私的東北論  

2017年03月24日

私的東北論その94〜これからのまちづくり、地域づくり(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」紙では、これからのまちづくり、地域づくりについて、見聞きしたことを基に論じてみた。



これからのまちづくり、地域づくり


「地域包括ケアシステム」から「地域共生社会」へ
3087_001 「地域包括ケアシステム」については、「東北復興」第55号で取り上げた。いわゆる「団塊の世代」が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みを市町村ごとに構築するというものである。

 その実現のための取り組みが現在、全国各地で行われているが、さらに厚生労働省では現在、この「地域包括ケアシステム」を深化させ、「地域共生社会」の実現を目指している。これは「高齢者・障害者・子どもなど全ての人々が、一人ひとりの暮らしと生きがいを、ともに創り、高め合う社会」とのことで、その一環として主に地域の高齢者を想定していた「地域包括ケアシステム」から一歩進めて、これまで高齢者、障害者、子どもなど対象者ごとに「タテワリ」だった福祉サービスを「まるごと」へと転換することが想定されている。

 「一億総活躍社会」づくりが進められる中で、今後は福祉分野においても、「支え手側」と「受け手側」に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティを育成し、公的な福祉サービスと協働して助け合いながら暮らすことのできる社会づくりが必要だということで、そのために「他人事」になりがちな地域づくりを地域住民が「我が事」として主体的に取り組める仕組みを作るとともに、市町村においてそうした地域づくりの取組の支援と公的な福祉サービスへのつなぎを含めた「丸ごと」の総合相談支援の体制整備を進める必要があるとされる。

介護保険への反省
 さて、長々と国の動向について紹介してきたが、考えておく必要があることは、これからのまちづくり、地域づくりは、単に地域に賑わいを増やす、交流人口を増やす、といったような方策に代表されるような活性化された地域をつくるということではなく、その地域の人が住み慣れた自分たちの地域でこれからも暮らし続けることができる地域をつくる、という方向に舵を切り始めたということである。そしてまた、他ならないその地域に住む一人ひとりが、そのために「他人事」ではなく「自分事」としてそうしたまちづくり、地域づくりの担い手となることが必要である、ということである。

 では、「担い手」として何をすべきなのか。それは、端的に言えば、互いにつながり、支え合うことである。第55号で「第4回 町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」の基調講演で、内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏が「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と述べていたことを紹介したが、これはまさにそのことを指している。

 山崎氏は厚生労働省時代に介護保険法の成立から実施、改正まで関わり、「ミスター介護保険」との異名を持つ人だが、その山崎氏はこの後の基調鼎談で、「介護保険サービスは、都市部はともかく、地方ではメリットだけではなかったのではないか」とも語った。また、省内の若い職員には、「介護保険のことだけやっていると、介護のことが分からなくなる」とアドバイスしていたというエピソードも披露している。介護保険の「生みの親」自らが、介護保険の下で専門職が提供するサービスについて、自己反省とも取れる見方をしているのである。

 何が反省材料なのかと言えば、それは介護が必要な人への支え合いを全て介護保険サービスに委ねてしまったことが、地域のつながりを切り、お互いの支え合う力を弱めてしまったのではないか、ということである。

 もちろん、そうしたことから年々膨らむ介護給付費が国の財政を圧迫しているという側面もある。このままでは団塊の世代が75歳以上となる2025年には介護保険制度が立ち行かなくなるのではないかという危機感が国にはある。ただ、そうしたことだけではなく、自分たちの住んでいる地域へのコミットメントこそが、人口減少を伴う超高齢社会におけるこれからのまちづくり、地域づくりにおいて重要なポイントだということは、第55号で紹介した奥会津の方々の言葉から如実に窺える。

震災の前からあった助け合い、支え合い

 去る2月2日、仙台市内で「第1回宮城発これからの福祉を考える全国セミナー」が開催された。現在、新しい介護予防・日常生活支援総合事業の創設、包括的支援事業の充実を柱とする新しい地域支援事業への対応に各市町村は追われている。新しい介護予防・日常生活支援総合事業においては、これまで介護保険サービスとして提供されていた要支援1、2の高齢者への訪問、通所といった介護予防サービスの大半が市町村の事業として移管されることになっているが、そのうちの「B類型」のサービスなど、「住民主体の自主活動として行う生活援助等」(訪問型サービス)、「体操、運動等の活動など、自主的な通いの場」(通所型サービス)と規定されているのである。地域の住民主体でお互いの助け合いや居場所づくりを進めるというのである。今後は間違いなくそうしたまちづくり、地域づくりが進んでいく。

 この日の全国セミナーでは、そうした制度変更を踏まえて、今後どのようにまちづくり、地域づくりを進めていくか、各自治体におけるこれまでの取り組み事例などが発表されたが、地域の住民が互いに助け合い、支え合う地域をつくる大きなヒントは、震災からの復興プロセスの中にもある。宮城県保健福祉部長寿社会政策課長の成田美子氏は、「震災支援・支え合いのノウハウを地域包括ケアに活かし、発信していく」と述べたが、宮城県サポートセンター支援事務所長の鈴木守幸氏も、「宮城は震災で多くのものを失ったが、地域力や住民力といった財産を得た」と指摘した。1月21、22日にやはり仙台市内で開催された「第5回日本公衆衛生看護学会学術集会」の基調講演で東北大学大学院医学系研究科教授の辻一郎氏も、地縁・血縁から「知縁」へということで、「共通の興味・関心・利害で結ばれる人間関係が重要」として、「家族でない人が同居・隣居して助け合っていく新しい形の介護・看取りが必要」で、「震災のプレハブ仮設住宅にそのヒントがある」と強調していた。

 ただ、こうした地域における助け合い、支え合いは震災を契機に生まれたものではない。辻氏は震災直後に支援に入った避難所での体験を紹介しながら、「東日本大震災の被災地では、『地獄』の中で人々が『天国』を創出していた」と評しつつ、「それができたのは人と人のつながりがあったため」としていた。そうした元からこの地域にあった「人と人とのつながり」という「ソーシャル・キャピタル」こそが復興・再生を助けてくれるものであったわけである。

 全国セミナーにおいて実際に支援に当たっている当事者の発表からもそのことが強く感じられた。南三陸町社会福祉協議会で生活支援コーディネーターを務める芳賀裕子氏も「つながりづくりがこれからのまちづくり」と強調した。石巻市社会福祉協議会で地域福祉コーディネーターを務めている小松沙織氏は、「地域のチカラは、誰かを想う気持ち、喜びや困りごとに共感する気持ち、そうした想いから生まれる。それは昔も今もこれからも変わらない」と述べた。東北福祉大学総合マネジメント学部教授の高橋誠一氏も、「住民ができることを(専門職が)邪魔しなければいろいろ発展がある」として、そうした地域の「お宝」を探すことが重要であると指摘した。仙台の小松島地域包括支援センターの生活支援コーディネーターである岩井直子氏も、「地域の一人ひとりが『宝箱』を持っていた」として、地域の人々のそれまでの人生経験が地域づくりのアイディアに活かされていることを小松島地域での実例を通して紹介していた。北上市保健福祉部長寿介護課包括支援係主任の高橋直子氏も、「新しい事業に取り組むのではなく、今ある自治・互助を活かしてよりよい形にしていく」と述べた。

地方こそ地域づくりのトップランナー
 高齢者、障害者、子どもなどが自立した生活を営むために必要な支援を実施する団体やそれらの団体のネットワーク組織を支援しているNPO法人全国コミュニティライフサポートセンターの理事長である池田昌弘氏の示した図が、これからの地域づくり、まちづくりのあり方をよく整理していた。地域には、専門職など「支援のプロ」、地域住民など「地域のプロ」、そしてその両者をつなぐ「つなぐプロ」という、「地域づくりを支える『三種のプロたち』」がいる。そして、制度を活用したサービスや制度外で行う生活支援サービスなど「フォーマルな資源」、住民主体の支え合い活動や得意分野のおすそ分け活動などの「インフォーマルな資源」、そして外部の人には見えにくく、内部の人にとっては気づきにくい「ナチュラルな資源」という、「地域での生活を支える『三種の資源』」がある。「ナチュラルな資源」はその地域の伝統や文化、そしてそれまでのつながりや支え合いといった「宝物」から成り立っている。そのような構図である。

 住み慣れた地域での暮らしを支える「三種の資源」いずれでも「つながりをきらない」がキーワードとなる。「三種のプロ」による支え合いは、「つなぐプロ」が接着剤となって切れ目なく連携していく。そうして、豊かな緑を茂らせるどっしりとした大樹のような地域ができるわけである。

 その土台となる根っこの部分はその地域に住む一人ひとりである。時代が変化し、その都度生じる課題に柔軟に対応しつつも、助け合い、支え合いといったこれまでこの地域に大事に受け継がれてきたものについては、揺らぐことなく次の世代に伝えていく。そうした先に、これからのまちづくり、地域づくりがある。

 2月1日に開催された塩釜医師会の在宅医療研修会でも、東京大学恒例社会総合研究機構特任教授の辻哲夫氏は、「地域の中で皆で役割分担すれば、住み心地のいいまちになる」として、そのようにして「できる限り元気で、働けて、住んで、弱っても安心できる地域」があれば、「超高齢社会は決して恐れることはない」と強調した。その上で、「地方は人と人のまとまりがある。大都市は危うい。地方からまちづくりをして日本の未来をつくってほしい。地方は地域包括ケアシステムにより近い距離にある」と、この地域にエールを送ってくれた。

 大都市圏と地方との格差のことばかり話題になるが、ことまちづくり、地域づくりに関しては、地方はトップランナーとしてその先頭を走っていることを我々はもっと誇りに思ってもいい。そして、その上で自分たちの住む地域をもっといいものにしていくための歩みを続けていけばよいのである。


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2017年03月23日

私的東北論その93〜「逃北」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興紙第56号では、「逃北」について書いてみた。能町みね子氏の造語である「逃北」、東北の本質を実によく言い表した言葉であると思う。紙面ではスペースの関係で19行ほどカットしたが、再録に当たって、カットした部分も復元した。元々カットしても大丈夫だった文章であったわけだから、それで何がどうこうなるということはないわけであるが(笑)。

 そうそう、能町氏、出版元の文芸春秋のサイトで、「逃北」について「コミックエッセイ」も書いている。こちらも併せて参照されたい。


「逃北」のススメ

「逃北」という名のエッセイ
img_ea47bf20395854d7c586c55e5d76206b732506 「逃北〜つかれた時は北へ逃げます」(能町みね子著、文春文庫)が面白かった。「逃北」というのは能町氏の造語で、「北に逃げたい衝動」のことである。「いつでも北に逃げたい。私は」という書き出しで始まるこのエッセイ、氏の「北」に対する思いが余すところなく披瀝されている。

 氏は、「南の解放感、暖かさ、ほんとにいいものです。旅行でおとずれた春の沖縄は気持ちよかったよ。タイもよかったね。弛緩してた。たいがいのことはどうにかなるんじゃないの〜、っていう楽天的な気持ちになれそうだった」と言いつつ、「でも、南に住みたいとか、南の国で人生をやり直す夢を描いたりとか、そういう気持ちはまったくない。沖縄やタイに住むなんて想像もつかないし、はっきり言って絶対にいやだ」と言い切ってしまう。そして、「私はキツいときこそ北に行きたくなるのだ。都会での生活に倦んだとき、南に行って気楽になろうという方面に考えは進まず、北に行ってしまいたくなる」と、その「逃北」への思いを熱く語るのである。

どこが「北」か
 「逃北」という言葉が「東北」と音が同じなのは偶然なのではなく、氏の東北に対する思いとリンクしている。実際、本書の中には、氏が青森や秋田や岩手に「逃」げた時の体験談が生き生きと書かれている。最初に意識的に「北」に行った大学の卒業旅行で氏は、両親の出身地である北海道を目指すが、「途中の青森のこともものすごく気に入ってしまい」、「帰ってきてからは、北海道よりも青森のほうが印象に残っていたくらい」で、「その旅行以来、日本の『北』で私がもっとも惹かれるのは、最北の北海道よりも東北地方になりました」とのことである。

 どんな時に「逃北」が発動するのか。氏によれば、日々東京で仕事をしていて、なんとなく心身の不調やイラつきなどが蓄積されて、「じんわりじんわりネジが巻かれて」いっている。ある瞬間にそのネジの押さえが外れて「ぎゅるんと高速回転する」と、北に飛んでいるという。「いつも私は北を向いた砲台の中にいる」という表現がまたユニークである。

 北に逃げてどうするのか。「逃北」とは、「ただ単に辛い気持ちを寒い土地で倍々にふくらませる行為」なのではない。「空気が冷たく張りつめた、どこか殺伐とした場所に自分を追い込むこと」が「癒し」なのだという。

 では、「北」とはどこか。氏の定義では、北海道と東北地方全体は「逃北」の対象で、関東は北らしさが弱まり、東京近郊は「北じゃない」。北陸は「逃北」の対象となりそうだが、福井までくると「だいぶもやもやしている」。長野や松本も「北」を感じるが、静岡は「ぜんぜん北じゃない」。一方、鳥取と島根には「北らしさがあるように思う」が、福岡まで来ると九州も沖縄も「まるっきり北じゃない」と線引きしている。

 緯度から見るとかなり南だが、鳥取や島根にも「北」を感じるところが、氏の感受性豊かなところであるように思う。「炎立つ」など東北を舞台にした小説を数多く手掛けている高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に敗れて、遠く東北方面にまで逃れた出雲人が東北人のルーツだという「東北出雲説」を主張しているし、松本清張の小説「砂の器」では、秋田と同じ「ズーズー弁」を話す地域が島根県にもあることが明らかにされる。私なども、この、言葉が近いことや、うどんが優勢な西日本にあって唯一そばが優勢な地域であることなどから、出雲周辺には親近感を覚えるのである。

多くの人が逃れてきた東北
 この「逃北」という言葉、実に秀逸であると思う。第38号で書いたことがあるが、元々東北は神話時代以来、様々な人が逃れてきた地である。逃れてきたというくらいだから、中央での様々な争い事に敗れた結果、この東北の地までやってきたのである。そう、中央を追われた逃亡者たちは古来、なぜか東北を目指すのである。

 神話の時代からそうした例には事欠かず、神武天皇東征の折に殺されたとされる長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、山形の出羽三山の開祖は、父崇峻天皇を蘇我氏に弑逆されて出羽に逃れた蜂子皇子である。同じ聖徳太子の時代にはやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏が秋田に逃れている。平氏全盛の時代に源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その義経によって滅ぼされた平氏の平貞能が逃れてきた仙台市郊外に定義如来ができ、兄頼朝に追われた義経が再度平泉に逃れてきた。奥州藤原氏自体も元々関東に根を張っていたところ、関東で起こして敗れた乱の戦後処理で亘理に逃れてきたとされる。頼朝の死後殺された梶原景時の兄影實も、気仙沼に近い唐桑に逃れてきている。元寇の折には元の残党がやはり仙台に逃れてきている。織田信長によって滅ぼされた武田勝頼の子信勝も東北に逃れたとされる。

 「真田丸」でも描かれたが、主人公の真田信繁の娘や息子は伊達政宗の庇護の下、白石に逃れてきている。関ヶ原の合戦で死んだとされる石田三成や、主人公の真田幸村さえも、秋田に逃れてきたという伝承が残る。江戸幕府の禁教を逃れたキリシタンたちは東北に移り住んでいた。幕末の上野戦争で敗れた輪王寺宮も東北に逃れた。

 これほど時代を問わず、争いに敗れた者が逃げ延びたという話が伝わる地域は、日本全国他に例を見ないのではないだろうか。東北は古より、そのような地であったわけである。

東北は一度も「勝って」いない
 たくさんの人が逃れてきたと書いたが、これらの逃れた人は、単に命を長らえるために東北に逃れてきたのだろうか。もちろん、それが最重要であったことは確かだろうが、それだけではなかったのではないかと推測する。中央から距離があり、その支配が届きにくいこの東北の地は、中央で敗れた人たちにとって、再出発のできる新天地だったのではないだろうか。だからこそ、蜂子皇子は出羽三山を興し、藤原清衡は東北の地に浄土を造ろうとし、奥羽越列藩同盟は江戸幕府でも薩長政府でもない新しい国を造ろうとしたのではないだろうか。

 そして、東北が敗れた者の新天地たり得たのは、ひとえにこの地に住む人々がそうした敗れた者に対する温かい視線を持っていたことが大きい。なぜそうした視線を持ち得たかと言えば、他ならぬ東北人こそが、敗れた者だったからである。神話時代の日本武尊以来、阿倍比羅夫による蝦夷征討、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い、安倍氏が滅んだ前九年の役、清原氏が滅んだ後三年の役、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦、豊臣秀吉の奥州仕置と九戸正実の乱、そして戊辰戦争と、東北は攻め込んできた中央の軍に対して一度も勝利したことがない。唯一の例外は、建武の新政の折に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対して北畠顕家が奥州の軍を率いて上京し、これを打ち破ったという豊島河原合戦のみである。しかし、これは中央から攻め込まれたわけではなく、中央から陸奥守として下向していた北畠顕家が上京しているわけで、「本拠地」である東北で勝利しているわけではない。

 能町氏もいみじくも書いている。「私はむりやりにでも逃げるべき故郷を作りたいのです。やるせなさや空虚感に満たされて逃げ帰ったときに、なぜか落ちつく心の故郷。それが私にとっての北です。私は北へ『旅立つ』のではなく『逃げる』のであり、あるいは『帰る』のであり、それは希望にあふれた気持ちではない。何らかの理由で現在の地にいられないから逃げるのです。勝敗でいうなら敗。逃北は敗北につながっている」と。

 しかし、「とはいえ」と氏は続ける。「『逃北』や『敗北』は、私にとって必ずしも後退ではありません。むりやりすべてをゼロに戻すことであり、原点に帰るということです。北らしい空虚で荒涼とした風景も、何もない原点だと思えるからこそ、とても親しみが湧きます」と。古来、東北の地に逃れてきた多くの人々にも、似たような思いがあったかもしれない。敗北して逃げてきた人にとっては、決して希望に満ちた再出発ではないかもしれない。だが、それはこれまでの地での敗北をゼロに戻し、原点に帰してくれるものであったことは間違いなかったはずである。

いつでも逃げてこれる地域を目指す
 能町氏の「逃北」、東北の今後の方向性を考える上で大いにヒントを与えてくれると思う。これまで、観光振興では、いかに東北各地の観光資源を掘り起こし、それを発信していくかという点に重点が置かれていた。それはそれでそのようなニーズに応えるために必要なことであることは間違いないが、そればかりに傾倒する必要はなかったのではないか。日常に疲れた人が、周囲の状況にがんじがらめになっている人が、これまでの生活を一旦リセットしたい人が、いつでも逃げてくることのできる地域、それは必ずしも定住することを意味するのではなく、能町氏のようにネジのおさえが外れた時に何度でも来られるような、東北はそうした地域であればよいのではないだろうか。

 氏は「北」について、「旅先での客を『なして(どうして)こんなとこまで来たんだか』という、少し卑屈な態度で迎えてくれる。ちょっと最初だけとっかかりにくいけど、少しずつ、まさに雪が溶けるように、わざわざ来てくれたことへの感謝を前面に出して歓待してくれる。私にとって、北はこういうイメージ」と書く。確かにそのような面は大いにあるように思う。来る人をもてなす、受け入れる、それは東北人に脈々と受け継がれている資質のようにも思う。そうでなくして東北は、神代から近世に至るまで多くの人が逃れてくる地とはなり得なかったのではないだろうか。

 また、氏は、旅の中で観光スポットをあまりメインにしないと書いている。「観光地よりは地元の土着の臭いのする街の方が好き」で、「その街に観光スポットがあるとかないとか、根本的には関係ない」そうで、「むしろ目立った観光スポットがない街の方に興味が湧いてしまう」らしい。「わざわざ都会で作ってる本にガイドしてもらおうなんて思いません。地元の情報は地元の人に聞いて判断したいし、できれば自力で探したいよね、と思う」お人なのである。

 実はこれ、私も同様である。知らない地に行く時もほとんど事前に下調べをしたりしない。むしろ先入観なく、自分の足でその地を歩き回って、そこで感じるいろいろなことの方を重視している。その上でその地にある様々な情報を見聞きして、さらに行きたいと思うところに行ってみる、だいたいいつもそんな感じである。

 そのようなスタイルの旅を全ての人が志向しているわけではないだろうが、しかし一定のニーズはあるはずである。何かあったらぶらっと来て、日常と異なる環境に身を置いて、そこで得たものを持ってまた日常の場に帰っていく、そのような旅ができる東北であると、なおいいと思うのである。


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私的東北論その92〜奥会津に学ぶ地域の支え合い(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 12月16日に発行された「東北復興」第55号では、11月に参加した「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」で見聞きしたことについて紹介した。奥会津の町村は、全国でも屈指の高齢化率の、いわば日本の最先端を行っている地域であるが、そこにあったのは住民同士のゆるやかかつ自然な形での支え合いであった。「限界自治体」などと称される奥会津の町村だが、高い高齢化率、決して充分とは言えない医療介護資源といった制約条件を超えて地域が生き延びていくためのヒントが随所にあった。
 以下がその全文である。そうそう、第5回の全国サミットは、今年11月25、26日に淡路島で開催されることが決定した。


奥会津に学ぶ地域の支え合い

奥会津で開催された「全国サミット」

 11月26日(土)、27日(日)に奥会津4町村で「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」が開催された。今回、会場となった4町村のうち、メイン会場となる金山町は高齢化率が実に59.7%、交流会と分科会が開催された2つの町村、昭和村が55.3%、三島町が51.4%と、高齢化が進んでいる東北の中でも、奥会津のこれらの3町村だけが高齢化率50%超のいわゆる「限界自治体」とされている。

 この全国サミットは、人口減少や高齢化が進む中、新しい福祉制度の効果的な運用や地域の福祉・生活課題について、全国の先進的な事例を学び、その解決に向け検討することを目的に、福祉関係者や行政関係者らを対象に年1回開催されている企画である。

 その第4回がこの奥会津で開催されたことはとても意義深かったと思う。奥会津は高齢化、人口減少が進む一方、医療や介護の地域資源は決して十分とは言えない地域である。豪雪地帯でもある。にも関わらず、そこに住む人々が生活を続けていけるのには訳がある。この地域では、人々の日常のつながりと支え合いがその生活を支えているのである。

 現在、「地域包括ケアシステム」という、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みが市町村ごとに構築されようとしているが、奥会津の日常のつながりと支え合いは、この地域包括ケアシステムの構築にとって大きなヒントを与えてくれそうな取り組みなのである。

 人口の半分以上が高齢者で占められるというこの地域は、ともすると地方の衰退の象徴と見られがちかもしれない。ところがそうではないのである。今回はこの奥会津における、つながりと支え合いの実際について、全国サミットを通じて見聞きしたことを中心に紹介していきたい。

昭和村における支え合いの例

 以前、宮城県主催の地域包括ケアシステム関連の会合を取材させていただいたことがある。その折に、今回の開催地の一つである昭和村の事例発表を聞いたが、そこでの地域の人たち同士の支え合いの仕組みがとても印象的であった。

 例えば、同村内の野尻地区では、新聞は集落の一角にある「集合型新聞受け」に配達され、毎朝そこに新聞を取りに来なければならない。一見不便なようだが、それが支え合いにつながっている。新聞が配達される時間帯には住民が新聞受けの場所に集まってくる。そこで毎朝井戸端会議が自然発生的に行われる。取りに来ない人の家には誰かが新聞を持って訪ねていくので、安否確認にもなる。

 この野尻地区に商店は一軒あるだけだが、この商店もまた集落の人の集う「サロン」になっている。店主は81歳の女性だが、お店に来る人にお菓子や料理をふるまい、皆売り場の奥にある居間でお茶飲みをしている。お店に来る人もそこで買い物をするのはもちろん、野菜や山菜を差し入れたりする。顔なじみの客がしばらく姿を見せないと店主や常連客が電話や訪問で様子を伺う。

 このように、お互いの支え合いが実に自然な形で行われているのである。

「便利さが豊かさなのではない」

 今回の全国サミットでは、初日は金山町を会場に、基調講演、基調鼎談、活動発表とディスカッション、パネルディスカッションが行われた。開会で挨拶した町長の長谷川盛雄氏の「ないものねだりでなく、あるものを磨き上げる。ここにしかないものを磨き上げて全国に発信したい」との言葉はとても印象的であった。

 基調講演で内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏がいみじくも「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と言っていたが、ここ奥会津で展開されているのはまさにそうしたことである。山崎氏によると、人口減少地域の地方創生には地域資源の洗い出しとその最大活用などいくつかの共通点があるという。長谷川町長の主張通りである。奥会津のような地域でこうしたことが進んでいる背景には、地域全体の危機感がある。他人任せではなく、自分たちで何とかしないと日々の暮らしが守れないのである。この点、都市部にはこの危機感がまだ薄いと言わざるを得ない。

 「奥会津の暮らしに学ぶ、支え合う地域づくりのコツ」と題した活動発表とディスカッションでは、今回会場となった4町村における地域活動の一端が、当事者の口から語られた。三島町の小柴ヨシノ氏は、代表を務める「西方カタクリの会」の取り組みを発表した。会では廃校となった小学校を宿泊研修施設として再活用している。「社員」は地域の高齢者ばかりだが、地元食材を使った郷土料理や温かいもてなしが好評で、それが皆のやりがいにつながっているそうである。小柴氏の「小さなことでも人の役に立つ、地域の役に立つことをやりたい」「お互いに自分の能力を発揮できる環境で、自分のできる範囲でやっていくことが大事」との言葉が印象的であった。

 金山町の「山入近隣会」という会の一員である栗城英雄氏は、山入地区における集落営農による集落の維持と活性化について語った。農作業の他、水路や道路の保全、道路脇の花壇整備、旅行といった取り組みを通じて活発に交流して孤立を防いでいる。9月に開催する芸能発表会の最後を飾る山入歌舞伎は町内外から多くの観客を呼ぶ。11月の農作物品評会には自分たちの自慢の作物が200点近く集まり、そこで表彰されることが農作物づくりのやりがいにもつながっているという。栗城氏は、「身の丈に合った自分にできることをやっている」としつつ、「誰でも一歳ずつ年齢を増していくが、住んでいる地域で最後まで暮らしたい。そのために、お互いを理解し、支え合い、年をとっても楽しく暮らしていけるよう集落全員で取り組んでいきたい」と結んでいた。

 昭和村の野尻集落の山内常一氏は、「地域の景観をよくしたい、地域に貢献したい」と設立された野尻営農生産組合における耕作放棄地の農地再生作業についても紹介した。その思いとして山内氏は、「荒れた土地を畑にしておけば、都会から来た人が定住しても野菜を作ることができる」「県外にいる家族たちが安心して暮らせるように、『田舎は我々が守っているよ』と伝えつつ、いつでも帰ってこれる状態をつくっておくことが自分たちの課題」と語っていた。何より印象的だったのは、「便利さが豊かさなのではない。たとえ不便でも周りで助け合うことが豊かさだ」という言葉である。都市部に住んでいると、こうした地域での暮らしについてともするとよく事情を知りもせずに「不便そう」、「大変そう」などと考えてしまいがちだが、それは決してその地に住んでいる人の実感ではないのである。

 会津美里町の斎藤やよい氏は、毎月「日々草クラブ」という会を開いている。使われていなかったコミュニティーセンターを活用し、「身近な場所にたまり場」をつくろうと始めた。料理、手芸、歌、体操など、参加者が自分たちで活動計画を立てて活動しているが、毎回最後はお茶飲みの時間を設けて、会話を楽しみながら交流を深めている。斎藤氏は、こうした取り組みは「硬く考えないで1人、2人からでも肩ひじ張らずに気軽に始める」のがよいとして、「常日頃の積み重ねでコツコツやっていきたい」と語っていた。

「お茶飲み」を中心とした支え合い
 2日目は4町村に分かれての分科会だった。私が参加した金山町分科会のテーマは「日常のつながりに注目!〜超高齢化社会を生き抜くヒントは、地域の中の小さな支え合い〜」で、金山町内の本名地区、西谷地区の西谷あゆみ会、越川・西部地区の住民の方々が登壇した。

 町内の各集落では、日々の「お茶飲み」を中心とした、自然な形での住民同士の支え合いが行われていた。そのうちの一つ、本名地区でご自宅が近所の住民の「お茶飲み」の場になっている御年86歳の渡部ツトム氏の「こんないいところに来ていただいて、私たち最高に幸せです」という言葉がとても印象に残った。東北人はとかく謙遜しがちなものだが、自分たちがいいと思っているこの地域をいいと言って、たくさんの人が訪れたことへの感謝も伝えるという渡部氏のこの言葉からは、ご自分が住む地域への限りない愛着が感じられた。

 81歳の渡部英雄氏は、地域の300世帯のガスの検針を行っていて、その際に必ず住民と「お茶飲み」をし、頼まれれば電池や電球の交換、買い物代行なども行っている。また、自分が近くの温泉に行く際には近所の住民も誘い、会津若松まで足を運ぶ際には通院する必要のあったり買い物をしたかったりする住民を同乗させる。渡部氏は、「皆さんの御用ができる限りはお役に立ちたい。毎日毎日が楽しく、明日のことは考えず今日健康に過ごせればいいと思っているが、こうしたことができるのは健康そのものだと喜んでいる」と言っていた。

 分科会の開催に先立って金山町副町長の山内建史氏は、「互いに思いやれる、気に掛ける、一人ひとりが必要とされ、大切にされる風土がここにはある。これは地域における一つの『処方箋』だ」と話したが、金山町内における取り組みからはまさにそうした気風が感じられた。

奥会津に学ぶ地域づくり

 ここまで見てきた奥会津における取り組み、すべてそこに住む人同士のつながりから始まっていることが分かる。そしてまた、異口同音に言うように、そこに住む人が自分のできることをできる範囲で、肩肘張らずに自然体でやっていることも特徴的である。

 先に紹介した通り、奥会津の町村は東北でもとりわけ高齢化が進み、いわば未来の日本の姿を先取りしている地域であるが、そこでのこうした支え合いの仕組みは他の地域にとってもきっと参考になるのではないかと思われる。何より、登壇した地元の方のほとんどは70代、80代である。この地で一番元気なのは実にこの年代なのだと考えると、これからの日本でお手本にすべきはまさにこの地域なのではないかという気がする。活動発表をされた4町村の方々の生き生きとした様子がとても印象的で、結局地域づくりというのは、地域にこうした表情をする人が多くいることなのだと強く感じさせられた2日間であった。


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2017年03月22日

私的東北論その91〜「楽都」への道(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に発行された「東北復興」第54号では、「楽都」について書いてみた。東北では仙台と郡山が「楽都」を自称しており、それぞれそれを名乗るに値する、音楽についての充実した取り組みがある。以下がその全文である。


「楽都」への道

音楽イベントの多い街・仙台
 私事であるが、今年から男声アカペラグループに所属している。活動を始めて今年で17年目になる、仙台でも老舗と言えるグループで、男声のみ、しかも無伴奏というグループは多くのバンド、グループが活動する仙台でも稀である。

 11月5日は第15回仙台ゴスペル・フェスティバルが開催され、仙台市中心部の11のステージで104の演奏が繰り広げられた。お目当てのグループの演奏を聴きに来た人はもちろん、歩いていた足を止めて演奏に聞き入る人の姿も各所で見られた。

 考えてみると、ここ仙台は年間を通して音楽関連のイベントが多い土地であるように思う。私の属するグループも1年に5回ほど演奏を行うが、そのうち4回は仙台市内の音楽イベントである。6月の「とっておきの音楽祭」、7月の「太白区民合唱祭」、9月の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、そして今回のこの「仙台ゴスペル・フェスティバル」である。

 これら以外にも仙台市内の音楽イベントは数多い。5月に「仙台コレクション」(昨年までは9月の開催だった)、6月には「ジャズ・プロムナード in 仙台」、7月に「伊達ロックフェスティバル」、「若林区合唱のつどい」、8月の仙台七夕まつり時期に開催される「スターライト・エクスプロージョン」と「七夕ヴィレッジ」、9月に「秋保温泉MUSIC BAR」、10月に「仙台クラシックフェスティバル」、「伊達な街四丁目アカペラストリート」、「MWGA☆ROCKS」、12月に「ビッグバンドJAZZ・クリスマスコンサート」、「学都×楽都コラボレーション」、「クリスマスヴィレッジ」などが開催され、他に3年に1回仙台国際音楽コンクールが開催される。

 それだけではない。「仙台・杜の響きコンサート」には、仙台市内で開催される音楽イベントの予定がまとめられているが、ここを見ると、毎月かなりの数の音楽イベントが仙台市内各地で開催されていることが分かる。

 こうしたあまたある音楽イベントの中でも、9月に開催される「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、今や国内最大の市民音楽イベントと言われる。市民の発案で始まったこの音楽イベントは、26回目を迎える今年、国内外の760のバンドが集まり、70万人が集まった。市民が中心となって運営し、市民が無料で気軽に聴けて、街角そのものがステージというスタイルで始まったこのイベントは、全国各地の音楽イベントにも影響を与えた。仙台市内はもとより他の地域でも同様のスタイルを取る音楽イベントが数多く誕生した。宮城県内では「鳴子音楽祭『湯の街ストリートジャズフェスティバル in SPA鳴子』」、東北では秋田の「ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ」と「アキタミュージックフェスティバル」などがある。

もう一つの東北の「楽都」・郡山
 このように音楽イベントがあまた催されることもあって、仙台は「楽都」と称することがある。ただ、「楽都」は仙台だけの専売特許ではない。東北ではもう一つ、福島の郡山市も「楽都」を称している。郡山の「楽都」への道は戦後すぐ始まったとのことで、かなりの歴史を持っているようである。敗戦直後の荒廃の中で郡山では、音楽が戦災からの復興を目指す市民の心の拠り所となり、当時難しかったオーケストラを招いての演奏会を実現させた。その後「良い音楽を安く多くの人に」とのスローガンのもとで進められた勤労者音楽協議会の企画で著名団体の公演などが相次いで実現し、注目を集めたそうである。1964年には毎月第3金曜日をコーラスの日とし、街頭でコーラスを歌い、広めるという「十万人コーラス」運動が興り、翌年には「二十万人コーラス市内パレード」なども実施された。

 現在、郡山でも仙台と同様に年間を通じて音楽イベントは多いが、郡山で特筆すべきは学校音楽のレベルの高さである。特に合唱においては、中学校では郡山市立郡山第五中学校女声合唱団、郡山市立郡山第五中学校混声合唱団、郡山市立郡山第二中学校合唱部、郡山市立郡山第七中学校合唱部などが、高校では福島県立安積黎明高等学校合唱団や福島県立郡山高等学校合唱団などが、また小学校では郡山市立大島小学校などが、全日本合唱コンクールや「Nコン」ことNHK全国学校音楽コンクールなどで上位入賞の常連校となっている。これは郡山市内の音楽活動のすそ野の広さや教育の熱心さなどを如実に示しているものと言える。

 ちなみに、福島県内では会津若松市も郡山に負けず劣らず、中学校や高校の合唱部がレベルが高い。中学校では会津若松市立第二中学校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部、会津若松市立一箕中学校合唱部、高校では福島県立会津高等学校合唱団がやはりコンクールの上位常連校である。会津若松市は特に「楽都」を名乗っていないが、充分それに値する存在であると言える。

「楽都」ウィーンに学ぶこと
 世界的に「楽都」と言えばオーストリアの首都ウィーンのことである。ハプスブルク家の音楽好きに端を発する、少なくとも500年以上の伝統、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといったウィーンを拠点として活動した著名な作曲家の存在、全世界に衛星生中継されるニューイヤーコンサート、現在少なくとも8つはあるオーケストラなど、まさに「楽都」と称するにふさわしい要素があまたある。

 これらに加えて特筆すべきは、音楽を楽しむ環境の充実ぶりである。ウィーンには一度足を運んだことがあるが、「すごい」と思ったのは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーンフォルクスオーパー管弦楽団という、ウィーンを代表するオーケストラによるオペラが、ウィーンではほぼ毎日上演されているということである。それだけではない。もちろんウィーンでもいい席は日本円にして2万円くらいはするが、それだけでなく、学生やお金がない人でも楽しめるように、立見席が用意されており、その値段は日本円で500円くらいなのである。

 500円でオペラ鑑賞などとは日本ではおよそ考えられないことであるが、ウィーンではその気になれば毎日、500円でオペラを楽しむことができる。このように、市民が音楽を身近で気軽に楽しめることが、「楽都」の「楽都」たる所以であるように思った。

 日本で同様の環境は望むべくもないが、少なくとも仙台や郡山で開催されているたくさんの音楽イベントは、市民自らが演奏したり、その演奏を気軽に聴いたりできるということで、そこに住む人自身が音楽を楽しむ環境をつくるのに大いに貢献しているということは言える。「楽都」にとってそこが最も重要な要素であるように思う。

「楽都」同士の連携を
 ちなみに、Googleで「楽都」と入力して検索候補として表示される地名は仙台、郡山の他に、松本、堂山、四国中央があった。これらの都市がどのような趣旨でどのような活動を行っているかについて情報を得る機会は日常ほとんどない。そう言えば、同じ東北であっても、仙台と郡山の間でも「楽都」連携はほとんどなされていないのではないだろうか。恐らく、仙台市民のかなりの割合の人は、自分たちの住んでいる仙台が「楽都」と称していることについてはある程度知っていても、郡山も「楽都」を称していることは知らないだろうし、ましてや郡山が「楽都」としてどのような取り組みをしているかについてもほとんど知らないのではないだろうか。

 しかし、「楽都」としてウィーンになることは難しくても、お互いにその取り組みについて情報交換をし、学び合うことで、「楽都」としての取り組みをより充実させ合うことはできるはずである。そもそもウィーンと違って、日本国内であれば「楽都」は一つの都市だけが名乗れるといったようなものではなく、同時多発的に複数の「楽都」があってまったく問題ないはずである。いや、むしろたくさんの「楽都」があれば、それだけ音楽を楽しめる環境が多くあるということになり、望ましい。「楽都」を自称する都市が集まって、年に1回くらい「楽都サミット」を開催してみてはどうだろうか。

 東北の中だけでもできることはありそうである。まずは先に述べた、仙台と郡山という「楽都」同士が連携する体制をつくることが必要だが、それに加えて、東北の主だった都市間で音楽に関する取り組みについて情報交換する場があるとよいと思う。

 なぜそのように思うかと言えば、最初に述べた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」と同様のスタイルで始まった東北の音楽イベントの中には、何回か開催されたもののその後開催されなくなってしまったものもいくつかあるからである。これは実にもったいないことである。

 何か新しいことを始めることはもちろん大変だが、新しく始めたことをその後も続けることは実はもっと大変なことである。始めたことをその後どのように続けるかについてのノウハウは、始めたことを現在も続けているところが持っている。運営体制の構築や維持、引継ぎや予算確保、プロモーションといった実務上のことからコミュニケーションの方法やモチベーションの維持といったメンタル面のことまで、長く続けているところには必ず工夫がある。それを共有することで、せっかく始めたことが一過性のものとして終わるのではなく、息の長い取り組みとして続き、そうすればその取り組みは地域に根付く。「楽都」はそうしたことの積み重ねの先にある。

 郡山の「楽都」への取り組みが戦後の復興を支えたことを考えても、音楽の持つ力を東北が前に進むために活かすことは必要であると思う。そのためには東北のあちこちに「楽都」ができるのがよいのではないだろうか。


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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2017年01月30日

私的東北論その89〜再発見!東北の発酵食品(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 もはや昨年のことになってしまったが、昨年10月16日に発行された「東北復興」第53号では、東北の発酵食品について取り上げた。こうしてみると、東北の発酵文化が実に豊かであることが分かる。以下がその全文である。


再発見!東北の発酵食品

その良さが見直される発酵食品
 発酵食品が見直されている。納豆、味噌、ヨーグルトなどの健康に対する効果に注目が集まり、改めて発酵食品の良さに注目が集まっているのである。人類と発酵の歴史は古い。現在確認されている最も古い発酵食品は今からおよそ8000年前まで遡るという。日本でも縄文時代には酒が造られていたということなので、かなり長い付き合いをしているわけである。

 このように発酵食品には長い歴史があり、それだけ人々の生活と密接なつながりを持っていて、いわば身の回りに当たり前にあるものであっただけに、その良さが顧みられることはあまりなかったが、最近食に関する研究が進むにつれて発酵食品の効能が少しずつ明らかになってきており、折からの健康ブームにも乗って、発酵食品をつくる菌を積極的に取り入れようということで、「菌活」なる言葉まで生まれている。

 我が国における発酵の第一人者で東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏によれば、発酵食品の四大特徴は、(歛犬利くこと、栄養価が高まること、F汎辰量と匂いがつくこと、さ羔砲亮然食品だということ、とのことである。こうした特徴を日本人は古来、上手に活用してきたわけである。

東北の発酵食品
 ここ東北はとりわけ発酵食品が多い。中でも漬物は他地域を圧倒する豊富な種類がある。それは冬に雪に閉ざされる地域が多く、作物が取れないために保存食を造らざるを得なかったという地域事情がある。食物は発酵させることによって長期保存が可能になる。

 浅漬けのように発酵させない漬物もあるが、漬ける食材に元からついている乳酸菌を使って乳酸発酵させる漬物や、麹を添加して発酵させる漬物、味噌や醤油や酢など発酵させて造ったものを使う漬物など、漬物と発酵は切っても切れない関係がある。

 「塩麹」が話題になったことがあったが、これなどは会津の三五八漬けがその原型であるとされる。三五八漬けは、塩と米麹と米を3対5対8の割合で混ぜた漬け床でつくることからその名前がある。

 日々の食生活に馴染み深い味噌は、同じ東北でも地域によって中身が異なる。例えば、津軽味噌は米麹が少なく塩分の多い長期熟成の赤味噌、逆に秋田味噌は米麹歩合が高く色合いの濃い長期熟成味噌、仙台味噌は大豆と米の旨みが活きたやはり長期熟成の赤味噌と、それぞれに特徴があり、味も異なる。

 海産物の発酵食品が多いのも特徴で、塩辛と言えばイカの塩辛が東北でも盛んに造られるが、それ以外にもニシンなどで造られる魚の塩辛である切り込み、ハタハタと米麹を一緒に発酵させた熟鮓の一種である秋田のハタハタ寿司、やはり秋田でハタハタを塩で発酵させて長期熟成させた魚醤であるしょっつる、サケとイクラを米麹で漬ける福島の中通りの紅葉漬、身欠きニシンと山椒の葉を交互に重ねて、醤油、砂糖、酢などでつくったタレに漬けた福島の会津のニシンの山椒漬けなどがある。

 納豆も東北には欠かせない食品である。これについても、東北各地に地元の納豆があるが、それだけでなく、納豆菌で大豆を発酵させた後、さらに麹でもう一度発酵させた納豆が山形と福島にはある。これもまた通常の納豆に輪をかけて美味しい納豆である。

 ユニークなものとしては「しょうゆの実」がある。これは醤油の製造工程で出る搾りかすに麹と塩を加えて造る山形の発酵食品である。

 そうそう、もちろん酒類も発酵食品である。日本酒、ワイン、ビール、シードルなど、多種多様な酒類が東北では楽しめる。米、果物、ホップなど、材料となる農産物が豊富に採れる恩恵である。ヨーグルトは東北の伝統的な発酵食品に比べるとまだ歴史は浅いが、放牧して育てた牛の牛乳から造ったり、ジャージー種の牛乳から造ったり、低温で殺菌した牛乳で造ったり、複数の乳酸菌で発酵させたり、温泉熱を利用して発酵させたり、東北の各地域で様々に工夫を凝らした美味しいヨーグルトがある。

地域おこしと発酵食品
発酵食品に特化した道の駅発酵の里こうざきの「発酵市場」 千葉県の神崎町は、江戸時代から発酵食品で栄えてきた歴史があるようである。そうした歴史を踏まえて造られた「道の駅発酵の里こうざき」には、「発酵市場」があり、発酵食品や発酵に関する情報を多く揃え、「発酵文化」を広く内外に発信すると共に、さまざまな発酵食品を販売しているが、週末などは大変な人の賑わいだという。

 こうした神崎町の成功事例、発酵食品の歴史と内容では決して引けを取らないこの地域でも、大いに参考にすべきである。

 もちろん、東北でも、この「道の駅発酵の里こうざき」とまではいかなくても、発酵食品を売りにした取り組みが始まっている。

 宮城県大崎市では「みやぎ大崎ふつふつ共和国」を大々的にPRしている。大崎地方には多くの酒蔵、味噌蔵、醤油蔵が点在している。東北屈指の米どころであり、大豆の一大産地としても知られている。こうした豊富な食材を冬に備えて保存性を高めるためにこの地域で古くから根付いているのが発酵食文化であった。ホームページでは、大崎地域の発酵食品、それらが食べられる飲食店などと一緒に情報提供している。

 福島県いわき市では「いわき、発酵の旅」を打ち出している。いわき市内で発酵に関係している酒蔵、削節店、味噌醤油醸造元などを巡るツアーも提案している。自宅でできそうな発酵食品のレシピも公開している。

 また、福島市では「ふくしま発酵文化研究会」が活動している。高齢化率と要介護率が上昇を続ける中、「発酵による健康・長寿のまちふくしまを目指す」ことを標榜し、 食育セミナーや発酵食品づくり、先進地視察交流、全国ネットワークとの交流などを行っている。

 東北で発酵文化が最も盛んな地域はどこかと聞かれれば、私は秋田県と答えたい。先に紹介したハタハタ寿司やしょっつるなど、この地域ならではの発酵食品がたくさんある。その秋田県では「秋田・茨城発酵食イベント」というイベントが開催されている。今年は納豆をテーマに、秋田県が誇る自慢の発酵食品を、もっともっと多くの人に知ってもらい、食べてもらいたい!」との思いを実現するために、納豆では秋田と並んで有名な茨城にも協力を仰いで開催している。

 秋田県南の横手市には「よこて発酵文化研究所」がある。ここは横手地域に根ざした「発酵」をキーワードに、市民、民間企業、行政が連携したまちづくりを行っている。特筆すべきはその開始時期で、平成16年3月に発足したというから、既に12年以上の歴史を持っている。

 そうかと思うと、秋田には「秋田今野商店」という店がある。酒造用の麹を始め、味噌醤油用の麹、ビール酵母、パン酵母、乳酸菌など、いわゆる種菌で圧倒的なシェアを占めている。秋田と青森に跨る世界自然遺産の白神山地からは、秋田県の総合食品研究センターがパン作りに適した「白神こだま酵母」を発見した。また、桜の名所、二ツ井では桜の木から採取した酵母を用いて地ビールを醸造している。

 このように、「発酵」をキーワードにした東北各地での取り組みは既に始まっている。願わくば、こうしたそれぞれの取り組みが、単独ではなく、互いに横のつながりを密にして情報交換をしながら発酵に関する情報発信を充実させていってもらいたい。そうして、「発酵と言えば東北」というブランドイメージをつくれれば、各々の取り組みがさらに活きるに違いない。


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2016年10月28日

私的東北論その88〜「未来会議」のアプローチ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 9月16日に刊行された「東北復興」第52号では、9月4日に開催された福島県いわき市の「未来会議」について取り上げた。この「未来会議」、詳しくは本文をご参照いただきたいが、とても得るところの多い会議であった。利害の異なる人も含めて、いろいろな立場の人が一堂に会して、それぞれの意見の隔たりを尊重しつつ、相互理解を模索するというアプローチである。私が座った席の隣には東電の副社長が座っていた。こうしたアプローチ、いわき市ならずとも有効なのではないかと思った。以下がその全文である。


「未来会議」のアプローチ

「未来会議」発足の経緯
160904-132330 9月4日に開催された「未来会議」に参加した。未来会議というのは、福島県いわき市で2013年に始まった、寛いだ雰囲気で誰もが参加できるワークショップ形式の対話の場である。

 震災と原発事故によって、いわき市はものすごく難しい立場に立った。地震と津波による紛れもない被災地でありながらも、福島県の浜通り地域最大の都市として福島第一原発の周辺自治体から2万人以上もの避難者を受け入れた。その一方で、被ばくへの不安からいわきから自主的に避難した市民もいた。原発周辺の避難者は東電からの賠償金を得たが、いわき市民は風評被害に悩まされつつその補償は何もなかった。そのような立場や考えの異なる人たちがいわき市の中には多くいて、互いに本音では話しづらい雰囲気があって、人々の間に分断と軋轢をもたらしていたのである。

 そうした中、2012年秋に、東日本大震災復興支援財団による子ども被災地支援法の聴き取り対話ワークショップが開催され、そこに参加した数名の有志によって、「未来会議」開催に向けての動きは始まった。「継続的な対話の場が、多くを抱えるこの地域には必要なのではないか?」「異なる価値観や違いはむしろ財産ではないか?」「 対立ではなく一緒になって考えることが大切なのではないか?」「失敗してもいい!という雰囲気の中で互いを伸ばし合うことが、未来への種を育むことに繋がるのではないだろうか?」といった考えから、「多様な声に耳を傾け、自分に出来ることを考える時間をもちたい」ということで、未来会議のコンセプトが形成されてきた。

 そして2013年1月に現在まで続く「未来会議」がスタートした。いわき市民はもちろん、双葉郡など原発周辺の自治体からいわきに来ている人、福島県内外の人、支援者としていわきに来ている人など、地域、年代関係なく様々な職業や立場の人が集まる場となっている。

「未来会議」の特徴
 こうした発足の経緯から、未来会議では「相手の意見を否定しない」「一つの結論を目指さない」をルールとしている。2014年1月に開催された会議では、子どもの被ばくに対する不安から給食の地産地消に反対する主婦と、風評被害に悩む農家が、同じくゲストとして会議の中で、それぞれの意見を表明していた。

 互いに主張しても、意見の相違は完全には解消できないかもしれない。しかし、違う立場の人が対等に出会う機会をつくることによって、そこにいる人々全てに気付きをもたらし、変化を促すことができると、未来会議では考えている。重要なのは対話することによって、目下の課題を可視化し、かつ価値観の多様性を互いに認め合うこと、互いの立場を尊重して批判はしないことであった。

 地域の課題や自分自身の考えを話し合うための場は元々そこにあるわけではない。だから、意図してつくる必要がある。未来会議はまさにそのような場として誕生したわけである。

 似たような名前の会議は東日本大震災の被災地を始め各地に存在するが、このいわきの未来会議はそれらとは一線を画したユニークな会議である。まず、各地の「未来会議」は行政主導で立ち上がったものが多いが、ここいわきの未来会議は、行政関係者も参加者として参加しているが、立ち上げたのは地元の有志である。そして、未来会議は自らを次のように規定している。

 ,海両譴蓮⊃燭断鬚淵ャンバス。主体は参加する一人ひとり。ニュートラルな場として30年の継続開催を予定しています。
 現状や課題を、共有・可視化し、未来のために出来ることを創造的に話す場です。
 C楼茲力箸魃曚─∧‥腓慮充造鯊人佑平諭垢閥Δ紡え、様々な角度から考えます。
 ぅ錙璽ショップ対話手法を取り入れ、誰もが安心して参加出来る場を 目指しています。
 ヌね茲鬚弔るためのプラットホームとして、人と人、人と団体、団体と団体が出会い、ネットワークを形成するきっかけを提供します。
 ι發びあがってくるものをアーカイブとして残します。

 とりわけ印象に残ったのは、「30年の継続開催」である。こうした会が30年続く例はほとんどないのではないだろうか。しかし、未来を論ずる場であるこの未来会議では、半ば当然のこととして少なくとも30年は続けていこうと、発足当初から考えていたのである。

「未来会議」の手法
 9月4日の未来会議は13回目の開催とのことであった。100名を超える参加のあったこの日のテーマは「それぞれの、ふるさと」で、ふるさとというのは町という場所なのか、町を構成していた人なのか、それとも人を含めての場所なのか、そしてまた景色が変わってしまった町をふるさとと呼べるのか、といった観点から、人々のふるさとに対する想いについて取り上げた。

 まずゲストに作家の柳美里氏と勿来ひと・まち未来会議会長の室井潤氏を迎え、事務局で双葉郡未来会議主宰の平山勉氏が進行役となって行うトークがあり、その後広島修道大学の田坂逸朗氏がファシリテーターを務める対話ワークショップが行われた。今回は、話し合ってみたいふるさとのテーマについて参加者から13のテーマが出され、他の参加者は自分の関心があるテーマのところに集って対話を行った。

 震災関連のイベントは仙台など被災地各地でも各種開催されており、私自身何度か企画開催しているが、この未来会議、いろいろな工夫が随所に感じられ、とても勉強になった。このトークとワークの組み合わせは、聞くだけでも話すだけでもなく、インプットとアウトプットの両方があっていい形であると思った。

160904-143435 特筆すべきは、そのトークについてもワークについても、ファシリテーショングラフィックという手法を用いて、その専門家である玉有朋子氏が会場に貼り出された大きな紙にリアルタイムでヴィジュアルも交えてその要点を書き記していたことである。目で見て分かる議事録がその場でできているようなもので、参加者同士がそれを見ながら話すことで、さらに対話が進み、話が膨らむように感じられた。

 いわき市内や双葉郡など浜通り地域だけでなく、他地域からの参加が多いのも特徴的で、毎回ファシリテーターを務めている田坂氏は福岡、ファシリテーショングラフィックの玉有氏は徳島の方で、参加者についても私が話した範囲に限ってみても、群馬、埼玉、東京、神奈川、愛知、広島、熊本、沖縄の方がいた。仙台から参加した私はむしろ近い方であった。

「未来会議」の広がり
 他地域からの参加がこれだけ多くあるその求心力もすごいが、「30年の継続開催」を打ち出しているこの未来会議、そのためのいわば次の世代に引き継ぐことまでを視野に入れた取り組みも既に実施している。実際、この日の午前中には2回目となる「子ども審議会」が開催されており、小中高生と大人が一堂に会して対話を行っていた。

 未来会議から派生した企画も数多い。この子ども審議会の他、深夜のバーのような親密でゆったりとした雰囲気の中、のんびり飲み物を飲みながら一緒にゲストの話に耳を傾ける「MIRAI BAR」、双葉郡8町村固有の課題について話し合う「双葉郡未来会議」、子どもが一人でも来られる居場所として実施している「こども食堂*みらいのたね」、かつて地域に開かれた対話の場でもあった旧暦二十三日の下弦の月の月待講を復活させた「廿三夜講復活プロジェクト」など、活動はさらに広がりを見せている。

 未来会議終了後は、「夜の未来会議」と称する懇親会が行われた。「昼の未来会議」は13時から17時の4時間であったが、この「夜の未来会議」は18時から始まり、22時半で中締めとなったもののそこからさらに参加者相互の対話が続いており、夜の部の方が昼の部よりも長いわけである。未来会議のが対話を重視する姿勢がここでも窺えた。

いわきの未来だけでなく
 この未来会議、当初は「いわき未来会議」と称していたが、いわきだけの未来を考えるというわけではないということから、名称から「いわき」を外して「未来会議」とい名称になったという。確かに、震災から先の未来を考えるために、いわき市内だけでも福島第一原発のある双葉郡だけでもなく、東北の太平洋沿岸の被災地のみならず全国各地から様々な人が集い、対話する、そのような場にこの未来会議はなりつつあるように見える。

 多様な背景を持った人と人とが出会い、それぞれが感じていることを共有し、お互いの立場や考えの違いからも気づきや学びを得る。そうしたアプローチの中から、一人ひとりが震災からの一歩を踏み出すきっかけをつかむ場、あるいは疲れた時にいつでも戻ってこれる場となる。未来会議が目指すこうした目的を実現するためには、確かにこの会議は一過性のものであってはならず、継続開催していくことが必須なのであろう。30年先の未来会議の「未来」がどのようなものになっているのか、ぜひ今後も注目していきたい。


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2016年10月27日

私的東北論その87〜「東北秘境ツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日に刊行された「東北復興」第51号では、先号、先々号に続いて、東北の観光について取り上げた。この回のテーマは「東北の秘境」である。ただ、秘境というのは、私の中では、あまり人に知られていないこともその大きな要素だと思っているので、秘境について紹介することは、秘境を秘境でなくする可能性があり、その点で矛盾を感じるところもある。

 とは言え、東北の秘境はとても魅力的なところが多いので、紙面では以下の通り、紹介してみた。


東北秘境ツアーのススメ

東北の秘境?
 前回は東北の「端っこ」を紹介した。今回は東北の秘境について紹介したい。ただ、、「端っこ」については、緯度と経度で異論なく決まるが、「秘境」がどこかについては、解釈の違い、意見の隔たりが多くありそうである。

 例えば、秘境と言うと、かつて「日本の秘境100選」が選定されたことがある。JTBの雑誌「旅」が創刊750号となるのを記念して開催されたシンポジウムの場において選定されたものである。この中で東北で選ばれたのは、八甲田山(青森県)、下北半島/恐山・仏ヶ浦(青森県)、津軽半島西岸(青森県)、八幡平・乳頭温泉郷(秋田県・岩手県)、出羽三山(山形県)、檜枝岐・野岩鉄道沿線(福島県・栃木県)、裏磐梯・雄国沼(福島県)、遠野盆地(岩手県)、内間木洞(岩手県)、重茂半島(岩手県)、十二湖・白神山地(青森県)、飛島(山形県)、笹谷峠(宮城県・山形県)の13か所である。

 「日本の秘境100選」に選ばれた東北の「秘境」を見て私が最初に思ったのは、「これらは秘境なんだろうか」ということである。秘境どころか、有名な観光スポットがほとんどのように見える。これらの中で私が「確かに秘境だね」ということで同意できるのは、内間木洞くらいである。岩手県の沿岸北部久慈市にあって日本で5番目の長さを持つこの洞窟は、普段一般公開がされておらず、また龍泉洞やあぶくま洞などと比べて知名度も高くないので、その意味で秘境であると言ってよいと思う。

秘境とは何か
 そもそも秘境とは何だろうか。「デジタル大辞泉」には、「外部の人が足を踏み入れたことがほとんどなく、まだ一般に知られていない地域。」とある。「大辞林」でも、「人の訪れたことのない、まだ一般によく知られていない地域。」とある。

 どちらの解釈でもポイントは二つで、一つは「人があまり訪れていない」こと、もう一つは「一般によく知られていない」ことである。私が「秘境」という言葉を聞いてイメージするのもこれらと近い。

 そうした観点から見ると、やはり先の「日本の秘境100選」は、あまりにも人が訪れ過ぎで、あまりにもよく知られ過ぎた場所ばかりである。秘境の捉え方にもよるが、辞書的な解釈からはかなり遠い「秘境」であると言わざるを得ない。

 秘境に相応しい言葉として、「人跡未踏」という言葉が挙げられると私は思う。このご時世、人跡未踏の地などあるのかと思われる向きもあるかと思うが、東北の山の中にはつい最近まで人がほとんど足を踏み入れたことのなかった地域が多くある。これぞまさに秘境である。

手掛かりはブナの森
 東北で秘境を考える時に手掛かりになるのはブナであると思う。2013年3月の第10号で東北のブナについて書いたことがあるが、ブナは東北各地に広く森を形成していた樹種である。しかし、木材としての利用がしづらかったために、各地で伐採され、代わりに木材として利用されるスギなどが植えられた。ということは、現在もブナの森が残っている地域は、人の手が加えられていない、いわばあまり人が訪れていない地域と言うことができるのではないだろうか。

bunabayashi1 その代表がもちろん、世界自然遺産として登録された、縄文時代から続くブナの原生林が今も残る白神山地である。しかし、白神山地は世界自然遺産への登録で一躍有名になり、また訪れる人も急増したため、秘境とは言えなくなってしまった。

 福島を除く東北5県の国有林を管理する東北森林管理局のデータによれば、管内国有林の樹種別蓄積では、スギが6,686万立方メートル(26%)で最も多いが、次いでブナが5,708万立方メートル(24%)で、以下カラマツ1,503万立方メートル(6%)、ヒバ1,382万立方メートル(6%)、アカマツ1,280万立方メートル(5%)、ナラ類823万立方メートル((4%)と続く。だいぶ伐採され、植え替えられたとは言え、依然ブナの木が東北には多く残っていることが分かる。

image-19 白神山地以外でブナの原生林が残っている地域として挙げられるのが、福島県の奥会津・只見町である。只見町のブナ林はその規模や原始性において、白神山地と並んで国内随一と言われている。伐採を逃れたブナ林は、やはりあまり人が入らない奥山に残っている。只見町では、町内のブナ林のパンフレットを作成しており、ウェブ上でも閲覧できる。


巨樹・巨木も手掛かり
 もう一つ、秘境の手掛かりとしてあるのは巨樹、巨木である。それが神域にあったために伐採を免れ、大事にされてきたというケースもあるが、そうでなければ単に発見されなかったために今に至るまで残った巨樹・巨木も多くある。

img481 林野庁は「森の巨人たち百選」を選定したが、100のうち27が東北にある。これらの中には、元々古くから巨樹として知られてきた木もあるが、環境省が1988年と2000年に全国で行った巨樹巨木林調査の結果、存在が明らかになった巨樹もある。岩手と秋田両県にまたがる和賀山塊もブナの原生林が多く残ることで特筆すべき地域だが、ここにある「日本一のブナ」や「日本一のクリ」の存在が明らかになったのは、まさにこの調査の結果である。和賀山塊について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「巨樹の森・和賀山塊」が参考になる。

 山形県の北部、最上(もがみ)地域もそうである。1市4町3村からなるこの地域は、総面積の8割が森林であるが、ここでも全国有数の巨樹・巨木が多く見つかっている。最上地域観光協議会のサイトで詳しく紹介されている。

奥会津の秘境
 先に紹介した只見町は奥会津と称される地域にある。会津と言うと、この地域の中心都市会津若松市が有名で、確かに市内を歩くとそこかしこに会津らしさが感じられるのだが、こと自然に関しての会津の魅力は実は、会津若松からさらに奥地に入ったところにあると私は思う。それが只見町のある奥会津地域であり、それに隣接する南会津地域である。

wgn5QT4C これらの地域には新潟県側にまたがって越後三山只見国定公園があるが、福島県側のポイントは只見町の田子倉湖と只見町に隣接する檜枝岐村の奥只見湖である。ちなみに、檜枝岐村は東北で最も人口の少ない市町村である。昨年現在の人口は614人で、東北で唯一三桁の人口である。また、村の面積の約98%が山林であるために全国で最も人口密度が低い市町村で、その数値は1平方キロメートル当たり1.73人である。つまり、1キロメートル四方に2人いない計算である。日本一人口密度が高いのが東京都中野区の1平方キロメートル当たり20,180人であるので、檜枝岐村の人口密度はその約11,665分の1である。

 田子倉湖も奥只見湖も、全国屈指の規模のダムによって生まれた湖であるが、この2つの湖を結ぶ地域はまさに人跡未踏の地として知られている。どちらのダムも建設時に多数の殉職者を出した末にようやく完成したと言い、今もお盆には慰霊祭が行われているそうである。

秋田内陸にある秘境
kimimachisugi 先に紹介した「森の巨人たち百選」の中には「きみまち杉」という、樹高が58メートルという日本一の高さの杉がある。58メートルと言うと、15階建てのビルに相当する高さだそうである。

 この「きみまち杉」があるのは、秋田県能代市の仁鮒水沢スギ植物群落保護林である。この保護林もほとんど知られていないので秘境と言って差し支えないと思うが、人工林ではない秋田杉の天然林が見られる希少な場所である。一歩足を踏み入れると、とにかくそのスギの存在感に圧倒される。植林されたスギとはスケール感がまるで違う。入口にある看板の文句が面白い。「道路沿いなどによくある人工林とは段違いのスケールを誇る巨木林です。ただ目が慣れると感激が薄れてしまいますのでご注意ください」とある。「森と水の郷あきた」のサイト内の解説が詳しい。

001 北秋田市にある森吉山周辺もまさに秘境と呼ぶに相応しい地域である。古くから霊峰として山麓住民の信仰の対象となってきたこの森吉山にも豊かなブナの森がある。水の豊かな山で、山間のあちこちに滝があることでも知られている。

 その中で、秘境の面目躍如たる滝が「九階の滝」と呼ばれる、落差が100メートル以上もある滝である。かつてはこの地のマタギでさえも「神様の沢」として畏れ、近寄れなかったと伝えられる場所で、登山道が整備されていないこともあって、これまで地元の人でさえ数えるほどしか到達していないという、まさに秘境の滝である。

 九階の滝までたどり着ける人はそう多くはないだろうが、小又峡の三階滝までなら行ける。これまた奥森吉を代表する見事な滝である。三階滝までは遊歩道が整備され、場所によって表情を変える清流を横目で見ながら散策ができる。森吉山について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「水の郷・森吉山」が参考になる。

普通の「東北」に飽き足らない方へ
 これまで紹介してきた地域は、恐らくあまり知られていないと思われる。いずれも「東北の秘境」という称号に値する地域と言えるのではないだろうか。冬ともなるとまさに人跡未踏の地となるが、今の時期であれば、もちろん奥地まで入り込むのであれば本格的な装備が必要となるが、そこまででなければ比較的軽装でも、十分秘境の醍醐味を味わうことができる。

 有名な観光地巡りには飽きたという方や、東北らしさを存分に味わいたいという方にはぜひおススメしたい。


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2016年09月30日

私的東北論その86〜「東北端っこツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙の第50号とその次の第51号では、前回第49号で考察した東北の観光の現状等を踏まえて、東北の観光資源の「掘り起こし」を図った。第50号では、東北の東西南北端を巡るツアーを提唱してみた。

 以下がその全文である。


「東北端っこツアー」のススメ

 東北は南北約530km、東西は最大約180kmに及ぶ広大な地域である。南北に長いことから、東北の南端に近い福島県いわき市の小名浜では桜の開花が平年値で4月6日なのに対し、北端の手前にある青森県むつ市では平年値が4月29日と、桜前線が東北を縦断するのには1か月近い期間を要する。

 日本の東西南北端の場所は有名で、最東端は南鳥島、最西端は与那国島、最南端は沖ノ鳥島、最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。これに対して、各地方の東西南北端はと聞かれてすぐに答えられる人はほとんどいないに違いない。こと東北に関して言えば、最北端の下北半島・大間崎は有名である。大間崎は東北の最北端というだけでなく、本州の最北端でもあることからある程度知名度があるのかもしれない。しかし、東北の最東端である岩手県宮古市の魹ヶ埼(とどがさき)も本州の最東端であるにも関わらず、知名度は今ひとつである。最南端や最西端に至っては恐らくほとんどの人が知らないに違いない。そこで今回は東北の「端っこ」を紹介してみたい。


最北端・大間崎(おおまさき)
kaikyo 大間崎は、青森県の北東、マサカリのような形をした下北半島の最北端にある。大間崎を抱える大間町は、マグロの一本釣りで有名な漁業の町である。大間のマグロは東京・築地のセリで高値がつくことでもよく知られる。

 地図をよく見ると分かることだが、北海道の最南端よりも大間崎の方が北に位置している。もちろん、れっきとした東北の一部なのだが、下北半島で見られる景色は東北の他の地域とは明らかに異なる。北海道にも通じるような雄大さとおおらかさを兼ね備えたような景色である。なにせ県庁所在地の青森市から下北半島の中心都市むつ市までは約100kmもある。同じ青森県内でも、津軽や三八上北とも違う、下北ならではの風景がここにはある。

 むつ市郊外には恐らく下北半島で最も有名と思われる、日本三大霊山、日本三大地獄の一つ、恐山(おそれざん)がある。火山ガスが噴き出す荒涼とした風景がまさに地獄を彷彿とさせ、おどろおどろしいイメージがつきまとう恐山だが、隣接する宇曽利湖(うそりこ)は波静かで極楽浄土に比せられる。つまりここは地獄だけでなく、極楽も体験できるスポットなのである。ちなみに、恐山の「恐」と宇曽利湖の「宇曽利」は元々同じ読み。ここは地獄と極楽が同居する稀有な地なのである。

 下北半島には薬研(やげん)温泉や下風呂(しもふろ)温泉など、名湯がある。が、せっかく東北最北端の地に来たのであれば、ぜひ東北最北端、すなわち本州最北端の温泉に入ってみてほしい。それが大間温泉である。おおま温泉海峡保養センターが所有する温泉で、宿泊もできる。

 マグロで有名と書いたが、実は大間町には「陸(おか)マグロ」と称されるものがある。それは大間町で肥育されている大間牛のことで、これがまた大間の本マグロにも負けない最高等級の牛肉なのである。ちなみに、おおま温泉海峡保養センターでは大間マグロとこの陸マグロの食べ比べコースもある。

 大間町には以前紹介したことがあるが、本州最北端の地ビールがある。梅香山崇徳寺(ばいこうざんしゅうとくじ)という江戸時代から続くお寺がつくる、全国でも恐らく唯一の地ビール「卍麦雫(まんじむぎしずく)」である。境内にはこれまた全国でも唯一と思われるこの地ビールの自動販売機もある。これもぜひ味わってみてほしい。

 本州最北端の大間崎、対岸の北海道が間近に見られることで有名だが、南側以外ぐるっと海に囲まれたロケーションであることから、実は海から昇る朝日と海に沈む夕日が両方見られる。このようなスポットというのは日本中探してもあまりないと思うのだが、そのこと自体あまり知られていないようである。ここはもっとアピールすべきポイントである。


最東端・魹ヶ埼(とどがさき)
27 最東端の魹ヶ埼は、岩手県の三陸沿岸、宮古市の重茂半島にある岬である。先にも紹介したように、本州最東端の地でもあるのだが、知名度は最北端の大間崎に遠く及ばない。その理由は何かと考えてみると、|鰐召読めない、辿り着くのが大変、ということがあるように思われる。,砲弔い童世┐弌◆屬箸鼻廚箸いΥ岨自体がまず読めない。パソコンでも環境依存文字で、正しく表示されるかどうかはパソコン次第である。△砲弔い討蓮宮古市の中心部から入口まで車で約50分もかかるだけでなく、駐車場に車を止めてから「山道」を約1時間ほど歩かなくては辿り着けないということがある。なぜ海のそばなのに山なのかと言うと、三陸海岸は昔習ったように「リアス海岸」であるからで、海のすぐそばまで山なのである。

 往復2時間と考えると訪れるのに二の足を踏んでしまいそうになるが、ここは行って損のないスポットである。眼前には太平洋が遮るものなく茫洋と広がり、三陸沿岸屈指のビューポイントである。

 知る人ぞ知る、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった魹ヶ埼灯台もある。映画の当時は灯台守が海の安全を守っていたが、今は無人である。市街地から遠く離れた「陸の孤島」であるこの灯台で灯台守の夫婦がどのように生活していたのかと考えると、先人たちの苦労が偲ばれる。

 最東端ということで、魹ヶ埼は東北で最も早く朝日が昇るスポットである。ちなみに、緯度の関係で本州全体で最も早く朝日が昇るのは千葉県の犬吠埼である。


最南端・矢祭町(やまつりまち)
1454037976_8a 東北の最南端は福島県いわき市であると思っている人も多いに違いない。冒頭で紹介したように、いわき市は東北で最も早く桜が開花する地である。しかし、緯度上の最南端はいわき市ではない。もっと南に存在するのが矢祭町(やまつりまち)である。この矢祭町の国道349号線沿いにある明神峠の西側の山麓が東北最南端の地である。

 矢祭町は人口7,000人弱の小さな町だが、いわゆる「平成の大合併」の折に小規模自治体が切り捨てられることに反発して、「合併しない宣言」を採択して話題となった。宣言を出しただけでなく、小規模自治体が財政的に自立できるよう、行財政改革を徹底して行って成果を上げており、全国の自治体から視察がひっきりなしに行われている町としても有名である。

 観光スポットとしては、町の中心にある矢祭山とそのそばを流れる久慈川の周辺が中心となる。矢祭山は町全体が見下ろせるビュースポットであると同時に、山つつじの名所としても知られている。久慈川流域は「東北の耶馬渓」と称される四季折々の景観で知られる。個人的なおススメは「阿武隈の秘境」と呼ばれる滝川渓谷で、全長3kmの散策路内に四十八滝がある。渓谷を上り切った先にある「滝川の里」で食べられるそば粉十割の手打ちそばも美味しい。

 矢祭町の特産品はゆずで、香り高いことで知られている。町内では、ゆずシャーベットなど、このゆずを使った加工品がある。


最西端・御積島(おしゃくじま)
osyakujima 東北の最西端について知っている人はほとんどいないに違いない。日本海側に突き出た半島がそうなのではないかと考える人もいるかもしれないが、東北地方は北東方向から南西方向に伸びている。したがって、恐らく東北の日本海側で最も有名な半島と思われる、ナマハゲで有名な男鹿半島は東北の最西端ではない。岩木山が海に浮かんだように見える、津軽半島の小泊半島も最西端ではない。

 離島を含めるかどうかでも違ってくるのだが、離島まで含めるのであれば、山形県酒田市にある御積島が東北最西端で、離島を含めないのであれば、山形県鶴岡市の鼠ヶ関が最西端である。御積島を知っている人は東北の人であってもなかなかいないと思われるが、酒田市に属する離島で、トビウオで知られる飛島(とびしま)の西約2kmに位置する無人島である。スキューバダイビングのスポットとして知られている。この御積島の西に位置する岩礁、カラカサノイボの経度は東経139度31分13秒である。

 これに対して、離島を含めない場合は鶴岡市の南端にあって、出羽と越後の境であった鼠ヶ関が最西端となる。鼠ヶ関の弁天島のすぐ西にある岩礁の経度は東経139度32分18秒で、ほんのわずかな差ではあるが、御積島の方が西である。

 御積島のある飛島には、酒田港から定期船「とびしま」で75分である。ちょっと書いたようにトビウオが多く取れる。トビウオの焼干しやつゆは特産品として有名である。海藻もいろいろ取れ、特にイギスやアラメ、ホンダワラなどは他地域のものに比べて美味しいと評判である。飛島からは御積島も回る遊覧船が出ている。

 一方の鼠ヶ関は、江戸時代には念珠ヶ関とも表記され、福島県白河市にある白河関といわき市にある勿来関と共に、奥羽三関の一つとして東北への玄関口として知られる。ちなみに、現在の鼠ヶ関の史跡は「近世念珠関址」と呼ばれ、移転された事情は定かではないものの、古代の鼠ヶ関があった場所から北方に約1km移動している。これに対して元々鼠ヶ関があった場所は「古代鼠ヶ関址」として、石標が建てられている。その西端である弁天島へは現在は遊歩道が整備され、地続きである。源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた際に上陸した地として伝わる(新潟の村上から当地までは船に乗ったとの伝承がある)。飛島も鼠ヶ関も、日本海沿岸ということで、言うまでもないが海に沈む夕日の絶景スポットである。


ぜひ「東北端っこツアー」を
 以上紹介した東北の東西南北端を巡るツアーなどは今のところないが、個人的にはやってみたら面白いのではないかと思う。それぞれ全く異なる雰囲気があり、東北の多様さを体感できるツアーになるに違いない。

 本州の東西南北端については、「本州四端踏破ラリー」がある。これまでに紹介した、本州最北端である大間町、最東端である宮古市、それに最西端である山口県下関市、最南端である和歌山県串本町で構成する本州四端協議会が、地域活性化のために協力して実施している取り組みで、すべて踏破した人には、本州四端踏破証明書と本州四端オリジナル記念品が贈られる。平成16年に始まって以来、これまでに1,792人が踏破者としてカウントされている。手始めに、同様の取り組みを東北でもやってみてはどうだろうか。


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2016年09月29日

私的東北論その85〜東北の観光における復興の現状とこれから(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された電子新聞「東北復興」の第49号では、東北の観光の現状とこれからについて取り上げた。震災後、大きく落ち込んだ東北各地の観光客数だが、ここへ来てようやく震災前の水準に回復してきている。東北にはいい場所、いいものがたくさんある。それをぜひ多くの人に確かめに来ていたただきたいと思うものである。

 以下がその全文である。


東北の観光における復興の現状とこれから

過去最多となった仙台への観光客
新しい画像 仙台を訪れた観光客の数が昨年2015年、初めて2,000万人を超えて過去最多になったことが仙台市の調査で分かったそうである(左図は「データで見る仙台の産業 平成28年度」による)。正確には22,293,853人とのことで、仙台市が目標に掲げている2017年度までに2,300万人という数字も現実味を帯びてきたことになる。

 これまでの推移としては、震災前の2009年が1,937万人、2010年が1,979万人で、そのままいけば翌年は2,000万人を超えそうだったが、翌2011年は東日本大震災の影響で1,621万人まで観光客数は落ち込んだ。2012年が1,855万人、2013年も1,867万人と震災前の水準には戻らなかったが、2014年にようやく1,975万人と震災前の水準に戻っていた。

 2015年の2,229万人は、前年の12.9%増という伸びとなったわけだが、その要因としては震災の風評被害が一定程度収まったことや、仙台うみの杜水族館が開業したことなどが挙げられている。

 また、市内の外国人宿泊者数も115,947人で、これも2008年の98,210人を抜き、初めて10万人を超えて過去最多となったそうである。外国人宿泊者数は、震災のあった2011年には24,071人と激減し、その後も2012年57,297 人、2013年55,871人、2014年68,834人となかなか震災前の水準には戻らなかったが、2015年は前年比168.4%という高い伸びとなった。この要因としては、この年の3月に国連世界防災会議が開催されたことが挙げられている。

 外国人宿泊者を地域別に見てみると、アジアが70,996人で最も多く、次いで北中南米が16,392人、 欧州が11,028人、オセアニアが1,894人、アフリカ1,589人などとなっている。国・地域別に見てみると、台湾が37,660人で最も多く、次いで中国が13,787人、アメリカが13,452人、タイが6,967人、韓国が4,124人、香港が3,458人などとなっている。


仙台の観光は仙台だけでは成り立たない
 しかし、仙台だけ観光客が増えたと喜んでいてはいけない。そもそも、仙台の観光は他地域と組まないと成り立たないという側面がある。

 例えば、観光庁は今年3月、「東北6県の観光魅力100件」を選定した。これは、「東北の観光資源について広く国内・海外に情報発信を行い、東北への来訪促進を図るための新しい試み」とのことで、応募のあった1,264件の中から「見るもの」「食べもの」「買いもの」「体験」の各カテゴリで合計100件を選定したものなのだが、この100件の中で、仙台に関する観光資源は実に 「仙台七夕まつり」ただ1件だった。つまり、仙台の観光資源は東北の他地域と比較すると決して多いとは言えないのである。このことから考えても、仙台の観光は仙台だけでは決して成り立たず、むしろ、東北各地の観光情報の発信基地となるべき立場であるのである。

 ちなみに、「100件」を県別に見ると、青森が28件と最も多く、次いで秋田が21件、宮城が18件、岩手が16件、福島が15件、山形が11件となっている(複数県にまたがる観光資源もあるので合計は100を超える)。青森や秋田に「東北のベスト」の観光資源が多いことが分かる。


仙台駅の新たな取り組み
 たまたま仙台駅3階のみどりの窓口で切符を買おうとしたら、壁面のディスプレイで「ヨリ未知 SENDAI」と題した、東北の名所、名産品を紹介するプロモーションビデオを流していた。JRがつくったビデオだけあって、一つひとつ、仙台駅を起点とした場合の経路や所要時間まで図示されて、いざ行ってみようと思った時に役立ちそうな内容だった。キャッチコピーが「冒険しよう、陸(みち)の奥へ。」で、「『ヨリ未知 SENDAI』が目指すのは“どこかへ『寄り道』したくなる情報が集まった駅”」とある。

 まさに、仙台の立ち位置はこれで、JR仙台駅はそれを十分意識しているように思える。この「ヨリ未知 SENDAI」プロジェクト、3月の仙台駅東西自由通路のオープンに合わせて始まったもののようで、「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」ことが目的だそうである。これは素晴らしい試みである。実際、私が目にしたプロモーションビデオ以外にも、東北のこけしや漆器、民芸玩具が展示してあったり、宮城の80種の食がミニチュアで紹介されていたり、東北の花見スポットや名峰が紹介されていたりといった工夫が駅の中のあちこちにあるようである。

 唯一残念なのは、この「ヨリ未知 SENDAI」、ウェブページにある情報は仙台駅とその周辺のみの情報にとどまり、プロモーションビデオで紹介していたような東北各地の情報がないことである。これは「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」という趣旨から言えば不十分と言わざるを得ない。せめて、駅の中で流していたプロモーションビデオをウェブ上で公開するだけで もずいぶん違うと思うのだ が、それも今のところないようである。

 そのような残念な点はあるものの、その趣旨には大いに賛同する。他の地域の人によく「仙台って大きな街なんですね」と言われる。「東京から1時間ちょっとで着くんですね」ともよく言われる。 こうした声から分かるのは、とにかく情報が少ない、知られていないということである。仙台駅は言うまでもなく、東北で最も多くの人が利用する駅である。そこでの情報発信の効果はとても大きい。今後も積極的に情報を発信していってほしいものである。


世界に向けて何をどう発信するか
 復興庁の資料によると、外国人宿泊客の数は、全国では2010年の2,602万人から、2014年には4,207万人と、実に161.7%の大幅増となっている。しかし、これを東北に限って見てみると、2010年の51万人から2014年には35万人と、なんと逆に70%に減少している。2010年比で外国人宿泊客が減少している地域は東北だけで、いわば東北の「一人負け」状態なのである。

 その背景にはもちろん、いまだに東日本大震災の影響があることは間違いのないところだろうが、そうした風評を払拭するだけの情報発信ができていないということでもあるわけである。

 こうした状況を受けて、観光庁は今年度、東北六県の観光振興を目指して、全世界を対象にした初めての大規模キャンペーンを行うそうである。震災復興関連予算から10億円を確保して、海外の著名人を起用したテレビ番組の制作、各国のメディアや旅行会社を招くツアーなどを実施して、東北の観光情報を集中的に発信するとのことである。

 国は今年度を「東北観光復興元年」と位置付けているとのことで、それは大変ありがたく心強いことではあるが、一方でせっかくお金を掛けるのであれば、他にも考えておいた方がよいこともありそうである。

 観光庁が今年1月から3月まで訪日外国人を対象に行った調査で注目すべきは、「出発前に得た旅行情報源で役に立ったもの」という質問への回答である。ここでは「日本政府観光局ホームページ」(16.7%)や「旅行会社ホームページ」(16.6%)、「地方観光協会ホームページ」(6.2%)などを抑 えて圧倒的に多かったのが 「個人のブログ」(31.4%)であったのである。

 このことからは、公式な情報よりも、個人の発信した情報を参考にするという傾向が見て取れる。国が予算を確保しての公式なレベルでの情報発信を行ってくれることはありがたいが、 それのみでは決して十分とは言えないわけである。むしろこの領域で影響力のある各国の個人ブロガーを招いて東北に関する情報を発信してもらうこといった取り組みの方が必要なのではないだろうか。また、日本側でも、東北の情報を発信する個人ブログなどを、各国語対応も含めてどう充実させていくかということの方が、効果の面で言っても取り組むべき喫緊の課題であると言える。


東北の強みを活かした観光復興を
 同じ観光庁の資料では、「訪日前に期待していたこと」について、最も多かったのが「日本食を食べること」(70.0%)で、次いで「ショッピング」(53.0%)、「自然・景勝地観光」(43.5%)、「繁華街の街歩き」(37.3%)、「温泉入浴」(35.5%)が多く、ちょっと下がって「旅館に宿泊」(21.4%)、「日本の酒を飲むこと」(20.9%)とな っている。「テーマパーク」(15.3%)、「日本の歴史・伝統文化体験」(14.8%)、「日本の日常生活体験」(13.6%)、 「四季の体感」(12.4%)などはそれほど多くはない(ただし国によってかなり ばらつきはある)。

 東北の得意分野でこうしたニーズに対応することを考えると、まず「ショッピ ング」や「繁華街の街歩き」 などでは他地域をしのぐような対応は難しい。これらについては首都圏など大都市圏に強みがある。

 東北で力を入れるべきは、 何と言っても、「日本食を食べること」、「自然・景勝地観光」、「温泉入浴」であろう。これらに対応することを重点的に考えていくのが東北の観光復興には最も良いのではないかと思われる。東北の食、自然、温泉は、日本の他地域に比べても、かなり良いものを持っている。それを外国人向けに大いに情報発信すると同時に、いざ来てくれた際の受け入れ態勢もしっかりと整えることがこれから必要なことであるのではないだ ろうか。

 食に関して言えば、「最も満足した飲食」で多かったものの中で、「寿司」が一番なのは予想がつくとして、次いで「ラーメン」が来て、その次は「肉料理」で、この3つが圧倒的であった。これらもまた、東北でも美味しい食べ物である。 海外に向けた東北のこれらの料理のマップを作るなどの工夫も必要であろう。


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2016年07月30日

私的東北論その84〜「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 5月15日発行の「東北復興」第48号では、東北を題材にした2つの作品、「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」を取り上げた。「イサの氾濫」は小説、「まづろわぬ民」は歌とジャンルは違うが、東北に対する熱い思いは共通している。どちらも震災後に創られたという点でも共通している。建物が元通りになれば復興ということではない。東北に住む人の復興には、東北の祭りや伝統芸能の復活が必要とよく言われるが、加えてこのような文芸や音楽などの復活も必要なのだと思う。

 以下がその全文である。


「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」

小説「イサの氾濫」
91hIN6oceAL 木村友祐の「イサの氾濫」が未来社から3月11日に刊行された。40代になって東京での生活に行き詰まりを感じていた主人公の将司が、叔父の勇雄=イサに興味を持ち、故郷の青森・八戸に帰り、従兄弟や父親の幼馴染に話を聞いて、その足跡を辿っていく、というストーリーである。イサは方々で諍いを起こし、肉親にも敬遠され、どこにも居場所のなかった「荒くれ者」だった。将司はイサの孤独と悔しさに自分自身を重ね、さらに震災後の東北の悔しさをもその身に乗り移らせ、ついに「イサ」となって怒りを爆発させる。

 本作の初出は「すばる」(集英社)の2011年12月号で、第25回三島由紀夫賞候補作ともなったそうだが、その時は私はその存在を知らず、今回単行本になって初めて手に取る機会を得た。この小説の中で最も印象的な箇所として、登場人物の口から、蝦夷や東北の置かれた状況について語られる場面がある。

 父親の幼馴染の角次郎は、イサのことをかつて東北に住んでいた蝦夷みたいな人間だったのではないかと将司に言う。その言葉に前のめりになる将司に対して、「今のは考え方の遊び」だと言いつつ、角次郎は蝦夷について語る。

「……蝦夷づのぁ、ホントは西の、都のやづらがそう呼んだだげで、本人だぢは自分が蝦夷だどは思ってながったらしいけどな。産馬ど馬飼に長げでだがら、馬さ乗って弓ばあつかうのも得意な連中で、やだら勇敢な猛者がそろっていだづ。都の連中にとっちゃ、自分だぢの国の外さあって、そったら強い輩がゴロゴロいる蝦夷の国は、想像を超えだ野蛮の国だったのよ。まぁ、国どいっても、それぞれ単独に動ぐ部族の集まりで、抗争をくりかえすおんた感じだったらしいんども。毛を着て血を飲む、兄弟同士疑い合う連中だど思われでったづ。朝廷は、天皇こそ絶対だどいう物語にしだがって、その未開の国ば何回も制服しようどしたんども、蝦夷ぁなんたかた抵抗したべ。だすけ、蝦夷は都の連中には、『まづろわぬ人』どが、『あらぶる人』ど呼ばれでだのよ。……な。イサみてぇなもんだべ?」

 その上で角次郎は、「今の東北には、あいつみてぇなやづが必要だどいう気もする」と言う。それはどういうことかと尋ねる将司に角次郎は、「みな、人ッコよすぎるべ」と言って、こう言う。

「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されだわげだがら、余計厄介なんどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたぐねぇがら、無理して前向ぎなごと言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」。

「……おらはもどもど、生まれだ地域で人の性格うんぬんすんのは、ナンセンスだど思ってんども。だがらこれは、そんでもやっぱり不公平でねぇがどいう思いが言わせる、戯言みてぇなもんだども。東北人は無言の民せ。蝦夷征伐で負げで、ヤマトの植民地さなって。もどもど米づくりさ適さねぇ土地なのさ、稲作ば主体どずる西の社会ど同じように、米、ムリクリつぐるごどになって。そのせいで人は大勢飢え死にするし、いづまでたっても貧しさに苦しめられでな。はじめで東北全域が手ぇ結んで、薩長の維新政府軍ど戦った戊辰戦争でも負げで。つまり、西さ負げつづけで。どごのだれが言いだしたんだが、『白河以北、一山百文』なんて言葉で小馬鹿にされで、暗くて寒くて貧しいど思われながら、自分だぢもそう思いながら、黙々と暮らしてきたべ。……したんども、ハァ、その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」。

 この長大な語りは、まさに作者である木村友祐の「叫び」であるのだろう。ちなみに、八戸出身で東京に出た主人公の将司は、まさに作者の分身であるし、イサのモデルは作者の叔父だそうである。東京から見えた震災後の東北とその東北を取り巻く状況を見て、全編を通して「東北よ、叫べ!」と叫んでいる。作者がこの小説を通じて訴えたかったことはまさにここにあるのに違いない。

アルバム「まづろわぬ民」
613YZ2hFc0L この「その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」という声に応えた人がいる。白崎映美である。白崎映美は山形の酒田出身。上々颱風(しゃんしゃんたいふ〜ん)のヴォーカリストとして活動してきたが、上々颱風は2013年1月に活動を休止。そのような折に、この「イサの氾濫」と出会い、その「叫び」に東北人の血をたぎらせて、東北出身のミュージシャンらに声を掛け、「白崎映美&とうほぐまづりオールスターズ」を結成したのである。翌2014年秋に1stアルバム「まづろわぬ民」を発表。2015年に「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」に改名して現在に至っている。「東北6県ろ〜る」というネーミング、実に秀逸である。このアルバムはまさに、東北の「ロッケンロール」である。ロックのテイストと東北が誇る民謡のテイストがうまく融合し、独自の音世界が形成されている。

 印象的な歌詞も随所に表れている。「とうほぐまづりのテーマ」では、「オラは歌うぞ 皆踊れ/泣ぐ子はいねが 皆踊れ/いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」と歌う。「いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」というのは、東日本大震災をくぐり抜けた多くの東北人の偽らざる実感であろう。そして、「泣いだ人ださ いい事いっぺ来い/よいしょよいしょど いい事/引ぱらて 来い来い来い」と歌う。これこそ、白崎映美の東北に対する切なる願いなのであろう。

 このアルバムの白眉は、アルバムのタイトルともなっている「まづろわぬ民」である。「まづろわぬ民」とは、「イサの氾濫」でも触れられているように、まさに蝦夷そのもののことである。この曲で白崎映美はこう歌う。

「ぎらぎらの目ン玉ど/真赤だ心臓ど/ほどばしる力ど/ほほえみど/リンゴのほっぺど/寒さに強い体ど/あったこハートを持ぢ/多ぐ語らず 恥ずかしがりやで/気持ぢの優しい民だ/抑え切れない この衝動は/確かにあなた方の 末裔だ」。

 ここでは、白崎映美の思い描く「蝦夷」が独特の表現で描かれている。そしてさらに、「山漕ぎ 野漕いで/自由に生ぎる/オラ方の先祖は/まづろわぬ民だ」と歌い、東北人の「原点」として「まづろわぬ民」があることが強く主張されている。

 白崎映美はこのアルバムのMCで「まづろわぬ民」についてこう語る。

「東北は昔から、暗くて寒ぐで、景気も悪ぐで、そごさ、東北大震災、んで原発事故、オラ、悔しぐで、頭さ来で、東北人は、もっと叫んでもいいあんねが、でっけぇ声出していいあんねが、東北さ、いい事いっぺ、来い来い来ーいど思って、東北まづりオールスターズを、つぐりました。震災の後、オラはずっともやもやど、考えでました。そん時に、『イサの氾濫』っていう小説に巡り合いました。そごさは、『まづろわぬ民』と書いであった。昔オラがたの祖先は、蝦夷って呼ばれで、中央がら、西がら攻められだ。んだげんども、オラがたは支配されない、迎合しない民って呼ばれでだ。んでオラは、よし、んだ、今こそ、オラがだはでっけぇ声で立ぢ上がっ時だど思って、この歌をつぐりましだ」。

 木村友祐の「叫び」と共通する「叫び」がここにはある。この2つの「叫び」が出会い、共鳴し合ったのである。当の木村友祐は「イサの氾濫」のあとがきでこう書いている。

「発表から四年半。書籍化の予定もなく、そのまま埋もれるはずだった『イサの氾濫』がこうして本としてかたちになったのは、何といっても、上々颱風のヴォーカリスト、白崎映美さんのおかげである。白崎さんは『イサの氾濫』を読んだことをきっかけに、『東北6県ろ〜るショー!!』という東北を叫ぶ祝祭性あふれるバンドを結成した。そしてライブのたびに『イサの氾濫』のことを観客に伝え、ぼくをステージに上げて朗読までさせてくださった。筋金入りの東北思いの彼女との出会いがなければ、この本はできなかった」。

 また、「まづろわぬ民」のライナーノーツでもこう書いている。

「震災で甚大な被害をこうむっても物言わぬ東北人には、歴史的に負ってきた悔しさがあるのではないか。その悔しさ、怒りを、かつて大和朝廷の侵略に抵抗して『まつろわぬ民』とよばれた古代東北の人々、蝦夷のように荒々しく解放してもいいのではないか。『イサの氾濫』は、そのような観点から書かれた小説だ。白崎さんはそれをきっかけに『東北まづり』を立ち上げたと言ってくれる。作者としては光栄の極みだけれど、彼女の東北への思いは震災前からもともとあったものだ。その一貫した揺るぎなさと深い想いに、むしろぼくのほうが大きな示唆を受けている」。

「東北よ、東北人よ、叫べ!」
 小説と音楽。ジャンルは違えど、お互いに影響し合って東北の眠りを呼び覚ますような動きへとつながっていっているのは非常に興味深い。唯一残念なのは、「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」のライブが今年は今のところ首都圏と沖縄のみで開催予定であることである。もちろん、それはそれで東北の思いを他地域、特に首都圏で伝えるという意味で意義のあることではあるが、ぜひこの東北でもその思いの丈を存分に発散してほしいと思うのである。

 「イサの氾濫」の最後で、東北人にも東京人にもなり切れていないと感じていた将司に対して、イサはこう語る。 「おめは、生ぎでいいのせ。ニセモノだの、空っぽだの、役立だずだの、そんなものぁどんでもいい。人の目なんが知るが。反省もすな。身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり、叫べ、叫べ」。

 木村友祐と白崎映美、二人の思いはまさにこの言葉に尽きるのだろう。曰く、「東北よ、もっと叫べ!東北人よ、もっと叫べ!」我らの先祖が命を懸けて必死に守ろうとした何かに、すっかり飼い馴らされて野性味を失ってしまったようにも見える今の東北人は思いを馳せるべき時なのかもしれない。

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2016年05月30日

私的東北論その83〜震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第47号では、震災に関する経験知をどう伝えていくかに焦点を当ててみた。経験から学ぶことの大事さは言うまでもないが、それをただ伝えるだけではなく、いかに正しく伝えるかがさらに大事だからである。

 考えてみると、震災前に伝えられていた「経験知」の中には、残念ながら明らかな誤りもあった。誤った経験知は震災発生時の避難行動に悪影響を与える可能性がある。今回の震災発生時にもそうしたことが残念ながらあった。その轍を二度と踏まないためにも、経験知をいかに正しく伝えていくかを考えることはもっと検討されてしかるべきだと考える。この回では、具体例を挙げながら、正しく伝わっていなかった経験知について検証してみた。

 紙面の都合で掲載時にカットした部分も復元した全文が以下である。


震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか

一歩間違うと危うい「経験知」
 前号に引き続いて、もう少し震災の話にお付き合いいただきたい。

 今回の震災に限らず、繰り返し地震災害に遭遇している「地震大国」たる日本では、その経験知をどのように後世に伝え継いでいくかが、将来の被害軽減のために大きく問われる。その意味でも、今回の震災から得られた知見はできる限り発信していくべきであるし、個人的にもそうした活動を続けている。

 しかし、こうした経験知を伝え継いでいく際に、厳に心掛けなければならないことがある。それは、正確な情報を伝え継いでいく、ということである。当たり前のことと思われるかもしれない。ところが、意外にそうでないこともあるのである。ある個人が遭遇した体験が、必ずしも広く敷衍できる事例ではないばかりでなく、場合によっては同様の地震に遭遇した際に判断の誤りにつながる恐れがあることすらあるのである。


「津波の前には引き潮がある」
 例を挙げれば、今回の震災でも聞かれた「津波の前には引き潮(引き波)がある」というのがまずそれである。中には、「広い範囲で海底が露わになるほどの引き潮があった」という証言もある。今回の津波の規模の大きさを物語る証言ではある。しかし、すべての地域で引き潮が観測されたわけではない。引き潮がなく、突然津波が押し寄せた地域もある。日本気象協会のサイトにも「津波の始まり(第1波)が押し波か引き波かは、津波発生域での断層運動の方向や規模によって異なります。また、津波が到達した場所周辺の海底地形によって変わることもあります」とある。

 したがって、「津波の前には引き波がある」という証言ばかりが「経験知」として広まってしまうと、「引き潮がないから津波は来ない」、という間違った判断を下してしまうことにつながりかねないのである。実際、残念ながら、今回の震災でも引き潮がないということで避難が遅れ、そこを津波に襲われて亡くなった人は多くいた。


「仙台平野に津波は来ない」
 他にもある。「仙台平野に津波は来ない」。これは、実は私もそう聞かされて信じ込んでいた。津波に繰り返し襲われた経験のあるのは三陸沿岸、仙台平野には津波が来ない、と。ちょっと歴史を紐解いてみれば、今回の地震と同規模と言われる1100年前の貞観地震まで遡ることもなく、400年前の1611年、伊達政宗の時代の慶長三陸地震の際にも仙台は大津波に襲われている。1793年の寛政地震でも、1835年の天保年間の地震でも、仙台平野は津波に見舞われたとされる。しかし、いつの間にか、その後わずか200年足らずの間、津波に襲われなかったという「経験」が「仙台平野に津波は来ない」という誤った経験知を広めてしまったわけである。

 仙台市若林区には浪分(なみわけ)神社という神社がある。神社が立つ場所は慶長三陸地震の際に、津波が到達したところと到達しなかったところの分かれ目であったと伝えられている。しかし、震災前にはそうした伝承も地域の中で周知されてはいなかった。どんな経験知も伝えられていなければ意味がない。

 一方、岩手県の沿岸宮古市の重茂姉吉地区には「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と書かれた碑があった。この地域の住民はその碑に書かれたことを守り、今回の震災でも難を逃れた。そのような事例もあるのである。


「大きな地震の時には津波が来る」
 そもそも、「大きな地震の時には津波が来る」という経験知自体、誤りである。1896年の明治三陸地震は最大震度が4という地震だったが、特に岩手県の三陸沿岸は今回の震災に匹敵する大津波に襲われた。これら岩手県三陸沿岸地域の震度は、2〜3だったとのことである。つまり、体感的に大きな地震でなくても、津波に襲われる危険はあるのである。

 明治三陸地震による津波で被害が拡大したのは、地震発生が夜間だったということもある。地震発生は19時32分、津波の第一波の到達は早いところでその約30分後の20時7分だった。夜間、震度2や3の地震に遭遇したとして津波の危険に思い至る人はそう多くなかったと思われる。この地震で亡くなった人の数は21,959人(行方不明者含む)で、我が国で記録が残る地震の中で最も多かった。

 幸い、現在多くの携帯電話では、緊急地震速報に加えて、津波警報も受信できる。しかし、圏外だったり、電源が入っていなかったり、対応機種でなかったりということもありうる。加えて、そもそも警報が間に合わないこともある。過信しないことが重要である。

 今回の地震では、地震発生から津波の第一波到達まで最短でも15分程度の余裕があった。しかし、1983年の日本海中部地震では(ここでも「日本海には津波は来ない」という誤った経験知があった)、地震発生からわずか7分後に津波の第一波が観測されている。気象台が津波警報を発令したのは地震発生から14分後で、その時には既にいくつかの地域で津波に襲われていた。1993年の北海道南西沖地震では、第一波到達は何と、地震発生から2、3分後である。どんな地震であっても、地震発生後の情報収集は必須であるが、海沿いで地震に遭遇したら、情報収集をするより先にまず海岸からなるべく離れる、ということを徹底するべきである。


「30年に一度宮城県沖地震が起こる」
 「30年に一度宮城県沖地震が起こる」という経験知も、実は危うい。近年では、38年前の1978年に宮城県沖地震が発生し、28名の人が亡くなった。他の震源域と連動して未曽有の巨大地震となってしまったが、今回の震災を引き起した地震も宮城県沖地震の一つと数えられている。

 この宮城県沖地震の平均発生間隔は38年で、概ね25〜40年に1回発生するとされているが、個々の地震を見てみると、必ずしもそこまで間隔が空いていないのである。例えば、1933年の次は1936年、1937年に発生し、1978年と2011年の間に、2005年の地震もあった。震源の深さの違いから「宮城県沖地震」には加えられていないが、2003年にも宮城県沖を震源とする大きな地震があった。震災後、「これほどの地震が起きたのだから、しばらく東北沿岸に大きな地震は来ない」という見方もあるが、このように見ると「次に起こるのは30年先」と思い込むことは実に危険であることが分かる。

 加えて、直下型地震への備えも必要である。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、地震発生直前の30年確率は0.02%〜8%であった。発生確率からするとそれほど大きくない。にも関わらず、実際に起こった。阪神・淡路大震災を見てもよく分かるように、直下型地震の場合はまた東日本大震災とは全く違う被害が生じる。例えば、仙台市街地の直下にある「長町−利府断層帯」による地震の発生確率は、「30年以内で1%以下」とされているが、ゆめゆめ油断しないようにしておきたい。


「津波てんでんこ」
 今回の震災でクローズアップされた言葉に、「津波てんでんこ(命てんでんこ)」がある。この言葉についても誤った認識が広まっていることに憂慮の念を覚える。

 「てんでんこ」というのは三陸地域で、「各自」や「めいめい」を意味する言葉である。文字通りの意味は、「津波てんでんこ」は「津波が来たら各自で逃げろ」、「命てんでんこ」は「命は各自で守れ」という意味である。

 実際、この言葉通り、地震発生と同時に各自が避難を開始し、津波の難を逃れた事例が三陸の地域には多くあった。最も有名なのは、「釜石の奇跡」と報じられた釜石市内の小中学生の避難の事例である(当事者の方々は「奇跡」と呼ばれることを嫌うが)。釜石市内では残念ながら5名の小中学生が命を落としたが、残る2,926人の小中学生は助かった。釜石市内の小中学校では、地震の後、皆それぞれ、教師の指示を待たずに自主的に避難所まで避難したのである。

 しかし、今の「てんでんこ」に関する報じられ方は、この「各自で逃げる」ところだけに焦点が当たり過ぎている。その結果、「家族や災害弱者を置いて逃げることを正当化するのか」といった批判が起きたりする。これは、この「てんでんこ」という言葉の極めて狭い一面のみを見ているのである。

 今報じられている「津波てんでんこ」「命てんでんこ」は、いざ地震が起きた際のアクションばかりがクローズアップされているが、実はこの言葉の意味するところで最も重要なのは、平時のアクションの方なのである。端的に言えば、いざという時にめいめいが自分のことだけを心配して逃げればいいように、普段から非常時のアクションについて話し合い、その通りに行動するように申し合わせておくということがベースにあるのである。

 これによって、いざという時には家族、知人も同じように避難していると考えて、自分の身を守ることだけに専念できる態勢になれる。いわば、日常からの相互の信頼関係があってこその「てんでんこ」なのである。

 にも関わらず、マスメディアの論調の中でも「津波てんでんこ」が利己的、自己中心的であるかのような報じられ方がしたり、あまつさえ個人のブログの中には、「家族すら見殺しにする人間に生きてる資格はない」などと、「てんでんこ」で逃げて助かった人を罵倒するようなものすら見受けられる。「てんでんこ」の本質を知らない、全く的外れな認識だと言わざるを得ない。

 実際、釜石市内の中学生は「自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連れて逃げるんだ」と教えられていて、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と声を出しながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続けたのである。

 ウェザーニューズの「東日本大震災 津波調査(調査結果)」には、一旦避難場所に逃れながら、再度危険な場所に戻ったことによって亡くなった人が、避難したにも関わらず亡くなった人のうちの60%を占めたとある。そして、戻った理由で圧倒的に多かったのが「家族を探しに」であった。こうしたことは、いざという時にどうするかについて普段から話し合っていれば、かなりの割合で防げたのではないだろうか。

 高齢者や災害弱者も含めて、いざという時にどのように避難するかについて、普段から綿密に検討し、かつ訓練を繰り返して無理がないかをチェックし、改善する、という取り組みが不可欠なのである。


次の災害の被害減少に役立つ発信を
 このように、震災における「経験知」については、もちろん震災に遭遇した一人ひとりの貴重な体験に基づいているものではあるものの、その伝え方、伝わり方によっては、本来の意味と異なってしまったり、誤った判断につながったり、そもそも伝わっていなかったりということがある。

 震災体験に基づく「経験知」については、こうしたことに十二分に留意しつつ、次の災害時に被害の減少に役立つような情報として発信していくことを心掛けていきたいものである。


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2016年05月26日

私的東北論その82〜「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 3月16日発行の「東北復興」第46号では、昨年仙台で開催された第3回国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」について取り上げた。2030年までの今後15年間の防災に関する行動指針となるものだが、せっかく仙台で開催されたにも関わらず、地元でもその内容を知っている人は少ないように見える。今後の防災を考える上で重要な視点を提示してくれているので、ぜひ多くの人に目を通していただきたいものである。

 以下がその時寄稿した記事の全文である。


「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を

5回目の「3・11」
 「3・11」と呼ばれるようになって5回目の3月11日がやってきた。「3・11」の前後は毎年、震災に関する新聞記事、特別番組、関連イベントが増える。それはそれで、震災への関心を喚起し、防災に対する意識を高める効果はあると言えるが、当然のことながら震災やそれを含む自然災害についてはこの日にだけ考えればそれで済むものではなく、年間を通して継続して考え、アクションを起こしていくことが重要である。

 後で紹介する「仙台防災枠組2015-2030」で指摘されているが、世界ではこの10年間に、災害の発生によって、70万人以上が死亡し、140万人以上が負傷し、約2,300万人が住む家を失い、15億人以上の人々がさまざまな形で災害の影響を受けた。経済的損失は合計で1兆3千億ドル以上にも上ったという。自然災害に対する防災・減災は不断の努力が必要である。東日本大震災を経験した私たちはとりわけ、その経験を踏まえた防災・減災対策について引き続き考えていく必要がある。

「仙台防災枠組2015-2030」の採択
 そうした中で昨年、ひと際重要なイベントが昨年4月、仙台市内で開催された。第3回国連防災世界会議である。本体会議に世界187カ国から6,500名超の関係者が、パブリック・フォーラムには行政、研究者だけでなく一般市民も多数足を運び、実に延べ15万人超の参加者が集った。参加国数やその各国の参加者数はもちろん、全体での参加者数が15万人にも上ったというのは、日本で開催された国連関係の国際会議の中でも史上最大級とのことである。このことは、「防災に対する国際社会の政治的なコミットメントを得て,防災の主流化を進める上で,大きな成果となった」と評価されている。特筆したいのは市民参加の多さで、未曽有の震災体験を踏まえ、防災に対する並々ならぬ意識の高さが窺える。

 この会議では「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。国連防災世界会議は過去3回、いずれも日本で開催された。1994年に第1回会議が横浜で行われ、初の国際的な防災・減災の指針となる「より安全な世界に向けての横浜戦略」が策定された。第2回は阪神淡路大震災を経験した神戸で2005年に開催された。この時はさらに具体的な指針として「兵庫行動枠組2005-2015」が採択され、2015年までの10年間に防災・減災に関して各国が達成すべき目標と重点行動が設定された。

 第3回の仙台での会議ではこの「兵庫行動枠組2005-2015」をさらに発展させて、今後2030年までの15年間、各国の行動の指針となるもので、期待される成果とゴール、7つの「グローバルターゲット」、13の「指導原則」、4つの「優先行動」が設定された。

 期待される成果は、今後15年間で「人命・暮らし・健康と、個人・企業・コミュニティ・国の経済的・物理的・社会的・文化的・環境的資産に対する災害リスク及び損失を大幅に削減する」ことで、 この成果を実現させるためのゴールは「ハザードへの暴露と災害に対する脆弱性を予防・削減し、応急対応及び復旧への備えを強化し、もって強靭性を強化する、統合されかつ包摂的な、経済的・構造的・法律的・社会的・健康的・文化的・教育的・環境的・技術的・政治的・制度的な施策を通じて、新たな災害リスクを防止し、既存の災害リスクを削減する」こととされている。

 そしてその進捗状況の評価のために、「災害による死亡者数の2020年から2030年の平均値を2005年から2015年までの平均値に比して低くする」など7つの「グローバルターゲット」を設定し、また、枠組の実施に当たっての基本的な考え方を、「各国は災害リスクを防止し、削減する第一義的な責任を有する」など13にまとめて示している。

 4つの「優先行動」は、〆匈殴螢好の理解、∈匈殴螢好を管理する災害リスク・ガバナンスの強化、6靱性のための災害リスク削減への投資、じ果的な災害対応への備えの向上と、復旧・復興過程における「より良い復興(Build Back Better)」 で、そのそれぞれについて「国家レベル及び地方レベル」、「世界レベル及び地域レベル」での具体的な行動が示されている。

仙台・東北こそ「枠組」に基づいた対策を
 重要なのは、こうした各国の防災・減災に向けての行動指針に「仙台」の名が冠されていることである。既に参加国の中にはこの枠組に基づいて自国の防災・減災計画を策定する動きも出ているという。そうした国々の中には、この枠組にある「仙台」に対して関心を持つ人も出てくるに違いない。さらにその中には、実際にこの枠組が採択された仙台に実際に足を運んでみる人もいるに違いない。そうした時に採択された仙台を含む、震災からの復興を目指す東北で、この「仙台防災枠組」が知られていない、あるいは活用されていないという状況があったとしたら、かなり失望されるのではないだろうか。開催地、そして開催地のある地域として、私たちは、他の地域よりもさらにこの「仙台防災枠組2015-2030」に関して理解を深め、実際に行動に移していく責務があると思うのである。

 とは言え、外務省にある「仙台防災枠組2015-2030」の和訳、しかも仮訳を読んでも、それが行政レベルではともかく、私たち市民レベルでどう落とし込んでいけるのかという点については、必ずしも明確に記載されているとは言えない。「后ゥ好董璽ホルダーの役割」のところにわずかに記載があるくらいである。

「市民向け解説冊子」の発行
 と思っていたところに、実に素晴らしい冊子を防災・減災日本CSO-ネットワークが作成してくれた。「仙台防災枠組2015-2030」の市民向け解説冊子である。3月12日から配布を始めており、国連防災世界会議開催から1年になるのを機に仙台市内で開催された仙台防災未来フォーラム会場でも来場者に配布された他、みやぎ連携復興センター国際協力NGOセンターでも希望者に無料で配布している。また、PDF版は同ネットワークのサイトからダウンロードできる。

 A5判40ページの分量で、「仙台防災枠組2015-2030」にある、世界各国で今後2030年を目標に実践される防災・減災への取り組みについて、「市民としてどのように行動すべきか」に重点を置いて分かりやすく解説している。とりわけ、先ほど挙げた4つの「優先行動」について、それぞれ市民レベルで何ができるかを示した「市民の行動まとめ」が付されており、大いに参考になる。ぜひご一読をお薦めしたい。

 市民レベルという点で言えば、この解説冊子が配布された仙台防災未来フォーラムも実に有意義な企画であった。仙台および東北で復興や防災・減災に取り組んできた市民、行政、研究者などが一堂に会し、それぞれの活動事例を発表し合って情報交換・共有を図ると共に、国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」を踏まえて今後の活動の方向性や課題解決に向けた方策を検討するという内容であった。今回も行政関係者や研究者だけでなく、市民の参加も多く、依然防災に対する意識の高さが表れているように思った。できればこうした企画を今回限りのものにせず、年に一回程度開催して、市民が参加できて防災・減災について考える場を確保すると共に、そこで得られた知見を内外に発信するということを継続して行っていくことが重要なのではないだろうか。

国だけでなく個人も「レジリエンス」を
 仙台での国連防災世界会議では、災害に対する「レジリエンス」の強化を急ぐという決意も示された。「レジリエンス」というのは元々は物理学の用語で「外力による歪みを跳ね返す力」という意味であるが、災害関連では「回復力」の意味で使われる。つまり、「システムおよびその構成部分が重大なショックによる影響を適時かつ効率的に予測し、吸収し、対応し、あるいはそこから回復することが可能であること」である。

 なお、政府はレジリエンスを「強靭化」「強靭性」という意味で使っている。震災後に制定された国土強靭化基本法は、「必要な事前防災及び減災その他迅速な復旧復興に資する施策を総合的かつ計画的に実施する」ことを目的に制定されているが、これは災害に対するレジリエンスの強化を目的としたものである。

 ところでこの「レジリエンス」、心理学の分野では「しなやかで折れない心」「逆境から立ち直る力」といった精神的な回復力の意味で使われている。考えてみれば、災害からの復興には社会システムのレジリエンスももちろん必要であるが、それ以上に個人レベルでのこの心理学で言うところのレジリエンスが求められるのではないだろうか。なんとなればその社会を構成するのは紛れもなく、一人ひとりの個人だからである。

 ハードの整備から心のケアへと震災復興における重点事項もその軸足を少しずつ移しつつあるように見える。その重要なキーワードとしてレジリエンスはあるのではないかと思う。

 繰り返し自然災害に襲われ、その度に立ち上がってきた私たちの先人たちはきっと、強いレジリエンスを持っていたに違いない。震災発生から5年目を迎え、今度レジリエンスを発揮するのは私たちの番である。


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2016年05月20日

私的東北論その81〜東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」第45号では、東北とイギリスのウェールズに共通するものについて考えてみた。イギリスの中で言うと、地方分権絡みではスコットランドに注目が集まるが、実はウェールズは東北にとってとてもシンパシーの感じられる国だということが分かる。

 以下がその全文である。


東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ

4つの国からなる「イギリス」
 我々が「イギリス」と呼ぶ国は、正式にはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国と言う。連合王国と言う通り、ロンドンを抱えるイングランドの他にスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4か国で構成される国である。サッカーやラグビーのワールドカップなどではこれら4か国が別々に出場するので、ユニオンジャックとは異なるそれぞれの国の国旗を見る機会も多い。

 よく東京の一極集中が指摘される日本から見ると、「イギリス」を構成する4か国はそれぞれが一つの国ということで日本よりもはるかに分権が進んでいるように見える。実際、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドには議会が設置され、制限はあるものの立法権を持っている。

 国内で地方分権の拡大、地方自治の拡大を推進しようとする人の間ではその中でもとりわけ、スコットランドの取り組みに注目が集まることが多い。2014年のスコットランド独立住民投票は世界的にも大きな注目を集めたが、分離独立までは考えていなくても、スコットランドにおける自治権拡大に向けた動きは、わが国で中央集権国家から地方分権国家へ移行させようとする、主に地方にいる人たちにとっても参考になるものと映る。実際、北海道などは平成15年にスコットランドを視察し、その結果を「スコットランドの分権改革に関する調査研究報告書」という詳細な報告書にまとめている。

東北はスコットランドではなくウェールズ
 さて、私には東北の主だった都市、それは県庁所在地に限らず地方都市も含むが、だいたいよく行く飲み屋がある。大抵は美味しいビールが飲める店で、それらは拙ブログでも紹介しているが、先日山形市の行きつけの店の一つで飲んでいたところ、かつてその店で意気投合した佐藤 明氏と数年ぶりに再会した。佐藤氏は、好きなアーチストがたくさんいるという理由から、ウェールズに造詣が深かった。

 その佐藤氏が言うには、「東北はスコットランドではなくウェールズではないか」ということであった。独立を求める住民投票を実施するようなあのスコットランドの押し出しの強さは、我らが東北ではなく、むしろ関西に通ずるのではないか、とも言った。なるほど、確かに、世間の注目を集め、一気呵成に物事を進めていく様は、前・大阪市長の橋下 徹氏のイメージとも重なる気がする。

 ただ、正直なところ、私はウェールズについて明確なイメージを持ち合わせていなかった。せいぜい首都がカーディフであることと、イギリス皇太子が「プリンス・オブ・ウェールズ」と称されることと、あとはアーサー王伝説くらいである。しかし、考えようによっては、そのように、世界の耳目を集めるスコットランドと比べても明確なイメージがあまり湧かない慎ましやかなウェールズは、何か我らが東北に相通じるものがあるようにも思える。

ウェールズと東北に共通するもの
 そこで遅まきながらウェールズについて調べてみた。調べてみると、東北と共通するような事柄がけっこうあることに気づく。国土の面積は20,716屬如日本で言うと四国4県に東京都と合わせたほどの大きさである。人口は2011年の統計で約306万人である。その年のイギリス全体の人口は約6,318万人なので、ウェールズの人口はその約4.8%でそれほど多くないわけである。

 ちなみに、2015年現在の東北六県の人口は約897万人で、日本全体の人口は1億2,688万人であるから、東北人の占める割合は約7.1%である。まあ、ウェールズも東北もどちらも「少数民族」ではある。

 東北人から見て最も共感できそうなのはそのルーツである。ウェールズ人のルーツは、ノルマン人やサクソン人が侵略してくる前からブリテン島に住んでいたケルト系のブリトン人である。ウェールズは古代から度々ブリトン人の後にブリテン島に渡ってきたノルマン人やサクソン人の侵攻を受けてきた。ウェールズはその都度強硬に抵抗し続ける。ウェールズに侵攻してきたサクソン人を撃退したというブリトン人の王、アーサー王は、東北で言えば蝦夷のリーダーだった阿弖流為(アテルイ)か安倍貞任に比せられるかもしれない。

 しかし、こうした抵抗もついにその終焉を迎え、1282年、ルーワリン最後王がエドワード一世に敗れて討ち死にし、ウェールズはイングランドの支配下に置かれるのである。この辺り、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の話を彷彿とさせるものがある。ただ、すごいのは、イングランド支配下に組み込まれてもウェールズはその独立性を失わず、決してイングランド人に同化されることはなく、むしろこの地に進出してきたイングランド人が逆にウェールズ人化していったということである。

 そうしたこともあって、ウェールズには、ウェールズ人独自の文化が今も色濃く残っているそうである。キリスト教伝来のはるか前から、ウェールズにはドルイド僧を中心とする宗教があり、自然物のなかに霊魂が宿ることや輪廻転生があることなどが信じられていたという。この辺りは万物に神が宿るという日本の神道や、因果応報によって輪廻転生があるという仏教の思想に近いものが感じられる。

 言葉に関して最も親近感を覚えたのはそもそもの「ウェールズ」という言葉である。「ウェールズ」とは、ウェールズを征服したサクソン人の言葉「ウェリース」が元で、その意味は「よそ者」だそうである。ここはまさに大和朝廷に「蝦夷」と呼ばれ蔑まれた東北にそっくりである。ちなみに、ウェールズ語ではウェールズのことは「カムリ」と言うそうで、これは「同胞・仲間」という意味だそうである。

 もう一つ、ウェールズでは古代から「ウォルシュ・ゴールド」と称される金が産出した。今では底をついてしまったそうだが、今もあるウォルシュ・ゴールドはプラチナよりも希少価値が高いとされているそうである。これも古代中世における一大産金地であった東北と共通する点である。

東北に住む者みな蝦夷
 先に触れたように、今の東北地方に住む人はかつて蝦夷と呼ばれた。よく議論されることに、蝦夷はアイヌ民族と同じか否かというものがある。それについての結論はまだ出ていないが、個人的には、イコールではないものの、蝦夷の中には後にアイヌ民族と呼ばれることになる一群もいたのだろうと思う。しかし、それだけではなく、いわゆる大和民族もいたはずである。稲作の遺跡が東北の北端、青森県内でも見つかっていることから、渡来系の弥生人が東北まで北上して定住していたことは疑い得ない。一方で、アイヌ語で説明できる地名が東北には数多く残っていることから、アイヌ民族と同族がいたか、あるいはアイヌ民族そのものが南下してきたかして、そうした一族がいたことも確実である。要は、そうした多様な民族が当時の東北にはいて、それらの人が後に朝廷から征服する対象として十把一絡げに蝦夷と呼ばれたというのが真相ではなかったかと思うのである。

 すなわち、蝦夷というのはある特定の民族のことを指すのではない。まさに、東北に住み、東北の人間であることを自覚する人が蝦夷なのである。この辺り、ウェールズに進出してきたイングランド人さえもウェールズ人化させていったというウェールズとも通ずるものがあるように思う。戦乱に明け暮れた、そしてそれはほとんどすべて外から攻められたことによる戦乱だが、そうした東北に百年の平和をもたらした奥州藤原氏は、元をたどれば京の摂関家の藤原氏に連なる一族である。だが、その初代清衡は自らを、本紙第41号でも紹介したが、中尊寺供養願文の中で「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)と称した。奥州藤原氏の全盛期を築いた三代秀衡さえも、京の摂関家藤原氏の九条兼実から「奥州の夷狄(未開の蛮人)」と呼ばれている。自他ともに認める蝦夷だったわけである。

蝦夷の末裔であることを誇りに思おう
 沖縄の人は自分たちのことを「うちなーんちゅ」、九州以北の人のことを「やまとんちゅ」と呼ぶが、「やまとんちゅ」とは「大和人」ということなので、住む人がその大和人に蝦夷と呼ばれた地である東北にいる身からすると、「やまとんちゅ」と言われることにはちょっと違和感を覚えたりする。この辺りは、ウェールズ人が自らをイングランド人とは全く別と考えていることに少し通ずるところがあるかもしれない。

 思えば、奥州藤原氏はそうした「やまとんちゅ」に対する蝦夷からの強烈な自己主張だった。中尊寺供養願文の「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」という言葉、これは従来、清衡が自分の立場を卑下して「中央」の天皇家、摂関家を立てるためのへりくだった表現だと言われてきたけれども、実はそうではなかったのではないかと思う。清衡は誇りを持って自らのことを「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」と称していたのではないかと思うのである。清衡はここで自分を、朝廷の支配する地域とは異なる国のリーダーであることを高らかに宣言したのではないだろうか。これまた第41号で書いたが、奥州藤原氏は、天皇家の祭神の伊勢、摂関家藤原氏の祭神の春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神の八幡、蝦夷征伐の神の鹿島・香取などは一切平泉に入れなかった。奥州藤原氏は摂関家藤原氏に連なるその立場よりも、蝦夷のリーダーとしての立場を取ったのである。

 そうそう、蝦夷とは元々は強い者、荒ぶる者を指し、それがやがて朝廷に従わない者、朝廷の文化とは異なった文化を持つ者を指すようになったという説がある。とすれば、それはむしろ東北に住む人間にとっては褒め言葉とも言えるのではないだろうか。その蝦夷の末裔であることを、今東北に住む一人として誇りに思いたい。過去を受け継ぐ者が今どうあるか、ウェールズには今後さらに学びたいものである。


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2016年04月16日

熊本地震を受けて〜私的東北論その80

 「平成28年熊本地震」と名付けられた4月14日の地震は、直下型地震だったためにM6.5と規模はそれほど大きくなかったにも関わらず、最大震度が7という、最近では東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震以来の大きな揺れを引き起こした。改めて直下型地震の恐ろしさを知った。

 もう二度と地震で人が亡くなるのは見たくないと思ったが、今回の地震でも残念ながら9名の方が亡くなった。本当に心が痛む。ご冥福をお祈りしたい。

 テレビで報じられる映像を見ても、他人事とは思えない。居ても立っても居られないような気持ちになる。何か伝えられることはないか考えて、思いつくままに取り急ぎまとめてみる。後から思いついたことは随時追記していく。


熊本の被災地の方に伝えたいこと

 夜間に起きた非常に大きな揺れ、度重なる余震、気の休まる間もない状況だろうとお察しします。本当に心が痛くなります。気象庁が余震について解説しています(参照サイト)。これを見ると、余震は1週間から10日は続くとあります。今回の地震は殊の外余震が多いようですので、くれぐれも気を付けてください。

 特に気を付けていただきたいのは、「ため池」です。何のことかと思われるかもしれません。東日本大震災において、津波の被害の甚大さの陰に隠れてあまり知られていませんが、福島県でため池が3か所決壊しました。このうち藤沼湖の決壊では、ため池の大量の水が濁流となって下流の集落を襲い、死者・行方不明者8名という被害が発生しました。

 全国にため池はおよそ21万か所あり、そのうち7割が江戸時代事前に築造されているそうです。熊本県内にも2,158か所のため池があります。これまでの本震と余震によって、かなりのダメージを受けているため池もあるかもしれません。これらのため池の近くには決して近寄らないように特に気を付けてください。
ため池については、農林水産省のページが詳しいです(参照サイト)。

 私は、主に介護・福祉関係者の方に震災に関する話を聴く活動を行っています。その中で必ず尋ねるのが、「他地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいことは何か」ということです。

 その中で挙がったいくつかの声を以下に示します。

・情報を得てください(ラジオは用意して)。
・助けが来るまでの助けはご近所。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・とにかく生き残る努力を。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。
・今後のために正しい情報を集めて残しておくことが必要。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。 ・人間には敵わないものがある。でも、生きてさえいれば何とかなる。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそ、素晴らしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。

 発生したばかりで、現状を受け入れる心の余裕もないかもしれません。避難所に避難している人は、環境の大きな変化に体調を崩したりすることもあるかもしれません。でも、震災からの復興は「長期戦」です。とにかく栄養と休養をしっかり取って、家族、友人・知人とつながりを保ちつつ、できることを少しずつ、一つずつ積み重ねていってみていただけたらと思います。

(2016.4.16追記)
 この記事を書いている間に、さらに大きな地震が起こって、さらに多くの方が亡くなってしまいました。なぜそれを書かないでしまったのだろうと思います。その可能性についても頭の中にはあったのに、書かないでしまいました。書いても時間的には間に合わなかったわけですが…。

 東日本大震災で、私たちも実は同じ経験をしていました。あの3月11日のM9.0の地震の2日前の3月9日に、M7.3の大きな地震を経験していました。その2日後の大きな地震ですっかりそのことは忘れられてしまっていますが、確かに、「大きな地震があったから、後は余震だ」ということばかりでなく、それがその後に来る本震の前震ということもあるのでした。

 報道では、気象庁は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと震源が移動して地震が起きていることについて、「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と話していますが、これは見方を変えれば、東日本大震災で起こったことが時間をかけて起こっていると見ることもできます。東日本大震災では、5分前後の間に3つの震源で地震が起きました。まず宮城県沖の震源で地震が発生し、それに続いて宮城県のさらに沖合で地震が発生し、さらに茨城県北部沖でも地震が発生し、それらが複合して巨大な地震になったとされています。今回はそれが5分ではなく数日という単位で起こっているという見方もできるのではないでしょうか。
 
 とすると、先の文章で「余震は1週間から10日続く」という気象庁の解説を紹介しましたが、もっと長いスパンで備える必要があると思います。東日本大震災では、2011年3月11日の本震の27日後の4月7日に、M7.2の極めて大きな余震を経験しました。その4日後の4月11日にもM7.0の地震がありました。これらの地震でそれぞれ4名の方が亡くなっています。地震から4か月後の7月10日にM7.3、翌年2012年の12月7日にM7.3、2年後の2013年10月26日にもM7.1の余震があり、2012年の地震で1名の方が亡くなっています。

 くれぐれも用心してください。ひょっとしたら、今回の地震も本震でないかもしれない、という前提で。また、もし今回の地震が本震であったとしても、本震がM7.3ということは、余震は14日の地震と同じクラスのものが来る可能性が大いにあります。山の斜面に近い建物、瓦屋根の建物、1981年以前に建てられた建物、そしてブロック塀には決して近づかないでください。

 ブロック塀は、鉄筋が入っていない塀が多数崩壊しているのを見てショックを受けました。私が子供の頃体験した1978年の宮城県沖地震の時は28名の方が亡くなりましたが、うち18名が鉄筋の入っていないブロック塀の下敷きとなって亡くなりました。それ以来、ブロック塀には必ず鉄筋を入れることになったはずなのですが、それ以前に作られたのか、いまだそうでない塀が多く存在しているのですね。

 瓦屋根の建物は台風には強いですが、建物上部が重くなる分、地震には極めて弱いです。1981年は1978年の宮城県沖地震で建物倒壊が相次いだことを受けて、建築基準法が改正されて耐震基準が強化された年です。この年から建物を建てる際に、「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていますので、この年以降に建てられた建物であれば、もちろん100%とは言えませんが、倒壊で命を落とすような事態はある程度避けられると思います。

(2016.4.19追記)
 Googleが「災害情報マップ」で「熊本地震リソースマップ」を公開し始めました。「スーパー営業情報」、「炊き出し&支援物資集積地点」、「給水所」、「給油可能ガソリンスタンド」、「営業中の銭湯・温泉」、「利用可能トイレ」、「自動車通行実績マップ」を地図上で確認することができます(右上の「レイヤ」をクリックして欲しい情報の項目にチェックを入れます)。

(2016.5.2追記)
 1981年以降に建てた建物は「震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」ことが義務づけられていると書きました。ところが、その後の調査では1981年以降の建物でも倒壊した建物があったとのことです。その理由として、建築基準法では震度7の地震が2度来ることは想定しておらず、1回目(4/14)の地震で倒壊はしなかったもののダメージを受けた建物が2回目(4/16)の地震で耐え切れず倒壊したということが考えられます。そしてさらに、「地震地域係数Z」の欠陥が指摘されています(参照サイト)。

 建物を新築する場合、建築基準法が定める「新耐震基準」に従って耐震設計を行います。この時、地震によって建物に作用する「地震力」を、「地震力」=「地震地域係数Z」×「標準地震力」という式で計算します。「標準地震力」というのは、「震度6強から弱い震度7程度の地震力」を意味します。問題の「地域地震係数Z」はその名の通り、地域によって異なる係数となります。地域係数Zが「1.0」であれば作用する地震力は「震度6強〜弱い震度7の地震力」、地域係数Zが「1.2」であれば作用する地震力は「一般的な震度7の地震力」、地域係数Zが「0.8」であれば作用する地震力は「弱い震度6強の地震力」になるとされます。つまり、同じように「新耐震基準」に従って耐震設計を行っても、地域によってその強度には差が出るということです。
 今回地震のあった熊本では、最初に設定された「地域地震係数Z」は0.8、その後2度ほど改訂されていますが、最新の2007年版でも熊本は0.8と0.9となっています。つまり、「新耐震基準」の建物でも、熊本の建物は震度7の地震には耐えられない可能性があったわけです。今回のような地震を経験すると、「地震地域係数Z」は有害無益であると言えます。参照サイトの記事によると、耐震強度を1.5倍にしてもそれによるコスト増は3〜5%程度であることが紹介されています。

 ともあれ、1981年以降に建てられた建物でも、「危険」と判定された建物には決して近づかないでいただきたいと思います。


東北を含む他地域の方に伝えたいこと

 政府の地震調査研究推進本部が長期評価結果一覧を公表しています(参照サイト)。これを参考に、自分の住んでいる地域でどのような地震が起こり得るのか、把握しましょう。ただし、この中の発生確率にはあまり左右されないようにしてください。低くても決して安心してはいけません。阪神淡路大震災の発生直前の同地域の地震の30年以内の発生確率は0.02〜8%でした。今回の平成28年熊本地震は布田川断層帯、日奈久断層帯が動いて起きたのではないかという見解が既に出ていますが、これらの30年以内の地震発生確率も、布田川断層帯で最大でもほぼ0〜0.9%、日奈久断層帯で最大でもほぼ0%〜16%でした。仮に自分の地域がほぼ0%であっても決して油断してはならないことが分かります。次にどこで大きな地震が起こるかを予測することは、現在のところほぼ不可能です。いざという時のための備えを進めましょう。

 今回の地震の被災者へのマスメディアによるインタビューで「え?」と思ったことがありました。「家具が倒れてきて…」という話が多いです。家具転倒防止対策をしていない家も多かったのかもしれません。これは必須です。ホームセンターに行けば家具転倒防止用品がいろいろ売っています。倒れてくると危険な大きな家具にはこれを使うようにしましょう。L字型金具が最も効果が大きいとされますが、壁や家具にねじ止めするのが難しい場合もあります。L字金具に比べると効果が低いとされるストッパー式、マット式、ポール式も、複数組み合わせることで効果を高めることができます。総務省消防庁は「地震による家具の転倒を防ぐには」を公開していて参考になります(参照サイト)。

 今回、家屋の倒壊が相次ぎましたが、建物の耐震補強工事は金銭的な面でなかなか進まないという現実もあります。それでも、屋内に耐震シェルターを設置するという方法もあります。費用は20万円から可能だそうで、仮に住宅が倒壊してもこの中にいれば守られるとのことです。東京都の耐震ポータルサイトに詳しい説明があります(参照サイト)。

 支援物資を送らなければと考えている人も多いと思います。その前に認定NPO法人レスキューストックヤードのサイトを見てみていただきたいと思います。「支援物資等を提供する」にある「物資による支援をする前に」は参考になります。(参照サイト)。以下のようなことが書かれています。

1. ものが不足するのは、ものが無いからではない

 災害で直ちにものがなくなることはなく、交通やライフラインが断たれて一時的に品不足が起こるだけ。供給ルートが立ち直ればすぐに大量の物資が被災地に届く。逆に被災地内外のルートが寸断されている限り、個人で物資を送っても被災者には届かない。

2. 届いた時には必要とする物が変わっている

 TVや新聞で足りないものを知ってそれから物資を送っても、被災地に届くまでに数日かかる。その間に被災地で必要なものは変わってしまい、受け取り手がいなくなった物資は、被災地で不良在庫になる。

3. 個人の物資支援はむずかしい

 個人で送れる物資は、量も質もバラバラ。同じ箱に衣類や学用品や食料をまとめて詰め込んだものは特に面倒。開封して仕分けないと配布も出来ないが、災害時にそんな人手はない。被災自治体は職員が総動員で被害の確認や避難所の運営に当たっているが、こうした人たちに一層の負担を強いることになり、結果的には有効に配布できないまま終わってしまうことになる。

4. 保管も処分もお金がかかる

 物資には保管料もかかる。最後の最後まで余った物資は廃棄処分することになるが、阪神・淡路のある自治体では物資の処分に2,300万円かかったとのこと。被災者の税金を使って処分しているのだから、こうなるともはや二次災害。

5. 「まだ使える」ものと、「これなら使いたい」もの

 自分のタンスにあるもので「まだ着られる」と思う衣類と、フリーマーケットで「これなら着てみたい」と思う古着、品質にずいぶん差がある。「まだ使える」中古品を被災地に送って、そのぶん自分が新品を買うのなら、はじめから新品を買えるお金を被災地に送った方がいい。救援物資は在庫処分ではない。

6. 送るときに注意したいもの

 古着は避け、なるべく新品を送る。食料では、生鮮品は腐り、保存食なら自治体に備蓄があったり、企業から提供があったりする

7. ものは金に替える

 ものを被災地に役立てたいのなら、フリーマーケットなどに出品して、お金に替えてしまうのも手。売り上げた金額は少ないかもしれないが、宅急便一箱送るのにもけっこうお金がかかる。その送料分を上乗せして被災地に送れば、それなりの金額になる。

8. それでもものを送る場合

 被災地支援をしているNGO/NPOやボランティアグループが物資の募集をしていることがある。これまでの経験を踏まえて、あらかじめ品目を絞ったり、被災地の外で仕分けをして被災地に届けるしくみを考えたりしている。いきなり被災地に届けるよりは多少は有効に使ってもらえる可能性が高い。

 救援物資が「二次災害」にもなり得るというのですから、よくよく考えなくてはなりません。このように見てくると、支援はモノよりお金の方がよいということが分かります。では、そのお金をどのように被災地に届ければいいのかということになります。

 すぐに思いつくのは、日本赤十字社などへの義援金です。「義援金」は被災者に配分されるお金です。今回の地震の義援金の受け付けも始まりました(参照サイト)。もう一つ、「支援金」というものがあります。被災者への配分ではなく、被災地で活動している専門性の高い緊急支援団体への支援として使われるのが「支援金」です。寄付サイト「GiveOne」のスタッフブログに詳しい説明があります(参照サイト)。

 熊本地域の被災者の方々に向けてそれぞれできる支援を行っていくと共に、自分自身の周囲を見回してみて、今ここで地震が来たら、という想定をしてみて、対応が不十分と思われるような箇所については、速やかにそれを補う取り組みを進めていく必要があると思います。

(2016.4.18追記)
 木楽社が、出版している「災害支援手帖」を、熊本地震を受けてWeb上で限定公開しています(参照サイト)。これは本当に素晴らしい判断です。英断です。熊本地震で支援を行いたいと考える人たちにとって、参考になる内容が本当にたくさん盛り込まれています。「支援はモノではなくお金で」という見解を紹介しましたが、それでもどうしてもモノを送りたい!という人はぜひ、この書籍の第2章「モノで支援しよう!」は最低限読んでから、行動を起こしていただければと思います。

(2016.4.19追記)
 旭川医科大学病院緩和ケア診療部の阿部泰之先生が東日本大震災の折に書かれた「災害時の『こころのケア』」という文章があります。東日本大震災の時にも「心のケア」の必要性が叫ばれ、いろいろな個人、団体が被災地にやって来ましたが、中には有効どころか有害と思われるものもあったという話を聞いています。ひょっとしたら「釈迦に説法」かもしれませんが、熊本で「心のケア」に当たる方々にはぜひご一読いただきたいです。

(2016.4.21追記)
 昨年、仙台で国連防災世界会議が開催されましたが、そこで採択された今後15年間の防災に関する国際的なガイドラインが「仙台防災枠組2015-2030」です。防災・減災日本CSOネットワーク(JCC-DRR)は、国連加盟国向けのこの文書を市民向けに解説した冊子「市民のための仙台防災枠組2015-2030」を作成し、配布しています。冊子の中では仙台防災枠組に盛り込まれた項目について、市民の立場からどのような取り組みが必要かについてもまとめられていて、身の回りの防災について考える上で役立ちます。防災に関する具体的なアクションについては、東京都がまとめ、全戸に配布した「東京防災」が大いに参考になります。

 災害発生時に対応に当たる責任ある立場の自治体職員の方々には、「東日本大震災の実体験に基づく災害初動期指揮心得」をぜひ読んでおいてほしいです。東日本大震災の折に東北地方整備局が行った災害対応の経験知を他の地方整備局向けにまとめたいわば内部資料ですが、Kindle版を無償公開してくれています。実際の体験に基づく心得はとても説得力があります。また、あまりマスメディアでは取り上げられなかった方々の奮闘ぶりを知る上でもとても有益です。


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2016年03月25日

私的東北論その79〜雑穀王国・東北(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興」第44号では、東北で多く取れる「雑穀」について取り上げた。かつては米が取れない、あるいは食べられない地域の代替作物というイメージの強かった雑穀だが、昨今その栄養面でのメリットが見直されて、生産量が伸びている。しかも、その国産の分の大半が東北産である。「雑穀」という名称そのものがあまり好きではないのだが、その可能性についてはしっかりと考えてみたいものである。


雑穀王国・東北

雑穀とは
 昨年3月に発行された本紙34号で、東北の伝統野菜について取り上げた。東北は伝統野菜の宝庫で、その種類は少なくとも300を超えることなどを紹介した。今回は野菜ではなく、穀物について取り上げたい。穀物の中でも、いわゆる「雑穀」についてである。

 そもそも穀物とは、植物から得られる食材の一つで、でんぷん質を主体とする種子を食用とするもの、と定義されている。この穀物には大きく分けて、「主穀」、「雑穀」、「擬穀」、「菽穀(しゅこく)」の4つがある。「主穀」というのは、イネ科の作物のうちの米、麦、トウモロコシのことである。一方、「雑穀」はイネ科の作物の中で主穀よりも小さい実をつけるヒエ、アワ、キビなどの総称である。「擬穀」はイネ科の作物の種子と似ているソバ、アマランサス、キノアなどのことである。「菽穀」はマメ類のことである。

 つまり、「雑穀」は元々はヒエ、アワ、キビなどを指すわけであるが、昨今、この「雑穀」という言葉の中に含まれる穀物は増加の一途を辿っている。現在では「雑穀」とは、一般的には「主穀」である米、麦、トウモロコシ以外の穀物全般を指している。さらには、米の中の黒米、赤米、緑米、麦の中の大麦やハト麦も雑穀として数えられることが多いので、主穀の中のこれらまで含めた穀類の総称、と言える。雑穀の普及・啓発・研究などを行っている日本雑穀協会は、雑穀を「日本人が主食以外に利用している穀物の総称」と定義していて、玄米や発芽玄米まで雑穀に含めている。

人間と雑穀の関わり
会津・柳津虚空蔵尊門前の「香月堂」のあわまんじゅう 少し前までは、米、麦、トウモロコシが有り余るくらいある主穀全盛の中、雑穀と言えば、米や麦が取れないやせた土地や寒冷な土地の代替作物、さらには米や麦が食べられない貧しい人が食べる穀物というイメージが強く、食卓に上る機会はほとんどなかった。実際、この100年間で日本の雑穀作付面積は、実に1000分の1以下になったそうである。

 しかし、最近では雑穀が持つ豊富なビタミン、ミネラル、ポリフェノール、食物繊維などの栄養価などに注目が集まり、健康増進効果などが期待され、スーパーなどでも手軽に白米に混ぜて炊ける雑穀が出回るようになってきている。

 そもそも、日本人と雑穀の関わりは古い。縄文時代中期の遺跡からヒエや大麦の種が採取されており、紀元前3000年よりも前から栽培されてきたことが明らかになっている。世界的に見ても、雑穀は現在に至るまで受け継がれてきており、雑穀の方が主食となっている地域もある。土壌や気候条件などが不良な土地でもよく生育するため、収量は少ないものの安定した収穫が得られ、長期間の保存に耐える作物であるため、不作の年の救荒作物としての役割があるなど、人類にとっては雑穀によって今に至るまで命を繋いできた面があるのである。

 それだけでなく雑穀は、それぞれの地域で様々な形で利用されており、地域文化とも密接に関係しているという面も見逃せない。福島県の会津地域にある日本三大虚空蔵尊の一つ、福満虚空蔵尊の門前町の名物は「粟(あわ)まんじゅう」である。現在7店が門前に軒を連ね、その味を競っている。その昔、福満虚空蔵尊のある地域に大火災が起こった折、当時の和尚が二度と災いに遭わないようにとの願いを込めてアワを使った饅頭をつくって信者に御護符として配ったのが始まりで、それ以来名物となったと言われている。アワの鮮やかな黄色と独特の食感が特徴であるが、これもまたアワが身近な存在としてあったからこそのエピソードであろう。

雑穀王国・東北
 この雑穀、最近とみに注目が集まり、流通量も増えているのだが、実はその9割くらいを輸入に頼っている。しかし、残りの1割のうちの大半は東北産である。最初にも書いた通り、もともと「雑穀」にどの作物を含めるか含めないかで話が違ってくるのだが、農林水産省の統計では雑穀の中にトウモロコシも入っていたりして、なかなか「雑穀」の現状がどうなっているのか掴みにくい。

 やや古い資料だが、東北農政局が2008年にまとめた「東北における食と農の現状」によれば、アワ、キビ、ヒエ、アマランサスの雑穀4品目の2005年の全国の作付面積587haのうち、東北の作付面積は352haで全体の約60%を占める。その中でも岩手県の作付面積は304haで、東北でも頭抜けている。また、収穫量でも、全国の収穫量756tのうち、東北の収穫量は641tと、全体の実に約85%を占める。中でも岩手県の収穫量はそのうちの578tと、東北の中でも圧倒的なシェアを誇っている。

 ちなみに、雑穀にソバを含めると、状況はがらりと変わる。日本特産農作物種苗協会が各都道府県に協力を依頼して取りまとめた雑穀類の生産状況によると、2013年の雑穀の収穫量は全国で34,684tあるが、そのうちの約96%、33,400tはソバである。ソバのうち半数近い15,100tは北海道産で、東北六県も6,008tと、地域別では北海道に次ぐ収穫量ではあるものの、ソバを含めると雑穀全体の収穫量に占める東北六県のシェアは約19%とかなり下がる。また、ハト麦についても全国の収穫量858tのうち東北六県の収穫量は266tで約31%である。

 このように、広い意味で雑穀に含められる穀物のうち、いくつかを見ると必ずしも東北六県が圧倒的とは言えないのだが、先に紹介した本来の意味での「雑穀」や、「擬穀」のうちソバを除いたアマランサスといった、いわば「小さい実」系の雑穀で、東北のシェアが抜きん出ていることが分かる。

岩手県に見る雑穀の生産と活用
 これまで見てきたように、東北の中でも岩手県が占めるシェアは圧倒的である。その岩手県内で見ると、県中央部の花巻地方がその収穫量の過半数を占め、県北部の二戸地方がそれに次ぐ収穫量となっている。

 岩手県ではこのような国内屈指の雑穀生産地ということを大いに自覚して、地域の重要な産業としてその振興に一丸となって取り組んでいる。具体的には、効果的な土作りや減農薬栽培の方法の普及を進めると共に、栽培から精白、加工までを一括して県内で行っている。また、在来種の保存に取り組む一方、新品種の開発も積極的に行っている。

 このうち、雑穀栽培が最も盛んな花巻市では、2003年に「花巻地方水田農業ビジョン」を策定、その中で健康志向による雑穀需要の高まりや麦、大豆の連作障害への対応を図るため、新たな推進品目として雑穀を選定した。それまでもヒエは生産してきたそうだが、それにアワ、イナキビ、ハト麦などを加えて、農家と行政など関係機関が一体となって「雑穀の総合産地化」を目指した取り組みを続けてきた。

 こうした取り組みがまさに実を結び、2003年以降、花巻市内における雑穀の作付けは急速に拡大し、国内最大規模の生産地となったのである。大区画圃場を活用した雑穀の機械化栽培や雑穀専用乾燥調製施設の存在に加えて、安定的な販路が確保されていることも強みとなっているという。

 花巻市ではもともと、米の品種改良や栽培技術の向上などがなされるまでは、伝統的にヒエやアワを栽培していた。再び雑穀が注目されたきっかけは、「平成5年冷害」、「平成の米騒動」などと呼ばれる1993年の記録的な大冷害だったという。この時の冷害を契機に中山間地域で本格的に雑穀栽培が始まり、今や他地域の追随を許さない一大産地にまでなったのである。

 花巻市内においては、雑穀という地元産の食材を大切に活かそうという動きも盛んで、雑穀の食べ方を提案する市民サークルが複数結成され、また、雑穀を使った料理を提供したり加工品を販売したりする店も増えている。行政も「雑穀料理コンクール」や「雑穀ランチコンテスト」、「雑穀スイーツコンテスト」を開催するなど、市民への雑穀の浸透とより一層の活用を促す取り組みに余念がない。こうした官民一体の取り組みが雑穀の産地としての地位の確立に功を奏したと言える。

東北における雑穀活用の可能性
 先ほど見たように、東北は全体の60%の作付面積で、全体の85%の量の雑穀を収穫している。ということは、東北は他地域よりも単位面積当たりの雑穀の収穫量が多いということになる。これは、東北の気候が雑穀栽培に適しているということを窺わせる。雑穀が見直されてきている中、東北はその流れに乗って、雑穀の国内における一大産地として、積極的にブランド化を図っていく必要があるのではないだろうか。

 ただ、一つどうしても気になることがある。かつて昭和天皇は「雑草という草はない。どの草にも名前はある」とおっしゃった、というエピソードを子供の頃に聞いたことがある。この話、今でも印象に残っているのだが、こと「雑穀」に関しても、多様な形、色、香り、味を持った穀物をいろいろ引っくるめて「雑」の字を冠して一まとまりに括るのは、それらの穀物に対して申し訳ない気がする。願わくば、何か別の新しい言葉にならないだろうか。例えば、いろどり豊かな面を引いて「彩穀」、雑多な穀物ではなく東北の財になる穀物だということで「財穀」など、考えてみたいと思うのである。


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2016年03月12日

私的東北論その78〜5回目の「3・11」

昨日は、この日が「3・11」と呼ばれるようになって5回目の日だった。

160311-083429震災に関して言えば、別にこの日だけが特別な日というわけじゃなく、一年365日毎日が復興に向けた大切な一日一日だと思っているのだが、それでもやはり、5年が経っても、この日だけはいつもと比べてほんの少し、心の中がざわざわとさざ波を立てているのを感じるのである。

通勤途中のとあるタクシー会社は弔旗を掲げていた。





160311-085518職場から見える仙台の街中の風景は既に震災前と変わりなく、復興特需を一身に集めて一人勝ち状態と見られることもしばしばであるが、ひとたび仙台市のその沿岸に足を運んでみると、目の前の風景と彼方に見える市街地の風景とのあまりのギャップに愕然とする。
写真にははっきり写っていないが、津波で根こそぎ倒された沿岸の防風林は、懸命に植樹作業がされているものの、いまだ櫛の歯が欠けたような状態である。



160311-091004地元紙「河北新報」の一面は見開きに広げるようになっていて、見出しには「あすへ歩む あの日胸に」とあった。








160311-140406今年も午後は休みを取って、その沿岸に足を運んだ。
途中、若林区役所にある献花台には、多くの花が供えられていた。
この花の数だけ、ここに足を運んで祈りを捧げた人がいるのだと思うと、改めてこの震災がもたらした悲しみの多さに思いが至る。






160311-143329沿岸の荒浜では、地区唯一の寺院、浄土寺で今年も追悼法要が営まれていて、たくさんの人が手を合わせていた。
震災直後、「海岸に200人〜300人の遺体」との衝撃的な報道がされたここ荒浜。
その報道は実は誤報であったが、随分後まで真実と思われていた。
実際には、ここで亡くなった方は173名、遺体が見つかったのも震災直後ではなくその後の捜索の結果であったし、見つかった場所も海岸などではなくほとんどがより内陸の南長沼周辺であった。


160311-144412ここの防潮堤工事は昨年末に終わり、自由に海岸に足を運べるようになった。
この日の海は、時折波しぶきが消波ブロックに打ちつけていたものの、概ね穏やかで5年前に10mの津波が押し寄せたことなど想像もできない。






160311-145201その防潮堤、従来のものにさらに上乗せされたことが見て取れる。









160311-145432海岸に近い一画には、震災前後の荒浜の写真が数多く掲示されていた。
震災前の人々の生活の営みが窺える写真と、震災後の同じ地区とは思えない荒涼とした景色の写真。
この地区の人々の暮らしを一瞬にして奪った大津波の脅威を今さらながらに感じた。





160311-152134震災直後、助かった人が避難した荒浜小学校では、今年もHOPE FOR projectが、土に還るエコバルーンに花の種を入れてリリースした。
飛んで行った花の種がどこかで花を咲かせることを想像すること、それもまさにHOPEである。






160311-232814夜は、お気に入りのビールを飲んだ。
肴は、子どもの頃、弟と一緒によく食べたやきとりの缶詰である。
この日だけは奮発して大きなサイズのものである。



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2016年02月15日

私的東北論その77〜「資源」としての雪の活用(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 昨年12月16日に発行された「東北復興」第43号では、「雪国東北」について書いてみた。仙台に住んでいると、積雪で難儀するという経験がほとんどない。今回この記事を書くに当たって、仙台の累積降雪量の平年値が76cmであることを知って、逆にそんなに降っていたのかと驚いたくらいである。

 しかし一方、他地域、特に関東以西の人からは、仙台も含めて東北は全部雪国というイメージを持たれていることが多い。そこで、実際のところ、東北の雪国ぶりというのはどのくらいのものなのか、そしてまたこの雪を活用できる可能性はないのか、といったことについて取り上げてみた。以下がその全文である。


「資源」としての雪の活用

東北は丸ごと「雪国」?
 他地域の人が「東北」と聞いて抱くイメージは「雪国」というものであろう。仙台に住んでいると雪国という意識は全くないし、雪が特にたくさん降るのは日本海側、それも奥羽山脈沿いということは自明のこととして分かるのだが、他地域、特に関東以西の人にとっては東北全部が雪国と思われていることも少なくない。「仙台って冬は雪がたくさん降って2階から出入りするのでしょう」と言われた時にはさすがにビックリしたが、そこまででなくても東北は程度の大小はあっても全土で雪が多いというイメージを持っている他地域の人はかなり多いのではないかと思われる。

データで見る東北の雪の実際
 それでは実際のところ、東北の「雪国」ぶりはどうなのだろうか。気象庁のデータを基に、東北の雪の状況について見てみる。東北地方の77の観測地点の累積降雪量の平年値を見ると、県庁所在地では青森市667cm、盛岡市272cm、仙台市76cm、秋田市365cm、山形市416cm、福島市180cmとなっている。ちなみに青森市の667cmは札幌市の587cmを上回り全国の都道府県庁所在地の中では最も降雪量が大きい。

 県庁所在地以外で多い方では、青森市酸ヶ湯が1,728cmで全国一、次いで山形県大蔵村肘折の1,617cmが全国第2位、山形県西川町大井沢の1,399cmが同じく第3位で、以下、福島県只見町の1,303cm、福島県桧枝岐村の1,213cm、岩手県西和賀町湯田の1,073cm、福島県南会津町南郷の1,056cmなどと続く。酸ヶ湯では実に17m以上もの雪が積もるのである。もちろん、これは累積の積雪量なので、一気にどかっとこれだけ降るという数字ではないが、確かに全国ベスト3が揃い踏みする辺りはまさに「雪国」の面目躍如ではある。

 一方、少ない方を見てみると、仙台の76cmより少ないのは宮城県石巻市の49cmで、仙台に次いで岩手県大船渡市の78cm、宮城県白石市の106cm、岩手県宮古市の147cm、福島県白河市の149cm、岩手県久慈市の168cm、宮城県大崎市古川の180cmなどとなっている。

 このように見ると、当然ながら同じ東北でも雪の量は地域ごとにかなりばらつきがあることが分かる。最も多い青森市酸ヶ湯の累積降雪量は最も少ない宮城県石巻市の実に35倍超である。

やっぱり仙台も「雪国」?
 仙台から見ると、同じ東北でも数百cmレベルの累積降雪量の地点はやはり雪が多いと捉えてしまうが、実際には十把一絡げにはできないようである。例えば、秋田市の人は「ここは雪はそれほど多くないが、横手の方に行くと本当に雪が多い」と言う。横手市は秋田の内陸南部、冬の「かまくら」で有名な都市である。データを見てみると、秋田市の365cmも仙台から見るとかなり多いように見えるが、これに対して秋田県横手市は814cmと、その秋田市の倍以上の累積積雪量である。なるほど、それだけ違えば恐らく、体感的にも秋田市と横手市とでは雪の降り方はかなり違って感じられるのに違いない。

 それと同様のことが仙台についても言えるのかもしれない。雪がほとんど降らない地域の人から見れば、一冬にトータルで76cmしか降らないと言っても、雪が降るそのこと自体でもう「雪国」という印象を持つということなのだろう。

雪を資源として捉えると
 雪というとマイナスのイメージを持って捉えられることが多いが、最近ではこの有り余る雪を「資源」として捉えて活用する動きも活発になってきている。

 資源としての雪に着目すると、元々雪は降雪地にとっては大いなる恵みをもたらす水資源であった。雪解け水を生活用水や農業用水、工業用水として潤沢に活用できるのは冬の積雪が多い故のことである。

 文字通りの「資源」としての使い道の代表例は「雪氷熱利用」である。これは冬期間に降った雪や冷たい外気を使って凍らせた氷を保管し、冷熱が必要となる夏場に利用するというものである。これはまさに降雪地だけが持つ資源で、豪雪地帯ほど資源が豊富にあることになる。

 雪氷熱利用は再生可能エネルギーの一つにも数えられている。導入の先進地は北海道だが、観測地点の累積降雪量ベスト3を抱える「雪国」東北こそ、もっともっと導入を進めるべきではないだろうか。

 資源エネルギー庁では、その特長として.妊瓮螢奪箸鬟瓮螢奪箸悄↓⇔簑△妨いた冷熱、C楼茲離轡鵐椒襪箸靴董△裡嚇世魑鵑欧討い襦,聾世Δ泙任發覆い海箸世、これまで降雪地域では除雪、排雪、融雪などで膨大な費用がかかっていたが、この「厄介者」である雪を逆に積極的に利用することでメリットに変えるということである。△砲弔い討蓮∪禀糠利用の冷気は通常の冷蔵施設と異なって適度な水分を含んだ冷気であるため、食物の冷蔵に適しているとされている。は風力発電の風車と同様に雪氷熱の施設も地域のシンボルとなる可能性があるとのことである。

雪氷熱の多様な利用方法
 実際の利用形態としては、「雪室・氷室」(倉庫に雪を貯め、その冷熱で野菜などを貯蔵)、「雪冷房・冷蔵システム」(倉庫に雪や氷を貯め、その冷熱を循環させて冷房などに利用)、「アイスシェルター」(氷を冷熱源とし、冷房や冷蔵に利用)、「人工凍土システム」(貯蔵庫の周辺を人工的に凍土状態にし、その冷熱を利用)などがあるが、とりわけ注目を引くのは冷房への利用である。北海道には夏場の冷房をすべて雪でまかなう世界初の雪冷房マンションがあり、また雪冷房施設もある。新千歳空港では世界最大規模の雪冷房が稼動している。電力需要がピークとなるのはまさにこの夏場である。降雪地が雪を積極的に冷房に活用することで、夏場の電力需要を抑え、二酸化炭素排出の削減につなげることができる。

 雪室・氷室の利用の可能性にも注目すべきである。科学的な検証はまだ十分ではないが、雪室・氷室での酒類や食品の保管は、単に通常の冷蔵庫と同様に低温で保存されているというだけでなく、その味についても変化が生じているという報告が関連学会などでなされている。今後そのメカニズムが解明されていけば、「雪室貯蔵による低温熟成」は他地域との差別化を図り、高付加価値化を実現する有効な手段となるわけである。

 「雪下野菜」の取り組みも既にある。これは、野菜を畑に植えたまま雪の下に寝かせて、収穫時に雪をかきわけ、土から掘り出すという手順を踏んだ野菜のことで、雪をそのまま使っているわけである。野菜が雪の中で冷たさから命を守ろうとして糖度が高くなり、旨みが増すという。

地域活性化資源としての雪
 雪を地域活性化の資源としても見ることができる。もともとスキーやクロスカントリースキーのような冬季スポーツは雪なしでは成り立たない。そうしたスポーツに加えて、観光資源としての雪にも注目したい。日本を訪れる外国人観光客数は震災以降大きく増加しており、2020年の目標だった2,000万人達成が今年にも達成されそうな勢いである。しかし、その中で東北を訪れる外国人はまだまだ少ない。東南アジアなど雪が降らない国へ、雪を観光資源としたプロモーションを行うことによって東北への外国人観光客数はもっと増える余地があるのではないだろうか。外国だけでなく、国内の雪がない地域向けにも同様である。

 青森県の旧金木町(現五所川原市)で毎年開催している「雪国地吹雪体験」は四半世紀の実績を誇る。「厄介者」の雪を観光資源として活用したはしりとも言えるが、雪を地域に人を呼ぶ観光資源として活用する工夫はまだまだできそうである。

 北海道の美唄市ではホワイトデータセンターの実証実験が進められている。これは雪冷熱エネルギーでコンピューターサーバーの冷却費用を削減するという取り組みで、工業団地内に3000トンもの雪を貯蔵できる雪置き場を整備して、それを利用した冷風をデータセンターに供給していくというものである。これが本格稼働して国内外からデータセンターを誘致できれば、それもまた地域活性化につながりそうである。

日本は世界屈指の豪雪国
 こうして見てくると、雪は必ずしもマイナスのものではなく、地域にプラスを与える貴重な存在であることが分かる。実は、日本は世界屈指の豪雪国とのことである。世界的に見ると五大湖の沿岸やカナダとアメリカの国境付近の山岳部、スカンジナビア半島の西側なども豪雪地帯だが、豪雪地帯にこれだけ多くの人口を抱える国は世界的に見ても日本だけなのだそうである。

 日本では豪雪地帯対策特別措置法に基づいて「豪雪地帯」と「特別豪雪地帯」を指定しているが、それらを合わせた面積は日本全体のおよそ50%、実に19万平方キロメートルにも及ぶ。そこにだいたい2,000万人くらいで、総人口の15%くらいが住んでいるのである。世界から見ると、日本全体が「雪国」と思われるかもしれない。

 その世界屈指の豪雪は、いわば日本を特徴づける要素と捉えることもできる。とりわけ多くの豪雪地域を抱える東北は、その特徴を色濃く有していることになる。折しも今年も本格的な冬のシーズンに入ったが、降る雪を眺めながら、その活用方法について考えを巡らすというのは、これからの東北の在り方を考える上でもとても有意義なことなのではないだろうか。


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2015年12月31日

私的東北論その76〜東日本大震災被災地からの伝言(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に刊行された「東北復興」第42号では、これまで震災に関連して「記憶の記録プロジェクト『田』」として活動してきた中で聴いた言葉を紹介した。東日本大震災を経て、どのようなことを伝えたいと現地の人たちが考えているか、その一端をぜひ知っていただきたいと思う。


東日本大震災被災地からの伝言

被災地から伝えたいメッセージ

 本紙第39号でも書いたが、私は「夜考虫。」という集まりで、震災関連のプロジェクト「記憶の記録プロジェクト『田』」を担当している。このプロジェクトでは、震災以降、とりわけ介護・福祉領域の方々の震災発生から今に至る行動やそこにある思いなどについて話していただく機会を作っている。
 そうした中で私が意識してお聴きしているのは「他の地域の人、この地域のこれからの人に一番伝えたいこと」が何かということである。この日本に住んでいる限り、いつでもどこででも地震を始めとする自然災害に遭遇する可能性はある。未曽有の大災害を踏まえて伝えたいことはどのようなことか、今回はこれまでの活動の中で得られたメッセージのうちのいくつかを紹介していきたいと思う。

津波について

・地震が来たら津波!
・津波の時いち早く高い所へ避難する。
・地震後6時間は自宅に戻るな!「津波てんでんこ」。
・津波の情報が入ったら少しでも早く内陸部に逃げる!
・大地震が来たらすぐに陸続きの高い場所に逃げて下さい。とにかく生き残る努力を。
・逃げる時は大きな声で叫んで逃げる。みんなに危険を知らせる。
・とにかく逃げろ!!!戻るな!!危険×

普段からの心構え

・まずは「個」で耐える力が必要。
・災害では周りは助けてくれない。まず自分で守るしかない。
・結婚したら海のそばに寄らないで(家を建てないで)。
・80超えた人は逃げられない。初任給をもらったらぜひ祖父母に車椅子をプレゼントして。
・住んでる所、職場で、高い所を確認、集合場所を決めておく。
・車は常に使えるようにしておく。車の燃料は半分になったら給油する。
・皆、自分の所には来ない、大丈夫と思っている。海・山の災害を忘れずに準備してほしい。
・自分の住んでいる「地域」を知る。日常生活の中での「防災」「減災」「備蓄」を話し合いで、「普段」の生活で考える。
・起きないだろうと思っていたことも起こる可能性がある。自分の住んでいるところから遠いほど、身近に感じられないもの。
・自分で生きる力を常日頃から意識していかないと。震災で動揺する人も、肝の据わった人もいた。生きる力、生きる知恵を。(震災を)知らない人には正しい情報を集めて残しておくことが必要。3日は我慢。
・日頃から訓練し、常に頭の中に置いておくべき。災害は時と所を選ばない。

震災を通じて感じたこと

・昨日までしゃべってた人でも死ぬんだなと思った。
・震災を機につながりが増えた。
・できることを一個一個やった結果として今がある。いい経験をしたと思う。
・本当に困っている人は支援がほしいと言えない。支援ニーズの把握をいかに行うかが重要。
・震災はつらい出来事だけど、それを乗り越えたからこそすばらしい出会いがあり、人と人との絆が深まったと思う。
・情報は信じる。そして共有する。「危ない」は「危ない」として対応する。何もなければそれでいい。後手に回ったら取り返しがつかない。
・行政はあてにはならない。利用者の家族、お付き合いのあった人、見ず知らずの人に助けられた。そうした関係を普段どれだけつくっておくか。
・津波から生き延びたその後が実は大変。助かった入所者に多大なストレスがあった。震災後に亡くなった人は、本来はもっと長く生きられたのではないか。
・震災で便利な生活が消えた。でも人と人のつながりが出来た。助け合わないと生活が築けない状態になった。亡くなった人も多いけど、実のある生活を知ることが出来た。
・「災害は起きる」を前提に、福祉に携わる人が協力して対応する仕組みづくりが必要。バラバラでは力を発揮できない。専門家が連携して対応する支援チームを複数つくらないと。
・災害は単独では来ない。人災もあるということをしっかり頭に入れて対応を。情報が来ない、ガセ情報が来るのも人災。天災はしょうがないが、大きな災害に並行していろいろな不備が災いを大きくする。
・震災体験は、一時期「武勇伝」化して語られた。4年経った今は忘れられ始めている。
・津波は憎い。でも、津波が取り持った縁もある。

震災を踏まえた地域づくり

・その地域に住む先人の経験を取り込んだ地域作り!!
・元々つながりが密な地域だったことが震災時の情報収集や発信にも活きた。
・今だからこそあのときのことを安心してはき出せる場が必要。そこからじゃないと未来は造れない。
・自分が、自分の身の回りの人や自分の先祖が体験したことを本当に活かせる情報の共有、コミュニティーの形成が大切。
・助けが来るまでの助けはご近所。隣に誰が住んでるかから始めて嫌がらずにご近所付き合いを。つながりは自分のため、人のため。
・日頃から地域のつながりを密にしておきたい。こういう人がいるというアピールをしておけばいざという時声掛けくらいはしてくれるかもしれない。
・いざとなると生きるために自分のことしか考えられなくなる人もいる。決していいことだけがあったわけではない。だからこそ、コミュニティーが大事。
・経済的問題で仮設から出られない人もいるのではないか。互いにできることを担って報酬が得られて共同で生活できるようなシステムが必要だと考えている。
・感謝の気持ちをもち、ありがとう一杯聞こえる豊かなまちになるように。

他の地域へのメッセージ

・あたり前のことは、あたり前じゃないよ!!
・他地域の人に伝えたいことは、人間にはかなわないものがある、ということ。
・命を大事に!いつ何があるかわからないから。
・どんなときでも協力は強力!!助け合って!!
・地域コミュニティーを大事にしよう。友人を作りましょう。
・地域のつながり、支え合いを。他の地域でも専門職が仕掛け作りを。
・今、この瞬間、自分にできる精一杯のことをして生きていますか?
・後悔しないようにポジティブに生きて。どうせ後悔するならやってから。
・自分の体調と生活環境を万全にしなければケアに向けるための力は起きない。
・常時はムリでも今の時間や家族との当たり前を当たり前と思わないで考えてみて!
・「世のため人のため」が結局は自分のためになる。人を粗末にすれば自分も粗末にされる。
・災害後、その当時のことを話せる人は話していってください。そして、聴いてください!!
・百聞は一見にしかず!!この街の「今」そして「これから」を何度でも見に来い!美味いもの食ってけらいん!
・まずは自分の命を守ること。家族の命も優先してもいい。やりたいことをしてほしい。…って自分にも言い聞かせてる。
・人は日進月歩、成長しなければならない。停滞したり、2、3歩下がったように見えたりしても、それは前進のための準備。
・東北にはいろいろな人がいる。他の地域の人は東北に学んでほしい。毎日楽しく生きて。苦しいことも悲しいことも含めて充実した1日を。
・現代の文明はありがたいが、いざという時はとても不便(使えないよ)。一人ひとりやる事はある。自信をもって生きて。隣の人を大切に。
・人は孤独ということを日頃から自覚して生きること。何か起きた時にどう動いたらいいか判断に迷ったら、自分の使命と、人とつながっていることを頼りに動いていく。
・他地域の人に伝えたいことは、管理者として、家族を持っている身として、ある程度の覚悟が必要だということ。家族の安否をあれこれ考え出すと自分を保てなくなるので考えないようにした。利用者とスタッフを守ることが最優先だったので、生きていると言い聞かせた。最悪の場合のシミュレーションをしつつ、そうならないための準備が必要。
・たくさんのご支援ありがとうございました。

これからを生きる決意

・今を生ききる。
・心の復興を、皆で行いたい。
・毎日を楽しく生きよう。
・人と関わることで楽しく生きる。皆で生きる楽しさを伸ばせる地域をつくる。
・組織の長として覚悟を決めて役割を果たす。死んでも死ぬ以上のことはない。
・震災はきついけれど、試練を与えられたと思って、前向きにプラスに考えたい。
・過去を振り返らず、前を向いて行きましょう。夢も希望もないけど、もう少し生きてみようかな。
・ただただ生きているのでは面白くない。生きてきた経験が関わる人の生き方にプラスになれば。
・人の親切、ありがたさに救われた。自分たちも何かあったら助けたい。人と人とのつながりは大切にしたい。
・自分の街をどうしたいのかな?震災時の様子・心構えなど、くらしやすい、住みやすい町にしたいな!次世代につなぐ為にも。
・いつ死ぬか分からない。いつでも後悔しない、やりたい事をやっていこー!!普通の事あたりまえかもしんないけどとても幸せなんだぜ!!丁寧に大事に物事やっていこー!!
・身体障がいの人への支援の手は少ない。居場所もない。ないなら自分達で創る。やりたいことをやって地域に貢献したい。生かされたからには自分のため人のために何かやりたい。
・身近に起きるとは見ていなかった。自分の身は自分で守る。自分で守れない人を抱えている。どんな判断をするのがいいのか悩ましい。自分の身を守れない人を守らざるを得ない立場。自分の身を守り、家族も守り、利用者も守る。
・震災で人の心の温かさを感じた。どんな人にも役割があって生かされている。無駄な体験は一つもない。感謝して命を大切に生きたい。
・僕らの震災は続いている。それを分かっていただきたい。立ち直るために必要なことがある。震災の人たちのために働きたいという心ある人たちはいる。心ない人を恨むより、心ある人たちと一緒に復興に取り組みたい。
・他の地域が同じ目に遭ったら今度は僕らが助けたい。

 これらについて私から付け加えることは何もない。これら、震災をくぐり抜けてここまで来た一人ひとりのメッセージから何か得るものがあれば、これに勝る幸いはない。


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2015年12月30日

私的東北論その75〜今、平泉研究が面白い!(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」第40号が10月16日に刊行された。この回では、平泉に関する現在の研究成果の一端を紹介した。近年の発掘調査の成果により、奥州藤原氏の東北並びにその周辺における動向が明らかにされてきていて、かつその内容がとても興味深い。今後さらにどのようなことが明らかになるのか興味津々である。

 なお、こうした平泉研究の成果については、毎年1回開催される「平泉文化フォーラム」でも公表されている。次回の平泉文化フォーラムは、2016年1月30日(土)、31日(日)、一関文化センターで開催される(参照サイト)。


今、平泉研究が面白い!

推理小説を読むような面白さ
 最近、平泉について書かれた新著を読むのが楽しい。あたかも、推理小説を読むがごとく、それまで知られていなかった謎が次々と明らかになるような、知的好奇心を満たす内容がてんこ盛りである。いったいどうしてここへ来てそのようなことになったのだろうか。

 その大きな要因は、発掘調査の進展である。そのお陰で、従来の「奥州藤原氏は実質的には奥六郡と仙北三郡を支配していた一地方豪族に過ぎない」というような、奥州藤原氏を過小評価するような論説が覆された。そして、奥州藤原氏が現代の我々が想像する以上に当時のグローバルスタンダードを踏まえていて、平泉の文化も、京の文化を模倣することで成り立っていたようなものではなく、極めて独自性を備えた文化だったことが明らかになってきたのである。

 特に、入間田宣夫「藤原清衡〜平泉に浄土を創った男の世界戦略」(集英社、2014年9月)と斉藤利男「平泉〜北方王国の夢」(講談社選書メチエ、2014年12月)は、近年の発掘調査に基づく最新の知見を余すところなく披瀝しており、文字通り目から鱗の内容も数多い。前者では、奥州藤原氏初代清衡に焦点を当て、清衡は閩国王・王審知の仏教立国事業を知り、そうした当時の東アジアの仏教のグローバルスタンダードに則って国づくりを進めていたとしている。一方後者では、奥州藤原氏の在りようは、過去に存在した渤海王国に比すべきものとして、朝廷の支配下にあった一地方政権という枠を超え、北方世界に広く影響力を及ぼした政権との見方を示している。

京都とは異なる平泉の神仏
 平泉の仏教文化は、京都のものを取り入れたものというのがこれまでの見方であった。もちろん、大きな影響を受けたことに間違いはないが、平泉の仏教文化は京の都を飛び越えて、さらに当時の東アジアのグローバルスタンダードに準拠していたことも明らかになってきた。

 当時の京の都の御願寺(天皇・上皇・皇后などの発願によって建てられた寺院)は、宇宙の中心仏とされた毘盧遮那如来(大日如来)を本尊とし、それに五大明王を祀るという真言密教色の強いものであった。これに対して同じ御願寺である中尊寺の鎮護国家大伽藍一区や毛越寺では、顕教寺院の特徴の方が強く現れ、釈迦如来や多宝如来、阿弥陀如来が本尊で、大日如来の使者である五大明王も一切導入されなかった。五大明王の下で行われる五壇護摩法は夷族や怨霊の調伏を目的に行われており、当の夷族の長を自任していた奥州藤原氏にとっては排除すべきものだったのである。と同時に、これは京の仏教文化に対する独自性の追求でもあった。

 独自性の追求は、仏教だけでなく、神社においても見られる。平泉には天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取も一切勧請されなかった。それに対して勧請されたのは仏教に関わりの深い日吉、白山、金峯、熊野、王子など洛外の諸社、洛中では上下貴賤の分け隔てなく信仰された諸社に限られたのである。

 このように平泉では、平安京とは異なる論理で勧請される神が選ばれたことが分かる。とりわけ重大なのは、藤原氏の祭神である春日も勧請されなかったことである。奥州藤原氏が、藤原氏の血を引き、藤原を名乗りながらも、京の藤原氏とは一線を画する意識でいたことが窺えるわけである。そこには、中央の論理を一貫して排除する姿勢が感じられる。 東北各地で見つかる奥州藤原氏の出先機関  平泉の柳之御所遺跡で多数出土することから「平泉セット」と名付けられた、平泉型てづくねかわらけや白磁四耳壺が出土する遺跡が、特に平泉以北の東北の各地で見つかっている。平泉型てづくねかわらけは宴会用の土器、白磁四耳壺は輸入陶磁器である。これらが出土する遺跡は、奥州藤原氏かそれに連なる勢力の居館だった可能性が高いのである。

 その代表的なものとしては、青森県内の蓬田大館遺跡、内真部(4)遺跡、新田(1)遺跡、浪岡城跡内館遺跡、中崎館遺跡、秋田県の矢立廃寺、観音寺廃寺、岩手県の比爪館跡、田鎖車堂前遺跡、川原遺跡、宮城県内の花山寺跡、多賀城跡、大古町遺跡、福島県内の白水阿弥陀堂境域などがある。

 これによって、奥州藤原氏は東北全域を支配下に置いていたのではなく実際には奥六郡と仙北三郡を押さえていたに過ぎないというような指摘は、明確な根拠を以て否定されるわけである。

関係者を驚かせた北海道の出先機関
 関係者にとって衝撃的な発見が、この中の新田(1)遺跡、そして北海道の厚真町の宇隆1遺跡であった。新田遺跡は、港湾機能を伴った集落遺跡で、平泉政権の外港的位置づけの出先機関があったと見られている。さらに、宇隆1遺跡では、北海道で唯一奥州藤原氏時代の尾張常滑窯の壺が出土した。この壺は、平泉との結びつきを示しているのみならず、その形状と出土場所の特徴から、奥州藤原氏が各地に築いた経塚の外容器であったと見られ、平泉からこの地域に派遣された者が造営したと考えられているのである。

 遺跡のある場所はまさに道央の入り口である。それまで、本州から渡った人々がこの地に居を構えるようになったのは室町時代と見られていたが、宇隆1遺跡の出土物は、実は既に平泉の出先機能を持つ拠点がこの地にあったことを物語っているのである。

 これによって、奥州藤原氏の影響力の及ぶ範囲は、陸奥出羽両国にとどまらず、道南を越え、道央の入り口にまで達していたことが明確になったわけである。中尊寺供養願文で清衡は、自らを「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)として、「出羽・陸奥の土俗」を従え、さらに「粛慎・挹婁の海蛮」をも従えていると書いている。従来は、その表現を大仰に過ぎると見る見方がほとんどだったが、実際に海を越えて、奥州藤原氏の影響が及んでいる地域があることが明らかになったわけで、供養願文にあるこのくだりはそれ相応に根拠があることだったわけである。

「大平泉」の都市機能
 平泉自身も世界遺産に登録された中尊寺や毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山のある区域のみにとどまるものではないことが明らかになってきた。奥州藤原氏の前の安倍氏の拠点だった衣川地区からも「平泉セット」が平泉に引けを取らないくらい大量に発掘され、奥州藤原氏時代にもこの地区が「副都心」として機能していたこと、さらに白鳥舘、本町、祇園といった地にも都市集落が形成され、これらを含めて「大平泉」とも言うべき様相を呈していたことが分かってきたのである。

 このうち衣川は、水陸両方の交通の要衝で、水上交通、陸上交通を通じてもたらされた物資が集まって賑わっていたところだったという。白鳥舘には川湊があり、水上から物資が運び込まれた地であると共に、かわらけや鉄製品、銅製品、石製品、水晶細工などを生産していたと見られる工房跡が見つかり、一大手工業生産地であったことが明らかになった。本格的な発掘調査はこれからだが、本町や祇園にも川湊があり、やはり白鳥舘同様の都市機能があったと見られている。当時京の都に次ぐ人口10万人を擁する都市であった平泉の都市機能について、だいぶその詳細が分かってきたのである。

周知の事実に対する洞察
 最新の発掘調査に基づく研究成果だけでなく、周知の事実に関するなるほどと思わせられる深い洞察もあった。例えば、「千僧供養」。僧侶千人を集めて読経させるという一大イベントだが、これを清衡は延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺といった日本の大寺で行っただけでなく、中国の天台山国青寺でも行ったと伝えられている。当時、千僧供養というのは、天皇や上皇、摂政や関白が主催するものだったとのことで、それを一介の地方豪族である清衡が行えたことのすごさ、しかも日本だけでなく中国でも行えたことのすごさに思い至った。中国で行ったことについては、日本に藤原清衡ありという印象を中国国内に植え付けるだけの効果があったに違いない。

 また、「御願寺」であることもそうである。中尊寺は白河上皇の御願寺で、つまり白河上皇の発願による寺ということになっている。当時の京の都では、上皇や天皇の発願による御願寺が多く建立されたが、地方豪族の建立した寺院が御願寺となる例などは空前絶後ということである。しかも、御願寺であるからには、供養願文も白河上皇が主語になる書き方になるべきであるところ、有名な中尊寺の供養願文は、清衡の思いがふんだんに盛り込まれた文章になっているのがそもそも異例であるということである。

これからがさらに楽しみな平泉研究
 入間田宣夫氏は言う。「あれや、これやで、平安京のモデルをストレートに受け入れるのにはあらず。どちらかといえば、東アジアのグローバル・スタンダードに準拠するなかで、それにあわせて東北日本の風土に即応するなかで、さらには武家好みのスタイルを模索するなかで、平安京のモデルさを選択的に採用・アレンジすることによって、平泉の文化はかたちづくられることになった」と。

 斉藤利男氏も言う。「平泉と奥州藤原氏の歴史・文化に対しては、これまでも大きな注目がなされてきた。だが、そこには、古代蝦夷研究と平泉研究の発展に大きな足跡を残した高橋富雄氏を別として、『日本列島北部辺境の一地方史』という視点が強く働いていたように思う。しかし本書で述べたように、平泉と奥州藤原氏は、南の琉球王国と同様、決して『日本国の一地方』という枠組みには収まらないものであった」と。

 これからの平泉研究がさらにどのように展開していくか、実に楽しみである。

anagma5 at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!