2020年02月21日
20回目の「平泉文化フォーラム」にて平泉の世界遺産登録を考える(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その127
12月16日発行の「東北復興」第91号では、年1回開催されている「平泉文化フォーラム」の模様を伝えながら、平泉の世界文化遺産登録について、改めて考えてみた。以前から繰り返し書いているが、「世界遺産以外の遺産にももっと焦点を当てよ」というのが私の持論である。その延長で、「拡張登録」には私はどちらかと言えば慎重な立場である。その辺りも含めて改めて書いてみた。以下がその全文である。初出時には入れるスペースがなかったが、今回はフォーラムの写真も入れてみた。
なお、平泉文化フォーラムについては、「来年度以降については、新たな形での研究とフォーラムのあり方を現在検討しているところ」とのことである。当日のアンケートにも書いたのだが、研究者だけではなく、平泉に関心を持つ市民らによる情報発信の場もあるとよいと思う。私など、発信したいネタが目白押しである。(笑)
20回目の「平泉文化フォーラム」にて平泉の世界遺産登録を考える
平泉に対する関心を喚起する場
「平泉文化フォーラム」という催しが年に1回、開催されている。「平泉文化研究の先端的な調査研究成果を公開する場」と位置づけられ、平成12年度から毎年1月か2月に2日間の日程で開催されてきた。今年は第20回という節目の年に当たり、記念大会として11月30日に1日のみの日程で開催された。
今年の2月に開催された平成30年度のフォーラムのアンケートでは、平泉町、並びに隣接する奥州市、一関市以外からの参加者が51%と過半数を占め、かつフォーラムに参加したことによって「平泉への関心が高まった」という回答が79%あったとのことで、毎年1回のこのフォーラムが地元のみならず、他の地域の人にとっても、平泉に対する関心を喚起する場となっていることが窺える。
「柳之御所遺跡」の出土
「平泉文化フォーラム」の開始は、平泉の文化遺産の世界遺産登録と密接に関連している。最初に平泉の史跡を世界遺産にという声が出たのは平成9年のことだが、その声が出るにきっかけとなったのは、昭和63年の「柳之御所遺跡」の出土である。この一帯が一関遊水地の堤防と国道4号線バイパスの工事予定地となり、それに伴う事前の緊急発掘調査が行われた。その結果、予想だにしなかった建物の遺構や多数の遺品が出土し、これが北上川に削られて大半が失われていたと思われていた、奥州藤原氏の「政庁」であった平泉館(ひらいずみのたち)、通称「柳之御所」の跡であるのではないかという話になった。
当初は埋め戻して予定通り工事が行われることになっていたのだが、これに対して全国的な保存運動が起こり、平成2年には柳之御所遺跡保存に関する20万人もの署名簿が当時の建設省や文化庁などに提出された。平成4年にはこの遺跡が平泉館であることが研究者らでつくる平泉遺跡発掘調査指導委員会による答申で明記されたこともあり、平成7年に遺跡を含む一帯を大きく迂回する形でバイパスルートが変更された。遺跡の保存を目的に当初計画が変更されたのは当時としては画期的なことであり、平泉の文化遺産が改めて注目されるきっかけともなった。
日本で初めての「登録延期」決議
この柳之御所遺跡の保存で高まった平泉の文化遺産への関心が、世界遺産登録への大きな原動力となった。とは言え、その歩みは決して平坦なものではなかった。世界遺産登録への第一段階としては、各国が概ね5年から10年以内に世界遺産へ推薦するために作成している「世界遺産暫定リスト」に登載されることが必要となる。「平泉の文化遺産」は平成12年に文化財保護審議会の決定を受けて「暫定リスト」に登録され、翌13年にユネスコ世界遺産センターの「暫定リスト」にも登録された。「平泉文化フォーラム」はまさにこのタイミングで始まったことが分かる。
その後、平成17年に推薦資産が、中尊寺境内、毛越寺境内、柳之御所遺跡、無量光院跡、金鶏山、達谷窟、骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡の9つに確定し、構成資産の周囲に緩衝地帯が設定され、そのエリアの開発規制や景観保全を行うための景観条例も制定された。
翌18年には世界遺産登録への推薦書類も作成、提出された。登録名は「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」と決まり、日本として推薦することが正式に決定した。その翌年、平成19年には専門機関による現地調査も行われ、全ては順調に進んでいるかのように見えた。
ところが一転、平成20年、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関であるイコモスから「登録延期」の勧告が出され、ユネスコ世界遺産委員会で「登録延期」が決議されたのである。日本の推薦遺産としては初めてのことであった。イコモスの勧告の理由は「普遍的価値の証明が不十分」というもので、要は「構成資産が『浄土思想を基調とする文化的景観』を現わしている」とは判断してもらえなかったわけである。
当然、地元を中心としてこの「登録延期」の決定は衝撃的だったが、その理由には納得するところもある。「浄土思想を基調とする」とすると当然「浄土思想」なる思想についての説明が必要になるが、これを説明し、特に仏教徒でない委員に納得してもらうのは至難ではなかったろうか。まして、構成遺産の中には、この浄土思想とどんな関係があるのかよく分からないものもある。これでは確かに世界遺産登録に必須の「普遍的価値の証明」が不十分との指摘は免れ得ないものだったろう。
「仏国土(浄土)」を表す遺産
日本で初めての「登録延期」という結果を踏まえて、推薦書が再提出されることになった。その中で、当初の構成資産を削減しなければ「普遍的価値の証明」をすることは困難という結論になり、当初の9つの資産について、2年後に再推薦して短期的に登録を目指す5資産と、調査研究をさらに継続した上で「拡張」により登録を目指す4資産とに区分されることになった。
翌21年には絞り込んだ5資産で登録を再度目指すことが決定し、さらに毛越寺境内から観自在王院跡を分離して6資産とすることになった。再提出された推薦書では、登録名は「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」となった。これは前回のものより直截的で分かりやすい表現である。これであれば、複雑な「浄土思想」の説明ではなく、「浄土」とは何かだけを説明し、その浄土をこれらの構成遺産が表現していることを説明すればよいことになる。
こうして再度日本としての推薦が決定し、平成22年に現地調査が行われ、翌23年、東北が東日本大震災による甚大な被害にさらされているさ中の6月26日(現地25日)、ユネスコ世界遺産委員会において、晴れて世界遺産登録が決議されたのである。
このような平泉の世界遺産登録を巡る紆余曲折の中でも、「平泉文化フォーラム」は平泉文化の発信の場として毎年欠かさず開催されてきたのである。
難しい残る遺産の「拡張登録」
平泉の文化遺産については、先に述べた通り、「登録延期」になった際に除外された遺産の拡張登録が目指されている。当初、構成遺産にあり、登録延期となった際に除外した達谷窟、骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、そして、登録の際に除外された柳之御所遺跡の5つがその対象である。
しかし、これらの拡張登録はかなり難しいのではないかと私は見ている。なぜなら、今回の登録名が「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」だからである。つまり、「仏国土(浄土)」を表す建築や庭園、遺跡でないと、この登録名の世界遺産には加えることはできないわけである。
ところが、これら5つの構成遺産は必ずしも「仏国土(浄土)」との関係が明確ではない。「仏国土(浄土)」を表す建築や庭園を残した奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡ですら、構成遺産になり得てないのである。ユネスコがこの登録名をかなり厳格に解釈している様が窺える。そもそも柳之御所遺跡と骨寺村荘園遺跡を除く3遺跡、達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡は、その奥州藤原氏との関連すら明確ではない。それらを奥州藤原氏がこの地で可視化しようとした「仏国土(浄土)」との関連で登録してくれ、というのはかなり無理筋でないかと思われる。
3遺跡のうち唯一達谷窟は、毘沙門堂の南側に位置する蝦蟇が池が発掘調査の結果、往時には池中の中央に中島を配した、玉石護岸を伴う園池であったことが判明しており、仏堂の前面に設けられた浄土庭園であったと考えられることから、「仏国土(浄土)」との関連を説明することはできるかもしれない。しかし、一方で「平泉」との関連が弱いので、そこを強調すべきだろう。達谷窟(の毘沙門堂)は坂上田村麻呂の創建とされているが、奥州藤原氏初代の清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立したとの伝承も残っている。その伝承を丁寧に掘り起こし、奥州藤原氏とのつながりを強調し、既存遺産との関連を伝えない限り、世界文化遺産「平泉」への登録は難しいのではないだろうか。
構成遺産は「代表選手」
さて、今回の「平泉文化フォーラム」のテーマは、「平泉研究−平成から令和へ、課題と展望−」で、基調講演、報告4題、それにパネルディスカッションが行われた。このうち、平泉遺跡群調査整備指導委員会委員長で大阪府文化財センター理事長の田辺征夫氏による基調講演「日本の遺跡保存と活用、この30年−世界遺産“平泉”誕生の意義に寄せて−」で、氏は世界遺産としての平泉が誕生した意義について、
・限られた地域の限られた時代の資産でありながら普遍的価値が認められた。
・一つのまとまりのある地域で浄土思想という仏教の世界観が体感できる稀有な場所である(京都や奈良とは違う平泉固有の臨場感)。
・建築や庭園だけでなく発掘成果が「考古学的遺跡群」として明確に位置づけられた。
・長年の地道な調査研究と地域だけでない広い視野があった。
の4点を挙げていた。その上で、平泉の今後については、
・奥州藤原氏四代の歴史と資産だけでなく、その後の継承や伝承も含めた幅広い視野と分野への視点が必要。
・地域の人々の誇りが最大の発信力。
・世界遺産の価値は登録された資産にだけあるのではない(登録遺産はあくまで「代表選手」)。
といった指摘をした。
「世界遺産の価値は登録された資産にだけあるのではない」との指摘は、平泉観光があまりに世界遺産のみに依存している現状を勝手に憂いて、一昨年のフォーラムの後に「世界遺産以外の平泉オススメ観光スポットマップ」を作成した私も全面的に賛成である。
世界遺産の拡張登録に遮二無二進むよりも、今ある世界遺産の構成遺産以外の遺産をどのように世界遺産の構成遺産と関連付けて伝えていくか、世界に向けて情報発信していくかということを考えることの方がむしろ必要なのではないだろうか。
今の平泉を取り巻く観光施策を見ていると、「世界遺産に入らないと意味がない」とでも考えているように見えるが、決してそんなわけではない。田辺氏の指摘する通り、登録された5資産は「代表選手」であり、その代表選手の背後にはそれを支えるたくさんの選手の存在があるのである。
そもそも、世界遺産は「資産」と「緩衝地帯」からなる。「緩衝地帯」には現在の平泉町内の大半が含まれるが、この「緩衝地帯」の活用という面はこれまでほとんど検討されていない。この点では、同じ東北の世界遺産である白神山地におけるアプローチが参考になる。平成5年に東北初の世界遺産(自然遺産)として登録された白神山地では、「資産」である登録区域は、森林生態系保護を目的として管理・保護されており、入山が制限されている。そのため、その周辺の緩衝地帯を、気軽に世界自然遺産に触れることができる場所として活用している。これに対して平泉では、緩衝地帯などほとんど意識されていない。ここに今後の平泉の文化遺産活用の可能性が大いに秘められているように思うのである。