2018年08月23日 

毛越寺の「附鎮守社跡」ってなんだ?〜東北の歴史のミステリーその33

WP_20180721_10_55_38_Rich_LI 世界文化遺産「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」の構成遺産の一つである毛越寺は、国の特別史跡と特別名勝に、二重に指定されてもいる。特別史跡の名称は「毛越寺境内附(つけたり)鎮守社跡」、特別名勝の名称は「毛越寺庭園」である。
 名称から分かる通り、特別名勝としては、国内に唯一残る平安時代の浄土庭園が指定されている。一方、特別史跡としてはその浄土庭園を含む毛越寺の境内、そしてそれに付随するものとして(「附(つけたり)」)「鎮守社跡」も併せて指定されている。

 特別史跡としての毛越寺を語る際、この「附鎮守社跡」があまりにも見過ごされ過ぎているのではないだろうか。毛越寺の境内は散策しても、鎮守社跡のことを気に留める人はほとんどいないに違いない。毛越寺を訪れる人の目当てはこの、唯一現存する浄土庭園なのであって、「附」の後の鎮守社跡などは大部分の人にとっては眼中にないのである。
 仮に、この「附鎮守社跡」という文言に気づいた人がそれらを探してみても、毛越寺の中には見つからない。それもそのはず、この「附鎮守社跡」は、いわゆる飛地区域として指定されており、いずれも毛越寺の外に存在するのである。

 ちなみに、指定されている「附鎮守社跡」は、護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡、北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社、観自在王院跡である。堂宇跡や寺院跡など「鎮守社」でないものもいろいろ含まれているが、これらのうち観自在王院跡は言うまでもなく、毛越寺に隣接する世界文化遺産の構成遺産の一つである。護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡は、毛越寺に付随する堂宇であった。残る北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社は、私のこのところの平泉に関する一連の投稿を読んだ人はピンと来るかもしれないが、「平泉の鎮守社を探せ!」で取り上げたかつて平泉にあったとされる鎮守社のうちのいくつかである。
 つまり、毛越寺境内と一緒にこれらの遺跡も国の特別史跡に指定されているにも関わらず、注目されるのは常に毛越寺と観自在王院跡だけであって、残りはあってなきがごとき扱いを受けているのである。そもそも、これらの「附鎮守社跡」の場所すら、一般のガイドマップやガイドブックではほとんど示されていない。日吉白山社(=白山妙理堂)、八坂神社などは旧国道4号線沿いにあり、花館廃寺(=花立廃寺跡)は平泉文化遺産センターに隣接してあるのでまだ見つけられる可能性があるが、王子社跡は八坂神社の向かいにあったという伝承を知らなければ見つからない可能性が高く(当然案内板もない)、北野天神社に至っては、私がそうだったように、その場所を知っている人に聞かなければ見つけることはまず不可能である。
 せっかく特別史跡を構成する遺跡なのであるから(世界遺産で言えば構成遺産に当たるわけである)、もっと知られるべきだと思うのである。

 ところで、これまで論じてきた「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に特別史跡に指定されたのか。その辺りの経緯について、以前文化庁のサイトから問い合わせしてみたのだが一向に返事がないので、自力で調べてみた範囲で考えてみたい。
 毛越寺と各鎮守社跡が史跡に指定されたのは、1922年(大正11年)のことである。特別史跡に指定されたのは戦後の1952年(昭和27年)である。史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺ハモト圓隆寺嘉祥寺觀自在王院等堂塔四十餘宇禪坊五百餘宇ヨリ成リ藤原基衡夫妻及子秀衡ノ建立ニ係ル一山ノ建造物ハ廢滅ニ歸セリト雖土壘土壇礎石及庭石等殘存シテ能ク奧州藤原氏ノ盛時ニ於ケル堂塔苑池ノ舊規ヲ窺フニ足ル其ノ周圍ニ總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯アリ或ハ礎石ヲ存シ或ハ濠壘ヲ存シテ舊規ノ見ルベキモノアリ」

また、特別史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺は吾妻鏡によれば、堂塔四十余宇禅房五百余宇があり、基衡が建立したもので、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、又嘉祥寺その他の堂宇も存したという。遺跡は現在の毛越寺の境内にあり、よく旧規をとどめ、土塁・南大門跡苑池・金堂跡その他の堂跡を存し、保存状態良好である。殊に金堂跡は桁行7間梁間6間に復原せられる礎石ほぼ完好に存し、土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造も存する。左右に翼廊跡があり前方に折れてその両端に各々楼の跡が遺存する。その他の堂宇の礎石もよく残り、苑池も亦橋脚を存し中島・庭石の旧規も見るべく、平安時代の伽藍形式を示すものとして学術上の価値がきわめて高い。」

なお、2005年(平成17年)に「毛越寺と観自在王院の間の町道部分及び関連鎮守社である白山社の南側の池跡」が特別史跡に追加指定されている。

 特別史跡に指定された理由の中には鎮守社跡についての記載はないが、その前の史跡に指定された理由の中には鎮守社跡に関する記載があることが分かる。すなわち、毛越寺の周囲に「總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯」があって、礎石が残っていたり堀や土塁が残っていたりして「見ルベキモノアリ」とされているのである。
 「總社」「日吉」「白山」「祇園」「北野」「稻荷社」とあるうち、これらの記載と実際に指定された遺跡とを対応させてみると、「日吉」と「白山」は日吉白山社(白山妙理堂)、「祇園」は八坂神社、「北野」は北野天神社だが、「總社(総社)」は花館廃寺(花立廃寺跡)がその場所として比定されていたのだろうか。花立廃寺跡は「平泉の鎮守社を探せ!」で見てきたように金峯山社である可能性が高い。熊野三社の由緒にあるようにその金峯山社が総社も兼ねていたという見解もあるが、私の導いた結論は花立廃寺跡はかつての金峯山社であるものの総社はそれとは別にあったというものであった。
 また、「稻荷社(稲荷社)」は、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で書いたように場所が特定されていない。史跡に指定された理由にあるような礎石も堀も土塁も残っていない。実際、「附鎮守社跡」に指定された遺跡の中に「稻荷社」を思わせるものはない。一方、指定された遺跡の中にある「王子社跡」に関する記載が先に引用した文章の中にはない。こうしたことから、本来は実際に特別史跡に指定されている「王子社」と書くべきところを誤って「稻荷社」と記載したのかもしれない。
 この辺りの、記載されている内容と実際に指定されている遺跡の関係についても文化庁の見解を聞きたいところだが、先述のように問い合わせても返事がない。ただ、指定が100年近く前のことなので、結局のところ今の担当者にも分からないのかもしれない。

 さて、これら「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に、毛越寺に付随するものとして特別史跡に指定されているのかについてだが、それを類推する材料はいくつかある。まず、これらの鎮守社跡がある土地を所有していたのがほとんど毛越寺であったということが、毛越寺の中の宝物館にあるパネルの記載から分かった。
 また、当の毛越寺自身が、これらの鎮守社は平泉全体の鎮守社なのではなく、本来は毛越寺の鎮守社であると考えているということも影響していそうである。例えば、毛越寺貫主の藤里明久氏は、昨年八坂神社で行われた「中興の祖氷室良珍650年祭」で、「毛越寺の鎮守社は吾妻鏡の記述と符合している。吾妻鏡の『鎮守事』が、平泉の四方鎮守のことではなく毛越寺の鎮守のことをいっているのではないかと考えている」と講演している。
 すなわち、…端藜卆廚里△訶效呂鯡啀杙が所有していたこと、¬啀杙自身が鎮守社は毛越寺の鎮守社だったと考えていること、の二点が、これらの鎮守社が毛越寺に付随するものとして毛越寺と一緒に特別史跡に指定された要因だったのではないかと考えられる。
 ともあれ、特別史跡としての毛越寺を堪能するのに、毛越寺の境内だけ見ても十分ではない。ぜひ鎮守社跡の数々もじっくりと見てほしい。

 さらに言えば、鎮守社ではないが、同じく特別史跡の飛地として指定されている残りの護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡にも注目したい。ところが、これらのうち文殊堂跡と吉祥堂跡については、存在する場所が分からない。北野天神社と同じ毛越地区にあるようではあるのだが、詳しい場所が分からない。案内板もない。そこで毛越寺の社務所で聞いてみたのだが、なんと毛越寺でもそれらがどこにあるのか分からないのだという。
 そのような有様で、特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」のうち、人々に知られているのは毛越寺と、毛越寺に隣接する観自在王院跡という、世界文化遺産の構成遺産ともなっている2つだけで、白山妙理堂、八坂神社、花立廃寺跡は恐らく誰でも見つけられるものの、北野天神社と王子社跡は知らないと見つからない、文殊堂や吉祥堂に至ってはその場所すら分からない、というのが現在の状況なのである。確かに毛越寺や観自在王院跡は素晴らしい遺跡だが、こうした状況は一刻も早く改善すべきである。
 とりあえず私としては、まだ見つけられていない毛越寺の文殊堂と吉祥堂を見つけて、例の「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」に記載したいと思う。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔