2020年03月12日
あの日から9年〜私的東北論その128
あの日から9年。
別にこの日だけが震災のことを振り返る日というわけでもないのだが、毎年この日だけはやはりいつもと同じ心持ちではいられない気がする。
心にさざ波が立っているような、居ても立っても居られないような感じなのが自分でも分かる。
そのようなわけで、毎年この日は午後仕事を休んで、弟の最期の地、仙台市の沿岸、荒浜地区へ出掛けていっているが、今年も足を運んできた。
荒浜への出発地は、毎年同じ若林区役所である。
今年も献花場が設置されていた。
とっさに「献花しに」と伝えたが、「献花」って言葉、普段言い慣れてないので、発音がおかしくて「ケンカしに」って聞こえてたらどうしようかと、ちょっと思った。
当初予定していた勾当台公園市民広場での中継放送も中止となった。
「せんだい3.11メモリアル交流館」も3月いっぱいの休館が決まっており、当初予定していた献花場の設置は取りやめとなった。
あの日弟がたどったであろう道を通って一路荒浜へ。
事前の雨予報が外れて、例年通り風は強かったものの、晴れのいい天気になった。
この日を除いて普段、荒浜に足を運ぶことはほとんどないので、1年前との違いもよく分かる。
街中から荒浜に向かう県道荒浜原町線には、津波から避難する方向を示した標識ができていた。
この時の教訓から、海岸に沿って走る県道塩釜亘理線は、同様の防潮堤機能を持たせるために高さ6mかさ上げされることになっていたが、その工事も終わり、昨年10月から「東部復興道路」として供用されている。
今日も車が頻繁に行き来していた。
「東部復興道路」を越えて荒浜地区に入る。
この地域唯一の寺院だった浄土寺の跡地では、今年も慰霊法要が営まれ、今は災害危険区域となってしまったこの地域にかつて住んでいた方々がたくさん訪れて手を合わせていた。
来年からはそちらの新寺院の方で法要が営まれるとのことである。
この荒浜小学校に加えて昨年8月、この地域にもう一つ震災遺構が誕生した。
「仙台市荒浜地区住宅基礎」と名付けられたこの新しい震災遺構は、大津波で基礎だけが残った住宅跡6戸と津波による浸食地形が保存され、エリア内は見学用通路が整備されている。
仙台平野はこの地震で今回同様広い範囲が浸水したと見られ、それを受けて政宗はこの「潮除須賀松林」を整備し、沿岸に貞山堀を掘り、今で言う「多重防護」の備えをつくった。
同時に、奥州街道を内陸寄りに移し、城下町も海岸から離れた内陸寄りに構えたとされる。
荒浜地区を始め仙台市の沿岸では、もう一度防災林を復活させようと、植樹作業が続いている。
再び植えられた黒松も着々と育っているのが分かる。
私にとっては弟が間違いなく生きていた、地震発生時刻14時46分よりも、この地に大津波が押し寄せた15時54分の方が重要である。
帰ろうとしたら入れ替わりにやってきた人がいた。
きっとこの人もこの地で大切な誰かを失ったのに違いない。
あの日ここまで戻ってこれなかった弟を悼んで有志の方々が中庭につくってくれた「3.11不忘の碑」には、たくさんの花が手向けてあった。
内容総量、実に1750g、通常サイズが1缶85gなので、その20缶分を超える分量である。
1L缶のビールが小さく見える。
それはそれとして抱えつつ、また明日から日々、気の向くまま、足の向くまま、生きていこうと思う。
別にこの日だけが震災のことを振り返る日というわけでもないのだが、毎年この日だけはやはりいつもと同じ心持ちではいられない気がする。
心にさざ波が立っているような、居ても立っても居られないような感じなのが自分でも分かる。
そのようなわけで、毎年この日は午後仕事を休んで、弟の最期の地、仙台市の沿岸、荒浜地区へ出掛けていっているが、今年も足を運んできた。
荒浜への出発地は、毎年同じ若林区役所である。
今年も献花場が設置されていた。
とっさに「献花しに」と伝えたが、「献花」って言葉、普段言い慣れてないので、発音がおかしくて「ケンカしに」って聞こえてたらどうしようかと、ちょっと思った。
今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、震災関連の行事が軒並み中止か規模縮小を余儀なくされている。
仙台市内でも、今年は宮城の体育館で開催予定だった「東日本大震災仙台市追悼式」は規模を縮小して、献花のみの開催となった。当初予定していた勾当台公園市民広場での中継放送も中止となった。
「せんだい3.11メモリアル交流館」も3月いっぱいの休館が決まっており、当初予定していた献花場の設置は取りやめとなった。
あの日弟がたどったであろう道を通って一路荒浜へ。
事前の雨予報が外れて、例年通り風は強かったものの、晴れのいい天気になった。
この日を除いて普段、荒浜に足を運ぶことはほとんどないので、1年前との違いもよく分かる。
街中から荒浜に向かう県道荒浜原町線には、津波から避難する方向を示した標識ができていた。
この時の教訓から、海岸に沿って走る県道塩釜亘理線は、同様の防潮堤機能を持たせるために高さ6mかさ上げされることになっていたが、その工事も終わり、昨年10月から「東部復興道路」として供用されている。
今日も車が頻繁に行き来していた。
「東部復興道路」を越えて荒浜地区に入る。
この地域唯一の寺院だった浄土寺の跡地では、今年も慰霊法要が営まれ、今は災害危険区域となってしまったこの地域にかつて住んでいた方々がたくさん訪れて手を合わせていた。
来年からはそちらの新寺院の方で法要が営まれるとのことである。
この地域の人たちがあの日避難して助かった仙台市立荒浜小学校の校舎は、震災遺構として大津波に襲われたままの当時の状況を伝えてくれている。
校舎は館内の修繕工事のために1月14日から3月3日まで休館となっていたが、修繕工事が終わった後も3月末まで休館が延長されることとなった。この荒浜小学校に加えて昨年8月、この地域にもう一つ震災遺構が誕生した。
「仙台市荒浜地区住宅基礎」と名付けられたこの新しい震災遺構は、大津波で基礎だけが残った住宅跡6戸と津波による浸食地形が保存され、エリア内は見学用通路が整備されている。
荒浜地区の海岸は、かつて深沼海水浴場として知られていた場所だが、いまだ海水浴場は再開していない。この日も風が強かったせいもあって波も高かったが、当然ながらあの日のように防潮堤を越えてくるようなことはない。
あの日の大津波で、江戸時代、仙台藩祖伊達政宗が命じて植林された「潮除須賀松林(しおよけすかまつりん)」はほとんど根こそぎ倒され、流されてしまった。
政宗は慶長6年(1601年)に仙台入りしたが、その10年後の慶長16年(1611年)に慶長三陸地震に遭遇している。仙台平野はこの地震で今回同様広い範囲が浸水したと見られ、それを受けて政宗はこの「潮除須賀松林」を整備し、沿岸に貞山堀を掘り、今で言う「多重防護」の備えをつくった。
同時に、奥州街道を内陸寄りに移し、城下町も海岸から離れた内陸寄りに構えたとされる。
荒浜地区を始め仙台市の沿岸では、もう一度防災林を復活させようと、植樹作業が続いている。
再び植えられた黒松も着々と育っているのが分かる。
私にとっては弟が間違いなく生きていた、地震発生時刻14時46分よりも、この地に大津波が押し寄せた15時54分の方が重要である。
帰ろうとしたら入れ替わりにやってきた人がいた。
きっとこの人もこの地で大切な誰かを失ったのに違いない。
あの日ここまで戻ってこれなかった弟を悼んで有志の方々が中庭につくってくれた「3.11不忘の碑」には、たくさんの花が手向けてあった。
普段飲み歩いていることの多い私だが、この日だけは何があろうと大人しく家に帰る。
子どもの頃、よく弟と食べたやきとりの缶詰、今日は特大サイズのものを取り寄せてみた。内容総量、実に1750g、通常サイズが1缶85gなので、その20缶分を超える分量である。
1L缶のビールが小さく見える。
当たり前である(笑)。
ともあれ、このようなバカなことができるのも、生きていればこそのことである。
何年経っても、あの日の痛みが消えることはないのだろう。それはそれとして抱えつつ、また明日から日々、気の向くまま、足の向くまま、生きていこうと思う。