2018年07月13日 

鎮守の稲荷社はどこだ?〜東北の歴史のミステリーその32

 前回「平泉の鎮守社を探せ!」で、五方鎮守として、かつての平泉に少なくとも9つあったとされる鎮守社の場所について検討してみた。それらのうち8つについては、中央惣社=平泉文化遺産センター、日吉社・白山社=白山妙理堂(+日吉神社)、祇園社=八坂神社、王子諸社=王子社跡、北野天神社=北野天神社、金峯山社=花立廃寺跡(金峯山=金鶏山)、今熊野社=熊野三社、と、場所を特定したが、残る稲荷社については、「毛越地区の公葬地下の田地付近」としたものの、その理由については説明していなかった。今回はそれについて取り上げたい。

 前回も書いた通り、これら9つの鎮守社のうち、中央惣社については、どこにあったのかについての論争も盛んなのだが、同様に位置が特定できていない稲荷社は、なぜかスルーされてしまっている。中央惣社ほどの重要性はないということなのか、甚だ不可解である。
 この、場所すら特定されていない稲荷社に関してであるが、平泉界隈をぶらぶら歩いていると目に付く稲荷神社が2つある。一つは中尊寺のある丘陵の一画にある「赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん」で、もう一つは達谷窟の手前にある「達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり」である。
WP_20180410_14_14_36_Rich 赤堂稲荷大明神は、旧国道4号線沿いにある。平泉の中心部から見ると「北方」である。大きな赤い鳥居が目印で、離れたJR東北本線の車窓からも見える。そうしたこともあって、平泉町内の神社の中でも知名度は高い方だと思われる。旧国道4号線沿いから石段を登っていくとまず拝殿がある。そして、そこからさらに登ると本殿がある。拝殿は赤くないのだが、本殿はまさに朱塗りの「赤堂」である。しかし、案内文等はなく、その由緒は不明である。
WP_20180410_14_18_30_Rich そこで、同じ丘陵にあるよしみということで中尊寺に聞いてみた。そうしたところ、赤堂稲荷明神の「赤堂」に関連して、かつて「閼伽堂あかどう」と称された「光勝院」という、阿弥陀如来と薬師如来を祀った寺院があったことが中世の文書で確認できる、とのことだった。場所は現在の赤堂稲荷大明神のある場所ではなく、国道4号線を挟んでその向かいにあったのではないかとされているそうである。ただ、閼伽堂光勝院と赤堂稲荷大明神の関係はよく分からず、分かることは現在の赤堂稲荷大明神の社殿が建てられたのが1871年(明治4年)ということだけだそうである。
 現在の赤堂稲荷大明神の建物が明治時代初期に建てられたことは分かったが、その前身の可能性がある閼伽堂光勝院が鎮守社の一つの稲荷社であると比定する材料には乏しいようである。そもそも、吾妻鏡に記載のある北方鎮守(当ブログでは前回説明した通り稲荷社を「西方鎮守」であったと判断している)の稲荷社であったとするならば、寺院ではなかったはずである。
WP_20180520_09_28_29_Rich もう一つの「達谷伏見稲荷」は、毛越寺から達谷窟に向かう途中にある。すなわち、平泉の「西方」に位置している。
 ところが、その入口が極めて分かりづらく、どこから入って行けばよいのかよく分からない。神社の正面(と思われる方)に向かって右側は田んぼ、前方と左側はどう見ても個人宅である。結局、神社にほど近い場所にある側溝に架けられたこの細い板を渡っていく他なさそうだった。

WP_20180520_09_23_52_Rich 鳥居が重なり合っている様子はいかにも稲荷社であることを思わせるが、社殿は比較的新しい。こちらにも案内文などはなく、その由緒は不明であったが、後述する宝積院の方に伺ったところ、この達谷伏見稲荷は昭和に入ってから建てられたものとのことであった。そうするとやはり鎮守の稲荷社と関係はなさそうである。



 鎮守社について記載のある、奥州藤原氏と同じ時代の唯一の資料である「吾妻鏡」には、それぞれの場所に関する説明までは記載がないのだが、時代が下って江戸時代に書かれた書物の中には、稲荷社も含めた鎮守社の場所に関する具体的な記述がいくつかある。稲荷社に関しては、それらは大きく二つに分けられることが分かった。
 具体的に挙げてみる。「元禄九年書上写」(1696年)( 砲砲蓮◆岼隹拌臾誠澄廚「隆蔵坊、寺内ニ仮宮有」とある。前回も引用した「平泉旧蹟志」(1760年)(◆砲砲蓮◆岼隹挂誠澄廚「文殊堂趾の南にあり」、「稲荷社」は「西方鎮守、申の六分、五町二十間」と記載されている。「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」(1772〜1780)()には「稲荷明神」について、「西方鎮守。小名、稲荷沢。社地、隆蔵寺除ノ内。社、東向、三間四面。鳥居、東向。地主、日輪院。別当、平泉村毛越寺衆徒真言宗隆蔵寺。祭日、九月廿九日。」とかなり具体的に書かれている。「磐井郡西磐井平泉村毛越寺書出」(1775)(ぁ砲砲蓮◆岼隹拏辧廚砲弔い董◆岼隹抻魁(毛越寺南大門より)三丁卅五間、申ノ六分。西方鎮守両社之内。(中略)別当、日輪院隆蔵寺。」とある。「嚢塵挨捨録」(1779)(ァ砲砲蓮岼隹挂誠澄廚蓮◆峺点梁声蘰4霍嬪貪谿隹挂誠世鯡呂憧請、神廟を造立しと云り。」とある。
 そしてもう一つ、別の稲荷社の存在も確認できる。前出のには、上記とは別の「稲荷明神社」が、「小名、毛越。社地、東西七間、南北七間。社、南向、長壱間、横五間、ご神体八寸。地主、宝積院。別当、平泉村毛越寺衆徒天台宗宝積院。祭日、九月九日。」とある。先の「稲荷明神」とは、存在した場所、建物の様子、別当、祭日などことごとく違っているので、別の稲荷社だということが分かる。い砲癲◆岼隹拏辧廚「かかみ山東。(南大門より)十丁六間、午ノ八分。別当、宝積院桜岡坊。」とある。

 つまり、どちらも毛越寺宗徒の寺院が別当を務めていることから、毛越寺からそれほど離れていない地域にあったと推測されるものの、片や「(日輪院)隆蔵寺りゅうぞうじ(または隆蔵坊)」が別当であり、片や「宝積院ほうしゃくいん(桜岡坊)」が別当という違いがある。この両社のうち、鎮守社と関係がありそうなのは「西方鎮守」と明記されている、「隆蔵寺」が別当の稲荷社(以下「隆蔵寺稲荷社」とする)の方であるが、念のためもう一つの「宝積院」が別当の稲荷社(以下「宝積院稲荷社」とする)についても調べてみることにした。
 それぞれの稲荷社の存在した場所についてだが、まず「隆蔵寺稲荷社」については、に記載のある「稲荷沢」、い傍載のある「稲荷山」とも、どこを指すのか不明である。それらしい地名が現在の平泉町内には残っていないのである。そもそも、「稲荷山」とは、京都の伏見稲荷大社の東にある東山三十六峰南端の標高232メートルの山である。それにならって、平泉の稲荷社があった場所も稲荷山と呼ばれていたのだろう。しかし、稲荷社が失われた結果、その地名も消えてしまったのかもしれない。ただ、「稲荷山」、「稲荷沢」という地名から、かつて鎮守の稲荷社があった場所には山と沢の両方があったことが窺える。場所を特定する手掛かりになるかもしれない。
 一方、「宝積院稲荷社」があったとされるの「毛越けごし」、い痢屬かみ山」については特定ができる。「毛越」は現在も毛越寺の西の地域の地名として残っている。「かかみ山」は「鏡山」のことと考えられ、現在の伊豆権現堂のある山が、かつて近江の鏡山を模したと言われて同じく「鏡山」と呼ばれていたことから、その付近であると推定できる。
 次に2つの別当、「隆蔵寺稲荷社」の別当である日輪院隆蔵寺または隆蔵坊という名の寺院と、「宝積院稲荷社」の別当である宝積院桜岡坊についてである。これら2つの寺院のうち、後者の宝積院は現在も存在する。まさに毛越地区、伊豆権現堂のある「鏡山」のすぐ近くである。もう一方の隆蔵寺であるが、調べてみたところ1875年(明治8年)に火災で全焼してしまい、今は残っていないことが分かった。ただ、その後に移転して再建された、現在平泉中学校の南にある龍玉寺りゅうぎょくじが隆蔵寺の檀家を引き継いでいる。

WP_20180615_16_30_42_Rich 実際に足を運んでみれば何か分かるかもしれないと思い、まず宝積院の方を訪れてみた。「寺」と言っても、外観は普通の民家と変わらない。ただ、敷地内に神社があった。鳥居をくぐって入ってみると、本殿には狛犬ではなく狐が一対いた。これは間違いなく稲荷社である。




WP_20180615_16_27_26_Rich 早速宝積院の方にお話を伺ってみたが、この稲荷社が祀られたのは江戸時代の文化・文政の頃とのことであった。稲荷明神だけではなく、「西磐井三十三観音」の一つである観音も祀られており、観音堂でもあるという。この観音は、かつて北上川が洪水となった時に流れ着いたものだとのことで、そこからこの稲荷社は寄水観音堂という名でも呼ばれているそうである。
 ということで、「宝積院稲荷社」については、相応の歴史はあるものの、やはり奥州藤原氏時代の鎮守とは関係のない稲荷社であることが分かった。

WP_20180410_09_15_04_Rich もう一つの、鎮守と関係していそうな「隆蔵寺稲荷社」について調べるために龍玉寺に行ってみた。ちょうどご住職がおられたので話を聞いてみたが、隆蔵寺についての寺伝は残念ながらその1875年の火災で全て焼失してしまったそうである。当時の住職は檀家帳を運び出すのが精いっぱいで、本尊さえも燃えてしまったとのことである(火災の際に持ち出す優先順位が最も高いのは檀家帳で、ご本尊はその次なのだそうである)。そのような事情で隆蔵寺については詳しいことは分からず、隆蔵寺が稲荷社の別当をしていたということも今初めて聞いた、とのことであった。結局のところ残念ながら、奥州藤原氏時代の平泉の鎮守であった可能性の高い「隆蔵寺稲荷社」については分からずじまいだった。
 ただ、かつての隆蔵寺のあった場所についてはご住職はご存じで、それは現在の毛越地区の公葬地(共同墓地)の下にある田圃の辺りとのことであった。もう一つの「宝積院稲荷社」が、別当を務めている宝積院の敷地内に祀られていた例から見ても、神社と別当寺の位置関係は、極めて近いものと考えられる。また、,痢嵶澗∨掘∋内ニ仮宮有」という記載、それからの「社地、隆蔵寺除ノ内」という記載を見ても、西方鎮守の「隆蔵寺稲荷社」はかつて隆蔵寺の境内に存在し、1875年の火災で隆蔵寺と一緒に焼失してしまったのではないだろうか。
WP_20180615_15_54_12_Rich このように考えてみると、西方鎮守の稲荷社があった場所は、かつて隆蔵寺があった場所とほぼイコールだと言えそうである。先の「平泉の鎮守社を探せ!」で、西方鎮守の稲荷社の場所を「毛越地区の公葬地の下にある田地」としたのはこのような理由からであった。ちなみに、この公葬地は高台にあり、近くには「照井堰」も流れている。「山」も「沢」もあることも、稲荷社があったのはこの辺りではないかと推定できる根拠の一つと言える。
 場所の特定について、もう一つ有力な手掛かりは、△痢嵜修力司、五町二十間」、い痢峪庵卅五間、申ノ六分」という記述である。いずれも毛越寺南大門を起点とした方位と距離を示している。この当時の方位は十二支を当てて示していた。「分」というのはその一支をさらに十等分した単位のようである。しかし、どうもイメージがよくつかめないので、角度で考えてみる。北を0°とすると、十二支の示す角度は以下のようになる。

 子:345°〜(0°=北)〜15°
 丑:15°〜45°
(艮):45°=北東
 寅:45°〜75°
 卯:75°〜(90°=東)〜105°
 辰:105°〜135°
(巽):135°=南東
 巳:135°〜165°
 午:165°〜(180°=南)〜195°
 未:195°〜225°
(坤):225°=南西
 申:225°〜255°
 酉:255°〜(270°=西)〜285°
 戌:285°〜315°
(乾):315°=北西
 亥:315°〜345°

こう見てみると、一支は30°であるので、一分は3°ということになる。
 △鉢い琶位は「申の(ノ)六分」と一致しているが、それはつまり北を0°とした場合に243°の方角である。南西(坤)は225°、西南西は250.5°なので、243°というのはほぼその間くらいの方角である。
 ただ、そこからの距離については、△鉢い楼戝廚靴討い覆ぁ△任蓮峺淞二十間」、い任蓮峪庵卅五間」である。一町(丁)は109.09m、一間は1.8182mなので、前者は約581m、後者だと約394mである。
稲荷社 そこで、地図上に毛越寺の南端から243°の線を引いてみる。赤い線はい痢峪庵卅五間」、青い線は△痢峺淞二十間」である。毛越寺から「五町二十間」の場所は青の線の終点で、これだとまさに毛越地区の公葬地に当たってしまうが、その手前、赤線の終点から青線の終点の間の場所というのは、まさに隆蔵寺があったと伝えられる田地に当たる。やはり鎮守の稲荷社はこの付近にあったと見て間違いないのではないかと考えられる。
 △鉢い砲ける距離の食い違いにしても、例えばい歪樟距離で△脇擦覆蠅紡った距離であるなど、そもそも計測の方法に違いがあった可能性もある。方角が「分」の単位まで表記されてかつ一致しているところから見ても、これら距離の表記についてもかなり信ぴょう性のあるものと言えるのではないだろうか。

 明治時代の1903年(明治38年)に刊行された「平泉名勝誌」(志羅山頼順編集兼発行)には、「稲荷社跡」について、「兒塚(ちごづか)の南にあり。其南端の五輪塔は慈恵大師を祭りし塚なりとぞ。此処を逆芝山(さかしばやま)という。厳美村にも同名の地あり。藤氏の頃、此処に移せしにや」とある。これを見ると、少なくとも明治時代のこの頃までは、稲荷社跡は具体的な場所として認識される対象であったことが分かる。
 さらに、江戸時代の文書が「稲荷社」「稲荷明神」などという表記であるのに対して、同書が「稲荷社跡」とあることは、稲荷社は少なくとも江戸時代の各文書が書かれた頃には存在しており、かつ明治時代の後半1903年の時点では失われていたことを示している。これは、1875年の隆蔵寺の火災で稲荷社も同時に焼失したのではないかというここでの推定とも矛盾しない。
 なお、「兒塚の南」とあるこの「兒塚」について同書では、「昔時、社堂郡参の日、乗與の争いより兒の殺され、之を葬りし所なり。其の下を流るる沢を兒沢(澤)といふ」とある。「兒塚」、「兒沢」とも、今のところその場所を特定できていないのだが、機会があれば今後現地でヒアリングを行うなどして探してみたいと考えている。塚、五輪塔と沢、そして逆芝山が手掛かりとなりそうであるが、それらが示す場所がこれまで述べてきた場所の近くということになれば、この場所が稲荷社であるという結論がより妥当性を増すことになるわけである。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔