2019年09月10日 

被災地の看護管理者からの伝言(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その123

 8月16日に発行された「東北復興」第87号では、4人の看護管理者の方に改めて語っていただいた東日本大震災についてのお話を紹介した。元々は、去る8月23日、24日に新潟市内で開催された第23回日本看護管理学会学術集会のパネルディスカッションで話をする際に紹介するつもりでお話をお聞きしてきたものだが、震災に関する貴重な証言でもあるので、文字として残しておこうと思ったものである。

 以下がその全文であるが、初出時から体裁を変更している。


被災地の看護管理者からの伝言

 東日本大震災の発災から8年5カ月が経った。この間、医療や介護の専門職がどのようなことを考え、どのような行動を取ったかといったことについては、マスメディア等でもあまり多く報じられてこなかった感がある。しかし、実際には、地域住民や患者、利用者のために獅子奮迅の働きをしていたのである。

 今回、第23回日本看護管理学会学術集会のパネルディスカッション1「大規模災害における看護管理者の役割」にパネラーの一人としてお招きいただいたことを機に、以前からお付き合いのある看護管理者の方々に、改めて震災の発災から今に至る経過の中で、看護管理者として力を入れて取り組んできたことや、全国の同じ看護管理者に特に伝えたいことについてお話を伺った。その大枠について、ここに紹介しておきたい。

福島第一原発至近の病院にいて
 西山幸江さんは福島県の浜通り、福島第一原発が立地していた双葉町にある双葉厚生病院で看護部長をしていた。地震の後、津波は辛うじて病院の手前で止まったものの、福島第一原発の全電源喪失という予想だにしなかった事態を受けて、避難指示が出された。重症者も含めて病院の全入院患者と職員が、避難を余儀なくされた。指示命令系統が混乱する中、過酷な避難を強いられて、亡くなった患者も何人も出たことが痛恨の極みだったと語ってくれた。西山さんは双葉厚生病院が閉鎖された後、系列の中通り南部にある塙厚生病院の看護部長、白河厚生総合病院の看護部長を歴任し、現在は福島市内にある福島第一病院の看護部長としてご活躍中である。その西山さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
原発事故には理不尽さと見えない恐怖を感じた。重要なのは平時の対応。震災前は、原子力は安全だと聞かされていて、災害対策に関心があまりなく、常日頃やっていなかったが、日頃の備えがやはり重要と痛感した。日々の活動の結果が災害時に出る。
・仕事では震災を機にいろいろな経験をさせてもらった。何もなかったらこうしたことは経験できなかった。
・でも、仕事を離れるといまだに心に傷がある。震災の話は嫌という気持ちがいつもある。震災のことを思い出すと心が切れて、泣きそうになる。今も戻れない故郷の双葉町には、今ここにないものがたくさんあった。なくすことの影響がこれだけあることを痛感する。心が満たされていないのを感じる。ずっとこの思いは死ぬまでもっていくのだと思う。

伝えたいこと
災害対応は年間を通してやるべきこととして、医療安全や感染対策と同じように常に日常に組み込まれないといけない。「火事場の馬鹿力」は一瞬のことであり、その後の持続力が大事。
つくづく思うのは人間関係の大事さ。地域の人と仲良くしておくことが災害時にも活きる。日頃やったことの答えが災害時に出る。

巨大津波に見舞われて
 長かおるさんは宮城県の沿岸、女川町にある女川町立病院で看護師長をしていた。女川町立病院は海沿いの高台、標高16メートルの場所にあったが、巨大津波はそこにも容赦なく押し寄せ、病院の一階部分が水没した。当初は患者に加え、避難してきた地域住民への対応に追われた。震災後、町から移管されて地域医療振興協会が指定管理者となった女川町地域医療センターで看護介護部長として今もご活躍中である。その長さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
・震災時に多職種の支援チームで始まった状況確認のためのミーティングが、今も「女川町地域包括ケアネットワーク会議」として続いている。震災の体験が今も活きている。
患者・利用者の安全を守るには、スタッフが元気なことが前提。そのためにスタッフの思いを聞き取る機会をつくることが有効だった。
あの震災を乗り越えたからこそ今がある。震災を経験して、自分の力ではどうにもできないことが起こり得ると腹を括った。その経験知は伝えていきたい。

伝えたいこと
「自分の命は自分で守る」を身につけるべき。専門職として、自身が要救護者にはならないように意識したい。
発災時には病院は「安心の場所」として、避難者もやってくる。災害対策を立てる時はそのことを踏まえた覚悟も必要。一方で、スタッフも被災者であることを忘れずに。
備蓄は分散させること。その中で、自分たちの分は自分たちで日常的に確保しておく。
連携ネットワークは平常時から構築しておかないと、いざという時に機能しない。

 横井智美さんは、同じ女川町で当時、町立病院に隣接した女川町老人保健施設の看護師長として勤務していた。発災時、施設には44名の入所者と8名の通所リハビリテーションの利用者がいた。避難マニュアルでは施設の一階に避難することとされていたが、大津波警報が出されたことで三階屋上に避難することを決断して難を逃れた。現在は女川町地域医療センターで外来看護師長を務めている。その横井さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
・震災前には「震度4以上で参集」という基準があったが、参集の途中で生命の危険に遭遇した職員がいた。まずは自分の命と家族の命を守ることが先決と、優先順位を改めた。
・発災後は、協力し合って、応援が来るのを信じて、しのぐ、つなぐという思いだった。
ネットワークは平時からつくらなければ、いざという時につながらない。
・いつでも管理者がいるとは限らない。いる人たちでリーダーシップを発揮して対応できるように日頃からしておかないといけない。いつでも備える気持ちが必要。

伝えたいこと
・自分たちが体験したことは皆さんの命をつなぐヒントになるかもしれない。次世代につないでいかないと、という意識を持っている。
「自分だけは大丈夫」という思いは禁物。人は自分の都合のよい考え方をするものと思っておく。マニュアル通りでなく、臨機応変に自分を守る行動をしてほしい。
・被災時に自分たちの状況を発信するすべがなかった。情報を伝えるすべを確保しておきたい。

風評被害を乗り越えて
 鈴木のり子さんは福島県の浜通り南部、東北第二の都市いわき市にある、いわき市立総合磐城共立病院で看護師長をしていた。震災時、いわき市は福島第一原発と同じ浜通りにあるということで、風評被害から物資が届かなくなり、医薬品や医療材料などが極端に不足する中、病院一丸となって懸命に地域医療を守った。老朽化が進んだ病院から患者を避難させ、安全が確認できてからまた院内に戻すなどの対応にも追われた。震災後、副看護部長、副院長兼看護部長を歴任して、現在は昨年12月に移転新築していわき市医療センターという名称となった新しい病院で患者サポートセンターの副センター長としてご活躍中である。その鈴木さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
マニュアルをもっと実用的なものにしなくては、と痛感した。ただ、震災時は動転しながらも年2回やっていた防災訓練に準じて動けた。
震災後は防災訓練も「ブラインド訓練」にした。震災後、DMATを編成、他地域に応援に行ける体制をつくった。看護部としても災害支援看護師を多く育成し、災害対策委員を置いた。
自主避難して戻ってきた人、避難せずに残った人、お互いに苦しかった。お互いの気持ちを聞きながら、時間は掛かっても理解し、認め合うことに努めた。悲しみや苦しみは乗り越え、教訓は忘れないという思いで。

伝えたいこと
専門職として、命を落としてはいけない。
災害は他人事ではない。備えだけは忘れないでほしい。その思いは今後もつないでいきたい。
なぜ看護師になったか、なんのために看護しているのか、看護・医療に対する価値観、倫理感、看護観を意識的に自分の中に育んでいってほしい。いざという時に迷ったり後悔したりしないように。最後は自分で判断できるように。
・震災前は地域との連携が弱かった。困ったときはどう助け合うのか、地域を回って、お互いの状況を話し合い、確認し合った。顔が見える、困ったときに困ったと言える関係の構築が必要。お互い様で、有事に備えよう。
自分の施設の備えの総点検をしてほしい。

「備え」をもう一度見直して

 これら看護管理者の方々の言葉は、自ら体験したことに基づいたものであるだけに、説得力がある。どこにいても、災害の発生を免れることは困難である以上、日頃からの備えが重要であることが、これら四人の看護管理者のお話からも窺える。

 「備え」というのは、ただ単にそれまでないものをつくればいいというものではない。いざという時に機能するものをつくって、初めて「備え」と言えるのである。

 東日本大震災の発災から八年が経過して、その体験の風化が指摘される。一方で、東南海トラフ地震を始めとして、近い将来に予測されている地震災害も複数あり、その備えのために、やはり東日本大震災における経験知は有用である。これからも、機会ある毎に、そうした震災体験による経験知を他の地域の人、この地域のこれからの人に向けて、積極的に発信していきたいと考えている。


anagma5 at 18:00│Comments(0)clip!私的東北論 | 震災関連

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