私的東北論  

2020年08月18日

なぜに少ない東北の感染者数(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その133

 8月16日発行の「東北復興」第99号では、東北の新型コロナウイルス感染者が他地域に比べて明らかに少ないということについて書いた。10万人当たりの感染者数で見ると、東北六県は全て一ケタ台に抑えられている。地域全体でこのような低い数値に抑えられているのは東北だけである。その理由は全く不明だが、これは東北に住む我々にとってアドバンテージとも言えるかもしれない。ニュースや新聞だけ見ていると、大都市圏などの感染拡大の報道に接して、あたかも自分たちの地域も危機的な状況にあるような錯覚に陥ってしまいがちだが、しっかり足元のデータを見てどのような状況なのか判断したいものである。以下がその全文である。

 なお、通常であれば、新聞の発行から概ね一月が経過してからこのブログに再録していたが、今回のこの話は今すぐにでも知ってもらいたい内容であるので、発行からあまり日が経っていないがこちらでも公開することにした。


なぜに少ない東北の感染者数

新型コロナウイルスの感染再拡大
 新型コロナウイルスによる感染症が再拡大している。その理由については、緊急事態宣言が解除されて人の往来が再開されたこと、若年層の感染者が特に増えていることからこの世代の行動が感染に結びついていること、PCR検査の実施件数が増えたこと、など様々に指摘されているが、そうした事情が複数関与している可能性がある。感染が確認された人の数が増えた割に、重症者や死亡者があまり増えていないという状況からは、検査対象を自覚症状がある人以外に、自覚症状のない感染者の濃厚接触者にも拡大し、積極的に検査を行うようになったことなども影響していることが窺える。

 このPCR検査の実施数は都道府県によってけっこうばらつきがある。もちろん、感染者数にも左右され、人口にも左右されるので、当然と言えば当然なのだが、よく見てみると検査数に占める感染者数の割合もまた、都道府県によって随分異なる。検査に対する都道府県の姿勢の違いもあるのかもしれない。検査数の多さの割に感染者数が少ない県は、積極的に検査を行う方針を掲げていることが考えられる。一般に、検査数を増やせばその分、特に無症状の感染者を発見するケースも増えるので、感染者数は増える。

都道府県別に感染状況を見てみると
都道府県別新型コロナウイルス感染状況 そのようなわけで、そもそもの検査数やそれによって確認された感染者数には都道府県による差異がありそうで、なかなか単純な比較は難しいのであるが、とりあえず8月8日現在の都道府県ごとの感染の状況をまとめてみた。これに人口と人口密度も加えてみた。こちらは今年4月1日現在の推計値である。

 ざっと見ていただくとすぐ分かることだが、検査件数に占める感染確認者の割合も、人口に占める検査件数の割合も、都道府県によって大きな差がある。もちろん、感染確認者の数自体もである。東京は感染が確認されいた人の数が14,645人と圧倒的に多いが、一方で人口も圧倒的に多い。

 このように、感染が確認された人の数だけ見ていても、その都道府県で感染者が多いのか少ないのか分からないので、人口10万人当たりの感染確認者数を出してみた。すると、東京は人口10万人当たりで見ても105.0人と、他の道府県と比べてやはり感染者数が突出して多いことが分かる。他に、大阪は58.3人、福岡が48.5人、埼玉が36.6人、京都が35.0人、愛知が33.6人、神奈川が32.1人、千葉が31.8人と大都市圏を抱える府県がやはり軒並み10万人当たりの感染確認者が多いことが分かる。沖縄も最近感染が急拡大したことを受けて、人口10万人当たりの感染確認者数が53.9人と、急増している。

 この人口10万人当たりの感染確認者数を見ていくと気づくのが、東北六県におけるその少なさである。最近まで感染者が確認されていなかった岩手県を始め、六県全てで人口10万人当たりの感染確認者数が一ケタ台と、100人を超えている東京はもちろん、二ケタ台の他の多くの道府県と比べてもその少なさが際立っている。その地方を構成する全ての都道府県が揃って感染確認者数が少ないという地方は他にない。敢えて言えば、中部地方の中の新潟、長野(信越)、中国地方の中の鳥取、島根(山陰)も少ないが、それらが目につくくらいで、東北六県のような広い地域で同じように感染確認者数が少なく抑えられている地方は他に日本のどこにも存在しないのである。

東北にも「ファクターX」が?
 こう書くと、こういう見方が出てくるかもしれない。東北地方は面積は広いが人口は少ない。人口密度が低く、自ずとソーシャルディンスタンスが確保できているので、感染確認者数が少ないのではないかと。それで人口密度も表に加えておいたのであるが、これを見てみると、例えば百万都市仙台を抱えて東北の中では感染確認者数が多めの宮城県の人口密度は、これまた東北では最も高い316.27人である。同じような数値の県と比べてみると、同様に百万都市広島市を抱え、人口密度が331.14人の広島は人口10万人当たりの感染確認者数は13.8人であるし、同様の人口密度である栃木、群馬、三重、滋賀、奈良、佐賀、長崎などと比べてみても、やはり宮城は低く抑えられている。

 大都市圏を抱える都府県の感染確認者数が多いために人口密度が高いと感染確認者数も多くなるように見え、事実その傾向はありそうだが、個別に見てみるとその中でもかなりばらつきがある。例えば、宮城を除く東北の5県並みに人口密度が低い高知が、人口密度が高い他の四国3県よりも人口10万人当たりの感染確認者数がかなり多かったりということも見て取れる。

 ノーベル賞受賞者の山中伸弥氏は、日本人に新型コロナ死亡者が少ない背景にある何らかの隠れた要因を「ファクターX」と呼んだが、こうして見てみると、さらに東北には人口10万人当たりの感染確認者数が他地域よりも少ない「ファクターX」が存在するようにも思える。もちろん、東北だけが他の地域よりもことさらに人の移動を自粛してきたということは考えられない。では、その「ファクターX」があるとしたらそれは何なのか、遺伝的な形質なのか、気質なのか、生活習慣なのか、摂取している食物によるのか、あるいは何か複合的な要因があるのか、現段階では皆目分からないが、「三密」を避ける、手指の清潔を保つ、マスクを着用する、などのこれまでの対策はこれからもしっかり継続しつつ、少なくとも東北の域内の移動や交流は大いに増やしていくべきと考える。

 新型コロナウイルスは確かに怖い。いまだ分からないことも少なからずあり、特に発症して回復した人の中に後遺症とも言うべき症状が残るケースがあることもも気掛かりである。感染に対する備えは怠りなく続けつつ、必要な交流についてはこの東北は、このような状況下だからこそしっかり行っていくべきであり、かつ今の東北はそれが可能な状況だということを大いに訴えたいと思う。


anagma5 at 19:18|PermalinkComments(0)clip!

2020年08月17日

「複合災害」にどう対応するか(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その132

 7月16日発行の「東北復興」第98号では、「複合災害」について取り上げた。この新型コロナ禍の状況下でも容赦なく自然災害が発生している。とりわけ近年増えている豪雨災害が今年も起こった。それにどう対処すべきか、考えてみた。いかがその全文である。


「複合災害」にどう対応するか

「100年に一度」が毎年?
日本の年平均気温偏差 「100年に一度の大雨」というフレーズをよく耳にするようになった。「100年に一度」をいうフレーズを100年に一度どころか、毎年聞いているのが実情である。もちろん、日本中のあらゆる地域が毎年100年に一度の大雨に襲われているわけではなく、あちこちの地域が代わる代わる100年に一度規模の大雨に見舞われているために、そのフレーズをしょっちゅう耳にすることになっているわけであるが、それにしてもあまりに聞きすぎてしまって「100年に一度」のフレーズが耳慣れてしまってはいないだろうか。それが油断につながってしまっては危険である。

日降水量100mm以上の年間日数 それにしても、である。近年、あまりにも自然災害、とりわけ豪雨による災害が増えてはいないだろうか。「顕著な災害を起こした自然現象」については、実は気象庁が名称を定めている。「防災関係機関等による災害発生後の応急・復旧活動の円滑化を図るとともに、当該災害における経験や貴重な教訓を後世に伝承することを期待する」ための措置とされている。すなわち、大きな自然災害については、気象庁が特にネーミングを行っているわけである。

 この気象庁がネーミングした風水害について見てみると、何と言っても死者4,697名、行方不明者401名という空前の被害を出した1959年の伊勢湾台風が目を引く。その前年の1958年にも死者888名、行方不明者381名という被害の狩野川台風がある。東北では、北上川の氾濫によって岩手県一関市を中心に死者・行方不明者700名超の犠牲者を出した1948年のアイオン台風とその前年にやはり同様に一関市などで大きな被害が出たカスリーン台風がある。

 その後、治水事業の進展などもあって、数百人、数千人といった規模の犠牲者を出す風水害はなくなった。1981年から2000年の20年で気象庁がネーミングした風水害の数はわずかに3つである。ところが、2001年から昨年までの19年で見てみると、その数は既に13にも上る。明らかに近年大きな被害をもたらす風水害の数が増えているのである。

 気象庁は定期的に「気候変動監視レポート」を出しているが、昨年公表した「気候変動監視レポート2018」を見ると、日本の年平均気温は年々上昇しており、一方で大雨の目安となる日降水量100ミリ以上の雨量となる年間日数も年々増加している様子が窺える。まさに「100年に一度の大雨」が増えているという実感とも合致している。


九州を襲った今回の豪雨災害

 7月3日から熊本県など九州各地に大きな被害をもたらした豪雨は、「令和2年7月豪雨」とネーミングされた。過去20年で14番目となる、ネーミングされた風水害である。7月12日現在で、熊本県を中心に68名が亡くなり、1名が心肺停止状態、12名がいまだ行方不明である。

 昨年の台風19号の際にも頻発した、河川の本流と支流がぶつかる地点で越水、あるいは堤防が決壊する「バックウォーター現象」が今回も各地で発生したようで、中でも氾濫した球磨川沿いにあった特別養護老人ホームで14名の入所者が亡くなった。高齢者施設の入所者に大きな被害が出たという点では、岩手県岩泉町のグループホームで入所者9名が亡くなった2016年の台風10号による豪雨災害を想起させる。

 この時の災害を受けて、国は浸水想定地域、土砂災害警戒区域内にある福祉施設に「避難確保計画」の作成と訓練を義務付けた。今回人的被害を出した特別養護老人ホームでどのような対応がされていたかは不明だが、今回は熊本県と鹿児島県に「大雨特別警報」が出されたのが4日の午前4時50分であり、施設では夜勤帯で職員数も限られ、入所者の避難が間に合わなかった可能性がある。

 避難確保計画は、様々な想定の下で機能するような実効あるものである必要がある。避難訓練も同様である。深夜や早朝の時間帯で職員だけで全ての入所者を避難させるのはほとんど不可能である。ではどうするか。

 まずは地域住民との連携である。日頃から地域住民との良好な関係を築き、避難訓練も地域住民と合同で行う。いざと言う時には入所者の避難に協力もしてもらう。そのような体制をつくっておくことが必要である。

 また、そもそも、浸水想定地域や土砂災害警戒区域に福祉施設を建設しない、という判断も必要である。高齢者や障害者などは「災害弱者」であることが多く、いざ避難するとなった場合に、人手も時間も掛かる。すぐには実現しないかもしれないが、施設の改築などのタイミングで、ハザードマップ等を確認して、より安全な場所に移転することが求められる。


避難所での感染対策
 避難したら終わり、ではない。避難した先での対応も必要である。避難所での生活がある。この新型コロナウイルスによる感染が収まっていない状況下での避難所の設営については、通常とはまた異なる対応が求められる。つまり、避難所での感染拡大を防ぐ対応である。これは高齢者だけでなく、全ての避難者に対して求められる。

 この点については、内閣府から「新型コロナウイルス感染症対策に配慮した避難所運営のポイント」が出されており、それに基づいて各自治体で避難所における感染症への対応策が講じられている。また、関連する学会でつくる「防災学術連携体」も、「感染症と自然災害の複合災害に備えて下さい」とする緊急メッセージを5月に出している。

 「緊急メッセージ」では、「感染リスクを考慮した避難が必要」として、避難所の数を増やし、学校では体育館だけでなく教室も使い、避難者間のスペースを確保し、ついたてを設置する、消毒液などの備品を整備するなどの対応が必要」とし、感染者や感染の疑いのある人がいる場合には「建物を分けるなど隔離のための対策も必要」と指摘している。また、避難場所は必ずしも公的避難所である必要はなく、より安全な親戚や知人の家、その地区の頑丈なビルの上層階を避難場所とする、自宅での居住が継続できる場合は自宅避難とする、などの対応も求めている。

 ただ、この「避難所の数を増やす」ということについては、避難所となりうるような学校や公的施設などは既に大方避難所となっているであろうことから、普通に考えると困難を伴いそうである。そこで考えるべきなのは、他でもない新型コロナウイルスによる感染拡大の状況下で進めた、ホテルや旅館の活用である。感染拡大で医療機関の病床不足が懸念されたことから、一部の自治体において、軽症者と無症状者について、宿泊療養とするためにホテルや旅館を確保した事例があった。国も災害時の避難所としてこうしたホテルや旅館の活用に向けた準備を進めるよう、各都道府県に事務連絡を出しており、こうした対応が進んでいけば、避難所の数を増やすことができる。

 ホテルや旅館の避難所としての活用のメリットは、単に数を増やすことだけではない。ホテルや旅館は基本的に個室である。避難所でよく問題になる避難者のプライバシーの確保という点でも好都合であり、感染者と感染疑い者の隔離という点でもメリットがある。

 新型コロナウイルス感染症がいまだ収束しない状況であるが、自然災害はそのような事情お構いなしに襲い来る。風水害だけでなく、地震や火山噴火などがこのような状況下で発生しないと誰が断言できるだろうか。今回は新型コロナウイルス感染症と大雨被害の「複合災害」であったが、今後また別の「複合災害」が起きる可能性もある。早急にそれを見越した対策を講じておきたい。


anagma5 at 19:53|PermalinkComments(0)clip!

2020年07月21日

苦境の飲食業、観光業をどう支えるか(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その131

 6月16日発行の「東北復興」第97号では、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って厳しい状況が続いている飲食業、観光業について取り上げた。このところ、再び感染拡大の傾向が見られ、難しい局面ではあるが、どちらも同じ地域の人たちの支えこそが必要である。以下がその全文である。


苦境の飲食業、観光業をどう支えるか

期限付酒類小売業免許のもたらしたもの
 新型コロナウイルスの感染拡大は経済に深刻なダメージを与えた。とりわけダメージが大きかったのが飲食業、観光業であると言われる。このうち、飲食業については、緊急事態宣言が出され、不要不急の外出を自粛するよう要請が出されたことを受けて、外食や外飲みの需要は激減した。それまで公私共によく飲食店で飲食していた私自身、3月下旬以降、飲食店での飲食を取り止めていた。

 仙台の場合、私も何度か行ったことのあるイギリス風のパブでクラスター感染が発生した。店内客計8人が感染し、そこから2次、3次、4次感染まで発生した。このような状況では、いつ自分も知らずに感染し、知らずに感染させてしまうか分からない。そのようなことから、飲食店での飲食を自粛していたのである。

 同様の対応をする人は多かったようで、感染拡大防止には寄与したのかもしれないが、一方で飲食店は来店者の減少に伴う売上減に悩むことになってしまった。私が時たま足を運んでいたアイリッシュパブもこうした状況の中で10数年の店の歴史に幕を閉じてしまった。痛恨の極みである。

 このような中、4月9日に国税庁から出された一つの通達は、こうした苦境に立つ飲食店にとっては、ほんの少し助けとなるものであった。「在庫酒類の持ち帰り用販売等をしたい料飲店等の方へ(期限付酒類小売業免許の付与について)」と題されたものである。

 これまで飲食店(国税庁の言う「料飲店」)は、自分の店の中でしか酒類を提供できなかった。要は、お店の中で飲むためにお客に酒類を提供するのはOKだが、「テイクアウト」はNG、ということである。

 持ち帰り用に酒類を販売するためには「酒類小売業免許」が別に必要なのだが、これは既存の酒類小売業の店(要は酒屋)と競合することになるため、飲食店にはなかなか付与されなかった。

 来店者数が減ったことによって、飲食店はお客に提供するために仕入れていた酒類の在庫を抱え込むことになってしまった。提供できる見込みもなく、消費期限だけがどんどん近づいてくる。とりわけ深刻なのは、樽生のビールである。一旦開栓してしまうと概ね一週間以内に消費しなければいけないが、このご時世で10〜20Lもの量のビールを空にするのは並大抵のことではない。消費しきれなかったビールは廃棄を余儀なくされることになる。飲食店にとっては痛いダメージである。

 今回国税庁から出された「期限付酒類小売業免許」というのは、こうした酒類の在庫を抱えた飲食店にとってメリットのあるもので、6カ月という期間限定ではあるが、飲食店が申請すれば速やかに免許を付与する、というものであった。この免許を取得することにより、飲食店は大手を振って持ち帰り用の酒類を販売できるようになり、来店者数減による売上減を少しでも補うことができるようになる。

 この反響はかなり大きく、申請する飲食店が相次いだようである。速報値だが、4月10日から5月29日までの間に全国で22,000件近くの免許が付与された。東北六県で見ても960件付与されている。それこそ、藁をもつかむ思いで申請した飲食店も多かったのではないだろうか。

消費者にとってもあるメリット
グラウラーを使うと樽生ビールをテイクアウトできる この期限付酒類小売業免許を取得する飲食店が相次いだことは、消費者である我々にとってもメリットがある。今まで、行きつけの店や馴染みの店を支援したくても、感染拡大への対応との兼ね合いでなかなか店での飲食は難しいというジレンマがあったわけだが、この期限付酒類小売業免許の取得によって酒類のテイクアウトが可能になれば、店内で飲食はできなくても店で購入した酒類を持ち帰って家で楽しむという形で店の支援をすることができるようになるからである。

 もう一つのメリットは、これまで家で飲むことはなかなか難しかったビールや樽生のビールを持ち帰って飲むことができるようになったということである。こと最近消費が拡大しているクラフトビールに関して言えば、通常酒店で購入するのが難しい他地域のクラフトビールを豊富に仕入れている飲食店があったり、そもそも瓶や缶では流通していない業務用の樽生のみのクラフトビールがあったりする。そうしたビールを持ち帰って家で楽しむことができるというのは、今までになかったことである。

 ただ、樽生ビールをテイクアウトする際に注意すべき点がある。持ち帰り用の容器が必要になるわけだが、これはよくあるステンレス製の水筒は使えないということである。元々これらの水筒は炭酸飲料やスポーツドリンクなどには使えないと記載されているのだが、もし入れてしまった場合、炭酸によって内圧が高まることによって蓋が開かなくなったり、開けた途端中身が飛び出したりということがある。

 こうしたトラブルを避けるためには、専用の容器を用いることが望ましい。「グラウラー」というビール専用の保存容器があり、中にはステンレスの水筒のように保冷機能が備わったものがある。これならお店で詰めてもらった樽生ビールが家でもそのまま楽しめる。店によっては、このグラウラーを貸し出ししてくれるところもある他、再利用が可能な瓶やペットボトルに詰めてくれるところもあるので、店のホームページやSNSなどで情報を確認してみるのがよい。

 また、店によっては、こうしたこだわりのビールに合うフードも併せてテイクアウト可としているところもあり、店内で飲食するのと同様に家でその店の料理とビールを楽しむことができたりもする。「美味しいビールを出すお店は料理も美味しい」というのが私の経験則だが、今回のこの措置によって、その美味しい料理と美味しいビールのマリアージュが、テイクアウトでも可能になったというのは嬉しいことである。

 この期限付酒類小売業免許の申請は6月30日までとなっている。もしまだ申請していない飲食店でぜひ申請したいというところは、早めに申請する必要がある。

 なお、東北のエリア内で樽生ビールのテイクアウトが可能であることが確認できている店については、拙ブログ内でまとめている。興味ある方はぜひ参考にしていただきたい。

観光地をまずは地元が支える
 もう一つの観光業についても、厳しい状況が続いている。例えば、宮城を代表する観光地、日本三景の松島では、昨年264,000人訪れたGWの観光客が、今年は1,000人だったという。首都圏などからの観光客が多かったようで、県境をまたいだ移動の自粛の影響を直接受けた形である。緊急事態宣言が解除された後もやはり客足は戻っていないようで、今も休業している宿泊施設や土産物店も多いそうである。

 恐らく、首都圏からの観光客が早期に増えることは期待できないと思われる。さらに言えば、いまだ毎日新規感染者が確認されている東京など首都圏から観光客が訪れることに抵抗を感じる地元の人もいるかもしれない。そう考えると、早期に他地域から観光客を呼び込むのは難しいのではないだろうか。

 ここは飲食店と同様に考えたい。地域をまたいだ人の交流が元のように再開されるまでは、それぞれの地元で、自分たちの大事な観光地を支える、という姿勢こそが今求められる。折しも、不要不急の外出への自粛要請が行われたこともあり、久しく近所ではない場所への移動をしていないという人も多いと思われる。テレワークなど移動を伴わない在宅での勤務も拡大し、家からほとんど出ていないという人もいるだろう。ストレスの蓄積を訴える声もある。

 そうした人たちに勧めたいのが、身近な場所にある観光地への訪問である。先に例に挙げた松島を取ってみれば、いったいどれだけの地元の人が松島を堪能した経験があるだろうか。「四大観(しだいかん)」(松島湾に浮かぶ260余りの島々を一望できる4つの名所)を全て回ったことのある人がどれだけいるだろうか。

 この1カ月以上、幸いなことに東北六県では新規感染者が確認されていないが、だからと言って一足飛びに県外へ移動することには今なお抵抗のある人も少なからずいると思われる。であれば、この機会に、もう一度自分たちの住む地域にある観光地を訪れてみてはどうだろうか。目的地まで移動し、綺麗な景色を見、美味しいものを食べ、可能であれば宿泊もし、土産物を買うことは、苦境にある観光業に携わる人たちへの支援にもなり、身動きが取れず鬱々とした気分を蓄えていた自身にとっても気分転換になる。大いにお勧めしたい。

 観光業に従事する方々にもぜひその目線で観光地の魅力を再発見できるような情報発信をお願いしたい。今回のこの新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたものはいろいろあると思うが、その一つは、自分たちの地域に対する目線の重要さではないかと思う。観光においては、いかに訪日外国人観光客を呼び込むか、という目線ばかりがクローズアップされ過ぎてきたきらいがあるように感じられる。まず、その良さをアピールすべき相手は、実は地域の人たちであったのではないだろうか。いくら観光業に携わる人だけが情報発信してもその広がりにはおのずと限界がある。そうではなく、その良さを十分理解した地域の人たちと一体となって、様々な機会、様々な方法で、自分たちの地域の良さを伝え続けていくことが、結局のところ、海外を含めた他地域の人たちにその良さを分かってもらう有効な方策なのではないだろうか。

 今の状況をそのためのチャンスと捉えて、まずは足元から、もう一度自分たちの地域の魅力が何なのか、一緒に考える機会としたいと切に願うものである。

anagma5 at 19:36|PermalinkComments(0)clip!

2020年06月30日

「東北・新潟緊急共同宣言」は現代版「奥羽越列藩同盟」か(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その130

  5月16日発行の「東北復興」紙第96号では、新型コロナウイルス感染拡大に伴って東北六県と新潟県、それに仙台市と新潟市が共同で出した「東北・新潟緊急共同宣言」について取り上げた。原稿を書き上げた翌日に「東北・新潟共同メッセージ」が新たに出されたので、そのことも追記した。

 以下がその全文である。


「東北・新潟緊急共同宣言」は現代版「奥羽越列藩同盟」か

7県2市による異例の宣言
 新型コロナウイルスの感染拡大防止を巡って、5月の大型連休前の4月24日に一つの動きがあった。「東北・新潟緊急共同宣言」の発表である。この宣言が画期的だったのは、その名の通り、県境を越え、東北六県と新潟県の知事、それに政令指定都市である仙台市と新潟市の市長による共同宣言だったことである。過去、このような7県と2市が共同で何か事を為したことがあったかと考えるとまったく記憶にない。それだけこの新型コロナウイルスの感染拡大が脅威だということなのだろうが、ともあれその意味でも異例のことである。

 宣言の内容は、7県の県民に「心をひとつに故郷を守ろう」と呼び掛けるもので、国の新型コロナウイルス感染症に関する「緊急事態宣言」の対象地域が全都道府県に拡大されたことを受けて、「私たちは、感染拡大の防止と早期の終息を目指し、不退転の決意で、地域一丸となって取り組んでいくことをここに宣言します」とした上で、大型連休期間を前にして、改めてヽ綾个亮粛、∋業者における感染防止対策の徹底についての協力を求めている。

 ,砲弔い討蓮◆崚賈漫新潟県の圏域内での往来や関東・関西方面等他地域との往来,旅行・帰省等を含め,都道府県をまたいだ不要不急の移動の自粛」を求め、「繁華街の接待を伴う飲食店等への外出自粛」は特に強く求めている。また、通院や生活必需品の買い物等のために外出をする場合は「三密(密閉・密集・密接)を避けることを徹底」するよう呼び掛けている。

 △砲弔い討蓮◆嶌濛雍侈海篁差通勤など人と人との接触の機会を低減する取組」、「従業員や取引先,利用客に対する感染防止対策を確実に行う」、「発熱等の症状が見られる従業員の出勤停止」等の徹底を求めている。店舗等においては、「利用者が密集しないよう工夫するなどの感染防止対策」を求めている。

 内容を見ると分かるように、7県の県民に向けての協力要請であるのだが、7県2市という大きなまとまりでの共同宣言は大いに注目を集め、マスメディアなどでも取り上げられたので、首都圏など大都市圏から東北・新潟各県への、旅行や帰省などによる人の流入を減少させる効果もあったものと思われる。


「共同宣言」が出された経緯
 この「東北・新潟緊急共同宣言」、ネット上でも話題になっていた。東北六県だけでなく、新潟も足並みを揃えていたことが目を引いたらしく、「奥羽越列藩同盟だ」とする書き込みもあった。東北六県と新潟県が一緒に行動したことがやはりインパクトとなったようである。

 そもそも今回のこの共同宣言、どのような経緯で出されたのだろうか。その経緯についてはマスメディア等では報じられていないが、各県のサイトで知事の記者会見録などをチェックしてみたところ、発端は山形県の吉村美栄子知事であることが分かった。

 吉村知事の記者会見での発言によると、4月15日に開催された山形県内の医療専門家会議において、複数の専門家の方から、東北全県が県域を越えて連携し、協力して取り組むことが有意義なことだとの提案があったという。それを受けて吉村知事がその提案のことを宮城県の村井知事に伝えたところ、「それはいいね、みんなでやりましょう」ということになったとのことである。

 吉村知事は記者からの質問に対して、緊急事態宣言の対象区域が全都道府県に拡大され、県境を越えての移動・往来を避けることが求められたことに対して、隣同士の東北六県、新潟県と協力して取り組むことは、より大きな発信となって多くの県民に伝わるのではないかと思った、とも答えている。

 この記者会見では、今回のこの共同宣言の文案が東北の知事会の幹事県である青森県によって作成され、その後各県で調整したということも明らかにされている。また、東北六県に新潟県が加わった経緯については、知事会の東北ブロックには、ずっと以前から東北六県に新潟県も入っており、東北観光推進機構で外国に東北のPRに行く時も新潟も一緒だったということなどを例に挙げながら、この7県の枠組みというのは「昔からの伝統的な枠組みだというふうに捉えている」と吉村知事は語っている。


新潟の「帰属問題」
 よく話題になるのが、この新潟がどの地方に属するかという、新潟の「帰属問題」である。日本の地方区分として最も一般的な8地方区分では、新潟県は中部地方に属する。中部地方は9県からなる大きな地方であるが、地域として一体感があるかと言えば、必ずしもそうとは言えない。そこで中部地方はよく、さらに北陸(石川、富山、福井)と甲信越(新潟、山梨、長野)、東海(岐阜、静岡、愛知に三重が加わる)に分けられる。ここでは新潟は甲信越地方に属することになる。ただ、北陸に新潟が加わる場合もある。

 東北に新潟が加わる例としては、戦後のいわゆる「東北開発三法」における地域区分、全国総合開発計画や国土形成計画における地域区分などが挙げられる。地方行政連絡会議法で規定される東北地方行政連絡会議にも新潟県が加わっている。新潟県が加わった東北と東北六県の東北とを区別するために、東北六県の場合を東北地方とし、新潟が加わった7県の場合には「東北圏」と呼ぶ場合もある(国土形成計画など)。

 なお、新潟は「東北・新潟緊急共同宣言」が発表されてから4日後の4月28日、今度は長野、山梨、静岡と共同で、「中央日本四県知事共同宣言」を発表している。こちらの共同宣言は、他地域の人に向けて、四県の観光地への来訪の自粛を強く要請するものであった。ちなみに、「中央日本四県」とは、「日本の中央に位置する新潟県、長野県、山梨県、静岡県」とのことで、これら4県は平成26年度から、知事同士が意見交換を行う「中央日本サミット」を開催し、4県合同の移住相談会や観光PRなど連携した事業を展開しているそうである。「東北圏」だけが新潟の立ち位置ではないということが分かる。

 一方、歴史的には北陸三県との関わりが深い。現在の福井から新潟までは古来、「越国(こしのくに)」と呼ばれる一つの地域であった。福井が越前、富山が越中、新潟が越後と呼ばれるのも大宝律令制定後の西暦704年以来一貫しており(その後越前から能登と加賀が分立)、地域的なつながりはこちらの方が強そうである。

 今回の「東北・新潟共同宣言」が出された後、こうした新潟の「帰属問題」がネット上でも再燃していた。当の新潟の人は実際どう思っているのだろうか。マイナビニュースが2015年に新潟県の会員に「新潟県はどの地方に属していると思いますか」と聞いたところ、最も多かったのはやはり北陸地方(36.7%)で、次いで中部地方(27.5%)、甲信越地方(19.3%)、東北地方(12.8%)、関東地方(3.7%)の順であった。一方、Jタウンネットの2017年の調査では、「新潟県は『何』地方?」との問いに、新潟県の答えで最も多かったのは北信越(※北陸三県と長野と新潟)(37.6%)だったが、次が何と「独立」で24.8%、三番目が北陸地方(18.0%)という結果だった。


今後も東北と新潟は緊密な連携を
 地図を見ると、東北地方に新潟が大きく食い込んだ形になっている。そのため、新潟と東北は非常に長い距離で接している。具体的には、福島と新潟はおよそ160km、長野と新潟もおよそ145km接しているが、山形と新潟も約130km接している。群馬と新潟は約90km、富山と新潟が約30kmである。こうして見ると、東北と新潟は300km近く県境を接していることになり、少なくとも地理的な近接感はかなりあるように思われる。ただ、肝心の精神的な近接感は必ずしも多くあるとは言えなさそうである。

hardoff 先の、新潟が地域として独立しているという答えの多さに配慮したというわけでもないだろうが、「ハードオフ」の店舗検索ページでは、新潟が中部地方にも入らず、独立した形になっている。この地図を見ていると、確かに新潟一県で一つの地域とも見えてくる。北東は東北、南は関東、南西は中部地方と接し、多様な地域にアクセスできる新潟の特色が見える。

 東北が新潟と共同歩調を取る場合、それはガチガチの構成メンバーとしてではなく、こうした特色を踏まえた「准メンバー」として参画を乞う、というスタンスがよいのではないか。今回の共同宣言のように、何か事を起こすに当たって、東北六県に新潟も加わってもらうことでより大きなインパクトが得られるということが期待できる他、必要があれば新潟に仲立ちしてもらうことで甲信や北陸などとコラボレートする道も開けてくる。東北地方の一部とは思っていない人が多数という事実を踏まえつつ、東北としてはこれからも新潟とは緊密に連携していきたいものである。


(5月9日追記)
 5月8日に、東北六県と新潟の知事と仙台と新潟の市長による「東北・新潟共同メッセージ」が発表された。本文で取り上げた「東北・新潟緊急共同宣言」に続くもので、「心をひとつに故郷を守ろう」とのサブタイトルも同一である。

 内容は、 「私たちの地域においては、外出の自粛や感染防止対策の徹底により、新規感染者数が減少傾向となってまいりました」と、これまでの県民・市民の対応を評価すると共に、国の「緊急事態宣言」が5月31日まで延長されたことを受けて、再度のまん延や医療崩壊を防ぐために引き続きの協力を要請し、「東北・新潟が一丸となって、新型コロナウイルス感染症の終息に向けて取り組んでまいりましょう」と呼び掛けるものとなっている。 

 具体的には、今回は「県境をまたぐ移動等の自粛の継続」と共に、新たに「三つの密」を避ける、手洗いやマスクの着用、人と人の距離の確保、在宅勤務・時差出勤などの「新しい生活様式の定着」を要請している。


anagma5 at 23:27|PermalinkComments(0)clip!

2020年05月28日

新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたもの(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その130

 4月16日発行の「東北復興」紙第95号では、新型コロナウイルスの感染拡大について書いた。全国に出されていた「緊急事態宣言」は、東北を含む39県について5月14日に解除され、残る8県についても5月25日に解除となった。もちろん、感染が完全に終息したわけではなく、首都圏や北海道ではまだ新規感染者が日々確認され、福岡県のようにこのところ気になる増え方をしている県もある。「これで終わり」ではなく、「第二波」が来ることを絶えず意識しながら行動する必要がある。

 以下がその全文である。なお、3月16日発行の第94号には、このブログの3月12日の記事とほぼ同じ文章が掲載されているので、再録は省略する。


新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたもの

新型コロナウイルスの感染拡大
 新型コロナウイルスによる感染拡大が止まらない。2019年11月に中国の武漢市で確認された新しいコロナウイルスによる感染症は、中国全土に広がり、次いで世界各国でも感染が確認された。日本で初めて感染が確認されたのは今年1月14日、神奈川県内においてである。その後しばらく感染者数の増加は緩やかであったが、3月下旬になって首都圏を中心に感染者が急増し始めた。その結果、今月7日に「緊急事態宣言」が出されるに至ったのは周知の通りである。

 NHKの調べによると、4月13日現在、国内の感染者数は7,404人で、うち重症者は117人、死者137人、退院者714人となっている。都道府県別に見ると、東京が2,068人と抜きん出て多く、次いで大阪が811人、神奈川544人、千葉467人、埼玉415人と続いている。

東北の状況は
 東北で最初に感染者が確認されたのは2月29日、仙台市内においてであった。その後、東北でも感染者数が少しずつ増え始め、4月13日現在、宮城の51人を筆頭に、福島と山形が38人、青森が22人、秋田が15人で、岩手はまだ感染が報告されていない。

 今のところ、増加のペースは遅いが、いつ何時首都圏のように急激な増加曲線を描くようになるか分からない。現在の宮城の状況は3週間前の東京の状況と同じだという専門家の指摘もある。実際、宮城県は先週6日には感染者が26人だったので、6日間でほぼ倍になったことになる。他県でも、福島は16人が38人に、山形は13人が38人、青森は11人が22人、秋田が11人が15人と、依然感染者が確認されていない岩手を除いて、いずれも感染者が増加している。東京に見られるような感染の急拡大の再現を阻止すべく、あらゆる対応が求められる時期に入ってきていると言える。首都圏に出されている緊急事態宣言とそれに基づく要請は東北にとっても他人事ではない。これに準じた行動を自主的に取ることによって、さらなる感染拡大が防げるのではないかと考える。

新型コロナウイルスについて分かってきたこと
 SARS-Cov-2と名付けられた今回のコロナウイルスは、新型と言う通り、新しく確認されたコロナウイルスである。これまで人に感染するコロナウイルスは6種類が知られており、うち4種類はいわゆる風邪の原因となるものである。残る2種は、2003年に流行し、重症急性呼吸器症候群を引き起こしたSARSウイルス(SARS-Cov)、2012年に流行し、中東呼吸器症候群を引き起こしたMARSウイルス(MARS-Cov)で、致死率がいずれも10%前後にも達する、恐ろしいウイルスであった。

 今回の新型コロナウイルスはその名の通り、このSARSウイルスにゲノム構造が近いことが分かったのだが、致死率が当初1%未満とされ、SARSウイルスほど高くなかったために、感染対策にも油断を招いてしまった節がある。しかし、時間が経つにつれて、この新型ウイルスが実に狡猾で、油断のならない危険な存在であることが分かってきた。

 これまで分かっていることをまとめてみると、潜伏期間は1から14日、インフルエンザと違ってこの潜伏期間中も他人に感染させるリスクが高い。環境中の感染力保持時間は最大で実に3日間に達するとの論文報告がある。当初、高齢者や慢性疾患を持つ人が重症化するとされていたが、その後基礎疾患のない若い人でも死亡例が確認され、乳児の感染も確認されている。熱帯でも流行していることからインフルエンザのように気温が高くなると終息するわけでもない。

 現在のWHOの発表では致死率は2%で、インフルエンザと比較すると高いが、SARSウイルスよりははるかに低い。にもかかわらず、こうした特徴を持つが故に、SARSウイルスとは比較にならないくらい広範囲に感染が広がり、その結果死亡者数も比較にならないくらい多数に上っている。SARSの患者数は全世界で8,439人、そのうち死者は812人だった。しかし、今回の新型コロナウイルスでは現在までに全世界でおよそ174万人が感染し、死者も108,000人余りに上っている。致死率が高いながらも感染者数自体がそれほど多くならないうちに封じ込めに成功したSARSウイルスよりもはるかに手ごわく、人類に対する大きな脅威となっていることが分かる。

「医療崩壊」への危機と対応
 医療従事者の感染も拡大している。感染予防に関する知識を備えている医療従事者が感染するというのはよほどのことである。イタリアでは何と109人もの医師が新型コロナウイルスの感染症で命を落としたという。その背景には、防護用の資材が不足していることが挙げられている。新型コロナウイルスの感染症ではない別の疾患や事故などで運び込まれた患者が陽性だったという事例も報告されている。一たび院内感染が起こると、重症化する患者が出る一方、医療従事者は働き続けることができなくなり、残った医療従事者への負担が増し、対応し切れなくなるリスクが生じる。

 このような時こそ、医療機関同士の連携、協働が重要になる。東北には東北地域感染危機管理ネットワークがある。元々、仙台市内の18の医療機関が連携してできた宮城感染コントロール研究会がその始まりだが、今や6県、500施設が参加しており、感染対策情報を共有すると共に、感染対策でも協力、連携を行い、感染症相談窓口の設置や施設の枠を超えた院内感染対策ラウンドを実施するなどの活動を行っている。このような取り組みが今後ますます重要な意味を持つに違いない。

 医療機関同士の連携の他、市民向けにも、東日本大震災の折に避難所での感染予防のためのマニュアルを配布するなどの支援活動を行ってきたが、今回の新型コロナウイルス感染症についても、いち早く市民向けの感染予防ハンドブックを公開した。ウェブ上でダウンロードできる。

閉店を余儀なくされる店
 一方、飲食店や旅行業など、人が集まることや人が移動すること、すなわち今回の新型コロナウイルス対策で禁忌とされてしまった行動に関わる業種は厳しい状況にさらされている。私の足を運んでいた飲食店のうち、2つの店が今月末で閉店することになった。新型コロナウイルスが早期に終息しなかった場合に、どれくらいの飲食店が同じ道を辿るのか想像もつかない。

 もちろん、支援の動きも出てきている。例えば、仙台では仙台市内、宮城県内の飲食店を応援しようと「愛する店ドットコム仙台」というプロジェクトが立ち上がった。クラウドファンディング形式で、自分が支援したい飲食店に対して「食事券」の購入という形で支援ができる。2,000円から10万円の間で支援し、支援の見返りとして後日支援した金額の一割増の食事券を受け取れるというものである。

 このような形の支援をもっと大々的にできないものだろうか。国による支援はあまりに遅いし、しかも不十分である。支援の姿勢も消極的にすら見える。とすれば、そちらをあてにするのは後回しにして、民間ベースで互いにできる支援を考えていきたい。

 飲食店側も手をこまねいて見ているわけではない。テイクアウトやデリバリーに対応する店が増えてきた。感染拡大防止の観点から、店内で飲食するのは憚られるにしても、他人と濃厚接触するリスクが低いテイクアウトならという需要は間違いなくある。よく引用されるダーウィンの言葉、「変化に対応するものが生き残れる」、まさにその通りである。厳しい状況だが、諦めずに生き残るために知恵を絞りたい。

時化の時の仕事
 新型コロナウイルスは個人の生活にも大きな影響をもたらした。密閉・密集・密接の「三密」の回避、不要不急の外出の自粛などがその典型的なものだが、これによって人と人とが集って交流する機会が大きく奪われることになった。仲間と毎月開催してきた交流の場「せんカフェ」も中止を余儀なくされている。毎回楽しみにしていた方からは「みんなと話ができなくて寂しい」との声もいただいているが、感染拡大に歯止めが掛からないうちは再開するのは残念ながら難しそうで、本当に申し訳ない思いでいっぱいである。

 一方で、こうした状況に対応して新たな形での会の開催に乗り出したところもある。滋賀県東近江市でやはり集いの場を設けてきた「三方よし研究会」は、今月の会をZOOMを用いたウェブ会議とYouTubeのライブ配信で開催する、とのことである。今まで、遠方にいる私はこの会にはおいそれとは参加できず、毎回の活動報告に目を通すくらいしかなかったのだが、この方法であれば何の負担もなく「参加」できる。新型コロナウイルスの感染拡大への対応が別のメリットをもたらすということもあるのである。

 そしてまた、こうした時だからこそやるべきこともひょっとしたらあるのではないだろうか。「時化の時には時化の時の仕事がある」と漁師は言う。時化で海が荒れている時には船は出せない。しかし、そういう時には倉庫に籠もり、普段はできない大掛かりな網直しや道具の手入れ、改良などを行うのだそうである。そして、時化の後にはたくさんの魚が獲れることが多いという。今の状況はまさに「時化」の時と言えるに違いない。それも並の時化ではない、大時化である。しかし、だからこそ、今できることにも目を向けたい。本紙で創刊号から共に連載を続けてきた盟友のげんさんは現在休載している。この状況を受けて、ご自分の創作活動に専心するとのことである。

 今月8日の日本経済新聞でフランスの経済学者であるジャック・アタリ氏へのインタビュー記事が掲載されていた。氏は、「日本はどう危機から脱するでしょうか」との記者の質問にこう答えている。

 「日本は危機対応に必要な要素、すなわち国の結束、知力、技術力、慎重さを全て持った国だ。島国で出入国を管理しやすく、対応も他国に比べると容易だ。危機が終わったとき日本は国力を高めているだろう」

 今はまさに、未曽有の危機に対応しつつ、一人ひとりが力を蓄えるための時期と捉えたい。あの時のことがあったら今がある、と後で言えるような。


anagma5 at 19:10|PermalinkComments(0)clip!

2020年04月10日

さらば!岩手の銀河高原ビール(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その129

 2月16日発行の「東北復興」第93号では、銀河高原ビールについて書いた。岩手の山あい、屈指の豪雪地帯である旧沢内村(現西和賀町沢内)に1996年に誕生した銀河高原ビールは、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリーなどの国内大手ビールメーカーが造るピルスナータイプのビールとは全く違う、ヴァイツェンというスタイルのビールが看板ビールだった。

 私がビールの奥深さを知るきっかけとなったビールでもあり、それだけに思い入れもあるビールだったのだが、今年3月末で発祥の地である旧沢内村での醸造を止めることになった。4月からは現在の親会社であるヤッホーブルーイングのある長野県軽井沢町で「小麦のビール」一種のみが造り続けられることになった。

 以下が寄稿した全文である。


さらば!岩手の銀河高原ビール

「岩手のビール」でなくなる!
 昨年末、衝撃的なニュースが飛び込んできた。銀河高原ビールが、岩手県内にある醸造所での生産をやめ、樽生ビールや瓶ビールの生産も終了する、というのである。

 銀河高原ビールと言えば、岩手県の山あい、旧沢内村(現西和賀町沢内)に醸造所(ブルワリー)を構えるビール会社である。今、クラフトビールと呼ばれるようになった小規模のブルワリーが造ったビールがかつて「地ビール」と呼ばれていた時代からあった。

 全国各地に地ビールブルワリーができるようになったのは、1994年4月の酒税法改正によって、ビールの最低製造数量基準がそれまでの2,000kLから60kLへと緩和されたことがきっかけである。これによって全国各地に小規模の醸造所が相次いで誕生した。大手メーカーのビールと違って地域密着でその地域のみで流通することがほとんどで、また既にあった日本酒における「地酒」呼称になぞらえて、これらは地ビールと呼ばれるようになった。

 全国初の地ビールは1995年2月に誕生した新潟のエチゴビールだったが、銀河高原ビールもその翌年1996年7月に誕生しており、この業界では老舗と言っていい存在である。誕生のきっかけは、旧沢内村の「村おこし」であった。地元岩手県の住宅メーカーである東日本ハウス(現日本ハウスホールディングス)創業者の中村功氏が東日本ハウスの子会社として銀河高原ビール株式会社を設立したのである。

 一時は、大手メーカーに続くビール会社を目指して、沢内の他に、那須、飛騨高山、阿蘇にもブルワリーを設立し、広く全国展開していた時期もあったが、地ビールブームの沈静化などの影響を受けて、次第に規模を縮小させ、ブルワリーは発祥の地沢内だけになった。会社は二度の特別清算を経て、2017年11月からは、クラフトビール業界で最大手と目されている長野のヤッホーブルーイングの完全子会社となっていた。

 それでも経営は上向かず、ブルワリー併設の沢内銀河高原ホテルの休館、生きたビール酵母入りのヴァイツェン缶とスターボトルの一時の値上げを経ての販売終了など、残念なニュースが次々と飛び込んできていた。その最後に最も残念なニュースに接することになってしまったのである。

私と銀河高原ビール
 創業者の中村功氏の銀河高原ビールに掛けた思いについては、例えばウェブ上にある「日食外食レストラン新聞」の233号(2001年8月6日)に掲載されたインタビュー記事でも確認できるが、その中で中村氏は、「日本のビールは、確かにのどが乾いたときの清涼飲料水としてはよいが、食事をしながら飲むビールとしては物足りないと思っていた」、「日本の大手四社が造るビールとは違った、もう一つこんなビールがあるんだという思いで造ったのが『銀河高原ビール』」、「食べ物のメニューは一〇〇種類あってもビールは一種類。これからはビールも選ぶ時代だ」などと述べている。

 その思いはビール好きの私にとっても共感できるものである。そもそも、私がビール好きとなるきっかけとなったビールがこの銀河高原ビールだった。大手メーカーのビールはいずれもピルスナーというスタイルのビールで、しっかりとした苦みとのど越しのよさが特徴である。当時の私は、このスタイルのビールにはまるで馴染めなかったのだが、何かのきっかけで銀河高原ビールを飲んだ時に、大手メーカーのビールとは全く違う、看板ビールであるヴァイツェンというスタイルのビールの、フルーティーな香りと苦みがあまり感じられないまろやかで優しい味に驚いたものである。そこからピルスナー以外に多種多様なビールが存在することを知り、少しずつビールの世界に入り込んでいって今に至るのであるのである。大手メーカーが造るピルスナーだけではないビールの奥深さを教えてくれたビールであり、そしてまた、今も家で飲む晩酌の定番ビールであった。

銀河高原ビールの功績
 銀河高原ビールの大きな功績としては、このピルスナーではないビールの存在を知らしめたことも挙げられるが、もう一つ重要なこととして、ビール酵母が生きたままのビールを初めて全国に流通させたということも挙げられる。ビール酵母というのは、ビールの原料である麦芽(大麦を発芽させたもの)を栄養にして、アルコールと炭酸を生成する、ビールを造るのに欠かせない微生物である。ただ、発酵が終わった後もビール酵母がビールの中に存在するとそこからさらに発酵が進んでビールの味が変わってしまう恐れがあるため、大手メーカーのビールは全てこのビール酵母を完璧にろ過して味が変わらないようにしている。それによって常温での保管や輸送ができるのだが、銀河高原ビールはこのビール酵母をろ過せず、チルドでの輸送とすることでビール酵母が働かないようにして、できたままのビール本来の味を味わえるようにしたのである。銀河高原ビールの味のまろやかさはこのビール酵母のお陰もある。

 大手メーカーはろ過した後の、いわば「産業廃棄物」であるビール酵母を固めて錠剤にしてサプリメントとして販売したりしている。サプリメントとして販売されていることからも分かる通り、ビール酵母は麦芽の栄養をその中に溜め込んでいる。ならば、いっそのこと、ろ過などせずにビールと一緒に摂取すれば栄養面でもいいのではないか、ということも言える。

 そもそも、乳酸菌をろ過したヨーグルト、麹をろ過した味噌がないのに対して、ビールはビール酵母をろ過するのが当たり前のようになってしまっている。そうしたビールを全否定するつもりはないが、そうではないビールも選べるという、ビールの選択肢を限られた地域ではなく全国に広げてくれたという点で、銀河高原ビールの功績は大である。

銀河高原ビールの今後
 この、生きたビール酵母のビールはこれまで、ヴァイツェン缶、スターボトル(瓶)、そして飲食店向けの樽で味わえていたのだが、これらもヴァイツェン缶とスターボトルは昨年9月末で終売となり、残った樽も沢内の醸造所が閉鎖となる3月末の出荷を以て終売となることになった。季節ごとに販売されていた限定ビールも全てなくなる。

 辛うじて残るのはただ1種、「小麦のビール」という缶のみとなる。これはヴァイツェンに熱処理を加えることによってビール酵母の働きを止め(要は「殺菌」して)、常温での輸送を可能にしたもので、もちろんヴァイツェンの味わいも残ってはいるが、熱を加えたことにより、本来あった生ビールならではのフレッシュさがなくなってしまっているように感じられる。今年4月以降は、この「小麦のビール」缶のみが、岩手県内ではない、どこか別の地域の工場で造られることになるということである。

 ただ、銀河高原ビールのホームページには、「ビール造りにおいて、水質はビールの味と品質を決める重要な要素です。銀河高原ビールでは、岩手県和賀岳の伏流水をくみ上げて使用しています。適度なミネラルを含む天然水は仕込み水として最適です」と書いてある。4月以降は、この大きな「売り」だった和賀山系の天然水ではない水で造られることになるので、ひょっとしたら「小麦のビール」自体の味わいも違ってきてしまうことも考えられる。

 それでも、と思う。いろいろと残念な結果とはなってしまったが、「銀河高原ビール」の銘柄自体はギリギリ残ることになったわけである。ここまでしなければいけなかったというのは、状況が傍で見ている以上によくなかったということであろう。最悪、銀河高原ビールそのものがなくなってしまうかもしれなかった状況だったということも考えられる。そう考えれば、もちろん返す返すも残念ではあるが、その名前が辛うじて残ったのはまだよしとするべきなのかもしれない。

 なお、生きたビール酵母が入った銀河高原ビールは、今はまだ飲食店向けの樽が流通しているので、取り扱っている飲食店に行けば、少なくとも3月末までは飲むことができる。例えば仙台であれば、駅近くにある「夕焼け麦酒園」がそうであるし、盛岡と北上にある「アリーヴ」、盛岡の「沢内甚句」、「居酒屋坊ちゃん」、会津若松の「会津葡萄酒倶楽部」などでも飲むことができる。興味ある向きにはぜひ、まだあるうちに飲んでみていただきたい。

受け継がれるその思い

 なくなるブルワリーもあれば、新しくできるブルワリーもある。銀河高原ビールは岩手県内からはなくなるが、一方で、東北各地に新しいブルワリーが誕生し、あるいはこれから誕生する予定になっている。新しく立ち上がるブルワリーの方々と話をすると、何となく共通する思いがあるように感じられる。それは地域への愛着である。ビールを通じて自分たちの地域を盛り上げたい、地元の材料を使ったビールを造って地域をPRしたい、そういった言葉が口々に出てくる。これはまさに、24年前に銀河高原ビールが生まれた時の思いに酷似している。村おこしの起爆剤としていち早くビールに着目した銀河高原ビールの思いは、新たに立ち上がる同じ東北のブルワリーへとしっかり受け継がれているのである。

 そして、銀河高原ビールのこの味わいも、この世から消えてなくなるわけではない。銀河高原ビールで長らく醸造責任者として活躍していた方は、いずれ都内に新しくブルワリーを立ち上げ、そこで銀河高原ビール本来の味のビールを再現させようとしている。これも楽しみな話である。

 また、実はこの銀河高原ビールには「お手本」が存在する。銀河高原ビールを立ち上げる際、主要メンバー3人がドイツに行って、いろいろなビールを飲んでどんなビールを造ろうかと検討したらしいのだが、その時行った3人が一致して「これがウマい」となったのが、世界最大のビールイベント「オクトーバーフェスト」が開催されるドイツのミュンヘンにある、1328年からの歴史を誇る市内最古のブルワリー、アウグスティナーのヴァイスビア(ヴァイツェン)で、銀河高原ビールはこのアウグスティナーのヴァイスビアをお手本に造られているのだそうである。アウグスティナーは残念ながら、国外には出荷されていないのだが、ドイツ・ミュンヘンに行けば、銀河高原ビールの原点となったビールが味わえるわけである。

anagma5 at 17:49|PermalinkComments(0)clip!

2020年03月12日

あの日から9年〜私的東北論その128

あの日から9年。
別にこの日だけが震災のことを振り返る日というわけでもないのだが、毎年この日だけはやはりいつもと同じ心持ちではいられない気がする。
心にさざ波が立っているような、居ても立っても居られないような感じなのが自分でも分かる。
そのようなわけで、毎年この日は午後仕事を休んで、弟の最期の地、仙台市の沿岸、荒浜地区へ出掛けていっているが、今年も足を運んできた。

荒浜への出発地は、毎年同じ若林区役所である。
P1002553今年も献花場が設置されていた。
















P1002554入ろうとしたら、知り合いとすれ違った。
とっさに「献花しに」と伝えたが、「献花」って言葉、普段言い慣れてないので、発音がおかしくて「ケンカしに」って聞こえてたらどうしようかと、ちょっと思った。










今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、震災関連の行事が軒並み中止か規模縮小を余儀なくされている。
仙台市内でも、今年は宮城の体育館で開催予定だった「東日本大震災仙台市追悼式」は規模を縮小して、献花のみの開催となった。
当初予定していた勾当台公園市民広場での中継放送も中止となった。
「せんだい3.11メモリアル交流館」も3月いっぱいの休館が決まっており、当初予定していた献花場の設置は取りやめとなった。

あの日弟がたどったであろう道を通って一路荒浜へ。
P1002556事前の雨予報が外れて、例年通り風は強かったものの、晴れのいい天気になった。
この日を除いて普段、荒浜に足を運ぶことはほとんどないので、1年前との違いもよく分かる。
街中から荒浜に向かう県道荒浜原町線には、津波から避難する方向を示した標識ができていた。






P1002558あの日、大津波は、遮るもののない仙台平野に容赦なく襲い掛かった。
海岸線から実に3km以上も内陸まで押し寄せ、全てを押し流し、盛土構造の仙台東部道路に至ってようやく堰き止められた。
この時の教訓から、海岸に沿って走る県道塩釜亘理線は、同様の防潮堤機能を持たせるために高さ6mかさ上げされることになっていたが、その工事も終わり、昨年10月から「東部復興道路」として供用されている。
今日も車が頻繁に行き来していた。



「東部復興道路」を越えて荒浜地区に入る。
P1002564この地域唯一の寺院だった浄土寺の跡地では、今年も慰霊法要が営まれ、今は災害危険区域となってしまったこの地域にかつて住んでいた方々がたくさん訪れて手を合わせていた。











P1002570寺院自体は既に4年前に仙台東部道路近くの内陸に移転し、新本堂も完成している。
来年からはそちらの新寺院の方で法要が営まれるとのことである。











この地域の人たちがあの日避難して助かった仙台市立荒浜小学校の校舎は、震災遺構として大津波に襲われたままの当時の状況を伝えてくれている。
校舎は館内の修繕工事のために1月14日から3月3日まで休館となっていたが、修繕工事が終わった後も3月末まで休館が延長されることとなった。
P1002580この荒浜小学校に加えて昨年8月、この地域にもう一つ震災遺構が誕生した。
「仙台市荒浜地区住宅基礎」と名付けられたこの新しい震災遺構は、大津波で基礎だけが残った住宅跡6戸と津波による浸食地形が保存され、エリア内は見学用通路が整備されている。








P1002581写真や証言を掲載した説明看板も設置されており、大津波の恐るべき破壊力と共に、かつてここにあった人々の暮らしの営みの痕跡も伝えてくれている。











P1002594荒浜地区の海岸は、かつて深沼海水浴場として知られていた場所だが、いまだ海水浴場は再開していない。この日も風が強かったせいもあって波も高かったが、当然ながらあの日のように防潮堤を越えてくるようなことはない。










P1002597防潮堤から仙台市街の方向を見てみると、建物が立ち並ぶ中心地と大津波によってなにもかもなくなったこの地域とがあまりに対照的に映る。











P1002599荒浜小学校以外にはどこにも逃げ場がなかったあの日の反省から、「東部復興道路」の西側には津波避難タワーが、海に近い東側には「避難の丘」が整備されている。











P1002605荒浜小学校の南側にできる予定の一番規模の大きな避難の丘は未完成だったが、荒浜小学校の北側に完成した「海岸公園」の一角には、高さ約10mの「避難の丘」ができていた。











あの日の大津波で、江戸時代、仙台藩祖伊達政宗が命じて植林された「潮除須賀松林(しおよけすかまつりん)」はほとんど根こそぎ倒され、流されてしまった。
政宗は慶長6年(1601年)に仙台入りしたが、その10年後の慶長16年(1611年)に慶長三陸地震に遭遇している。
仙台平野はこの地震で今回同様広い範囲が浸水したと見られ、それを受けて政宗はこの「潮除須賀松林」を整備し、沿岸に貞山堀を掘り、今で言う「多重防護」の備えをつくった。
同時に、奥州街道を内陸寄りに移し、城下町も海岸から離れた内陸寄りに構えたとされる。
P1002604荒浜地区を始め仙台市の沿岸では、もう一度防災林を復活させようと、植樹作業が続いている。
再び植えられた黒松も着々と育っているのが分かる。










P1002611弟が見つかった南長沼で今年も手を合わせた。
私にとっては弟が間違いなく生きていた、地震発生時刻14時46分よりも、この地に大津波が押し寄せた15時54分の方が重要である。
帰ろうとしたら入れ替わりにやってきた人がいた。
きっとこの人もこの地で大切な誰かを失ったのに違いない。






P1002612荒浜を離れ、再び若林区役所へ。
あの日ここまで戻ってこれなかった弟を悼んで有志の方々が中庭につくってくれた「3.11不忘の碑」には、たくさんの花が手向けてあった。











普段飲み歩いていることの多い私だが、この日だけは何があろうと大人しく家に帰る。
P1002615子どもの頃、よく弟と食べたやきとりの缶詰、今日は特大サイズのものを取り寄せてみた。
内容総量、実に1750g、通常サイズが1缶85gなので、その20缶分を超える分量である。
1L缶のビールが小さく見える。










P10026171缶はいつもあっという間になくなってしまうので、20缶分くらい楽勝と思ったが、思いのほか食べ応えがあった。
当たり前である(笑)。











P1002613あまり知られていないことだが、やきとりの缶詰の中で元祖であり、最も有名と思われるこの缶詰、実は気仙沼で造られている。












ともあれ、このようなバカなことができるのも、生きていればこそのことである。
何年経っても、あの日の痛みが消えることはないのだろう。
それはそれとして抱えつつ、また明日から日々、気の向くまま、足の向くまま、生きていこうと思う。


anagma5 at 12:09|PermalinkComments(0)clip!

2020年02月21日

20回目の「平泉文化フォーラム」にて平泉の世界遺産登録を考える(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その127

 12月16日発行の「東北復興」第91号では、年1回開催されている「平泉文化フォーラム」の模様を伝えながら、平泉の世界文化遺産登録について、改めて考えてみた。以前から繰り返し書いているが、「世界遺産以外の遺産にももっと焦点を当てよ」というのが私の持論である。その延長で、「拡張登録」には私はどちらかと言えば慎重な立場である。その辺りも含めて改めて書いてみた。以下がその全文である。初出時には入れるスペースがなかったが、今回はフォーラムの写真も入れてみた。

 なお、平泉文化フォーラムについては、「来年度以降については、新たな形での研究とフォーラムのあり方を現在検討しているところ」とのことである。当日のアンケートにも書いたのだが、研究者だけではなく、平泉に関心を持つ市民らによる情報発信の場もあるとよいと思う。私など、発信したいネタが目白押しである。(笑)


20回目の「平泉文化フォーラム」にて平泉の世界遺産登録を考える

平泉に対する関心を喚起する場
P1001709 「平泉文化フォーラム」という催しが年に1回、開催されている。「平泉文化研究の先端的な調査研究成果を公開する場」と位置づけられ、平成12年度から毎年1月か2月に2日間の日程で開催されてきた。今年は第20回という節目の年に当たり、記念大会として11月30日に1日のみの日程で開催された。

 今年の2月に開催された平成30年度のフォーラムのアンケートでは、平泉町、並びに隣接する奥州市、一関市以外からの参加者が51%と過半数を占め、かつフォーラムに参加したことによって「平泉への関心が高まった」という回答が79%あったとのことで、毎年1回のこのフォーラムが地元のみならず、他の地域の人にとっても、平泉に対する関心を喚起する場となっていることが窺える。

「柳之御所遺跡」の出土
 「平泉文化フォーラム」の開始は、平泉の文化遺産の世界遺産登録と密接に関連している。最初に平泉の史跡を世界遺産にという声が出たのは平成9年のことだが、その声が出るにきっかけとなったのは、昭和63年の「柳之御所遺跡」の出土である。この一帯が一関遊水地の堤防と国道4号線バイパスの工事予定地となり、それに伴う事前の緊急発掘調査が行われた。その結果、予想だにしなかった建物の遺構や多数の遺品が出土し、これが北上川に削られて大半が失われていたと思われていた、奥州藤原氏の「政庁」であった平泉館(ひらいずみのたち)、通称「柳之御所」の跡であるのではないかという話になった。

 当初は埋め戻して予定通り工事が行われることになっていたのだが、これに対して全国的な保存運動が起こり、平成2年には柳之御所遺跡保存に関する20万人もの署名簿が当時の建設省や文化庁などに提出された。平成4年にはこの遺跡が平泉館であることが研究者らでつくる平泉遺跡発掘調査指導委員会による答申で明記されたこともあり、平成7年に遺跡を含む一帯を大きく迂回する形でバイパスルートが変更された。遺跡の保存を目的に当初計画が変更されたのは当時としては画期的なことであり、平泉の文化遺産が改めて注目されるきっかけともなった。

日本で初めての「登録延期」決議
 この柳之御所遺跡の保存で高まった平泉の文化遺産への関心が、世界遺産登録への大きな原動力となった。とは言え、その歩みは決して平坦なものではなかった。世界遺産登録への第一段階としては、各国が概ね5年から10年以内に世界遺産へ推薦するために作成している「世界遺産暫定リスト」に登載されることが必要となる。「平泉の文化遺産」は平成12年に文化財保護審議会の決定を受けて「暫定リスト」に登録され、翌13年にユネスコ世界遺産センターの「暫定リスト」にも登録された。「平泉文化フォーラム」はまさにこのタイミングで始まったことが分かる。

 その後、平成17年に推薦資産が、中尊寺境内、毛越寺境内、柳之御所遺跡、無量光院跡、金鶏山、達谷窟、骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡の9つに確定し、構成資産の周囲に緩衝地帯が設定され、そのエリアの開発規制や景観保全を行うための景観条例も制定された。

 翌18年には世界遺産登録への推薦書類も作成、提出された。登録名は「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」と決まり、日本として推薦することが正式に決定した。その翌年、平成19年には専門機関による現地調査も行われ、全ては順調に進んでいるかのように見えた。

 ところが一転、平成20年、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関であるイコモスから「登録延期」の勧告が出され、ユネスコ世界遺産委員会で「登録延期」が決議されたのである。日本の推薦遺産としては初めてのことであった。イコモスの勧告の理由は「普遍的価値の証明が不十分」というもので、要は「構成資産が『浄土思想を基調とする文化的景観』を現わしている」とは判断してもらえなかったわけである。

 当然、地元を中心としてこの「登録延期」の決定は衝撃的だったが、その理由には納得するところもある。「浄土思想を基調とする」とすると当然「浄土思想」なる思想についての説明が必要になるが、これを説明し、特に仏教徒でない委員に納得してもらうのは至難ではなかったろうか。まして、構成遺産の中には、この浄土思想とどんな関係があるのかよく分からないものもある。これでは確かに世界遺産登録に必須の「普遍的価値の証明」が不十分との指摘は免れ得ないものだったろう。

「仏国土(浄土)」を表す遺産
 日本で初めての「登録延期」という結果を踏まえて、推薦書が再提出されることになった。その中で、当初の構成資産を削減しなければ「普遍的価値の証明」をすることは困難という結論になり、当初の9つの資産について、2年後に再推薦して短期的に登録を目指す5資産と、調査研究をさらに継続した上で「拡張」により登録を目指す4資産とに区分されることになった。

 翌21年には絞り込んだ5資産で登録を再度目指すことが決定し、さらに毛越寺境内から観自在王院跡を分離して6資産とすることになった。再提出された推薦書では、登録名は「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」となった。これは前回のものより直截的で分かりやすい表現である。これであれば、複雑な「浄土思想」の説明ではなく、「浄土」とは何かだけを説明し、その浄土をこれらの構成遺産が表現していることを説明すればよいことになる。

 こうして再度日本としての推薦が決定し、平成22年に現地調査が行われ、翌23年、東北が東日本大震災による甚大な被害にさらされているさ中の6月26日(現地25日)、ユネスコ世界遺産委員会において、晴れて世界遺産登録が決議されたのである。

 このような平泉の世界遺産登録を巡る紆余曲折の中でも、「平泉文化フォーラム」は平泉文化の発信の場として毎年欠かさず開催されてきたのである。

難しい残る遺産の「拡張登録」
 平泉の文化遺産については、先に述べた通り、「登録延期」になった際に除外された遺産の拡張登録が目指されている。当初、構成遺産にあり、登録延期となった際に除外した達谷窟、骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、そして、登録の際に除外された柳之御所遺跡の5つがその対象である。

 しかし、これらの拡張登録はかなり難しいのではないかと私は見ている。なぜなら、今回の登録名が「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」だからである。つまり、「仏国土(浄土)」を表す建築や庭園、遺跡でないと、この登録名の世界遺産には加えることはできないわけである。

 ところが、これら5つの構成遺産は必ずしも「仏国土(浄土)」との関係が明確ではない。「仏国土(浄土)」を表す建築や庭園を残した奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡ですら、構成遺産になり得てないのである。ユネスコがこの登録名をかなり厳格に解釈している様が窺える。そもそも柳之御所遺跡と骨寺村荘園遺跡を除く3遺跡、達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡は、その奥州藤原氏との関連すら明確ではない。それらを奥州藤原氏がこの地で可視化しようとした「仏国土(浄土)」との関連で登録してくれ、というのはかなり無理筋でないかと思われる。

 3遺跡のうち唯一達谷窟は、毘沙門堂の南側に位置する蝦蟇が池が発掘調査の結果、往時には池中の中央に中島を配した、玉石護岸を伴う園池であったことが判明しており、仏堂の前面に設けられた浄土庭園であったと考えられることから、「仏国土(浄土)」との関連を説明することはできるかもしれない。しかし、一方で「平泉」との関連が弱いので、そこを強調すべきだろう。達谷窟(の毘沙門堂)は坂上田村麻呂の創建とされているが、奥州藤原氏初代の清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立したとの伝承も残っている。その伝承を丁寧に掘り起こし、奥州藤原氏とのつながりを強調し、既存遺産との関連を伝えない限り、世界文化遺産「平泉」への登録は難しいのではないだろうか。

構成遺産は「代表選手」
P1001704 さて、今回の「平泉文化フォーラム」のテーマは、「平泉研究−平成から令和へ、課題と展望−」で、基調講演、報告4題、それにパネルディスカッションが行われた。このうち、平泉遺跡群調査整備指導委員会委員長で大阪府文化財センター理事長の田辺征夫氏による基調講演「日本の遺跡保存と活用、この30年−世界遺産“平泉”誕生の意義に寄せて−」で、氏は世界遺産としての平泉が誕生した意義について、

・限られた地域の限られた時代の資産でありながら普遍的価値が認められた。
・一つのまとまりのある地域で浄土思想という仏教の世界観が体感できる稀有な場所である(京都や奈良とは違う平泉固有の臨場感)。
・建築や庭園だけでなく発掘成果が「考古学的遺跡群」として明確に位置づけられた。
・長年の地道な調査研究と地域だけでない広い視野があった。

の4点を挙げていた。その上で、平泉の今後については、

・奥州藤原氏四代の歴史と資産だけでなく、その後の継承や伝承も含めた幅広い視野と分野への視点が必要。
・地域の人々の誇りが最大の発信力。
・世界遺産の価値は登録された資産にだけあるのではない(登録遺産はあくまで「代表選手」)。

といった指摘をした。

 「世界遺産の価値は登録された資産にだけあるのではない」との指摘は、平泉観光があまりに世界遺産のみに依存している現状を勝手に憂いて、一昨年のフォーラムの後に「世界遺産以外の平泉オススメ観光スポットマップ」を作成した私も全面的に賛成である。

 世界遺産の拡張登録に遮二無二進むよりも、今ある世界遺産の構成遺産以外の遺産をどのように世界遺産の構成遺産と関連付けて伝えていくか、世界に向けて情報発信していくかということを考えることの方がむしろ必要なのではないだろうか。

 今の平泉を取り巻く観光施策を見ていると、「世界遺産に入らないと意味がない」とでも考えているように見えるが、決してそんなわけではない。田辺氏の指摘する通り、登録された5資産は「代表選手」であり、その代表選手の背後にはそれを支えるたくさんの選手の存在があるのである。

 そもそも、世界遺産は「資産」と「緩衝地帯」からなる。「緩衝地帯」には現在の平泉町内の大半が含まれるが、この「緩衝地帯」の活用という面はこれまでほとんど検討されていない。この点では、同じ東北の世界遺産である白神山地におけるアプローチが参考になる。平成5年に東北初の世界遺産(自然遺産)として登録された白神山地では、「資産」である登録区域は、森林生態系保護を目的として管理・保護されており、入山が制限されている。そのため、その周辺の緩衝地帯を、気軽に世界自然遺産に触れることができる場所として活用している。これに対して平泉では、緩衝地帯などほとんど意識されていない。ここに今後の平泉の文化遺産活用の可能性が大いに秘められているように思うのである。

anagma5 at 13:11|PermalinkComments(0)clip!

2019年12月13日

台風の被害からどう身を守るか(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その126

 11月16日発行の「東北復興」第90号では、今年相次いだ台風災害について考えてみた。同じ自然災害でも地震と比べると避難するタイミングが計りにくい風水害については、そのつもりで対策を立てておく必要がある。我が身の反省も含めて今後に活かしたい。「東北復興」紙ではスペースの関係でカットしたところがあるが、以下が本来の全文である。


台風の被害からどう身を守るか

相次いだ台風被害
 これから来る可能性もあるので、まだ振り返るには早いのかもしれないが、今年は台風による大きな被害が相次いだ年だった。まず9月9日に千葉市付近に上陸した台風15号は、千葉県内を中心に広い範囲に停電と断水をもたらした。被害が広範囲に亘ったことから復旧にも時間が掛かり、断水が9月25日まで2週間以上に及んだ地域もあった。

 10月12日に伊豆半島に上陸した台風19号は関東地方から東北地方南部を縦断し、福島県で32人、宮城県で19人、千葉県で12人など、実に死者95人という甚大な被害をもたらした。広い範囲で河川の氾濫が相次いだほか、土砂災害や浸水害が発生した。人的被害に加えて住宅被害、電気、水道、道路、鉄道施設といったライフラインへの被害や交通障害も多数発生した。断水の被害はとりわけ甚大で、宮城の丸森町や福島の相馬市の一部など、11月8日現在でもいまだに復旧していない地域も存在する。11月12日で1カ月になるが、いまだ合わせて2,700人もの人が避難生活を送っている。

 10月24日から26日にかけては、西日本から東日本、北日本の太平洋沿岸に沿って進んだ低気圧に向かって南から暖かく湿った空気が流れ込むと同時に、日本の東海上を北上した台風21号の湿った空気が流れ込んだことで記録的な大雨が発生し、再び土砂災害、浸水害、河川の氾濫が発生し、千葉県で11人、福島県で2人の死者を出し、住宅被害、停電や断水等ライフラインへの被害や鉄道の運休などの交通障害が発生した。

 これだけ台風による大きな被害が相次いだことで、今年は台風の発生数や上陸数が増え、台風そのものの規模も大きくなっているというような印象がある。しかし、過去の台風のデータと台風の発生数、接近数、上陸数などを見ても、今年が特に多かったというわけではない。

 今年はこれまでに24の台風が発生したが、1967年には39、1971年、1994年には36の台風が発生している。日本に接近した台風は今年これまで14あるが、1960年、1966年、2004年には19の台風が接近している。今年はこれまで5つの台風が上陸したが、2004年には10もの台風が上陸している。

 また、甚大な被害をもたらした今回の台風19号を見ても、まだ確定値が出ていないので速報値からの判断となるが、伊豆半島に上陸する直前の気圧は955hPaである。過去の上陸時あるいは上陸直前の中心気圧が低い台風の上位10位の中心気圧は925〜940hPaであり、今年の台風19号が上位10位以内にランクインすることはなさそうである。

 ただし、記録的な雨と風に見舞われたのは事実である。10月10日から13日までの総降水量が、神奈川県の箱根で1,000mmに達したのを始め、17地点で500mmを超えた。3時間、6時間、12時間、24時間降水量の観測史上1位の値を更新した地域も多数あった。風についても、東京都の江戸川臨海で観測史上1位を更新したのを始め、7か所で最大瞬間風速が40mを超えた。この他、海でも記録的な高波が観測され、過去最高潮位を超える高潮を観測したところがあった。いろいろな要因があるのだろうが、台風の規模の割に雨の量や風の影響が大きく、被害が拡大したように見える。

私の体験
 台風19号に関する私自身の体験をお話しようと思う。10月12日は仙台市内の職場で仕事をしていた。朝から昼に掛けては風もほとんどなく雨も小降りで、いつも通り自転車で出勤できた。様子が変わってきたのは陽が沈んでからである。19時過ぎには雨も風も強くなってきた。この時台風は伊豆半島に上陸したばかりであり、強さは「猛烈」から「非常に強い」を経て「強い」までに下がっていたのだが、大きさは依然として「大型」であり、その広範囲に及ぶ影響の大きさは感じられた。

 職場を出たのは22時頃だったが、その頃には雨、風共に強くなっていた。ただし、レインコートを着て自転車に乗ることはできる程度の雨、風だったので、自転車で帰路に就いた。職場近くの広瀬川は水量が増えて河川敷まで水に浸かり、川幅がものすごく広く見えた。

 自宅近くに名取川があり、橋の上から見るとやはりこちらの水量も増していたが、堤防の高さまでにはまだまだ余裕があるように見えた。橋を渡ってから幹線道路を折れ、名取川と並行に通っている道を進むと、JR線をくぐるアンダーパスがある。そこが冠水していないか用心しながら進んでいくと、全く冠水していなかったのでやや拍子抜けしながら、アンダーパスをくぐって上った。そこから道を折れて名取川を背中に川沿いの住宅地を通って自宅方面に向かおうとしたところ、何とそこがひどく冠水していた。膝下くらいまで水が来ていて、水の抵抗で、自転車も軽いギアでないと進めない状況である。なぜ川のすぐそばの窪地であるアンダーパスが冠水していなくて、そこより高いところにある住宅地が冠水しているのか、目の前に広がるあり得ない情景に大いに戸惑ったが、とにかくさらに深くなっているところがないか用心しながら進んだ。幸い、その区域を抜けたら、隣の区域にはほとんど水はなく、自宅付近も冠水していなかった。

 後から思えば、これは「内水氾濫」だったのだろう。降った雨水が下水道や水路から排水できる許容量を超えて水が溢れ出す現象である。元々その区域は周囲より若干低いのか、通常の雨の際にも周囲に比べて長く水が残っている印象があり、水はけのあまりよくない区域とは思っていた。しかしもちろん、これほどの冠水を経験したのはもちろん初めてである。

 我が身を振り返ってみて、今回のこの台風を甘く見ていたことを反省している。東北にいると、台風に直撃されることはほとんどなく、どこかよそに上陸した台風が勢力を弱め、速度も上げて通過することが多いため、今回も恐らく大したことはないだろうとの甘い読みがあった。もし今回の台風が「強い」ではなく「非常に強い」や「猛烈」であったら、河川の増水や住宅街の冠水はさらに激しいものだったかもしれず、そのような中を夜間ウロウロするのは命の危険を伴ったかもしれない。

「命を守る行動」とは
 今回の台風のうち、最も大きな人的被害をもたらしたのが台風19号であることは間違いないが、とりわけ福島県内で32人もの死者が出たことは衝撃的であった。いったいどうしてこれほど多くの人が命を落とすことになったのだろうか。

 そのことについてはNHKが既に分析していた。それによると、32人の死者のうち14人は車の中か屋外にいて命を落としたこと、14人は住宅の1階にとどまって命を落としたことが明らかになっているのである。いずれのケースも、避難が遅れたことによって命を落としたのだと言える。福島県や宮城県に台風が接近したのが10月12日から13日にかけての夜間であったことも避難が遅れた要因として挙げられよう。

 そして、当時の福島県内の雨量を見てみると、台風が上陸する1日前の10月11日から福島県を縦断した13日にかけての総雨量は、福島県内の各地で平年の10月1カ月の実に2倍から3倍に達していた。ところが、1時間当たりの雨量で見てみると、50mmを超えるような激しい雨を観測したのは福島県内では1地点のみで、それ以外の地域では1時間に20mmから30mmほどにとどまっていた。このことも避難行動を鈍らせた可能性がある。すなわち、危機感を覚えなさそうな雨の降り方だったのである。ただし、それが間断なく続いたことによって、河川の増水、堤防の決壊、土砂崩れの発生につながるような総雨量となっていたのである。

 また、同じ河川でも上流と下流とでは、増水のピークとなるタイミングが全く異なることも分かっている。特に下流では、雨が止んでしばらくした後に氾濫が発生することもままある。そのような中でいつ避難行動を起こすか判断することは困難を伴う。

 こうして見ると、自分の身に迫る危険をどう正確に把握し、いかに安全を確保するかは本当に大きな課題である。地震であれば揺れが来た際にその揺れの大きさで避難の必要性をある程度判断できる。しかし、台風に関してはそうした自分の五感を通した判断が難しいのである。

 ならばどうすればよいのか。五感では判断できないとなれば、別の情報を判断の根拠とする他ない。すなわち、気象庁や自治体などから出される災害に関する情報である。決してこれを軽々に捉えてはいけない。このような時には、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりする「正常性バイアス」が掛かる。そのことを十分頭に入れた上で、空振りを恐れずに早めに避難を開始する、このことに尽きる。

 今回、各携帯電話会社の緊急速報メールサービスを利用して災害・避難情報を配信した自治体も多くあった。これも避難を促すのに有効な手段ではあるが、一方でメールが来るまで情報が得られないという点では受動的である。より能動的に自ら積極的に情報を収集することが必要で、そのためにはスマホの防災アプリの活用をお勧めしたい。「NHKニュース・防災」、「Yahoo!JAPAN防災速報」、「goo防災アプリ」、「特務機関NERV防災」などがお勧めである。

 平時の情報収集も重要である。各自治体や国土交通省が作成している「ハザードマップ」を確認して、自分の住んでいる地域にどのような危険があるのか、特に今回のような風水害の際にどこにどのくらいの浸水が想定されているのか、その上で安全な避難ルートはどこなのかをしっかり把握しておくことが必要である。仕事中など、自宅以外にいる時に災害に遭遇する可能性もある。そこから自宅までの経路でどのような危険があるのかについても確認が必要である。

 そしてまた、東日本大震災の際に嫌と言うほど思い知ったが、これらハザードマップを妄信しないことも重要である。ハザードマップはある想定の下に作成されたものであるが、その想定を上回る事態も起こり得る。ハザードマップの想定を「最低限」と考える目線も持つべきである。

 今回浮き彫りになったのは、河川の本流と支流とがぶつかる地点で支流の水が水かさを増した本流に流れにくくなり、そこから越水し、あるいは堤防の決壊につながる「バックウォーター現象」の頻発である。今回の堤防の決壊のうちの8割は本流と支流の合流点から1kmの範囲に集中しているという。こうした地域ではいち早い避難が命を守ることにつながる。

 既に道路が冠水している場合の車での避難の危険さも、今回のこの福島県での状況からは分かる。車は雨や雪といった悪天候の中でも走るので、水には強いように思われがちだが、それはあくまでも上から降ってくる雨や雪についてである。足元からの水には実は弱い。ドアよりも水位が高ければ室内に浸水してくるし、さらに水位が高くなると水圧でドアが開かなくなり脱出が困難になる。エンジンルームに水が浸入し、エアクリーナーまで水に浸かると、燃焼に必要な空気を取り込めず、エンジンが停止する。後部のマフラーが水に浸かると排気ガスが排出されずやはりエンジンが停止する。こうなるともう車に乗っていては身動きが取れなくなる。こうして見ると、冠水の中車で移動できる限界の水深は、マフラーの高さより下でギリギリということになる。そのことも肝に銘じておかないといけない。

 今後も台風による風水害は繰り返し起こり得るに違いない。その時にどうすれば「命を守る行動」が取れるのか、平時から改めて考えておきたい。


anagma5 at 19:08|PermalinkComments(0)clip!

2019年11月13日

高等教育と人口移動(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その125

 10月16日発行の「東北復興」第89号では、東北地方からの人口移動について取り上げた。第86号で論じた東北の人口減少についての続編のようなもので、以下がその全文である。


高等教育と人口移動

東京に住む東北出身者は低学歴?
 7月16日発行の本紙第86号では、東北の人口減少について取り上げた。1995年に983万4千人だった東北地方の人口は、今年6月時点で868万2千人と、何と115万人も減少しているのである。仙台市の人口が現在108万人だが、それを上回る数の人が東北地方からいなくなったことになっているわけである。

 その大きな理由の一つが少子化による出生率の低下にあることは言うまでもないのだが、それ以上に問題なのは東北地方から主に首都圏への人口流出である。少子化についても人口流出についても、なかなか抜本的な解決策が講じられず、この現状を打破することは容易なことではないが、考えられることについて書いてみた。

 そんな中、最近の週刊誌に気になる記事があった。「都市部の東北出身者に『非大卒』が多いのはなぜか」という記事で、女性セブン2019年10月10日号に掲載されているようである。

 元々、東北六県の大学進学率は低い。文部科学省のデータを調べてみると、2017年度の短大を含む大学進学率は全国で54.8%と、既に半数を超えている。その一方で同年度の東北各県の進学率を見ると、宮城が最も高いがそれでも49.2%と半数に届いていない。都道府県別の順位でも27位である。他の5県はさらに低く、高い順から福島45.6%(34位)、秋田と山形が45.3%(35位)、青森44.5%(39位)、岩手43.6%(43位)となっており、総じて東北の大学進学率は他地域に比べて元々低い。

 ちなみに、高い方では、京都66.2%、東京65.9%、神奈川61.3%、広島と兵庫が60.7%などとなっており、10位まで見てもランクインしているのは首都圏と西日本の各都道府県である。

 記事中に登場する早稲田大学人間科学学術院教授の橋本健二氏によれば、「この進学率の差は、そもそも地方の大学定員が少ないことが少なからず関係していますが、それだけではありません。特に、東北地方には、特有の傾向が見られます。東京在住者を対象に、東京、千葉、神奈川などの南関東出身者、東北出身者、関西や九州などそれ以外の出身者と、3グループに分けてそれぞれ行った調査によると、大卒者の割合は、南関東で44.9%、それ以外で52.5%、東北では17.9%と、東北の大卒割合が他の地域に比べて著しく低かった。反対に、非大卒者の多い労働者階級の割合は、東北出身者は67.9%と最も高く、南関東は50%、それ以外では38.9%でした」とのことである。

 つまり、東京にいる東北出身者は、他地域の出身者に比べて非大卒者の割合が明らかに高いというのである。このことについて同氏は、「東北地方の大学進学率がもともと低いこともありますが、一般に、多くの地方出身者は高度な知識や経験、技術などを発揮できる職を求めて上京するため、大卒の地方出身者が多くなるのに対し、東北では、大卒者は地元で就職することが多く、非大卒者は職を求めて上京する傾向が強いのではないかと思います」としている。やはり同記事中に登場する作家の橘玲氏は、「他人と比べて、何らかのアドバンテージを持つ地方出身者は都市部に行こうとする傾向が強い。学歴による収入格差はあるものの、地方にとどまる人よりも、経済的に豊かになる傾向は強いでしょう」と指摘しているのだが、こと東北に限って見ると、橘氏の見方は当てはまらなさそうに見える。

 橋本氏は進学率の差が地方の大学定員の少なさにあるとしたが、実際はそうでもなさそうである。東北六県の大学の入学定員を人口で割ってみると、青森0.0027、岩手0.0019、宮城0.0049、秋田0.0021、山形0.0025、福島0.0018である。これに対して先ほど大学進学率が上位にあった都道府県を見てみると、京都は0.0123、東京は0.0102と、人口当たりの入学定員は東北各県と1ケタ違うが、神奈川は0.0050、広島は0.0047、兵庫は0.0049と、宮城とそれほど変わらないことが分かる。すなわち、大学入学定員が少ないから進学率が低いということではなさそうである。

 ではなぜ、東北六県の大学進学率は低いのか。恐らく、大学進学だけに価値を見出しているのではない人の割合が高いのではないだろうか。例えば、農業や漁業など、親の代あるいはそれ以前の代から続いてきた職業を継ぐなどのケースがそれに当たる。

seven1936_P52 一方で、橋本氏の指摘する、「都市部の東北出身者に『非大卒』が多い」という指摘は、確かに記事中のグラフ(左図参照)を見ると一目瞭然のように見える。ただ、このグラフで注意しなくてはならないのは、どの世代のことなのか明記されていないということである。老若男女問わずとにかく東北出身者ということであれば、ある程度説明はつくように思われる。要は、かつて集団就職で上京して職に就いた多くの東北出身者の存在である。集団就職は1976年に廃止されたが、その時までに上京した人は60歳が下限となるわけで、いまだその多くが東京に住んでいると考えられる。「金の卵」ともてはやされて故郷を離れ、東京に住んだこれらの人がどのような職業人生を送ったのか、これまであまり表に出ることはなかったように思うが、一度お話を聞いてみたい気がする。

今も尾を引く「戊辰戦争」の影響
 東北地方の大学定員が他地域に比べて少ないわけではないということは分かったが、ある学部に限って見ると、違った姿が見えてくることもまた事実である。ある学部とは、医学部である。こと医学部に限って見てみると、様相はガラリと変わるのである。

 現在、全国に医学部は80ある。各都道府県に最低一つ、医学部はあるので一見そこに差はないように見えるが、よく見ると実はかなり差がある。その辺りのことについては、医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏が詳細に論じている。

 氏は指摘する。「九州の人口は1,320万人ですが、10の医学部があり、年間約1,000人の医師を養成します。四国の人口は401万人で、4つの医学部があります。ちなみに、このレベルは、人口1,300万人で11の医学部がある東京と同レベルです。一方、千葉・茨城・埼玉県の人口は合計1,630万人ですが、医学部は4つしかありません。うち一つは防衛医大のため、地域医療への貢献は限定的です」。ちなみに、東北は四国の倍以上の868万人の人口でありつつ、医学部は長らく6つのみであった。その後、東日本大震災を受けて、東北の医師不足への対応と被災地復興の支援を目的として1校だけ医学部新設が認められ、現在は7つである。

 上氏はこの「格差」の理由について、重要な指摘を行っている。こうした医学教育の格差が生じるのに重大な影響を与えたのが「戊辰戦争」だというのである。戊辰戦争とは言うまでもなく、王政復古を経て明治政府を立てた薩摩藩・長州藩・土佐藩などを核とした新政府軍と、旧幕府軍や東北諸藩が結成した奥羽越列藩同盟が戦った我が国の「内戦」である。

 氏によれば、九州地区の医学部は歴史が古く、長崎大、鹿児島大、熊本大は長崎奉行書西役所医学伝習所や藩医学校を前身としており、それが明治以降、地域の中核医学部として発展している。九州は維新以降も重点的に開発され、九州大と久留米大学は1903年、1928年に設立されている。一方、賊軍とされた幕府側は医学部教育でも憂き目を見ており、その代表が会津藩だという。会津藩には日新館という当時全国有数の藩校があり、その中には医学校もあったが、戊辰戦争で焼失し、その後再建されることはなかった。福島県に医学校ができるのは、終戦直前の1944年である。福島女子医専、現在の福島県立医大である。人口200万の福島県に医学部はこの1校しかなく、人口当たりの医師数は全国平均を大きく下回っている。

 氏は強調する。「学校教育や西洋医学などの近代の社会システムの根幹が形成されたのは明治期です。そして、そのグランドデザインを描いたのは薩長を中心とした維新の志士たちです。彼らは出身地へ重点的に資源を投資したと考えるのが妥当でしょう。一方、関東の多くは幕府直轄領、あるいは親藩・譜代大名の領地です。戊辰戦争後の戦後処理で、冷遇されたのも無理ありません」。「教育は人材養成の根幹です。高等教育機関が出来れば、そこへの入学を目指し、中学・高校が切磋琢磨して裾野が広がります。例えば、九州には、北は修猷館高校から、南は鶴丸高校まで全国レベルの公立進学校が、多数存在します。修猷館、鶴丸高校は何れも藩校に由来します。一方、東京以外の関東圏の進学校は、千葉高や浦和高校など少数です。これらは、明治期に創設された旧制中学が前身です。九州の雄藩が、如何に教育に力を入れていたかお分かりでしょう」。

 その影響は今も続いている。これについては相馬中央病院内科医の森田知宏氏が論じている。氏は、国立大学医学部のない県に着目する。そして、国立大学医学部がないということは、教育格差を表していると指摘する。国立大学は国がつくり、運営交付金という形で国が補助する。総額1兆1千億円程度が国立大学に支払われるが、その額は大学によって多寡があり、多く支払われている大学は全て医学部を持っている。

 しかし、一部の県には国立大学の医学部がない。国立では年間の授業料が50万円強なのに対し、私立では年間300万円、場合によっては1,000万円近く必要なところもある。これでは私立大学の医学部に行ける高校生は限られてしまい、「教育の平等という視点から考えれば、由々しき問題」と氏は指摘する。東北で国立大学医学部のない県は岩手と福島である。特に岩手は私立の岩手医大が唯一の医学部を持つ大学であり、岩手の高校生が国公立の医学部を受験しようとした場合、他県の大学を受験しなければならない。なおかつ、関東にも国公立大学の医学部は6校しかなく、関東の高校生が距離的に近い東北の国公立大学を狙うため、岩手の高校生にとっては東北の国公立大学の医学部を狙うのは自ずとハードルが高くなるというのである。

 他県から入学した医学部生は卒業するとその多くが地元に戻るため、東北でいくら医学生を養成しても地元はいつまで経っても医師が不足したままという状況になる。氏もその状況について、「1886年の帝国大学令から続く大学の歴史は明治維新と切り離せません」と強調する。同じように国立大学医学部のない和歌山は「御三家」の一つ、国公立大学医学部が少ない関東一円は幕府のお膝元で、「山口や鹿児島に旧藩主サポート下の県立医学校が1800年台から存在したことと対照的」と指摘する。東北の状況も同様の理由だということである。

 明治以来続くこうした状況が一足飛びに変わるとは考えられない。であっても、現状を少しでも変える取り組みは必要である。具体的には、もちろん簡単なことではないにしろ、他地域から大学入学をきっかけに東北に住んだ医学生が、卒業後も引き続き愛着を持って住み続けてもらえるような、そのような地域をつくっていかなければ、東北の先行きは成り立たないということである。

anagma5 at 18:40|PermalinkComments(0)clip!

2019年09月18日

パネルディスカッションで伝えてきたこと(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その124

  9月16日に発行された「東北復興」第88号では、前号に続いて先の第23回日本看護管理学会学術集会でお話させていただいたことをまとめてみた。

 以下がその全文である。

 なお、当日使用したスライドの内容はこのようなもの(PDF)である。

slide














パネルディスカッションで伝えてきたこと

 前号でも紹介した通り、8月23、24日に新潟市内で開催された「第23回日本看護管理学会学術集会」のパネルディスカッション1「大規模災害における看護管理者の役割」において、パネリストを務めさせていただいた。限られた時間ではあったが、私からは‥貽本大震災の概要、看護管理者の方々からの伝言、「経験知」は正しいか、ご埜邊浜者の皆さんに伝えたいこと、の四点についてお話してきた。その内容について、備忘録の意味も含めて以下にそれぞれ紹介していきたいと思う。

東日本大震災の概要
 東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震は、世界の観測史上4番目に大きな規模の地震であった。これまでに観測された地震の中で最大の地震は日本にも大きな津波被害をもたらした1960年のチリ地震で、そのマグニチュードは実にM9.5であった。東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0である。9.5と9.0ではそれほど違いがないように見えるが、マグニチュードは0.1大きくなるごとに地震のエネルギーは約1.4倍になるので、チリ地震は東北地方太平洋沖地震の1.4の5乗、すなわち約5.4倍ものエネルギーを持った地震ということになる。

 東日本大震災の人的被害は改めて言うまでもなく甚大で、消防庁の発表によれば、死者は震災関連死を含めて19,689九人、行方不明者もいまだ2,563人いる。毎月月命日の11日には今も消防や警察、ボランティア、それに肉親を捜す家族によって捜索が続いているが、発見に至る件数は年々減少している。震災直後の一年間で10,806人が見つかったが、次の一年間では311人、その後はずっと二桁台か一桁で、昨年3月からの1年間で見つかった人数は6名に留まっている。

看護管理者の方々からの伝言
 パネルディスカッションのテーマは「看護管理者の役割」であるが、私自身は看護管理者ではないので、お付き合いのある看護管理者の方々に、/椋丗慮海魴个討海裡固間、看護管理者として力を入れてきたことは何か、どんな思いを持っているか、⊃椋劼悗糧え、対応について全国の同じ看護管理者の方々に一番伝えたいことは何か、の2点についてお話を伺い、その概要について紹介した。その内容については、前号で紹介した通りである。震災において引き起こされた様々な事態に対応し、患者や職員の身を守り、地域の医療・看護を守り抜いてきた方々の言葉には、本当に説得力があった。私のお話した内容の中でも、ここが最も重要だったと考えている。

「経験知」は正しいか
 震災における「経験知」が貴重なものであることは間違いないが、ただし、その「経験知」が普遍的なものかどうかについては十分な検証が必要ということで、いくつかの「経験知」について、以前この連載でも検証した。今回は、…吐箸料阿砲楼き潮がある、∪臑翳震遒膨吐箸詫茲覆ぁ↓B腓な地震の時には津波が来る、38年に一度宮城県沖地震が起こる、ゥ魯供璽疋泪奪廚鯑に入れて行動する、Α崢吐箸討鵑任鵑魁廚力擦弔砲弔い銅茲蠑紊欧拭,砲弔い討蓮引き潮がなくても津波は来ること、△砲弔い討蓮∈2鵑鯲磴飽くまでもなく歴史上度々襲来していること、については東日本大震災を上回る死者を出した1896年の明治三陸地震を例に、震度の小さい地震でも津波は起こり得る、ということをお伝えした。

 い砲弔い討蓮江戸時代からの記録を調べてみると、概ね26年から42年の間隔で地震が発生しているものの、中には前の地震の翌年や3年後に発生していることもあり、決して「38年に一度」ではないこと、にも関わらず、何となく「次に大きな地震があるとしてもそれはここ以外」という感覚が被災地全体にあることについて、「災害は忘れた頃にやってくる」ではなく「災害は忘れる前にやってくる」かもしれない、ということで警鐘を鳴らさせていただいた。

 イ砲弔い討蓮弟の事例を引きながら、仙台市の震災前の津波ハザードマップが震災による被害を受けて大きく改定されたことを紹介した。その上で、ハザードマップはある条件内で想定される被害予測であり、実際にはその条件を上回る災害が起こることもあること、従ってハザードマップはその時点でのもので、今後も改訂されていくものであることを指摘して、ハザードマップは参考にはしても、決して絶対のものと考えてはいけない、ということをお伝えした。

 Δ砲弔い討蓮以前この連載でも紹介したが、「てんでんこ」とは岩手県三陸地方の言葉で「各自」「めいめい」「てんでんばらばら」という意味で、「津波てんでんこ」は「津波から逃げる時はてんでんばらばらに逃げろ」、「命てんでんこ」は「命はめいめいが守れ」という、いずれも三陸地方に伝わる教訓であることを紹介した。そして、この「津波てんでんこ」に「自分さえ助かればそれでいいのか」という批判の声があるが、「津波てんでんこ」で大事なのは非常時より平時のアクションの方であることを指摘して、いざという時にめいめいが自分のことだけを心配して逃げればいいように、普段から非常時のアクションについて話し合い、その通りに行動するように申し合わせておくことがベースにあること、それによっていざという時には家族、知人も同じように避難していると考えて、 自分の身を守ることだけに専念できる態勢になれることを指摘して、日常からの相互の信頼関係があってこその「てんでんこ」であるということをお伝えした。

看護管理者の皆さんに伝えたいこと
 私がこれまで経験したり、見聞きしたり、調べたりしたことの中で、看護管理者の皆さんにお伝えしたいこととして、仝妬現顱γ楼茲療曽気房を傾ける、BCPから地域連携BCPへ、自分の命を守ることを最優先に、ぢ慮海靴燭海箸鯏舛続けること、の四点を挙げさせていただいた。

 ,砲弔い討蓮東日本大震災と同じ規模の大地震である西暦869年の「貞観地震」の記録が「日本三大実録」にあること、そしてその内容について紹介した。「海は、数十里乃至百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった」という表記が、今回の仙台平野を襲った状況と全く同じであること、砂質堆積物の地質調査で貞観地震による浸水範囲と今回の地震の浸水範囲とがほぼ一致することなども紹介した。

 また、仙台市若林区にある浪分神社に、江戸時代に仙台平野を襲った津波(慶長三陸地震津波)の際、この神社のある場所で波が分かれて引いた、との伝承があったものの、その伝承が震災前には地域に伝わっていないかったこと、今回の地震でも神社のすぐ近くまで津波が押し寄せたことを挙げて、どんな伝承も教訓も伝わらなければ意味がないことを強調した。

 もう一例、岩手県宮古市姉吉地区にある「大津波記念碑」についても取り上げた。「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」との記載のあるこの碑は1933年の昭和三陸沖地震の後に建てられた。姉吉地区は明治三陸沖地震の津波で壊滅したが、その教訓が伝えられず昭和三陸地震でも甚大な被害を出している。今回の東日本大震災でも、石碑より低い場所には大津波が押し寄せたが、教えを守った全11世帯の家屋は被害を免れており、悲劇は二度繰り返されたが、三度目は被害を最小限に食い止めたということをお伝えした。

 △砲弔い討蓮東日本大震災を受けて厚生労働省が平成24年に「災害時における医療体制の充実強化について」という医政局長通知を出してBCP(事業継続計画)の作成を各病院に要請しており、翌平成25年には「病院におけるBCPの考え方に基づいた災害対策マニュアルについて」において「BCPの考え方に基づいた病院災害対応計画作成の手引き」も示しているものの、いまだ全病院のうち、BCPを策定している割合が25パーセントに留まっていることをまず紹介した。

 その上で、まずBCPを策定するのは必須であるものの、策定されたBCPが本当に災害時に機能するものかどうか検証が必要と指摘して、日常の医療が「一病院完結型」から「地域完結型」へと転換していることを踏まえて、災害時のBCPも他病院など関係機関との連携を前提にすべきで、地域の病院同士が互いにBCPを持ち寄って、発災時の役割分担や連携の方法を検討し、それを再度各病院のBCPに反映させてより実効あるBCPとすることで災害時の地域医療を守る「地域連携BCP」の策定を提案させていただいた。「備え」とは、ただ単にないものをつくるというものではなく、いざという時に機能するものをつくることであるということも付け加えさせていただいた。

 については、特に専門職は、発災時に自分の能力の限界を超えて完璧を目指してはいけない、ということを強調して、まず自分の命を守ることを最優先にしてほしいと呼び掛けた。そして、自分を助けることが、その先何人もの患者、地域住民を助けることにつながること、そのことを看護スタッフ一人ひとりにも繰り返し伝えてほしいことをお伝えした。

 い砲弔い討蓮∨困譴覆い海函伝え続けることによって、次の災害による被害を最小限に防ぐことができること、一人ひとりの経験を「知」として共有することで、「想定外」の領域を狭くできること、そうしたことが災害を「非日常」としてでなく、「日常」の一部として捉えることにもつながることをお伝えした。

 ただし、決してムリをしないことが重要であることも併せてお伝えした。避難と同じように、復興も一人ひとり「てんでんこ」でよいと私は考えていて、一人ひとりがムリせず続けられることが息の長い取り組みにつながっていくと考えているからである。

 最後に、「災害発生時に一人でも犠牲になる人が少なくなるよう、一人ひとりが、できることを地道に着実に、やり続けましょう」と呼び掛けて、私の話を終えた。どれだけ役に立つ話ができたかは心配なところはあるが、今後も機会があれば、引き続き伝えるべきことは伝えていきたいと考えているところである。


anagma5 at 18:32|PermalinkComments(0)clip!

2019年09月10日

被災地の看護管理者からの伝言(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その123

 8月16日に発行された「東北復興」第87号では、4人の看護管理者の方に改めて語っていただいた東日本大震災についてのお話を紹介した。元々は、去る8月23日、24日に新潟市内で開催された第23回日本看護管理学会学術集会のパネルディスカッションで話をする際に紹介するつもりでお話をお聞きしてきたものだが、震災に関する貴重な証言でもあるので、文字として残しておこうと思ったものである。

 以下がその全文であるが、初出時から体裁を変更している。


被災地の看護管理者からの伝言

 東日本大震災の発災から8年5カ月が経った。この間、医療や介護の専門職がどのようなことを考え、どのような行動を取ったかといったことについては、マスメディア等でもあまり多く報じられてこなかった感がある。しかし、実際には、地域住民や患者、利用者のために獅子奮迅の働きをしていたのである。

 今回、第23回日本看護管理学会学術集会のパネルディスカッション1「大規模災害における看護管理者の役割」にパネラーの一人としてお招きいただいたことを機に、以前からお付き合いのある看護管理者の方々に、改めて震災の発災から今に至る経過の中で、看護管理者として力を入れて取り組んできたことや、全国の同じ看護管理者に特に伝えたいことについてお話を伺った。その大枠について、ここに紹介しておきたい。

福島第一原発至近の病院にいて
 西山幸江さんは福島県の浜通り、福島第一原発が立地していた双葉町にある双葉厚生病院で看護部長をしていた。地震の後、津波は辛うじて病院の手前で止まったものの、福島第一原発の全電源喪失という予想だにしなかった事態を受けて、避難指示が出された。重症者も含めて病院の全入院患者と職員が、避難を余儀なくされた。指示命令系統が混乱する中、過酷な避難を強いられて、亡くなった患者も何人も出たことが痛恨の極みだったと語ってくれた。西山さんは双葉厚生病院が閉鎖された後、系列の中通り南部にある塙厚生病院の看護部長、白河厚生総合病院の看護部長を歴任し、現在は福島市内にある福島第一病院の看護部長としてご活躍中である。その西山さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
原発事故には理不尽さと見えない恐怖を感じた。重要なのは平時の対応。震災前は、原子力は安全だと聞かされていて、災害対策に関心があまりなく、常日頃やっていなかったが、日頃の備えがやはり重要と痛感した。日々の活動の結果が災害時に出る。
・仕事では震災を機にいろいろな経験をさせてもらった。何もなかったらこうしたことは経験できなかった。
・でも、仕事を離れるといまだに心に傷がある。震災の話は嫌という気持ちがいつもある。震災のことを思い出すと心が切れて、泣きそうになる。今も戻れない故郷の双葉町には、今ここにないものがたくさんあった。なくすことの影響がこれだけあることを痛感する。心が満たされていないのを感じる。ずっとこの思いは死ぬまでもっていくのだと思う。

伝えたいこと
災害対応は年間を通してやるべきこととして、医療安全や感染対策と同じように常に日常に組み込まれないといけない。「火事場の馬鹿力」は一瞬のことであり、その後の持続力が大事。
つくづく思うのは人間関係の大事さ。地域の人と仲良くしておくことが災害時にも活きる。日頃やったことの答えが災害時に出る。

巨大津波に見舞われて
 長かおるさんは宮城県の沿岸、女川町にある女川町立病院で看護師長をしていた。女川町立病院は海沿いの高台、標高16メートルの場所にあったが、巨大津波はそこにも容赦なく押し寄せ、病院の一階部分が水没した。当初は患者に加え、避難してきた地域住民への対応に追われた。震災後、町から移管されて地域医療振興協会が指定管理者となった女川町地域医療センターで看護介護部長として今もご活躍中である。その長さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
・震災時に多職種の支援チームで始まった状況確認のためのミーティングが、今も「女川町地域包括ケアネットワーク会議」として続いている。震災の体験が今も活きている。
患者・利用者の安全を守るには、スタッフが元気なことが前提。そのためにスタッフの思いを聞き取る機会をつくることが有効だった。
あの震災を乗り越えたからこそ今がある。震災を経験して、自分の力ではどうにもできないことが起こり得ると腹を括った。その経験知は伝えていきたい。

伝えたいこと
「自分の命は自分で守る」を身につけるべき。専門職として、自身が要救護者にはならないように意識したい。
発災時には病院は「安心の場所」として、避難者もやってくる。災害対策を立てる時はそのことを踏まえた覚悟も必要。一方で、スタッフも被災者であることを忘れずに。
備蓄は分散させること。その中で、自分たちの分は自分たちで日常的に確保しておく。
連携ネットワークは平常時から構築しておかないと、いざという時に機能しない。

 横井智美さんは、同じ女川町で当時、町立病院に隣接した女川町老人保健施設の看護師長として勤務していた。発災時、施設には44名の入所者と8名の通所リハビリテーションの利用者がいた。避難マニュアルでは施設の一階に避難することとされていたが、大津波警報が出されたことで三階屋上に避難することを決断して難を逃れた。現在は女川町地域医療センターで外来看護師長を務めている。その横井さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
・震災前には「震度4以上で参集」という基準があったが、参集の途中で生命の危険に遭遇した職員がいた。まずは自分の命と家族の命を守ることが先決と、優先順位を改めた。
・発災後は、協力し合って、応援が来るのを信じて、しのぐ、つなぐという思いだった。
ネットワークは平時からつくらなければ、いざという時につながらない。
・いつでも管理者がいるとは限らない。いる人たちでリーダーシップを発揮して対応できるように日頃からしておかないといけない。いつでも備える気持ちが必要。

伝えたいこと
・自分たちが体験したことは皆さんの命をつなぐヒントになるかもしれない。次世代につないでいかないと、という意識を持っている。
「自分だけは大丈夫」という思いは禁物。人は自分の都合のよい考え方をするものと思っておく。マニュアル通りでなく、臨機応変に自分を守る行動をしてほしい。
・被災時に自分たちの状況を発信するすべがなかった。情報を伝えるすべを確保しておきたい。

風評被害を乗り越えて
 鈴木のり子さんは福島県の浜通り南部、東北第二の都市いわき市にある、いわき市立総合磐城共立病院で看護師長をしていた。震災時、いわき市は福島第一原発と同じ浜通りにあるということで、風評被害から物資が届かなくなり、医薬品や医療材料などが極端に不足する中、病院一丸となって懸命に地域医療を守った。老朽化が進んだ病院から患者を避難させ、安全が確認できてからまた院内に戻すなどの対応にも追われた。震災後、副看護部長、副院長兼看護部長を歴任して、現在は昨年12月に移転新築していわき市医療センターという名称となった新しい病院で患者サポートセンターの副センター長としてご活躍中である。その鈴木さんのお話である。

[呂鯑れてきたこと、思い
マニュアルをもっと実用的なものにしなくては、と痛感した。ただ、震災時は動転しながらも年2回やっていた防災訓練に準じて動けた。
震災後は防災訓練も「ブラインド訓練」にした。震災後、DMATを編成、他地域に応援に行ける体制をつくった。看護部としても災害支援看護師を多く育成し、災害対策委員を置いた。
自主避難して戻ってきた人、避難せずに残った人、お互いに苦しかった。お互いの気持ちを聞きながら、時間は掛かっても理解し、認め合うことに努めた。悲しみや苦しみは乗り越え、教訓は忘れないという思いで。

伝えたいこと
専門職として、命を落としてはいけない。
災害は他人事ではない。備えだけは忘れないでほしい。その思いは今後もつないでいきたい。
なぜ看護師になったか、なんのために看護しているのか、看護・医療に対する価値観、倫理感、看護観を意識的に自分の中に育んでいってほしい。いざという時に迷ったり後悔したりしないように。最後は自分で判断できるように。
・震災前は地域との連携が弱かった。困ったときはどう助け合うのか、地域を回って、お互いの状況を話し合い、確認し合った。顔が見える、困ったときに困ったと言える関係の構築が必要。お互い様で、有事に備えよう。
自分の施設の備えの総点検をしてほしい。

「備え」をもう一度見直して

 これら看護管理者の方々の言葉は、自ら体験したことに基づいたものであるだけに、説得力がある。どこにいても、災害の発生を免れることは困難である以上、日頃からの備えが重要であることが、これら四人の看護管理者のお話からも窺える。

 「備え」というのは、ただ単にそれまでないものをつくればいいというものではない。いざという時に機能するものをつくって、初めて「備え」と言えるのである。

 東日本大震災の発災から八年が経過して、その体験の風化が指摘される。一方で、東南海トラフ地震を始めとして、近い将来に予測されている地震災害も複数あり、その備えのために、やはり東日本大震災における経験知は有用である。これからも、機会ある毎に、そうした震災体験による経験知を他の地域の人、この地域のこれからの人に向けて、積極的に発信していきたいと考えている。


anagma5 at 18:00|PermalinkComments(0)clip!

2019年08月18日

東北の人口減少をどうするか(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その122

 7月16日発行の「東北復興」第86号では、東北の人口減少について取り上げた。平成7年に983万4千人だった東北地方の人口は、今年6月時点で868万2千人と、何と115万人も減少しているのである。仙台市の人口が現在108万人だが、それを上回る数の人が東北地方からいなくなったことになる。

 その大きな理由の一つが少子化による出生率の低下にあることは言うまでもないのだが、それ以上に問題なのは東北地方から主に首都圏への人口流出である。少子化についても人口流出についても、なかなか抜本的な解決策が講じられず、この現状を打破することは容易なことではないが、考えられることについて書いてみた。以下がその全文である。


追記(2019.8.19):少子化対策について、永井一石氏がご自身のブログで興味深い提案を行っていた(「デフレを脱却してインフレになるには少子化対策が最優先なのは経済の基本でしょ」)。国債発行を少子化対策の資金として、「子供が生まれたら学校を卒業するまで1人月50000円支給」のような制度をつくることを主張している。

 「子供が多く生まれれば国債の発行額も増えるが、多く生まれている時点で将来の納税者が増え、消費も拡大するのが明確ですからまったくリスクがないんですよ。成功報酬ですからね」と。

 オーストラリアでは実際にそのような子ども手当を実施していて、世帯収入が年間53,728ドル以下だと2週間ごとに子供1人あたり237.86ドルもらえるそうである。実際に、オーストラリアでは田舎で5人くらい子供を作ると、育児だけで食べていけるそうで、「これ、狡くもなんともない。国のために将来の納税者を育てる立派な仕事です。『納税者育成事業』という業種ですな」と、永井氏は指摘している。

超長期人口推計 本文中で挙げた北野幸伯氏もロシアを例に引きながら、著書の中で同様の提案をしている。こうした施策によって例えば、出生率がオーストラリアやロシア並の1.8前後に上がって、将来的に2.1まで持っていけると、人口は下げ止まり、9,500万人前後で安定するという推計を首相官邸自らが出している(「ストップ少子化・地方元気戦略」(要約版))。

 国をこの先も発展させていくために何に投資していくかを考えた際に、この国をこれから支えていく人に投資するというのは極めて合理的な選択であると思う。


東北の人口減少をどうするか

地方と東京の関係性
 地方のことを論じる際に無視できないのが、地方と東京並びにその周辺地域との関係である。東京とその周囲にある神奈川、埼玉、千葉を合わせて「東京(都市)圏」と言うが、東京圏の人口は実に3,544万人。日本の人口の3割弱が居住している計算になる。これは世界の都市圏の中でも文句なしに最多であり、一つの都市圏に3,000万人を超える人が住んでいる地域は、東京圏以外にはインドネシアのジャカルタ(3,228万人)があるだけである。

 東京圏1都3県の人口は、日本全体の人口が減少する中でもさらに増えている。国勢調査の結果によれば、東京都の人口は、2010年から2015年の5年間で35万6千人増加している。ちなみに、東京都の合計特殊出生率(以下、出生率と略す)は全国最低の1.20であるが、にもかかわらず人口が増加しているのは、低い出生率による自然減をはるかに上回る、地方から東京への人の移動による社会増があるからである。

東北における人の出入り
宮城県地域ブロック別純移動数 では、この人口の移動による社会増減はどれくらいあるのだろうか。国立社会保障・人口問題研究所の「第8回人口移動調査」の結果から見てみよう。まず宮城県を見てみる。棒グラフの一番右、2017年には東北各地から4,956人の転出があったが、それを上回る5,357人が東京圏に転出しており、差し引き401人の社会減である。これを見ると、宮城県における東京圏への人口流出を堰き止める防波堤の役割は、残念ながら限定的であることが分かる。





青森県地域ブロック別純移動数 東北の各県についても見てみる。青森県は2017年に東北他県(恐らく大半は宮城と思われる)に1,172人の転出があるが、東京圏にはその3倍超の3,756人が転出している。











岩手県地域ブロック別純移動数 岩手県は2017年に東北他県に877人が転出、東京圏にはやはりその3倍近い2,611人が転出している。














福島県地域ブロック別純移動数 福島県は2017年に東北他県には958人が転出し、東京圏にはその5倍超の4,975人が転出している。東北他県に比べて東京圏への転出が多いのは、地理的な近さが関係しているのかもしれない。














秋田県地域ブロック別純移動数 秋田県は2017年に東北他県には1,135人が転出、東京圏にはその倍の2,288人が転出している。














山形県地域ブロック別純移動数 山形県は2017年に東北他県に814人が転出、東京圏にはその3倍近い2,400人が転出している。














 つまり、宮城を除く東北5県は、同じ東北エリア内への転出の2倍から5倍の数の人が東京圏に転出しているのである。自然減に加えてこの社会減によって、人口減に一層拍車が掛かっているのである。日本全体の人口が減少する中で東京圏の人口だけが増加し続け、一方で東北など地方の人口は社会減によって一層人口が減る、という状況が続いている限り、東京の一極集中の解消など絵空事でしかない。

震災復興に対する全国からの支援
 もう一つ、これを見て分かるのは、震災が起きた2011年以降の状況である。青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、それぞれに特徴があることが分かる。宮城県を見てみると、2011年は東京圏に2017年よりもはるかに多い6,396人が転出しているが、この中には震災からの避難ということも多くあったことだろう。これに対して翌2012年以降は東北以外からの転入者が多い。東京圏への転出も2012年は一転して1,888人と減少している。この棒グラフは転入と転出の差を見ているので、これは単に宮城県から東京圏への転出が減ったということを意味しているのではなく、東京圏からかなりの数の人が転入しているということを暗示している。

 つまり、震災を機に、他地域から宮城県内への転入が大きく増えていたのである。これは言うまでもなく、他地域から、被災地の復興支援のために、住民票を移して、すなわち一時的な来県という形ではなく来てくれた人が大勢いたということである。私たちはこのことを決して忘れてはいけないと思う。

 青森を見ると、2011年は東北他県への移動数がほとんどない。これは青森から東北他県に転出したのとほぼ同数の転入者があったことを示している。恐らく岩手、宮城、福島からの避難であろう。岩手を見ると、2011年は東北他県から、2012年以降は他地域からの転入が増え、東京圏への転出が減っている。震災の年は東北各県から、翌年以降は他地域からの、復興支援のための転入が増えたことが窺える。秋田も青森と同様の傾向で、2011年は東北他県からの転入がプラスになっていて、被災地からの避難者が秋田に転入したことが窺える。山形はその傾向がさらに顕著で、2011年の東北他県からの転入が1,770人に上り、翌年も転出者数を打ち消すくらいの転入者があった。恐らくは隣県の福島からの避難者が山形を頼ったということなのだろう。

 福島のグラフにはその苦難が如実に表れている。2011年の転出者は3万人を超え、転出先も全国各地に及んでいる。2012年も東北他県に3,525人、東京圏に6,085人が転出している。2013年以降は傾向がガラリと変わり、他地域からの転入が増え、東京圏への転出者数も減って見える。ここからは、他地域からの支援者が岩手、宮城よりも遅れて福島入りしていることが分かる。原発事故で出されていた避難指示が順次解除されたタイミングとも重なって見える。

東京では子どもを産み育てられない
 東京の出生率が低いということは、統計的に見て、東京に住むと子どもが生まれない(生めない)ということである。端的に言えば、出生率を上げたいのなら、東京に住む人の数を減らせばよい、ということになる。実際、地方の方が出生率が高い傾向がある。「子どもを生み、育てたかったら地方に住もう」、ということが言えそうなのだが、ここで困ったことがある。地方と言っても、東北は東京ほどではないにせよ、出生率がそれほど高くないのである。宮城の1.30が最低だが、秋田も1.33、岩手1.41、青森1.43、山形1.48となっている。唯一福島だけが1.53と、1.5を超えているが、西日本、特に九州と比べると特に高いというわけでもない。九州は沖縄の1.89を筆頭に、宮崎1.72、鹿児島1.70、熊本1.69、長崎1.68など、軒並み高い。

 東京圏は、東京以外は埼玉と千葉が1.34、神奈川が1.33なので、東北で言えば秋田並で、宮城よりむしろ高い。「地方に住めば子どもを生み育てられる」というのは、少なくとも宮城や秋田に関してはあまり言えなさそうである。

 不思議なのは、この東北の出生率の低さである。東京圏に比べて保育園待ちが深刻というわけでもない、同居や近居の親世代がいる割合も高い、地域とのつながりも大都市圏に比べれば残っている、といった環境は、東北も九州も共通しているのだが、にもかかわらずなぜ出生率がこれだけ違うのか、納得できるような説明はなかなか困難であるように思われる。

 先進国を見てみると、やはり日本と同様に少子化が進んでいるが、その中でも北欧やフランスは比較的高い出生率を維持している。その背景には福祉政策全般に対する信頼感や、出産・子育てに関する手厚い支援の存在などがあると考えられるが、日本国内においてはそれほど支援制度に大きな差がないと考えられる中で出生率にこれだけ差が生じているのは、何か別の要因が関係しているに違いない。

 この点について、ニッセイ基礎研究所の天野馨南子氏は興味深いレポートを公表している。各都道府県における第一子出産時の父親の年齢、母親の年齢とその都道府県の出生率との間には強い負の相関があるというのである。父親の年齢と出生率の間の相関係数−0.74、母親の年齢と出生率の間の相関係数は−0.71とのことで、父親・母親とも第一子出産時の年齢が高い都道府県ほど出生率が低いということが言えるというわけである。

 とすれば、少子化の重要な解決策の一つは、なるべく第一子出産時の年齢を下げるということになる。では、なぜ第一子出産時の年齢が高くなっているかと言えば、晩婚化が進んでいるからである。晩婚化の理由としては、仕事との関係など様々あるだろうが、若くして子どもを持つ傾向が低いのには、経済的な不安があることが予測される。子育てに掛かる費用が高額であることは広く知られているが、一般的に若いと給与水準も低いため、その給与水準で子どもを持つことに躊躇が生まれると考えられる。そこで出産を後押しするためには、若くして生むほど、高い子育て支援金を支給するという仕組みが必要なのではないだろうか。今の議論は第一子でいくら、第二子でいくら、というものだが、若くして生むほど経済的な負担が相対的に大きいのだから、若い人ほど手厚い支援が必要なのである。

 国際関係アナリストの北野幸伯氏によれば、1999年当時のロシアの出生率は今の日本をも下回る1.16だったが、2015年には何と1.75まで回復したという。それを可能にした政策の一つが「母親資本(マテリンスキー・カピタル)」という制度で、これは子どもが2人生まれたら、ロシアにおける平均年収の倍ほどにもなる支援金が支給されて、住宅の購入や修繕、教育などに使えるというものだそうである。先ほど、挙げたフランスも同様にやはり子どもが2人以上生まれた家庭への手厚い経済的保護を実施しているとのことである。

 こうしたロシアやフランスの支援策から見ると、つい先日閣議決定された「まち・ひと・しごと創生基本方針2019」を見ても実に小粒な印象で、「これで人口が増えるに違いない」、との実感に乏しいのが現状である。少子高齢化の最先端を行っている日本だからこそ、ロシアやフランス並みかそれらを上回るレベルでのドラスティックな出産・子育て支援を行わなければ、出生率に関しての大きな改善は期待できないのではないだろうか。


anagma5 at 23:01|PermalinkComments(0)clip!

2019年07月25日

東日本大震災から8年3カ月、宮城県沖地震から41年(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その121

 6月16日に発行された「東北復興」第85号では、先の震災で犠牲となった弟の慰霊碑がかつての勤務先であった若林区役所の敷地内にできたことを紹介しつつ、発生から41年が経った宮城県沖地震についても振り返った。

 東日本大震災の発災から既に8年3カ月、次の地震への備えを決して怠らないようにしないといけない時期になっている。ブロック塀については、昨年の大阪北部地震で改めてその危険性が浮き彫りになった。仙台市では、「生垣づくり助成事業」を行っている。この取り組みをもう少し積極的に進めて、設置から30年以上経ったブロック塀は全て生垣に転換させる方向で働き掛けるのがよいのではないだろうか。「杜の都」の景観としても相応しい。

 以下が「東北復興」紙に寄稿した全文である。


東日本大震災から8年3カ月、宮城県沖地震から41年

「3.11不忘の碑」

3.11不忘の碑 東日本大震災の発災から8年3カ月の6月11日、「3.11不忘の碑(わすれじのひ)」の除幕式が行われた。震災当時、弟が勤務していた若林区役所の方々や友人の方が「3.11慰霊碑設置準備会」を結成して、およそ100人の方がお金を出して、区役所の敷地内に設置する許可も得て、この日、晴れてお披露目となったものである。

 除幕式には、震災当時市長だった奥山恵美子さんを始め、当時若林区長だった山田文雄さん、設置準備会の会長も務めた清水俊明前区長、現区長の白川由利枝さん、そして弟の当時の上司・同僚の方々や、弟が一緒に仕事をしていたまちづくり協議会の方々が参加してくださった。

 あの日弟は、地震発生の後、沿岸部荒浜地区の住民に避難を呼び掛けに同じ課の先輩と市の広報車で出掛け、そのまま帰らぬ人となった。

 挨拶に立った清水さんは、「2人を失った痛みは8年3カ月が経っても消えない」と言い、白川さんは毎年職員を前に訓示を行う際に必ず震災で殉職した仲間がいたことを話すという取り組みを紹介しながら、「大事な仲間を震災で失った事実を伝え続けることが私たちの責任」と言ってくれた。

宮城県沖地震から41年
 翌6月12日は、宮城県の「みやぎ県民防災の日」、仙台市の「市民防災の日」で、県内各地で総合防災訓練が行われた。41年前の1978年のこの日、宮城県沖を震源とするM7.4の地震が発生し、28名の犠牲者を出した。私は当時8歳だったが、この地震のことはよく覚えている。夕方、母親はちょうどPTAの会合か何かがあって出掛けていて、留守番中の私と弟がテレビアニメを見ていたところ、突然大きな揺れが来て、揺れの最中に停電になったのかテレビは切れ、弟の頭上にあった花瓶が落ちてきたので、慌てて弟の手を引いてあまりものが置かれていない別の部屋に逃げて揺れが収まるのを待った。電気はつかないし、どんどん暗くなってくるしで、母親が帰ってくるまでの時間がとても長かったように感じた。

 この地震では、仙台市で住宅の全半壊が4,385戸、一部損壊が86,010戸に上るなど、甚大な被害が生じた。この地震がきっかけとなって3年後に従来の建築基準法が改正された。その主眼は建築物の耐震基準が強化で、「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7程度の大規模地震でも倒壊は免れる」という耐震基準が設定された。

 また、この地震の死者28名のうち、実に18名が倒壊したブロック塀の下敷きとなって亡くなっている。これら倒壊したブロック塀には鉄筋が入っておらず、単にブロックが積み上げられていただけのものであったため、この地震の後、やはり規制が強化され、太さ10ミリ以上の所定のJIS規格を満たす鉄筋を、横方向は400ミリ間隔、縦方向は400から800ミリ(主壁の高さや控壁の有無、鉄筋の太さなどによって異なる)で配することが義務づけられた。

 しかし、昨年6月に発生した大阪北部地震では、高槻市で小学校のブロック塀が倒壊し、登校途中の小学生が犠牲となるという痛ましい被害が発生した。宮城県沖地震から40年が経過してなお、その教訓が活かされていない現状があることは非常に残念なことである。ただ、高槻市ではこの事態を受けて、公共施設のブロック塀を2028年までに全て撤去する方針を決めた。これは英断と言ってよいと思う。

 一方の宮城県内でも他人事ではない現状が明らかになっている。危険なブロック塀はむしろ増加しているというのである。要は、鉄筋が入っていても、年月の経過と共にその鉄筋が劣化してくる他、先の東日本大震災で強度が低下しているブロック塀も多数あるというのである。元々ブロック塀の耐用年数はおよそ30年とされる。41年前の悲劇を繰り返さないためには、30年サイクルで建て替えるか、それが無理なら高槻市のように撤去を進めていくことが必要である。

「繰り返されない」ためのアクション
 「3.11不忘の碑」に刻まれている文言の中には、「若林区役所の職員として地域のために共に働き、そして津波から一人でも多くの住民を守るために命をかけられたことを忘れずに、また、あってはならないこの悲しみが二度と繰り返されないことを強く願い、この碑を建立します」とある。

 弟のことを忘れずに、8年3カ月を経てこうした碑を建ててくれたことは兄として率直にありがたいことである。そして、「二度と繰り返されないことを強く願」ってこの碑が建てられたことにも共感できる。

 もちろん、二度と繰り返されないことを「強く願う」だけでなく、そのための具体的なアクションが必要であることは言うまでもない。その点でも、仙台市は既に様々なアクションを起こしている。「国連防災世界会議」の誘致と「仙台防災枠組2015-2030」の採択、スイスの防災ダボス会議と連携した2年に一度の「世界防災フォーラム」の開催、毎年3月の「仙台防災未来フォーラム」の開催、「防災環境都市・仙台」を合言葉とした防災環境都市づくりへの取り組みなど、震災の教訓を忘れず、考え、発信・実践していくための取り組みが様々に進められている。

 そうした公の取り組みだけではない。仙台市職員による自主勉強会「Team Sendai(チーム仙台)」は、東日本大震災における体験の記録と伝承に取り組んでいる。その手法も多彩で、震災の対応に当たった本人から話を聞く「語り部の会」を開いたり、そうして聞き取った体験談を震災後に入庁した職員に朗読させてその教訓を共有したり、市職員が震災で判断に迷った体験を災害時の行動を選択させる防災カードゲーム「クロスロード」の仙台編を作成する際に取り入れたり、とあの手この手で震災における体験を残し、伝える活動を行っているのである。こうした取り組みが職員の間で自主的に現在に至るまで続けられていることも特筆に値すると言える。

自分の命を守ることを最優先に
 今、私が危機感を覚えていることがある。東日本大震災ほどの巨大な地震に遭遇したからか、次に大きな地震が起こるにしても、それはここではないどこか他の地域で起こるに違いない、というように思っている人が結構多くいるように感じられることである。これは極めて危険な考え方である。油断と言ってもいい。地震調査研究推進本部の地震調査委員会が公表した「長期評価による地震発生確率値」によれば、宮城県沖でM7.0から7.5程度の地震が起こる確率は今後30年以内で実に90パーセント程度とされているのである。M8.6から9.0のいわば今回の東日本大震災に近い規模の巨大地震の起こる確率も30年以内に30パーセント程度ある。

 宮城県沖地震の平均発生間隔は38年である。しかし、これはあくまでも平均値であって、ちょっと調べれば分かることだが、前の地震と次の地震の間が5、6年しか空いていないこともあった。先の震災から既に8年3カ月である。既にいつ次の地震が起こってもおかしくない時期に差し掛かっているのである。決して他人事ではない。再びこの地に地震が起こることは間違いのないことなのである。ゆめゆめ備えを怠ってはならない。

 慰霊碑の除幕式の後、区長の白川さんとしばしお話したが、その中で印象的なエピソードがあった。区役所での防災訓練の際、職員は様々なミッションを課せられる。そのミッションを決められた時間内に完了できませんでした、と報告してくる職員に対して、白川さんは「完全に終えられなくてもいいから、とにかく時間内に帰ってくることを最優先して」と強くアドバイスしている、というのである。これは非常に、この上なく重要なことである。弟と先輩は、あの日、住民の避難が完了しなかったがために、あの場所に留まって、最後まで避難を呼び掛け続けて津波に飲まれたのである。責任感の強い職員ほど、課せられた任務を最後まで完璧にこなそうとするに違いない。しかし、そのために自分の身まで犠牲にしてはならないのである。

 同行した私の母親も、白川さんに「職員の皆さんはまず自分の命を守ることを最優先してほしい。生きていればこそ、その後も長く住民の助けとなれるのだから」と強調していた。我が母ながら実にいいことを言う。まさにその通りである。

 「3.11不忘の碑」は、若林区役所の南側にある庭園の一角に設置されている。区役所に足を運んだ際には、ちらっとでも見てみていただければ幸いである。


anagma5 at 18:35|PermalinkComments(0)clip!

2019年06月30日

「仙山福連携」の一層の推進を(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その120

 5月16日に刊行された「東北復興」紙の第84号では「仙山福連携」、すなわち仙台と山形と福島という、南東北三県の県庁所在地同士の連携について取り上げた。4月に東北中央自動車道の山形と福島の間の区間が全線開通し、仙台と山形と福島の間が全て高速道路でつながることになった。これを機に、一層の三都市間連携が進むとよいなと思っている。

 以下がその全文である。


「仙山福連携」の一層の推進を

高速道路でつながった三都市
 4月13日、東北中央自動車道の南陽高畠インターチェンジと山形上山インターチェンジの区間が開通した。車で山形市から米沢方面に向かう際、国道13号線が片側一車線となるため一番時間が掛かる区間だったが、高速道路が開通したことで、その状況も劇的に改善することが期待できる。しかし、この区間の開通の意味はそれだけにとどまらない。この区間が開通したことで、仙台市と山形市、福島市という、南東北三県の県庁所在地が全て高速道路で一本に結ばれることになったのである。

 既に、仙台−福島間は東北自動車道、仙台−山形間は東北自動車道から分岐する山形自動車道によって結ばれていた。今回の区間の開通によって福島−山形間がつながり、それによってこの三都市が高速道路でつながった。元々、直線距離で仙台−福島間は67.7km、仙台−山形間は44.6km、福島−山形間は55.2kmと、これら三都市は互いに近い距離に位置している。

 そうしたこともあって、この三都市の連携や交流については、実はそれなりの歴史がある。1991年に結成された「南東北中枢広域都市圏構想推進協議会」がその嚆矢と見ることができるが、同協議会は仙台市、福島市、山形市だけでなく、宮城県、福島県、山形県、それに東北経済連合会と三県の商工会議所連合会で構成され、2007年までの間、マスタープランやアクションプログラムを策定するなどの活動を行っていた。

 2007年には「仙台・福島・山形三市観光・物産広域連携推進協議会」が設立され、仙台市、福島市、山形市の南東北三市による広域連携組織として、県を越えて三都市の魅力を連携して発信することによって相乗効果を狙い、三都市を中心とする南東北の認知度向上と誘客促進を目指している。

密な連携が進む仙台市と山形市
 仙台市と山形市の連携については、さらに密な取り組みがなされている。元々、仙台市と山形市は「お隣同士」である。県庁所在地同士が隣接している事例は、仙台市と山形市以外には、京都市と大津市、福岡市と佐賀市の二例があるだけである。もっとも、仙台市と山形市を結ぶJR仙山線、山形自動車道、国道48号線、国道286号線などは、いずれも他の自治体を経由しており、仙台市と山形市を直接結んでいるのは、林道二口線(当然砂利道で冬季は閉鎖である)ただ一つである。

 宮城県仙台地方振興事務所と山形県村山総合支庁とを中心に、仙台市など宮城県の14市町村と山形市など山形県の14市町でつくる「仙台・やまがた交流連携促進会議」がある。年に一回、「仙山交流連携促進会議」が開催され、関係する自治体職員が集まり、交流する場となっている。

 2007年には、両県の連携による目指すべき将来像やその実現に向けた施策の展開方向などを取りまとめた基本構想である「みらい創造!MYハーモニープラン」が策定された。昨年は、構想の策定から10年が経過したことを受けて、両県の連携した取組を一層強化していくための新たな基本構想「未来を共に創る新MYハーモニープラン」が策定された。

 宮城・山形の一体的な圏域の形成を目指す官民連携の推進組織「宮城・山形未来創造会議」も2007年に設置され、現在も活動中である。両県の交流活動団体や経済界、県民、行政などを対象に、地域の将来像や今後の連携の方向性について認識を深め、官民を通じた連携の更なる拡大・深化につなげていくための「宮城・山形未来創造フォーラム」も毎年一回開催されている。

 宮城・山形両県の連携・交流活動団体によるネットワークである「みやぎ・やまがた連携ネットワーク」もあり、連携交流に関する情報発信や交流会の開催を行っている。他に、2003年から続く「仙山交流味祭(あじまつり)」もある。仙山圏域とその周辺自治体で生産されたご当地特産物を一堂に集め、生産者が直接に販売する共同産直市で、仙台と山形の双方を会場に開催されている。

 もちろん、仙台市と山形市の間の連携も進んでいる。2016年には、「それぞれの有する資源を有効に活用しながら連携協力することによって、両市の活力を高め、持続的な発展を図る」ことを目的として、「仙台市と山形市の連携に関する協定」が締結された。連携分野は、防災、観光・交流、ビジネス支援、交通ネットワーク、「その他両市の発展に資する分野」の5分野に及ぶ。

 仙台市と山形市の交流が密であることは、高速バスのダイヤからも窺える。仙台−山形間の高速バスは実に80往復(平日)に上る。朝など5分刻みに運行されている時間帯もある。通常の路線バスなど及びもつかない「過密ダイヤ」である。これに対して、仙台−福島間の高速バスも1日27往復(土日祝日)と、仙台と他の都市を結ぶ高速バスよりは多いものの、その便数は仙台−山形間のそれには遠く及ばない。

三都市連携の課題
 高速バスから見えてくることは他にもある。先に見たように、仙台−山形はもちろん、仙台−福島の高速バスの便数も多い。しかし、これに対して福島−山形間は、高速バス自体が存在しない。これが何を物語っているのかと言えば、これら三都市の連携と言っても、それは端的に言えば仙台を軸にした連携、つまり仙台と山形、仙台と福島の連携の複合体であって、仙台、福島、山形が均等なトライアングルになるような形の連携ではないということである。三都市の連携を考えた場合に、何と言ってもこれが最大の課題である。高速道路が開通したことよって、福島−山形間の連携や交流が促進されることを期待したい。実際、先に開通していた福島−米沢間は、所要時間が格段に短縮されたことによって、行き来がかなり増えた実績もある。同様のことが福島−山形間でも起こる可能性はある。

 米沢市の名前が出たが、これら三都市を結ぶ線上、あるいはその周辺にある各市町村との連携・交流も忘れてはいけない。特に、福島と山形の中間にある米沢市、仙台と福島の中間にある白石市は重要である。

目指すべきは「連携中枢都市圏」
 これら三都市の目指す方向性として、三都市を中心とした「連携中枢都市圏」の形成を提案したい。「連携中枢都市圏」というのは、「地域において、相当の規模と中核性を備える圏域の中心都市が近隣の市町村と連携し、コンパクト化とネットワーク化により『経済成長のけん引』、『高次都市機能の集積・強化』及び『生活関連機能サービスの向上』を行うことにより、人口減少・少子高齢社会においても一定の圏域人口を有し活力ある社会経済を維持するための拠点を形成する」もので、第30次地方制度調査会「大都市制度の改革及び基礎自治体の行政サービス提供体制に関する答申」を踏まえて制度化され、平成26年度から全国展開が行われている。

 この「連携中枢都市圏」は、「地方圏において、昼夜間人口比率おおむね1以上の指定都市・中核市と、社会的、 経済的に一体性を有する近隣市町村とで形成する都市圏」と規定されており、平成31年4月現在、34市32圏域が連携中枢都市圏を形成し、近隣市町村を含めた延べ市町村数も304に上っている。東北にはこれまでのところ、盛岡市を中心とする3市5町で形成する「みちのく盛岡広域連携中枢都市圏」、青森県八戸市を中心とする1市6町1村で形成する「八戸圏域連携中枢都市圏」、福島県郡山市を中心とする4市7町4村で形成する「こおりやま広域連携中枢都市圏」の三つがある。

 全国を見渡すと、県境を越えて連携中枢都市圏を形成している事例は、広島県福山市を中心に岡山県の2市、広島県の4市3町で形成している「備後圏域」と、広島市を中心に広島県の9市8町と山口県の2市5町で形成する「広島広域都市圏」、それに山口市と宇部市を中心とする山口県の6市に島根県の1町を加えた「山口県央連携都市圏域」の3例のみである。これらを見ても分かるように、県庁所在地同士が同じ連携中枢都市圏を形成している事例も、三県の市町村が同じ連携中枢都市圏を形成している事例も皆無である。仙台市、福島市、山形市を中心として三県の市町村が加わった連携中枢都市圏が形成されれば、そのポテンシャルはこれまでにある他の連携中枢都市圏をはるかに凌駕するものになると期待される。

 ただし、である。三都市を中心に連携中枢都市圏を形成する際に気を付けるべきことは、言うまでもなく仙台市への一極集中を助長する方向性に向かわないようにすることである。放っておいても、仙台市には人が集まる。従って、三都市を中心とする連携中枢都市圏で意識すべきは、仙台市から他の二都市に同じくらいの人が向かうための施策に重点を置くことである。連携や交流というのは決して一方通行ではあり得ない。お互いに行き来してこそ連携・交流は成り立ちうる。

 仙台市と山形市との関係で言えば、山形にあるもので仙台が逆立ちしても敵わないと仙台市民が思っているのは、さくらんぼとそばではないだろうか。毎年さくらんぼのシーズンには山形に向かう車がさくらんぼ狩りがお目当ての車で渋滞するし、秋の新そばのシーズンに山形に行ってそばを食べるというのも仙台市民にとっては普通の行為である。そのようなお互いの強みが見えれば、交流の方向性が見えてくる。

 ヨーロッパには複数の中心市がそれぞれ特化した機能を持ちつつ、互いのネットワークによって都市機能を集積しているような「多心型都市圏」があるという。仙台市、福島市、山形市を中心とする連携中枢都市圏も、そのような姿を目指すべきである。

「仙山福連携」が検索でヒットするような連携を
 さて、仙台市、福島市、山形市の三都市の連携を表す言葉として、「仙山福連携」あるいは「仙福山連携」という言葉を提案したい。ただ、この「仙山福連携」と「仙福山連携」、どちらがよいかちょっと迷うところもある。人口の順に並べると「仙福山連携」と言うべきなのだろうが、既に「仙山線」「仙山連携」という言葉があり、「仙山」という言葉がある程度定着している。かつ先に見たように、連携についても仙台市と山形市がこれまでのところ特に密であることを考えると、仙台市と山形市の連携をベースにさらに福島市を加えるという趣旨で、「仙山福連携」とした方がよいようにも思われる。

 今のところ、「仙山福連携」または「仙福山連携」はウェブで検索してもヒットしないワードだが、今後これら三都市の連携が進むにつれて、「仙山福連携」のヒット数も増加していくことに期待したい。まずはこの「東北復興」紙が検索でヒットするところから。


anagma5 at 01:54|PermalinkComments(0)clip!

2019年06月28日

8回目の3月11日(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その119

 「東北復興」紙の第82号が3月16日に刊行された。毎年この3月に出る号には震災関連の記事を寄稿しているが、そうすると3月11日くらいになってから入稿することもしばしばである。それでも16日の刊行に間に合わせてくださる砂越編集長には頭が上がらない。

 今回も「8回目の3月11日」と題して、3月10日に開催された「仙台防災未来フォーラム」の話題と、翌11日の仙台市若林区荒浜の様子を紹介した。このうち、荒浜の様子については、このブログの3月11日付の記事とほぼ同じ内容であるので、前半の「仙台防災未来フォーラム」の話題についてのみ、ここに再掲する。


8回目の3月11日

WP_20190310_08_51_14_Rich_LI仙台防災未来フォーラムの意義
 震災から丸8年となる前日の3月10日、仙台国際センターで「仙台防災未来フォーラム2019」が開催された。4年前に国連世界防災会議が仙台で開催され、「仙台防災枠組」が採択されたが、それを契機にその翌年から年に一度、東日本大震災の経験や教訓を今後の防災につなげるために開催されている仙台市主催のイベントである。

 今回は防災に携わる74団体が出展し、市民など4,000人超の参加があったそうで、震災から8年が経とうとしているこの時期でもそれだけの参加があるというのはいいことだと思う。今年は「しまじろうスペシャルステージ」など子ども向けの企画もいくつかあって、親子連れもたくさん参加していた。震災から8年が経過して、震災後に生まれた、震災を体験していない子どもたちが年々増えている中、このような子ども向け企画を充実させていくのは防災教育の上でとてもいい試みであると思う。

 しまじろう、グッジョブ!である。

震災復興をどう考えるか
 東北大学災害科学国際研究所主催の連携シンポジウム「震災8年シンポジウム〜東日本大震災教訓の共有と継承を考える〜」では、2004年のインド洋大津波被災地、インドネシアのアチェの復興も参考にしながら東北の復興を考えるという興味深い企画であった。アチェはまさに震災復興の先輩であり、私もかつて自分のブログでそのことを書いたことがある。

 シンポジウムでは、仙台の復興公営住宅での社会的孤立と、アチェの個人の力ではなく家族の力を活かした再建が対比されていました。一方で、日本はそうした家族や地域のしがらみから離れて一人でも生きていける社会を追求してきた結果として現在があるという実情があり、であればだからこそできることを考え、よい点を伸ばすべきとの意見もあった。

 各シンポジストの言葉で印象に残った言葉は以下のようなものであった。

西芳実氏(京都大学東南アジア地域研究研究所准教授)
・大文字の復興(共通の目標)と小文字の復興(個別の目標)がある。
・復興だけを考えるのではなく、被災前からの課題に着目し、災害に限定せず災害後を考えることが必要。

本江正茂氏(東北大学大学院工学研究科准教授)
・復興に深刻になりすぎない方がいい。語るトーンを優しく、違う角度からも見てみる。面白がってやる。

マリ・エリザベス氏(東北大学災害科学国際研究所情報管理・社会連携部門准教授)
・復興と防災を一緒に考えるべき。復興には終わりはない。

笠原豊氏(東北放送報道部ディレクター)
・冷静に考え、検証する段階に来ている。その部分でメディアと研究者の連携は重要。

 他のセッションのうち、AiNest(アイネスト)主催の「健康寿命を延ばして災害弱者を減らすまちづくり」では、地域の防災力を高めるに、自分で判断・行動できる「災害弱者にならない事前対応」が望まれるとして、高齢者の健康寿命を延伸し、災害弱者を減らすまちづくりの事例が紹介された。

 東北大学工学研究科フィールドデザインセンターとNTTサービスエボリューション研究所による「ステルス防災:防災・減災の行動を日常にインストールする」では、普段後手に回りがちな防災を、日常の負担を軽減、あるいは日常の中に織り込まれたような形で提供される試みについて提案された。そのネーミングと共に興味深い取り組みであった。

 東北福祉大学主催の「障がいと地域防災−情報提供・支援のあり方とは−」では、障がい者が積極的に周囲と関係性を構築することによって、災害発生時に支援される側から支援する側に回る可能性について言及されたことが印象的であった。

(※以下の内容は本ブログ2019年3月11日の記事を参照)


anagma5 at 18:21|PermalinkComments(0)clip!

2019年05月16日

「記憶の記録プロジェクト『田』」の5年間の活動〜私的東北論その118

v4ttGKdJJTJqx5i1557992092_1557992134 主に仙塩地区の医療介護福祉職の人たちによる任意の集まりである「夜考虫。」の中に、医療介護福祉関係の方々の震災に関する記憶を記録して発信するプロジェクトである「記憶の記録プロジェクト『田』」がある。私も4人いるそのメンバーの一人として活動を続けてきたが、早いもので2014年の活動開始から丸5年となった。
 これまで毎年、年度末に活動報告書を作成してきたが、今回は5年の区切りということで、これまでの5年間の活動報告書をまとめ、加筆などもしてみた。こうして振り返ってみると、本当にたくさんの人にお話を聞かせていただいたことを改めて実感する。その情報を埋もれさせることなく広く世に発信していくことが、聞かせていただいた者の責務だと思うので、今後も機会ある毎に震災に関する情報を伝え続けていくつもりである。

 まずは一区切りとしてこの5年間の活動報告書を公表すると共に、追ってこれまでお話を聞かせていただいた方々にも個別にお送りする予定である。これからの5年間に向けて今年も、できる範囲でではあるが、活動を続けていこうと思う。

 なお、活動報告書は上の画像をクリックしていただくか、ここをクリックしていただくと表示される(はずである)。

anagma5 at 19:40|PermalinkComments(0)clip!

2019年03月23日

キリンとアサヒがコラボした東北産ビールが飲みたい!〜私的東北論その117

WP_20190321_13_13_00_Rich_LI (3) 以前、キリンが誇る東北産ホップ「IBUKI」について書いた。国産ホップの約96%を占める東北産ホップ、その約70%はキリンの契約栽培による「IBUKI」を中心とするホップである。国内で圧倒的シェアを持つこの「IBUKI」ホップを、キリンは東北を中心とするクラフトビールブルワリーにも卸し始めている。それによって、東北産ホップを使ったビールがクラフトビールブルワリー各社から登場するようになった。キリンはこのホップを通じて東北のクラフトビールブルワリー各社や自治体と連携を強め、いわて蔵ビール、秋田あくらビール、仙南シンケンファクトリー、遠野麦酒ZUMONA、やくらいビール、田沢湖ビール、さくらブルワリーの東北のクラフトビールブルワリー7社でつくる「東北魂ビールプロジェクト」に参画すると共に、東北産ホップの一大産地である岩手県遠野市と秋田県横手市におけるホップを通じた地域活性化事業にも力を注いでいる。

 一方、アサヒは東日本大震災の被災地支援の一環として、2014年から「東松島みらいとし機構」と連携して、宮城県東松島市の津波の被害を受けた土地で、塩害に強い大麦「希望の大麦」の栽培を進めている。収穫された大麦は当初、やくらいビールがその醸造を請け負い、「グランドホープ」という名のビールとして発売したが、その後アサヒ自らも醸造して「希望の大麦エール」として発売するとともに、今年は穀町ビール、ベアレンビールもこの「希望の大麦」を使ったビールを醸造、発売している。

 さて、ビールに欠かせない原料は麦芽とホップ、及び酵母と水であるが、東北に住むビール好きとしての興味は、この2つの東北のビール原料、すなわち「希望の大麦」の麦芽と「IBUKI」ホップを使ってビールを造ったらどんなビールになるのだろうということである。キリンの「IBUKI」ホップを使った代表的ビールである「とれたてホップ一番搾り」を始め、「IBUKI」ホップを使った東北のクラフトビールブルワリー各社のビールも、麦芽については特段表記がない。恐らく通常のビール同様、海外産の麦芽が使われているのだろう。

 一方、アサヒの「希望の大麦エール」も麦芽こそ「希望の大麦」だが、ホップに関しては表記がない。恐らくはやはり海外産のホップを使用しているのだろう。唯一、アサヒの東北限定販売の「クリアアサヒ東北の恵み」は山形産ホップ使用と明記されているが、肝心の「希望の大麦」は「一部使用」に留まり、何より「クリアアサヒ」は「ビール」ではない(リキュール類)。

 そこで、キリンの「IBUKI」ホップとアサヒの「希望の大麦」麦芽を使ったビールに興味が湧くわけである。この2社がコラボして、それぞれ「IBUKI」ホップと「希望の大麦」麦芽を使ったビールを造ってくれないものだろうかと思うのである。同じ原料を使っても、恐らくキリンとアサヒとでは全く味の方向性が異なるだろう。その味の違いにも興味が湧く。

 キリンとアサヒと言えば、トップシェアを競い合う、いわばライバル中のライバルなわけで、常識的に考えればそんなこと実現するはずはないというのが大方の見方だろう。そうかもしれないが、だからこそ余計にこのコラボが実現すれば相当のインパクトがあるだろうと思う。
 今日、ライバルというのは、競争するだけの相手ではない。時には、「協奏」あるいは「共創」してもよいのではないだろうか。上り調子のクラフトビール市場を除けば、ビール市場全体は年々縮小傾向である。ここは業界1位と2位が強力にコラボして、ビール市場を盛り上げてもらいたい。狭くなったパイの中で奪い合うのではなく、手を携えてまずはパイ自体を広くして、その上で切磋琢磨してもよいのではないだろうか。

 そんなわけで、キリンとアサヒのコラボしたビールの誕生に期待したい。単なる私の勝手な期待だが、復興支援を旗印にすれば前代未聞のこのコラボにも取り組みやすいのではないだろうか。かつて「地ビール」と呼ばれたビールは現在、「クラフトビール」と呼ばれるようになってきていおり、「地ビール」という言葉は以前ほど聞かれなくなってきている。しかし、かねてから言っているが、私はこの「地ビール」という言葉は今後、その土地の原材料を使って醸造されたビールに冠される用語となるべきだと思うのである。その意味では、ビールの主要原料である麦芽とホップに東北産の「希望の大麦」と「IBUKI」ホップを使ったビールは、紛れもない東北の「地ビール」である。しかも、大手二社が力を合わせて造った空前絶後の「地ビール」である。

 よく見てみると、「IBUKI」ホップを使ったビールも、「希望の大麦」麦芽を使ったビールも、どちらも手掛けているブルワリーが存在する。やくらいビールである。まずはやくらいビールが両社の仲立ちをして、このコラボの実現に向けて動いてくれるとよいなと思う次第である。


anagma5 at 19:41|PermalinkComments(0)clip!

2019年03月18日

東北の「元気」はどれくらいか〜全国「地域元気指数調査」2018の結果から(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その116

 2月16日刊行の「東北復興」第81号では、「地域元気指数調査2018」の結果から見えてくるものについて書いてみた。47の評価要素を数値化した「地域元気指数」では上位には表れてこないが、個別に見ていくと、東北らしさと言えるものが見えてくる。以下がその全文である。


東北の「元気」はどれくらいか〜全国「地域元気指数調査」2018の結果から

「地域元気指数」とは
 地域のリサーチ・マーケティング、コンサルティングなどを手掛ける株式会社アール・ピー・アイは、1月16日「全国『地域元気指数調査』2018」の調査結果を公表した。同社あはこの調査を2015年から実施しており、今回が4回目となる。全国の20〜69歳の男女約10万人に調査したとしている。

 「地域元気指数」とは同社の造語で、「全国の都道府県別・市町村別の元気度や元気の評価要素を共通のモノサシで測定する」ことを目的に、「地域の総体的な元気度及び、元気の源となる47の評価要素を数値化したもの」である。

 より詳細に見てみると、まず「その地域に居住している住民が主観的に自らの地域の元気度合いを10段階で評価した平均値」である「地域元気指数」と、「地域の元気度合いの要因を詳細に分析する」という「地域元気の5つの視点」、その5つの視点それぞれに「地域元気の評価要素」が9〜11要素ずつ、合計47要素が割り振られている。「地域元気の5つの視点」とは、〆J襪蕕靴討い訝楼茲慮悗蠅箘γ紊砲弔い董↓∈J襪蕕靴討い訝楼茲瞭わいについて、今暮らしている地域の住みやすさについて、ずJ襪蕕靴討い訝楼茲侶从儚菷度・安定度について、ズJ襪蕕靴討い訝楼茲離灰潺絅縫謄の充実度について、の5つである。

調査結果から見えてくるもの
 調査結果をざっと見ていくと、全都道府県における地域元気指数トップ10は、沖縄県と東京都が同率(地域元気指数6.17)で第一位、以下神奈川県(6.02)、兵庫県(5.94)、愛知県と石川県(5.91)、福岡県(5.89)、大阪府(5.87)、熊本県(5.81)、滋賀県(5.76)と続く。地域元気指数の全国平均は5.69とのことである。

 続いて、地域元気指数そのものの増減を前年との比較で見てみると、宮崎県がトップ(+0.21)で、次いで熊本県(+0.20)、福島県(+0.18)、宮城県(+0.15)、兵庫県(+0.14)となっている。この点について、調査サマリーでは「復興と特徴を活かした地域づくりが地域元気を上昇させたと考えられる」と考察している。

 市町村で見ていくと、まず市では(605市の平均5.77)、愛知県長久手市(7.60)が3年連続一位で地域元気指数も前年より0.39ポイント上昇。以下、千葉県浦安市(6.97)、沖縄県石垣市(6.94)、兵庫県西宮市(6.87)、神奈川県海老名市(6.81)、東京都武蔵野市(6.79)、沖縄県豊見城市(6.75)、宮城県富谷市(6.72)、石川県野々市市(6.70)、千葉県印西市(6.66)となっている。

 町村では(237町村平均5.50)、一位が沖縄県北谷町(7.35)、次いで福岡県新宮町(7.32)、沖縄県南風原町(7.26)となっており、以下熊本県菊陽町、沖縄県西原町、静岡県長泉町、福岡県那珂川町、沖縄県中城村、北海道倶知安町、沖縄県与那原町という結果だった。トップ10に沖縄県から5町村がランクインしているのが目を引く。

 同調査では、地域元気指数が高い市町村の理由を先述の「地域元気の評価要素」である47の要素に分けて調査し、その秘訣を探ってみている。その結果、地域元気指数が高い市町村では、「新しいものを受け入れる風土がある」「地域に楽しめる場所がある」「地域内で若い人の姿を多く見かける」「地元で買い物をする人が多い」「再開発などで街が変化し地域が魅力的になった」などの割合が高く、そうした要素が地域の元気をつくる秘訣となっているとのことである。調査サマリーでは「総じて、商店街や集客施設等、人が集まる場の活気が、地域の元気を支えている結果となった」とし、「ヒト・モノの流動と人が集まる場所の活気が、地域の元気を支えている」とまとめている。

 ちなみに、見てきたように、東北の都道府県と市町村でトップ5までにランクインしているのは、唯一宮城県富谷市のみである。富谷市は仙台市の北側に位置し、仙台市のベッドタウンとして人口増が続いている。国道4号線沿いに大規模商業施設が相次いでオープンし、県内屈指の集客力を誇る。そうしたところが「元気」と判断されたのだろう。

自己評価と他者評価が一致しない項目に東北の県が現れる理由

自己評価・他者評価が比較的不一致 この調査で面白いのは、都道府県別に自己評価と他者評価についても調べていることである。その結果、「観光客がたくさん訪れている」「交通基盤が整っている」「にぎやかで楽しい」「活力がある」などでは自己評価と他者評価の一致度が高かったが、「食べ物がおいしい」「人が優しい」「地域の人同士のつながりが強い」「子育て環境が整っている」などは自己評価と他者評価の一致度が低いことが分かった。

 確かに、一致度が低いとされた項目は元々主観に左右される要素が大きそうな項目であるように見える。ちなみに、「食べ物がおいしい」の自己評価第一位は断トツで山形県(そう思う75.3%)で、青森県も第五位(68.8%)に入っているが、一方の他者評価での第一位は北海道(93.0%)で、以下福岡県、熊本県と来て、第四位に秋田県がランクインしている。

 「人が優しい」の自己評価では第五位に岩手県(そう思う56.0%)が入っているが、他者評価では沖縄県が第一位(78.8%)で、二位に青森県(70.6%)、三位に福島県(70.5%)、四位に秋田県(68.1%)と、東北が三県もランクインしている。

 「地域の人同士のつながりが強い」では第五位に山形県(そう思う40.6%)が入っているが、他者評価では沖縄県が第一位(78.8%)で、やはり青森県が二位(78.2%)、四位に秋田県(66.2%)、五位に福島県(65.6%)がランクインしている。

 「食べ物がおいしい」の山形県の自己評価はいい意味で非常に好ましいと思う。自分たちの土地の食を極めて肯定的に見ていることがよく分かる。確かに種類豊富な果物、そば、芋煮、伝統野菜、米沢牛、三元豚など、数え上げればきりがないくらい美味しい食がある。他者評価との差は、その魅力がまだ十分他地域の人に伝わっていないということなのだろう。自己評価五位の青森県にも同様のことが言えるに違いない。

  「人が優しい」、「地域の人同士のつながりが強い」の他者評価で上位にランクインしている青森県、福島県、秋田県は、そのような他者評価がされているということを、積極的にPRしてみてはどうだろうか。「人が優しい」などは観光客を呼び込む際のPR材料としてうってつけである。

 「地域の人同士のつながりが強い」は、今国がその実現に向けて施策を立案している「地域共生社会」における重要な要素でもある。他者評価で上位にランクしているやはり青森県、秋田県、福島県の三県は、その強みを再認識し、その実際の姿について積極的に情報発信してみてはどうだろうか。「地方は末端ではなく、国の先端なり」と言ったのは元沖縄県読谷村長で現在参議院議員の山内徳信氏だが、「地域の人同士のつながりが強い」と他者から評価されているこれらの県は、まさに「国の先端」と言うべきだろう。

 五位以下の順位は調査サマリーでは記載がなく不明ではあるが、恐らくは東北の他の三県もこれらの項目についてはさほど順位が下ではないものと考えられる。自己評価と他者評価が一致しないということは、少なくとも東北に住む人自身は、きっとあまりに当たり前過ぎて、自分たちが「優しい」とか「つながりが強い」などとは思っていないということなのだろうが、自分たちの「強み」が何かということは、他の地域からの方がよく見えるものなのかもしれない。

 「その地域に居住している住民が主観的に自らの地域の元気度合い」を評価するという「地域元気指数」において東北の各県、各市町村が上位にランクインしないということは、東北に住む人自身が、自分たちの地域はそれほど元気でないと評価している表れであると言うこともできるが、一方でその自分たちの地域は「優しさ」や「つながり」において他地域から評価される存在であるということは大いに誇るべきことである。

anagma5 at 19:01|PermalinkComments(0)clip!

2019年03月11日

震災から8年〜私的東北論その115

あの日から8年である。
8回目の3月11日は、朝から強い風と雨。
この8年で雨の日は初めてだろう。
あの日、地震に追い打ちをかけるように雪まで降ってきたことを思い出す。

8年経っても、この日だけはいつもと違う心持ちになる。
心の中が何となくざわついているような、何か胸に引っかかるものがあるような、何とも落ち着かない気分である。
その傾向は地震発生時刻の14時46分に向けて強くなるような気がするので、とても平気な顔して仕事を続ける気にもなれず、毎年この日は午後休みを取って、弟の最期の場所、仙台市の沿岸、荒浜に足を運んでいる。

WP_20190311_14_04_18_Rich_LI今年もまず、弟がいた若林区役所を訪れる。
献花場は、昨年から近くの若林区文化センターに移されたので、そちらに行って献花する。
会場では仙台市の追悼式も開催されようとしているところだったが、出る気にはならず、今年もあの日弟が通ったであろう道を自転車で一路荒浜に向かった。






WP_20190311_15_12_02_Rich_LI今年は雨風が強かったためか、例年より随分人は少なかったが、それでも旧浄土寺の慰霊碑の前や荒浜慈聖観音の前では、一心に手を合わせる人の姿があった。










WP_20190311_15_14_20_Rich_LI大津波でほとんどが倒れてしまった松林、少しずつ新たに植林が進んでいた。
何十年後か、またこの海沿いに見事な林が復活することだろう。









WP_20190311_15_17_21_Rich_LI防潮堤に登って見下ろすこの日の海は、強い風を受けて大きな波が打ち寄せていたが、はるか向こうで波しぶきが立っているだけで、あの日この防潮堤を易々と超えていった大津波とは比べるべくもない。









WP_20190311_15_52_51_Rich_LIこの地に大津波が押し寄せた15時54分に合わせて、今年も弟の遺体が見つかった南長沼に赴いて手を合わせる。
これで何がどうなるということでもないが、今や自分の中では毎年の恒例行事である。







WP_20190311_16_20_49_Rich_LI帰りに、霞目にある「浪分神社」に寄る。
江戸時代にこの地を襲った大津波が、ここで南北に分かれたと伝えられている。
つまり、過去の津波到達地点を示す神社であり、実際今回の地震でもこの神社の近くまで津波が押し寄せたが、この神社の津波に関わる伝承は残念ながら広く伝わってはいなかったそうである。
どんな教訓も、伝わらなければ意味がない。
今回の地震の教訓も、伝える努力を続けなければいけないと改めて思った。

WP_20190311_23_28_20_Rich_LIなどと振り返りながら、家に帰ってお気に入りのビールを飲む。
震災以来、この日はどんなイベントがあろうと、誰からお誘いがあろうと、家に帰ってあの日を思い起こしながら飲んでいる。
つまみは必ず、子どもの頃、弟とおやつに食べてたやきとりの缶詰である。
二人とも特に皮のついたところが大好きで、でもケンカせずに仲良く分け合って食べてたことを覚えている。
今年は昔二人の憧れだった大きな缶が手に入らなかったので、小さい缶を4段重ねである。

こうして飲み食いできるのも、生きていればこそ。今日生きていられることに感謝しつつ、もしまた明日が来てくれたなら、またいつもの一日を送りたいと思う。



anagma5 at 23:59|PermalinkComments(0)clip!