2004年10月23日 

私的東北論その4〜沖縄に負けない東北らしさを

424e93fc.JPG 私事で恐縮だが、私は歌うことが好きである。小中高と、校内で合唱祭、合唱コンクールなどがあると、クラスに一人はやけに張り切って人一倍大きな声で歌う生徒がいるが、それが私の昔の姿である。その私は、数年前県内の某大学の学園祭の折にカラオケ大会に出場し、何を間違ったか優勝してしまったことがある。その賞品として仙台―札幌の往復航空券をもらった。

 その往復航空券で冬にスキーに行ったが、その機内でアンケートに答えたところ、なんと今度は行き先自由の往復航空券が当たった。恐るべき勝負運というところだが、その往復航空券でどこに行くか考えて、北には行ったので、今度は南だろうということで沖縄にすることにした。私は歌うことと同じくらい自転車に乗ることが好きなので、沖縄を自転車で一周することにした。私が当たった航空会社の沖縄便は福島からしか出ていなかったので、福島県南部にある福島空港までは高速道路を使って車で移動した。

 初めて訪れる沖縄は、実に刺激的な地であった。沖縄の人たちは自分たちのアイデンティティをとても大切にしていると感じた。沖縄は1609年に島津氏に侵攻されて以来、島津氏の支配下にあった。1879年の琉球処分以後は、沖縄は強制的に日本の一部に組み入れられた。それでも沖縄の人たちは自分たちの自分たちらしさを失わず、悲劇の戦禍も乗り越えて現在を生きている。彼らの中には「自分たちは『うちなんちゅ』だ」という確固たるアイデンティティがあり、それが彼らの心の根っこの部分にある。そうした思いが沖縄という地の至るところから感じられ、それが私には刺激的だったのである。

 沖縄の文化・慣習・食などを目の当たりにしながら、東北はどうだろうと考えさせられた。東北も元はと言えば、大和朝廷の支配の外にあった「独立国」であった。朝廷に従わない者は蝦夷と言われて虐げられ、従った者は俘囚と呼ばれて蔑まれた。征夷大将軍坂上田村麻呂と蝦夷の族長アテルイとの激しい戦いの以後、岩手県内陸部の「奥六郡」と秋田県南部の「仙北三郡」以南は朝廷の支配下に置かれた。平安時代末期の1世紀にわたる奥州藤原氏三代の時代は、平泉文化が花開いた。京都の仏教文化を取り入れつつも、金色堂に代表されるような京都にもないものを作ろうという気概が感じられた。

 しかし、源頼朝による文治五年奥州合戦を経て「日本」に組み込まれた後は、単に私の不勉強かもしれないが目を瞠るような文化は見られないように思う。以降、今に至るまで、東北は日本の一部として同化することに専心してきたように見える。

 今、沖縄の文化に互角に対抗できるとすれば、東北ではやはり津軽だろうか。沖縄の三線と津軽三味線、島唄と津軽民謡、全島エイサー祭りと青森ねぶた祭…、こうして見るとがっぷり四つのいい勝負ができるかもしれない。

 沖縄からの帰りの飛行機、ふと窓の下を見ると首都圏の街並みが見えた。どこまでも広がる市街地、ビルの群れ、それらが霞んで見える空気、時々出張で訪れる街は上から見るとこのような街だったのだとわかった。人脈もあり情報もあり、仕事で行くにはとても貴重な街だが、自分が住むには大きすぎると思った。

 飛行機はそれから北に進路を変えてしばらく飛んで、夕方頃に福島空港の上空に差し掛かった。眼下には遥か先まで続く緑の森がオレンジ色の夕陽に照らされて、とてもまぶしく美しく見えた。ここが自分の住んでいる場所なのだと思うと、何か無性に嬉しかった。

 「東北には何もない」という声を住んでいる人から聞くことがある。何もないことはないのだと思う。その人が探しているものはないのかもしれない。でも、それを補って余りあるものが東北にはあると私は思う(写真は沖縄の喜屋武岬。沖縄戦では人々の血で海が赤く染まった、という)。

 ちなみに、私はその後抽選や懸賞の類には一切当たっていない。どうやら一生分の運を既に使い果たしてしまったようである(笑)。

anagma5 at 19:32│Comments(1)TrackBack(0)clip!私的東北論 

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この記事へのコメント

1. Posted by ノリだ   2004年11月20日 18:56
うん。秋田県民は保守的だ。感情出さない。言葉にも出さない。下手に騒いで傷つきたくない。じっと我慢だ。んで、酒を飲む。脳血管障害でぶっ倒れる。自殺者は日本一。なんとかしなきゃと思いつつ、今夜も大酒飲む私。

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