神に参拝するという惣社の元々の性格からすればこれまた首肯できる話でもある。
 ただ、,筬の説を取ると、ではなぜ吾妻鏡の中でそれらが惣社と別に記載されているのかの説明がつかない。もしこれらが惣社を兼ねていたのなら、例えば「白山・日吉両社(惣社を兼ねる)」といった記述になったのではないだろうか。
 そうではなく、惣社と金峯山、白山・日吉両社が別に記載されていることから考えると、惣社はやはり金峯山社や白山社とは別に存在していたと考える方が自然である。と言って△任△覲両擇發覆い、とりあえずは△鰺力な説としておきたい。

東方(日吉社・白山社)
 東方の鎮守である日吉、白山の両社があったのはJR平泉駅近くにある現在の白山妙理堂とされているが、これにも白山妙理堂の位置が平泉の中心部から見てあまり東でないということから異論があり、北上川を挟んで東の対岸の長島地区にある小島神社(日吉神社の分霊を祀る)と白山神社が東方鎮守だったのではないかとする見解も出されている。ただ、現在白山妙理堂がある場所に以前は白山社に加えて日吉社もあったとする説が今のところ大勢ではある。
 しかし一方で、市街地から南に下った大佐地区にある日吉神社にも、「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、これは嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。
 長島地区の小島神社と白山神社を東方の鎮守とする見解は、惣社が白山妙理堂だったという説とセットである。つまり、東方の鎮守という割に、白山妙理堂が平泉館を含めた平泉の中枢から見るとそれほど東に位置していないではないかというところから出発して、より東にある長島地区の両社が実は東方の鎮守で、現在の白山妙理堂が中央惣社だったのではないか、という論の展開である。
 しかし、この長島地区の2つの神社に関しては、奥州藤原氏に関連する伝承がない。いずれも由緒を見ると奥州藤原氏とは別に成立したことになっている。奥州藤原氏が既にあったこれら2つの神社を鎮守にしたということも考えられなくはないが、それならそれでそのことが誇らしく由緒に記載されていてもよさそうなものである。そう考えると、やはり長島地区のこの両社は平泉の鎮守とは無関係で、東の鎮守は現在の白山妙理堂としてよいように思う。
 もう一つ、大佐地区の日吉神社、これは東方の鎮守とするにはあまりにも南である(南方の鎮守の八坂神社、王子社跡よりもさらにずっと南である)。ただ、こちらには逆に初代清衡に関連する伝承が由緒に残っており、何らかの関連はあったものと考えられる。並立していたとされる白山・日吉両社のうち、日吉社だけが何かの理由で現在の大佐地区に移され、それで現在白山社だけが白山妙理堂として残っている、と考えると辻褄は合う。

南方(祇園社・王子諸社)
 南方には祇園社、王子諸社があったとされる。平泉の南、その名も祇園地区に現在八坂神社があるが、ここは明治以前は祇園宮と呼ばれていたことが分かっており、ここがかつての祇園社であったということに異論はない。もう一つ、八坂神社と国道4号線を挟んで向かいの路地を東方に数十m進むと、王子社跡がある。現在は小さな祠が2つ残っているだけだが、これもかつての王子諸社であるということに異論はない。

西方(北野天神社・金峯山社)
 西方の鎮守としては、北野天神、金峯山が挙げられている。このうち、北野天神は毛越寺の西の毛越けごし地区にある現在の北野天神社がそれに当たるということで異論は見当たらない。
 もう一つの金峯山については、先述の通り、金鶏山が金峯山で、その東麓にある花立廃寺が金峯山社であるという説が現在のところ最有力のように見えるが、花立廃寺は寺院であって鎮守社ではないとする異論もある。また、金峯山イコール金鶏山とした場合、金鶏山が西方の鎮守としてはあまりと言うか、ほとんど西でないという点も問題と言えば問題である。

北方(今熊野社・稲荷社)
 北方には今熊野と稲荷社などがあったとされる。今熊野については、現在の熊野三社がかつての今熊野を引き継いでいるということでほぼ異論はない。熊野三社はたびたび移転しており、かつては別の場所にあったとされるが、今も北方と言ってまず差し支えない。
 もう一つの稲荷社については、いまだに場所が特定されていない。ばかりか、私の知る限りなぜか議論の対象にもなっていない。これについては長くなるので、今回は詳述せず、稿を改める。

 さて、鎮守社に関してもう一つ問題になりそうなのが、吾妻鏡の「寺搭已下注文」の中の毛越寺に関する記載である。その中に「(毛越寺の)鎮守は、惣社金峯山、東西に崇め奉るなり」という記載が出てくる。ここに出てくる惣社と金峯山と、平泉の鎮守として記載のある惣社と金峯山が同じなのか異なるのかということも鎮守を巡る論点の一つなのだが、現在では同一のものであるとする見解が大勢のようである。
 ただ、この意味するところについて、素直に読めば、惣社と金峯山が毛越寺の東西にあって崇め奉られた、と取れるが、金峯山が惣社であったと読めなくもない。
 そこで思い起こされるのが北方の鎮守、熊野三社に残されている由緒である。熊野三社の由緒には「金峰山社はその中央総社なり」という記述があるのである。
 該当部分の内容は、「当熊野社は五方鎮守の一社にして、承安四年藤原清衡将軍が江刺の豊田城より居を平泉に移してより鎮守府の政を執るに当たり、平泉鎮護の神として五方社を建立したるなり。五方社とは、東方に日吉、白山、両社。西方に北野天神社、稲荷社。南方に祇園社、八王子社。北方に熊野社、金峰山社ありて、金峰山社はその中央総社なり」というものである。ちなみに、承安4年は1174年であるので、初代清衡ではなく、三代秀衡の時代に当たる。ただし、「江刺の豊田城より居を平泉に移し」たのは初代清衡であり、若干の混乱が見られる。
 この熊野三社の由緒の記述だが、よく見ると、吾妻鏡の記述とは一部異なっている。
 登場順に並べてみると、吾妻鏡では、

中央:惣社
東方:日吉、白山両社
南方:祇園社、王子諸社
西方:北野天神、金峯山
北方:今熊野、稲荷等社

となっているのだが、熊野三社の由緒では、

東方:日吉、白山両社
西方:北野天神社、稲荷社
南方:祇園社、八王子社
北方:熊野社、金峰山社
中央総社:金峰山社

となっている。
 すなわち、東方の「日吉社」、「白山社」と、西方の「北野天神社」、南方の「祇園社」、「王子諸社(八王子社)」、北方の「今熊野社(熊野社)」は共通しているが、吾妻鏡では西方の「金峯山(金峰山社)」が熊野三社の由緒では北方、吾妻鏡では北方の「稲荷社」が熊野三社の由緒では西方と、金峯山と稲荷社のあった方角が北と西で入れ替わっているのである。しかも、中央の「惣社(総社)」として、熊野三社の由緒ではこの「金峰山社」を挙げている。
 これらのうち、「金峯山(金峰山社)」と「稲荷社」の入れ替わりについては、吾妻鏡の記述が誤りで、熊野三社の由緒の方が正しいのではないかと判断できる根拠となりそうな近世、近代の文書もある。
 江戸時代の1760年(宝暦10年)にまとめられた「平泉旧蹟志」には、「稲荷明神」が「文殊堂趾の南にあり」と記されている。「文殊堂趾」があるのは毛越寺の西、西方鎮守の北野天神社もある毛越地区である。そして同書では、「稲荷社」は「西方鎮守」と記載されている。安永年間(1772〜1780年)にまとめられた「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」でも、やはり「稲荷明神」は「西方鎮守」とある。
 さらに、1886年(明治19年)に高平真藤がまとめた「平泉志」巻之下では、「稲荷社跡」について、「西方にあり(東鑑の北方として今熊野の次に叙せるに方位違へり)」とあって、吾妻鏡(=東鑑)に記載された北方という方位は間違っていると指摘されているのである。
 もちろん、奥州藤原氏の時代には北方にあって、その後江戸時代までに西方に移築された可能性もあるが、稲荷社は少なくとも近世、近代には西方の鎮守として認識されていたことが分かる。
 もう一つ、先に挙げた、金峯山が西方の鎮守と言うほど西にないという問題についても、金峯山が熊野三社の由緒にある通り、西方ではなく実は北方の鎮守ということであれば解決する。金峯山社が花立廃寺跡だとすれば、もう一つの北方の鎮守である現在の熊野三社はそのすぐ向かいであり、金峯山社を北方の鎮守と呼んでも差し支えなさそうだからである。
 これらのことから、鎮守社の方位に関しては、ここでは吾妻鏡ではなく、熊野三社の由緒にある方位の方を採ることにしたい。
 次に、同じ熊野三社の由緒にある「金峰山社はその中央総社なり」について考えたい。「金峰山社」と「中央総社」とが完全にイコールだと、先述の、吾妻鏡がなぜ中央惣社とそれを兼ねた鎮守社を別のものとして記載したのかという疑問が解消されない。ここで、中央惣社が、金峯山社である可能性の高い花立廃寺跡の北方約50mから出土した礎石建物跡の場所にあったという△寮發鮑里譴弌熊野三社の由緒とあまり矛盾することなく、この疑問点はある程度解消されるのではないかと考えられる。
 つまり、惣社と金峯山社が極めて近接(約50m)していたのだとすれば、それらは別のものでありつつも、大きく見れば金峯山社と同じ敷地内に惣社があることになり、金峯山社イコール中央惣社という説もある程度成り立つ余地ができるわけである。こう解釈すれば、先に有力な説とみた△寮發梁電性がより増すと言える。

 以上、これまで見てきたことを踏まえて、9つの鎮守社が平泉のどこにあったのか、私なりに整理してみると、現時点で結論は次のようになる。

中央惣社:平泉文化遺産センター(の玄関付近から見つかった礎石建物跡)
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東方鎮守
日吉社・白山社:白山妙理堂

WP_20180410_08_37_08_Rich白山妙理堂



(ただし、日吉社については大佐地区の日吉神社である可能性もあり)
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南方鎮守
祇園社:八坂神社
八坂神社WP_20180410_13_21_56_Rich



王子諸社:王子社跡
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西方鎮守
北野天神社:北野天神社
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稲荷社:毛越地区にある公葬地下の田地付近(別稿にて詳述予定)
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北方鎮守
今熊野社:熊野三社
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熊野三社



金峯山社:花立廃寺跡
花立廃寺跡WP_20180410_10_58_59_Rich



(金峯山:金鶏山)
WP_20180520_11_10_41_Rich金鶏山WP_20180410_11_44_34_Rich




平泉の鎮守社…などと書いても、それぞれの鎮守社の場所や位置関係がよく分からないかもしれないので、またしてもマップにまとめてみた。「平泉の鎮守社(五方鎮守)マップ」をご参照いただきたい。こうして実際に地図上にそれぞれの場所をプロットしてみると、金峯山社はやはり西方ではなく北方の鎮守に見えるし、稲荷社も(比定地が正しいとするならばだが)決して北方ではなく西方の鎮守に相応しいことが分かる。



追記(2018.6.29):ちなみに、平泉文化遺産センターに行って、係の人に「ここが『中央惣社』だったんですか?」と尋ねても、たぶん怪訝な顔をされるだけなので要注意である(笑)。
 以前、敷地内で見つかった礎石建物跡について尋ねてみたら、「隣接する花立廃寺跡のことじゃないですか?」とのことだったので…。花立廃寺跡とは別のこの礎石建物跡のことについては、この平泉文化遺産センターの中でも閲覧できる「花立軌篝廖廚糧掘調査報告書の中に記載されている。



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