私的東北論  

2018年04月02日

私的東北論その107〜「平泉町観光振興計画(案)」への意見書(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日に発行された「東北復興」第69号では、「平泉町観光振興計画(案)」について私が平泉町観光商工課に送った意見書について取り上げた。1月下旬に岩手県一関市で開催された「第18回平泉文化フォーラム」に参加するのに合わせて、久々に平泉町内を回ってみて感じたことがいろいろあった。ちょうど平泉町が5年ぶりに新しい観光振興計画案を作成し、それについての意見を求めているところだったので、大きなお世話と思いつつも、その時感じたことなどを基に、意見書をまとめて送ってみたのであった。そしてまた、「東北復興」の連載記事の締切も間近だったので、その意見書を中心に原稿もまとめてしまったというわけである(笑)。

 以下がその全文であるが、意見書の中で言いたかったことは、端的に言えば、\こΠ篁紺奮阿隆儻資源についてもしっかり情報発信を奥州藤原氏時代の遺跡等が残っている自治体と一層の連携をL襪盂擇靴な神瑤、という3点である。特に、が私にとっては重要である(笑)。

DSCN1118 ちなみに、意見書の中で触れている「観自在王院辺りの道」の雰囲気というのはこんな感じである。あと、「ザ・ブリュワーズ平泉」の「夜カフェ」については以前別稿で紹介したことがあったが、このようなものである。

 それと、記事中に出てくる西川雅樹さんのサイトはここである。東北の湯治宿の他に、東北のB級グルメについてもものすごい情報量である。



「平泉町観光振興計画(案)」への意見書

 1月27日、28日の2日間、岩手県一関市で「第18回平泉文化フォーラム」が開催され、私も参加してきた。毎年基調講演、発掘報告、研究発表が行われ、平泉研究の最先端に触れることのできるイベントである。

 今回、1日目終了後の宿泊は、あえて一関市内ではなく、平泉町内にしてみた。これまで平泉は何度も訪れているが、訪れるのはいつも昼間だけで、夜の平泉がどのような感じか興味を惹かれたのである。また、2日目は午前中で終了だったので、終了後再度平泉を散策した。2日間平泉を訪れて感じたことがいろいろあった。折りしも平泉町が新しく「平泉町観光振興計画(案)」を作成し、それについての意見を募集していた。そこで、今回の平泉散策で感じたことや、以前から平泉観光について考えていたことなどについて意見書としてまとめて、平泉町観光商工課宛に送付した。

 以下がその意見書である。

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 「平泉町観光振興計画(案)」を興味深く拝見しました。その上で考えたことについてお伝えしたいと思います。要点は以下の3点です。

 \こΠ篁紺奮阿隆儻資源の活用について
 ∧神観光において連携すべき相手について
 「夜の平泉観光」の仕掛けについて


\こΠ篁紺奮阿隆儻資源の活用について
 ,砲弔い討任垢、私は今回、一関市内で2日間開催された「平泉文化フォーラム」に出席しました。その折に、1日目の宿を平泉町内に取り、また2日目終了後に久しぶりに平泉町内を散策しました。その際に感じたことは、端的に申し上げれば、平泉観光は現在、あまりに世界遺産に頼り過ぎているのではないかということです。平泉駅内の観光案内所で入手できる町内のマップには、世界遺産の構成遺産5つと追加登録を目指している達谷窟毘沙門堂、柳之御所遺跡、それに高館義経堂などが掲載されています。今回の「平泉町観光振興計画」(案)の「1−2 主な観光資源」のうち「1−2−1 史跡・名勝」として挙げられているのもこれらですし、「資料4 平泉町の観光資源の再確認」で挙げられているのも概ねこれらですが、平泉の観光資源はそれらのみに留まるものではありません。

 白山妙理堂や熊野三社は奥州藤原氏と白山信仰、熊野信仰との関わりが感じられて興味深いですし、照井堰なども高館合戦の折にその名前が登場する照井太郎高春の伝承があり、興味を惹かれます。歴史好きにとっては、芭蕉の「おくのほそ道」にも出てくる泉ヶ城(和泉が城)も目にしたい場所でしょうし、国衡や高衡(隆衡)の館の比定地もあります。四方に配置したという鎮守社跡を巡るのも楽しそうです。

 これらは現在学校であったり民有地であったりと、観光スポットとするには難しい面もあるでしょうが、園地として整備せずとも今の伽羅御所跡のように、可能な場所に案内板を設けるだけでも散策ルートとなり得ることでしょう。

 そうした隠れた観光資源についても積極的にPRしていかなければ、平泉は一度来て構成遺産を一通り見たらそれで終わりで、二度とは訪れないスポットとなってしまいかねません。そうではなく、最初は有名な世界遺産、その次は少しマニアックな、ディープな場所を巡る、というように、次にも来る楽しみがあるようなことが分かる情報提供が必要であると考えます。

 今回、観光案内所におられたガイドの方に「世界遺産と達谷窟、柳之御所、義経堂以外にどこか見るべき場所はありますか?」と尋ねたところ、「それらを見てるんならあとは特にないねぇ」とのお返事で、少し残念な思いをしました。

 私としては、「平泉は単に世界遺産だけの町ではない」ということを強く訴えたいです。他にももっとあまり知られていない、でも魅力的な場所が平泉町内には本当にたくさんあります。まずは地元の方々こそにそのことを再度確認していただければと願います。

∧神観光において連携すべき相手について
 △砲弔い討任垢、「4−1 観光施策の内容」では、「基本方針3 広域連携による平泉町の魅力の向上―多様な交流・連携の促進―」で「広域観光体制の充実」について既存の方向性を踏襲する旨記載されています。そのうち「東北地方との連携強化」では、十和田市や仙台市との広域的連携を強化する方針が挙げられています。

 周知の通り、奥州藤原氏は平泉のみならず、全盛期には現在の東北地方のほぼ全域に影響を及ぼしました。従って、奥州藤原氏に関係する遺跡・史跡も広く東北地方全域に点在しています。広域連携を考える場合、こうした奥州藤原氏に関係する遺跡・史跡を有する自治体とのより一層の連携も考えていただきたいと強く願います。

 平泉の世界遺産の登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」ですが、「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は平泉のみならず、東北全域に存在します。最も端的なのは、福島県いわき市にある「白水阿弥陀堂」や宮城県角田市にある「高蔵寺阿弥陀堂」ですが、これら奥州藤原氏の影響下にあって同様に「仏国土(浄土)」を表した遺跡・史跡を持つ自治体との広域連携も進めるべきと考えます。

 他にも、秀衡ゆかりの徳姫が泰衡の子と共に36人の家臣に守られて逃れたという山形県酒田市、泰衡終焉の地である秋田県大館市、泰衡の家臣たちが藤原の姓を名乗って隠れ住んだという伝承がある秋田県鹿角市、その他奥州藤原氏時代の金山があったと考えられる東北各地の自治体も連携の対象となり得ます。また、平泉の柳之御所遺跡で多数出土することから「平泉セット」と名付けられた、平泉型てづくねかわらけや白磁四耳壺が出土する遺跡が、青森から福島まで、平泉以外にも東北地方にはたくさんあります。これらの遺跡を有する自治体とも連携して、平泉遺産の面的な広がりを重視していただければと考えます。

 平泉の歴史遺産は平泉だけのものではなく、かつ平泉の歴史遺産は平泉だけに留まるものではありません。平泉とこれらの地域とをつないで共同で行う観光キャンペーンや情報発信などを通して、平泉と関係する自治体とがWin-Win となるような方策をぜひ講じていただきたいです。

「夜の平泉観光」の仕掛けについて
 についてです。「2−2 町の観光の問題点・課題、可能性」の中で、「多くの観光客が通過型の観光」と指摘されていますが、私も実は平泉町内に宿泊したのは初めての経験でした。平泉にはこれまで何度も足を運んでいますが、いつも昼間のうちに町内を回り、夕方には移動するという形でした。

 その理由を考えてみますと、まず宿泊できる場所の少なさがあります。ツアー以外の個人客が宿泊場所を探す際に利用するのは多くは「楽天トラベル」や「じゃらんネット」などの宿泊予約サイトであると思われますが、平泉町内の宿泊施設は「楽天トラベル」、「じゃらんネット」とも3軒の登録にとどまります。それ以外の宿泊施設については、平泉町観光協会のサイト内で紹介されていて、少なくとも町内には7軒の宿泊施設があることが分かりますが、「平泉町 宿泊」で検索してもこの平泉観光協会のサイトは30番目(つまり3ページ目の一番下)にようやくヒットする状況で、これでは恐らくあまり見てはもらえないことでしょう。町が後押しするなどして宿泊サイトへの登録を進めることや、町内の宿泊情報がより上位にヒットするような対応策を講じることが必要と考えます。

 宿泊できる場所の数を増やす手段として「民泊」の活用も考えられますが、その際にはそれぞれの民泊場所の特色があるとよりよいです。例えば、「平泉の古老から平泉の歴史について話が聴ける民泊」などがあれば、歴史好きの観光客は「ぜひ泊まって話を聞いてみたい」と考える可能性が高いです。

 もう一つ平泉観光が通過型に留まってしまう理由として、夜楽しめる場所がないということが挙げられます。平泉町内の飲食店は多くが夕方までに閉店してしまい、夜は一部の居酒屋や焼肉店が営業するのみだということが今回分かりました。この現状では、夜も平泉で過ごすという行動にはなかなかつながりにくいと考えます。「平泉夕食堂」のパンフレットも入手して、その部分の改善に取り組んでいる様子も窺えましたが、それでも大半の店は19時くらいまでの営業であり、その時間帯であればその後の移動もできてしまうため、滞在することにつながるかどうかは正直微妙なところです。

 昨年できた「ザ・ブリュワーズ平泉」がこの1月から「夜カフェ」を実施し、3日前までの予約が必要ではあるものの、予約客が1人でも「夜カフェごはん」を提供してくれ、+1,500円で地ビールを含む飲み放題もつけられる、という取り組みを始めたことは注目に値します。このような特色のある取り組みをより多くの店が始めれば、夜の平泉の魅力はさらに増します。

 夜の平泉を今回初めて散策しましたが、観自在王院辺りの道は周囲の建物と柔らかな光の街灯とがマッチして、とても風情があるように感じました。このような雰囲気づくりを町内のさらに多くの場所に広げたり、例えば週末の夜は駅から毛越寺に至る道の両側に篝火を焚くなど、夜の平泉散策が楽しくなるような仕掛けを施したりすることによって、平泉に滞在する人はより増えるのではないかと考えます。

 以上3点について意見を述べさせていただきました。平泉を大事に思う同じ東北の一人の意見として、いささかなりとも参考になるのであれば幸いです。今後も平泉が、東北の一つの時代の在りようを伝える貴重な場所として、たくさんの人に知られ、訪れられる場所であり続けることを願っております。

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 この手の意見募集というのは、「広く意見を求めてそれらも取り入れて作りました」という体裁を整えるために、半ば形式的に行われることが多く、今回提出した意見書の内容もどれほど参考にしてもらえるものか不明ではあるが、とりあえず私としては、感じたこと、考えたことについては概ね伝えられたつもりでいる。

 平泉を散策した当日のfacebookに、「ブラブラしてて思ったのが、平泉は世界遺産に頼りすぎじゃないか?ってことでした」と書いたら、友人の西川さんが「黒毛和牛ステーキ屋なんかも黒毛和牛であることに頼り切ってる店が多くて、独自の価値観を訴求できる店がほとんどないんですよね」とコメントしてくれた。平泉が「黒毛和牛であること以外PRできないステーキ店」になってはいけない。それは平泉の魅力を矮小化してしまうことになる。

 西川さんは関西出身で現在仙台で仕事をされているが、東北の湯治宿に魅せられてご自身のサイトでその魅力を余すところなく伝えてくれている。その西川さんはこうもコメントしてくれた。「地元のヒトはえてして地元の魅力に疎いですよね、東北の湯治宿は情けないほど閑散としてるし」、と。まさにその通りである。だからこそ、魅力に気づいたなら、気づいた者の責務として、これからも情報発信をしていきたいと思う。


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2018年03月11日

私的東北論その106〜震災から7年の仙台・荒浜

 今年も3月11日がやってきた。震災発生から7年。今年も新聞各紙が一面で伝え、NHK、民放各社とも特別番組を企画するなど、忘れずに取り上げてくれるのはありがたいことである。仙台の街中にいると、震災の爪跡を見つけることはもうほとんどないが、それでもやはりこの日だけは毎年、普段とは違った心持ちになる。

WP_20180311_14_02_07_Rich 今年も出発点は若林区役所である。今日は日曜日ということで閉庁日だったが、献花台は今年も設けられ、人がひっきりなしにやってきていた。ここでこうして手を合わせている人、一人ひとりにきっと失われた大切な命があったのだと思うと、改めてこの震災の大きさに思い至る。

 若林区役所を出て一路東に向かい、沿岸の荒浜を目指す。震災直後、「海岸で200〜300人の遺体が見つかる」などとショッキングに報じられた地区である。あの報道は実は誤報だったが、かなり後まで繰り返し報じられ続けた。

 あの日、津波からの避難を地区住民に呼び掛けるべく、弟が公用車に乗って辿ったであろう道を走る。今日は南東の風が強く、自転車がなかなか前に進まない。冬の時期、いつもは北西の強くて冷たい風が吹く。南東の風は春の風のはずだが、全く暖かさは感じない。冬の冷たさのままの風である。

WP_20180311_14_18_50_Rich 荒浜に行く途中、仙台市地下鉄東西線の東の終点、荒井駅に寄り道する。ここには2年前の2月、「せんだい3.11メモリアル交流館」が開設された。交流スぺ―ス、展示室などからなる施設で、震災やこの地域に関する各種情報を発信していくことを目的につくられた。昨年6月には来場者が10万人に達したとのことである。




WP_20180311_14_38_21_Rich 荒浜に向かう道は今年も渋滞していた。荒浜地区一帯は震災後、災害危険区域となり、人が住むことのできない地域となった。他の地域への移住を余儀なくされた元住民の人たちがこの日は皆、ここに集まってくる。今年も地区唯一の寺院、浄土寺ではこの地区で亡くなった人のための追悼法要が営まれた。また、海岸近くに立つ「荒浜慈聖観音」には今年も焼香所が設けられ、たくさんの人が焼香していた。


WP_20180311_14_42_54_Rich 防潮堤に登って海を見下ろす人、海岸に下りて海を見る人もたくさんいた。今日は風が強く、消波ブロックに打ち付ける波はいつもより高かった。しかし、あの日ここに押し寄せた大津波はこのようなものではなかった。震災前よりも高さが増した7.2mの高さの防潮堤すら超える、平野部を襲った津波としては世界最大級という、およそ10mの高さの津波。上空から撮影された映像はあるが、地上にいてあの日、その大津波がどのように見えたのか、ここでこうして海を見ていても想像することすら難しい。

 そして、午後2時46分。地震発生の時刻である。サイレンが鳴ったり、放送があったりしたわけではないが、手元の時計を見て海に向かって手を合わせた。他の人も皆、同じように手を合わせていた。

WP_20180311_15_24_05_Rich 地区にある仙台市立荒浜小学校。地区が災害危険区域に指定されたことで閉校となったが、震災遺構として保存されることになり、昨年4月から校舎内が開放されている。校舎の1階は被災当時の状態がそのまま残されている。2階にあるひしゃげたフェンスもそのままで津波の大きさと破壊力が想像できる。地震発生からここに避難した住民が救助されるまでの経過、荒浜地区の歴史や文化などがパネルなどで紹介されている。昨年末までの8カ月でおよそ6万人がここを訪れたとのことである。

 仙台平野の一部で延々と平地が広がるこの地域には、津波発生時に避難できる高台が存在しない。あの日大津波に遭遇した住民が避難できる場所はこの荒浜小学校のみであった。小学校の児童、地域住民ら約320名がここに避難して難を逃れたが、一方で192名が津波に飲まれて亡くなった。仙台市の沿岸はどこもこの荒浜地区のように高台が存在しない。そこで仙台市では津波避難施設を沿岸に13カ所整備した。いざという時にはそこに避難することができるようになった。この荒浜小学校も、津波避難施設を兼ねている。

WP_20180311_15_14_43_Pro 今年も荒浜小学校では、荒浜を拠点に「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」である「HOPE FOR PROJECT」が、花の種を入れた風船を空に飛ばすイベントを行っていた。震災から7年が経って、このイベントもすっかり3月11日の荒浜の風物詩として定着した感がある。




WP_20180311_15_41_29_Rich 私にとっては、午後2時46分よりも午後3時54分の方が重要である。午後3時54分は、この地区に大津波が押し寄せた時刻である。この時刻については、弟と同様にこの地区で避難呼び掛けをしていた若林消防署荒浜航空分署の署員の方の証言で明らかになっている。この時刻に合わせて、南長沼に行ってみる。この地区の方々の遺体の大部分は、自衛隊や消防、警察による懸命の捜索の結果、ここで見つかった。決して2、300人もの遺体が震災当日に海岸で見つかったというような状況ではなかったのである。

 だいぶ埋め立てられて以前より小さくなってしまったが、それでもまだ水鳥が羽を休めるくらいのスペースはある。沼越しに望む海岸沿い、防風林として植えられていた松は、いまだ櫛の歯が欠けたような状態のままである。様々な団体が植林を続けているが、再生にはまだまだ時間が必要である。

 人口100万人を抱える大都市がこれだけの大津波に襲われた事例は、世界的に見ても稀だと思われる。この未曽有の災害から得た知見を発信することは、日本のみならず世界の都市防災にとっても大いに有意義なことである。その意味では、「せんだい3.11メモリアル交流館」や荒浜小学校を多くの人が訪れていることは、そうした情報発信がある程度うまくいっている一例と言えるのではないだろうか。9日には3回目となる「仙台防災未来フォーラム」も開催された。

 よく言われる「風化」をさせないために、こうした不断の情報発信に勝る方策はないと考える。もちろん、それは自治体やメディアがやればよいというのではなく、震災を経験した我々一人ひとりが考えていくべきことである。

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2018年02月08日

私的東北論その105〜「玉虫左太夫が見た夢」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興」第68号では、幕末の仙台藩士玉虫左太夫を主人公に据えた小説「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」について取り上げた。玉虫左太夫の遺した業績については、もっと評価されるべきと思う。


玉虫左太夫を扱った小説
「竜は動かず」 「竜は動かず〜奥羽越列藩同盟顛末」(上下巻、上田秀人、講談社)は、幕末に活躍した仙台藩士、玉虫左太夫を描いた小説である。この歴史の谷間に埋もれてしまった玉虫左太夫という名前を、聞いたことはあるという人は仙台に住んでいる人の中には割と多いのではないかと思うが、彼が為した業績を言い表せる人はそれほど多くないのではないだろうか。

 玉虫左太夫については、本紙第8号で早くも大川真氏が述べている。その中で氏は、「奥羽越列藩同盟の『集議』重視の政治システムは、明治維新の『敗者』=『遅れた』『敗れた』地域である東北にも先進的な政治構想が存在していることの証左と言いうる」と指摘した上で、玉虫左太夫をその奥羽越列藩同盟の「中心的なイデオローグの一人」と位置付けている。そして、玉虫左太夫の書簡にある「人心ヲ和シ上下一致ニセンコトヲ論ス」といった内容を紹介して、「当時としては画期的な内容が盛り込まれている。そしてほとんど看過されていることであるが、こうした先進的な政策が幕末の東北で提言されていることは震災後で大きな意味を持つと私は信ずる」と結んでいる。

小説の中の玉虫左太夫

 本書で描かれる玉虫左太夫は以下のような人物である。――仙台藩の下級武士で、学問を究めるために脱藩して江戸に出奔。苦労を重ねるが、後に幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所の長官となる林復斎に見出され、林の紹介で仙台藩の儒学者・大槻磐渓と邂逅し、大槻の推挙で仙台藩主伊達慶邦との目通りも叶う。林の推挙で堀織部正の従者として蝦夷地を視察し、条約の批准に渡米する外国奉行新見豊前守の従者として太平洋を渡ってアメリカに上陸し、その後アフリカ、インドネシアを経由して世界一周して日本に帰国。その際に見聞きしたことの詳細な記録を「航米日録」としてまとめる。勝海舟や坂本龍馬と交流を持ち、松平春嶽や久坂玄瑞とも接触、仙台藩の命で風雲急を告げる京洛の動静を探る。大政奉還後、新政府から会津討伐を命ぜられるに際して、仙台藩を中心に旧幕府に匹敵する総石高260万石の奥羽越列藩同盟結成のために奔走、盟約づくりにも関与する。同盟崩壊、仙台藩降伏後、仙台藩の反佐幕派によって切腹させられる。

 小説の中で玉虫左太夫は、「日本は忠義を芯とし、礼節を重んじ、受けた恩を忘れぬ国でございまする」と主張する。日本では手柄を立てて与えられた禄や庇護は代を重ねて子々孫々まで受け継いでいけるという保障があるおかげで、武士は安心して戦場に赴けたわけで、自分が討ち死にしても、跡継ぎさえいれば家は残り、家族の生活は守られたのである。したがって、アメリカに対しては、「国をまとめた大統領といえども、次の入れ札で負ければ、ただの人に落ちる。本人でさえ、そうなのでござる。子や孫など一顧だにされませぬ。これでは忠義などありませぬ」と最初は否定して見せる。

 しかし、アメリカについては一方で、船上で艦長が一水夫の死を我が子を亡くしたように悲しむのを見て、「亜米利加が強いわけがわかりました。上の者と下の者が相和すれば人々の心は自(おの)ずから良き方向にまとまりまする。建国以来亜米利加で謀反がない理由もここにあるのでは」と、その情の深さに大いに感じ入っている。

 また、元の身分が低いがために、事あるごとにあからさまな嫌がらせを受けたり、足を引っ張られたりしたために、「馬鹿が上にいないという点は、大いにうらやむことである」「血筋と生まれだけで、さしたる学もない連中が、重臣だと幅をきかせる」と嘆く。そうした中で孫ができたことで、「能力さえあれば、男女に変わりなく頭角を現せる世」であるアメリカの姿が玉虫左太夫の中で大きくなっていくのである。

奥羽越列藩同盟の盟約
 玉虫左太夫はそうした中、奥羽越列藩同盟の軍務局議事応接頭取という外交官ともいうべき役職に就いた。奥羽越列藩同盟は会津、庄内への恩赦を要望する嘆願を出し、続いて盟約を作成する。盟約の全文は小説中には出てこないが、実際の盟約は以下の通りである。

今度、奥羽列藩仙台に於て会議し、鎮撫総督に告げ、盟約を以て公平正大の道を執り、同心協力、上王室を尊び、下人民を憮恤し、皇国を維持し、而して宸襟を安んぜんとす。仍て条例左の如し。
一、天下の大義を伸べるを以て目的と為し、小節細行に拘泥すべからざる事。
一、海を渉る同舟の如く、信を以て居し義を以て動くべき事。
一、若し、不慮危急の事あらば、比隣の各藩、速やかに援救し、総督府に報告すべきの事。
一、強きを負み弱きを凌ぐ勿れ、私に利を営む勿れ、機事を泄す勿れ、同盟を離する勿れ。
一、城堡を築造し、糧食を運搬する、止むを得ずと雖も、漫りに百姓をして労役し、愁苦に勝えざらしむる勿れ。
一、大事件は列藩集議、公平の旨に帰すべし。細緻は則ちその宜しきに随ふべき事。
一、他国に通諜し、或ひは隣境に出兵す、皆同盟に報ずべき事。
一、無辜を殺戮する勿れ、金穀を掠奪する勿れ、凡そ、事不義に渉らば、厳刑を加ふべき事。
右条々、違背あるに於ては、則ち列藩集議し厳譴を加ふべき者なり

 崇高な精神が現れた見事な盟約である。これらの中で、玉虫左太夫がその権限を使って入れ込んだものが5番目の「やむをえずといえども、みだりに百姓を労役させて憂い苦しませてはならない」という項目であった。東北の百姓を、アメリカで目の当たりにした奴隷にしてはならないという強い思いだった。

 本紙第11号で紹介した小説「蒼茫の大地 滅ぶ」で、野上青森県知事は奥羽越列藩同盟の敗因として、「三春藩・河野広中の裏切りと、農民の戦争拒否にあった」として、特に「何よりも農民の協力拒否が敗北につながった」と指摘していた。しかし、奥羽越列藩同盟の側には、元々農民を戦争に巻き込まないための盟約が存在していたのである。

 小説中では逆に、勢いづいた会津藩がこの盟約を破って、白河領で密かに農民に食糧を拠出させ、防衛陣を構築するための人夫も徴発するが、そのために農民の恨みを買い、新政府軍を手引きして間道を案内した結果、立石山の陣を奪われて形勢が不利になる様子が描かれている。

知られていない理由

 白河の関に差し掛かった玉虫左太夫に、「ここを封じれば……奥州は独立できるか」との思いが脳裏をよぎる。奥羽越列藩同盟については前述の「蒼茫の大地 滅ぶ」でも説明されているが、元々会津、庄内両藩の恩赦を嘆願する同盟だったが、この嘆願が新政府に拒絶された後は、北部政権の樹立を目指した軍事同盟となった。この新しい政権の樹立というのは、新政府とは別の政権を創るということで、いわば新政府からの独立を目指したものと言えるのだが、敗北したこともありこの辺りが過小評価されているのではないかと感じる。輪王寺宮公現法親王を推戴し、「東武皇帝」として即位し、改元も行ったという説もあるのだが、資料が乏しく、統一した見解が得られていない。

 玉虫左太夫らが日本人として初めて世界一周した万延元年遣米使節も、あまり知られていないのではないだろうか。少なくとも、学校教育の中ではいわゆる「岩倉使節団」の方がはるかに著名である。玉虫左太夫自身のこともあまりにも知られていない。

 それは、これらはいずれも「敗者の歴史」であることが理由であるように思える。敗者の歴史は、勝者によって書き換えられるのが常である。とりわけ、新政府にとっては、自分たちとは別の政権が一時的にではあっても存在したという事実は、到底認められないものだったに違いない。

 作者の上田秀人氏は、インタビューの中で、この小説を書いた理由について、「幕末は維新を興した側から語られることが多い。じゃあ私は違う方向から、あの時代を眺めてみようと考えました」と答えている。視点を変えるとまったく違った歴史が見えてくる。この小説はそのまたとない好例であろう。

もし玉虫左太夫が生きていたら

 ところで、この小説のタイトルの「竜は動かず」の「竜」は何を表しているのだろうか。「竜」と言えば「独眼竜」政宗のことがまず思い浮かぶ。「竜は動かず」はこの「独眼竜」政宗の築いた仙台藩が、結局戊辰戦争ではさしたる働きができなかったことを示しているのかもしれない。小説中で仙台藩は、「かつて奥州に覇をはった仙台伊達も、二百六十年をこえる泰平に戦を忘れていた。戦場で討ち死するかもしれないとの恐怖は、実戦経験のなさも加わって勝とうという強固な意思を奪った」と書かれている。奥羽を代表する大藩である仙台藩が、泰平にあぐらをかくことなく軍備や組織の近代化を図っていたとしたら、奥羽越列藩同盟はまた違った展開を見せていたのかもしれない。

 あるいは、時代の変革を「竜」にたとえて、結局奥羽越列藩同盟が目指した「もう一つの日本」が日の目を見なかったことを、このタイトルは伝えているのかもしれない。様々な失策が積み重なって奥羽越列藩同盟は敗れ去ってしまったが、それでも盟約にあるような崇高な精神は、なくならずに今の東北にも伝わり、受け継がれているようにも思う。

 玉虫左太夫、本来は禁固7カ月で済むはずだったが、政敵によって切腹させられてしまった。もし本来の禁固だけで済んでいたら、仙台は、そして日本はどのように変わっただろうか。第14号で取り上げた会津の山本覚馬の業績を見ても、玉虫左太夫ももし生きていたとしたら、相当のことを成し遂げたに違いないと思う。その山本覚馬と玉虫左太夫がもし邂逅していたら、きっと意気投合して、相互に大いに刺激し合ったのではないか、などとも夢想するのである。

 なお、玉虫左太夫が遺した「航米日録」、7年前に「仙台藩士幕末世界一周」(荒蝦夷)というタイトルで玉虫左太夫の子孫である山本三郎氏の現代語訳で刊行されている。併せて読んでみたいものである。

 この「航米日録」にも出てくるが、この世界一周の航海中に玉虫左太夫はビールを飲んでいる。キリンビールのサイトにある「ビールを愛した近代日本の人々」の中に玉虫左太夫も紹介されている。世界を目の当たりにしながら飲むビールが、玉虫左太夫にとってどのような味だったのか、聞いてみたいものである。


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私的東北論その104〜「『地域ブランド調査』から見えてくるもの」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 昨年12月16日に発行された「東北復興」第67号では、「地域ブランド調査」の最新の結果について取り上げた。個人的には東北の各都市、もっと「魅力度上位100市区町村ランキング」にランクインしてよいと思う。


「地域ブランド調査2017」の結果が公表kojin
 ブランド総合研究所の「地域ブランド調査2017」の結果が十月に公表された。この調査は2006年から行われており、全国一、〇〇〇の市区町村と四七都道府県を調査対象として、全国3万人が各地域の「ブランド力」を評価するものである。

 調査はそれぞれの地域に対して魅力度、認知度、情報接触度、各地域のイメージ(「歴史・文化のまち」など14項目)、情報接触経路(「旅番組」など16項目)、情報接触コンテンツ(「ご当地キャラクター」などコンテンツ10項目)、観光意欲度、居住意欲度、産品の購入意欲度、地域資源の評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)などを質問すると共に、出身都道府県に対する愛着度、自慢度、自慢できる地域資源など出身者からの評価など全104の評価項目で各地域の現状を多角的に分析している。

東北の各自治体の動向
魅力度上位100市町村ランキング 詳細な報告書は高額で私の財力では入手できないが(笑)、大まかな結果は公表されている。このうち「魅力度上位100市区町村ランキング」の結果は表の通りである。

 東北の市町村を見てみると、仙台市が前年の25位から大幅に順位を上げて11位になったのを始め、青森県十和田市が前年の74位から58位へ、盛岡市が前年の117位から62位へ、福島県会津若松市が前年の65位から63位へ、それぞれ順位を上げている。青森県弘前市は前年の40位から順位を下げて81位となったが、依然ベスト100にランクインしている。東北で100位までにランクインしているのはこれら5都市である。昨年ベスト100にランクインしていた山形県米沢市、福島県喜多方市、岩手県平泉町は、残念ながら今年はベスト100の圏外となった。

 ちなみに、1位から10位は、京都市、北海道函館市、札幌市、北海道小樽市、神奈川県鎌倉市、横浜市、金沢市、北海道富良野市、鹿児島県屋久島町である。これらの顔ぶれは毎年ほぼ不動である。「地域ブランド」が確立している市町村と言えるのであろう。

他地方における傾向

 特筆すべきはベスト100に占める北海道の都市の割合である。ベスト10に入った函館市、札幌市、小樽市、富良野市を始め、登別市、旭川市、釧路市、帯広市、千歳市、室蘭市、稚内市、石狩市、根室市、夕張市、苫小牧市、美瑛町、ニセコ町と、実に17の自治体がランクインしている。他にランクインしている自治体が多い都道府県としては、東京都が23区のうち9つの区がランクインしており、次いで神奈川県が鎌倉市、横浜市、箱根町、横須賀市、茅ヶ崎市、小田原市、逗子市の7自治体、沖縄県が那覇市、沖縄市、石垣市、宮古島市、与那国町、久米島町の6自治体、兵庫県が神戸市、姫路市、西宮市、宝塚市、芦屋市の5自治体、岐阜県が高山市、下呂市、飛騨市、白川村、鹿児島県が屋久島町、奄美市、鹿児島市、指宿市、静岡県が熱海市、伊豆市、浜松市、伊東市、長野県が軽井沢町、松本市、長野市、安曇野市のそれぞれ4自治体となっている。以前、仙台市との比較で見た金沢市のある石川県はその金沢市、輪島市、加賀市の3自治体が、前橋市のある群馬県は草津町のみがランクインしていた。

「地域ブランド」の確立している自治体とは
 それにしても、である。確かに、ベスト100にランクインしている自治体は名の通ったところが多い。しかし、身びいきかもしれないが、東北の各自治体でこれらランクインしている自治体に勝るとも劣らずに魅力のある自治体はもっと多いように思う。にもかかわらず、東北全体でようやく5自治体、神奈川県や沖縄県一県にも及ばない数の自治体しかランクインしていないという現状は、少なくとももう少し実像に近づけるための努力をしてもよいのではないだろうか。端的に言えば、よく知られていないのである。名前を聞いても具体的なイメージと結びつかないのである。

 ランクインしている東北の自治体を見ると、その辺りの「キャラ」が明確なところが多いように思われる。仙台市は言わずと知れた東北唯一の百万都市、十和田市は恐らく十和田湖、奥入瀬渓流などの自然美、盛岡市、会津若松市、弘前市、そして去年ランクインしていた米沢市はいずれも古くからも建物が残る旧城下町である。昨年ランクインしていた喜多方市と平泉町は、ラーメンと蔵の町、世界遺産の町としてそれぞれ知られている。県庁所在地といえども、それだけではランクインしていない。ランクインした自治体にあるような、よく知られた情報やイメージしやすい特徴などがある自治体が恐らく、「地域ブランド」を確立しているのだと言えるのだろう。

共通する「魅力」の発信も
 東北各地を訪れてみるとよく分かるが、どの自治体にも「らしさ」がある。その「らしさ」が「地域ブランド」につながっていくのだろうが、意外に地元にいると自分たちのまちのよさや個性が見えなかったりすることもあるに違いない。以前も書いたが、そこで自分たちのまちの魅力とは何か、改めて掘り起こす必要があるわけである。その際に外部の目を入れることを意識すれば、地元の目線では思いもよらなかったような「魅力」が見つかるかもしれない。

 さらに言えば、個々の自治体の「魅力」とは別に、東北の自治体に広く共通する「魅力」もあるように思う。具体的に言えば、自然の豊かさ、食文化の豊かさ、郷土芸能や祭りの多彩さ、人と人とのつながりの強さ、などである。

 17自治体がランクインしている北海道の自治体にもそうした北海道全体に共通する「魅力」が色濃く反映されているように見える。東北の各自治体の「魅力」の発信に際しても、個別の「魅力」の探索と発信に加えて、共通する「東北ブランド」の「魅力」についても大いに発信していくべきであろうと思う。


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2018年02月07日

私的東北論その103〜「旧沢内村が教えてくれること」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 昨年11月16日に刊行された「東北復興」第66号では、その夏に皆で訪れた岩手県の旧沢内村について書いた。地域医療の魁となった旧沢内村の取り組みは今も色褪せることなく、しっかりと引き継がれていた。それと、ここで飲む銀河高原ビールのウマさは格別である。


銀河高原ビールと地域医療の故郷
 七月下旬に、医療介護領域の知人友人と、「銀河高原ビールと旧沢内村の地域医療を学ぶツアー」と称して、岩手県の旧沢内村を訪れた。旧沢内村は2005年に隣の旧湯田町と合併して西和賀町となっている。ビール好きには知られているが、ここ旧沢内村は豪雪地帯由来の清冽な天然水を使った地ビール「銀河高原ビール」の故郷でもある。

 醸造所に隣接して「ホテル森の風 沢内銀河高原」という温泉リゾートホテルがあるのだが、ここで飲む銀河高原ビールが殊の外美味しいという話を私がしたことから、それじゃ行ってみようという話になった。しかし、せっかく旧沢内村に行くのに、地ビールだけではもったいないと思った。この旧沢内村、地ビールができる三四年も前に全国的に有名になる事業を行っていた。当時、人口およそ六千人の豪雪地帯の小さな村が、当時全国の自治体がどこもなし得ていなかった老人医療費無料化を打ち出し、実現したのである。医療関係者の間では旧沢内村は「地域医療の故郷」として知られている。そこで、ツアーではビールに加えて地域医療もテーマに加えた。

 本稿では、そのツアーで見聞きした内容を織り交ぜながら、旧沢内村における地域医療の足跡について改めて辿ってみたい。

深澤村長の功績

 一日目に沢内銀河高原でしこたま銀河高原ビールを飲んで大いに語らった翌日、まず足を運んだのは碧祥寺博物館である。寺院併設の博物館で、マタギや雪国の生活に関するおびただしい数の民俗資料が5つの建物に分かれて収蔵されており、大変見応えのある施設であった。

旧沢内村の「三悪」に立ち向かった故深澤晟雄村長(深澤晟雄資料館) 続いて訪れたのは深澤晟雄記念館である。故深澤晟雄(ふかさわまさお)は1957年から65年まで旧沢内村の村長だった人で、先述の通り、全国に先駆けて1960年に六五歳以上の医療費を無料化し、翌61年には六〇歳以上と乳児の医療費無料化を実施した。それまでの旧沢内村は全国でも乳児死亡率が極めて高い地域だったが、一連の施策によって1962年に全国の市町村で初めて乳児死亡ゼロを達成させた。その拠点が当時の沢内村国民健康保険沢内病院であった。沢内病院は2014年に移転新築され、町立西和賀さわうち病院となったが、引き続き地域唯一の病院として、地域の人々の命と健康を守る砦となっている。

 深澤晟雄記念館では、このさわうち病院事務長の高橋光世さんに、深澤晟雄村長と沢内村について説明していただいた。高橋さんによれば、深澤村長は旧沢内村の「三悪」(豪雪・病気・貧困)の克服を目指した。旧沢内村を含む西和賀町は国の特別豪雪地帯に指定されている地域で、年間の累積積雪量は一二メートルを超え、最高積雪量も三メートル近くに及ぶ。今でこそ除雪が行き届いているが、当時は除雪などされず、冬は雪に閉ざされていた。そのため、冬は具合が悪くても病院に掛かれず、その結果命を落とす高齢者も多くいたそうである。深澤村長はこうした状況を打破すべく、苦心して工事用のブルドーザーを調達し、まず除雪を成し遂げた。

 しかし、それだけで住民の病院へのアクセスは改善しなかった。当時病院受診は「かまど返し」と言われ、大きな出費を伴うものと捉えられていたのである。当時の医療費自己負担は五割。山間で自給自足で生活してきた村民にとっては重い負担であった。結局、受診しなければいけない患者が受診できずにいる状況は変わらなかった。そこで深澤村長は1960年に医療費の本人負担分五割を村が肩代わりする政策を実施する英断をしたのである。実施に当たり県と当時の厚生省からは「法律違反である」との警告を受けたが、憲法25条の生存権を挙げて、「人命の格差は絶対に許せない。本来国民の生命を守るのは国の責任であり、国がやらないなら私がやる。国は後からついてきますよ」と言って、断行した。

 その言葉通り、旧沢内村に続いて、1969年に秋田県と東京都が老人医療費を無料化し、国も73年に七〇歳以上を対象に無料化に踏み切った。ところが、これによって医療費が膨張したために、結局無料化は一〇年で終了し、1983年の老人保健法の制定により、患者の一部負担が復活することとなった。

乳幼児死亡率ゼロの原動力となった保健婦の家庭訪問(深澤晟雄資料館) これに対し、「元祖」の旧沢内村では、老人医療費無料化は、旧沢内村が西和賀町になるまで続けられたのである。旧沢内村の高齢化率は全国平均をはるかに上回る四六パーセントだった。それなのになぜ、旧沢内村は老人医療費無料化を続けることができたのであろうか。実は、旧沢内村の老人医療費無料化は、村の保健婦の予防活動とセットであった。「まず病気にならないこと」を重視し、保健婦が村の全戸訪問活動に力を入れていた。その成果があって、旧沢内村の医療費は全国最低水準だった。保健婦の家庭訪問による訪問指導こそが深澤村長の老人医療費無料化に始まる「生命尊重行政」の肝だったのである。

 1960年には「地域包括医療実施計画案」が策定された。保健と医療は一体で行うものとし、医師は病気にならないことにも関与すべきとした。予防活動を担う保健婦は病院に常駐した。予防から医療まで切れ目なく実施される「沢内方式」は、現在の地域包括ケアシステムの先駆けとも言えた。

今も生きる「人間の尊厳・生命の尊重」

 旧沢内村はその冷涼な気候で美味しいそばが取れる。昼に立ち寄った「農家食堂およね」では沢内手打ちそばが食べられた。この日の午後は、旧沢内村、そして現在の西和賀町の保健医療の拠点である町立西和賀さわうち病院内を見学させていただいた。ここでも事務長の高橋さんにご案内していただいたが、その際に聞いた話では、西和賀町では四〇から六五歳を対象に人間ドックは町から助成され、六千円台の自己負担で受けられること、そして、合併で医療費無料化はなくなったが、今でも町民は外来月一、五〇〇円、入院は月五、〇〇〇円の定額負担で受診できるということであり、また町民税非課税世帯は入院、外来とも無料であるということであった。自給自足で過ごす町民の割合がかなりを占めることから町民税非課税世帯の割合は高く、実質的に医療費無料化は現在も続いていると見ることもできる、とのことであった。

 病院ではまた歯科保健に力を入れており、回診には歯科衛生士、さらに歯科技工士も同行しているというのも特筆すべきことであった。また、リハビリテーションにも力を入れており、四〇床の病院でありながらリハビリテーション職員は四名いて、外来、入院、訪問、通所リハを実施しているそうである。病棟のスタッフステーションには深澤村長の言葉が掲げられ、今も深澤村長の思いが院内に息づいていることが窺えた。

 その後、院長の北村道彦先生から「高齢社会の医療を守るための処方箋」とのテーマでご講義をいただいた。

 それによれば、深澤村長の取り組みは住民自治と予防重視で、「広報」と「広聴」で住民との信頼関係を構築したとのことである。自分達で自分達の命を守る「自動」、「自立」を掲げ、「一人ひとりがせい、話し合ってせい、みんなでせい」の「三せい運動」を村づくりの原則の一つとしている。

 高齢化率四六パーセントの西和賀町は、岩手県のみならず、日本のモデルと言える。最近よく言われる「ソーシャル・キャピタル」とは北村先生の解釈では「絆力」で、西和賀町のこの高齢社会は行政だけでなくソーシャル・キャピタルが支えている、とのことであった。

 北村先生は2014年に院長に就任してすぐ、病院の対外的な窓口となる医療福祉連携室を立ち上げ、他地域の病院や診療所に出向き、「西和賀町の患者さんはすべて受け入れます」と挨拶したそうである。「顔の見える」関係の構築のためには、自ら足を運ぶことが大事で、さらに「思いの共有」が必要と強調しておられた。それを実践すべく、在宅医療を担う開業医3名、開業歯科医3名と病院、地域包括支援センター職員で月1回ミーティングしており、門前調剤薬局は院内薬事委員会のコアメンバーでもある。他に社会福祉士、栄養士、介護福祉士、看護師、保健師など町内の専門職の組織化もそれぞれ進行中で、病院の枠を超えて、町全体の専門職による「チーム西和賀」を目指しているそうである。

 また、院内にある売店とカフェは町内の障害者授産施設に運営を委託したそうである。現在、施設職員と利用者が2人一組で切り盛りしていて利用者の就労支援にもつながっている。病院単位でなく、地域(コミュニティー)単位で考えることが重要であるとのお話であった。

 最後に北村先生は、「乳児死亡ゼロと医療費削減を成し遂げた深澤村長の取り組みは今も褪せることなく我々の誇りであり希望。沢内村の、深澤村長の医療を学び、進化させたい」とおっしゃっていた。まさに、深澤村長の取り組みは、まさに今も色褪せることなく息づいているのである。

 一緒に行った訪問管理栄養士の塩野淳子さんが、「地域包括ケアは、もう私が産まれるずっと前に、小さな村で実践されていたんですね」と感想を書いていた。まさにその通りだと思った。今、国が進めている地域包括ケアシステムの先駆的事例こそ、この旧沢内村が半世紀以上前からの実践なのである。

 深澤村長は2期目の任期半ば、昭和40年に食道がんでこの世を去った。深澤村長の亡骸が村に戻ってきた時、猛吹雪の中にも関わらず、2,000人近い村民が沿道で迎えたという。深澤村長は亡くなっても、その「人間の尊厳・生命の尊重」という志はその後も旧沢内村の村民に脈々と受け継がれ、今なおその意思は生き続けているのである。


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私的東北論その102〜「東北・みやぎ復興マラソンが初開催!」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 昨年10月16日に発行された「東北復興」第65号では、初開催された「東北・みやぎ復興マラソン」について書いた。私にとっても初のフルマラソンで、相当シンドい思いもしたが、沿道の温かい声援は本当に力になった。人が誰かを思って発する言葉の持つ力について改めて思い至った。


「復興」の名を冠したマラソン
 10月1日、「東北・みやぎ復興マラソン」が開催された。東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた宮城県の沿岸部、名取市・岩沼市・亘理町にまたがるエリアを走る、震災後の宮城県内で初となる公認フルマラソン大会である。津波対策としてかさ上げされた県道塩釜亘理線を走り、岩沼の震災復興のシンボルでかつ災害時の避難場所でもある「千年希望の丘公園」や建設中の防潮堤などを望むコースである。

 この大会の目的として、「被災地復興の”今”をマラソンというスポーツを通じて、日本や世界に伝え」ると共に、「震災を風化させることなく、今なお続く『復興』を走ることによって支援する」ことが挙げられていた。復興への願いを込め、被災地の復興に役立ちたいという想いで「復興マラソン」という名を冠し、その名に恥じない大会にするべく、開催に掛かる多額の費用を、開催場所が被災地である点を考慮して開催自治体には補助金の拠出以外の部分での協力を求め、参加ランナーの参加料と開催趣旨に賛同した企業の協賛金のみで賄うことを目指したという。

 また、マラソン大会運営そのものだけでなく、集まった資金の中から被災地に役立つ復興支援策を実施するとして、「子どもたちの健全な心身と地域への愛情の育成」、「震災の『風化を防止』し、全国・世界の支援者との強固な絆の構築」、「被災地域のにぎわい創出・交流人口や定住人口の拡大」の3つの支援策を揚げ、継続的な復興支援を行っていくとしている。具体的には今回は、12の被災自治体のスポーツ少年団にスポーツ用品を、1つの被災自治体に「防災・減災広報車」を贈呈し、また大会を一過性のものにすることなく、ランニング文化を育むことを目指すとして今回のマラソンコースに距離表示看板を設置した。

いざ、参加!
 そのような趣旨のマラソンであるこの「東北・みやぎ復興マラソン」、「東北」と「復興」という、私にとって重要なキーワードが2つも含まれている。関心は大いにあったのだが、当初参加に関しては迷っていた。理由は何のことはない、私自身がフルマラソンを走ったことがないからである。毎年5月に開催される「仙台国際ハーフマラソン」には、一般参加ができるようになった2012年から毎年参加しているが、ハーフマラソンですら毎回ヨロヨロになりながらゴールする有様であるので、その倍の距離を走り切れるとは到底思えなかったのである。

 そんなわけで気が付いたら応募締切日を過ぎてしまっていたのだが、そうしたらなんと、定員に達せず締切を大幅に延長することになったと聞いた。初開催ということで知名度がまだそれほど高くなかったこと、上記のような趣旨から参加料が14,000円と高額(東京マラソンでも10,800円である)だったことなどが影響したようである。それなら完走できるかどうか分からないけれども参加してみようかと思った。

 私のような人が他にもたくさんいたのだろうか。ふたを開けてみれば、フルマラソンは結局当初予定の12,000人がエントリーして、問題なく開催となった。12,000人が走るので、スタートはウェーブスタートというそうだが、4回に分けて行うことになった。私は第2ウェーブのスタートだったが、10分間隔で3,000人ずつスタートの号砲が鳴った。

 案の定、スタートから20kmくらいまでは何とか走れたが、そこから先の未知の世界では本当にゴールが遠かった。普段通勤で乗っている自転車とは違い、速度が遅いために周囲の景色の移り変わりが遅くじれったくなること、脚を止めたらその先一歩も進まないことなどで正直かなりしんどかった。

 それでもやはり沿道の声援は本当に力になった。仙台国際ハーフマラソンでも聞く、「頑張って!」、「ファイト!」という声に混じって、「ありがとう!」という声が多かったのには驚いた。震災後、人の賑わいが遠ざかっていた沿岸の集落の方々からすると、12,000人ものランナーが大挙して訪れるということに対しては、まさに「ありがとう!」という気持ちだったのかもしれない。

 沿道で声援を送ってくれる方々の中には、大きなざるにたくさんの塩タブレットを入れて、道行くランナーに「どうぞ持って行ってください」と声を掛けてくれたり、後半になると走る脚のトラブルが生じるランナーが出てくるということを見越して、エアーサロンパスを準備して「エアーサロンパスあります!最後まで頑張ってください」と声を掛けてくれたり、単に声援を送るだけでない人も多数見掛けた。こちらこそ「ありがとう!」である。と同時に、この辺りのことが実に東北らしいとも思った。

「BACK TO THE HOMETOWN」
 そう、この復興マラソンの特徴は他にもある。集落の名前を冠したスペシャルエイド「BACK TO THE HOMETOWN」である。今回のコース上には、「閖上」、「小塚原」、「美田園」、「北釜」(以上名取市)、「相野釜」、「藤曽根」、「二野倉」、「長谷釜」、「蒲崎」、「新浜」(以上岩沼市)、「荒浜」(亘理町)の合わせて11の集落があった。しかし、すべての集落が大津波によって甚大な被害を受けた。集落に住んでいた方々は長期の避難生活を余儀なくされた。11の集落のうち岩沼市にあった6つの集落は、災害危険区域となった先祖伝来の土地からの集団移転を決意して、海岸から内陸に3キロ入った玉浦地区の西側に新しい街をつくった。現地再建を選んだ残りの5つの集落でもまだ震災前の状態には戻っていない。これらの集落があった場所に今回、「BACK TO THE HOMETOWN」と名づけられたエイドステーションが設けられた。「BACK TO THE HOMETOWN」には当日、かつての住民が再び集い、ボランティアの人と一緒に水やスポーツドリンクを準備してくれただけでなく、地域に伝わる郷土料理を提供してくれたり、伝統芸能を披露してくれたりもした。

 当日は「はらこめし」(醤油などの調味料で煮込んだ鮭を込んだ煮汁で炊き込んだ鮭といくらの「親子丼」)、「せり鍋」(昆布や鰹節の出汁に鶏肉とせりを根っこの部分まで入れて醤油などで味付けして食べるなべ)、「岩沼とんちゃん」(ジンギスカン用の鍋で焼く豚のモツを用いたホルモン焼き)、「浜焼き」(水揚げされた新鮮な海産物を炭火で焼いたもの)などが振る舞われた。

 フルマラソン開催日に「当時の集落の賑わいを復活させたい」という実行委員会の思いで実現したまさに特別なエイドステーションである。このマラソンは今後も年に1回開催される予定であり、「年に一度、故郷が『BACK TO THE HOMETOWN』として蘇る」という趣旨で今後も設置され、ランナーと地域の人との交流の場となるに違いない。

雄勝石の「Finisher Stone」
18839530_1076395292494506_6791376177430904705_o さて、結局私の方はと言うと、筋肉痛で痛む脚に鞭打ちつつ、沿道の声援に背中を押していただいて、何とかかんとか3時間41分で完走できた。もう二度とやるものかと思ったが、ゴールして嬉しかったのは完走した人がもらえる「Finisher Stone」である。要は、石で造ったメダルなのだが、この石が何と、石巻市雄勝町特産の「雄勝石(おがついし)」だったのである。

 雄勝町は震災前、国内の硯の9割を占める圧倒的なシェアを持っていたが、その理由が町内で産出する「雄勝石」だったのである。硯だけでなく、高級な屋根材や庭石としても珍重されているそうだが、その歴史は古く、室町時代にまで遡るという。

 今回の「Finisher Stone」は、震災の大津波で流失し、地元の方々やボランティアの方々が回収した雄勝石を使っているとのことで、まさに復興の名を冠するマラソンに相応しい素敵な記念品となった。大会事務局では、「大震災を乗り越えた石!復興の象徴の石」として、「42.195kmという通常では考えられない距離に挑戦し、見事に乗越えられた『強い固い、意志=いし』を持つランナーの方々に相応しいメダルを贈りたい」との思いを込めたそうである。

被災地のグルメを堪能できる「復興マルシェ」
 スタートとゴールの会場である岩沼海浜緑地では、「復興マルシェ」も開催された。各ブースでは、宮城県内の30超の市町村、それに福島県、岩手県、熊本県のグルメが味わえた。ランナーだけでなく、会場を訪れたすべての方が楽しめるという趣旨のイベントで、実際たくさんの人で賑わっていた。

 こうして各地域の名物料理が一堂に会する様を見ているとつくづく、東北には豊かな自然の恵みが多くあることを実感する。この時期の亘理町の名物である「はらこめし」など特に人気のある名物料理はあっという間に品切れになっていた。私の好きな宮城県加美町のやくらいビールも、私がゴールする頃には全種類品切れとなっていた。マラソンで走らなくても、被災地各地のグルメを横断的に堪能できる場としても、この「東北・みやぎ復興マラソン」は貴重であると思った。

被災地の今を知り、交流する場に
 今年初開催となった「東北・みやぎ復興マラソン」、シャトルバスの運用などいくつかの点で次年度への課題を残したようであるが、何より全国から(今回全都道府県からエントリーがあったそうである)多数の人が被災地を訪れ、復興の現状をつぶさに見て、また各被災集落の方々とスペシャルエイドステーションである「BACK TO THE HOMETOWN」で交流できるというのは素晴らしい取り組みであると思う。

 毎年継続して開催されることで、その時々の復興の状況をつぶさに見ることもできる。震災の記憶の風化が指摘されるが、毎年のこの復興マラソンの模様が報じられる度に、現地の復興の状況についても触れられたり映像で伝えられたりすることも期待できるわけである。

 5年後、10年後、コースから見える景色はどのように変わっているのだろうか。ぜひ今後の継続的な開催を期待したい。


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私的東北論その101〜「『都市ブランド』と東北」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日刊行の「東北復興」第63号に掲載された記事を9月29日にこのブログで紹介して以来、「東北復興」の記事の再録が滞っていた。以下は9月16日刊行の「東北復興」第64号に掲載された記事の全文である。


東北は「住んでみたい」都市が少ない?
 「都市ブランド」という言葉を最近よく耳にするようになってきた。決められた定義はないようであるが、例えば後述する秋田県鹿角市の「『都市ブランドの確立』に向けた政策研究報告書」では、「特産品や観光地など、ある特定の地域資源がブランド化されたもの」を「地域ブランド」と呼び、「市全体の地域活性化へと繋がる地域ブランド構築の姿」を「都市ブランドの確立」と位置付けている。

 2014年10月の第29号で、ブランド総合研究所の「地域ブランド調査」のことを取り上げたことがあったが、昨年11月には日経BP総合研究所が「シティブランド・ランキング-住んでみたい自治体編-」を発表した。これは、「都市住民が持つ『住んでみたい』というイメージを『ブランド力』としてとらえ、その指標となるランキングを作成した」というもので、「都市ブランド」力を住んでみたいかどうかという視点で測ったものである。それによれば、「住んでみたい自治体」の1位は札幌市で、2位が京都市、3位が横浜市で、以下神奈川県鎌倉市、那覇市、福岡市、神戸市、沖縄県石垣市、北海道函館市、長野県軽井沢町と続く。東北の各都市では、仙台市の20位が最高で、他は上位100の中には盛岡市が93位、秋田市が97位にランクインしているのみである。

 注意しなければならないのは、この調査、「5大都市(五大都市圏の中心都市:東京23区、大阪市、名古屋市、札幌市、福岡市)の在住者5000人超に『将来、住んでみたい』と思う自治体を選んで」もらったものだということである。仮に仙台市民も調査に加わっていれば、東北各都市の順位はもっと高いものになったのではないかと思われるが、逆に言えば、東北を除く他の都市圏から見た東北各都市への認識というのがこれくらいのものだということは分かる調査結果となっているのではないだろうか。

 各都市圏の傾向についても明らかにされているが、東京23区在住者が将来住んでみたい自治体TOP50の中に東北の自治体は1つのみ、大阪市在住者、名古屋市在住者が将来住んでみたい自治体TOP50の中にも東北の自治体も1つ、札幌市在住者が将来住んでみたい自治体TOP50の中に東北の自治体はようやく2つあるが、福岡市在住者が将来住んでみたい自治体TOP50の中に東北の自治体は皆無である。ちなみに、福岡在住者が選んだ自治体の中に北海道の自治体は4つも入っているので、寒さや雪などが敬遠されているわけではないことが分かる。

 注目すべきは、石垣市や函館市、軽井沢町など県庁所在地ではない都市がベスト10にランクインしていることである。これ以外にも11位に沖縄県宮古島市、14位に沖縄県沖縄市、16位に長野県松本市、17位に千葉県浦安市、18位に北海道小樽市、19位に神奈川県箱根町が入っている。中でも軽井沢町、松本市、浦安市は、それぞれの県庁所在地よりもランキングが上位である。これらの都市は、まさに「都市ブランド」が確立しているところであると言える。すなわち、県庁所在地だけが有利なのではなく、「都市ブランド」を確立したところがランクインしているわけである。

「都市ブランド」発信への取り組み
 このような「都市ブランド」の重要性を認識した自治体が、自分たちの都市ブランドが何かを考え、取りまとめ、発信する事例が増えている。東北でも、例えば秋田県鹿角市は先述のように2015年に「『都市ブランドの確立』に向けた政策研究報告書」をとりまとめている。その中では、「全国」「市民」「転入者」「有識者」から見た鹿角市の地域ブランド形成の課題を抽出すると共に、SWOTクロス分析を行い、「鹿角ブランド」確立のための3つの戦略を立案している。

アジサイをモチーフとした北上市のロゴ また、岩手県北上市の取り組みはより徹底している。北上市では昨年6月に「きたかみ都市ブランド推進市民会議」を立ち上げた。「北上市の魅力を効果的に発信する『ブランドメッセージ』案を検討する」ことを活動テーマに掲げ、「魅力発散ワークショップ」、「魅力共有ツアー」などを開催して「ブランドメッセージ」の素案を作成、素案をベースにコピーライターが磨き上げたブランドメッセージ案を9案の中から4案を選定し、市民が投票する「北上市ブランドメッセージ総選挙」を開催して「ブランドメッセージ」、「KitaComing!北上市」をつくったのである。さらに今年はこのブランドメッセージの「ロゴマーク総選挙」も実施し、アジサイをモチーフに多彩な人や文化が調和する様子を表現したロゴマークを選んだ。コンセプトは「アジサイの花のように咲き誇る、地域コミュニティ」で、市が掲げた、活力ある地域コミュニティーが結び付く姿をアジサイの花に例えた「あじさい都市構想」ともマッチするものとなっている。

 もとより、そこに住む人が支持しない都市ブランドは成立しない。北上市の事例は、「自分たちのウリは何なのか」を行政主導ではなく、市民参加で考え、決めたところに大きな特徴があると言える。

桜と魚をあしらった塩竈市のロゴ また、宮城県塩竈市は、塩竈の都市ブランド・イメージアップ事業として、「『塩竈』を一目で連想・イメージできるお洒落で印象的なロゴマーク」を公募し、全国から集まった391点のロゴマークの中から最優秀賞を選んでいる。これなども全国にロゴマークを公募している点で、塩竈市という都市の認知度向上にもつながることも期待できる取り組みである。ちなみに、この時選ばれたロゴマークは天然記念物でもある「塩竈桜」と港町塩竈を象徴するような「跳ねる魚群」をモチーフとした作品が選ばれている。

 違ったアプローチを見せているのが仙台市である。東日本大震災での被災を踏まえて、「震災と復興の経験と教訓を継承し、市民の防災文化として育てる」ことを掲げ、また2015年に仙台で第3回国連防災世界会議が開催されたことを契機として「世界の防災文化への貢献」と「快適で防災力の高い都市としてのブランド形成」を目指すとして、「防災環境都市・仙台」を「都市ブランド」として打ち出している。

 以前紹介したが、第3回国連防災会議では、2030年までの国際的な防災・減災の指針となる「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。この「仙台」の名を冠した成果文書の採択都市として、震災の経験と教訓についての情報を発信すると共に、防災・減災に対する取り組みでも他の都市の先駆けとなるという方向性は、「都市ブランド」としても他にあまり例を見ないということもあり、大いに首肯できるものである。国連防災会議の後も、毎年3月に「仙台防災未来フォーラム」を開催し、今年11月に開催される「世界防災フォーラム」の開催地として名乗りを上げるなど、防災・減災に関する情報の発信を強く意識していることが窺える。一過性の取り組みに終わらず、息の長い取り組みとなることを期待したい。

「都市ブランド」力を磨くには

 さて、やや古いデータとなるが、首都圏居住者に絞って、全国の都市のイメージを測定、数値化した株式会社GAIN(現・株式会社モニタス)の「全国都市ブランド力調査」もある。「住んでみたい」だとハードルは高いかもしれないが、住むことにこだわらず、「行ってみたい」「体験してみたい」都市を自由に挙げてもらったというこの調査は、日経BP総合研究所の調査とはまた違って、しがらみのない、より自由な観点から都市のイメージが捉えられているように思われる。

 自由に挙げてもらったということから、こちらの調査では市町村と都道府県が入り混じっているが、1位が京都市で、2位が札幌市、3位が沖縄県となっている。以下、東京都、那覇市、横浜市、神戸市、北海道と来て、次に9位に仙台市が来ている。大阪市や福岡市、金沢市、長崎市、函館市、名古屋市などを抑えてのベスト10入りである。他に、盛岡市と青森市が30位、弘前市と秋田市が44位にランクインしている。「地域ブランド調査」の結果を合わせて考えてみると、仙台市を始め、東北の各都市は「住んでみたい」とまでは思われないものの、「行ってみたい」「体験してみたい」という点では他の都市と互角以上に渡り合えるポテンシャルを持っている、ということになるだろうか。

 ここに「都市ブランド」力を高めるヒントがあるようにも思える。すぐには「住んでみたい」とまでは思われなくても、「行ってみたい」「体験してみたい」と思われている東北の都市はいくつもあるわけである。

 この調査で「行ってみたい」の理由となっていたものは、最も多く挙げられていたものから「おいしいものや名物の食べ物を食べたいから」、「歴史や伝統があるから/感じたいから」、「今後住んでみたい/暮らしてみたいから」、「自然があるから」、「海、湖、川、港があるから」の順であった。このうち「住んでみたい」は先述の通り、「シティブランド・ランキング-住んでみたい自治体編-」では東北の都市がほとんどランクインしていなかったが、それ以外の理由は東北の各都市にも大いに当てはまる。東北の各都市としてはこれらを基に、「自分たちのウリは何なのか」について再度洗い出しをしてみるとよいのではないだろうか。その際に、北上市の取ったアプローチの方法は大いに参考になると思われる。

 今年5月の第60号で「東北でよかった」騒動について取り上げた際に、「東北においでよ」という投稿の多さについても紹介した。これなども「都市ブランド」にも直結している。なぜなら、それらの投稿は「○○があるから一度おいでよ」とアピールしているものがほとんどであり、この「○○」こそがその都市に固有の要素、他の都市と差別化できるもの、いわば「キャラの立っている」ことであるわけであるからである。

 これらの投稿の大半はそこに住んでいる、あるいは住んだことのある人によってなされていたが、そのことはつまり、「自分たちのウリは何なのか」を一番よく分かっているのは、他ならぬその地に住む人だということを示している。それらの声を集め、束ねることが「都市ブランド」確立の出発点になるのではないだろうか。


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2017年09月29日

私的東北論その100〜「観光とは外向きのことだけではない」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日刊行の「東北復興」第63号では、前号に引き続いて仙台の観光について、前橋と金沢との比較で考えてみた。それぞれ仙台にとって参考になりそうなことがあり、とても興味深かった。

 それにしてもこのブログの中の「私的東北論」、ついに100本目の記事である。よもや地ビールの話題よりも先に100に到達するとは思ってもいなかった(笑)。東北について毎回好き放題に書いているが、恐らくこれからもそのスタンスは変わらないものと思われる。とりあえず、以下が今回の全文である。


観光とは外向きのことだけではない

仙台のイメージとは

 前回は仙台市の観光について、普段あまり比較されることのない前橋市と金沢市との比較で考えてみた。今回も引き続き、この両市との比較で仙台市の観光を考えてみたい。

 まず、仙台市の観光について考える材料としては、「平成27年度仙台市観光客動態調査報告書」が参考になる。インターネットと仙台市内での聞き取りで仙台市のイメージや観光資源の認知状況、来訪者の動向などを調査したものだが、これを見ると、仙台が外からどのように見えているのかがよく分かる。

 まず、仙台の「情緒イメージ」として多く挙げられているのが、「歴史のある」(52.6%)、「伝統がある」(38.0%)、「文化的な」(25.6%)、「落ち着いた」(20.8%)などである。これらは同じ政令指定都市と比べても仙台が優位なイメージである。例えば、「歴史のある」は名古屋25.8%、福岡21.3%、札幌20.0%、「伝統がある」は名古屋19.1%、福岡18.0%、札幌15.6%、「文化的な」は札幌17.6%、福岡13.4%、名古屋13.2%であるので、仙台はこれらの都市よりもかなり「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」都市と見られているのである。

 せっかく他の政令指定都市よりもこのようなイメージで仙台を捉えてもらっているにも関わらず、仙台はその強みを活かし切れていないように見える。「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」仙台に行きたいと思った人が実際に仙台に来たとして、仙台のどこに行けば、これらを体感できるのかと考えてみると、甚だ心許ない気がするのである。

 ちなみに、金沢は「歴史のある」が69.8%、「伝統がある」が64.8%、「文化的な」が45.6%と、いずれも仙台のポイントを上回っており、金沢はこうした情緒イメージが仙台よりも強いことが分かる。金沢の場合、金沢城&兼六園、茶屋街といった観光資源があり、足を運べば歴史や伝統を体感できる。また、金沢には「金沢なんでも体験プログラム」という、加賀友禅、金箔工芸、九谷焼、加賀蒔絵といった金沢の伝統工芸や伝統芸能などを気軽に体験できるプログラムが用意されており、まさに金沢の文化を体感できる体制が整っているのである。このように金沢は、仙台以上に「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」と評価されたイメージを、実際に体験できるハードやソフトがあるわけである。そのことによってさらにこれらのイメージが強化されるという好循環が生まれているのではないだろうか。仙台が金沢に学ぶべき点はまずここにあると思われる。

海から山までつながっている仙台

 ちなみに、同報告書では、「観光資源イメージ」についても調べている。それによれば、仙台の観光資源イメージとして、「美味しい食べ物・飲み物がある」が53.8%、「美しい自然や景勝地に恵まれている」が43.0%、「伝統的文化がある」が28.5%と高い。

 「美味しい食べ物・飲み物がある」は札幌(71.0%)、福岡(61.5%)よりは低いが名古屋(47.8%)や金沢(47.6%)よりは高い。これは恐らく、牛たんと海産物が牽引しているものと思われるが、こうした明確なイメージを持ってもらえるアイテムがあるのは強みであることが分かる。

 「美しい自然や景勝地に恵まれている」も、金沢(49.2%)や札幌(46.8%)よりは低いが、福岡(12.4%)や名古屋(7.8%)よりは圧倒的に高い。これは「杜の都」のイメージや、実際に自然が多く残されていることによるものと思われるが、このことが体感できるスポットが青葉通りや定禅寺通りだけというのではやはり不十分である。

 あまり普段意識されていないことだが、仙台は太平洋から奥羽山脈までを含む多様な地域である。太平洋沿岸から山岳地帯までが全てある、自然の様々な姿を見ることのできる貴重な地域である。これは大きな強みであると思うのだが、このことを前面に出した観光案内などは今のところないように思う。海も平地も山も、全部の自然を体験できるパッケージができるとよいのではないだろうか。

 「伝統的文化がある」は金沢(55.3%)には比ぶべくもないが、名古屋(19.1%)、福岡(13.6%)、札幌(11.1%)を上回っている。先に紹介した「金沢なんでも体験プログラム」のようなソフトの充実が望まれる。

前橋に学ぶ伝える工夫
 観光に関しては、どう伝えるかも大変重要である。せっかくいい観光資源を持っていても、その存在やそのよさが伝わらなければ観光にとっては意味がない。その点で、前橋に行った時に手に取った観光パンフレットが実に秀逸だった。

およそ観光パンフレットとは思われない「kurun」の表紙 手書き風の文字で「kurun」と書かれ、そばに「まえばし くるん」と小さく書かれているが何のことかよく分からない。表紙は饅頭か何か、あまり見たことのない食べ物らしきものを目のところに持ってきている女性の写真で、下の方にはこれまた手書き風の文字で「Take Free」と書かれているが、表紙だけ見た限りでは、これが何の冊子なのか分かる人はそういないのではないかと思われる。

 中を開いてみると赤城神社、るなぱあく、弁天通り、チーズ工房、前橋の地酒、アーツ前橋などがグラフ雑誌のような感じで紹介されていき、焼きまんじゅうのところに来てようやく表紙のよく分からない食べ物が焼きまんじゅうという前橋の名物であることが分かる。他にも、自転車、まつり、音楽、文学などのことが書かれ、裏表紙まで来てようやく「くるん」というのが「来る?」の群馬方言で、かつ「前橋市に来たくなるように作られた冊子」であることが説明され、「前橋市観光パンフレット」という記載を見てようやくこれが前橋市のつくった観光パンフレットであることが分かるという寸法である。

 通常、パンフレットというのは、その地域の観光資源についての情報をこれでもかというくらいに詰め込んでいて、網羅性はあるもののインパクトに欠ける面がどうしても残る。その結果、読み手の印象に残らず、実際に足も運ばれないということになってしまう恐れがあるわけである。

 この「kurun」はその点を見事にクリアしている。他の地域にはない、前橋ならではの観光資源だけをピックアップし、その魅力をインパクトのあるタイトル、デザイン、写真でこれでもかというくらいに強調しており、それらを読み手に深く印象付けられる構成となっている。

 観光パンフレットというのは、その地域の「名刺」とでも言うべきものである。「私はこういう者です」ということを初対面の相手に伝える役割を持っているものである。ビジネスで初対面の相手にいかに自分のことを覚えてもらうかが大事であるのと同様に、その地域のことを分かってもらい、実際に足を運んでもらうことが観光パンフレットのミッションであるとするならば、その中身については、名刺が様々に工夫されているのと同様にもっと工夫されてしかるべきであると思う。

 なお、「kurun」はウェブ上でも閲覧できるのでぜひ一度見てみていただきたい。

金沢に学ぶ目指す都市像の明確化

 一方の金沢については、観光についての戦略やプランが実に充実している。観光を都市運営の柱にしようという強い意志と意欲が感じられる。金沢市のサイトを見てみると、「金沢魅力発信行動計画」(2012年2月)、「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」(2013年3月)、「金沢市国際交流戦略プラン」(2015年3月)、「金沢市観光戦略プラン」(2016年3月)、「世界の交流拠点都市金沢重点戦略計画」(2017年2月)など、観光や国際交流を強く意識して、そのために金沢として何を重視し、何を実践していくかを折に触れて明確にしているその姿勢がよく表れている。

 これらの文書を見て感じるのが、金沢が目指す都市像が、観光政策というフィルターを通して明確になっているという事実である。自分たちの住む都市がどのようなもので、これから何を目指すのか、ということは、多くの場合、意外に明確になっていないし、そこに住む人たちの間の共通理解にもなっていない。金沢では、観光政策という対外的な対応策の立案という形を借りて、そこの部分を明確にしている。言ってみればこれは、外に向けているようでいて、実は内に向けても発信しているように見えるのである。

 例えば、「金沢魅力発信行動計画」では、「金沢が培ってきた文化の継承・活用・育成」について、真っ先に「歴史遺産・伝統芸能等の文化に対するアイデンティティの形成」を挙げている。「歴史遺産や伝統芸能等の文化による魅力あるまちづくりを進めていくためには、まずその前提として、市民自らが金沢の文化の重要性や固有性を十分認識することが不可欠」と、そこには書かれている。つまり、観光を通じて、自分たちが何者なのか、何を大事にする(しようとしている)住民なのかを明確にしているのである。

 「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」には、世界の交流拠点都市としての機能を高めていくためには、「市民協働によるまちづくりを進めていくことが重要です」とある。してみるとこれは、一見観光政策のように見えて、実はまちづくりのことを謳っているのだということに気づく。この、観光とは結局のところ、自分たちが何者なのかを問い直し、明確にし、発信する一連のプロセスであると規定して、それを実際に実践している金沢の在り方は、大いに参考にすべきであると思う。

 その手掛かりとして、他からどう見えているのかを知り、その強みを活かす、強化することは重要である。その意味で、冒頭に紹介したような調査は有用であると思うが、肝心なのはその結果を踏まえた対応である。すなわち、金沢のように、具体的に何をするかを平易な言葉で内外に伝えようとするアクションである。金沢の「金沢市観光戦略プラン」には「かがやく」、「ひろげる」、「つどう」、「めぐる」、「もてなす」、「そだてる」、「つなげる」という、分かりやすく書かれた7つの基本戦略とそれに伴う主要施策が明示されている。観光を通して、自分たちの目指す都市像を自分たちで描く努力をすることが、自分たちにとっても重要であることに気づくべきである。


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2017年08月18日

私的東北論その99〜「観光都市としての仙台を三都市の比較で考える」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 7月16日刊行の「東北復興」第62号では、観光都市としての仙台について考えてみた。5月に機会があって前橋市と金沢市を訪れた際にそれぞれ印象的だったことがあったので、この2つの都市と仙台との比較の中から何か新しい視点が見出せないかと考えてみた次第である。

 以下がその全文である。


観光都市としての仙台を三都市の比較で考える

前橋、金沢、仙台

 東北における観光については、本連載でも何度か取り上げている。その中では特に、東北各県同士の観光領域における連携の促進について書いて来たように思う。今回は、東北全体ということではなくて、一都市に絞って見てみようと思う。具体的には私の住む仙台市である。

 今年5月に、前橋市と金沢市に足を運ぶ機会があった。観光に関してそれら2都市で感じたことはいろいろとあった。仙台が何かの領域で比較される場合、比較の対象となるのは大抵同じ政令指定都市であることがほとんどである。観光についてもしかりで、都市間比較の対象というのは仙台の場合、同じ政令指定都市、とりわけ札幌市、広島市、福岡市辺りと比較されることが多かった。

 もちろん、前橋市、金沢市と仙台市とでは、人口など都市の規模の面では異なるわけで、それで今まであまり比較されてこなかったわけだが、そうした差異をこの際度外視して見てみると、仙台の今後を考える際に参考になりそうなことが意外に多くあることに気がつく。

 今回はそうしたことについて取り上げてみたい。

三都市の比較
 まず三都市の比較である。前橋市は人口約33万5千人、金沢市は約46万6千人、仙台市は約108万5千人である。面積は前橋市が311.59㎢、金沢市が468.64㎢、仙台市が786.3㎢である。人口は仙台市が最も多く、前橋市が最も少ないが、仙台市は面積も大きく、前橋市は面積も小さいので、人口密度は三都市でそれほど大きな差はない。1平方キロメートル当たり前橋市が1,080人、金沢市が994人、仙台市が1,380人である。

 次に、三都市の特徴を見てみる。三都市とも県庁所在地で旧城下町であることは共通しているが、まず前橋市は赤城山の南麓に位置する内陸の都市で、寒暖の差は大きい。冬は「赤城おろし」と呼ばれるからっ風が吹き下ろし、雪は少ない。市の中心部にあるJR前橋駅は上越新幹線や上越線からは外れており、高崎駅での乗り換えが必要である。この高崎駅のある高崎市は人口で前橋市を上回っており、両市は群馬県内において「ライバル」と見なされることが多いようである。この辺りは福島県における県庁所在地福島市と人口で上回る郡山市の関係に似ているかもしれない。前橋市も仙台市と同様、戦災で市街地が焼けた歴史を持つ。かつ仙台市と同様、ケヤキが街路樹として植えられており、また街中を「広瀬川」が流れている。農業産出額は全国の市町村中16位で、特に畜産業の産出額は全国6位である。豚と乳用牛が突出しているが、前橋市では「TONTONのまち前橋」と銘打って、オリジナル豚肉料理を売りにしている。

 金沢市は、言わずと知れた旧加賀藩百万石の城下町であり、戦災の被害を受けなかったことから今でも江戸時代以来の街並みが残る。国の出先機関や企業の支社・支店が置かれることが多く、北陸三県の中の中心的都市でもある。日本海側気候で冬期の積雪は多い。元々、日本三名園の一つである兼六園や市内に3か所ある茶屋街、長町武家屋敷跡などの歴史的な建造物、加えて金沢21世紀美術館などの観光資源は特に著名だったが、北陸新幹線が延伸したことで首都圏からのアクセスが飛躍的に向上し、観光客増につながっている。伝統野菜である加賀野菜と豊富な海産物を用いた加賀料理、老舗の和菓子、日本酒などの評価も高い。最近では金沢カレーも有名である。加賀友禅、金沢箔などの伝統工芸もよく知られている。

 最後に仙台市である。伊達六十二万石の城下町として栄えたが、戦災によって歴史的建造物はあまり現存していない。江戸時代から防風・防火のための植林が奨励されたために伝統的に街中に樹木が多く、そのために明治時代の終わり頃から「杜の都」と称されている。この伝統は戦災復興の際にも受け継がれた。太平洋側気候で冬期の積雪は東北の中でも少ないが、奥羽山脈から乾燥した北西の季節風が吹き下ろすことが多く体感温度は低く感じる。夏期は海風の影響で気温はあまり上昇せず、真夏日や熱帯夜は比較的少ない。夏の「仙台七夕まつり」を始め、「仙台青葉まつり」、」「SENDAI光のページェント」、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、「みちのくYOSAKOIまつり」など一年を通して様々なイベントが開催される。主な産業は卸売業・小売業、サービス業で、総生産額の約8割を占める。食では牛たん、笹かまぼこ、ずんだ餅などが有名で、三陸の魚介類、仙台牛、ブランド米も知られる。

 私の理解している範囲では三都市はだいたい以上のようなプロフィールを持っている。

観光に関する三都市の現状
 さて、それではこれら三都市の観光についての現状を見てみよう。

 前橋市の観光入込客数は2015年に668万2千人。群馬県内からが528万9千人で、県外からは139万3千人である。宿泊客数は25万9千人である。群馬県全体の数字しか見つからなかったが、宿泊客のうち東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の一都三県で全体の約6割を占め、外国人宿泊客の割合は0.8%となっている。この割合を前橋市の宿泊客数に当てはめてみると外国人宿泊客数は3千人弱と際立って少ない。東京が近いことがあって、前橋市に宿泊するという外国人は少ないのであろう。

 金沢市の観光入込客数は北陸新幹線が開業した2015年に1006万4千人と初めて一千万人を超えた。このうち兼六園には308万9千人、金沢21世紀美術館には237万3千人が訪れていて、この2つが金沢市内で最大の観光資源であると言える。一方、金沢市近郊の湯桶温泉には6万4千人と、それほど多くの人は訪れていない。観光客の発地は、石川県内が350万8千人、関東が251万5千人で新幹線開業前の139万人から倍近い伸び、関西からは105万2千人となっている。宿泊客数は約343万6千人である。若干古いデータになるが、2013年の外国人宿泊客数は15万6千人であった。

 仙台市の観光入込客数は2015年で2229万4千人と初めて二千万人を超えた。宿泊客数は575万2千人であり、このうち外国人宿泊客数は11万6千人である。市内の主要観光地への観光客数は、秋保温泉が116万1千人、宮城県総合運動公園に147万3千人、楽天koboスタジアム宮城に141万4千人、仙台城址・瑞鳳殿・仙台市博物館が90万人、定義如来に84万9千人、八木山動物公園等に69万8千人となっている。

 興味深いのはイベントへの参加人数で、最も人が多く集まるイベントは今や「仙台七夕まつり」ではなく「SENDAI光のページェント」で301万人、次いで「仙台七夕まつり」が217万7千人、その次は「みちのくYOSAKOIまつり」で96万7千人、以下「仙台青葉まつり」96万人、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」が70万人などとなっている。

 仙台市は前橋市の3.3倍、金沢市の2.2倍の観光客が訪れているわけだが、人口比で見ると前橋市は人口の19.9倍、金沢市は21.6倍、仙台市は20.5倍で、さすがに金沢市が若干高いが、三都市でそれほど大きな違いはない。際立って異なるのは外国人宿泊客数で、前橋市が極めて少なく、仙台市は全体の数の割に金沢市よりも外国人宿泊客数が少ない。金沢市が前橋市、仙台市より明らかに外国人宿泊客数が多いのは、歴史遺産の数の差であるように思われる。戦災で焼け野原となった前橋市と仙台市は、歴史を感じさせる建造物やスポットが金沢市に比べて圧倒的に少ない。その差が外国人宿泊客数の差となって現れているのではないだろうか。

 金沢市を訪れた際に特に印象的だったのは、平日だったにも関わらず、観光客の数が非常に多いということであった。兼六園とそれに隣接する金沢城はもちろん、ひがし茶屋街、近江町市場など、どこに行っても観光客と思しき人たちが大挙して歩いていた。特に目立ったのはやはり外国人観光客であった。

検討に値する四ツ谷用水の復活
 ところで、私が金沢市でいいなと思ったのは、街中に江戸時代からの水路が今も残っていることである。表通りから一本路地に入るとそこには鞍月用水が流れていた。他にも中心部には辰巳用水、大野庄用水という、合わせて3本の水路があり、これが都市景観に文字通り「潤い」を与えている。前橋市でも金沢市ほどの規模ではないが、同様に水路があった。先に書いた「広瀬川」が実は江戸時代に整備された用水で、現在は河畔緑地が整備されてやはり素晴らしい都市景観をつくり出している。

 仙台の広瀬川は街中からはやや外れたところを流れているため、街中でこうした「水のある風景」を見ることはない。実は仙台にも江戸時代に造られた「四ツ谷用水」という用水があり、現在の市街地の至るところを流れていた。ところが、上下水道の整備によって生活用水としての利用が減少したことや、車社会の到来で水路にフタがされたことによって、地上から姿を消す部分が多くなり、今では街中ではほとんどその姿を見ることができなくなっている。

 一度地上から姿を消した用水を復活された事例が仙台市の隣の山形市にある。同じく旧城下町である山形市にもかつて山形五堰と呼ばれる水路があったが、やはり時代の移り変わりと共に暗渠となり、その存在すら知らない市民も多かったという。そうした現状に対して、街中にオアシスのような空間を創造するということで、中心部の七日町商店街の店主らがまちづくり会社「七日町御殿堰開発株式会社」を設立、7年前に五堰の一つ「御殿堰」を「水の町屋七日町御殿堰」として街中に復活させたのである。この御殿堰、新たな観光スポットとして市民や観光客の憩いの場となっている。

 仙台でも昨年、四ツ谷用水の一部である「桜川」を歴史遺産として復活させようという「仙台『桜川』を復活する市民の会」が立ち上がった他、仙台市の環境共生課も6年前から「四ツ谷用水再発見事業」として各種イベントを開催している。こうした官民の動きがうまく合わされば、四ツ谷用水の復活も現実味を帯びてくるのではないだろうか。

 現在、戦災で焼失した仙台城の大手門を復元させる動きも出ているが、合わせて四ツ谷用水も復活させることで、より旧城下町に相応しい歴史を感じさせる街並みとなるに違いない。

 これまで「杜の都」として売ってきた仙台市だが、四ツ谷用水を復活させて旧仙台藩の時と同様、樹木が豊富で水路が巡る「杜と水の都」としてバージョンアップできれば、観光都市としての仙台市の魅力はより高まるのではないかと考える。


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2017年08月03日

私的東北論その98〜斉藤竜也さんのこと(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された「東北復興」紙の第61号には、前月の5月に急逝した青森の斉藤竜也さんのことについて記した。生きていればきっと、青森をもっともっと変えていったことだと思う。本当に残念である。しかし、死がすべての終わりでないということをも、斉藤さんは教えてくれた気がする。以下がその時書いた全文である。


斉藤竜也さんのこと

12640273_447731762094105_277118839127586074_o 今回は東北・青森に生きた一人の人について書いておきたい。

 斉藤竜也さんは北海道出身の37歳。大学院を修了した後、青森市の介護事業所へ就職。ヘルパーステーションの管理者として仕事をする傍ら、「Link with」という任意団体を立ち上げて活動していた。

 「Link with」は、青森市内の医療職や介護職つないで仕事でも連携できる関係性を構築する場をつくることで、そこに住む人が医療や介護が必要になった時に切れ目なくよりよい医療や介護を受けられる地域をつくろうとしていた。

 設立は2014年9月、そこからわずか2年8か月の間に、「Link with」は少なくとも15回のイベントを開催し、地域をつくるたくさんの人と人とつなげてきた。「Link with」は「つなぐ」、「結びつける」、「きずな」の意味だという。青森県はかねてから、団塊の世代が75歳となる2025年に向けて、「保健・医療・福祉包括ケアシステム」を構築しようと取り組みを進めていた。その実現のためには、保健、医療、福祉それぞれの関係者が自らの枠を超えてつながり、連携していくことが必要となる。「Link with」はそうした面においての「つながる機会の創出」を会の目的としていた。

 斉藤さんは「Link with」のブログにこう書いていた。

「同じ職種や分野、職能団体で顔を合わせたり研修をする機会はそれぞれあるしネットワークもないわけではないけれど、それを越えて情報交換をしたり集まる機会はほとんどないよね。だとしたら、飲み会からでもいいからそういう場を作れたら、もっと地域に自分たちができることを探っていけるし自分自身の幅にもなっていくよね。じゃぁ、まずは自分たちのお知り合いに声をかけて、交流会をしてみよう!!」

 北海道から青森に来たということで元々の知り合いが少なかったであろう斉藤さんはきっと、地元の人以上に知らない者同士がお互いがつながることの重要さに気づいていたのだろう。仲間と共に「Link with」を立ち上げ、2014年11月15日に「Link with」として初めての「福祉と医療の情報交流会」を開催した。そこには行政、医療、福祉関係者ら52名が集まった。今までになかったつながりが生まれた瞬間だった。

 実は、斉藤さんが立ち上げた「Link with」と同じような活動をしている団体が仙台にもある。「ささかまhands」という団体である。「ささかまhands」は「Link with」ができる前年の2013年3月に設立された。仙台での地域包括ケアシステムの具現化を目指し、そのために多職種がスムーズに連携できるよう、各種交流会や研修会を企画していた。

 代表の須藤健司さんは、そうした取り組みについて、2014年3月に開催された全国介護事業者協会(民介協)の「第8回全国事例発表会」で発表していたが、その発表を斉藤さんが会場で聞いていて、終了後須藤さんに声をかけて、青森でも同じようなことをやりたいんだと話したそうである。

 翌2015年2月7日、その「ささかまhands」が主催した「自分らしい暮らしが出来る仙台を考えるシンポジウム」が仙台市内で開催され、そこに斉藤さんも参加した。この時のことについて斉藤さんは、自身のfacebookで、「ささかまhands、シンポジウム(総勢250名の参加)と懇親会(総勢100名の参加)と参加させていただきました!いや〜規模がでかい!」と綴っている。私はこの場で斉藤さんと初めてお会いした。自分の住んでいる地域をよりよいものにしたいという思いが言葉の端々から感じられて、初対面ながらすっかり意気投合した。

 その後、斉藤さんは青森でほぼ2〜3ヶ月に1回のペースで多職種が集う会合を企画した。毎回キャンセル待ちが出るくらいの盛況で、青森の多くの専門職がこのような場を求めていたことが如実に表れている。

 青森県内では、こうした様々な専門職による自主的な団体が相互に交流する集い「青森サミット」を2015年から開催し始めた。その第2回の「青森サミット」が2016年9月10日、「Link with」の主催で青森市内で開催された。1年半前、斉藤さんが驚いた「ささかまhands」シンポジウムの2倍もの約500名の参加者が会場に集結した。斉藤さんは三村青森県知事に講演を依頼し、青森県の目指す保健・医療・福祉包括ケアシステムについて話してもらっていた。

 この日のことについて斉藤さんは、「参加総数500名弱、今日の準備のために約1年、でも今日という日はあっと言う間の1日でした。そして一生忘れられない1日になりました。協力いただいた方々に感謝感謝!」と書いている。しかし、斉藤さんは本当は2,000名くらいの人に来てもらうことを目指して準備を進めていた。この「青森サミット」の開催に当たって、斉藤さんは勇美記念財団から助成金を得ていたが、その報告書の中で、参加者数が目標に達しなかったことに触れ、「『地域包括ケア』につて知らない方が多い、興味のある方が少ないという事が言えると考えます。『地域包括ケア』の主役は地域住民ですので、主役無しで専門職だけが地域のために行動しないよう心掛けなければいけません。地域に必要な事・モノを知るために、地域に暮らす住民と対話をする場をつくる事が課題です。そしてその場をつくる事ができる一つのツールとして自主団体がある事を、継続して広めていきたいと考えています」と振り返っていた。

 これはまさに斉藤さんの書いている通りで、人が自分の住み慣れた場所で最期まで暮らしていける地域をつくるためには、専門職だけの力では足りず、何よりその地域に住む人自身が当事者として専門職と一緒に地域づくりを考えていく必要がある。「Link with」の次の展開として、斉藤さんは地域住民を巻き込んだ動きを考えていたようである。

 その前提としてはやはり専門職同士の分野を超えた結束を深めていく必要があり、斉藤さんはその後もそうした人たちが集う場をつくり続けた。2017年4月22日の第11回企画「好きです青森〜あなたのために、私ができること〜」には、小野寺青森市長も駆けつけた。その小野寺市長には、8月19日に第13回企画として「好きです青森!青森市長 小野寺晃彦さんと話そう」のテーマで講演してもらう予定になっていた。人をつなぎ、地域をつくる、そんなみんなの輪の中にはいつも、斉藤さんがいた。

 2017年5月13日、斉藤さんは急逝した。4月に37歳になったばかりであった。その日、出勤せず、連絡もつかないことを心配した職場の上司が斉藤さんの自宅を訪ねたところ、ベッドの中で斉藤さんが既に亡くなっていた。警察による検死の結果、就寝中に心不全を発症したとのことであった。

 5月17日に北海道から来たご両親と一緒に、斉藤さんの遺体はフェリーで故郷に向けて出発した。青森港には、斉藤さんの死を悼む仲間がおよそ50名集まり、「まいける ありがとう」の横断幕を掲げて見送った。斉藤さんは「麺屋まいける」と称しており、仲間たちは彼のことを「まいける」と呼んでいた。「麺屋」はラーメン好きのところから、「まいける」はマイケルジョーダンが好きだったところから考えたらしい。

 設立してから3年弱の間にたくさんの人と人をつなぎ、斉藤さんは、旅立った。青森県内に職種を超えた新しいつながりをつくり続けた。人と人をつなぎ続け、ものすごい速さで人生を駆け抜けていってしまった。

 亡くなるほんの数時間前の5月12日23時32分。斉藤さんは、「ささかまhands」が毎年開催し、私も実行委員として協力している「MEDプレゼン@仙台」への参加を申し込んでいた。私も実は8月19日の「Link with」の集まりには参加するつもりでいた。何もなければ、今年は斉藤さんと二度、仙台と青森で話をすることができたはずであった。そうして話ができたならどんなによかっただろう。しかし、それが叶わなかった現実は何と悲しいのだろう。つくづくそう思った。

 しかし、斉藤さんが亡くなったという事実は消せなくても、斉藤さんがつないだつながりはこれからもずっと決して消えない。斉藤さんが亡くなったという連絡をくれたのは、斉藤さんと一緒に「Link with」の活動を行ってきた仲間の人だった。もちろん、私は面識もないし、話したこともなかった。そのような人と何人もつながれた。斉藤さんが仙台に来るつもりだったということを知って、斉藤さんの仲間が2人、「MEDプレゼン@仙台」に参加してくれ、会って話すことができた。斉藤さんは自らの死を以てすら、人と人とをつなげたのである。

 斉藤さん亡き後の「Link with」がどうなるのか心配だったが、仲間の皆さんが引き続き斉藤さんの思いを引き継いで活動を続けるとのことである。斉藤さんが目指した、大切な一人ひとりがつながってつくる地域。これからも同じ東北の中で、一緒に人をつなぎ、そうした地域をつくることを続けていきたい。人をつなぐ者同士がつながり、さらにそのつながりを広げていきたい。この東北の地に生まれ、育ち、暮らしている人が、「ここで生きてよかった」と感じられる地域を、一緒につくっていきたい。

 「小さな思いを形にするために、何ができるか まずはやってみよう! 私たちの未来のために行動しよう!」

斉藤さんの言葉である。

 昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るとは限らないのだ、ということは、6年3カ月前に嫌というほど痛感したことであった。いつの間にかまた、そうしたことを忘れかけて、迂闊にもあたかもずっと変わらないかのような毎日を送り続けていたことに思い至った。もし明日が来なかったとしても、今日できることを今日のうちにやっておく。少なくとも今日、自分の目指す方向にちょっとでも向かうことができた、そう思える日々を重ねていくことが、何にも増して大事なことなのだ。斉藤さんからそのことを改めて教えてもらったように思う。


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2017年08月02日

私的東北論その97〜「東北でよかった」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙、今年の5月16日に刊行された分で60号に達した。月刊なので足掛け5年ちょうどである。この間、ひと月も休まずに同紙を刊行し続けた砂越豊氏には心から敬意を評したい。5年を一区切りとして完結させる考えもあったようであるが、東北の復興が今に至っても道半ばであることもあって、さらに続ける決意を固められた。
 バックナンバーを見てみると、その時々で課題となっていたことが的確に取り上げられている。その意味で、同紙は東北の復興に関しての貴重な記録の一つである。今後の展開にも期待したい。
 さて、その記念すべき5周年、60回目の原稿は例のアレについてであった。以下がその全文である。


「東北でよかった」

「あっちの方だったからよかった」

 今村雅弘氏が復興大臣を辞任した。自身が所属する派閥のパーティーでの講演の中で、「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」と発言したことがきっかけとなった。

 恐らく、被災地が東北だったからこれくらいの被害額で済んだのであって、これが首都圏だったらこんなものでは済まないはずだ、ということを言いたかったのだろう。ただ、それにしても、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」はいかにも余計である。災害が起きたのがどこだったからよかった、どこだったらよくないということはない。どこであっても、災害が起きてよかったということはない。

 そして、もう一つ、「あっちの方」という言葉である。むしろ、この言葉の方に今村氏の東北に対するスタンスが表れているのではないかと思った。東北は「あっちの方」、つまり「こっち」じゃない。どこか遠いところ。自分のいる場所とは違うところ。東北に対するそのような今村氏の認識が感じられる。

 今村氏は、「総理からの御指示や内閣の基本方針を踏まえ、現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と就任時の記者会見で述べている。「被災者に寄り添って」と言うが、自分だけ被災者と違うところに身を置いていて、どうやって寄り添うつもりだったのだろう。

 前復興大臣が東北の復興に対して、全く無関心であったとは思わない。福島の企業を訪問した時にもらったアニメ柄のネクタイを、「風評対策を含めて、とにかく地元のいろいろ企業を元気にしようという思いで」締めてきたと語っているし、辞任の前日には岩手の三陸鉄道の「三鉄オーナー」にもなっている。ちなみにこれは、岩手県へのふるさと納税「ふるさと岩手応援寄付」で三陸鉄道への支援のために10万円以上寄付した人のことで、「オーナー」は今村氏が5人目であった。JR九州出身の同氏らしい復興支援と言えた。

 ただ、残念ながら、ご自分の発する言葉に対する感度がそれほど高くない方だったのかもしれない。講演後の記者とのやり取りでも、この発言の何が悪かったのか全く分かっていない様子であった。そこの感度は、今村氏の発言についてその後にすぐさま謝罪した安倍首相とは対照的であった。安倍首相は、「まず冒頭ですね、安倍内閣の今村復興大臣の講演の中におきまして、東北の方々を傷つける、極めて不適切な発言がございましたので、総理大臣としてまずもって、冒頭におわびをさせていただきたいと思う次第でございます」と述べた。恐らくその時点で、「この発言はかばい切れない」と思ったのだろう。


「東北でよかった」の劇的転換
 さて、そのような今村氏の「東北でよかった」発言とその後の辞表提出を受けて、私はfacebookに、「生まれ、育って、今も生活している場所が『東北でよかった』と、心底私は思ってます。前復興大臣も一度住んでみたらいいと思う。ホントいいところなんだから。(^▽^)」と投稿した。日が変わって4月26日の0時59分のことだった。普段、飲み食いした店の話や参加した会合の模様を発信するのがほとんどの私の投稿の中では、異例な感じの投稿だったが、お蔭様でいつもの倍以上の「いいね!」やたくさんのコメントをいただいた。

 私の友人も同様に、「僕は生まれたのが『東北で良かった』。音楽を学んだのも『東北で良かった』。僕の街もステキな街だし、死ぬまで東北に住んでいたいゼ。東北の田舎の人たちだから助け合えたし乗り越えられた。東北『が』良かったって言い間違えたんじゃないかな?まあ、関東の爺様の言うことにいちいち腹は立てない。この機会に、みんな東北一度は来て見て。」と投稿していた。

 一夜明けて、私のそのfacebookの投稿へのコメントで、ツイッターのハッシュタグで「#東北でよかった」がすごいことになっていることを教えてもらった。見てみるとそこには予想だにしなかった投稿が並んでいた。東北の美しい景色や美味しい食べ物の画像、心に残るエピソードなどが、「#東北でよかった」のハッシュタグと共に大量に投稿されていたのである。

 どうやら、最初のうちはやはりこの「#東北でよかった」のハッシュタグは、今村氏の発言を批判、非難するものばかりであったらしい。ところがその後、この「#東北でよかった」が、まさに「東北でよかった」という意味で投稿されるように変わり、その意味での投稿が圧倒的な数に上ったのである。なんという鮮やかかつ素敵な切り返しだろう。様々な画像に添えられていたメッセージも印象的なものが多かった。

「#東北でよかった 生まれた場所が」
「#東北でよかった ボクらのふるさとが」
「綺麗な景色 優しい人達 旨い飯…(酒…) 生まれた場所が #東北でよかった」
「私の大好きな、愛すべき地方が #東北でよかった」
「2008年から、震災を経て、2014年まで住んだ宮城・仙台は、私にとって第二の故郷。心から #東北で良かった」
「故郷を離れても忘れない。あの町で育ってよかった。#東北でよかった」
「生まれも育ちも、良かったと思える場所だよ。ご飯が美味しい、素朴な人々、のどかな景色。これだけで東北でよかった、なんだよ いいとこだよ、東北」
「震災後、東北に5回旅行しました。福島、宮城、山形、青森の地元の人たちはいつもあたたかくみんな親切で、東北に遊びに行って良かったなあと思っています。まだ訪れていない所へも旅しようと思います」
「初めて鉄道目的の旅行で、迷った時、優しいおばあちゃんに教えてもらいました。 あの時のことは忘れられない」
「かなしみも よろこびも すべてつつんでくれる #東北でよかった」
「みんな! #東北でよかった ってのは、こういうことを言うんだってことを教えてやろうぜ!」
「失言で終わらせないのは確かにいいな。というわけで、去年の仙台七夕。夏は東北各地で祭りが開催されます。おいでよ東北」
「このハッシュタグがいい意味で使われてトレンドに上がっているのが東北民としては嬉しい。」
「これぞ東北の心意気」
「生まれた場所が #東北でよかった こんなにも強い仲間がいる。おいでよしてる仲間がいる」
「#東北でよかった のタグが素敵な写真でいっぱいで、本当に東北は良いなと思いました」
「ひどい言葉を言われても、ひどい言葉で返さないで、何言ってんの、私たちの住む地の素晴らしさを知ってよって、みんなが笑う、そんな東北でよかった」

 東北に住む人、東北に縁のある人、東北に心を寄せてくれている人によるこれらの投稿、本当に素晴らしいとしか言いようがない。


復興大臣が今村氏でよかった
 そしてまた、これらの東北に関係する人たちによる投稿を見た人たちからも、好意的なコメントがものすごい数投稿されていた。曰く、

「なんて強くて綺麗なタグ…」
「このタグ、なんとなく見てみたら『東北本当にいいところだよ!東北に生まれて良かった!東北に行って良かった!』的なツイートで溢れてたから世界は本当に美しいなおい!ってなった」
「こういう失言を明るく変えていく流れ好きです」
「愛にあふれたタグになっていた」
「すてきな使い方になっていて涙が出た」
「さっそく #東北で良かった  という言葉の『良い東北を広げよう』としてるツイートを発見し、心打たれました…」
「みんな東北のハッシュタグが素敵な方に使ってていいなって思った」
「タグが素敵すぎる」
「不適切発言を裏返すこのタグには感動。震災を経験したからこその団結力」
「震災にも負けない人たちを見ることができた」
「このハッシュタグのお陰でほっこりした」
「美しい国。『よかった』って言葉はこう使うのだね。とても素敵な意味に変わってる、このハッシュタグ」
「ステキなタグになって本当に嬉しい 私  関西人だけど、さんさやはねこを踊った事があるんだわ」
「あぁなんて素敵なタグなんでしょう」
「なんだろうこのタグ…目から水滴が…」
「このタグ泣くよ… 東北は行ったことないけど絶対行きたい土地の一つ」
「変な意味を持ったタグを乗っ取ってオラが町自慢の幸せなタグに変えてしまう東北人の図々しさ大好き」
「失言が、#をつけたことで郷土愛に変わった。失言する人がいる一方で、その失言を『東北の魅力を発信するハッシュタグ』にして、東北を盛り上げよう、応援しようとする人もいる。そんな国でよかった。こんなに泣けるハッシュタグは初めて」

このように、「東北でよかった」という言葉が、発せられた時の意味を離れて、一夜のうちに本来の意味を取り戻したことに対する驚きと称賛の声が溢れていた。

 この「東北でよかった」、同時多発的に起こっているのが興味深い。私のfacebook投稿はこれらツイッターの投稿とは関係なく行ったものだし、友人のも恐らくそうだ。ツイッターだけではなく、インスタグラムでも同様に「#東北でよかった」のハッシュタグでの画像がものすごい数投稿されている。「東北でよかった」と思っている人がそれだけ多数いて、今村氏の発言が引き金となって、ネットに溢れ出たということだろう。

 「東北でよかった」が「東北においでよ」につながっている投稿の多さも特筆に値する。私の投稿も友人の投稿も東北に来てみることを勧めているし、多くのツイッターの投稿も東北の素晴らしい景色や美味しそうな料理の画像を投稿して「東北においでよ」と投稿しているものが多い。

 このように「東北でよかった」のハッシュタグで東北に来ることを勧めている東北人に対して、既に「おいでよ族」という称号(?)も与えられている。こんなツイートがあった。

「『東北で良かった』についた悲しいイメージを払拭するかのように、『#東北でよかった 』とタグ付けしてTLに流れる東北の生命力の強さを現す光景…… さすが、おいでよ族の民たち」

このツイートに対して、

「そう。我らはおいでよ族の民」

と返している人もいた。

 この「おいでよ」という投稿の多さこそ、東北に住んでいる実に多くの人が、自分たちの住んでいる土地に対して愛着を持っていること、誇りを持っていること、心底いいところだと思っていることの何よりの現れであると思う。それが夥しい数の「東北ってこんなにいいところなんだよ、とにかく一度おいでよ」という投稿になっているのである。

 最後に。今村氏のあの発言がなかったら、これら東北を巡る数多くの素晴らしい投稿もなかったわけである。誰も言わないが、私はあえて言おう。復興大臣が今村氏でよかった、と。


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2017年07月31日

私的東北論その96〜2回目の「仙台防災未来フォーラム」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第59号では、昨年初開催された「仙台防災未来フォーラム」について取り上げた。この取り組み、ぜひ今後も毎年続けてほしいものである。以下がその全文である。


2回目の「仙台防災未来フォーラム」

「仙台防災未来フォーラム」とは
 3月12日、「仙台防災未来フォーラム2017」が開催された。昨年3月の第46号で取り上げたが、一昨年仙台で開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年初開催された、地域における防災の取り組みを共有し、これからの防災について考えるためのフォーラムである。

 震災の発生から6年が経過した。この間の震災の経験や教訓を、地域を超えて、世代を超えて、どのように伝えていくかについては、多様な主体、媒体が手探りで様々な取り組みを続けている。そのような中で、この「仙台防災未来フォーラム」は、仙台市が主催し、震災経験の伝承や、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災といったさまざまなテーマについて、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えるという趣旨で開催されている。

 一昨年の3月に開催された「第3回国連防災世界会議」には、世界185か国から6,500人以上が参加し、成果文書として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。「仙台」の名を冠するこの防災枠組は、防災に関わる新たな国際的な取り組みの指針で、期待される成果と目標、指導原則、優先行動、関係者の役割や国際協力等が規定されている。枠組の策定に当たっては、東日本大震災からの復興を目指すこれまでの取り組みを踏まえて、多様な主体の関与や防災・減災への投資、「より良い復興(Build Back Better)」の重要性などが日本から提案され、その考え方がこの枠組の中には取り入れられている。

 「仙台防災未来フォーラム」は、この国連防災世界会議の仙台開催から1周年となったのを機に昨年3月に開催され、今年が2回目である。仙台市では現在、子供から高齢者まで、性別や国籍の違い、障害の有無などによらず、地域のすべての関係者が自助・共助を担うという地域づくりを進められている。フォーラムは、そうした取り組みを踏まえ、防災の担い手たちが自分たちの取り組みを共有・継承することで、新たなネットワークを生み出し、未来の防災に貢献することが目的とされた。


「インクルーシブ防災」とは

 今回のフォーラムのテーマは「経験を伝える・共有する・継承する」で、6つのテーマセッション、ミニプレゼンテーション、連携シンポジウム、各種関連イベント等が開催された。6つのテーマセッションの一つは「インクルーシブ防災を目指した地域づくり」である。「インクルーシブ防災」とは、障害者や高齢者などを含む、あらゆる人の命を支える防災を目指していこうという考え方である。東日本大震災を機に防災・減災への関心は高まり、日頃からの備えと対策が必須だと言われているが、災害発生時の対応はまさに平時の取り組みの延長であるとされる。そしてまた、災害が発生した際の安心・安全の確保には、普段からの地域住民の相互理解とネットワークの構築が大切である。

 このセッションでは、そうしたことを踏まえて、「仙台防災枠組」に記載されたステークホルダーの役割を問いつつ、インクルーシブ防災をめざした地域づくりについて議論が行われた。その中で、立木茂雄氏(同志社大学社会学部)は、「災害時の当事者力イコール防災リテラシー」で、防災リテラシーは「理解×備え×とっさの行動」と指摘していた。そして、平時のケアプランから個別に災害時ケアプランを作成する『別府モデル』を構築しようとしている取り組みについて紹介した。山崎栄一氏(関西大学社会安全学部)は、法学の専門家の立場から、「インクルージョンとは、排除・除外のない状態」で、そこには「意図的な差別的取り扱い」以外に、「無配慮・無関心によるもの」もあるとした上で、各種の支援制度には、「支援」、「配慮」に「参画」を加えた三要素の連動が必要と指摘した。阿部一彦氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「障害による暮らしにくさは個人の問題でなく、多くは社会環境によって作り出される」と訴えた。

 コーディネーターの三浦剛氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「地域に住む住民を理解し、日頃からの関わりを通してどのような支援が必要か把握していくことが『我がこと・まるごと地域づくり』の推進につながる」とまとめたが、フロアから発言した熊谷信幹氏(柏木西部自治会防災担当)は、「『インクルーシブ』と言うが、そもそも障害者基準で防災システムを作るべき」と主張した。「誰でも年老いたら障害者」であり、「障害者は多数派」なのだから、「『障害者も交ぜてくれ』という話は筋違い」だという論旨で、フロアから拍手が起こっていた。

 他には「"地域のきずな"が生きる防災まちづくり〜仙台市の事例から学ぶ」というテーマセッションもあった。「持続可能な防災まちづくり」を進めていくために、日頃からの“顔の見える”人と人とのネットワークや地域コミュニティづくりがまず大切ということから、「日常的にまちづくり活動が活発で、それが防災の優れた取り組みにもつながっている」という事例を共有し、コミュニティーにおける地域防災の今後の活動や課題解決のヒントを考えるという趣旨のセッションであった。登壇した今野均氏(片平地区連合町内会)の「防災活動はまちづくりの一つ」という言葉に如実にそのことが表れていた。

 また、菅井茂氏(南材地区町内会連合会)は、「自分達のまちは自分達で守る。自分の命は自分で守る。そのために地域で顔の分かる関係の構築が大切」と訴えた。町内会として他の被災地に「押しかけ支援」としてできる範囲の支援・協力を行ってきたを続けてきた福住町町内会の菅原康雄氏は、その秘訣として「できることから始める」を挙げた。その上で、「自助・共助に加えて、自制(見返りを求めない)・他助が大事」として、「自助・共助で助かった命で他を助ける」ことの重要性も強調した。

 こうした発表について、佐藤健氏(東北大学災害科学国際研究所)は、「日常的なまちづくり、ひとづくり、きずなづくりの取り組みが防災力を高め、活動の持続可能性と次世代の人材育成という波及効果ももたらす」として、そこでは「ソーシャルサポート」と「コミュニティ・ソリューション」の2つがキーワードであるとした。


「多様な主体」による防災・減災
 フォーラムのまとめとして、「クロージング」が行われた。ここでは、それぞれのテーマセッションでの議論結果が報告されると共に、それを基に震災の経験や教訓などを伝えることについて、その大切さや課題について考え、多様な主体(マルチステークホルダー)による防災・減災の取り組みの今後の方向性などについて参加者で共有した。

 「ともに考える防災・減災の未来〜『私たちの仙台防災枠組講座』、『結プロジェクト』合同報告会〜」の保田真理氏(東北大学災害科学国際研究所)は、報告会の模様を紹介しつつ、「社会の構成員全てが共に考えることがレジリエントな社会をつくる」と述べた。「もしものそなえ SENDAIと世界のつながり〜伝えよう、共有しよう、継承しよう〜」の秋山慎太郎氏(JICA地球環境部)は、JICAの取り組みを伝えつつ、「伝えていく中で、伝えられる側、伝える側双方の学びが重要。それがもしもの備えにつながる」と指摘した。

 「震災から6年・教訓伝承と防災啓発の未来〜連携と発信の拠点づくりに向けて」と「次世代が語る/次世代と語る〜311震災伝承と防災〜」の武田真一氏(河北新報社防災・教育室)は、「震災だけでなく、地域の過去や未来、希望も併せて伝えることでさらに(震災のことを)伝えられる」と強調した。ミニプレゼン・展示ブースの小美野剛氏(JCC-DRR事務局)は、「教訓を未来の活動につなげる」ことの重要性に言及しつつ、「全ての活動は共感に基づく」こと、そしてこれからは「単なる支援から、新たな価値の創造への移行が必要」であることも併せて主張した。

 コメンテーターの松岡由季氏(国連国際防災戦略事務局)は、一連の発表を踏まえて、「『レジリエント』と『インクルーシブ』が仙台防災枠組のキーワード」であり、「社会全体が『レジリエント』であるためには『インクルーシブ』である必要がある」とまとめた。また、「伝承は人の命を救う力がある」とも述べた。もう一人の立花貴氏(公益社団法人MORIUMIUS)は、「防災は日常の延長線上」にあるとして、「地域の取り組みが有事にも機能」するとした。また、「単なる事実でなく、そこに込められた思いを伝える」ことが震災の伝承においては重要であるとも指摘した。

 会場では、「救州ラーメン」も販売された。東北の被災地での提供食数が10,000食超というプロジェクトで、博多ラーメンの老舗「秀ちゃんラーメン」によるラーメンの炊き出しを通じた復興支援である。また、仙台市内では2月から3月に掛けて、今回のフォーラムに関連して、様々な防災・減災・復興に関するイベントが開催された。まさに「多様な主体」による防災・減災の取り組みである。


六県連携でより幅広い発信を
 仙台市では、11月に「世界防災フォーラム/ IDRC 2017 in SENDAI」の開催が決定した。スイスのダボス2年に1回開催される防災の国際会議「国際災害・リスク会議」(IDRC)で発表されたもので、東北大学、仙台市が中心となって内外の防災関係者が集い、震災の教訓・知見の発信や議論を行いながら連携を強化する場として開催するもので、今年だけでなく、以降も隔年での開催が予定されているという。

 仙台防災未来フォーラムに加え、世界防災フォーラムも開催されることとなり、東日本大震災への対応、そこからの復興に関する情報発信を継続的に行っていく場が着々とつくられていることは実に喜ばしいことである。願わくは、これを仙台市だけの取り組みとするのではなく、宮城県内の他の市町村や東北の他の五県とも連携して、より幅広い情報を発信していってほしい。

 岩手県内の沿岸市町村の復興への動きは仙台市とはまた異なるし、福島県内の沿岸市町村は言うまでもなく原発事故による影響が加わってさらに複雑な課題への対応を余儀なくされている。あまり知られていないが、青森でも津波によって24平方キロメートルが浸水し、死者も出ている。直接の被害が軽微であった秋田・山形両県では、被災地のバックアップという点で重要な役割を果たしており、そこでの知見も大いに伝えられるべきである。せっかくの震災から得た知見を地域や世代を超えて発信していく場である。より多くの知見をより多様な視点から伝えるということに、今後はより力を入れていくべきであると考える。


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私的東北論その95〜震災から6年ということ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 だいぶ間が空いてしまい、その間、またしても「東北復興」紙に寄稿した記事の再録が滞ってしまっていた。以下は3月16日に刊行された「東北復興」紙第58号に寄稿した原稿の全文である。この時期はどうしてもやはりこの話題である。


震災から6年ということ

6年という歳月

 今年の3月11日で、東日本大震災の発災から丸6年になる。先日、同じ仙台市内に住む知り合いと打ち合わせの日程調整のやり取りをしていて、「3月11日は空いてますか」と聞かれた。その日は静かに故人に思いを馳せる日にしたいので、そのように返事したところ、「そう言えばそうでしたね」という答えが返ってきた。別にその人が無神経というわけではない。震災から6年という年月は、そのような時間だということである。

170310-025005 他人事ではない。私の左手首にはいつも水晶のブレスレットがある。震災で亡くした弟の遺体が地震発生からちょうど49日目に見つかって、これでようやく葬式をあげることができるとなった時に、手元に数珠がないことに気づいた。どれだけそれまで、死から縁遠い日常を送っていたのかと思ったが、ともあれ急いでお気に入りの石である水晶で数珠を作ってもらった。その時余った水晶の玉でブレスレットを作ってもらったのである。

 弟の死を忘れないように、そして、いつ死がやってくるか分からないということを忘れないようにという意図を込めて、その日以来、このブレスレットを肌身離さず身につけてきた。ところが、先日、温泉に行った時に、なんと脱衣所にこのブレスレットを忘れてきてしまった。すぐに思い出して取りに戻って事なきを得たが、我が身にしてそうである。そもそもこのブレスレット、震災から6年が経って、毎日身につけることは習慣になってはいても、これを見て死を意識するということは本当に少なくなってきているのを感じている。


3月11日に行われるイベント
 仙台市内では、2年前に開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年開催された「仙台防災未来フォーラム」が、今年も3月12日(日)に仙台国際センターを会場に開催される。フォーラムでは、震災経験の伝承、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災などのさまざまなテーマから、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えることとなっている。

 このフォーラムには今年も足を運ぶつもりで、恐らく来月のこの欄でその模様を紹介できると思うが、このフォーラムに伴って開催される関連イベントの中に、フォーラムの前日の11日に開催されるものがかなりある。もちろん、震災のその日に震災について考える趣旨のイベントを開催することを否定するものではないが、私としては追悼のための行事ならともかく、先に書いたように震災当日は静かに故人を偲ぶ日にしたいと思っているので、震災当日に開催されるこのようなイベントには、恐らく今年も、これからも、ずっと参加しないだろうなと思っている。

 来年は3月11日が日曜日となる。この「仙台防災未来フォーラム」も来年は3月11日に開催されてしまうのだろうか。願わくは、来年はどうか3月11日以外の別の日曜日の開催となることを。


「カレンダー記事」の功罪
 毎年この時期になると、新聞やテレビで東日本大震災関連の記事や特集番組が増える。このように定期的に報じられる新聞記事のことは「カレンダー記事」、「あれから何年もの」と呼ばれるようである。ジャーナリストの烏賀陽弘道氏や作家の相場英雄氏はこうした「カレンダー記事」を批判している。烏賀陽氏は、カレンダー記事はその日が来たら自動的に記事が発生するので記者の能動性を奪うものとし、「思索を深めるための記事がいつの間にか自己目的化」していると批判する。相場氏も、カレンダーに合わせた取材態勢が継続されることから、関連する報道が逆にその時期まで減ってしまうことを批判する。特に相場氏は「在京の大メディア」にその傾向が強いとして、逆に岩手、宮城、福島の地元紙、テレビのことは、「自らが震災の被害に遭っている上に、身内同然の同胞が苦しんでいる姿を、地元メディアは今も追っているのだ」と、その報道姿勢を高く評価している。

 確かに、岩手日報や河北新報、福島民報、福島民友などは、「カレンダー」によらず継続的に震災関連記事を配信している。ただ、必ずしも地元だけではなく、例えばNHKは「東日本大震災プロジェクト」を組んで、「明日へ つなげよう」を合言葉に6年前から変わらずに震災関連の番組を提供しているし、最近では朝日新聞も「てんでんこ」というタイトルで、東日本大震災を中心に「日本の『いま』と『これから』を見つめ直して」いくという趣旨の連載記事を毎日掲載している。

 考えてみれば、地震発生から6年が経って、多くの地域で復興はまだ道半ばという状況ではあっても、日常押し寄せるたくさんのニュースがそうした東北各地の状況の上に積み重なっていく現状では、自ずと震災関連のニュースは少なくなっていかざるを得ない。その意味では「自動的に記事が発生する」という「カレンダー記事」であっても、毎年定期的に震災のことを多くの人に思い出してもらえるきっかけにはなるのではないかと思う。


復興「てんでんこ」
 「てんでんこ」という言葉については以前この欄でも取り上げたことがあるが、元々は、「てんでんばらばらに」の意味で、地震が来たら一人ひとりが必死で逃げろという三陸沿岸に伝わる教訓である。震災から6年を迎えるに当たり、そこから一歩進めて、一人ひとり震災について考える、一人ひとりこれから先の生き方を考える、という意味での「てんでんこ」があるのではないだろうか。

 震災以後、一人ひとり置かれた状況は全く異なる。衣食住を取り巻く環境も全く違う。仙台市や宮城県岩沼市のように、仮設住宅が全てなくなった地域もあれば、岩手県の釜石市や大槌町、山田町、陸前高田市のようにいまだ3,000人前後の人が仮設住宅での暮らしを続けている地域もある。

 避難指示区域を抱える福島県の浜通り地域の町村では、避難指示区域が昨年9月時点で3分の2にまで減少しており、この春に飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町にある地域が解除されればさらに避難指示区域は減少するが、解除イコール復興ではない現状がある。先日、浪江町に行ってきたが、そこで目にした「町おこしから町のこしへ」の文字は胸に突き刺さった。震災前はいかにして町おこしをするかを考えていた。ところが、震災後は「おこす」前にいかにして「のこす」かを考えなければいけない状況に置かれてしまったわけである。

 このように、当然地域によって状況が全く異なるわけで、そうすると当然そこに住む人の心持ちもそれぞれ異なる。その胸の内は、そこに住んでいるその人にしか分からない。十把一絡げにして、「被災地の復興は」などと語ることはもともと不可能なのだ。

 未曽有の大災害を経て、何かを参考にしてということも難しいし、この先どうしていくのがよいのかの答えが見えているわけでもない。だからこそ、「てんでんこ」なのである。一人ひとりがそれぞれ自分のこれからを考える。自分にとってどうなることが復興なのか、そのために今何をしていくのがよいのか。

 一人ひとり、目指すところは違っても、また歩み具合は違っても、少なくても目指すところに向かってちょっとずつでも歩いていれば、その積み重ねが復興になるのではないかと思う。もちろん、疲れたら休めばいい。道のりは長い。飛ばし過ぎれば息切れする。目の前にあることを、一つずつ、少しずつ、である。


忘れることと忘れてはいけないこと
 震災から時が経つにつれて、震災のことが忘れられてしまうことへの懸念がある。しかし、どんな出来事であっても記憶の風化、忘却からは免れ得ない。他地域の人のみならず震災を体験した人であっても、つらい体験をそのままの形で抱えてその先を生きていくことはしんどいことである。忘れることは人間の偉大な能力であるともいう。そう考えれば、冒頭に紹介した知り合いは、3月11日イコール震災という束縛を超えて、すっかり震災前の日常に戻れたのだ、と解釈することもできるかもしれない。

 ただ、忘れることはできても、なかったことにすることはできない。たくさんの人が亡くなったあの震災から得た教訓だけは、しっかりとこの地の次の世代に引き継いで、また他の地域の人にもしっかりと伝えて、二度と同じような被害が起きないようにしていかなければならない。

 その意味では、先に紹介した「仙台防災未来フォーラム」はとてもよい取り組みであると思うし、各地域における震災遺構の整備も本当に意義のあることであると思う。忘れられることを心配するより、本当に忘れてほしくないことを発信し続けること、それこそが大切なのであるに違いない。

 私としても、ここでこの時期にこのように書いていることが「『カレンダー記事』じゃないか」と言われないように、これからも震災のことは折に触れて発信し続けていきたいと思う。


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2017年03月24日

私的東北論その94〜これからのまちづくり、地域づくり(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」紙では、これからのまちづくり、地域づくりについて、見聞きしたことを基に論じてみた。



これからのまちづくり、地域づくり


「地域包括ケアシステム」から「地域共生社会」へ
3087_001 「地域包括ケアシステム」については、「東北復興」第55号で取り上げた。いわゆる「団塊の世代」が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みを市町村ごとに構築するというものである。

 その実現のための取り組みが現在、全国各地で行われているが、さらに厚生労働省では現在、この「地域包括ケアシステム」を深化させ、「地域共生社会」の実現を目指している。これは「高齢者・障害者・子どもなど全ての人々が、一人ひとりの暮らしと生きがいを、ともに創り、高め合う社会」とのことで、その一環として主に地域の高齢者を想定していた「地域包括ケアシステム」から一歩進めて、これまで高齢者、障害者、子どもなど対象者ごとに「タテワリ」だった福祉サービスを「まるごと」へと転換することが想定されている。

 「一億総活躍社会」づくりが進められる中で、今後は福祉分野においても、「支え手側」と「受け手側」に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティを育成し、公的な福祉サービスと協働して助け合いながら暮らすことのできる社会づくりが必要だということで、そのために「他人事」になりがちな地域づくりを地域住民が「我が事」として主体的に取り組める仕組みを作るとともに、市町村においてそうした地域づくりの取組の支援と公的な福祉サービスへのつなぎを含めた「丸ごと」の総合相談支援の体制整備を進める必要があるとされる。

介護保険への反省
 さて、長々と国の動向について紹介してきたが、考えておく必要があることは、これからのまちづくり、地域づくりは、単に地域に賑わいを増やす、交流人口を増やす、といったような方策に代表されるような活性化された地域をつくるということではなく、その地域の人が住み慣れた自分たちの地域でこれからも暮らし続けることができる地域をつくる、という方向に舵を切り始めたということである。そしてまた、他ならないその地域に住む一人ひとりが、そのために「他人事」ではなく「自分事」としてそうしたまちづくり、地域づくりの担い手となることが必要である、ということである。

 では、「担い手」として何をすべきなのか。それは、端的に言えば、互いにつながり、支え合うことである。第55号で「第4回 町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」の基調講演で、内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏が「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と述べていたことを紹介したが、これはまさにそのことを指している。

 山崎氏は厚生労働省時代に介護保険法の成立から実施、改正まで関わり、「ミスター介護保険」との異名を持つ人だが、その山崎氏はこの後の基調鼎談で、「介護保険サービスは、都市部はともかく、地方ではメリットだけではなかったのではないか」とも語った。また、省内の若い職員には、「介護保険のことだけやっていると、介護のことが分からなくなる」とアドバイスしていたというエピソードも披露している。介護保険の「生みの親」自らが、介護保険の下で専門職が提供するサービスについて、自己反省とも取れる見方をしているのである。

 何が反省材料なのかと言えば、それは介護が必要な人への支え合いを全て介護保険サービスに委ねてしまったことが、地域のつながりを切り、お互いの支え合う力を弱めてしまったのではないか、ということである。

 もちろん、そうしたことから年々膨らむ介護給付費が国の財政を圧迫しているという側面もある。このままでは団塊の世代が75歳以上となる2025年には介護保険制度が立ち行かなくなるのではないかという危機感が国にはある。ただ、そうしたことだけではなく、自分たちの住んでいる地域へのコミットメントこそが、人口減少を伴う超高齢社会におけるこれからのまちづくり、地域づくりにおいて重要なポイントだということは、第55号で紹介した奥会津の方々の言葉から如実に窺える。

震災の前からあった助け合い、支え合い

 去る2月2日、仙台市内で「第1回宮城発これからの福祉を考える全国セミナー」が開催された。現在、新しい介護予防・日常生活支援総合事業の創設、包括的支援事業の充実を柱とする新しい地域支援事業への対応に各市町村は追われている。新しい介護予防・日常生活支援総合事業においては、これまで介護保険サービスとして提供されていた要支援1、2の高齢者への訪問、通所といった介護予防サービスの大半が市町村の事業として移管されることになっているが、そのうちの「B類型」のサービスなど、「住民主体の自主活動として行う生活援助等」(訪問型サービス)、「体操、運動等の活動など、自主的な通いの場」(通所型サービス)と規定されているのである。地域の住民主体でお互いの助け合いや居場所づくりを進めるというのである。今後は間違いなくそうしたまちづくり、地域づくりが進んでいく。

 この日の全国セミナーでは、そうした制度変更を踏まえて、今後どのようにまちづくり、地域づくりを進めていくか、各自治体におけるこれまでの取り組み事例などが発表されたが、地域の住民が互いに助け合い、支え合う地域をつくる大きなヒントは、震災からの復興プロセスの中にもある。宮城県保健福祉部長寿社会政策課長の成田美子氏は、「震災支援・支え合いのノウハウを地域包括ケアに活かし、発信していく」と述べたが、宮城県サポートセンター支援事務所長の鈴木守幸氏も、「宮城は震災で多くのものを失ったが、地域力や住民力といった財産を得た」と指摘した。1月21、22日にやはり仙台市内で開催された「第5回日本公衆衛生看護学会学術集会」の基調講演で東北大学大学院医学系研究科教授の辻一郎氏も、地縁・血縁から「知縁」へということで、「共通の興味・関心・利害で結ばれる人間関係が重要」として、「家族でない人が同居・隣居して助け合っていく新しい形の介護・看取りが必要」で、「震災のプレハブ仮設住宅にそのヒントがある」と強調していた。

 ただ、こうした地域における助け合い、支え合いは震災を契機に生まれたものではない。辻氏は震災直後に支援に入った避難所での体験を紹介しながら、「東日本大震災の被災地では、『地獄』の中で人々が『天国』を創出していた」と評しつつ、「それができたのは人と人のつながりがあったため」としていた。そうした元からこの地域にあった「人と人とのつながり」という「ソーシャル・キャピタル」こそが復興・再生を助けてくれるものであったわけである。

 全国セミナーにおいて実際に支援に当たっている当事者の発表からもそのことが強く感じられた。南三陸町社会福祉協議会で生活支援コーディネーターを務める芳賀裕子氏も「つながりづくりがこれからのまちづくり」と強調した。石巻市社会福祉協議会で地域福祉コーディネーターを務めている小松沙織氏は、「地域のチカラは、誰かを想う気持ち、喜びや困りごとに共感する気持ち、そうした想いから生まれる。それは昔も今もこれからも変わらない」と述べた。東北福祉大学総合マネジメント学部教授の高橋誠一氏も、「住民ができることを(専門職が)邪魔しなければいろいろ発展がある」として、そうした地域の「お宝」を探すことが重要であると指摘した。仙台の小松島地域包括支援センターの生活支援コーディネーターである岩井直子氏も、「地域の一人ひとりが『宝箱』を持っていた」として、地域の人々のそれまでの人生経験が地域づくりのアイディアに活かされていることを小松島地域での実例を通して紹介していた。北上市保健福祉部長寿介護課包括支援係主任の高橋直子氏も、「新しい事業に取り組むのではなく、今ある自治・互助を活かしてよりよい形にしていく」と述べた。

地方こそ地域づくりのトップランナー
 高齢者、障害者、子どもなどが自立した生活を営むために必要な支援を実施する団体やそれらの団体のネットワーク組織を支援しているNPO法人全国コミュニティライフサポートセンターの理事長である池田昌弘氏の示した図が、これからの地域づくり、まちづくりのあり方をよく整理していた。地域には、専門職など「支援のプロ」、地域住民など「地域のプロ」、そしてその両者をつなぐ「つなぐプロ」という、「地域づくりを支える『三種のプロたち』」がいる。そして、制度を活用したサービスや制度外で行う生活支援サービスなど「フォーマルな資源」、住民主体の支え合い活動や得意分野のおすそ分け活動などの「インフォーマルな資源」、そして外部の人には見えにくく、内部の人にとっては気づきにくい「ナチュラルな資源」という、「地域での生活を支える『三種の資源』」がある。「ナチュラルな資源」はその地域の伝統や文化、そしてそれまでのつながりや支え合いといった「宝物」から成り立っている。そのような構図である。

 住み慣れた地域での暮らしを支える「三種の資源」いずれでも「つながりをきらない」がキーワードとなる。「三種のプロ」による支え合いは、「つなぐプロ」が接着剤となって切れ目なく連携していく。そうして、豊かな緑を茂らせるどっしりとした大樹のような地域ができるわけである。

 その土台となる根っこの部分はその地域に住む一人ひとりである。時代が変化し、その都度生じる課題に柔軟に対応しつつも、助け合い、支え合いといったこれまでこの地域に大事に受け継がれてきたものについては、揺らぐことなく次の世代に伝えていく。そうした先に、これからのまちづくり、地域づくりがある。

 2月1日に開催された塩釜医師会の在宅医療研修会でも、東京大学恒例社会総合研究機構特任教授の辻哲夫氏は、「地域の中で皆で役割分担すれば、住み心地のいいまちになる」として、そのようにして「できる限り元気で、働けて、住んで、弱っても安心できる地域」があれば、「超高齢社会は決して恐れることはない」と強調した。その上で、「地方は人と人のまとまりがある。大都市は危うい。地方からまちづくりをして日本の未来をつくってほしい。地方は地域包括ケアシステムにより近い距離にある」と、この地域にエールを送ってくれた。

 大都市圏と地方との格差のことばかり話題になるが、ことまちづくり、地域づくりに関しては、地方はトップランナーとしてその先頭を走っていることを我々はもっと誇りに思ってもいい。そして、その上で自分たちの住む地域をもっといいものにしていくための歩みを続けていけばよいのである。


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2017年03月23日

私的東北論その93〜「逃北」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興紙第56号では、「逃北」について書いてみた。能町みね子氏の造語である「逃北」、東北の本質を実によく言い表した言葉であると思う。紙面ではスペースの関係で19行ほどカットしたが、再録に当たって、カットした部分も復元した。元々カットしても大丈夫だった文章であったわけだから、それで何がどうこうなるということはないわけであるが(笑)。

 そうそう、能町氏、出版元の文芸春秋のサイトで、「逃北」について「コミックエッセイ」も書いている。こちらも併せて参照されたい。


「逃北」のススメ

「逃北」という名のエッセイ
img_ea47bf20395854d7c586c55e5d76206b732506 「逃北〜つかれた時は北へ逃げます」(能町みね子著、文春文庫)が面白かった。「逃北」というのは能町氏の造語で、「北に逃げたい衝動」のことである。「いつでも北に逃げたい。私は」という書き出しで始まるこのエッセイ、氏の「北」に対する思いが余すところなく披瀝されている。

 氏は、「南の解放感、暖かさ、ほんとにいいものです。旅行でおとずれた春の沖縄は気持ちよかったよ。タイもよかったね。弛緩してた。たいがいのことはどうにかなるんじゃないの〜、っていう楽天的な気持ちになれそうだった」と言いつつ、「でも、南に住みたいとか、南の国で人生をやり直す夢を描いたりとか、そういう気持ちはまったくない。沖縄やタイに住むなんて想像もつかないし、はっきり言って絶対にいやだ」と言い切ってしまう。そして、「私はキツいときこそ北に行きたくなるのだ。都会での生活に倦んだとき、南に行って気楽になろうという方面に考えは進まず、北に行ってしまいたくなる」と、その「逃北」への思いを熱く語るのである。

どこが「北」か
 「逃北」という言葉が「東北」と音が同じなのは偶然なのではなく、氏の東北に対する思いとリンクしている。実際、本書の中には、氏が青森や秋田や岩手に「逃」げた時の体験談が生き生きと書かれている。最初に意識的に「北」に行った大学の卒業旅行で氏は、両親の出身地である北海道を目指すが、「途中の青森のこともものすごく気に入ってしまい」、「帰ってきてからは、北海道よりも青森のほうが印象に残っていたくらい」で、「その旅行以来、日本の『北』で私がもっとも惹かれるのは、最北の北海道よりも東北地方になりました」とのことである。

 どんな時に「逃北」が発動するのか。氏によれば、日々東京で仕事をしていて、なんとなく心身の不調やイラつきなどが蓄積されて、「じんわりじんわりネジが巻かれて」いっている。ある瞬間にそのネジの押さえが外れて「ぎゅるんと高速回転する」と、北に飛んでいるという。「いつも私は北を向いた砲台の中にいる」という表現がまたユニークである。

 北に逃げてどうするのか。「逃北」とは、「ただ単に辛い気持ちを寒い土地で倍々にふくらませる行為」なのではない。「空気が冷たく張りつめた、どこか殺伐とした場所に自分を追い込むこと」が「癒し」なのだという。

 では、「北」とはどこか。氏の定義では、北海道と東北地方全体は「逃北」の対象で、関東は北らしさが弱まり、東京近郊は「北じゃない」。北陸は「逃北」の対象となりそうだが、福井までくると「だいぶもやもやしている」。長野や松本も「北」を感じるが、静岡は「ぜんぜん北じゃない」。一方、鳥取と島根には「北らしさがあるように思う」が、福岡まで来ると九州も沖縄も「まるっきり北じゃない」と線引きしている。

 緯度から見るとかなり南だが、鳥取や島根にも「北」を感じるところが、氏の感受性豊かなところであるように思う。「炎立つ」など東北を舞台にした小説を数多く手掛けている高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に敗れて、遠く東北方面にまで逃れた出雲人が東北人のルーツだという「東北出雲説」を主張しているし、松本清張の小説「砂の器」では、秋田と同じ「ズーズー弁」を話す地域が島根県にもあることが明らかにされる。私なども、この、言葉が近いことや、うどんが優勢な西日本にあって唯一そばが優勢な地域であることなどから、出雲周辺には親近感を覚えるのである。

多くの人が逃れてきた東北
 この「逃北」という言葉、実に秀逸であると思う。第38号で書いたことがあるが、元々東北は神話時代以来、様々な人が逃れてきた地である。逃れてきたというくらいだから、中央での様々な争い事に敗れた結果、この東北の地までやってきたのである。そう、中央を追われた逃亡者たちは古来、なぜか東北を目指すのである。

 神話の時代からそうした例には事欠かず、神武天皇東征の折に殺されたとされる長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、山形の出羽三山の開祖は、父崇峻天皇を蘇我氏に弑逆されて出羽に逃れた蜂子皇子である。同じ聖徳太子の時代にはやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏が秋田に逃れている。平氏全盛の時代に源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その義経によって滅ぼされた平氏の平貞能が逃れてきた仙台市郊外に定義如来ができ、兄頼朝に追われた義経が再度平泉に逃れてきた。奥州藤原氏自体も元々関東に根を張っていたところ、関東で起こして敗れた乱の戦後処理で亘理に逃れてきたとされる。頼朝の死後殺された梶原景時の兄影實も、気仙沼に近い唐桑に逃れてきている。元寇の折には元の残党がやはり仙台に逃れてきている。織田信長によって滅ぼされた武田勝頼の子信勝も東北に逃れたとされる。

 「真田丸」でも描かれたが、主人公の真田信繁の娘や息子は伊達政宗の庇護の下、白石に逃れてきている。関ヶ原の合戦で死んだとされる石田三成や、主人公の真田幸村さえも、秋田に逃れてきたという伝承が残る。江戸幕府の禁教を逃れたキリシタンたちは東北に移り住んでいた。幕末の上野戦争で敗れた輪王寺宮も東北に逃れた。

 これほど時代を問わず、争いに敗れた者が逃げ延びたという話が伝わる地域は、日本全国他に例を見ないのではないだろうか。東北は古より、そのような地であったわけである。

東北は一度も「勝って」いない
 たくさんの人が逃れてきたと書いたが、これらの逃れた人は、単に命を長らえるために東北に逃れてきたのだろうか。もちろん、それが最重要であったことは確かだろうが、それだけではなかったのではないかと推測する。中央から距離があり、その支配が届きにくいこの東北の地は、中央で敗れた人たちにとって、再出発のできる新天地だったのではないだろうか。だからこそ、蜂子皇子は出羽三山を興し、藤原清衡は東北の地に浄土を造ろうとし、奥羽越列藩同盟は江戸幕府でも薩長政府でもない新しい国を造ろうとしたのではないだろうか。

 そして、東北が敗れた者の新天地たり得たのは、ひとえにこの地に住む人々がそうした敗れた者に対する温かい視線を持っていたことが大きい。なぜそうした視線を持ち得たかと言えば、他ならぬ東北人こそが、敗れた者だったからである。神話時代の日本武尊以来、阿倍比羅夫による蝦夷征討、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い、安倍氏が滅んだ前九年の役、清原氏が滅んだ後三年の役、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦、豊臣秀吉の奥州仕置と九戸正実の乱、そして戊辰戦争と、東北は攻め込んできた中央の軍に対して一度も勝利したことがない。唯一の例外は、建武の新政の折に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対して北畠顕家が奥州の軍を率いて上京し、これを打ち破ったという豊島河原合戦のみである。しかし、これは中央から攻め込まれたわけではなく、中央から陸奥守として下向していた北畠顕家が上京しているわけで、「本拠地」である東北で勝利しているわけではない。

 能町氏もいみじくも書いている。「私はむりやりにでも逃げるべき故郷を作りたいのです。やるせなさや空虚感に満たされて逃げ帰ったときに、なぜか落ちつく心の故郷。それが私にとっての北です。私は北へ『旅立つ』のではなく『逃げる』のであり、あるいは『帰る』のであり、それは希望にあふれた気持ちではない。何らかの理由で現在の地にいられないから逃げるのです。勝敗でいうなら敗。逃北は敗北につながっている」と。

 しかし、「とはいえ」と氏は続ける。「『逃北』や『敗北』は、私にとって必ずしも後退ではありません。むりやりすべてをゼロに戻すことであり、原点に帰るということです。北らしい空虚で荒涼とした風景も、何もない原点だと思えるからこそ、とても親しみが湧きます」と。古来、東北の地に逃れてきた多くの人々にも、似たような思いがあったかもしれない。敗北して逃げてきた人にとっては、決して希望に満ちた再出発ではないかもしれない。だが、それはこれまでの地での敗北をゼロに戻し、原点に帰してくれるものであったことは間違いなかったはずである。

いつでも逃げてこれる地域を目指す
 能町氏の「逃北」、東北の今後の方向性を考える上で大いにヒントを与えてくれると思う。これまで、観光振興では、いかに東北各地の観光資源を掘り起こし、それを発信していくかという点に重点が置かれていた。それはそれでそのようなニーズに応えるために必要なことであることは間違いないが、そればかりに傾倒する必要はなかったのではないか。日常に疲れた人が、周囲の状況にがんじがらめになっている人が、これまでの生活を一旦リセットしたい人が、いつでも逃げてくることのできる地域、それは必ずしも定住することを意味するのではなく、能町氏のようにネジのおさえが外れた時に何度でも来られるような、東北はそうした地域であればよいのではないだろうか。

 氏は「北」について、「旅先での客を『なして(どうして)こんなとこまで来たんだか』という、少し卑屈な態度で迎えてくれる。ちょっと最初だけとっかかりにくいけど、少しずつ、まさに雪が溶けるように、わざわざ来てくれたことへの感謝を前面に出して歓待してくれる。私にとって、北はこういうイメージ」と書く。確かにそのような面は大いにあるように思う。来る人をもてなす、受け入れる、それは東北人に脈々と受け継がれている資質のようにも思う。そうでなくして東北は、神代から近世に至るまで多くの人が逃れてくる地とはなり得なかったのではないだろうか。

 また、氏は、旅の中で観光スポットをあまりメインにしないと書いている。「観光地よりは地元の土着の臭いのする街の方が好き」で、「その街に観光スポットがあるとかないとか、根本的には関係ない」そうで、「むしろ目立った観光スポットがない街の方に興味が湧いてしまう」らしい。「わざわざ都会で作ってる本にガイドしてもらおうなんて思いません。地元の情報は地元の人に聞いて判断したいし、できれば自力で探したいよね、と思う」お人なのである。

 実はこれ、私も同様である。知らない地に行く時もほとんど事前に下調べをしたりしない。むしろ先入観なく、自分の足でその地を歩き回って、そこで感じるいろいろなことの方を重視している。その上でその地にある様々な情報を見聞きして、さらに行きたいと思うところに行ってみる、だいたいいつもそんな感じである。

 そのようなスタイルの旅を全ての人が志向しているわけではないだろうが、しかし一定のニーズはあるはずである。何かあったらぶらっと来て、日常と異なる環境に身を置いて、そこで得たものを持ってまた日常の場に帰っていく、そのような旅ができる東北であると、なおいいと思うのである。


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私的東北論その92〜奥会津に学ぶ地域の支え合い(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 12月16日に発行された「東北復興」第55号では、11月に参加した「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」で見聞きしたことについて紹介した。奥会津の町村は、全国でも屈指の高齢化率の、いわば日本の最先端を行っている地域であるが、そこにあったのは住民同士のゆるやかかつ自然な形での支え合いであった。「限界自治体」などと称される奥会津の町村だが、高い高齢化率、決して充分とは言えない医療介護資源といった制約条件を超えて地域が生き延びていくためのヒントが随所にあった。
 以下がその全文である。そうそう、第5回の全国サミットは、今年11月25、26日に淡路島で開催されることが決定した。


奥会津に学ぶ地域の支え合い

奥会津で開催された「全国サミット」

 11月26日(土)、27日(日)に奥会津4町村で「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」が開催された。今回、会場となった4町村のうち、メイン会場となる金山町は高齢化率が実に59.7%、交流会と分科会が開催された2つの町村、昭和村が55.3%、三島町が51.4%と、高齢化が進んでいる東北の中でも、奥会津のこれらの3町村だけが高齢化率50%超のいわゆる「限界自治体」とされている。

 この全国サミットは、人口減少や高齢化が進む中、新しい福祉制度の効果的な運用や地域の福祉・生活課題について、全国の先進的な事例を学び、その解決に向け検討することを目的に、福祉関係者や行政関係者らを対象に年1回開催されている企画である。

 その第4回がこの奥会津で開催されたことはとても意義深かったと思う。奥会津は高齢化、人口減少が進む一方、医療や介護の地域資源は決して十分とは言えない地域である。豪雪地帯でもある。にも関わらず、そこに住む人々が生活を続けていけるのには訳がある。この地域では、人々の日常のつながりと支え合いがその生活を支えているのである。

 現在、「地域包括ケアシステム」という、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みが市町村ごとに構築されようとしているが、奥会津の日常のつながりと支え合いは、この地域包括ケアシステムの構築にとって大きなヒントを与えてくれそうな取り組みなのである。

 人口の半分以上が高齢者で占められるというこの地域は、ともすると地方の衰退の象徴と見られがちかもしれない。ところがそうではないのである。今回はこの奥会津における、つながりと支え合いの実際について、全国サミットを通じて見聞きしたことを中心に紹介していきたい。

昭和村における支え合いの例

 以前、宮城県主催の地域包括ケアシステム関連の会合を取材させていただいたことがある。その折に、今回の開催地の一つである昭和村の事例発表を聞いたが、そこでの地域の人たち同士の支え合いの仕組みがとても印象的であった。

 例えば、同村内の野尻地区では、新聞は集落の一角にある「集合型新聞受け」に配達され、毎朝そこに新聞を取りに来なければならない。一見不便なようだが、それが支え合いにつながっている。新聞が配達される時間帯には住民が新聞受けの場所に集まってくる。そこで毎朝井戸端会議が自然発生的に行われる。取りに来ない人の家には誰かが新聞を持って訪ねていくので、安否確認にもなる。

 この野尻地区に商店は一軒あるだけだが、この商店もまた集落の人の集う「サロン」になっている。店主は81歳の女性だが、お店に来る人にお菓子や料理をふるまい、皆売り場の奥にある居間でお茶飲みをしている。お店に来る人もそこで買い物をするのはもちろん、野菜や山菜を差し入れたりする。顔なじみの客がしばらく姿を見せないと店主や常連客が電話や訪問で様子を伺う。

 このように、お互いの支え合いが実に自然な形で行われているのである。

「便利さが豊かさなのではない」

 今回の全国サミットでは、初日は金山町を会場に、基調講演、基調鼎談、活動発表とディスカッション、パネルディスカッションが行われた。開会で挨拶した町長の長谷川盛雄氏の「ないものねだりでなく、あるものを磨き上げる。ここにしかないものを磨き上げて全国に発信したい」との言葉はとても印象的であった。

 基調講演で内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏がいみじくも「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と言っていたが、ここ奥会津で展開されているのはまさにそうしたことである。山崎氏によると、人口減少地域の地方創生には地域資源の洗い出しとその最大活用などいくつかの共通点があるという。長谷川町長の主張通りである。奥会津のような地域でこうしたことが進んでいる背景には、地域全体の危機感がある。他人任せではなく、自分たちで何とかしないと日々の暮らしが守れないのである。この点、都市部にはこの危機感がまだ薄いと言わざるを得ない。

 「奥会津の暮らしに学ぶ、支え合う地域づくりのコツ」と題した活動発表とディスカッションでは、今回会場となった4町村における地域活動の一端が、当事者の口から語られた。三島町の小柴ヨシノ氏は、代表を務める「西方カタクリの会」の取り組みを発表した。会では廃校となった小学校を宿泊研修施設として再活用している。「社員」は地域の高齢者ばかりだが、地元食材を使った郷土料理や温かいもてなしが好評で、それが皆のやりがいにつながっているそうである。小柴氏の「小さなことでも人の役に立つ、地域の役に立つことをやりたい」「お互いに自分の能力を発揮できる環境で、自分のできる範囲でやっていくことが大事」との言葉が印象的であった。

 金山町の「山入近隣会」という会の一員である栗城英雄氏は、山入地区における集落営農による集落の維持と活性化について語った。農作業の他、水路や道路の保全、道路脇の花壇整備、旅行といった取り組みを通じて活発に交流して孤立を防いでいる。9月に開催する芸能発表会の最後を飾る山入歌舞伎は町内外から多くの観客を呼ぶ。11月の農作物品評会には自分たちの自慢の作物が200点近く集まり、そこで表彰されることが農作物づくりのやりがいにもつながっているという。栗城氏は、「身の丈に合った自分にできることをやっている」としつつ、「誰でも一歳ずつ年齢を増していくが、住んでいる地域で最後まで暮らしたい。そのために、お互いを理解し、支え合い、年をとっても楽しく暮らしていけるよう集落全員で取り組んでいきたい」と結んでいた。

 昭和村の野尻集落の山内常一氏は、「地域の景観をよくしたい、地域に貢献したい」と設立された野尻営農生産組合における耕作放棄地の農地再生作業についても紹介した。その思いとして山内氏は、「荒れた土地を畑にしておけば、都会から来た人が定住しても野菜を作ることができる」「県外にいる家族たちが安心して暮らせるように、『田舎は我々が守っているよ』と伝えつつ、いつでも帰ってこれる状態をつくっておくことが自分たちの課題」と語っていた。何より印象的だったのは、「便利さが豊かさなのではない。たとえ不便でも周りで助け合うことが豊かさだ」という言葉である。都市部に住んでいると、こうした地域での暮らしについてともするとよく事情を知りもせずに「不便そう」、「大変そう」などと考えてしまいがちだが、それは決してその地に住んでいる人の実感ではないのである。

 会津美里町の斎藤やよい氏は、毎月「日々草クラブ」という会を開いている。使われていなかったコミュニティーセンターを活用し、「身近な場所にたまり場」をつくろうと始めた。料理、手芸、歌、体操など、参加者が自分たちで活動計画を立てて活動しているが、毎回最後はお茶飲みの時間を設けて、会話を楽しみながら交流を深めている。斎藤氏は、こうした取り組みは「硬く考えないで1人、2人からでも肩ひじ張らずに気軽に始める」のがよいとして、「常日頃の積み重ねでコツコツやっていきたい」と語っていた。

「お茶飲み」を中心とした支え合い
 2日目は4町村に分かれての分科会だった。私が参加した金山町分科会のテーマは「日常のつながりに注目!〜超高齢化社会を生き抜くヒントは、地域の中の小さな支え合い〜」で、金山町内の本名地区、西谷地区の西谷あゆみ会、越川・西部地区の住民の方々が登壇した。

 町内の各集落では、日々の「お茶飲み」を中心とした、自然な形での住民同士の支え合いが行われていた。そのうちの一つ、本名地区でご自宅が近所の住民の「お茶飲み」の場になっている御年86歳の渡部ツトム氏の「こんないいところに来ていただいて、私たち最高に幸せです」という言葉がとても印象に残った。東北人はとかく謙遜しがちなものだが、自分たちがいいと思っているこの地域をいいと言って、たくさんの人が訪れたことへの感謝も伝えるという渡部氏のこの言葉からは、ご自分が住む地域への限りない愛着が感じられた。

 81歳の渡部英雄氏は、地域の300世帯のガスの検針を行っていて、その際に必ず住民と「お茶飲み」をし、頼まれれば電池や電球の交換、買い物代行なども行っている。また、自分が近くの温泉に行く際には近所の住民も誘い、会津若松まで足を運ぶ際には通院する必要のあったり買い物をしたかったりする住民を同乗させる。渡部氏は、「皆さんの御用ができる限りはお役に立ちたい。毎日毎日が楽しく、明日のことは考えず今日健康に過ごせればいいと思っているが、こうしたことができるのは健康そのものだと喜んでいる」と言っていた。

 分科会の開催に先立って金山町副町長の山内建史氏は、「互いに思いやれる、気に掛ける、一人ひとりが必要とされ、大切にされる風土がここにはある。これは地域における一つの『処方箋』だ」と話したが、金山町内における取り組みからはまさにそうした気風が感じられた。

奥会津に学ぶ地域づくり

 ここまで見てきた奥会津における取り組み、すべてそこに住む人同士のつながりから始まっていることが分かる。そしてまた、異口同音に言うように、そこに住む人が自分のできることをできる範囲で、肩肘張らずに自然体でやっていることも特徴的である。

 先に紹介した通り、奥会津の町村は東北でもとりわけ高齢化が進み、いわば未来の日本の姿を先取りしている地域であるが、そこでのこうした支え合いの仕組みは他の地域にとってもきっと参考になるのではないかと思われる。何より、登壇した地元の方のほとんどは70代、80代である。この地で一番元気なのは実にこの年代なのだと考えると、これからの日本でお手本にすべきはまさにこの地域なのではないかという気がする。活動発表をされた4町村の方々の生き生きとした様子がとても印象的で、結局地域づくりというのは、地域にこうした表情をする人が多くいることなのだと強く感じさせられた2日間であった。


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2017年03月22日

私的東北論その91〜「楽都」への道(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に発行された「東北復興」第54号では、「楽都」について書いてみた。東北では仙台と郡山が「楽都」を自称しており、それぞれそれを名乗るに値する、音楽についての充実した取り組みがある。以下がその全文である。


「楽都」への道

音楽イベントの多い街・仙台
 私事であるが、今年から男声アカペラグループに所属している。活動を始めて今年で17年目になる、仙台でも老舗と言えるグループで、男声のみ、しかも無伴奏というグループは多くのバンド、グループが活動する仙台でも稀である。

 11月5日は第15回仙台ゴスペル・フェスティバルが開催され、仙台市中心部の11のステージで104の演奏が繰り広げられた。お目当てのグループの演奏を聴きに来た人はもちろん、歩いていた足を止めて演奏に聞き入る人の姿も各所で見られた。

 考えてみると、ここ仙台は年間を通して音楽関連のイベントが多い土地であるように思う。私の属するグループも1年に5回ほど演奏を行うが、そのうち4回は仙台市内の音楽イベントである。6月の「とっておきの音楽祭」、7月の「太白区民合唱祭」、9月の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、そして今回のこの「仙台ゴスペル・フェスティバル」である。

 これら以外にも仙台市内の音楽イベントは数多い。5月に「仙台コレクション」(昨年までは9月の開催だった)、6月には「ジャズ・プロムナード in 仙台」、7月に「伊達ロックフェスティバル」、「若林区合唱のつどい」、8月の仙台七夕まつり時期に開催される「スターライト・エクスプロージョン」と「七夕ヴィレッジ」、9月に「秋保温泉MUSIC BAR」、10月に「仙台クラシックフェスティバル」、「伊達な街四丁目アカペラストリート」、「MWGA☆ROCKS」、12月に「ビッグバンドJAZZ・クリスマスコンサート」、「学都×楽都コラボレーション」、「クリスマスヴィレッジ」などが開催され、他に3年に1回仙台国際音楽コンクールが開催される。

 それだけではない。「仙台・杜の響きコンサート」には、仙台市内で開催される音楽イベントの予定がまとめられているが、ここを見ると、毎月かなりの数の音楽イベントが仙台市内各地で開催されていることが分かる。

 こうしたあまたある音楽イベントの中でも、9月に開催される「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、今や国内最大の市民音楽イベントと言われる。市民の発案で始まったこの音楽イベントは、26回目を迎える今年、国内外の760のバンドが集まり、70万人が集まった。市民が中心となって運営し、市民が無料で気軽に聴けて、街角そのものがステージというスタイルで始まったこのイベントは、全国各地の音楽イベントにも影響を与えた。仙台市内はもとより他の地域でも同様のスタイルを取る音楽イベントが数多く誕生した。宮城県内では「鳴子音楽祭『湯の街ストリートジャズフェスティバル in SPA鳴子』」、東北では秋田の「ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ」と「アキタミュージックフェスティバル」などがある。

もう一つの東北の「楽都」・郡山
 このように音楽イベントがあまた催されることもあって、仙台は「楽都」と称することがある。ただ、「楽都」は仙台だけの専売特許ではない。東北ではもう一つ、福島の郡山市も「楽都」を称している。郡山の「楽都」への道は戦後すぐ始まったとのことで、かなりの歴史を持っているようである。敗戦直後の荒廃の中で郡山では、音楽が戦災からの復興を目指す市民の心の拠り所となり、当時難しかったオーケストラを招いての演奏会を実現させた。その後「良い音楽を安く多くの人に」とのスローガンのもとで進められた勤労者音楽協議会の企画で著名団体の公演などが相次いで実現し、注目を集めたそうである。1964年には毎月第3金曜日をコーラスの日とし、街頭でコーラスを歌い、広めるという「十万人コーラス」運動が興り、翌年には「二十万人コーラス市内パレード」なども実施された。

 現在、郡山でも仙台と同様に年間を通じて音楽イベントは多いが、郡山で特筆すべきは学校音楽のレベルの高さである。特に合唱においては、中学校では郡山市立郡山第五中学校女声合唱団、郡山市立郡山第五中学校混声合唱団、郡山市立郡山第二中学校合唱部、郡山市立郡山第七中学校合唱部などが、高校では福島県立安積黎明高等学校合唱団や福島県立郡山高等学校合唱団などが、また小学校では郡山市立大島小学校などが、全日本合唱コンクールや「Nコン」ことNHK全国学校音楽コンクールなどで上位入賞の常連校となっている。これは郡山市内の音楽活動のすそ野の広さや教育の熱心さなどを如実に示しているものと言える。

 ちなみに、福島県内では会津若松市も郡山に負けず劣らず、中学校や高校の合唱部がレベルが高い。中学校では会津若松市立第二中学校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部、会津若松市立一箕中学校合唱部、高校では福島県立会津高等学校合唱団がやはりコンクールの上位常連校である。会津若松市は特に「楽都」を名乗っていないが、充分それに値する存在であると言える。

「楽都」ウィーンに学ぶこと
 世界的に「楽都」と言えばオーストリアの首都ウィーンのことである。ハプスブルク家の音楽好きに端を発する、少なくとも500年以上の伝統、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといったウィーンを拠点として活動した著名な作曲家の存在、全世界に衛星生中継されるニューイヤーコンサート、現在少なくとも8つはあるオーケストラなど、まさに「楽都」と称するにふさわしい要素があまたある。

 これらに加えて特筆すべきは、音楽を楽しむ環境の充実ぶりである。ウィーンには一度足を運んだことがあるが、「すごい」と思ったのは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーンフォルクスオーパー管弦楽団という、ウィーンを代表するオーケストラによるオペラが、ウィーンではほぼ毎日上演されているということである。それだけではない。もちろんウィーンでもいい席は日本円にして2万円くらいはするが、それだけでなく、学生やお金がない人でも楽しめるように、立見席が用意されており、その値段は日本円で500円くらいなのである。

 500円でオペラ鑑賞などとは日本ではおよそ考えられないことであるが、ウィーンではその気になれば毎日、500円でオペラを楽しむことができる。このように、市民が音楽を身近で気軽に楽しめることが、「楽都」の「楽都」たる所以であるように思った。

 日本で同様の環境は望むべくもないが、少なくとも仙台や郡山で開催されているたくさんの音楽イベントは、市民自らが演奏したり、その演奏を気軽に聴いたりできるということで、そこに住む人自身が音楽を楽しむ環境をつくるのに大いに貢献しているということは言える。「楽都」にとってそこが最も重要な要素であるように思う。

「楽都」同士の連携を
 ちなみに、Googleで「楽都」と入力して検索候補として表示される地名は仙台、郡山の他に、松本、堂山、四国中央があった。これらの都市がどのような趣旨でどのような活動を行っているかについて情報を得る機会は日常ほとんどない。そう言えば、同じ東北であっても、仙台と郡山の間でも「楽都」連携はほとんどなされていないのではないだろうか。恐らく、仙台市民のかなりの割合の人は、自分たちの住んでいる仙台が「楽都」と称していることについてはある程度知っていても、郡山も「楽都」を称していることは知らないだろうし、ましてや郡山が「楽都」としてどのような取り組みをしているかについてもほとんど知らないのではないだろうか。

 しかし、「楽都」としてウィーンになることは難しくても、お互いにその取り組みについて情報交換をし、学び合うことで、「楽都」としての取り組みをより充実させ合うことはできるはずである。そもそもウィーンと違って、日本国内であれば「楽都」は一つの都市だけが名乗れるといったようなものではなく、同時多発的に複数の「楽都」があってまったく問題ないはずである。いや、むしろたくさんの「楽都」があれば、それだけ音楽を楽しめる環境が多くあるということになり、望ましい。「楽都」を自称する都市が集まって、年に1回くらい「楽都サミット」を開催してみてはどうだろうか。

 東北の中だけでもできることはありそうである。まずは先に述べた、仙台と郡山という「楽都」同士が連携する体制をつくることが必要だが、それに加えて、東北の主だった都市間で音楽に関する取り組みについて情報交換する場があるとよいと思う。

 なぜそのように思うかと言えば、最初に述べた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」と同様のスタイルで始まった東北の音楽イベントの中には、何回か開催されたもののその後開催されなくなってしまったものもいくつかあるからである。これは実にもったいないことである。

 何か新しいことを始めることはもちろん大変だが、新しく始めたことをその後も続けることは実はもっと大変なことである。始めたことをその後どのように続けるかについてのノウハウは、始めたことを現在も続けているところが持っている。運営体制の構築や維持、引継ぎや予算確保、プロモーションといった実務上のことからコミュニケーションの方法やモチベーションの維持といったメンタル面のことまで、長く続けているところには必ず工夫がある。それを共有することで、せっかく始めたことが一過性のものとして終わるのではなく、息の長い取り組みとして続き、そうすればその取り組みは地域に根付く。「楽都」はそうしたことの積み重ねの先にある。

 郡山の「楽都」への取り組みが戦後の復興を支えたことを考えても、音楽の持つ力を東北が前に進むために活かすことは必要であると思う。そのためには東北のあちこちに「楽都」ができるのがよいのではないだろうか。


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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2017年01月30日

私的東北論その89〜再発見!東北の発酵食品(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 もはや昨年のことになってしまったが、昨年10月16日に発行された「東北復興」第53号では、東北の発酵食品について取り上げた。こうしてみると、東北の発酵文化が実に豊かであることが分かる。以下がその全文である。


再発見!東北の発酵食品

その良さが見直される発酵食品
 発酵食品が見直されている。納豆、味噌、ヨーグルトなどの健康に対する効果に注目が集まり、改めて発酵食品の良さに注目が集まっているのである。人類と発酵の歴史は古い。現在確認されている最も古い発酵食品は今からおよそ8000年前まで遡るという。日本でも縄文時代には酒が造られていたということなので、かなり長い付き合いをしているわけである。

 このように発酵食品には長い歴史があり、それだけ人々の生活と密接なつながりを持っていて、いわば身の回りに当たり前にあるものであっただけに、その良さが顧みられることはあまりなかったが、最近食に関する研究が進むにつれて発酵食品の効能が少しずつ明らかになってきており、折からの健康ブームにも乗って、発酵食品をつくる菌を積極的に取り入れようということで、「菌活」なる言葉まで生まれている。

 我が国における発酵の第一人者で東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏によれば、発酵食品の四大特徴は、(歛犬利くこと、栄養価が高まること、F汎辰量と匂いがつくこと、さ羔砲亮然食品だということ、とのことである。こうした特徴を日本人は古来、上手に活用してきたわけである。

東北の発酵食品
 ここ東北はとりわけ発酵食品が多い。中でも漬物は他地域を圧倒する豊富な種類がある。それは冬に雪に閉ざされる地域が多く、作物が取れないために保存食を造らざるを得なかったという地域事情がある。食物は発酵させることによって長期保存が可能になる。

 浅漬けのように発酵させない漬物もあるが、漬ける食材に元からついている乳酸菌を使って乳酸発酵させる漬物や、麹を添加して発酵させる漬物、味噌や醤油や酢など発酵させて造ったものを使う漬物など、漬物と発酵は切っても切れない関係がある。

 「塩麹」が話題になったことがあったが、これなどは会津の三五八漬けがその原型であるとされる。三五八漬けは、塩と米麹と米を3対5対8の割合で混ぜた漬け床でつくることからその名前がある。

 日々の食生活に馴染み深い味噌は、同じ東北でも地域によって中身が異なる。例えば、津軽味噌は米麹が少なく塩分の多い長期熟成の赤味噌、逆に秋田味噌は米麹歩合が高く色合いの濃い長期熟成味噌、仙台味噌は大豆と米の旨みが活きたやはり長期熟成の赤味噌と、それぞれに特徴があり、味も異なる。

 海産物の発酵食品が多いのも特徴で、塩辛と言えばイカの塩辛が東北でも盛んに造られるが、それ以外にもニシンなどで造られる魚の塩辛である切り込み、ハタハタと米麹を一緒に発酵させた熟鮓の一種である秋田のハタハタ寿司、やはり秋田でハタハタを塩で発酵させて長期熟成させた魚醤であるしょっつる、サケとイクラを米麹で漬ける福島の中通りの紅葉漬、身欠きニシンと山椒の葉を交互に重ねて、醤油、砂糖、酢などでつくったタレに漬けた福島の会津のニシンの山椒漬けなどがある。

 納豆も東北には欠かせない食品である。これについても、東北各地に地元の納豆があるが、それだけでなく、納豆菌で大豆を発酵させた後、さらに麹でもう一度発酵させた納豆が山形と福島にはある。これもまた通常の納豆に輪をかけて美味しい納豆である。

 ユニークなものとしては「しょうゆの実」がある。これは醤油の製造工程で出る搾りかすに麹と塩を加えて造る山形の発酵食品である。

 そうそう、もちろん酒類も発酵食品である。日本酒、ワイン、ビール、シードルなど、多種多様な酒類が東北では楽しめる。米、果物、ホップなど、材料となる農産物が豊富に採れる恩恵である。ヨーグルトは東北の伝統的な発酵食品に比べるとまだ歴史は浅いが、放牧して育てた牛の牛乳から造ったり、ジャージー種の牛乳から造ったり、低温で殺菌した牛乳で造ったり、複数の乳酸菌で発酵させたり、温泉熱を利用して発酵させたり、東北の各地域で様々に工夫を凝らした美味しいヨーグルトがある。

地域おこしと発酵食品
発酵食品に特化した道の駅発酵の里こうざきの「発酵市場」 千葉県の神崎町は、江戸時代から発酵食品で栄えてきた歴史があるようである。そうした歴史を踏まえて造られた「道の駅発酵の里こうざき」には、「発酵市場」があり、発酵食品や発酵に関する情報を多く揃え、「発酵文化」を広く内外に発信すると共に、さまざまな発酵食品を販売しているが、週末などは大変な人の賑わいだという。

 こうした神崎町の成功事例、発酵食品の歴史と内容では決して引けを取らないこの地域でも、大いに参考にすべきである。

 もちろん、東北でも、この「道の駅発酵の里こうざき」とまではいかなくても、発酵食品を売りにした取り組みが始まっている。

 宮城県大崎市では「みやぎ大崎ふつふつ共和国」を大々的にPRしている。大崎地方には多くの酒蔵、味噌蔵、醤油蔵が点在している。東北屈指の米どころであり、大豆の一大産地としても知られている。こうした豊富な食材を冬に備えて保存性を高めるためにこの地域で古くから根付いているのが発酵食文化であった。ホームページでは、大崎地域の発酵食品、それらが食べられる飲食店などと一緒に情報提供している。

 福島県いわき市では「いわき、発酵の旅」を打ち出している。いわき市内で発酵に関係している酒蔵、削節店、味噌醤油醸造元などを巡るツアーも提案している。自宅でできそうな発酵食品のレシピも公開している。

 また、福島市では「ふくしま発酵文化研究会」が活動している。高齢化率と要介護率が上昇を続ける中、「発酵による健康・長寿のまちふくしまを目指す」ことを標榜し、 食育セミナーや発酵食品づくり、先進地視察交流、全国ネットワークとの交流などを行っている。

 東北で発酵文化が最も盛んな地域はどこかと聞かれれば、私は秋田県と答えたい。先に紹介したハタハタ寿司やしょっつるなど、この地域ならではの発酵食品がたくさんある。その秋田県では「秋田・茨城発酵食イベント」というイベントが開催されている。今年は納豆をテーマに、秋田県が誇る自慢の発酵食品を、もっともっと多くの人に知ってもらい、食べてもらいたい!」との思いを実現するために、納豆では秋田と並んで有名な茨城にも協力を仰いで開催している。

 秋田県南の横手市には「よこて発酵文化研究所」がある。ここは横手地域に根ざした「発酵」をキーワードに、市民、民間企業、行政が連携したまちづくりを行っている。特筆すべきはその開始時期で、平成16年3月に発足したというから、既に12年以上の歴史を持っている。

 そうかと思うと、秋田には「秋田今野商店」という店がある。酒造用の麹を始め、味噌醤油用の麹、ビール酵母、パン酵母、乳酸菌など、いわゆる種菌で圧倒的なシェアを占めている。秋田と青森に跨る世界自然遺産の白神山地からは、秋田県の総合食品研究センターがパン作りに適した「白神こだま酵母」を発見した。また、桜の名所、二ツ井では桜の木から採取した酵母を用いて地ビールを醸造している。

 このように、「発酵」をキーワードにした東北各地での取り組みは既に始まっている。願わくば、こうしたそれぞれの取り組みが、単独ではなく、互いに横のつながりを密にして情報交換をしながら発酵に関する情報発信を充実させていってもらいたい。そうして、「発酵と言えば東北」というブランドイメージをつくれれば、各々の取り組みがさらに活きるに違いない。


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2016年10月28日

私的東北論その88〜「未来会議」のアプローチ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 9月16日に刊行された「東北復興」第52号では、9月4日に開催された福島県いわき市の「未来会議」について取り上げた。この「未来会議」、詳しくは本文をご参照いただきたいが、とても得るところの多い会議であった。利害の異なる人も含めて、いろいろな立場の人が一堂に会して、それぞれの意見の隔たりを尊重しつつ、相互理解を模索するというアプローチである。私が座った席の隣には東電の副社長が座っていた。こうしたアプローチ、いわき市ならずとも有効なのではないかと思った。以下がその全文である。


「未来会議」のアプローチ

「未来会議」発足の経緯
160904-132330 9月4日に開催された「未来会議」に参加した。未来会議というのは、福島県いわき市で2013年に始まった、寛いだ雰囲気で誰もが参加できるワークショップ形式の対話の場である。

 震災と原発事故によって、いわき市はものすごく難しい立場に立った。地震と津波による紛れもない被災地でありながらも、福島県の浜通り地域最大の都市として福島第一原発の周辺自治体から2万人以上もの避難者を受け入れた。その一方で、被ばくへの不安からいわきから自主的に避難した市民もいた。原発周辺の避難者は東電からの賠償金を得たが、いわき市民は風評被害に悩まされつつその補償は何もなかった。そのような立場や考えの異なる人たちがいわき市の中には多くいて、互いに本音では話しづらい雰囲気があって、人々の間に分断と軋轢をもたらしていたのである。

 そうした中、2012年秋に、東日本大震災復興支援財団による子ども被災地支援法の聴き取り対話ワークショップが開催され、そこに参加した数名の有志によって、「未来会議」開催に向けての動きは始まった。「継続的な対話の場が、多くを抱えるこの地域には必要なのではないか?」「異なる価値観や違いはむしろ財産ではないか?」「 対立ではなく一緒になって考えることが大切なのではないか?」「失敗してもいい!という雰囲気の中で互いを伸ばし合うことが、未来への種を育むことに繋がるのではないだろうか?」といった考えから、「多様な声に耳を傾け、自分に出来ることを考える時間をもちたい」ということで、未来会議のコンセプトが形成されてきた。

 そして2013年1月に現在まで続く「未来会議」がスタートした。いわき市民はもちろん、双葉郡など原発周辺の自治体からいわきに来ている人、福島県内外の人、支援者としていわきに来ている人など、地域、年代関係なく様々な職業や立場の人が集まる場となっている。

「未来会議」の特徴
 こうした発足の経緯から、未来会議では「相手の意見を否定しない」「一つの結論を目指さない」をルールとしている。2014年1月に開催された会議では、子どもの被ばくに対する不安から給食の地産地消に反対する主婦と、風評被害に悩む農家が、同じくゲストとして会議の中で、それぞれの意見を表明していた。

 互いに主張しても、意見の相違は完全には解消できないかもしれない。しかし、違う立場の人が対等に出会う機会をつくることによって、そこにいる人々全てに気付きをもたらし、変化を促すことができると、未来会議では考えている。重要なのは対話することによって、目下の課題を可視化し、かつ価値観の多様性を互いに認め合うこと、互いの立場を尊重して批判はしないことであった。

 地域の課題や自分自身の考えを話し合うための場は元々そこにあるわけではない。だから、意図してつくる必要がある。未来会議はまさにそのような場として誕生したわけである。

 似たような名前の会議は東日本大震災の被災地を始め各地に存在するが、このいわきの未来会議はそれらとは一線を画したユニークな会議である。まず、各地の「未来会議」は行政主導で立ち上がったものが多いが、ここいわきの未来会議は、行政関係者も参加者として参加しているが、立ち上げたのは地元の有志である。そして、未来会議は自らを次のように規定している。

 ,海両譴蓮⊃燭断鬚淵ャンバス。主体は参加する一人ひとり。ニュートラルな場として30年の継続開催を予定しています。
 現状や課題を、共有・可視化し、未来のために出来ることを創造的に話す場です。
 C楼茲力箸魃曚─∧‥腓慮充造鯊人佑平諭垢閥Δ紡え、様々な角度から考えます。
 ぅ錙璽ショップ対話手法を取り入れ、誰もが安心して参加出来る場を 目指しています。
 ヌね茲鬚弔るためのプラットホームとして、人と人、人と団体、団体と団体が出会い、ネットワークを形成するきっかけを提供します。
 ι發びあがってくるものをアーカイブとして残します。

 とりわけ印象に残ったのは、「30年の継続開催」である。こうした会が30年続く例はほとんどないのではないだろうか。しかし、未来を論ずる場であるこの未来会議では、半ば当然のこととして少なくとも30年は続けていこうと、発足当初から考えていたのである。

「未来会議」の手法
 9月4日の未来会議は13回目の開催とのことであった。100名を超える参加のあったこの日のテーマは「それぞれの、ふるさと」で、ふるさとというのは町という場所なのか、町を構成していた人なのか、それとも人を含めての場所なのか、そしてまた景色が変わってしまった町をふるさとと呼べるのか、といった観点から、人々のふるさとに対する想いについて取り上げた。

 まずゲストに作家の柳美里氏と勿来ひと・まち未来会議会長の室井潤氏を迎え、事務局で双葉郡未来会議主宰の平山勉氏が進行役となって行うトークがあり、その後広島修道大学の田坂逸朗氏がファシリテーターを務める対話ワークショップが行われた。今回は、話し合ってみたいふるさとのテーマについて参加者から13のテーマが出され、他の参加者は自分の関心があるテーマのところに集って対話を行った。

 震災関連のイベントは仙台など被災地各地でも各種開催されており、私自身何度か企画開催しているが、この未来会議、いろいろな工夫が随所に感じられ、とても勉強になった。このトークとワークの組み合わせは、聞くだけでも話すだけでもなく、インプットとアウトプットの両方があっていい形であると思った。

160904-143435 特筆すべきは、そのトークについてもワークについても、ファシリテーショングラフィックという手法を用いて、その専門家である玉有朋子氏が会場に貼り出された大きな紙にリアルタイムでヴィジュアルも交えてその要点を書き記していたことである。目で見て分かる議事録がその場でできているようなもので、参加者同士がそれを見ながら話すことで、さらに対話が進み、話が膨らむように感じられた。

 いわき市内や双葉郡など浜通り地域だけでなく、他地域からの参加が多いのも特徴的で、毎回ファシリテーターを務めている田坂氏は福岡、ファシリテーショングラフィックの玉有氏は徳島の方で、参加者についても私が話した範囲に限ってみても、群馬、埼玉、東京、神奈川、愛知、広島、熊本、沖縄の方がいた。仙台から参加した私はむしろ近い方であった。

「未来会議」の広がり
 他地域からの参加がこれだけ多くあるその求心力もすごいが、「30年の継続開催」を打ち出しているこの未来会議、そのためのいわば次の世代に引き継ぐことまでを視野に入れた取り組みも既に実施している。実際、この日の午前中には2回目となる「子ども審議会」が開催されており、小中高生と大人が一堂に会して対話を行っていた。

 未来会議から派生した企画も数多い。この子ども審議会の他、深夜のバーのような親密でゆったりとした雰囲気の中、のんびり飲み物を飲みながら一緒にゲストの話に耳を傾ける「MIRAI BAR」、双葉郡8町村固有の課題について話し合う「双葉郡未来会議」、子どもが一人でも来られる居場所として実施している「こども食堂*みらいのたね」、かつて地域に開かれた対話の場でもあった旧暦二十三日の下弦の月の月待講を復活させた「廿三夜講復活プロジェクト」など、活動はさらに広がりを見せている。

 未来会議終了後は、「夜の未来会議」と称する懇親会が行われた。「昼の未来会議」は13時から17時の4時間であったが、この「夜の未来会議」は18時から始まり、22時半で中締めとなったもののそこからさらに参加者相互の対話が続いており、夜の部の方が昼の部よりも長いわけである。未来会議のが対話を重視する姿勢がここでも窺えた。

いわきの未来だけでなく
 この未来会議、当初は「いわき未来会議」と称していたが、いわきだけの未来を考えるというわけではないということから、名称から「いわき」を外して「未来会議」とい名称になったという。確かに、震災から先の未来を考えるために、いわき市内だけでも福島第一原発のある双葉郡だけでもなく、東北の太平洋沿岸の被災地のみならず全国各地から様々な人が集い、対話する、そのような場にこの未来会議はなりつつあるように見える。

 多様な背景を持った人と人とが出会い、それぞれが感じていることを共有し、お互いの立場や考えの違いからも気づきや学びを得る。そうしたアプローチの中から、一人ひとりが震災からの一歩を踏み出すきっかけをつかむ場、あるいは疲れた時にいつでも戻ってこれる場となる。未来会議が目指すこうした目的を実現するためには、確かにこの会議は一過性のものであってはならず、継続開催していくことが必須なのであろう。30年先の未来会議の「未来」がどのようなものになっているのか、ぜひ今後も注目していきたい。


anagma5 at 23:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!