私的東北論  

2017年09月29日

私的東北論その100〜「観光とは外向きのことだけではない」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日刊行の「東北復興」第63号では、前号に引き続いて仙台の観光について、前橋と金沢との比較で考えてみた。それぞれ仙台にとって参考になりそうなことがあり、とても興味深かった。

 それにしてもこのブログの中の「私的東北論」、ついに100本目の記事である。よもや地ビールの話題よりも先に100に到達するとは思ってもいなかった(笑)。東北について毎回好き放題に書いているが、恐らくこれからもそのスタンスは変わらないものと思われる。とりあえず、以下が今回の全文である。


観光とは外向きのことだけではない

仙台のイメージとは

 前回は仙台市の観光について、普段あまり比較されることのない前橋市と金沢市との比較で考えてみた。今回も引き続き、この両市との比較で仙台市の観光を考えてみたい。

 まず、仙台市の観光について考える材料としては、「平成27年度仙台市観光客動態調査報告書」が参考になる。インターネットと仙台市内での聞き取りで仙台市のイメージや観光資源の認知状況、来訪者の動向などを調査したものだが、これを見ると、仙台が外からどのように見えているのかがよく分かる。

 まず、仙台の「情緒イメージ」として多く挙げられているのが、「歴史のある」(52.6%)、「伝統がある」(38.0%)、「文化的な」(25.6%)、「落ち着いた」(20.8%)などである。これらは同じ政令指定都市と比べても仙台が優位なイメージである。例えば、「歴史のある」は名古屋25.8%、福岡21.3%、札幌20.0%、「伝統がある」は名古屋19.1%、福岡18.0%、札幌15.6%、「文化的な」は札幌17.6%、福岡13.4%、名古屋13.2%であるので、仙台はこれらの都市よりもかなり「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」都市と見られているのである。

 せっかく他の政令指定都市よりもこのようなイメージで仙台を捉えてもらっているにも関わらず、仙台はその強みを活かし切れていないように見える。「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」仙台に行きたいと思った人が実際に仙台に来たとして、仙台のどこに行けば、これらを体感できるのかと考えてみると、甚だ心許ない気がするのである。

 ちなみに、金沢は「歴史のある」が69.8%、「伝統がある」が64.8%、「文化的な」が45.6%と、いずれも仙台のポイントを上回っており、金沢はこうした情緒イメージが仙台よりも強いことが分かる。金沢の場合、金沢城&兼六園、茶屋街といった観光資源があり、足を運べば歴史や伝統を体感できる。また、金沢には「金沢なんでも体験プログラム」という、加賀友禅、金箔工芸、九谷焼、加賀蒔絵といった金沢の伝統工芸や伝統芸能などを気軽に体験できるプログラムが用意されており、まさに金沢の文化を体感できる体制が整っているのである。このように金沢は、仙台以上に「歴史のある」、「伝統がある」、「文化的な」と評価されたイメージを、実際に体験できるハードやソフトがあるわけである。そのことによってさらにこれらのイメージが強化されるという好循環が生まれているのではないだろうか。仙台が金沢に学ぶべき点はまずここにあると思われる。

海から山までつながっている仙台

 ちなみに、同報告書では、「観光資源イメージ」についても調べている。それによれば、仙台の観光資源イメージとして、「美味しい食べ物・飲み物がある」が53.8%、「美しい自然や景勝地に恵まれている」が43.0%、「伝統的文化がある」が28.5%と高い。

 「美味しい食べ物・飲み物がある」は札幌(71.0%)、福岡(61.5%)よりは低いが名古屋(47.8%)や金沢(47.6%)よりは高い。これは恐らく、牛たんと海産物が牽引しているものと思われるが、こうした明確なイメージを持ってもらえるアイテムがあるのは強みであることが分かる。

 「美しい自然や景勝地に恵まれている」も、金沢(49.2%)や札幌(46.8%)よりは低いが、福岡(12.4%)や名古屋(7.8%)よりは圧倒的に高い。これは「杜の都」のイメージや、実際に自然が多く残されていることによるものと思われるが、このことが体感できるスポットが青葉通りや定禅寺通りだけというのではやはり不十分である。

 あまり普段意識されていないことだが、仙台は太平洋から奥羽山脈までを含む多様な地域である。太平洋沿岸から山岳地帯までが全てある、自然の様々な姿を見ることのできる貴重な地域である。これは大きな強みであると思うのだが、このことを前面に出した観光案内などは今のところないように思う。海も平地も山も、全部の自然を体験できるパッケージができるとよいのではないだろうか。

 「伝統的文化がある」は金沢(55.3%)には比ぶべくもないが、名古屋(19.1%)、福岡(13.6%)、札幌(11.1%)を上回っている。先に紹介した「金沢なんでも体験プログラム」のようなソフトの充実が望まれる。

前橋に学ぶ伝える工夫
 観光に関しては、どう伝えるかも大変重要である。せっかくいい観光資源を持っていても、その存在やそのよさが伝わらなければ観光にとっては意味がない。その点で、前橋に行った時に手に取った観光パンフレットが実に秀逸だった。

およそ観光パンフレットとは思われない「kurun」の表紙 手書き風の文字で「kurun」と書かれ、そばに「まえばし くるん」と小さく書かれているが何のことかよく分からない。表紙は饅頭か何か、あまり見たことのない食べ物らしきものを目のところに持ってきている女性の写真で、下の方にはこれまた手書き風の文字で「Take Free」と書かれているが、表紙だけ見た限りでは、これが何の冊子なのか分かる人はそういないのではないかと思われる。

 中を開いてみると赤城神社、るなぱあく、弁天通り、チーズ工房、前橋の地酒、アーツ前橋などがグラフ雑誌のような感じで紹介されていき、焼きまんじゅうのところに来てようやく表紙のよく分からない食べ物が焼きまんじゅうという前橋の名物であることが分かる。他にも、自転車、まつり、音楽、文学などのことが書かれ、裏表紙まで来てようやく「くるん」というのが「来る?」の群馬方言で、かつ「前橋市に来たくなるように作られた冊子」であることが説明され、「前橋市観光パンフレット」という記載を見てようやくこれが前橋市のつくった観光パンフレットであることが分かるという寸法である。

 通常、パンフレットというのは、その地域の観光資源についての情報をこれでもかというくらいに詰め込んでいて、網羅性はあるもののインパクトに欠ける面がどうしても残る。その結果、読み手の印象に残らず、実際に足も運ばれないということになってしまう恐れがあるわけである。

 この「kurun」はその点を見事にクリアしている。他の地域にはない、前橋ならではの観光資源だけをピックアップし、その魅力をインパクトのあるタイトル、デザイン、写真でこれでもかというくらいに強調しており、それらを読み手に深く印象付けられる構成となっている。

 観光パンフレットというのは、その地域の「名刺」とでも言うべきものである。「私はこういう者です」ということを初対面の相手に伝える役割を持っているものである。ビジネスで初対面の相手にいかに自分のことを覚えてもらうかが大事であるのと同様に、その地域のことを分かってもらい、実際に足を運んでもらうことが観光パンフレットのミッションであるとするならば、その中身については、名刺が様々に工夫されているのと同様にもっと工夫されてしかるべきであると思う。

 なお、「kurun」はウェブ上でも閲覧できるのでぜひ一度見てみていただきたい。

金沢に学ぶ目指す都市像の明確化

 一方の金沢については、観光についての戦略やプランが実に充実している。観光を都市運営の柱にしようという強い意志と意欲が感じられる。金沢市のサイトを見てみると、「金沢魅力発信行動計画」(2012年2月)、「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」(2013年3月)、「金沢市国際交流戦略プラン」(2015年3月)、「金沢市観光戦略プラン」(2016年3月)、「世界の交流拠点都市金沢重点戦略計画」(2017年2月)など、観光や国際交流を強く意識して、そのために金沢として何を重視し、何を実践していくかを折に触れて明確にしているその姿勢がよく表れている。

 これらの文書を見て感じるのが、金沢が目指す都市像が、観光政策というフィルターを通して明確になっているという事実である。自分たちの住む都市がどのようなもので、これから何を目指すのか、ということは、多くの場合、意外に明確になっていないし、そこに住む人たちの間の共通理解にもなっていない。金沢では、観光政策という対外的な対応策の立案という形を借りて、そこの部分を明確にしている。言ってみればこれは、外に向けているようでいて、実は内に向けても発信しているように見えるのである。

 例えば、「金沢魅力発信行動計画」では、「金沢が培ってきた文化の継承・活用・育成」について、真っ先に「歴史遺産・伝統芸能等の文化に対するアイデンティティの形成」を挙げている。「歴史遺産や伝統芸能等の文化による魅力あるまちづくりを進めていくためには、まずその前提として、市民自らが金沢の文化の重要性や固有性を十分認識することが不可欠」と、そこには書かれている。つまり、観光を通じて、自分たちが何者なのか、何を大事にする(しようとしている)住民なのかを明確にしているのである。

 「世界の『交流拠点都市金沢』をめざして」には、世界の交流拠点都市としての機能を高めていくためには、「市民協働によるまちづくりを進めていくことが重要です」とある。してみるとこれは、一見観光政策のように見えて、実はまちづくりのことを謳っているのだということに気づく。この、観光とは結局のところ、自分たちが何者なのかを問い直し、明確にし、発信する一連のプロセスであると規定して、それを実際に実践している金沢の在り方は、大いに参考にすべきであると思う。

 その手掛かりとして、他からどう見えているのかを知り、その強みを活かす、強化することは重要である。その意味で、冒頭に紹介したような調査は有用であると思うが、肝心なのはその結果を踏まえた対応である。すなわち、金沢のように、具体的に何をするかを平易な言葉で内外に伝えようとするアクションである。金沢の「金沢市観光戦略プラン」には「かがやく」、「ひろげる」、「つどう」、「めぐる」、「もてなす」、「そだてる」、「つなげる」という、分かりやすく書かれた7つの基本戦略とそれに伴う主要施策が明示されている。観光を通して、自分たちの目指す都市像を自分たちで描く努力をすることが、自分たちにとっても重要であることに気づくべきである。


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2017年08月18日

私的東北論その99〜「観光都市としての仙台を三都市の比較で考える」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 7月16日刊行の「東北復興」第62号では、観光都市としての仙台について考えてみた。5月に機会があって前橋市と金沢市を訪れた際にそれぞれ印象的だったことがあったので、この2つの都市と仙台との比較の中から何か新しい視点が見出せないかと考えてみた次第である。

 以下がその全文である。


観光都市としての仙台を三都市の比較で考える

前橋、金沢、仙台

 東北における観光については、本連載でも何度か取り上げている。その中では特に、東北各県同士の観光領域における連携の促進について書いて来たように思う。今回は、東北全体ということではなくて、一都市に絞って見てみようと思う。具体的には私の住む仙台市である。

 今年5月に、前橋市と金沢市に足を運ぶ機会があった。観光に関してそれら2都市で感じたことはいろいろとあった。仙台が何かの領域で比較される場合、比較の対象となるのは大抵同じ政令指定都市であることがほとんどである。観光についてもしかりで、都市間比較の対象というのは仙台の場合、同じ政令指定都市、とりわけ札幌市、広島市、福岡市辺りと比較されることが多かった。

 もちろん、前橋市、金沢市と仙台市とでは、人口など都市の規模の面では異なるわけで、それで今まであまり比較されてこなかったわけだが、そうした差異をこの際度外視して見てみると、仙台の今後を考える際に参考になりそうなことが意外に多くあることに気がつく。

 今回はそうしたことについて取り上げてみたい。

三都市の比較
 まず三都市の比較である。前橋市は人口約33万5千人、金沢市は約46万6千人、仙台市は約108万5千人である。面積は前橋市が311.59㎢、金沢市が468.64㎢、仙台市が786.3㎢である。人口は仙台市が最も多く、前橋市が最も少ないが、仙台市は面積も大きく、前橋市は面積も小さいので、人口密度は三都市でそれほど大きな差はない。1平方キロメートル当たり前橋市が1,080人、金沢市が994人、仙台市が1,380人である。

 次に、三都市の特徴を見てみる。三都市とも県庁所在地で旧城下町であることは共通しているが、まず前橋市は赤城山の南麓に位置する内陸の都市で、寒暖の差は大きい。冬は「赤城おろし」と呼ばれるからっ風が吹き下ろし、雪は少ない。市の中心部にあるJR前橋駅は上越新幹線や上越線からは外れており、高崎駅での乗り換えが必要である。この高崎駅のある高崎市は人口で前橋市を上回っており、両市は群馬県内において「ライバル」と見なされることが多いようである。この辺りは福島県における県庁所在地福島市と人口で上回る郡山市の関係に似ているかもしれない。前橋市も仙台市と同様、戦災で市街地が焼けた歴史を持つ。かつ仙台市と同様、ケヤキが街路樹として植えられており、また街中を「広瀬川」が流れている。農業産出額は全国の市町村中16位で、特に畜産業の産出額は全国6位である。豚と乳用牛が突出しているが、前橋市では「TONTONのまち前橋」と銘打って、オリジナル豚肉料理を売りにしている。

 金沢市は、言わずと知れた旧加賀藩百万石の城下町であり、戦災の被害を受けなかったことから今でも江戸時代以来の街並みが残る。国の出先機関や企業の支社・支店が置かれることが多く、北陸三県の中の中心的都市でもある。日本海側気候で冬期の積雪は多い。元々、日本三名園の一つである兼六園や市内に3か所ある茶屋街、長町武家屋敷跡などの歴史的な建造物、加えて金沢21世紀美術館などの観光資源は特に著名だったが、北陸新幹線が延伸したことで首都圏からのアクセスが飛躍的に向上し、観光客増につながっている。伝統野菜である加賀野菜と豊富な海産物を用いた加賀料理、老舗の和菓子、日本酒などの評価も高い。最近では金沢カレーも有名である。加賀友禅、金沢箔などの伝統工芸もよく知られている。

 最後に仙台市である。伊達六十二万石の城下町として栄えたが、戦災によって歴史的建造物はあまり現存していない。江戸時代から防風・防火のための植林が奨励されたために伝統的に街中に樹木が多く、そのために明治時代の終わり頃から「杜の都」と称されている。この伝統は戦災復興の際にも受け継がれた。太平洋側気候で冬期の積雪は東北の中でも少ないが、奥羽山脈から乾燥した北西の季節風が吹き下ろすことが多く体感温度は低く感じる。夏期は海風の影響で気温はあまり上昇せず、真夏日や熱帯夜は比較的少ない。夏の「仙台七夕まつり」を始め、「仙台青葉まつり」、」「SENDAI光のページェント」、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、「みちのくYOSAKOIまつり」など一年を通して様々なイベントが開催される。主な産業は卸売業・小売業、サービス業で、総生産額の約8割を占める。食では牛たん、笹かまぼこ、ずんだ餅などが有名で、三陸の魚介類、仙台牛、ブランド米も知られる。

 私の理解している範囲では三都市はだいたい以上のようなプロフィールを持っている。

観光に関する三都市の現状
 さて、それではこれら三都市の観光についての現状を見てみよう。

 前橋市の観光入込客数は2015年に668万2千人。群馬県内からが528万9千人で、県外からは139万3千人である。宿泊客数は25万9千人である。群馬県全体の数字しか見つからなかったが、宿泊客のうち東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の一都三県で全体の約6割を占め、外国人宿泊客の割合は0.8%となっている。この割合を前橋市の宿泊客数に当てはめてみると外国人宿泊客数は3千人弱と際立って少ない。東京が近いことがあって、前橋市に宿泊するという外国人は少ないのであろう。

 金沢市の観光入込客数は北陸新幹線が開業した2015年に1006万4千人と初めて一千万人を超えた。このうち兼六園には308万9千人、金沢21世紀美術館には237万3千人が訪れていて、この2つが金沢市内で最大の観光資源であると言える。一方、金沢市近郊の湯桶温泉には6万4千人と、それほど多くの人は訪れていない。観光客の発地は、石川県内が350万8千人、関東が251万5千人で新幹線開業前の139万人から倍近い伸び、関西からは105万2千人となっている。宿泊客数は約343万6千人である。若干古いデータになるが、2013年の外国人宿泊客数は15万6千人であった。

 仙台市の観光入込客数は2015年で2229万4千人と初めて二千万人を超えた。宿泊客数は575万2千人であり、このうち外国人宿泊客数は11万6千人である。市内の主要観光地への観光客数は、秋保温泉が116万1千人、宮城県総合運動公園に147万3千人、楽天koboスタジアム宮城に141万4千人、仙台城址・瑞鳳殿・仙台市博物館が90万人、定義如来に84万9千人、八木山動物公園等に69万8千人となっている。

 興味深いのはイベントへの参加人数で、最も人が多く集まるイベントは今や「仙台七夕まつり」ではなく「SENDAI光のページェント」で301万人、次いで「仙台七夕まつり」が217万7千人、その次は「みちのくYOSAKOIまつり」で96万7千人、以下「仙台青葉まつり」96万人、「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」が70万人などとなっている。

 仙台市は前橋市の3.3倍、金沢市の2.2倍の観光客が訪れているわけだが、人口比で見ると前橋市は人口の19.9倍、金沢市は21.6倍、仙台市は20.5倍で、さすがに金沢市が若干高いが、三都市でそれほど大きな違いはない。際立って異なるのは外国人宿泊客数で、前橋市が極めて少なく、仙台市は全体の数の割に金沢市よりも外国人宿泊客数が少ない。金沢市が前橋市、仙台市より明らかに外国人宿泊客数が多いのは、歴史遺産の数の差であるように思われる。戦災で焼け野原となった前橋市と仙台市は、歴史を感じさせる建造物やスポットが金沢市に比べて圧倒的に少ない。その差が外国人宿泊客数の差となって現れているのではないだろうか。

 金沢市を訪れた際に特に印象的だったのは、平日だったにも関わらず、観光客の数が非常に多いということであった。兼六園とそれに隣接する金沢城はもちろん、ひがし茶屋街、近江町市場など、どこに行っても観光客と思しき人たちが大挙して歩いていた。特に目立ったのはやはり外国人観光客であった。

検討に値する四ツ谷用水の復活
 ところで、私が金沢市でいいなと思ったのは、街中に江戸時代からの水路が今も残っていることである。表通りから一本路地に入るとそこには鞍月用水が流れていた。他にも中心部には辰巳用水、大野庄用水という、合わせて3本の水路があり、これが都市景観に文字通り「潤い」を与えている。前橋市でも金沢市ほどの規模ではないが、同様に水路があった。先に書いた「広瀬川」が実は江戸時代に整備された用水で、現在は河畔緑地が整備されてやはり素晴らしい都市景観をつくり出している。

 仙台の広瀬川は街中からはやや外れたところを流れているため、街中でこうした「水のある風景」を見ることはない。実は仙台にも江戸時代に造られた「四ツ谷用水」という用水があり、現在の市街地の至るところを流れていた。ところが、上下水道の整備によって生活用水としての利用が減少したことや、車社会の到来で水路にフタがされたことによって、地上から姿を消す部分が多くなり、今では街中ではほとんどその姿を見ることができなくなっている。

 一度地上から姿を消した用水を復活された事例が仙台市の隣の山形市にある。同じく旧城下町である山形市にもかつて山形五堰と呼ばれる水路があったが、やはり時代の移り変わりと共に暗渠となり、その存在すら知らない市民も多かったという。そうした現状に対して、街中にオアシスのような空間を創造するということで、中心部の七日町商店街の店主らがまちづくり会社「七日町御殿堰開発株式会社」を設立、7年前に五堰の一つ「御殿堰」を「水の町屋七日町御殿堰」として街中に復活させたのである。この御殿堰、新たな観光スポットとして市民や観光客の憩いの場となっている。

 仙台でも昨年、四ツ谷用水の一部である「桜川」を歴史遺産として復活させようという「仙台『桜川』を復活する市民の会」が立ち上がった他、仙台市の環境共生課も6年前から「四ツ谷用水再発見事業」として各種イベントを開催している。こうした官民の動きがうまく合わされば、四ツ谷用水の復活も現実味を帯びてくるのではないだろうか。

 現在、戦災で焼失した仙台城の大手門を復元させる動きも出ているが、合わせて四ツ谷用水も復活させることで、より旧城下町に相応しい歴史を感じさせる街並みとなるに違いない。

 これまで「杜の都」として売ってきた仙台市だが、四ツ谷用水を復活させて旧仙台藩の時と同様、樹木が豊富で水路が巡る「杜と水の都」としてバージョンアップできれば、観光都市としての仙台市の魅力はより高まるのではないかと考える。


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2017年08月03日

私的東北論その98〜斉藤竜也さんのこと(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された「東北復興」紙の第61号には、前月の5月に急逝した青森の斉藤竜也さんのことについて記した。生きていればきっと、青森をもっともっと変えていったことだと思う。本当に残念である。しかし、死がすべての終わりでないということをも、斉藤さんは教えてくれた気がする。以下がその時書いた全文である。


斉藤竜也さんのこと

12640273_447731762094105_277118839127586074_o 今回は東北・青森に生きた一人の人について書いておきたい。

 斉藤竜也さんは北海道出身の37歳。大学院を修了した後、青森市の介護事業所へ就職。ヘルパーステーションの管理者として仕事をする傍ら、「Link with」という任意団体を立ち上げて活動していた。

 「Link with」は、青森市内の医療職や介護職つないで仕事でも連携できる関係性を構築する場をつくることで、そこに住む人が医療や介護が必要になった時に切れ目なくよりよい医療や介護を受けられる地域をつくろうとしていた。

 設立は2014年9月、そこからわずか2年8か月の間に、「Link with」は少なくとも15回のイベントを開催し、地域をつくるたくさんの人と人とつなげてきた。「Link with」は「つなぐ」、「結びつける」、「きずな」の意味だという。青森県はかねてから、団塊の世代が75歳となる2025年に向けて、「保健・医療・福祉包括ケアシステム」を構築しようと取り組みを進めていた。その実現のためには、保健、医療、福祉それぞれの関係者が自らの枠を超えてつながり、連携していくことが必要となる。「Link with」はそうした面においての「つながる機会の創出」を会の目的としていた。

 斉藤さんは「Link with」のブログにこう書いていた。

「同じ職種や分野、職能団体で顔を合わせたり研修をする機会はそれぞれあるしネットワークもないわけではないけれど、それを越えて情報交換をしたり集まる機会はほとんどないよね。だとしたら、飲み会からでもいいからそういう場を作れたら、もっと地域に自分たちができることを探っていけるし自分自身の幅にもなっていくよね。じゃぁ、まずは自分たちのお知り合いに声をかけて、交流会をしてみよう!!」

 北海道から青森に来たということで元々の知り合いが少なかったであろう斉藤さんはきっと、地元の人以上に知らない者同士がお互いがつながることの重要さに気づいていたのだろう。仲間と共に「Link with」を立ち上げ、2014年11月15日に「Link with」として初めての「福祉と医療の情報交流会」を開催した。そこには行政、医療、福祉関係者ら52名が集まった。今までになかったつながりが生まれた瞬間だった。

 実は、斉藤さんが立ち上げた「Link with」と同じような活動をしている団体が仙台にもある。「ささかまhands」という団体である。「ささかまhands」は「Link with」ができる前年の2013年3月に設立された。仙台での地域包括ケアシステムの具現化を目指し、そのために多職種がスムーズに連携できるよう、各種交流会や研修会を企画していた。

 代表の須藤健司さんは、そうした取り組みについて、2014年3月に開催された全国介護事業者協会(民介協)の「第8回全国事例発表会」で発表していたが、その発表を斉藤さんが会場で聞いていて、終了後須藤さんに声をかけて、青森でも同じようなことをやりたいんだと話したそうである。

 翌2015年2月7日、その「ささかまhands」が主催した「自分らしい暮らしが出来る仙台を考えるシンポジウム」が仙台市内で開催され、そこに斉藤さんも参加した。この時のことについて斉藤さんは、自身のfacebookで、「ささかまhands、シンポジウム(総勢250名の参加)と懇親会(総勢100名の参加)と参加させていただきました!いや〜規模がでかい!」と綴っている。私はこの場で斉藤さんと初めてお会いした。自分の住んでいる地域をよりよいものにしたいという思いが言葉の端々から感じられて、初対面ながらすっかり意気投合した。

 その後、斉藤さんは青森でほぼ2〜3ヶ月に1回のペースで多職種が集う会合を企画した。毎回キャンセル待ちが出るくらいの盛況で、青森の多くの専門職がこのような場を求めていたことが如実に表れている。

 青森県内では、こうした様々な専門職による自主的な団体が相互に交流する集い「青森サミット」を2015年から開催し始めた。その第2回の「青森サミット」が2016年9月10日、「Link with」の主催で青森市内で開催された。1年半前、斉藤さんが驚いた「ささかまhands」シンポジウムの2倍もの約500名の参加者が会場に集結した。斉藤さんは三村青森県知事に講演を依頼し、青森県の目指す保健・医療・福祉包括ケアシステムについて話してもらっていた。

 この日のことについて斉藤さんは、「参加総数500名弱、今日の準備のために約1年、でも今日という日はあっと言う間の1日でした。そして一生忘れられない1日になりました。協力いただいた方々に感謝感謝!」と書いている。しかし、斉藤さんは本当は2,000名くらいの人に来てもらうことを目指して準備を進めていた。この「青森サミット」の開催に当たって、斉藤さんは勇美記念財団から助成金を得ていたが、その報告書の中で、参加者数が目標に達しなかったことに触れ、「『地域包括ケア』につて知らない方が多い、興味のある方が少ないという事が言えると考えます。『地域包括ケア』の主役は地域住民ですので、主役無しで専門職だけが地域のために行動しないよう心掛けなければいけません。地域に必要な事・モノを知るために、地域に暮らす住民と対話をする場をつくる事が課題です。そしてその場をつくる事ができる一つのツールとして自主団体がある事を、継続して広めていきたいと考えています」と振り返っていた。

 これはまさに斉藤さんの書いている通りで、人が自分の住み慣れた場所で最期まで暮らしていける地域をつくるためには、専門職だけの力では足りず、何よりその地域に住む人自身が当事者として専門職と一緒に地域づくりを考えていく必要がある。「Link with」の次の展開として、斉藤さんは地域住民を巻き込んだ動きを考えていたようである。

 その前提としてはやはり専門職同士の分野を超えた結束を深めていく必要があり、斉藤さんはその後もそうした人たちが集う場をつくり続けた。2017年4月22日の第11回企画「好きです青森〜あなたのために、私ができること〜」には、小野寺青森市長も駆けつけた。その小野寺市長には、8月19日に第13回企画として「好きです青森!青森市長 小野寺晃彦さんと話そう」のテーマで講演してもらう予定になっていた。人をつなぎ、地域をつくる、そんなみんなの輪の中にはいつも、斉藤さんがいた。

 2017年5月13日、斉藤さんは急逝した。4月に37歳になったばかりであった。その日、出勤せず、連絡もつかないことを心配した職場の上司が斉藤さんの自宅を訪ねたところ、ベッドの中で斉藤さんが既に亡くなっていた。警察による検死の結果、就寝中に心不全を発症したとのことであった。

 5月17日に北海道から来たご両親と一緒に、斉藤さんの遺体はフェリーで故郷に向けて出発した。青森港には、斉藤さんの死を悼む仲間がおよそ50名集まり、「まいける ありがとう」の横断幕を掲げて見送った。斉藤さんは「麺屋まいける」と称しており、仲間たちは彼のことを「まいける」と呼んでいた。「麺屋」はラーメン好きのところから、「まいける」はマイケルジョーダンが好きだったところから考えたらしい。

 設立してから3年弱の間にたくさんの人と人をつなぎ、斉藤さんは、旅立った。青森県内に職種を超えた新しいつながりをつくり続けた。人と人をつなぎ続け、ものすごい速さで人生を駆け抜けていってしまった。

 亡くなるほんの数時間前の5月12日23時32分。斉藤さんは、「ささかまhands」が毎年開催し、私も実行委員として協力している「MEDプレゼン@仙台」への参加を申し込んでいた。私も実は8月19日の「Link with」の集まりには参加するつもりでいた。何もなければ、今年は斉藤さんと二度、仙台と青森で話をすることができたはずであった。そうして話ができたならどんなによかっただろう。しかし、それが叶わなかった現実は何と悲しいのだろう。つくづくそう思った。

 しかし、斉藤さんが亡くなったという事実は消せなくても、斉藤さんがつないだつながりはこれからもずっと決して消えない。斉藤さんが亡くなったという連絡をくれたのは、斉藤さんと一緒に「Link with」の活動を行ってきた仲間の人だった。もちろん、私は面識もないし、話したこともなかった。そのような人と何人もつながれた。斉藤さんが仙台に来るつもりだったということを知って、斉藤さんの仲間が2人、「MEDプレゼン@仙台」に参加してくれ、会って話すことができた。斉藤さんは自らの死を以てすら、人と人とをつなげたのである。

 斉藤さん亡き後の「Link with」がどうなるのか心配だったが、仲間の皆さんが引き続き斉藤さんの思いを引き継いで活動を続けるとのことである。斉藤さんが目指した、大切な一人ひとりがつながってつくる地域。これからも同じ東北の中で、一緒に人をつなぎ、そうした地域をつくることを続けていきたい。人をつなぐ者同士がつながり、さらにそのつながりを広げていきたい。この東北の地に生まれ、育ち、暮らしている人が、「ここで生きてよかった」と感じられる地域を、一緒につくっていきたい。

 「小さな思いを形にするために、何ができるか まずはやってみよう! 私たちの未来のために行動しよう!」

斉藤さんの言葉である。

 昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るとは限らないのだ、ということは、6年3カ月前に嫌というほど痛感したことであった。いつの間にかまた、そうしたことを忘れかけて、迂闊にもあたかもずっと変わらないかのような毎日を送り続けていたことに思い至った。もし明日が来なかったとしても、今日できることを今日のうちにやっておく。少なくとも今日、自分の目指す方向にちょっとでも向かうことができた、そう思える日々を重ねていくことが、何にも増して大事なことなのだ。斉藤さんからそのことを改めて教えてもらったように思う。


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2017年08月02日

私的東北論その97〜「東北でよかった」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙、今年の5月16日に刊行された分で60号に達した。月刊なので足掛け5年ちょうどである。この間、ひと月も休まずに同紙を刊行し続けた砂越豊氏には心から敬意を評したい。5年を一区切りとして完結させる考えもあったようであるが、東北の復興が今に至っても道半ばであることもあって、さらに続ける決意を固められた。
 バックナンバーを見てみると、その時々で課題となっていたことが的確に取り上げられている。その意味で、同紙は東北の復興に関しての貴重な記録の一つである。今後の展開にも期待したい。
 さて、その記念すべき5周年、60回目の原稿は例のアレについてであった。以下がその全文である。


「東北でよかった」

「あっちの方だったからよかった」

 今村雅弘氏が復興大臣を辞任した。自身が所属する派閥のパーティーでの講演の中で、「また社会資本等の毀損も、いろんな勘定の仕方がございますが、25兆円という数字もあります。これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大なですね、甚大な被害があったというふうに思っております」と発言したことがきっかけとなった。

 恐らく、被災地が東北だったからこれくらいの被害額で済んだのであって、これが首都圏だったらこんなものでは済まないはずだ、ということを言いたかったのだろう。ただ、それにしても、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」はいかにも余計である。災害が起きたのがどこだったからよかった、どこだったらよくないということはない。どこであっても、災害が起きてよかったということはない。

 そして、もう一つ、「あっちの方」という言葉である。むしろ、この言葉の方に今村氏の東北に対するスタンスが表れているのではないかと思った。東北は「あっちの方」、つまり「こっち」じゃない。どこか遠いところ。自分のいる場所とは違うところ。東北に対するそのような今村氏の認識が感じられる。

 今村氏は、「総理からの御指示や内閣の基本方針を踏まえ、現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と就任時の記者会見で述べている。「被災者に寄り添って」と言うが、自分だけ被災者と違うところに身を置いていて、どうやって寄り添うつもりだったのだろう。

 前復興大臣が東北の復興に対して、全く無関心であったとは思わない。福島の企業を訪問した時にもらったアニメ柄のネクタイを、「風評対策を含めて、とにかく地元のいろいろ企業を元気にしようという思いで」締めてきたと語っているし、辞任の前日には岩手の三陸鉄道の「三鉄オーナー」にもなっている。ちなみにこれは、岩手県へのふるさと納税「ふるさと岩手応援寄付」で三陸鉄道への支援のために10万円以上寄付した人のことで、「オーナー」は今村氏が5人目であった。JR九州出身の同氏らしい復興支援と言えた。

 ただ、残念ながら、ご自分の発する言葉に対する感度がそれほど高くない方だったのかもしれない。講演後の記者とのやり取りでも、この発言の何が悪かったのか全く分かっていない様子であった。そこの感度は、今村氏の発言についてその後にすぐさま謝罪した安倍首相とは対照的であった。安倍首相は、「まず冒頭ですね、安倍内閣の今村復興大臣の講演の中におきまして、東北の方々を傷つける、極めて不適切な発言がございましたので、総理大臣としてまずもって、冒頭におわびをさせていただきたいと思う次第でございます」と述べた。恐らくその時点で、「この発言はかばい切れない」と思ったのだろう。


「東北でよかった」の劇的転換
 さて、そのような今村氏の「東北でよかった」発言とその後の辞表提出を受けて、私はfacebookに、「生まれ、育って、今も生活している場所が『東北でよかった』と、心底私は思ってます。前復興大臣も一度住んでみたらいいと思う。ホントいいところなんだから。(^▽^)」と投稿した。日が変わって4月26日の0時59分のことだった。普段、飲み食いした店の話や参加した会合の模様を発信するのがほとんどの私の投稿の中では、異例な感じの投稿だったが、お蔭様でいつもの倍以上の「いいね!」やたくさんのコメントをいただいた。

 私の友人も同様に、「僕は生まれたのが『東北で良かった』。音楽を学んだのも『東北で良かった』。僕の街もステキな街だし、死ぬまで東北に住んでいたいゼ。東北の田舎の人たちだから助け合えたし乗り越えられた。東北『が』良かったって言い間違えたんじゃないかな?まあ、関東の爺様の言うことにいちいち腹は立てない。この機会に、みんな東北一度は来て見て。」と投稿していた。

 一夜明けて、私のそのfacebookの投稿へのコメントで、ツイッターのハッシュタグで「#東北でよかった」がすごいことになっていることを教えてもらった。見てみるとそこには予想だにしなかった投稿が並んでいた。東北の美しい景色や美味しい食べ物の画像、心に残るエピソードなどが、「#東北でよかった」のハッシュタグと共に大量に投稿されていたのである。

 どうやら、最初のうちはやはりこの「#東北でよかった」のハッシュタグは、今村氏の発言を批判、非難するものばかりであったらしい。ところがその後、この「#東北でよかった」が、まさに「東北でよかった」という意味で投稿されるように変わり、その意味での投稿が圧倒的な数に上ったのである。なんという鮮やかかつ素敵な切り返しだろう。様々な画像に添えられていたメッセージも印象的なものが多かった。

「#東北でよかった 生まれた場所が」
「#東北でよかった ボクらのふるさとが」
「綺麗な景色 優しい人達 旨い飯…(酒…) 生まれた場所が #東北でよかった」
「私の大好きな、愛すべき地方が #東北でよかった」
「2008年から、震災を経て、2014年まで住んだ宮城・仙台は、私にとって第二の故郷。心から #東北で良かった」
「故郷を離れても忘れない。あの町で育ってよかった。#東北でよかった」
「生まれも育ちも、良かったと思える場所だよ。ご飯が美味しい、素朴な人々、のどかな景色。これだけで東北でよかった、なんだよ いいとこだよ、東北」
「震災後、東北に5回旅行しました。福島、宮城、山形、青森の地元の人たちはいつもあたたかくみんな親切で、東北に遊びに行って良かったなあと思っています。まだ訪れていない所へも旅しようと思います」
「初めて鉄道目的の旅行で、迷った時、優しいおばあちゃんに教えてもらいました。 あの時のことは忘れられない」
「かなしみも よろこびも すべてつつんでくれる #東北でよかった」
「みんな! #東北でよかった ってのは、こういうことを言うんだってことを教えてやろうぜ!」
「失言で終わらせないのは確かにいいな。というわけで、去年の仙台七夕。夏は東北各地で祭りが開催されます。おいでよ東北」
「このハッシュタグがいい意味で使われてトレンドに上がっているのが東北民としては嬉しい。」
「これぞ東北の心意気」
「生まれた場所が #東北でよかった こんなにも強い仲間がいる。おいでよしてる仲間がいる」
「#東北でよかった のタグが素敵な写真でいっぱいで、本当に東北は良いなと思いました」
「ひどい言葉を言われても、ひどい言葉で返さないで、何言ってんの、私たちの住む地の素晴らしさを知ってよって、みんなが笑う、そんな東北でよかった」

 東北に住む人、東北に縁のある人、東北に心を寄せてくれている人によるこれらの投稿、本当に素晴らしいとしか言いようがない。


復興大臣が今村氏でよかった
 そしてまた、これらの東北に関係する人たちによる投稿を見た人たちからも、好意的なコメントがものすごい数投稿されていた。曰く、

「なんて強くて綺麗なタグ…」
「このタグ、なんとなく見てみたら『東北本当にいいところだよ!東北に生まれて良かった!東北に行って良かった!』的なツイートで溢れてたから世界は本当に美しいなおい!ってなった」
「こういう失言を明るく変えていく流れ好きです」
「愛にあふれたタグになっていた」
「すてきな使い方になっていて涙が出た」
「さっそく #東北で良かった  という言葉の『良い東北を広げよう』としてるツイートを発見し、心打たれました…」
「みんな東北のハッシュタグが素敵な方に使ってていいなって思った」
「タグが素敵すぎる」
「不適切発言を裏返すこのタグには感動。震災を経験したからこその団結力」
「震災にも負けない人たちを見ることができた」
「このハッシュタグのお陰でほっこりした」
「美しい国。『よかった』って言葉はこう使うのだね。とても素敵な意味に変わってる、このハッシュタグ」
「ステキなタグになって本当に嬉しい 私  関西人だけど、さんさやはねこを踊った事があるんだわ」
「あぁなんて素敵なタグなんでしょう」
「なんだろうこのタグ…目から水滴が…」
「このタグ泣くよ… 東北は行ったことないけど絶対行きたい土地の一つ」
「変な意味を持ったタグを乗っ取ってオラが町自慢の幸せなタグに変えてしまう東北人の図々しさ大好き」
「失言が、#をつけたことで郷土愛に変わった。失言する人がいる一方で、その失言を『東北の魅力を発信するハッシュタグ』にして、東北を盛り上げよう、応援しようとする人もいる。そんな国でよかった。こんなに泣けるハッシュタグは初めて」

このように、「東北でよかった」という言葉が、発せられた時の意味を離れて、一夜のうちに本来の意味を取り戻したことに対する驚きと称賛の声が溢れていた。

 この「東北でよかった」、同時多発的に起こっているのが興味深い。私のfacebook投稿はこれらツイッターの投稿とは関係なく行ったものだし、友人のも恐らくそうだ。ツイッターだけではなく、インスタグラムでも同様に「#東北でよかった」のハッシュタグでの画像がものすごい数投稿されている。「東北でよかった」と思っている人がそれだけ多数いて、今村氏の発言が引き金となって、ネットに溢れ出たということだろう。

 「東北でよかった」が「東北においでよ」につながっている投稿の多さも特筆に値する。私の投稿も友人の投稿も東北に来てみることを勧めているし、多くのツイッターの投稿も東北の素晴らしい景色や美味しそうな料理の画像を投稿して「東北においでよ」と投稿しているものが多い。

 このように「東北でよかった」のハッシュタグで東北に来ることを勧めている東北人に対して、既に「おいでよ族」という称号(?)も与えられている。こんなツイートがあった。

「『東北で良かった』についた悲しいイメージを払拭するかのように、『#東北でよかった 』とタグ付けしてTLに流れる東北の生命力の強さを現す光景…… さすが、おいでよ族の民たち」

このツイートに対して、

「そう。我らはおいでよ族の民」

と返している人もいた。

 この「おいでよ」という投稿の多さこそ、東北に住んでいる実に多くの人が、自分たちの住んでいる土地に対して愛着を持っていること、誇りを持っていること、心底いいところだと思っていることの何よりの現れであると思う。それが夥しい数の「東北ってこんなにいいところなんだよ、とにかく一度おいでよ」という投稿になっているのである。

 最後に。今村氏のあの発言がなかったら、これら東北を巡る数多くの素晴らしい投稿もなかったわけである。誰も言わないが、私はあえて言おう。復興大臣が今村氏でよかった、と。


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2017年07月31日

私的東北論その96〜2回目の「仙台防災未来フォーラム」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第59号では、昨年初開催された「仙台防災未来フォーラム」について取り上げた。この取り組み、ぜひ今後も毎年続けてほしいものである。以下がその全文である。


2回目の「仙台防災未来フォーラム」

「仙台防災未来フォーラム」とは
 3月12日、「仙台防災未来フォーラム2017」が開催された。昨年3月の第46号で取り上げたが、一昨年仙台で開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年初開催された、地域における防災の取り組みを共有し、これからの防災について考えるためのフォーラムである。

 震災の発生から6年が経過した。この間の震災の経験や教訓を、地域を超えて、世代を超えて、どのように伝えていくかについては、多様な主体、媒体が手探りで様々な取り組みを続けている。そのような中で、この「仙台防災未来フォーラム」は、仙台市が主催し、震災経験の伝承や、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災といったさまざまなテーマについて、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えるという趣旨で開催されている。

 一昨年の3月に開催された「第3回国連防災世界会議」には、世界185か国から6,500人以上が参加し、成果文書として「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。「仙台」の名を冠するこの防災枠組は、防災に関わる新たな国際的な取り組みの指針で、期待される成果と目標、指導原則、優先行動、関係者の役割や国際協力等が規定されている。枠組の策定に当たっては、東日本大震災からの復興を目指すこれまでの取り組みを踏まえて、多様な主体の関与や防災・減災への投資、「より良い復興(Build Back Better)」の重要性などが日本から提案され、その考え方がこの枠組の中には取り入れられている。

 「仙台防災未来フォーラム」は、この国連防災世界会議の仙台開催から1周年となったのを機に昨年3月に開催され、今年が2回目である。仙台市では現在、子供から高齢者まで、性別や国籍の違い、障害の有無などによらず、地域のすべての関係者が自助・共助を担うという地域づくりを進められている。フォーラムは、そうした取り組みを踏まえ、防災の担い手たちが自分たちの取り組みを共有・継承することで、新たなネットワークを生み出し、未来の防災に貢献することが目的とされた。


「インクルーシブ防災」とは

 今回のフォーラムのテーマは「経験を伝える・共有する・継承する」で、6つのテーマセッション、ミニプレゼンテーション、連携シンポジウム、各種関連イベント等が開催された。6つのテーマセッションの一つは「インクルーシブ防災を目指した地域づくり」である。「インクルーシブ防災」とは、障害者や高齢者などを含む、あらゆる人の命を支える防災を目指していこうという考え方である。東日本大震災を機に防災・減災への関心は高まり、日頃からの備えと対策が必須だと言われているが、災害発生時の対応はまさに平時の取り組みの延長であるとされる。そしてまた、災害が発生した際の安心・安全の確保には、普段からの地域住民の相互理解とネットワークの構築が大切である。

 このセッションでは、そうしたことを踏まえて、「仙台防災枠組」に記載されたステークホルダーの役割を問いつつ、インクルーシブ防災をめざした地域づくりについて議論が行われた。その中で、立木茂雄氏(同志社大学社会学部)は、「災害時の当事者力イコール防災リテラシー」で、防災リテラシーは「理解×備え×とっさの行動」と指摘していた。そして、平時のケアプランから個別に災害時ケアプランを作成する『別府モデル』を構築しようとしている取り組みについて紹介した。山崎栄一氏(関西大学社会安全学部)は、法学の専門家の立場から、「インクルージョンとは、排除・除外のない状態」で、そこには「意図的な差別的取り扱い」以外に、「無配慮・無関心によるもの」もあるとした上で、各種の支援制度には、「支援」、「配慮」に「参画」を加えた三要素の連動が必要と指摘した。阿部一彦氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「障害による暮らしにくさは個人の問題でなく、多くは社会環境によって作り出される」と訴えた。

 コーディネーターの三浦剛氏(東北福祉大学総合福祉学部)は、「地域に住む住民を理解し、日頃からの関わりを通してどのような支援が必要か把握していくことが『我がこと・まるごと地域づくり』の推進につながる」とまとめたが、フロアから発言した熊谷信幹氏(柏木西部自治会防災担当)は、「『インクルーシブ』と言うが、そもそも障害者基準で防災システムを作るべき」と主張した。「誰でも年老いたら障害者」であり、「障害者は多数派」なのだから、「『障害者も交ぜてくれ』という話は筋違い」だという論旨で、フロアから拍手が起こっていた。

 他には「"地域のきずな"が生きる防災まちづくり〜仙台市の事例から学ぶ」というテーマセッションもあった。「持続可能な防災まちづくり」を進めていくために、日頃からの“顔の見える”人と人とのネットワークや地域コミュニティづくりがまず大切ということから、「日常的にまちづくり活動が活発で、それが防災の優れた取り組みにもつながっている」という事例を共有し、コミュニティーにおける地域防災の今後の活動や課題解決のヒントを考えるという趣旨のセッションであった。登壇した今野均氏(片平地区連合町内会)の「防災活動はまちづくりの一つ」という言葉に如実にそのことが表れていた。

 また、菅井茂氏(南材地区町内会連合会)は、「自分達のまちは自分達で守る。自分の命は自分で守る。そのために地域で顔の分かる関係の構築が大切」と訴えた。町内会として他の被災地に「押しかけ支援」としてできる範囲の支援・協力を行ってきたを続けてきた福住町町内会の菅原康雄氏は、その秘訣として「できることから始める」を挙げた。その上で、「自助・共助に加えて、自制(見返りを求めない)・他助が大事」として、「自助・共助で助かった命で他を助ける」ことの重要性も強調した。

 こうした発表について、佐藤健氏(東北大学災害科学国際研究所)は、「日常的なまちづくり、ひとづくり、きずなづくりの取り組みが防災力を高め、活動の持続可能性と次世代の人材育成という波及効果ももたらす」として、そこでは「ソーシャルサポート」と「コミュニティ・ソリューション」の2つがキーワードであるとした。


「多様な主体」による防災・減災
 フォーラムのまとめとして、「クロージング」が行われた。ここでは、それぞれのテーマセッションでの議論結果が報告されると共に、それを基に震災の経験や教訓などを伝えることについて、その大切さや課題について考え、多様な主体(マルチステークホルダー)による防災・減災の取り組みの今後の方向性などについて参加者で共有した。

 「ともに考える防災・減災の未来〜『私たちの仙台防災枠組講座』、『結プロジェクト』合同報告会〜」の保田真理氏(東北大学災害科学国際研究所)は、報告会の模様を紹介しつつ、「社会の構成員全てが共に考えることがレジリエントな社会をつくる」と述べた。「もしものそなえ SENDAIと世界のつながり〜伝えよう、共有しよう、継承しよう〜」の秋山慎太郎氏(JICA地球環境部)は、JICAの取り組みを伝えつつ、「伝えていく中で、伝えられる側、伝える側双方の学びが重要。それがもしもの備えにつながる」と指摘した。

 「震災から6年・教訓伝承と防災啓発の未来〜連携と発信の拠点づくりに向けて」と「次世代が語る/次世代と語る〜311震災伝承と防災〜」の武田真一氏(河北新報社防災・教育室)は、「震災だけでなく、地域の過去や未来、希望も併せて伝えることでさらに(震災のことを)伝えられる」と強調した。ミニプレゼン・展示ブースの小美野剛氏(JCC-DRR事務局)は、「教訓を未来の活動につなげる」ことの重要性に言及しつつ、「全ての活動は共感に基づく」こと、そしてこれからは「単なる支援から、新たな価値の創造への移行が必要」であることも併せて主張した。

 コメンテーターの松岡由季氏(国連国際防災戦略事務局)は、一連の発表を踏まえて、「『レジリエント』と『インクルーシブ』が仙台防災枠組のキーワード」であり、「社会全体が『レジリエント』であるためには『インクルーシブ』である必要がある」とまとめた。また、「伝承は人の命を救う力がある」とも述べた。もう一人の立花貴氏(公益社団法人MORIUMIUS)は、「防災は日常の延長線上」にあるとして、「地域の取り組みが有事にも機能」するとした。また、「単なる事実でなく、そこに込められた思いを伝える」ことが震災の伝承においては重要であるとも指摘した。

 会場では、「救州ラーメン」も販売された。東北の被災地での提供食数が10,000食超というプロジェクトで、博多ラーメンの老舗「秀ちゃんラーメン」によるラーメンの炊き出しを通じた復興支援である。また、仙台市内では2月から3月に掛けて、今回のフォーラムに関連して、様々な防災・減災・復興に関するイベントが開催された。まさに「多様な主体」による防災・減災の取り組みである。


六県連携でより幅広い発信を
 仙台市では、11月に「世界防災フォーラム/ IDRC 2017 in SENDAI」の開催が決定した。スイスのダボス2年に1回開催される防災の国際会議「国際災害・リスク会議」(IDRC)で発表されたもので、東北大学、仙台市が中心となって内外の防災関係者が集い、震災の教訓・知見の発信や議論を行いながら連携を強化する場として開催するもので、今年だけでなく、以降も隔年での開催が予定されているという。

 仙台防災未来フォーラムに加え、世界防災フォーラムも開催されることとなり、東日本大震災への対応、そこからの復興に関する情報発信を継続的に行っていく場が着々とつくられていることは実に喜ばしいことである。願わくは、これを仙台市だけの取り組みとするのではなく、宮城県内の他の市町村や東北の他の五県とも連携して、より幅広い情報を発信していってほしい。

 岩手県内の沿岸市町村の復興への動きは仙台市とはまた異なるし、福島県内の沿岸市町村は言うまでもなく原発事故による影響が加わってさらに複雑な課題への対応を余儀なくされている。あまり知られていないが、青森でも津波によって24平方キロメートルが浸水し、死者も出ている。直接の被害が軽微であった秋田・山形両県では、被災地のバックアップという点で重要な役割を果たしており、そこでの知見も大いに伝えられるべきである。せっかくの震災から得た知見を地域や世代を超えて発信していく場である。より多くの知見をより多様な視点から伝えるということに、今後はより力を入れていくべきであると考える。


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私的東北論その95〜震災から6年ということ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 だいぶ間が空いてしまい、その間、またしても「東北復興」紙に寄稿した記事の再録が滞ってしまっていた。以下は3月16日に刊行された「東北復興」紙第58号に寄稿した原稿の全文である。この時期はどうしてもやはりこの話題である。


震災から6年ということ

6年という歳月

 今年の3月11日で、東日本大震災の発災から丸6年になる。先日、同じ仙台市内に住む知り合いと打ち合わせの日程調整のやり取りをしていて、「3月11日は空いてますか」と聞かれた。その日は静かに故人に思いを馳せる日にしたいので、そのように返事したところ、「そう言えばそうでしたね」という答えが返ってきた。別にその人が無神経というわけではない。震災から6年という年月は、そのような時間だということである。

170310-025005 他人事ではない。私の左手首にはいつも水晶のブレスレットがある。震災で亡くした弟の遺体が地震発生からちょうど49日目に見つかって、これでようやく葬式をあげることができるとなった時に、手元に数珠がないことに気づいた。どれだけそれまで、死から縁遠い日常を送っていたのかと思ったが、ともあれ急いでお気に入りの石である水晶で数珠を作ってもらった。その時余った水晶の玉でブレスレットを作ってもらったのである。

 弟の死を忘れないように、そして、いつ死がやってくるか分からないということを忘れないようにという意図を込めて、その日以来、このブレスレットを肌身離さず身につけてきた。ところが、先日、温泉に行った時に、なんと脱衣所にこのブレスレットを忘れてきてしまった。すぐに思い出して取りに戻って事なきを得たが、我が身にしてそうである。そもそもこのブレスレット、震災から6年が経って、毎日身につけることは習慣になってはいても、これを見て死を意識するということは本当に少なくなってきているのを感じている。


3月11日に行われるイベント
 仙台市内では、2年前に開催された国連防災世界会議をきっかけに昨年開催された「仙台防災未来フォーラム」が、今年も3月12日(日)に仙台国際センターを会場に開催される。フォーラムでは、震災経験の伝承、地域防災の次代の担い手づくり、人々の多様性と防災などのさまざまなテーマから、「伝える」ことの大切さや今後の課題について理解を深め、経験や教訓を世界へ、そして将来へどのように受け継いでいけばよいのかを考えることとなっている。

 このフォーラムには今年も足を運ぶつもりで、恐らく来月のこの欄でその模様を紹介できると思うが、このフォーラムに伴って開催される関連イベントの中に、フォーラムの前日の11日に開催されるものがかなりある。もちろん、震災のその日に震災について考える趣旨のイベントを開催することを否定するものではないが、私としては追悼のための行事ならともかく、先に書いたように震災当日は静かに故人を偲ぶ日にしたいと思っているので、震災当日に開催されるこのようなイベントには、恐らく今年も、これからも、ずっと参加しないだろうなと思っている。

 来年は3月11日が日曜日となる。この「仙台防災未来フォーラム」も来年は3月11日に開催されてしまうのだろうか。願わくは、来年はどうか3月11日以外の別の日曜日の開催となることを。


「カレンダー記事」の功罪
 毎年この時期になると、新聞やテレビで東日本大震災関連の記事や特集番組が増える。このように定期的に報じられる新聞記事のことは「カレンダー記事」、「あれから何年もの」と呼ばれるようである。ジャーナリストの烏賀陽弘道氏や作家の相場英雄氏はこうした「カレンダー記事」を批判している。烏賀陽氏は、カレンダー記事はその日が来たら自動的に記事が発生するので記者の能動性を奪うものとし、「思索を深めるための記事がいつの間にか自己目的化」していると批判する。相場氏も、カレンダーに合わせた取材態勢が継続されることから、関連する報道が逆にその時期まで減ってしまうことを批判する。特に相場氏は「在京の大メディア」にその傾向が強いとして、逆に岩手、宮城、福島の地元紙、テレビのことは、「自らが震災の被害に遭っている上に、身内同然の同胞が苦しんでいる姿を、地元メディアは今も追っているのだ」と、その報道姿勢を高く評価している。

 確かに、岩手日報や河北新報、福島民報、福島民友などは、「カレンダー」によらず継続的に震災関連記事を配信している。ただ、必ずしも地元だけではなく、例えばNHKは「東日本大震災プロジェクト」を組んで、「明日へ つなげよう」を合言葉に6年前から変わらずに震災関連の番組を提供しているし、最近では朝日新聞も「てんでんこ」というタイトルで、東日本大震災を中心に「日本の『いま』と『これから』を見つめ直して」いくという趣旨の連載記事を毎日掲載している。

 考えてみれば、地震発生から6年が経って、多くの地域で復興はまだ道半ばという状況ではあっても、日常押し寄せるたくさんのニュースがそうした東北各地の状況の上に積み重なっていく現状では、自ずと震災関連のニュースは少なくなっていかざるを得ない。その意味では「自動的に記事が発生する」という「カレンダー記事」であっても、毎年定期的に震災のことを多くの人に思い出してもらえるきっかけにはなるのではないかと思う。


復興「てんでんこ」
 「てんでんこ」という言葉については以前この欄でも取り上げたことがあるが、元々は、「てんでんばらばらに」の意味で、地震が来たら一人ひとりが必死で逃げろという三陸沿岸に伝わる教訓である。震災から6年を迎えるに当たり、そこから一歩進めて、一人ひとり震災について考える、一人ひとりこれから先の生き方を考える、という意味での「てんでんこ」があるのではないだろうか。

 震災以後、一人ひとり置かれた状況は全く異なる。衣食住を取り巻く環境も全く違う。仙台市や宮城県岩沼市のように、仮設住宅が全てなくなった地域もあれば、岩手県の釜石市や大槌町、山田町、陸前高田市のようにいまだ3,000人前後の人が仮設住宅での暮らしを続けている地域もある。

 避難指示区域を抱える福島県の浜通り地域の町村では、避難指示区域が昨年9月時点で3分の2にまで減少しており、この春に飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町にある地域が解除されればさらに避難指示区域は減少するが、解除イコール復興ではない現状がある。先日、浪江町に行ってきたが、そこで目にした「町おこしから町のこしへ」の文字は胸に突き刺さった。震災前はいかにして町おこしをするかを考えていた。ところが、震災後は「おこす」前にいかにして「のこす」かを考えなければいけない状況に置かれてしまったわけである。

 このように、当然地域によって状況が全く異なるわけで、そうすると当然そこに住む人の心持ちもそれぞれ異なる。その胸の内は、そこに住んでいるその人にしか分からない。十把一絡げにして、「被災地の復興は」などと語ることはもともと不可能なのだ。

 未曽有の大災害を経て、何かを参考にしてということも難しいし、この先どうしていくのがよいのかの答えが見えているわけでもない。だからこそ、「てんでんこ」なのである。一人ひとりがそれぞれ自分のこれからを考える。自分にとってどうなることが復興なのか、そのために今何をしていくのがよいのか。

 一人ひとり、目指すところは違っても、また歩み具合は違っても、少なくても目指すところに向かってちょっとずつでも歩いていれば、その積み重ねが復興になるのではないかと思う。もちろん、疲れたら休めばいい。道のりは長い。飛ばし過ぎれば息切れする。目の前にあることを、一つずつ、少しずつ、である。


忘れることと忘れてはいけないこと
 震災から時が経つにつれて、震災のことが忘れられてしまうことへの懸念がある。しかし、どんな出来事であっても記憶の風化、忘却からは免れ得ない。他地域の人のみならず震災を体験した人であっても、つらい体験をそのままの形で抱えてその先を生きていくことはしんどいことである。忘れることは人間の偉大な能力であるともいう。そう考えれば、冒頭に紹介した知り合いは、3月11日イコール震災という束縛を超えて、すっかり震災前の日常に戻れたのだ、と解釈することもできるかもしれない。

 ただ、忘れることはできても、なかったことにすることはできない。たくさんの人が亡くなったあの震災から得た教訓だけは、しっかりとこの地の次の世代に引き継いで、また他の地域の人にもしっかりと伝えて、二度と同じような被害が起きないようにしていかなければならない。

 その意味では、先に紹介した「仙台防災未来フォーラム」はとてもよい取り組みであると思うし、各地域における震災遺構の整備も本当に意義のあることであると思う。忘れられることを心配するより、本当に忘れてほしくないことを発信し続けること、それこそが大切なのであるに違いない。

 私としても、ここでこの時期にこのように書いていることが「『カレンダー記事』じゃないか」と言われないように、これからも震災のことは折に触れて発信し続けていきたいと思う。


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2017年03月24日

私的東北論その94〜これからのまちづくり、地域づくり(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」紙では、これからのまちづくり、地域づくりについて、見聞きしたことを基に論じてみた。



これからのまちづくり、地域づくり


「地域包括ケアシステム」から「地域共生社会」へ
3087_001 「地域包括ケアシステム」については、「東北復興」第55号で取り上げた。いわゆる「団塊の世代」が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みを市町村ごとに構築するというものである。

 その実現のための取り組みが現在、全国各地で行われているが、さらに厚生労働省では現在、この「地域包括ケアシステム」を深化させ、「地域共生社会」の実現を目指している。これは「高齢者・障害者・子どもなど全ての人々が、一人ひとりの暮らしと生きがいを、ともに創り、高め合う社会」とのことで、その一環として主に地域の高齢者を想定していた「地域包括ケアシステム」から一歩進めて、これまで高齢者、障害者、子どもなど対象者ごとに「タテワリ」だった福祉サービスを「まるごと」へと転換することが想定されている。

 「一億総活躍社会」づくりが進められる中で、今後は福祉分野においても、「支え手側」と「受け手側」に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティを育成し、公的な福祉サービスと協働して助け合いながら暮らすことのできる社会づくりが必要だということで、そのために「他人事」になりがちな地域づくりを地域住民が「我が事」として主体的に取り組める仕組みを作るとともに、市町村においてそうした地域づくりの取組の支援と公的な福祉サービスへのつなぎを含めた「丸ごと」の総合相談支援の体制整備を進める必要があるとされる。

介護保険への反省
 さて、長々と国の動向について紹介してきたが、考えておく必要があることは、これからのまちづくり、地域づくりは、単に地域に賑わいを増やす、交流人口を増やす、といったような方策に代表されるような活性化された地域をつくるということではなく、その地域の人が住み慣れた自分たちの地域でこれからも暮らし続けることができる地域をつくる、という方向に舵を切り始めたということである。そしてまた、他ならないその地域に住む一人ひとりが、そのために「他人事」ではなく「自分事」としてそうしたまちづくり、地域づくりの担い手となることが必要である、ということである。

 では、「担い手」として何をすべきなのか。それは、端的に言えば、互いにつながり、支え合うことである。第55号で「第4回 町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」の基調講演で、内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏が「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と述べていたことを紹介したが、これはまさにそのことを指している。

 山崎氏は厚生労働省時代に介護保険法の成立から実施、改正まで関わり、「ミスター介護保険」との異名を持つ人だが、その山崎氏はこの後の基調鼎談で、「介護保険サービスは、都市部はともかく、地方ではメリットだけではなかったのではないか」とも語った。また、省内の若い職員には、「介護保険のことだけやっていると、介護のことが分からなくなる」とアドバイスしていたというエピソードも披露している。介護保険の「生みの親」自らが、介護保険の下で専門職が提供するサービスについて、自己反省とも取れる見方をしているのである。

 何が反省材料なのかと言えば、それは介護が必要な人への支え合いを全て介護保険サービスに委ねてしまったことが、地域のつながりを切り、お互いの支え合う力を弱めてしまったのではないか、ということである。

 もちろん、そうしたことから年々膨らむ介護給付費が国の財政を圧迫しているという側面もある。このままでは団塊の世代が75歳以上となる2025年には介護保険制度が立ち行かなくなるのではないかという危機感が国にはある。ただ、そうしたことだけではなく、自分たちの住んでいる地域へのコミットメントこそが、人口減少を伴う超高齢社会におけるこれからのまちづくり、地域づくりにおいて重要なポイントだということは、第55号で紹介した奥会津の方々の言葉から如実に窺える。

震災の前からあった助け合い、支え合い

 去る2月2日、仙台市内で「第1回宮城発これからの福祉を考える全国セミナー」が開催された。現在、新しい介護予防・日常生活支援総合事業の創設、包括的支援事業の充実を柱とする新しい地域支援事業への対応に各市町村は追われている。新しい介護予防・日常生活支援総合事業においては、これまで介護保険サービスとして提供されていた要支援1、2の高齢者への訪問、通所といった介護予防サービスの大半が市町村の事業として移管されることになっているが、そのうちの「B類型」のサービスなど、「住民主体の自主活動として行う生活援助等」(訪問型サービス)、「体操、運動等の活動など、自主的な通いの場」(通所型サービス)と規定されているのである。地域の住民主体でお互いの助け合いや居場所づくりを進めるというのである。今後は間違いなくそうしたまちづくり、地域づくりが進んでいく。

 この日の全国セミナーでは、そうした制度変更を踏まえて、今後どのようにまちづくり、地域づくりを進めていくか、各自治体におけるこれまでの取り組み事例などが発表されたが、地域の住民が互いに助け合い、支え合う地域をつくる大きなヒントは、震災からの復興プロセスの中にもある。宮城県保健福祉部長寿社会政策課長の成田美子氏は、「震災支援・支え合いのノウハウを地域包括ケアに活かし、発信していく」と述べたが、宮城県サポートセンター支援事務所長の鈴木守幸氏も、「宮城は震災で多くのものを失ったが、地域力や住民力といった財産を得た」と指摘した。1月21、22日にやはり仙台市内で開催された「第5回日本公衆衛生看護学会学術集会」の基調講演で東北大学大学院医学系研究科教授の辻一郎氏も、地縁・血縁から「知縁」へということで、「共通の興味・関心・利害で結ばれる人間関係が重要」として、「家族でない人が同居・隣居して助け合っていく新しい形の介護・看取りが必要」で、「震災のプレハブ仮設住宅にそのヒントがある」と強調していた。

 ただ、こうした地域における助け合い、支え合いは震災を契機に生まれたものではない。辻氏は震災直後に支援に入った避難所での体験を紹介しながら、「東日本大震災の被災地では、『地獄』の中で人々が『天国』を創出していた」と評しつつ、「それができたのは人と人のつながりがあったため」としていた。そうした元からこの地域にあった「人と人とのつながり」という「ソーシャル・キャピタル」こそが復興・再生を助けてくれるものであったわけである。

 全国セミナーにおいて実際に支援に当たっている当事者の発表からもそのことが強く感じられた。南三陸町社会福祉協議会で生活支援コーディネーターを務める芳賀裕子氏も「つながりづくりがこれからのまちづくり」と強調した。石巻市社会福祉協議会で地域福祉コーディネーターを務めている小松沙織氏は、「地域のチカラは、誰かを想う気持ち、喜びや困りごとに共感する気持ち、そうした想いから生まれる。それは昔も今もこれからも変わらない」と述べた。東北福祉大学総合マネジメント学部教授の高橋誠一氏も、「住民ができることを(専門職が)邪魔しなければいろいろ発展がある」として、そうした地域の「お宝」を探すことが重要であると指摘した。仙台の小松島地域包括支援センターの生活支援コーディネーターである岩井直子氏も、「地域の一人ひとりが『宝箱』を持っていた」として、地域の人々のそれまでの人生経験が地域づくりのアイディアに活かされていることを小松島地域での実例を通して紹介していた。北上市保健福祉部長寿介護課包括支援係主任の高橋直子氏も、「新しい事業に取り組むのではなく、今ある自治・互助を活かしてよりよい形にしていく」と述べた。

地方こそ地域づくりのトップランナー
 高齢者、障害者、子どもなどが自立した生活を営むために必要な支援を実施する団体やそれらの団体のネットワーク組織を支援しているNPO法人全国コミュニティライフサポートセンターの理事長である池田昌弘氏の示した図が、これからの地域づくり、まちづくりのあり方をよく整理していた。地域には、専門職など「支援のプロ」、地域住民など「地域のプロ」、そしてその両者をつなぐ「つなぐプロ」という、「地域づくりを支える『三種のプロたち』」がいる。そして、制度を活用したサービスや制度外で行う生活支援サービスなど「フォーマルな資源」、住民主体の支え合い活動や得意分野のおすそ分け活動などの「インフォーマルな資源」、そして外部の人には見えにくく、内部の人にとっては気づきにくい「ナチュラルな資源」という、「地域での生活を支える『三種の資源』」がある。「ナチュラルな資源」はその地域の伝統や文化、そしてそれまでのつながりや支え合いといった「宝物」から成り立っている。そのような構図である。

 住み慣れた地域での暮らしを支える「三種の資源」いずれでも「つながりをきらない」がキーワードとなる。「三種のプロ」による支え合いは、「つなぐプロ」が接着剤となって切れ目なく連携していく。そうして、豊かな緑を茂らせるどっしりとした大樹のような地域ができるわけである。

 その土台となる根っこの部分はその地域に住む一人ひとりである。時代が変化し、その都度生じる課題に柔軟に対応しつつも、助け合い、支え合いといったこれまでこの地域に大事に受け継がれてきたものについては、揺らぐことなく次の世代に伝えていく。そうした先に、これからのまちづくり、地域づくりがある。

 2月1日に開催された塩釜医師会の在宅医療研修会でも、東京大学恒例社会総合研究機構特任教授の辻哲夫氏は、「地域の中で皆で役割分担すれば、住み心地のいいまちになる」として、そのようにして「できる限り元気で、働けて、住んで、弱っても安心できる地域」があれば、「超高齢社会は決して恐れることはない」と強調した。その上で、「地方は人と人のまとまりがある。大都市は危うい。地方からまちづくりをして日本の未来をつくってほしい。地方は地域包括ケアシステムにより近い距離にある」と、この地域にエールを送ってくれた。

 大都市圏と地方との格差のことばかり話題になるが、ことまちづくり、地域づくりに関しては、地方はトップランナーとしてその先頭を走っていることを我々はもっと誇りに思ってもいい。そして、その上で自分たちの住む地域をもっといいものにしていくための歩みを続けていけばよいのである。


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2017年03月23日

私的東北論その93〜「逃北」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 1月16日に発行された「東北復興紙第56号では、「逃北」について書いてみた。能町みね子氏の造語である「逃北」、東北の本質を実によく言い表した言葉であると思う。紙面ではスペースの関係で19行ほどカットしたが、再録に当たって、カットした部分も復元した。元々カットしても大丈夫だった文章であったわけだから、それで何がどうこうなるということはないわけであるが(笑)。

 そうそう、能町氏、出版元の文芸春秋のサイトで、「逃北」について「コミックエッセイ」も書いている。こちらも併せて参照されたい。


「逃北」のススメ

「逃北」という名のエッセイ
img_ea47bf20395854d7c586c55e5d76206b732506 「逃北〜つかれた時は北へ逃げます」(能町みね子著、文春文庫)が面白かった。「逃北」というのは能町氏の造語で、「北に逃げたい衝動」のことである。「いつでも北に逃げたい。私は」という書き出しで始まるこのエッセイ、氏の「北」に対する思いが余すところなく披瀝されている。

 氏は、「南の解放感、暖かさ、ほんとにいいものです。旅行でおとずれた春の沖縄は気持ちよかったよ。タイもよかったね。弛緩してた。たいがいのことはどうにかなるんじゃないの〜、っていう楽天的な気持ちになれそうだった」と言いつつ、「でも、南に住みたいとか、南の国で人生をやり直す夢を描いたりとか、そういう気持ちはまったくない。沖縄やタイに住むなんて想像もつかないし、はっきり言って絶対にいやだ」と言い切ってしまう。そして、「私はキツいときこそ北に行きたくなるのだ。都会での生活に倦んだとき、南に行って気楽になろうという方面に考えは進まず、北に行ってしまいたくなる」と、その「逃北」への思いを熱く語るのである。

どこが「北」か
 「逃北」という言葉が「東北」と音が同じなのは偶然なのではなく、氏の東北に対する思いとリンクしている。実際、本書の中には、氏が青森や秋田や岩手に「逃」げた時の体験談が生き生きと書かれている。最初に意識的に「北」に行った大学の卒業旅行で氏は、両親の出身地である北海道を目指すが、「途中の青森のこともものすごく気に入ってしまい」、「帰ってきてからは、北海道よりも青森のほうが印象に残っていたくらい」で、「その旅行以来、日本の『北』で私がもっとも惹かれるのは、最北の北海道よりも東北地方になりました」とのことである。

 どんな時に「逃北」が発動するのか。氏によれば、日々東京で仕事をしていて、なんとなく心身の不調やイラつきなどが蓄積されて、「じんわりじんわりネジが巻かれて」いっている。ある瞬間にそのネジの押さえが外れて「ぎゅるんと高速回転する」と、北に飛んでいるという。「いつも私は北を向いた砲台の中にいる」という表現がまたユニークである。

 北に逃げてどうするのか。「逃北」とは、「ただ単に辛い気持ちを寒い土地で倍々にふくらませる行為」なのではない。「空気が冷たく張りつめた、どこか殺伐とした場所に自分を追い込むこと」が「癒し」なのだという。

 では、「北」とはどこか。氏の定義では、北海道と東北地方全体は「逃北」の対象で、関東は北らしさが弱まり、東京近郊は「北じゃない」。北陸は「逃北」の対象となりそうだが、福井までくると「だいぶもやもやしている」。長野や松本も「北」を感じるが、静岡は「ぜんぜん北じゃない」。一方、鳥取と島根には「北らしさがあるように思う」が、福岡まで来ると九州も沖縄も「まるっきり北じゃない」と線引きしている。

 緯度から見るとかなり南だが、鳥取や島根にも「北」を感じるところが、氏の感受性豊かなところであるように思う。「炎立つ」など東北を舞台にした小説を数多く手掛けている高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に敗れて、遠く東北方面にまで逃れた出雲人が東北人のルーツだという「東北出雲説」を主張しているし、松本清張の小説「砂の器」では、秋田と同じ「ズーズー弁」を話す地域が島根県にもあることが明らかにされる。私なども、この、言葉が近いことや、うどんが優勢な西日本にあって唯一そばが優勢な地域であることなどから、出雲周辺には親近感を覚えるのである。

多くの人が逃れてきた東北
 この「逃北」という言葉、実に秀逸であると思う。第38号で書いたことがあるが、元々東北は神話時代以来、様々な人が逃れてきた地である。逃れてきたというくらいだから、中央での様々な争い事に敗れた結果、この東北の地までやってきたのである。そう、中央を追われた逃亡者たちは古来、なぜか東北を目指すのである。

 神話の時代からそうした例には事欠かず、神武天皇東征の折に殺されたとされる長脛彦の兄、安日彦が津軽に逃れてきたという伝承に始まり、山形の出羽三山の開祖は、父崇峻天皇を蘇我氏に弑逆されて出羽に逃れた蜂子皇子である。同じ聖徳太子の時代にはやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏が秋田に逃れている。平氏全盛の時代に源義経が奥州藤原氏を頼って平泉に逃れ、その義経によって滅ぼされた平氏の平貞能が逃れてきた仙台市郊外に定義如来ができ、兄頼朝に追われた義経が再度平泉に逃れてきた。奥州藤原氏自体も元々関東に根を張っていたところ、関東で起こして敗れた乱の戦後処理で亘理に逃れてきたとされる。頼朝の死後殺された梶原景時の兄影實も、気仙沼に近い唐桑に逃れてきている。元寇の折には元の残党がやはり仙台に逃れてきている。織田信長によって滅ぼされた武田勝頼の子信勝も東北に逃れたとされる。

 「真田丸」でも描かれたが、主人公の真田信繁の娘や息子は伊達政宗の庇護の下、白石に逃れてきている。関ヶ原の合戦で死んだとされる石田三成や、主人公の真田幸村さえも、秋田に逃れてきたという伝承が残る。江戸幕府の禁教を逃れたキリシタンたちは東北に移り住んでいた。幕末の上野戦争で敗れた輪王寺宮も東北に逃れた。

 これほど時代を問わず、争いに敗れた者が逃げ延びたという話が伝わる地域は、日本全国他に例を見ないのではないだろうか。東北は古より、そのような地であったわけである。

東北は一度も「勝って」いない
 たくさんの人が逃れてきたと書いたが、これらの逃れた人は、単に命を長らえるために東北に逃れてきたのだろうか。もちろん、それが最重要であったことは確かだろうが、それだけではなかったのではないかと推測する。中央から距離があり、その支配が届きにくいこの東北の地は、中央で敗れた人たちにとって、再出発のできる新天地だったのではないだろうか。だからこそ、蜂子皇子は出羽三山を興し、藤原清衡は東北の地に浄土を造ろうとし、奥羽越列藩同盟は江戸幕府でも薩長政府でもない新しい国を造ろうとしたのではないだろうか。

 そして、東北が敗れた者の新天地たり得たのは、ひとえにこの地に住む人々がそうした敗れた者に対する温かい視線を持っていたことが大きい。なぜそうした視線を持ち得たかと言えば、他ならぬ東北人こそが、敗れた者だったからである。神話時代の日本武尊以来、阿倍比羅夫による蝦夷征討、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い、安倍氏が滅んだ前九年の役、清原氏が滅んだ後三年の役、奥州藤原氏が滅んだ文治五年奥州合戦、豊臣秀吉の奥州仕置と九戸正実の乱、そして戊辰戦争と、東北は攻め込んできた中央の軍に対して一度も勝利したことがない。唯一の例外は、建武の新政の折に、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対して北畠顕家が奥州の軍を率いて上京し、これを打ち破ったという豊島河原合戦のみである。しかし、これは中央から攻め込まれたわけではなく、中央から陸奥守として下向していた北畠顕家が上京しているわけで、「本拠地」である東北で勝利しているわけではない。

 能町氏もいみじくも書いている。「私はむりやりにでも逃げるべき故郷を作りたいのです。やるせなさや空虚感に満たされて逃げ帰ったときに、なぜか落ちつく心の故郷。それが私にとっての北です。私は北へ『旅立つ』のではなく『逃げる』のであり、あるいは『帰る』のであり、それは希望にあふれた気持ちではない。何らかの理由で現在の地にいられないから逃げるのです。勝敗でいうなら敗。逃北は敗北につながっている」と。

 しかし、「とはいえ」と氏は続ける。「『逃北』や『敗北』は、私にとって必ずしも後退ではありません。むりやりすべてをゼロに戻すことであり、原点に帰るということです。北らしい空虚で荒涼とした風景も、何もない原点だと思えるからこそ、とても親しみが湧きます」と。古来、東北の地に逃れてきた多くの人々にも、似たような思いがあったかもしれない。敗北して逃げてきた人にとっては、決して希望に満ちた再出発ではないかもしれない。だが、それはこれまでの地での敗北をゼロに戻し、原点に帰してくれるものであったことは間違いなかったはずである。

いつでも逃げてこれる地域を目指す
 能町氏の「逃北」、東北の今後の方向性を考える上で大いにヒントを与えてくれると思う。これまで、観光振興では、いかに東北各地の観光資源を掘り起こし、それを発信していくかという点に重点が置かれていた。それはそれでそのようなニーズに応えるために必要なことであることは間違いないが、そればかりに傾倒する必要はなかったのではないか。日常に疲れた人が、周囲の状況にがんじがらめになっている人が、これまでの生活を一旦リセットしたい人が、いつでも逃げてくることのできる地域、それは必ずしも定住することを意味するのではなく、能町氏のようにネジのおさえが外れた時に何度でも来られるような、東北はそうした地域であればよいのではないだろうか。

 氏は「北」について、「旅先での客を『なして(どうして)こんなとこまで来たんだか』という、少し卑屈な態度で迎えてくれる。ちょっと最初だけとっかかりにくいけど、少しずつ、まさに雪が溶けるように、わざわざ来てくれたことへの感謝を前面に出して歓待してくれる。私にとって、北はこういうイメージ」と書く。確かにそのような面は大いにあるように思う。来る人をもてなす、受け入れる、それは東北人に脈々と受け継がれている資質のようにも思う。そうでなくして東北は、神代から近世に至るまで多くの人が逃れてくる地とはなり得なかったのではないだろうか。

 また、氏は、旅の中で観光スポットをあまりメインにしないと書いている。「観光地よりは地元の土着の臭いのする街の方が好き」で、「その街に観光スポットがあるとかないとか、根本的には関係ない」そうで、「むしろ目立った観光スポットがない街の方に興味が湧いてしまう」らしい。「わざわざ都会で作ってる本にガイドしてもらおうなんて思いません。地元の情報は地元の人に聞いて判断したいし、できれば自力で探したいよね、と思う」お人なのである。

 実はこれ、私も同様である。知らない地に行く時もほとんど事前に下調べをしたりしない。むしろ先入観なく、自分の足でその地を歩き回って、そこで感じるいろいろなことの方を重視している。その上でその地にある様々な情報を見聞きして、さらに行きたいと思うところに行ってみる、だいたいいつもそんな感じである。

 そのようなスタイルの旅を全ての人が志向しているわけではないだろうが、しかし一定のニーズはあるはずである。何かあったらぶらっと来て、日常と異なる環境に身を置いて、そこで得たものを持ってまた日常の場に帰っていく、そのような旅ができる東北であると、なおいいと思うのである。


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私的東北論その92〜奥会津に学ぶ地域の支え合い(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 12月16日に発行された「東北復興」第55号では、11月に参加した「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」で見聞きしたことについて紹介した。奥会津の町村は、全国でも屈指の高齢化率の、いわば日本の最先端を行っている地域であるが、そこにあったのは住民同士のゆるやかかつ自然な形での支え合いであった。「限界自治体」などと称される奥会津の町村だが、高い高齢化率、決して充分とは言えない医療介護資源といった制約条件を超えて地域が生き延びていくためのヒントが随所にあった。
 以下がその全文である。そうそう、第5回の全国サミットは、今年11月25、26日に淡路島で開催されることが決定した。


奥会津に学ぶ地域の支え合い

奥会津で開催された「全国サミット」

 11月26日(土)、27日(日)に奥会津4町村で「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」が開催された。今回、会場となった4町村のうち、メイン会場となる金山町は高齢化率が実に59.7%、交流会と分科会が開催された2つの町村、昭和村が55.3%、三島町が51.4%と、高齢化が進んでいる東北の中でも、奥会津のこれらの3町村だけが高齢化率50%超のいわゆる「限界自治体」とされている。

 この全国サミットは、人口減少や高齢化が進む中、新しい福祉制度の効果的な運用や地域の福祉・生活課題について、全国の先進的な事例を学び、その解決に向け検討することを目的に、福祉関係者や行政関係者らを対象に年1回開催されている企画である。

 その第4回がこの奥会津で開催されたことはとても意義深かったと思う。奥会津は高齢化、人口減少が進む一方、医療や介護の地域資源は決して十分とは言えない地域である。豪雪地帯でもある。にも関わらず、そこに住む人々が生活を続けていけるのには訳がある。この地域では、人々の日常のつながりと支え合いがその生活を支えているのである。

 現在、「地域包括ケアシステム」という、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みが市町村ごとに構築されようとしているが、奥会津の日常のつながりと支え合いは、この地域包括ケアシステムの構築にとって大きなヒントを与えてくれそうな取り組みなのである。

 人口の半分以上が高齢者で占められるというこの地域は、ともすると地方の衰退の象徴と見られがちかもしれない。ところがそうではないのである。今回はこの奥会津における、つながりと支え合いの実際について、全国サミットを通じて見聞きしたことを中心に紹介していきたい。

昭和村における支え合いの例

 以前、宮城県主催の地域包括ケアシステム関連の会合を取材させていただいたことがある。その折に、今回の開催地の一つである昭和村の事例発表を聞いたが、そこでの地域の人たち同士の支え合いの仕組みがとても印象的であった。

 例えば、同村内の野尻地区では、新聞は集落の一角にある「集合型新聞受け」に配達され、毎朝そこに新聞を取りに来なければならない。一見不便なようだが、それが支え合いにつながっている。新聞が配達される時間帯には住民が新聞受けの場所に集まってくる。そこで毎朝井戸端会議が自然発生的に行われる。取りに来ない人の家には誰かが新聞を持って訪ねていくので、安否確認にもなる。

 この野尻地区に商店は一軒あるだけだが、この商店もまた集落の人の集う「サロン」になっている。店主は81歳の女性だが、お店に来る人にお菓子や料理をふるまい、皆売り場の奥にある居間でお茶飲みをしている。お店に来る人もそこで買い物をするのはもちろん、野菜や山菜を差し入れたりする。顔なじみの客がしばらく姿を見せないと店主や常連客が電話や訪問で様子を伺う。

 このように、お互いの支え合いが実に自然な形で行われているのである。

「便利さが豊かさなのではない」

 今回の全国サミットでは、初日は金山町を会場に、基調講演、基調鼎談、活動発表とディスカッション、パネルディスカッションが行われた。開会で挨拶した町長の長谷川盛雄氏の「ないものねだりでなく、あるものを磨き上げる。ここにしかないものを磨き上げて全国に発信したい」との言葉はとても印象的であった。

 基調講演で内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏がいみじくも「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と言っていたが、ここ奥会津で展開されているのはまさにそうしたことである。山崎氏によると、人口減少地域の地方創生には地域資源の洗い出しとその最大活用などいくつかの共通点があるという。長谷川町長の主張通りである。奥会津のような地域でこうしたことが進んでいる背景には、地域全体の危機感がある。他人任せではなく、自分たちで何とかしないと日々の暮らしが守れないのである。この点、都市部にはこの危機感がまだ薄いと言わざるを得ない。

 「奥会津の暮らしに学ぶ、支え合う地域づくりのコツ」と題した活動発表とディスカッションでは、今回会場となった4町村における地域活動の一端が、当事者の口から語られた。三島町の小柴ヨシノ氏は、代表を務める「西方カタクリの会」の取り組みを発表した。会では廃校となった小学校を宿泊研修施設として再活用している。「社員」は地域の高齢者ばかりだが、地元食材を使った郷土料理や温かいもてなしが好評で、それが皆のやりがいにつながっているそうである。小柴氏の「小さなことでも人の役に立つ、地域の役に立つことをやりたい」「お互いに自分の能力を発揮できる環境で、自分のできる範囲でやっていくことが大事」との言葉が印象的であった。

 金山町の「山入近隣会」という会の一員である栗城英雄氏は、山入地区における集落営農による集落の維持と活性化について語った。農作業の他、水路や道路の保全、道路脇の花壇整備、旅行といった取り組みを通じて活発に交流して孤立を防いでいる。9月に開催する芸能発表会の最後を飾る山入歌舞伎は町内外から多くの観客を呼ぶ。11月の農作物品評会には自分たちの自慢の作物が200点近く集まり、そこで表彰されることが農作物づくりのやりがいにもつながっているという。栗城氏は、「身の丈に合った自分にできることをやっている」としつつ、「誰でも一歳ずつ年齢を増していくが、住んでいる地域で最後まで暮らしたい。そのために、お互いを理解し、支え合い、年をとっても楽しく暮らしていけるよう集落全員で取り組んでいきたい」と結んでいた。

 昭和村の野尻集落の山内常一氏は、「地域の景観をよくしたい、地域に貢献したい」と設立された野尻営農生産組合における耕作放棄地の農地再生作業についても紹介した。その思いとして山内氏は、「荒れた土地を畑にしておけば、都会から来た人が定住しても野菜を作ることができる」「県外にいる家族たちが安心して暮らせるように、『田舎は我々が守っているよ』と伝えつつ、いつでも帰ってこれる状態をつくっておくことが自分たちの課題」と語っていた。何より印象的だったのは、「便利さが豊かさなのではない。たとえ不便でも周りで助け合うことが豊かさだ」という言葉である。都市部に住んでいると、こうした地域での暮らしについてともするとよく事情を知りもせずに「不便そう」、「大変そう」などと考えてしまいがちだが、それは決してその地に住んでいる人の実感ではないのである。

 会津美里町の斎藤やよい氏は、毎月「日々草クラブ」という会を開いている。使われていなかったコミュニティーセンターを活用し、「身近な場所にたまり場」をつくろうと始めた。料理、手芸、歌、体操など、参加者が自分たちで活動計画を立てて活動しているが、毎回最後はお茶飲みの時間を設けて、会話を楽しみながら交流を深めている。斎藤氏は、こうした取り組みは「硬く考えないで1人、2人からでも肩ひじ張らずに気軽に始める」のがよいとして、「常日頃の積み重ねでコツコツやっていきたい」と語っていた。

「お茶飲み」を中心とした支え合い
 2日目は4町村に分かれての分科会だった。私が参加した金山町分科会のテーマは「日常のつながりに注目!〜超高齢化社会を生き抜くヒントは、地域の中の小さな支え合い〜」で、金山町内の本名地区、西谷地区の西谷あゆみ会、越川・西部地区の住民の方々が登壇した。

 町内の各集落では、日々の「お茶飲み」を中心とした、自然な形での住民同士の支え合いが行われていた。そのうちの一つ、本名地区でご自宅が近所の住民の「お茶飲み」の場になっている御年86歳の渡部ツトム氏の「こんないいところに来ていただいて、私たち最高に幸せです」という言葉がとても印象に残った。東北人はとかく謙遜しがちなものだが、自分たちがいいと思っているこの地域をいいと言って、たくさんの人が訪れたことへの感謝も伝えるという渡部氏のこの言葉からは、ご自分が住む地域への限りない愛着が感じられた。

 81歳の渡部英雄氏は、地域の300世帯のガスの検針を行っていて、その際に必ず住民と「お茶飲み」をし、頼まれれば電池や電球の交換、買い物代行なども行っている。また、自分が近くの温泉に行く際には近所の住民も誘い、会津若松まで足を運ぶ際には通院する必要のあったり買い物をしたかったりする住民を同乗させる。渡部氏は、「皆さんの御用ができる限りはお役に立ちたい。毎日毎日が楽しく、明日のことは考えず今日健康に過ごせればいいと思っているが、こうしたことができるのは健康そのものだと喜んでいる」と言っていた。

 分科会の開催に先立って金山町副町長の山内建史氏は、「互いに思いやれる、気に掛ける、一人ひとりが必要とされ、大切にされる風土がここにはある。これは地域における一つの『処方箋』だ」と話したが、金山町内における取り組みからはまさにそうした気風が感じられた。

奥会津に学ぶ地域づくり

 ここまで見てきた奥会津における取り組み、すべてそこに住む人同士のつながりから始まっていることが分かる。そしてまた、異口同音に言うように、そこに住む人が自分のできることをできる範囲で、肩肘張らずに自然体でやっていることも特徴的である。

 先に紹介した通り、奥会津の町村は東北でもとりわけ高齢化が進み、いわば未来の日本の姿を先取りしている地域であるが、そこでのこうした支え合いの仕組みは他の地域にとってもきっと参考になるのではないかと思われる。何より、登壇した地元の方のほとんどは70代、80代である。この地で一番元気なのは実にこの年代なのだと考えると、これからの日本でお手本にすべきはまさにこの地域なのではないかという気がする。活動発表をされた4町村の方々の生き生きとした様子がとても印象的で、結局地域づくりというのは、地域にこうした表情をする人が多くいることなのだと強く感じさせられた2日間であった。


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2017年03月22日

私的東北論その91〜「楽都」への道(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に発行された「東北復興」第54号では、「楽都」について書いてみた。東北では仙台と郡山が「楽都」を自称しており、それぞれそれを名乗るに値する、音楽についての充実した取り組みがある。以下がその全文である。


「楽都」への道

音楽イベントの多い街・仙台
 私事であるが、今年から男声アカペラグループに所属している。活動を始めて今年で17年目になる、仙台でも老舗と言えるグループで、男声のみ、しかも無伴奏というグループは多くのバンド、グループが活動する仙台でも稀である。

 11月5日は第15回仙台ゴスペル・フェスティバルが開催され、仙台市中心部の11のステージで104の演奏が繰り広げられた。お目当てのグループの演奏を聴きに来た人はもちろん、歩いていた足を止めて演奏に聞き入る人の姿も各所で見られた。

 考えてみると、ここ仙台は年間を通して音楽関連のイベントが多い土地であるように思う。私の属するグループも1年に5回ほど演奏を行うが、そのうち4回は仙台市内の音楽イベントである。6月の「とっておきの音楽祭」、7月の「太白区民合唱祭」、9月の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、そして今回のこの「仙台ゴスペル・フェスティバル」である。

 これら以外にも仙台市内の音楽イベントは数多い。5月に「仙台コレクション」(昨年までは9月の開催だった)、6月には「ジャズ・プロムナード in 仙台」、7月に「伊達ロックフェスティバル」、「若林区合唱のつどい」、8月の仙台七夕まつり時期に開催される「スターライト・エクスプロージョン」と「七夕ヴィレッジ」、9月に「秋保温泉MUSIC BAR」、10月に「仙台クラシックフェスティバル」、「伊達な街四丁目アカペラストリート」、「MWGA☆ROCKS」、12月に「ビッグバンドJAZZ・クリスマスコンサート」、「学都×楽都コラボレーション」、「クリスマスヴィレッジ」などが開催され、他に3年に1回仙台国際音楽コンクールが開催される。

 それだけではない。「仙台・杜の響きコンサート」には、仙台市内で開催される音楽イベントの予定がまとめられているが、ここを見ると、毎月かなりの数の音楽イベントが仙台市内各地で開催されていることが分かる。

 こうしたあまたある音楽イベントの中でも、9月に開催される「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、今や国内最大の市民音楽イベントと言われる。市民の発案で始まったこの音楽イベントは、26回目を迎える今年、国内外の760のバンドが集まり、70万人が集まった。市民が中心となって運営し、市民が無料で気軽に聴けて、街角そのものがステージというスタイルで始まったこのイベントは、全国各地の音楽イベントにも影響を与えた。仙台市内はもとより他の地域でも同様のスタイルを取る音楽イベントが数多く誕生した。宮城県内では「鳴子音楽祭『湯の街ストリートジャズフェスティバル in SPA鳴子』」、東北では秋田の「ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ」と「アキタミュージックフェスティバル」などがある。

もう一つの東北の「楽都」・郡山
 このように音楽イベントがあまた催されることもあって、仙台は「楽都」と称することがある。ただ、「楽都」は仙台だけの専売特許ではない。東北ではもう一つ、福島の郡山市も「楽都」を称している。郡山の「楽都」への道は戦後すぐ始まったとのことで、かなりの歴史を持っているようである。敗戦直後の荒廃の中で郡山では、音楽が戦災からの復興を目指す市民の心の拠り所となり、当時難しかったオーケストラを招いての演奏会を実現させた。その後「良い音楽を安く多くの人に」とのスローガンのもとで進められた勤労者音楽協議会の企画で著名団体の公演などが相次いで実現し、注目を集めたそうである。1964年には毎月第3金曜日をコーラスの日とし、街頭でコーラスを歌い、広めるという「十万人コーラス」運動が興り、翌年には「二十万人コーラス市内パレード」なども実施された。

 現在、郡山でも仙台と同様に年間を通じて音楽イベントは多いが、郡山で特筆すべきは学校音楽のレベルの高さである。特に合唱においては、中学校では郡山市立郡山第五中学校女声合唱団、郡山市立郡山第五中学校混声合唱団、郡山市立郡山第二中学校合唱部、郡山市立郡山第七中学校合唱部などが、高校では福島県立安積黎明高等学校合唱団や福島県立郡山高等学校合唱団などが、また小学校では郡山市立大島小学校などが、全日本合唱コンクールや「Nコン」ことNHK全国学校音楽コンクールなどで上位入賞の常連校となっている。これは郡山市内の音楽活動のすそ野の広さや教育の熱心さなどを如実に示しているものと言える。

 ちなみに、福島県内では会津若松市も郡山に負けず劣らず、中学校や高校の合唱部がレベルが高い。中学校では会津若松市立第二中学校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部、会津若松市立一箕中学校合唱部、高校では福島県立会津高等学校合唱団がやはりコンクールの上位常連校である。会津若松市は特に「楽都」を名乗っていないが、充分それに値する存在であると言える。

「楽都」ウィーンに学ぶこと
 世界的に「楽都」と言えばオーストリアの首都ウィーンのことである。ハプスブルク家の音楽好きに端を発する、少なくとも500年以上の伝統、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといったウィーンを拠点として活動した著名な作曲家の存在、全世界に衛星生中継されるニューイヤーコンサート、現在少なくとも8つはあるオーケストラなど、まさに「楽都」と称するにふさわしい要素があまたある。

 これらに加えて特筆すべきは、音楽を楽しむ環境の充実ぶりである。ウィーンには一度足を運んだことがあるが、「すごい」と思ったのは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーンフォルクスオーパー管弦楽団という、ウィーンを代表するオーケストラによるオペラが、ウィーンではほぼ毎日上演されているということである。それだけではない。もちろんウィーンでもいい席は日本円にして2万円くらいはするが、それだけでなく、学生やお金がない人でも楽しめるように、立見席が用意されており、その値段は日本円で500円くらいなのである。

 500円でオペラ鑑賞などとは日本ではおよそ考えられないことであるが、ウィーンではその気になれば毎日、500円でオペラを楽しむことができる。このように、市民が音楽を身近で気軽に楽しめることが、「楽都」の「楽都」たる所以であるように思った。

 日本で同様の環境は望むべくもないが、少なくとも仙台や郡山で開催されているたくさんの音楽イベントは、市民自らが演奏したり、その演奏を気軽に聴いたりできるということで、そこに住む人自身が音楽を楽しむ環境をつくるのに大いに貢献しているということは言える。「楽都」にとってそこが最も重要な要素であるように思う。

「楽都」同士の連携を
 ちなみに、Googleで「楽都」と入力して検索候補として表示される地名は仙台、郡山の他に、松本、堂山、四国中央があった。これらの都市がどのような趣旨でどのような活動を行っているかについて情報を得る機会は日常ほとんどない。そう言えば、同じ東北であっても、仙台と郡山の間でも「楽都」連携はほとんどなされていないのではないだろうか。恐らく、仙台市民のかなりの割合の人は、自分たちの住んでいる仙台が「楽都」と称していることについてはある程度知っていても、郡山も「楽都」を称していることは知らないだろうし、ましてや郡山が「楽都」としてどのような取り組みをしているかについてもほとんど知らないのではないだろうか。

 しかし、「楽都」としてウィーンになることは難しくても、お互いにその取り組みについて情報交換をし、学び合うことで、「楽都」としての取り組みをより充実させ合うことはできるはずである。そもそもウィーンと違って、日本国内であれば「楽都」は一つの都市だけが名乗れるといったようなものではなく、同時多発的に複数の「楽都」があってまったく問題ないはずである。いや、むしろたくさんの「楽都」があれば、それだけ音楽を楽しめる環境が多くあるということになり、望ましい。「楽都」を自称する都市が集まって、年に1回くらい「楽都サミット」を開催してみてはどうだろうか。

 東北の中だけでもできることはありそうである。まずは先に述べた、仙台と郡山という「楽都」同士が連携する体制をつくることが必要だが、それに加えて、東北の主だった都市間で音楽に関する取り組みについて情報交換する場があるとよいと思う。

 なぜそのように思うかと言えば、最初に述べた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」と同様のスタイルで始まった東北の音楽イベントの中には、何回か開催されたもののその後開催されなくなってしまったものもいくつかあるからである。これは実にもったいないことである。

 何か新しいことを始めることはもちろん大変だが、新しく始めたことをその後も続けることは実はもっと大変なことである。始めたことをその後どのように続けるかについてのノウハウは、始めたことを現在も続けているところが持っている。運営体制の構築や維持、引継ぎや予算確保、プロモーションといった実務上のことからコミュニケーションの方法やモチベーションの維持といったメンタル面のことまで、長く続けているところには必ず工夫がある。それを共有することで、せっかく始めたことが一過性のものとして終わるのではなく、息の長い取り組みとして続き、そうすればその取り組みは地域に根付く。「楽都」はそうしたことの積み重ねの先にある。

 郡山の「楽都」への取り組みが戦後の復興を支えたことを考えても、音楽の持つ力を東北が前に進むために活かすことは必要であると思う。そのためには東北のあちこちに「楽都」ができるのがよいのではないだろうか。


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2017年03月12日

私的東北論その90〜6回目の3・11

DSCN0461 東日本大震災が起きてから6回目の3月11日である。今年もまず弟が勤めていた若林区役所に行ってみた。今年は土曜日ということで、区役所は閉庁していたが、向かいの若林区文化センターでは、今年も東日本大震災仙台市追悼式が行われていた。献花場もあったので、献花した。





DSCN0463 その後、今年も、あの日弟が通ったであろう道を自転車で走り、荒浜へと向かった。毎年思うのだが、なぜかこの日はいつも強い北西の風が吹いている印象がある。仙台東部道路の下をくぐってすぐの神屋敷地区に、荒浜地区唯一の寺院である浄土寺が移転して新築されているのを見た。毎年仮設の本堂で合同追悼法要が行われているが、今年はこの新しい本堂で行われたようである。



DSCN0464 さらに東に向かい、県道塩釜亘理線を越えて、荒浜地区に入る。浄土寺の仮本堂があった所には、この地域で亡くなったすべての人の名前が刻まれた慰霊碑がある。地域の住民、交番の警官、消防団の団員、高齢者施設の職員、そして弟の名前がある。そこに着いたのはちょうど地震が発生した午後2時46分だったが、この慰霊碑の前で浄土寺の住職が法要を行っていて、たくさんの人が手を合わせていた。弟の友人から声を掛けられた。「ヘルメットをかぶって自転車に乗ってここにいる人は、さてはお兄さんではないかと思ったらやはりそうでした」とのこと。「ずっと来たいと思っていたものの、いつも平日で休みが取れなかったが、今年は土曜日だったのでようやく来れました」と言っていただいた。

DSCN0465 仮本堂の近くから海岸を望む。海岸沿いにあった松林は津波によってほとんどがなぎ倒され、今も櫛の歯が欠けたような状況である。もとより、あの見事な松林がたかだか6年ほどの時間で元に戻るはずもない。しかし、植林作業は現在も続いている。いつかまたきっと、海岸沿いの豊かな林が戻ってくるはずである。




DSCN0476 さらに東に向かい、貞山堀を越えて、深沼海水浴場に至る。ここにも東日本大震災慰霊之塔があり、荒浜慈聖観音と名付けられた観音様が立っている。こちらでも追悼の法要が行われたようである。慰霊之塔の近くには、鐘のなるモニュメントが立っていた。犠牲者の鎮魂、追悼のために造られたという「荒浜記憶の鐘」である。ちょうど今日除幕式が行われたそうである。ここでもう一人、弟の友人に声を掛けられた。やはりヘルメットと自転車でひょっとして、と思ったそうである。この友人も、土曜日ということで来られたと言っていただいた。本当にありがたい限りである。





DSCN0471 海岸に足を向ける。震災後高さが積み増しされた防潮堤があり、この防潮堤を登らないと海の様子はまったく見えない。防潮堤のてっぺんに立ってみると、風は強いのに、波はおだやかだった。あの日猛り狂った海とは対極にある姿である。





DSCN0475 荒浜地区のあちこちには、「偽バス停」がある。県内の美術作家が制作したバス停のオブジェである。以前、確かにここに人が住んでいたということを語ってくれているようである。昨年12月には、この「偽バス停」を本物の仙台市営バスが走るツアーも企画された。

 荒浜地区は仙台平野の真っ只中にある。津波から逃げられる高台がどこにもない。あの日、地域の住民が唯一避難できた建物が、旧荒浜小学校である。ここの屋上に避難した人たちは津波の難を逃れた。

DSCN0477 その旧荒浜小学校では、今年も荒浜小学校の卒業生らでつくる「HOPE FOR project」が、花の種を入れた風船を荒浜を訪れた人と一緒に飛ばした。「繋がりが失われた街に、もう一度笑顔や思いを共有するプロジェクト」で、これまでにも様々な活動を行ってきている。





DSCN0484 荒浜小学校は、この地区が災害危険区域に指定され、住むことができなくなったため閉校したが、建物は震災遺構として、この地を襲った平野部としては世界最大級という津波の有様を伝える「生き証人」となった。そしてまた、津波の際の避難場所にもなり、車椅子用のスロープや屋上に行けるエレベーターなどが整備された。屋上の倉庫には災害時用備蓄物資も貯蔵されていた。今日は開放されており、階段を上って屋上に出ることができた。あの日、この場所から見えた光景を想像してみる。向こうに仙台の街並みも見える。向こうに見える風景とこちらの周囲の風景とはあまりに違う。

170311-154750 地上に降りてきて校舎を見上げると、背丈のはるか上、2階部分に津波の高さを示す表示がある。津波によって、海側にある2階のバルコニーの柵が津波によって折れ曲がり、バルコニーの壁の一部も倒されてしまっている様子が今も残る。





DSCN0480 普段、仙台の街中にいると、震災当時を思い出させるものはほとんどない。6年経って、震災を意識しながら過ごすことが本当に少なくなってきたのを感じる。しかし、この日だけは別である。普段と同じようにいるつもりでも、何となく心がざわざわと波立っているのが自分でも分かる。特に、地震が発生した午後2時46分から、この地を未曽有の大津波が襲った午後4時くらいまでの間は、6年経った今でも、焦燥感というのか、居ても立っても居られないような心持ちになる。






170311-154900 校舎の4階部分に時計があり、今も動いている。その時計が午後3時49分を指していた。この地を大津波が襲ったのは、近くにあった消防署の職員の方の証言によれば、午後3時54分。6年前のこの時刻、迫りくる津波の危険を感じながら、弟はここでどのような気持ちで避難を呼び掛けていたのだろうか。その時の弟の姿に思いを馳せる。

 そして、午後3時54分。目を疑うような10mもの高さのどす黒い水の塊を見た時の弟の気持ちはどうだったのだろうかと想像してみる。驚き、焦り、恐怖、悲しみ、絶望感…、様々な気持ちが一緒くたになって押し寄せたのだろうか。

170311-160926 震災から49日目に弟の遺体が見つかった南長沼に足を運んでみる。水鳥の群れがのんびり泳いでいた。手を合わせるのはこの日何度目だろう。







170311-161820 荒浜地区に隣接する笹屋敷地区では、津波避難タワーの建設が進んでいた。仙台市内に13か所設置される予定だそうである。造って終わり、ではなく、それぞれの家から津波避難タワーへの避難ルートの検討、津波避難タワーまでの避難を実際に行う訓練などが必要だろう。

 元来た道を自転車で戻る。この道を、弟は行ったきり、戻ってこれなかったんだよなと思いながら。いつもは途中で家に帰る道に曲がるのだが、今年はもう一度若林区役所まで戻ってみようと思った。もちろん、それで何がどうなるというものでもない。単なる思い付きである。

 若林区役所に着いた。隣接する養種園跡地は公園のような形に整備されているが、そこには犬の散歩をする人、ジョギングをする人、お母さんと手をつないで歩く小さな子、などの姿があり、何事もない日常の風景が広がっていた。ふと、弟はこういう風景を守りたかったのではないか、と思った。

170311-191822 命さえあれば何度でもやり直せる。しかし、命がなくなればそれですべてが終わりというものでもない。私の大好きだった青森県弘前市のカレー店、「カリ・マハラジャ」、3年前にご主人が急逝されたために、閉店してしまった。そのカレーを最近、奥様が通販限定で復活させた。そのお蔭で、あの絶品カレーをまた食べることができる。弟が遺したものの幾ばくかは、私も引き継がせてもらっているように思う。

 普段、震災について考えることも、弟について考えることも、ひと頃に比べると減ってきているように感じる。しかし、やはりこの日だけは全く違う。荒浜地区に足を運び、いわば「定点観察」しながら、震災について考え、弟のことを想う。これはきっとこれからも変わらない営みとなるような気がしている。


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2017年01月30日

私的東北論その89〜再発見!東北の発酵食品(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 もはや昨年のことになってしまったが、昨年10月16日に発行された「東北復興」第53号では、東北の発酵食品について取り上げた。こうしてみると、東北の発酵文化が実に豊かであることが分かる。以下がその全文である。


再発見!東北の発酵食品

その良さが見直される発酵食品
 発酵食品が見直されている。納豆、味噌、ヨーグルトなどの健康に対する効果に注目が集まり、改めて発酵食品の良さに注目が集まっているのである。人類と発酵の歴史は古い。現在確認されている最も古い発酵食品は今からおよそ8000年前まで遡るという。日本でも縄文時代には酒が造られていたということなので、かなり長い付き合いをしているわけである。

 このように発酵食品には長い歴史があり、それだけ人々の生活と密接なつながりを持っていて、いわば身の回りに当たり前にあるものであっただけに、その良さが顧みられることはあまりなかったが、最近食に関する研究が進むにつれて発酵食品の効能が少しずつ明らかになってきており、折からの健康ブームにも乗って、発酵食品をつくる菌を積極的に取り入れようということで、「菌活」なる言葉まで生まれている。

 我が国における発酵の第一人者で東京農業大学名誉教授の小泉武夫氏によれば、発酵食品の四大特徴は、(歛犬利くこと、栄養価が高まること、F汎辰量と匂いがつくこと、さ羔砲亮然食品だということ、とのことである。こうした特徴を日本人は古来、上手に活用してきたわけである。

東北の発酵食品
 ここ東北はとりわけ発酵食品が多い。中でも漬物は他地域を圧倒する豊富な種類がある。それは冬に雪に閉ざされる地域が多く、作物が取れないために保存食を造らざるを得なかったという地域事情がある。食物は発酵させることによって長期保存が可能になる。

 浅漬けのように発酵させない漬物もあるが、漬ける食材に元からついている乳酸菌を使って乳酸発酵させる漬物や、麹を添加して発酵させる漬物、味噌や醤油や酢など発酵させて造ったものを使う漬物など、漬物と発酵は切っても切れない関係がある。

 「塩麹」が話題になったことがあったが、これなどは会津の三五八漬けがその原型であるとされる。三五八漬けは、塩と米麹と米を3対5対8の割合で混ぜた漬け床でつくることからその名前がある。

 日々の食生活に馴染み深い味噌は、同じ東北でも地域によって中身が異なる。例えば、津軽味噌は米麹が少なく塩分の多い長期熟成の赤味噌、逆に秋田味噌は米麹歩合が高く色合いの濃い長期熟成味噌、仙台味噌は大豆と米の旨みが活きたやはり長期熟成の赤味噌と、それぞれに特徴があり、味も異なる。

 海産物の発酵食品が多いのも特徴で、塩辛と言えばイカの塩辛が東北でも盛んに造られるが、それ以外にもニシンなどで造られる魚の塩辛である切り込み、ハタハタと米麹を一緒に発酵させた熟鮓の一種である秋田のハタハタ寿司、やはり秋田でハタハタを塩で発酵させて長期熟成させた魚醤であるしょっつる、サケとイクラを米麹で漬ける福島の中通りの紅葉漬、身欠きニシンと山椒の葉を交互に重ねて、醤油、砂糖、酢などでつくったタレに漬けた福島の会津のニシンの山椒漬けなどがある。

 納豆も東北には欠かせない食品である。これについても、東北各地に地元の納豆があるが、それだけでなく、納豆菌で大豆を発酵させた後、さらに麹でもう一度発酵させた納豆が山形と福島にはある。これもまた通常の納豆に輪をかけて美味しい納豆である。

 ユニークなものとしては「しょうゆの実」がある。これは醤油の製造工程で出る搾りかすに麹と塩を加えて造る山形の発酵食品である。

 そうそう、もちろん酒類も発酵食品である。日本酒、ワイン、ビール、シードルなど、多種多様な酒類が東北では楽しめる。米、果物、ホップなど、材料となる農産物が豊富に採れる恩恵である。ヨーグルトは東北の伝統的な発酵食品に比べるとまだ歴史は浅いが、放牧して育てた牛の牛乳から造ったり、ジャージー種の牛乳から造ったり、低温で殺菌した牛乳で造ったり、複数の乳酸菌で発酵させたり、温泉熱を利用して発酵させたり、東北の各地域で様々に工夫を凝らした美味しいヨーグルトがある。

地域おこしと発酵食品
発酵食品に特化した道の駅発酵の里こうざきの「発酵市場」 千葉県の神崎町は、江戸時代から発酵食品で栄えてきた歴史があるようである。そうした歴史を踏まえて造られた「道の駅発酵の里こうざき」には、「発酵市場」があり、発酵食品や発酵に関する情報を多く揃え、「発酵文化」を広く内外に発信すると共に、さまざまな発酵食品を販売しているが、週末などは大変な人の賑わいだという。

 こうした神崎町の成功事例、発酵食品の歴史と内容では決して引けを取らないこの地域でも、大いに参考にすべきである。

 もちろん、東北でも、この「道の駅発酵の里こうざき」とまではいかなくても、発酵食品を売りにした取り組みが始まっている。

 宮城県大崎市では「みやぎ大崎ふつふつ共和国」を大々的にPRしている。大崎地方には多くの酒蔵、味噌蔵、醤油蔵が点在している。東北屈指の米どころであり、大豆の一大産地としても知られている。こうした豊富な食材を冬に備えて保存性を高めるためにこの地域で古くから根付いているのが発酵食文化であった。ホームページでは、大崎地域の発酵食品、それらが食べられる飲食店などと一緒に情報提供している。

 福島県いわき市では「いわき、発酵の旅」を打ち出している。いわき市内で発酵に関係している酒蔵、削節店、味噌醤油醸造元などを巡るツアーも提案している。自宅でできそうな発酵食品のレシピも公開している。

 また、福島市では「ふくしま発酵文化研究会」が活動している。高齢化率と要介護率が上昇を続ける中、「発酵による健康・長寿のまちふくしまを目指す」ことを標榜し、 食育セミナーや発酵食品づくり、先進地視察交流、全国ネットワークとの交流などを行っている。

 東北で発酵文化が最も盛んな地域はどこかと聞かれれば、私は秋田県と答えたい。先に紹介したハタハタ寿司やしょっつるなど、この地域ならではの発酵食品がたくさんある。その秋田県では「秋田・茨城発酵食イベント」というイベントが開催されている。今年は納豆をテーマに、秋田県が誇る自慢の発酵食品を、もっともっと多くの人に知ってもらい、食べてもらいたい!」との思いを実現するために、納豆では秋田と並んで有名な茨城にも協力を仰いで開催している。

 秋田県南の横手市には「よこて発酵文化研究所」がある。ここは横手地域に根ざした「発酵」をキーワードに、市民、民間企業、行政が連携したまちづくりを行っている。特筆すべきはその開始時期で、平成16年3月に発足したというから、既に12年以上の歴史を持っている。

 そうかと思うと、秋田には「秋田今野商店」という店がある。酒造用の麹を始め、味噌醤油用の麹、ビール酵母、パン酵母、乳酸菌など、いわゆる種菌で圧倒的なシェアを占めている。秋田と青森に跨る世界自然遺産の白神山地からは、秋田県の総合食品研究センターがパン作りに適した「白神こだま酵母」を発見した。また、桜の名所、二ツ井では桜の木から採取した酵母を用いて地ビールを醸造している。

 このように、「発酵」をキーワードにした東北各地での取り組みは既に始まっている。願わくば、こうしたそれぞれの取り組みが、単独ではなく、互いに横のつながりを密にして情報交換をしながら発酵に関する情報発信を充実させていってもらいたい。そうして、「発酵と言えば東北」というブランドイメージをつくれれば、各々の取り組みがさらに活きるに違いない。


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2016年10月28日

私的東北論その88〜「未来会議」のアプローチ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 9月16日に刊行された「東北復興」第52号では、9月4日に開催された福島県いわき市の「未来会議」について取り上げた。この「未来会議」、詳しくは本文をご参照いただきたいが、とても得るところの多い会議であった。利害の異なる人も含めて、いろいろな立場の人が一堂に会して、それぞれの意見の隔たりを尊重しつつ、相互理解を模索するというアプローチである。私が座った席の隣には東電の副社長が座っていた。こうしたアプローチ、いわき市ならずとも有効なのではないかと思った。以下がその全文である。


「未来会議」のアプローチ

「未来会議」発足の経緯
160904-132330 9月4日に開催された「未来会議」に参加した。未来会議というのは、福島県いわき市で2013年に始まった、寛いだ雰囲気で誰もが参加できるワークショップ形式の対話の場である。

 震災と原発事故によって、いわき市はものすごく難しい立場に立った。地震と津波による紛れもない被災地でありながらも、福島県の浜通り地域最大の都市として福島第一原発の周辺自治体から2万人以上もの避難者を受け入れた。その一方で、被ばくへの不安からいわきから自主的に避難した市民もいた。原発周辺の避難者は東電からの賠償金を得たが、いわき市民は風評被害に悩まされつつその補償は何もなかった。そのような立場や考えの異なる人たちがいわき市の中には多くいて、互いに本音では話しづらい雰囲気があって、人々の間に分断と軋轢をもたらしていたのである。

 そうした中、2012年秋に、東日本大震災復興支援財団による子ども被災地支援法の聴き取り対話ワークショップが開催され、そこに参加した数名の有志によって、「未来会議」開催に向けての動きは始まった。「継続的な対話の場が、多くを抱えるこの地域には必要なのではないか?」「異なる価値観や違いはむしろ財産ではないか?」「 対立ではなく一緒になって考えることが大切なのではないか?」「失敗してもいい!という雰囲気の中で互いを伸ばし合うことが、未来への種を育むことに繋がるのではないだろうか?」といった考えから、「多様な声に耳を傾け、自分に出来ることを考える時間をもちたい」ということで、未来会議のコンセプトが形成されてきた。

 そして2013年1月に現在まで続く「未来会議」がスタートした。いわき市民はもちろん、双葉郡など原発周辺の自治体からいわきに来ている人、福島県内外の人、支援者としていわきに来ている人など、地域、年代関係なく様々な職業や立場の人が集まる場となっている。

「未来会議」の特徴
 こうした発足の経緯から、未来会議では「相手の意見を否定しない」「一つの結論を目指さない」をルールとしている。2014年1月に開催された会議では、子どもの被ばくに対する不安から給食の地産地消に反対する主婦と、風評被害に悩む農家が、同じくゲストとして会議の中で、それぞれの意見を表明していた。

 互いに主張しても、意見の相違は完全には解消できないかもしれない。しかし、違う立場の人が対等に出会う機会をつくることによって、そこにいる人々全てに気付きをもたらし、変化を促すことができると、未来会議では考えている。重要なのは対話することによって、目下の課題を可視化し、かつ価値観の多様性を互いに認め合うこと、互いの立場を尊重して批判はしないことであった。

 地域の課題や自分自身の考えを話し合うための場は元々そこにあるわけではない。だから、意図してつくる必要がある。未来会議はまさにそのような場として誕生したわけである。

 似たような名前の会議は東日本大震災の被災地を始め各地に存在するが、このいわきの未来会議はそれらとは一線を画したユニークな会議である。まず、各地の「未来会議」は行政主導で立ち上がったものが多いが、ここいわきの未来会議は、行政関係者も参加者として参加しているが、立ち上げたのは地元の有志である。そして、未来会議は自らを次のように規定している。

 ,海両譴蓮⊃燭断鬚淵ャンバス。主体は参加する一人ひとり。ニュートラルな場として30年の継続開催を予定しています。
 現状や課題を、共有・可視化し、未来のために出来ることを創造的に話す場です。
 C楼茲力箸魃曚─∧‥腓慮充造鯊人佑平諭垢閥Δ紡え、様々な角度から考えます。
 ぅ錙璽ショップ対話手法を取り入れ、誰もが安心して参加出来る場を 目指しています。
 ヌね茲鬚弔るためのプラットホームとして、人と人、人と団体、団体と団体が出会い、ネットワークを形成するきっかけを提供します。
 ι發びあがってくるものをアーカイブとして残します。

 とりわけ印象に残ったのは、「30年の継続開催」である。こうした会が30年続く例はほとんどないのではないだろうか。しかし、未来を論ずる場であるこの未来会議では、半ば当然のこととして少なくとも30年は続けていこうと、発足当初から考えていたのである。

「未来会議」の手法
 9月4日の未来会議は13回目の開催とのことであった。100名を超える参加のあったこの日のテーマは「それぞれの、ふるさと」で、ふるさとというのは町という場所なのか、町を構成していた人なのか、それとも人を含めての場所なのか、そしてまた景色が変わってしまった町をふるさとと呼べるのか、といった観点から、人々のふるさとに対する想いについて取り上げた。

 まずゲストに作家の柳美里氏と勿来ひと・まち未来会議会長の室井潤氏を迎え、事務局で双葉郡未来会議主宰の平山勉氏が進行役となって行うトークがあり、その後広島修道大学の田坂逸朗氏がファシリテーターを務める対話ワークショップが行われた。今回は、話し合ってみたいふるさとのテーマについて参加者から13のテーマが出され、他の参加者は自分の関心があるテーマのところに集って対話を行った。

 震災関連のイベントは仙台など被災地各地でも各種開催されており、私自身何度か企画開催しているが、この未来会議、いろいろな工夫が随所に感じられ、とても勉強になった。このトークとワークの組み合わせは、聞くだけでも話すだけでもなく、インプットとアウトプットの両方があっていい形であると思った。

160904-143435 特筆すべきは、そのトークについてもワークについても、ファシリテーショングラフィックという手法を用いて、その専門家である玉有朋子氏が会場に貼り出された大きな紙にリアルタイムでヴィジュアルも交えてその要点を書き記していたことである。目で見て分かる議事録がその場でできているようなもので、参加者同士がそれを見ながら話すことで、さらに対話が進み、話が膨らむように感じられた。

 いわき市内や双葉郡など浜通り地域だけでなく、他地域からの参加が多いのも特徴的で、毎回ファシリテーターを務めている田坂氏は福岡、ファシリテーショングラフィックの玉有氏は徳島の方で、参加者についても私が話した範囲に限ってみても、群馬、埼玉、東京、神奈川、愛知、広島、熊本、沖縄の方がいた。仙台から参加した私はむしろ近い方であった。

「未来会議」の広がり
 他地域からの参加がこれだけ多くあるその求心力もすごいが、「30年の継続開催」を打ち出しているこの未来会議、そのためのいわば次の世代に引き継ぐことまでを視野に入れた取り組みも既に実施している。実際、この日の午前中には2回目となる「子ども審議会」が開催されており、小中高生と大人が一堂に会して対話を行っていた。

 未来会議から派生した企画も数多い。この子ども審議会の他、深夜のバーのような親密でゆったりとした雰囲気の中、のんびり飲み物を飲みながら一緒にゲストの話に耳を傾ける「MIRAI BAR」、双葉郡8町村固有の課題について話し合う「双葉郡未来会議」、子どもが一人でも来られる居場所として実施している「こども食堂*みらいのたね」、かつて地域に開かれた対話の場でもあった旧暦二十三日の下弦の月の月待講を復活させた「廿三夜講復活プロジェクト」など、活動はさらに広がりを見せている。

 未来会議終了後は、「夜の未来会議」と称する懇親会が行われた。「昼の未来会議」は13時から17時の4時間であったが、この「夜の未来会議」は18時から始まり、22時半で中締めとなったもののそこからさらに参加者相互の対話が続いており、夜の部の方が昼の部よりも長いわけである。未来会議のが対話を重視する姿勢がここでも窺えた。

いわきの未来だけでなく
 この未来会議、当初は「いわき未来会議」と称していたが、いわきだけの未来を考えるというわけではないということから、名称から「いわき」を外して「未来会議」とい名称になったという。確かに、震災から先の未来を考えるために、いわき市内だけでも福島第一原発のある双葉郡だけでもなく、東北の太平洋沿岸の被災地のみならず全国各地から様々な人が集い、対話する、そのような場にこの未来会議はなりつつあるように見える。

 多様な背景を持った人と人とが出会い、それぞれが感じていることを共有し、お互いの立場や考えの違いからも気づきや学びを得る。そうしたアプローチの中から、一人ひとりが震災からの一歩を踏み出すきっかけをつかむ場、あるいは疲れた時にいつでも戻ってこれる場となる。未来会議が目指すこうした目的を実現するためには、確かにこの会議は一過性のものであってはならず、継続開催していくことが必須なのであろう。30年先の未来会議の「未来」がどのようなものになっているのか、ぜひ今後も注目していきたい。


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2016年10月27日

私的東北論その87〜「東北秘境ツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日に刊行された「東北復興」第51号では、先号、先々号に続いて、東北の観光について取り上げた。この回のテーマは「東北の秘境」である。ただ、秘境というのは、私の中では、あまり人に知られていないこともその大きな要素だと思っているので、秘境について紹介することは、秘境を秘境でなくする可能性があり、その点で矛盾を感じるところもある。

 とは言え、東北の秘境はとても魅力的なところが多いので、紙面では以下の通り、紹介してみた。


東北秘境ツアーのススメ

東北の秘境?
 前回は東北の「端っこ」を紹介した。今回は東北の秘境について紹介したい。ただ、、「端っこ」については、緯度と経度で異論なく決まるが、「秘境」がどこかについては、解釈の違い、意見の隔たりが多くありそうである。

 例えば、秘境と言うと、かつて「日本の秘境100選」が選定されたことがある。JTBの雑誌「旅」が創刊750号となるのを記念して開催されたシンポジウムの場において選定されたものである。この中で東北で選ばれたのは、八甲田山(青森県)、下北半島/恐山・仏ヶ浦(青森県)、津軽半島西岸(青森県)、八幡平・乳頭温泉郷(秋田県・岩手県)、出羽三山(山形県)、檜枝岐・野岩鉄道沿線(福島県・栃木県)、裏磐梯・雄国沼(福島県)、遠野盆地(岩手県)、内間木洞(岩手県)、重茂半島(岩手県)、十二湖・白神山地(青森県)、飛島(山形県)、笹谷峠(宮城県・山形県)の13か所である。

 「日本の秘境100選」に選ばれた東北の「秘境」を見て私が最初に思ったのは、「これらは秘境なんだろうか」ということである。秘境どころか、有名な観光スポットがほとんどのように見える。これらの中で私が「確かに秘境だね」ということで同意できるのは、内間木洞くらいである。岩手県の沿岸北部久慈市にあって日本で5番目の長さを持つこの洞窟は、普段一般公開がされておらず、また龍泉洞やあぶくま洞などと比べて知名度も高くないので、その意味で秘境であると言ってよいと思う。

秘境とは何か
 そもそも秘境とは何だろうか。「デジタル大辞泉」には、「外部の人が足を踏み入れたことがほとんどなく、まだ一般に知られていない地域。」とある。「大辞林」でも、「人の訪れたことのない、まだ一般によく知られていない地域。」とある。

 どちらの解釈でもポイントは二つで、一つは「人があまり訪れていない」こと、もう一つは「一般によく知られていない」ことである。私が「秘境」という言葉を聞いてイメージするのもこれらと近い。

 そうした観点から見ると、やはり先の「日本の秘境100選」は、あまりにも人が訪れ過ぎで、あまりにもよく知られ過ぎた場所ばかりである。秘境の捉え方にもよるが、辞書的な解釈からはかなり遠い「秘境」であると言わざるを得ない。

 秘境に相応しい言葉として、「人跡未踏」という言葉が挙げられると私は思う。このご時世、人跡未踏の地などあるのかと思われる向きもあるかと思うが、東北の山の中にはつい最近まで人がほとんど足を踏み入れたことのなかった地域が多くある。これぞまさに秘境である。

手掛かりはブナの森
 東北で秘境を考える時に手掛かりになるのはブナであると思う。2013年3月の第10号で東北のブナについて書いたことがあるが、ブナは東北各地に広く森を形成していた樹種である。しかし、木材としての利用がしづらかったために、各地で伐採され、代わりに木材として利用されるスギなどが植えられた。ということは、現在もブナの森が残っている地域は、人の手が加えられていない、いわばあまり人が訪れていない地域と言うことができるのではないだろうか。

bunabayashi1 その代表がもちろん、世界自然遺産として登録された、縄文時代から続くブナの原生林が今も残る白神山地である。しかし、白神山地は世界自然遺産への登録で一躍有名になり、また訪れる人も急増したため、秘境とは言えなくなってしまった。

 福島を除く東北5県の国有林を管理する東北森林管理局のデータによれば、管内国有林の樹種別蓄積では、スギが6,686万立方メートル(26%)で最も多いが、次いでブナが5,708万立方メートル(24%)で、以下カラマツ1,503万立方メートル(6%)、ヒバ1,382万立方メートル(6%)、アカマツ1,280万立方メートル(5%)、ナラ類823万立方メートル((4%)と続く。だいぶ伐採され、植え替えられたとは言え、依然ブナの木が東北には多く残っていることが分かる。

image-19 白神山地以外でブナの原生林が残っている地域として挙げられるのが、福島県の奥会津・只見町である。只見町のブナ林はその規模や原始性において、白神山地と並んで国内随一と言われている。伐採を逃れたブナ林は、やはりあまり人が入らない奥山に残っている。只見町では、町内のブナ林のパンフレットを作成しており、ウェブ上でも閲覧できる。


巨樹・巨木も手掛かり
 もう一つ、秘境の手掛かりとしてあるのは巨樹、巨木である。それが神域にあったために伐採を免れ、大事にされてきたというケースもあるが、そうでなければ単に発見されなかったために今に至るまで残った巨樹・巨木も多くある。

img481 林野庁は「森の巨人たち百選」を選定したが、100のうち27が東北にある。これらの中には、元々古くから巨樹として知られてきた木もあるが、環境省が1988年と2000年に全国で行った巨樹巨木林調査の結果、存在が明らかになった巨樹もある。岩手と秋田両県にまたがる和賀山塊もブナの原生林が多く残ることで特筆すべき地域だが、ここにある「日本一のブナ」や「日本一のクリ」の存在が明らかになったのは、まさにこの調査の結果である。和賀山塊について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「巨樹の森・和賀山塊」が参考になる。

 山形県の北部、最上(もがみ)地域もそうである。1市4町3村からなるこの地域は、総面積の8割が森林であるが、ここでも全国有数の巨樹・巨木が多く見つかっている。最上地域観光協議会のサイトで詳しく紹介されている。

奥会津の秘境
 先に紹介した只見町は奥会津と称される地域にある。会津と言うと、この地域の中心都市会津若松市が有名で、確かに市内を歩くとそこかしこに会津らしさが感じられるのだが、こと自然に関しての会津の魅力は実は、会津若松からさらに奥地に入ったところにあると私は思う。それが只見町のある奥会津地域であり、それに隣接する南会津地域である。

wgn5QT4C これらの地域には新潟県側にまたがって越後三山只見国定公園があるが、福島県側のポイントは只見町の田子倉湖と只見町に隣接する檜枝岐村の奥只見湖である。ちなみに、檜枝岐村は東北で最も人口の少ない市町村である。昨年現在の人口は614人で、東北で唯一三桁の人口である。また、村の面積の約98%が山林であるために全国で最も人口密度が低い市町村で、その数値は1平方キロメートル当たり1.73人である。つまり、1キロメートル四方に2人いない計算である。日本一人口密度が高いのが東京都中野区の1平方キロメートル当たり20,180人であるので、檜枝岐村の人口密度はその約11,665分の1である。

 田子倉湖も奥只見湖も、全国屈指の規模のダムによって生まれた湖であるが、この2つの湖を結ぶ地域はまさに人跡未踏の地として知られている。どちらのダムも建設時に多数の殉職者を出した末にようやく完成したと言い、今もお盆には慰霊祭が行われているそうである。

秋田内陸にある秘境
kimimachisugi 先に紹介した「森の巨人たち百選」の中には「きみまち杉」という、樹高が58メートルという日本一の高さの杉がある。58メートルと言うと、15階建てのビルに相当する高さだそうである。

 この「きみまち杉」があるのは、秋田県能代市の仁鮒水沢スギ植物群落保護林である。この保護林もほとんど知られていないので秘境と言って差し支えないと思うが、人工林ではない秋田杉の天然林が見られる希少な場所である。一歩足を踏み入れると、とにかくそのスギの存在感に圧倒される。植林されたスギとはスケール感がまるで違う。入口にある看板の文句が面白い。「道路沿いなどによくある人工林とは段違いのスケールを誇る巨木林です。ただ目が慣れると感激が薄れてしまいますのでご注意ください」とある。「森と水の郷あきた」のサイト内の解説が詳しい。

001 北秋田市にある森吉山周辺もまさに秘境と呼ぶに相応しい地域である。古くから霊峰として山麓住民の信仰の対象となってきたこの森吉山にも豊かなブナの森がある。水の豊かな山で、山間のあちこちに滝があることでも知られている。

 その中で、秘境の面目躍如たる滝が「九階の滝」と呼ばれる、落差が100メートル以上もある滝である。かつてはこの地のマタギでさえも「神様の沢」として畏れ、近寄れなかったと伝えられる場所で、登山道が整備されていないこともあって、これまで地元の人でさえ数えるほどしか到達していないという、まさに秘境の滝である。

 九階の滝までたどり着ける人はそう多くはないだろうが、小又峡の三階滝までなら行ける。これまた奥森吉を代表する見事な滝である。三階滝までは遊歩道が整備され、場所によって表情を変える清流を横目で見ながら散策ができる。森吉山について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「水の郷・森吉山」が参考になる。

普通の「東北」に飽き足らない方へ
 これまで紹介してきた地域は、恐らくあまり知られていないと思われる。いずれも「東北の秘境」という称号に値する地域と言えるのではないだろうか。冬ともなるとまさに人跡未踏の地となるが、今の時期であれば、もちろん奥地まで入り込むのであれば本格的な装備が必要となるが、そこまででなければ比較的軽装でも、十分秘境の醍醐味を味わうことができる。

 有名な観光地巡りには飽きたという方や、東北らしさを存分に味わいたいという方にはぜひおススメしたい。


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2016年09月30日

私的東北論その86〜「東北端っこツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙の第50号とその次の第51号では、前回第49号で考察した東北の観光の現状等を踏まえて、東北の観光資源の「掘り起こし」を図った。第50号では、東北の東西南北端を巡るツアーを提唱してみた。

 以下がその全文である。


「東北端っこツアー」のススメ

 東北は南北約530km、東西は最大約180kmに及ぶ広大な地域である。南北に長いことから、東北の南端に近い福島県いわき市の小名浜では桜の開花が平年値で4月6日なのに対し、北端の手前にある青森県むつ市では平年値が4月29日と、桜前線が東北を縦断するのには1か月近い期間を要する。

 日本の東西南北端の場所は有名で、最東端は南鳥島、最西端は与那国島、最南端は沖ノ鳥島、最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。これに対して、各地方の東西南北端はと聞かれてすぐに答えられる人はほとんどいないに違いない。こと東北に関して言えば、最北端の下北半島・大間崎は有名である。大間崎は東北の最北端というだけでなく、本州の最北端でもあることからある程度知名度があるのかもしれない。しかし、東北の最東端である岩手県宮古市の魹ヶ埼(とどがさき)も本州の最東端であるにも関わらず、知名度は今ひとつである。最南端や最西端に至っては恐らくほとんどの人が知らないに違いない。そこで今回は東北の「端っこ」を紹介してみたい。


最北端・大間崎(おおまさき)
kaikyo 大間崎は、青森県の北東、マサカリのような形をした下北半島の最北端にある。大間崎を抱える大間町は、マグロの一本釣りで有名な漁業の町である。大間のマグロは東京・築地のセリで高値がつくことでもよく知られる。

 地図をよく見ると分かることだが、北海道の最南端よりも大間崎の方が北に位置している。もちろん、れっきとした東北の一部なのだが、下北半島で見られる景色は東北の他の地域とは明らかに異なる。北海道にも通じるような雄大さとおおらかさを兼ね備えたような景色である。なにせ県庁所在地の青森市から下北半島の中心都市むつ市までは約100kmもある。同じ青森県内でも、津軽や三八上北とも違う、下北ならではの風景がここにはある。

 むつ市郊外には恐らく下北半島で最も有名と思われる、日本三大霊山、日本三大地獄の一つ、恐山(おそれざん)がある。火山ガスが噴き出す荒涼とした風景がまさに地獄を彷彿とさせ、おどろおどろしいイメージがつきまとう恐山だが、隣接する宇曽利湖(うそりこ)は波静かで極楽浄土に比せられる。つまりここは地獄だけでなく、極楽も体験できるスポットなのである。ちなみに、恐山の「恐」と宇曽利湖の「宇曽利」は元々同じ読み。ここは地獄と極楽が同居する稀有な地なのである。

 下北半島には薬研(やげん)温泉や下風呂(しもふろ)温泉など、名湯がある。が、せっかく東北最北端の地に来たのであれば、ぜひ東北最北端、すなわち本州最北端の温泉に入ってみてほしい。それが大間温泉である。おおま温泉海峡保養センターが所有する温泉で、宿泊もできる。

 マグロで有名と書いたが、実は大間町には「陸(おか)マグロ」と称されるものがある。それは大間町で肥育されている大間牛のことで、これがまた大間の本マグロにも負けない最高等級の牛肉なのである。ちなみに、おおま温泉海峡保養センターでは大間マグロとこの陸マグロの食べ比べコースもある。

 大間町には以前紹介したことがあるが、本州最北端の地ビールがある。梅香山崇徳寺(ばいこうざんしゅうとくじ)という江戸時代から続くお寺がつくる、全国でも恐らく唯一の地ビール「卍麦雫(まんじむぎしずく)」である。境内にはこれまた全国でも唯一と思われるこの地ビールの自動販売機もある。これもぜひ味わってみてほしい。

 本州最北端の大間崎、対岸の北海道が間近に見られることで有名だが、南側以外ぐるっと海に囲まれたロケーションであることから、実は海から昇る朝日と海に沈む夕日が両方見られる。このようなスポットというのは日本中探してもあまりないと思うのだが、そのこと自体あまり知られていないようである。ここはもっとアピールすべきポイントである。


最東端・魹ヶ埼(とどがさき)
27 最東端の魹ヶ埼は、岩手県の三陸沿岸、宮古市の重茂半島にある岬である。先にも紹介したように、本州最東端の地でもあるのだが、知名度は最北端の大間崎に遠く及ばない。その理由は何かと考えてみると、|鰐召読めない、辿り着くのが大変、ということがあるように思われる。,砲弔い童世┐弌◆屬箸鼻廚箸いΥ岨自体がまず読めない。パソコンでも環境依存文字で、正しく表示されるかどうかはパソコン次第である。△砲弔い討蓮宮古市の中心部から入口まで車で約50分もかかるだけでなく、駐車場に車を止めてから「山道」を約1時間ほど歩かなくては辿り着けないということがある。なぜ海のそばなのに山なのかと言うと、三陸海岸は昔習ったように「リアス海岸」であるからで、海のすぐそばまで山なのである。

 往復2時間と考えると訪れるのに二の足を踏んでしまいそうになるが、ここは行って損のないスポットである。眼前には太平洋が遮るものなく茫洋と広がり、三陸沿岸屈指のビューポイントである。

 知る人ぞ知る、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった魹ヶ埼灯台もある。映画の当時は灯台守が海の安全を守っていたが、今は無人である。市街地から遠く離れた「陸の孤島」であるこの灯台で灯台守の夫婦がどのように生活していたのかと考えると、先人たちの苦労が偲ばれる。

 最東端ということで、魹ヶ埼は東北で最も早く朝日が昇るスポットである。ちなみに、緯度の関係で本州全体で最も早く朝日が昇るのは千葉県の犬吠埼である。


最南端・矢祭町(やまつりまち)
1454037976_8a 東北の最南端は福島県いわき市であると思っている人も多いに違いない。冒頭で紹介したように、いわき市は東北で最も早く桜が開花する地である。しかし、緯度上の最南端はいわき市ではない。もっと南に存在するのが矢祭町(やまつりまち)である。この矢祭町の国道349号線沿いにある明神峠の西側の山麓が東北最南端の地である。

 矢祭町は人口7,000人弱の小さな町だが、いわゆる「平成の大合併」の折に小規模自治体が切り捨てられることに反発して、「合併しない宣言」を採択して話題となった。宣言を出しただけでなく、小規模自治体が財政的に自立できるよう、行財政改革を徹底して行って成果を上げており、全国の自治体から視察がひっきりなしに行われている町としても有名である。

 観光スポットとしては、町の中心にある矢祭山とそのそばを流れる久慈川の周辺が中心となる。矢祭山は町全体が見下ろせるビュースポットであると同時に、山つつじの名所としても知られている。久慈川流域は「東北の耶馬渓」と称される四季折々の景観で知られる。個人的なおススメは「阿武隈の秘境」と呼ばれる滝川渓谷で、全長3kmの散策路内に四十八滝がある。渓谷を上り切った先にある「滝川の里」で食べられるそば粉十割の手打ちそばも美味しい。

 矢祭町の特産品はゆずで、香り高いことで知られている。町内では、ゆずシャーベットなど、このゆずを使った加工品がある。


最西端・御積島(おしゃくじま)
osyakujima 東北の最西端について知っている人はほとんどいないに違いない。日本海側に突き出た半島がそうなのではないかと考える人もいるかもしれないが、東北地方は北東方向から南西方向に伸びている。したがって、恐らく東北の日本海側で最も有名な半島と思われる、ナマハゲで有名な男鹿半島は東北の最西端ではない。岩木山が海に浮かんだように見える、津軽半島の小泊半島も最西端ではない。

 離島を含めるかどうかでも違ってくるのだが、離島まで含めるのであれば、山形県酒田市にある御積島が東北最西端で、離島を含めないのであれば、山形県鶴岡市の鼠ヶ関が最西端である。御積島を知っている人は東北の人であってもなかなかいないと思われるが、酒田市に属する離島で、トビウオで知られる飛島(とびしま)の西約2kmに位置する無人島である。スキューバダイビングのスポットとして知られている。この御積島の西に位置する岩礁、カラカサノイボの経度は東経139度31分13秒である。

 これに対して、離島を含めない場合は鶴岡市の南端にあって、出羽と越後の境であった鼠ヶ関が最西端となる。鼠ヶ関の弁天島のすぐ西にある岩礁の経度は東経139度32分18秒で、ほんのわずかな差ではあるが、御積島の方が西である。

 御積島のある飛島には、酒田港から定期船「とびしま」で75分である。ちょっと書いたようにトビウオが多く取れる。トビウオの焼干しやつゆは特産品として有名である。海藻もいろいろ取れ、特にイギスやアラメ、ホンダワラなどは他地域のものに比べて美味しいと評判である。飛島からは御積島も回る遊覧船が出ている。

 一方の鼠ヶ関は、江戸時代には念珠ヶ関とも表記され、福島県白河市にある白河関といわき市にある勿来関と共に、奥羽三関の一つとして東北への玄関口として知られる。ちなみに、現在の鼠ヶ関の史跡は「近世念珠関址」と呼ばれ、移転された事情は定かではないものの、古代の鼠ヶ関があった場所から北方に約1km移動している。これに対して元々鼠ヶ関があった場所は「古代鼠ヶ関址」として、石標が建てられている。その西端である弁天島へは現在は遊歩道が整備され、地続きである。源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた際に上陸した地として伝わる(新潟の村上から当地までは船に乗ったとの伝承がある)。飛島も鼠ヶ関も、日本海沿岸ということで、言うまでもないが海に沈む夕日の絶景スポットである。


ぜひ「東北端っこツアー」を
 以上紹介した東北の東西南北端を巡るツアーなどは今のところないが、個人的にはやってみたら面白いのではないかと思う。それぞれ全く異なる雰囲気があり、東北の多様さを体感できるツアーになるに違いない。

 本州の東西南北端については、「本州四端踏破ラリー」がある。これまでに紹介した、本州最北端である大間町、最東端である宮古市、それに最西端である山口県下関市、最南端である和歌山県串本町で構成する本州四端協議会が、地域活性化のために協力して実施している取り組みで、すべて踏破した人には、本州四端踏破証明書と本州四端オリジナル記念品が贈られる。平成16年に始まって以来、これまでに1,792人が踏破者としてカウントされている。手始めに、同様の取り組みを東北でもやってみてはどうだろうか。


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2016年09月29日

私的東北論その85〜東北の観光における復興の現状とこれから(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 6月16日に発行された電子新聞「東北復興」の第49号では、東北の観光の現状とこれからについて取り上げた。震災後、大きく落ち込んだ東北各地の観光客数だが、ここへ来てようやく震災前の水準に回復してきている。東北にはいい場所、いいものがたくさんある。それをぜひ多くの人に確かめに来ていたただきたいと思うものである。

 以下がその全文である。


東北の観光における復興の現状とこれから

過去最多となった仙台への観光客
新しい画像 仙台を訪れた観光客の数が昨年2015年、初めて2,000万人を超えて過去最多になったことが仙台市の調査で分かったそうである(左図は「データで見る仙台の産業 平成28年度」による)。正確には22,293,853人とのことで、仙台市が目標に掲げている2017年度までに2,300万人という数字も現実味を帯びてきたことになる。

 これまでの推移としては、震災前の2009年が1,937万人、2010年が1,979万人で、そのままいけば翌年は2,000万人を超えそうだったが、翌2011年は東日本大震災の影響で1,621万人まで観光客数は落ち込んだ。2012年が1,855万人、2013年も1,867万人と震災前の水準には戻らなかったが、2014年にようやく1,975万人と震災前の水準に戻っていた。

 2015年の2,229万人は、前年の12.9%増という伸びとなったわけだが、その要因としては震災の風評被害が一定程度収まったことや、仙台うみの杜水族館が開業したことなどが挙げられている。

 また、市内の外国人宿泊者数も115,947人で、これも2008年の98,210人を抜き、初めて10万人を超えて過去最多となったそうである。外国人宿泊者数は、震災のあった2011年には24,071人と激減し、その後も2012年57,297 人、2013年55,871人、2014年68,834人となかなか震災前の水準には戻らなかったが、2015年は前年比168.4%という高い伸びとなった。この要因としては、この年の3月に国連世界防災会議が開催されたことが挙げられている。

 外国人宿泊者を地域別に見てみると、アジアが70,996人で最も多く、次いで北中南米が16,392人、 欧州が11,028人、オセアニアが1,894人、アフリカ1,589人などとなっている。国・地域別に見てみると、台湾が37,660人で最も多く、次いで中国が13,787人、アメリカが13,452人、タイが6,967人、韓国が4,124人、香港が3,458人などとなっている。


仙台の観光は仙台だけでは成り立たない
 しかし、仙台だけ観光客が増えたと喜んでいてはいけない。そもそも、仙台の観光は他地域と組まないと成り立たないという側面がある。

 例えば、観光庁は今年3月、「東北6県の観光魅力100件」を選定した。これは、「東北の観光資源について広く国内・海外に情報発信を行い、東北への来訪促進を図るための新しい試み」とのことで、応募のあった1,264件の中から「見るもの」「食べもの」「買いもの」「体験」の各カテゴリで合計100件を選定したものなのだが、この100件の中で、仙台に関する観光資源は実に 「仙台七夕まつり」ただ1件だった。つまり、仙台の観光資源は東北の他地域と比較すると決して多いとは言えないのである。このことから考えても、仙台の観光は仙台だけでは決して成り立たず、むしろ、東北各地の観光情報の発信基地となるべき立場であるのである。

 ちなみに、「100件」を県別に見ると、青森が28件と最も多く、次いで秋田が21件、宮城が18件、岩手が16件、福島が15件、山形が11件となっている(複数県にまたがる観光資源もあるので合計は100を超える)。青森や秋田に「東北のベスト」の観光資源が多いことが分かる。


仙台駅の新たな取り組み
 たまたま仙台駅3階のみどりの窓口で切符を買おうとしたら、壁面のディスプレイで「ヨリ未知 SENDAI」と題した、東北の名所、名産品を紹介するプロモーションビデオを流していた。JRがつくったビデオだけあって、一つひとつ、仙台駅を起点とした場合の経路や所要時間まで図示されて、いざ行ってみようと思った時に役立ちそうな内容だった。キャッチコピーが「冒険しよう、陸(みち)の奥へ。」で、「『ヨリ未知 SENDAI』が目指すのは“どこかへ『寄り道』したくなる情報が集まった駅”」とある。

 まさに、仙台の立ち位置はこれで、JR仙台駅はそれを十分意識しているように思える。この「ヨリ未知 SENDAI」プロジェクト、3月の仙台駅東西自由通路のオープンに合わせて始まったもののようで、「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」ことが目的だそうである。これは素晴らしい試みである。実際、私が目にしたプロモーションビデオ以外にも、東北のこけしや漆器、民芸玩具が展示してあったり、宮城の80種の食がミニチュアで紹介されていたり、東北の花見スポットや名峰が紹介されていたりといった工夫が駅の中のあちこちにあるようである。

 唯一残念なのは、この「ヨリ未知 SENDAI」、ウェブページにある情報は仙台駅とその周辺のみの情報にとどまり、プロモーションビデオで紹介していたような東北各地の情報がないことである。これは「東北の未だ知られざる多くの魅力を仙台駅から発信する」という趣旨から言えば不十分と言わざるを得ない。せめて、駅の中で流していたプロモーションビデオをウェブ上で公開するだけで もずいぶん違うと思うのだ が、それも今のところないようである。

 そのような残念な点はあるものの、その趣旨には大いに賛同する。他の地域の人によく「仙台って大きな街なんですね」と言われる。「東京から1時間ちょっとで着くんですね」ともよく言われる。 こうした声から分かるのは、とにかく情報が少ない、知られていないということである。仙台駅は言うまでもなく、東北で最も多くの人が利用する駅である。そこでの情報発信の効果はとても大きい。今後も積極的に情報を発信していってほしいものである。


世界に向けて何をどう発信するか
 復興庁の資料によると、外国人宿泊客の数は、全国では2010年の2,602万人から、2014年には4,207万人と、実に161.7%の大幅増となっている。しかし、これを東北に限って見てみると、2010年の51万人から2014年には35万人と、なんと逆に70%に減少している。2010年比で外国人宿泊客が減少している地域は東北だけで、いわば東北の「一人負け」状態なのである。

 その背景にはもちろん、いまだに東日本大震災の影響があることは間違いのないところだろうが、そうした風評を払拭するだけの情報発信ができていないということでもあるわけである。

 こうした状況を受けて、観光庁は今年度、東北六県の観光振興を目指して、全世界を対象にした初めての大規模キャンペーンを行うそうである。震災復興関連予算から10億円を確保して、海外の著名人を起用したテレビ番組の制作、各国のメディアや旅行会社を招くツアーなどを実施して、東北の観光情報を集中的に発信するとのことである。

 国は今年度を「東北観光復興元年」と位置付けているとのことで、それは大変ありがたく心強いことではあるが、一方でせっかくお金を掛けるのであれば、他にも考えておいた方がよいこともありそうである。

 観光庁が今年1月から3月まで訪日外国人を対象に行った調査で注目すべきは、「出発前に得た旅行情報源で役に立ったもの」という質問への回答である。ここでは「日本政府観光局ホームページ」(16.7%)や「旅行会社ホームページ」(16.6%)、「地方観光協会ホームページ」(6.2%)などを抑 えて圧倒的に多かったのが 「個人のブログ」(31.4%)であったのである。

 このことからは、公式な情報よりも、個人の発信した情報を参考にするという傾向が見て取れる。国が予算を確保しての公式なレベルでの情報発信を行ってくれることはありがたいが、 それのみでは決して十分とは言えないわけである。むしろこの領域で影響力のある各国の個人ブロガーを招いて東北に関する情報を発信してもらうこといった取り組みの方が必要なのではないだろうか。また、日本側でも、東北の情報を発信する個人ブログなどを、各国語対応も含めてどう充実させていくかということの方が、効果の面で言っても取り組むべき喫緊の課題であると言える。


東北の強みを活かした観光復興を
 同じ観光庁の資料では、「訪日前に期待していたこと」について、最も多かったのが「日本食を食べること」(70.0%)で、次いで「ショッピング」(53.0%)、「自然・景勝地観光」(43.5%)、「繁華街の街歩き」(37.3%)、「温泉入浴」(35.5%)が多く、ちょっと下がって「旅館に宿泊」(21.4%)、「日本の酒を飲むこと」(20.9%)とな っている。「テーマパーク」(15.3%)、「日本の歴史・伝統文化体験」(14.8%)、「日本の日常生活体験」(13.6%)、 「四季の体感」(12.4%)などはそれほど多くはない(ただし国によってかなり ばらつきはある)。

 東北の得意分野でこうしたニーズに対応することを考えると、まず「ショッピ ング」や「繁華街の街歩き」 などでは他地域をしのぐような対応は難しい。これらについては首都圏など大都市圏に強みがある。

 東北で力を入れるべきは、 何と言っても、「日本食を食べること」、「自然・景勝地観光」、「温泉入浴」であろう。これらに対応することを重点的に考えていくのが東北の観光復興には最も良いのではないかと思われる。東北の食、自然、温泉は、日本の他地域に比べても、かなり良いものを持っている。それを外国人向けに大いに情報発信すると同時に、いざ来てくれた際の受け入れ態勢もしっかりと整えることがこれから必要なことであるのではないだ ろうか。

 食に関して言えば、「最も満足した飲食」で多かったものの中で、「寿司」が一番なのは予想がつくとして、次いで「ラーメン」が来て、その次は「肉料理」で、この3つが圧倒的であった。これらもまた、東北でも美味しい食べ物である。 海外に向けた東北のこれらの料理のマップを作るなどの工夫も必要であろう。


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2016年07月30日

私的東北論その84〜「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 5月15日発行の「東北復興」第48号では、東北を題材にした2つの作品、「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」を取り上げた。「イサの氾濫」は小説、「まづろわぬ民」は歌とジャンルは違うが、東北に対する熱い思いは共通している。どちらも震災後に創られたという点でも共通している。建物が元通りになれば復興ということではない。東北に住む人の復興には、東北の祭りや伝統芸能の復活が必要とよく言われるが、加えてこのような文芸や音楽などの復活も必要なのだと思う。

 以下がその全文である。


「イサの氾濫」と「まづろわぬ民」

小説「イサの氾濫」
91hIN6oceAL 木村友祐の「イサの氾濫」が未来社から3月11日に刊行された。40代になって東京での生活に行き詰まりを感じていた主人公の将司が、叔父の勇雄=イサに興味を持ち、故郷の青森・八戸に帰り、従兄弟や父親の幼馴染に話を聞いて、その足跡を辿っていく、というストーリーである。イサは方々で諍いを起こし、肉親にも敬遠され、どこにも居場所のなかった「荒くれ者」だった。将司はイサの孤独と悔しさに自分自身を重ね、さらに震災後の東北の悔しさをもその身に乗り移らせ、ついに「イサ」となって怒りを爆発させる。

 本作の初出は「すばる」(集英社)の2011年12月号で、第25回三島由紀夫賞候補作ともなったそうだが、その時は私はその存在を知らず、今回単行本になって初めて手に取る機会を得た。この小説の中で最も印象的な箇所として、登場人物の口から、蝦夷や東北の置かれた状況について語られる場面がある。

 父親の幼馴染の角次郎は、イサのことをかつて東北に住んでいた蝦夷みたいな人間だったのではないかと将司に言う。その言葉に前のめりになる将司に対して、「今のは考え方の遊び」だと言いつつ、角次郎は蝦夷について語る。

「……蝦夷づのぁ、ホントは西の、都のやづらがそう呼んだだげで、本人だぢは自分が蝦夷だどは思ってながったらしいけどな。産馬ど馬飼に長げでだがら、馬さ乗って弓ばあつかうのも得意な連中で、やだら勇敢な猛者がそろっていだづ。都の連中にとっちゃ、自分だぢの国の外さあって、そったら強い輩がゴロゴロいる蝦夷の国は、想像を超えだ野蛮の国だったのよ。まぁ、国どいっても、それぞれ単独に動ぐ部族の集まりで、抗争をくりかえすおんた感じだったらしいんども。毛を着て血を飲む、兄弟同士疑い合う連中だど思われでったづ。朝廷は、天皇こそ絶対だどいう物語にしだがって、その未開の国ば何回も制服しようどしたんども、蝦夷ぁなんたかた抵抗したべ。だすけ、蝦夷は都の連中には、『まづろわぬ人』どが、『あらぶる人』ど呼ばれでだのよ。……な。イサみてぇなもんだべ?」

 その上で角次郎は、「今の東北には、あいつみてぇなやづが必要だどいう気もする」と言う。それはどういうことかと尋ねる将司に角次郎は、「みな、人ッコよすぎるべ」と言って、こう言う。

「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されだわげだがら、余計厄介なんどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたぐねぇがら、無理して前向ぎなごと言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」。

「……おらはもどもど、生まれだ地域で人の性格うんぬんすんのは、ナンセンスだど思ってんども。だがらこれは、そんでもやっぱり不公平でねぇがどいう思いが言わせる、戯言みてぇなもんだども。東北人は無言の民せ。蝦夷征伐で負げで、ヤマトの植民地さなって。もどもど米づくりさ適さねぇ土地なのさ、稲作ば主体どずる西の社会ど同じように、米、ムリクリつぐるごどになって。そのせいで人は大勢飢え死にするし、いづまでたっても貧しさに苦しめられでな。はじめで東北全域が手ぇ結んで、薩長の維新政府軍ど戦った戊辰戦争でも負げで。つまり、西さ負げつづけで。どごのだれが言いだしたんだが、『白河以北、一山百文』なんて言葉で小馬鹿にされで、暗くて寒くて貧しいど思われながら、自分だぢもそう思いながら、黙々と暮らしてきたべ。……したんども、ハァ、その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」。

 この長大な語りは、まさに作者である木村友祐の「叫び」であるのだろう。ちなみに、八戸出身で東京に出た主人公の将司は、まさに作者の分身であるし、イサのモデルは作者の叔父だそうである。東京から見えた震災後の東北とその東北を取り巻く状況を見て、全編を通して「東北よ、叫べ!」と叫んでいる。作者がこの小説を通じて訴えたかったことはまさにここにあるのに違いない。

アルバム「まづろわぬ民」
613YZ2hFc0L この「その重い口ば開いでもいいんでねぇが。叫んでもいいんでねぇが」という声に応えた人がいる。白崎映美である。白崎映美は山形の酒田出身。上々颱風(しゃんしゃんたいふ〜ん)のヴォーカリストとして活動してきたが、上々颱風は2013年1月に活動を休止。そのような折に、この「イサの氾濫」と出会い、その「叫び」に東北人の血をたぎらせて、東北出身のミュージシャンらに声を掛け、「白崎映美&とうほぐまづりオールスターズ」を結成したのである。翌2014年秋に1stアルバム「まづろわぬ民」を発表。2015年に「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」に改名して現在に至っている。「東北6県ろ〜る」というネーミング、実に秀逸である。このアルバムはまさに、東北の「ロッケンロール」である。ロックのテイストと東北が誇る民謡のテイストがうまく融合し、独自の音世界が形成されている。

 印象的な歌詞も随所に表れている。「とうほぐまづりのテーマ」では、「オラは歌うぞ 皆踊れ/泣ぐ子はいねが 皆踊れ/いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」と歌う。「いづまで生ぎっが わがんねぞ/明日ポックリ行ぐがも わがんねぞ」というのは、東日本大震災をくぐり抜けた多くの東北人の偽らざる実感であろう。そして、「泣いだ人ださ いい事いっぺ来い/よいしょよいしょど いい事/引ぱらて 来い来い来い」と歌う。これこそ、白崎映美の東北に対する切なる願いなのであろう。

 このアルバムの白眉は、アルバムのタイトルともなっている「まづろわぬ民」である。「まづろわぬ民」とは、「イサの氾濫」でも触れられているように、まさに蝦夷そのもののことである。この曲で白崎映美はこう歌う。

「ぎらぎらの目ン玉ど/真赤だ心臓ど/ほどばしる力ど/ほほえみど/リンゴのほっぺど/寒さに強い体ど/あったこハートを持ぢ/多ぐ語らず 恥ずかしがりやで/気持ぢの優しい民だ/抑え切れない この衝動は/確かにあなた方の 末裔だ」。

 ここでは、白崎映美の思い描く「蝦夷」が独特の表現で描かれている。そしてさらに、「山漕ぎ 野漕いで/自由に生ぎる/オラ方の先祖は/まづろわぬ民だ」と歌い、東北人の「原点」として「まづろわぬ民」があることが強く主張されている。

 白崎映美はこのアルバムのMCで「まづろわぬ民」についてこう語る。

「東北は昔から、暗くて寒ぐで、景気も悪ぐで、そごさ、東北大震災、んで原発事故、オラ、悔しぐで、頭さ来で、東北人は、もっと叫んでもいいあんねが、でっけぇ声出していいあんねが、東北さ、いい事いっぺ、来い来い来ーいど思って、東北まづりオールスターズを、つぐりました。震災の後、オラはずっともやもやど、考えでました。そん時に、『イサの氾濫』っていう小説に巡り合いました。そごさは、『まづろわぬ民』と書いであった。昔オラがたの祖先は、蝦夷って呼ばれで、中央がら、西がら攻められだ。んだげんども、オラがたは支配されない、迎合しない民って呼ばれでだ。んでオラは、よし、んだ、今こそ、オラがだはでっけぇ声で立ぢ上がっ時だど思って、この歌をつぐりましだ」。

 木村友祐の「叫び」と共通する「叫び」がここにはある。この2つの「叫び」が出会い、共鳴し合ったのである。当の木村友祐は「イサの氾濫」のあとがきでこう書いている。

「発表から四年半。書籍化の予定もなく、そのまま埋もれるはずだった『イサの氾濫』がこうして本としてかたちになったのは、何といっても、上々颱風のヴォーカリスト、白崎映美さんのおかげである。白崎さんは『イサの氾濫』を読んだことをきっかけに、『東北6県ろ〜るショー!!』という東北を叫ぶ祝祭性あふれるバンドを結成した。そしてライブのたびに『イサの氾濫』のことを観客に伝え、ぼくをステージに上げて朗読までさせてくださった。筋金入りの東北思いの彼女との出会いがなければ、この本はできなかった」。

 また、「まづろわぬ民」のライナーノーツでもこう書いている。

「震災で甚大な被害をこうむっても物言わぬ東北人には、歴史的に負ってきた悔しさがあるのではないか。その悔しさ、怒りを、かつて大和朝廷の侵略に抵抗して『まつろわぬ民』とよばれた古代東北の人々、蝦夷のように荒々しく解放してもいいのではないか。『イサの氾濫』は、そのような観点から書かれた小説だ。白崎さんはそれをきっかけに『東北まづり』を立ち上げたと言ってくれる。作者としては光栄の極みだけれど、彼女の東北への思いは震災前からもともとあったものだ。その一貫した揺るぎなさと深い想いに、むしろぼくのほうが大きな示唆を受けている」。

「東北よ、東北人よ、叫べ!」
 小説と音楽。ジャンルは違えど、お互いに影響し合って東北の眠りを呼び覚ますような動きへとつながっていっているのは非常に興味深い。唯一残念なのは、「白崎映美&東北6県ろ〜るショー!!」のライブが今年は今のところ首都圏と沖縄のみで開催予定であることである。もちろん、それはそれで東北の思いを他地域、特に首都圏で伝えるという意味で意義のあることではあるが、ぜひこの東北でもその思いの丈を存分に発散してほしいと思うのである。

 「イサの氾濫」の最後で、東北人にも東京人にもなり切れていないと感じていた将司に対して、イサはこう語る。 「おめは、生ぎでいいのせ。ニセモノだの、空っぽだの、役立だずだの、そんなものぁどんでもいい。人の目なんが知るが。反省もすな。身勝手でもなんでも、イヤなものはイヤど、思いっきり、叫べ、叫べ」。

 木村友祐と白崎映美、二人の思いはまさにこの言葉に尽きるのだろう。曰く、「東北よ、もっと叫べ!東北人よ、もっと叫べ!」我らの先祖が命を懸けて必死に守ろうとした何かに、すっかり飼い馴らされて野性味を失ってしまったようにも見える今の東北人は思いを馳せるべき時なのかもしれない。

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2016年05月30日

私的東北論その83〜震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 4月16日に発行された「東北復興」第47号では、震災に関する経験知をどう伝えていくかに焦点を当ててみた。経験から学ぶことの大事さは言うまでもないが、それをただ伝えるだけではなく、いかに正しく伝えるかがさらに大事だからである。

 考えてみると、震災前に伝えられていた「経験知」の中には、残念ながら明らかな誤りもあった。誤った経験知は震災発生時の避難行動に悪影響を与える可能性がある。今回の震災発生時にもそうしたことが残念ながらあった。その轍を二度と踏まないためにも、経験知をいかに正しく伝えていくかを考えることはもっと検討されてしかるべきだと考える。この回では、具体例を挙げながら、正しく伝わっていなかった経験知について検証してみた。

 紙面の都合で掲載時にカットした部分も復元した全文が以下である。


震災に関する伝承をどう正しく伝え継いでいくか

一歩間違うと危うい「経験知」
 前号に引き続いて、もう少し震災の話にお付き合いいただきたい。

 今回の震災に限らず、繰り返し地震災害に遭遇している「地震大国」たる日本では、その経験知をどのように後世に伝え継いでいくかが、将来の被害軽減のために大きく問われる。その意味でも、今回の震災から得られた知見はできる限り発信していくべきであるし、個人的にもそうした活動を続けている。

 しかし、こうした経験知を伝え継いでいく際に、厳に心掛けなければならないことがある。それは、正確な情報を伝え継いでいく、ということである。当たり前のことと思われるかもしれない。ところが、意外にそうでないこともあるのである。ある個人が遭遇した体験が、必ずしも広く敷衍できる事例ではないばかりでなく、場合によっては同様の地震に遭遇した際に判断の誤りにつながる恐れがあることすらあるのである。


「津波の前には引き潮がある」
 例を挙げれば、今回の震災でも聞かれた「津波の前には引き潮(引き波)がある」というのがまずそれである。中には、「広い範囲で海底が露わになるほどの引き潮があった」という証言もある。今回の津波の規模の大きさを物語る証言ではある。しかし、すべての地域で引き潮が観測されたわけではない。引き潮がなく、突然津波が押し寄せた地域もある。日本気象協会のサイトにも「津波の始まり(第1波)が押し波か引き波かは、津波発生域での断層運動の方向や規模によって異なります。また、津波が到達した場所周辺の海底地形によって変わることもあります」とある。

 したがって、「津波の前には引き波がある」という証言ばかりが「経験知」として広まってしまうと、「引き潮がないから津波は来ない」、という間違った判断を下してしまうことにつながりかねないのである。実際、残念ながら、今回の震災でも引き潮がないということで避難が遅れ、そこを津波に襲われて亡くなった人は多くいた。


「仙台平野に津波は来ない」
 他にもある。「仙台平野に津波は来ない」。これは、実は私もそう聞かされて信じ込んでいた。津波に繰り返し襲われた経験のあるのは三陸沿岸、仙台平野には津波が来ない、と。ちょっと歴史を紐解いてみれば、今回の地震と同規模と言われる1100年前の貞観地震まで遡ることもなく、400年前の1611年、伊達政宗の時代の慶長三陸地震の際にも仙台は大津波に襲われている。1793年の寛政地震でも、1835年の天保年間の地震でも、仙台平野は津波に見舞われたとされる。しかし、いつの間にか、その後わずか200年足らずの間、津波に襲われなかったという「経験」が「仙台平野に津波は来ない」という誤った経験知を広めてしまったわけである。

 仙台市若林区には浪分(なみわけ)神社という神社がある。神社が立つ場所は慶長三陸地震の際に、津波が到達したところと到達しなかったところの分かれ目であったと伝えられている。しかし、震災前にはそうした伝承も地域の中で周知されてはいなかった。どんな経験知も伝えられていなければ意味がない。

 一方、岩手県の沿岸宮古市の重茂姉吉地区には「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と書かれた碑があった。この地域の住民はその碑に書かれたことを守り、今回の震災でも難を逃れた。そのような事例もあるのである。


「大きな地震の時には津波が来る」
 そもそも、「大きな地震の時には津波が来る」という経験知自体、誤りである。1896年の明治三陸地震は最大震度が4という地震だったが、特に岩手県の三陸沿岸は今回の震災に匹敵する大津波に襲われた。これら岩手県三陸沿岸地域の震度は、2〜3だったとのことである。つまり、体感的に大きな地震でなくても、津波に襲われる危険はあるのである。

 明治三陸地震による津波で被害が拡大したのは、地震発生が夜間だったということもある。地震発生は19時32分、津波の第一波の到達は早いところでその約30分後の20時7分だった。夜間、震度2や3の地震に遭遇したとして津波の危険に思い至る人はそう多くなかったと思われる。この地震で亡くなった人の数は21,959人(行方不明者含む)で、我が国で記録が残る地震の中で最も多かった。

 幸い、現在多くの携帯電話では、緊急地震速報に加えて、津波警報も受信できる。しかし、圏外だったり、電源が入っていなかったり、対応機種でなかったりということもありうる。加えて、そもそも警報が間に合わないこともある。過信しないことが重要である。

 今回の地震では、地震発生から津波の第一波到達まで最短でも15分程度の余裕があった。しかし、1983年の日本海中部地震では(ここでも「日本海には津波は来ない」という誤った経験知があった)、地震発生からわずか7分後に津波の第一波が観測されている。気象台が津波警報を発令したのは地震発生から14分後で、その時には既にいくつかの地域で津波に襲われていた。1993年の北海道南西沖地震では、第一波到達は何と、地震発生から2、3分後である。どんな地震であっても、地震発生後の情報収集は必須であるが、海沿いで地震に遭遇したら、情報収集をするより先にまず海岸からなるべく離れる、ということを徹底するべきである。


「30年に一度宮城県沖地震が起こる」
 「30年に一度宮城県沖地震が起こる」という経験知も、実は危うい。近年では、38年前の1978年に宮城県沖地震が発生し、28名の人が亡くなった。他の震源域と連動して未曽有の巨大地震となってしまったが、今回の震災を引き起した地震も宮城県沖地震の一つと数えられている。

 この宮城県沖地震の平均発生間隔は38年で、概ね25〜40年に1回発生するとされているが、個々の地震を見てみると、必ずしもそこまで間隔が空いていないのである。例えば、1933年の次は1936年、1937年に発生し、1978年と2011年の間に、2005年の地震もあった。震源の深さの違いから「宮城県沖地震」には加えられていないが、2003年にも宮城県沖を震源とする大きな地震があった。震災後、「これほどの地震が起きたのだから、しばらく東北沿岸に大きな地震は来ない」という見方もあるが、このように見ると「次に起こるのは30年先」と思い込むことは実に危険であることが分かる。

 加えて、直下型地震への備えも必要である。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、地震発生直前の30年確率は0.02%〜8%であった。発生確率からするとそれほど大きくない。にも関わらず、実際に起こった。阪神・淡路大震災を見てもよく分かるように、直下型地震の場合はまた東日本大震災とは全く違う被害が生じる。例えば、仙台市街地の直下にある「長町−利府断層帯」による地震の発生確率は、「30年以内で1%以下」とされているが、ゆめゆめ油断しないようにしておきたい。


「津波てんでんこ」
 今回の震災でクローズアップされた言葉に、「津波てんでんこ(命てんでんこ)」がある。この言葉についても誤った認識が広まっていることに憂慮の念を覚える。

 「てんでんこ」というのは三陸地域で、「各自」や「めいめい」を意味する言葉である。文字通りの意味は、「津波てんでんこ」は「津波が来たら各自で逃げろ」、「命てんでんこ」は「命は各自で守れ」という意味である。

 実際、この言葉通り、地震発生と同時に各自が避難を開始し、津波の難を逃れた事例が三陸の地域には多くあった。最も有名なのは、「釜石の奇跡」と報じられた釜石市内の小中学生の避難の事例である(当事者の方々は「奇跡」と呼ばれることを嫌うが)。釜石市内では残念ながら5名の小中学生が命を落としたが、残る2,926人の小中学生は助かった。釜石市内の小中学校では、地震の後、皆それぞれ、教師の指示を待たずに自主的に避難所まで避難したのである。

 しかし、今の「てんでんこ」に関する報じられ方は、この「各自で逃げる」ところだけに焦点が当たり過ぎている。その結果、「家族や災害弱者を置いて逃げることを正当化するのか」といった批判が起きたりする。これは、この「てんでんこ」という言葉の極めて狭い一面のみを見ているのである。

 今報じられている「津波てんでんこ」「命てんでんこ」は、いざ地震が起きた際のアクションばかりがクローズアップされているが、実はこの言葉の意味するところで最も重要なのは、平時のアクションの方なのである。端的に言えば、いざという時にめいめいが自分のことだけを心配して逃げればいいように、普段から非常時のアクションについて話し合い、その通りに行動するように申し合わせておくということがベースにあるのである。

 これによって、いざという時には家族、知人も同じように避難していると考えて、自分の身を守ることだけに専念できる態勢になれる。いわば、日常からの相互の信頼関係があってこその「てんでんこ」なのである。

 にも関わらず、マスメディアの論調の中でも「津波てんでんこ」が利己的、自己中心的であるかのような報じられ方がしたり、あまつさえ個人のブログの中には、「家族すら見殺しにする人間に生きてる資格はない」などと、「てんでんこ」で逃げて助かった人を罵倒するようなものすら見受けられる。「てんでんこ」の本質を知らない、全く的外れな認識だと言わざるを得ない。

 実際、釜石市内の中学生は「自分より弱い立場にある小学生や高齢者を連れて逃げるんだ」と教えられていて、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と声を出しながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続けたのである。

 ウェザーニューズの「東日本大震災 津波調査(調査結果)」には、一旦避難場所に逃れながら、再度危険な場所に戻ったことによって亡くなった人が、避難したにも関わらず亡くなった人のうちの60%を占めたとある。そして、戻った理由で圧倒的に多かったのが「家族を探しに」であった。こうしたことは、いざという時にどうするかについて普段から話し合っていれば、かなりの割合で防げたのではないだろうか。

 高齢者や災害弱者も含めて、いざという時にどのように避難するかについて、普段から綿密に検討し、かつ訓練を繰り返して無理がないかをチェックし、改善する、という取り組みが不可欠なのである。


次の災害の被害減少に役立つ発信を
 このように、震災における「経験知」については、もちろん震災に遭遇した一人ひとりの貴重な体験に基づいているものではあるものの、その伝え方、伝わり方によっては、本来の意味と異なってしまったり、誤った判断につながったり、そもそも伝わっていなかったりということがある。

 震災体験に基づく「経験知」については、こうしたことに十二分に留意しつつ、次の災害時に被害の減少に役立つような情報として発信していくことを心掛けていきたいものである。


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2016年05月26日

私的東北論その82〜「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 3月16日発行の「東北復興」第46号では、昨年仙台で開催された第3回国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」について取り上げた。2030年までの今後15年間の防災に関する行動指針となるものだが、せっかく仙台で開催されたにも関わらず、地元でもその内容を知っている人は少ないように見える。今後の防災を考える上で重要な視点を提示してくれているので、ぜひ多くの人に目を通していただきたいものである。

 以下がその時寄稿した記事の全文である。


「仙台防災枠組」を踏まえた防災対策を

5回目の「3・11」
 「3・11」と呼ばれるようになって5回目の3月11日がやってきた。「3・11」の前後は毎年、震災に関する新聞記事、特別番組、関連イベントが増える。それはそれで、震災への関心を喚起し、防災に対する意識を高める効果はあると言えるが、当然のことながら震災やそれを含む自然災害についてはこの日にだけ考えればそれで済むものではなく、年間を通して継続して考え、アクションを起こしていくことが重要である。

 後で紹介する「仙台防災枠組2015-2030」で指摘されているが、世界ではこの10年間に、災害の発生によって、70万人以上が死亡し、140万人以上が負傷し、約2,300万人が住む家を失い、15億人以上の人々がさまざまな形で災害の影響を受けた。経済的損失は合計で1兆3千億ドル以上にも上ったという。自然災害に対する防災・減災は不断の努力が必要である。東日本大震災を経験した私たちはとりわけ、その経験を踏まえた防災・減災対策について引き続き考えていく必要がある。

「仙台防災枠組2015-2030」の採択
 そうした中で昨年、ひと際重要なイベントが昨年4月、仙台市内で開催された。第3回国連防災世界会議である。本体会議に世界187カ国から6,500名超の関係者が、パブリック・フォーラムには行政、研究者だけでなく一般市民も多数足を運び、実に延べ15万人超の参加者が集った。参加国数やその各国の参加者数はもちろん、全体での参加者数が15万人にも上ったというのは、日本で開催された国連関係の国際会議の中でも史上最大級とのことである。このことは、「防災に対する国際社会の政治的なコミットメントを得て,防災の主流化を進める上で,大きな成果となった」と評価されている。特筆したいのは市民参加の多さで、未曽有の震災体験を踏まえ、防災に対する並々ならぬ意識の高さが窺える。

 この会議では「仙台防災枠組2015-2030」が採択された。国連防災世界会議は過去3回、いずれも日本で開催された。1994年に第1回会議が横浜で行われ、初の国際的な防災・減災の指針となる「より安全な世界に向けての横浜戦略」が策定された。第2回は阪神淡路大震災を経験した神戸で2005年に開催された。この時はさらに具体的な指針として「兵庫行動枠組2005-2015」が採択され、2015年までの10年間に防災・減災に関して各国が達成すべき目標と重点行動が設定された。

 第3回の仙台での会議ではこの「兵庫行動枠組2005-2015」をさらに発展させて、今後2030年までの15年間、各国の行動の指針となるもので、期待される成果とゴール、7つの「グローバルターゲット」、13の「指導原則」、4つの「優先行動」が設定された。

 期待される成果は、今後15年間で「人命・暮らし・健康と、個人・企業・コミュニティ・国の経済的・物理的・社会的・文化的・環境的資産に対する災害リスク及び損失を大幅に削減する」ことで、 この成果を実現させるためのゴールは「ハザードへの暴露と災害に対する脆弱性を予防・削減し、応急対応及び復旧への備えを強化し、もって強靭性を強化する、統合されかつ包摂的な、経済的・構造的・法律的・社会的・健康的・文化的・教育的・環境的・技術的・政治的・制度的な施策を通じて、新たな災害リスクを防止し、既存の災害リスクを削減する」こととされている。

 そしてその進捗状況の評価のために、「災害による死亡者数の2020年から2030年の平均値を2005年から2015年までの平均値に比して低くする」など7つの「グローバルターゲット」を設定し、また、枠組の実施に当たっての基本的な考え方を、「各国は災害リスクを防止し、削減する第一義的な責任を有する」など13にまとめて示している。

 4つの「優先行動」は、〆匈殴螢好の理解、∈匈殴螢好を管理する災害リスク・ガバナンスの強化、6靱性のための災害リスク削減への投資、じ果的な災害対応への備えの向上と、復旧・復興過程における「より良い復興(Build Back Better)」 で、そのそれぞれについて「国家レベル及び地方レベル」、「世界レベル及び地域レベル」での具体的な行動が示されている。

仙台・東北こそ「枠組」に基づいた対策を
 重要なのは、こうした各国の防災・減災に向けての行動指針に「仙台」の名が冠されていることである。既に参加国の中にはこの枠組に基づいて自国の防災・減災計画を策定する動きも出ているという。そうした国々の中には、この枠組にある「仙台」に対して関心を持つ人も出てくるに違いない。さらにその中には、実際にこの枠組が採択された仙台に実際に足を運んでみる人もいるに違いない。そうした時に採択された仙台を含む、震災からの復興を目指す東北で、この「仙台防災枠組」が知られていない、あるいは活用されていないという状況があったとしたら、かなり失望されるのではないだろうか。開催地、そして開催地のある地域として、私たちは、他の地域よりもさらにこの「仙台防災枠組2015-2030」に関して理解を深め、実際に行動に移していく責務があると思うのである。

 とは言え、外務省にある「仙台防災枠組2015-2030」の和訳、しかも仮訳を読んでも、それが行政レベルではともかく、私たち市民レベルでどう落とし込んでいけるのかという点については、必ずしも明確に記載されているとは言えない。「后ゥ好董璽ホルダーの役割」のところにわずかに記載があるくらいである。

「市民向け解説冊子」の発行
 と思っていたところに、実に素晴らしい冊子を防災・減災日本CSO-ネットワークが作成してくれた。「仙台防災枠組2015-2030」の市民向け解説冊子である。3月12日から配布を始めており、国連防災世界会議開催から1年になるのを機に仙台市内で開催された仙台防災未来フォーラム会場でも来場者に配布された他、みやぎ連携復興センター国際協力NGOセンターでも希望者に無料で配布している。また、PDF版は同ネットワークのサイトからダウンロードできる。

 A5判40ページの分量で、「仙台防災枠組2015-2030」にある、世界各国で今後2030年を目標に実践される防災・減災への取り組みについて、「市民としてどのように行動すべきか」に重点を置いて分かりやすく解説している。とりわけ、先ほど挙げた4つの「優先行動」について、それぞれ市民レベルで何ができるかを示した「市民の行動まとめ」が付されており、大いに参考になる。ぜひご一読をお薦めしたい。

 市民レベルという点で言えば、この解説冊子が配布された仙台防災未来フォーラムも実に有意義な企画であった。仙台および東北で復興や防災・減災に取り組んできた市民、行政、研究者などが一堂に会し、それぞれの活動事例を発表し合って情報交換・共有を図ると共に、国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」を踏まえて今後の活動の方向性や課題解決に向けた方策を検討するという内容であった。今回も行政関係者や研究者だけでなく、市民の参加も多く、依然防災に対する意識の高さが表れているように思った。できればこうした企画を今回限りのものにせず、年に一回程度開催して、市民が参加できて防災・減災について考える場を確保すると共に、そこで得られた知見を内外に発信するということを継続して行っていくことが重要なのではないだろうか。

国だけでなく個人も「レジリエンス」を
 仙台での国連防災世界会議では、災害に対する「レジリエンス」の強化を急ぐという決意も示された。「レジリエンス」というのは元々は物理学の用語で「外力による歪みを跳ね返す力」という意味であるが、災害関連では「回復力」の意味で使われる。つまり、「システムおよびその構成部分が重大なショックによる影響を適時かつ効率的に予測し、吸収し、対応し、あるいはそこから回復することが可能であること」である。

 なお、政府はレジリエンスを「強靭化」「強靭性」という意味で使っている。震災後に制定された国土強靭化基本法は、「必要な事前防災及び減災その他迅速な復旧復興に資する施策を総合的かつ計画的に実施する」ことを目的に制定されているが、これは災害に対するレジリエンスの強化を目的としたものである。

 ところでこの「レジリエンス」、心理学の分野では「しなやかで折れない心」「逆境から立ち直る力」といった精神的な回復力の意味で使われている。考えてみれば、災害からの復興には社会システムのレジリエンスももちろん必要であるが、それ以上に個人レベルでのこの心理学で言うところのレジリエンスが求められるのではないだろうか。なんとなればその社会を構成するのは紛れもなく、一人ひとりの個人だからである。

 ハードの整備から心のケアへと震災復興における重点事項もその軸足を少しずつ移しつつあるように見える。その重要なキーワードとしてレジリエンスはあるのではないかと思う。

 繰り返し自然災害に襲われ、その度に立ち上がってきた私たちの先人たちはきっと、強いレジリエンスを持っていたに違いない。震災発生から5年目を迎え、今度レジリエンスを発揮するのは私たちの番である。


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2016年05月20日

私的東北論その81〜東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 2月16日発行の「東北復興」第45号では、東北とイギリスのウェールズに共通するものについて考えてみた。イギリスの中で言うと、地方分権絡みではスコットランドに注目が集まるが、実はウェールズは東北にとってとてもシンパシーの感じられる国だということが分かる。

 以下がその全文である。


東北の来し方行く末をウェールズに学ぶ

4つの国からなる「イギリス」
 我々が「イギリス」と呼ぶ国は、正式にはグレートブリテン及び北アイルランド連合王国と言う。連合王国と言う通り、ロンドンを抱えるイングランドの他にスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4か国で構成される国である。サッカーやラグビーのワールドカップなどではこれら4か国が別々に出場するので、ユニオンジャックとは異なるそれぞれの国の国旗を見る機会も多い。

 よく東京の一極集中が指摘される日本から見ると、「イギリス」を構成する4か国はそれぞれが一つの国ということで日本よりもはるかに分権が進んでいるように見える。実際、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドには議会が設置され、制限はあるものの立法権を持っている。

 国内で地方分権の拡大、地方自治の拡大を推進しようとする人の間ではその中でもとりわけ、スコットランドの取り組みに注目が集まることが多い。2014年のスコットランド独立住民投票は世界的にも大きな注目を集めたが、分離独立までは考えていなくても、スコットランドにおける自治権拡大に向けた動きは、わが国で中央集権国家から地方分権国家へ移行させようとする、主に地方にいる人たちにとっても参考になるものと映る。実際、北海道などは平成15年にスコットランドを視察し、その結果を「スコットランドの分権改革に関する調査研究報告書」という詳細な報告書にまとめている。

東北はスコットランドではなくウェールズ
 さて、私には東北の主だった都市、それは県庁所在地に限らず地方都市も含むが、だいたいよく行く飲み屋がある。大抵は美味しいビールが飲める店で、それらは拙ブログでも紹介しているが、先日山形市の行きつけの店の一つで飲んでいたところ、かつてその店で意気投合した佐藤 明氏と数年ぶりに再会した。佐藤氏は、好きなアーチストがたくさんいるという理由から、ウェールズに造詣が深かった。

 その佐藤氏が言うには、「東北はスコットランドではなくウェールズではないか」ということであった。独立を求める住民投票を実施するようなあのスコットランドの押し出しの強さは、我らが東北ではなく、むしろ関西に通ずるのではないか、とも言った。なるほど、確かに、世間の注目を集め、一気呵成に物事を進めていく様は、前・大阪市長の橋下 徹氏のイメージとも重なる気がする。

 ただ、正直なところ、私はウェールズについて明確なイメージを持ち合わせていなかった。せいぜい首都がカーディフであることと、イギリス皇太子が「プリンス・オブ・ウェールズ」と称されることと、あとはアーサー王伝説くらいである。しかし、考えようによっては、そのように、世界の耳目を集めるスコットランドと比べても明確なイメージがあまり湧かない慎ましやかなウェールズは、何か我らが東北に相通じるものがあるようにも思える。

ウェールズと東北に共通するもの
 そこで遅まきながらウェールズについて調べてみた。調べてみると、東北と共通するような事柄がけっこうあることに気づく。国土の面積は20,716屬如日本で言うと四国4県に東京都と合わせたほどの大きさである。人口は2011年の統計で約306万人である。その年のイギリス全体の人口は約6,318万人なので、ウェールズの人口はその約4.8%でそれほど多くないわけである。

 ちなみに、2015年現在の東北六県の人口は約897万人で、日本全体の人口は1億2,688万人であるから、東北人の占める割合は約7.1%である。まあ、ウェールズも東北もどちらも「少数民族」ではある。

 東北人から見て最も共感できそうなのはそのルーツである。ウェールズ人のルーツは、ノルマン人やサクソン人が侵略してくる前からブリテン島に住んでいたケルト系のブリトン人である。ウェールズは古代から度々ブリトン人の後にブリテン島に渡ってきたノルマン人やサクソン人の侵攻を受けてきた。ウェールズはその都度強硬に抵抗し続ける。ウェールズに侵攻してきたサクソン人を撃退したというブリトン人の王、アーサー王は、東北で言えば蝦夷のリーダーだった阿弖流為(アテルイ)か安倍貞任に比せられるかもしれない。

 しかし、こうした抵抗もついにその終焉を迎え、1282年、ルーワリン最後王がエドワード一世に敗れて討ち死にし、ウェールズはイングランドの支配下に置かれるのである。この辺り、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の話を彷彿とさせるものがある。ただ、すごいのは、イングランド支配下に組み込まれてもウェールズはその独立性を失わず、決してイングランド人に同化されることはなく、むしろこの地に進出してきたイングランド人が逆にウェールズ人化していったということである。

 そうしたこともあって、ウェールズには、ウェールズ人独自の文化が今も色濃く残っているそうである。キリスト教伝来のはるか前から、ウェールズにはドルイド僧を中心とする宗教があり、自然物のなかに霊魂が宿ることや輪廻転生があることなどが信じられていたという。この辺りは万物に神が宿るという日本の神道や、因果応報によって輪廻転生があるという仏教の思想に近いものが感じられる。

 言葉に関して最も親近感を覚えたのはそもそもの「ウェールズ」という言葉である。「ウェールズ」とは、ウェールズを征服したサクソン人の言葉「ウェリース」が元で、その意味は「よそ者」だそうである。ここはまさに大和朝廷に「蝦夷」と呼ばれ蔑まれた東北にそっくりである。ちなみに、ウェールズ語ではウェールズのことは「カムリ」と言うそうで、これは「同胞・仲間」という意味だそうである。

 もう一つ、ウェールズでは古代から「ウォルシュ・ゴールド」と称される金が産出した。今では底をついてしまったそうだが、今もあるウォルシュ・ゴールドはプラチナよりも希少価値が高いとされているそうである。これも古代中世における一大産金地であった東北と共通する点である。

東北に住む者みな蝦夷
 先に触れたように、今の東北地方に住む人はかつて蝦夷と呼ばれた。よく議論されることに、蝦夷はアイヌ民族と同じか否かというものがある。それについての結論はまだ出ていないが、個人的には、イコールではないものの、蝦夷の中には後にアイヌ民族と呼ばれることになる一群もいたのだろうと思う。しかし、それだけではなく、いわゆる大和民族もいたはずである。稲作の遺跡が東北の北端、青森県内でも見つかっていることから、渡来系の弥生人が東北まで北上して定住していたことは疑い得ない。一方で、アイヌ語で説明できる地名が東北には数多く残っていることから、アイヌ民族と同族がいたか、あるいはアイヌ民族そのものが南下してきたかして、そうした一族がいたことも確実である。要は、そうした多様な民族が当時の東北にはいて、それらの人が後に朝廷から征服する対象として十把一絡げに蝦夷と呼ばれたというのが真相ではなかったかと思うのである。

 すなわち、蝦夷というのはある特定の民族のことを指すのではない。まさに、東北に住み、東北の人間であることを自覚する人が蝦夷なのである。この辺り、ウェールズに進出してきたイングランド人さえもウェールズ人化させていったというウェールズとも通ずるものがあるように思う。戦乱に明け暮れた、そしてそれはほとんどすべて外から攻められたことによる戦乱だが、そうした東北に百年の平和をもたらした奥州藤原氏は、元をたどれば京の摂関家の藤原氏に連なる一族である。だが、その初代清衡は自らを、本紙第41号でも紹介したが、中尊寺供養願文の中で「東夷の遠酋」(東の果ての蝦夷集団を束ねる遠い昔からの酋長の家柄に属する者)、「俘囚の上頭」(朝廷に服属する蝦夷集団の頭領)と称した。奥州藤原氏の全盛期を築いた三代秀衡さえも、京の摂関家藤原氏の九条兼実から「奥州の夷狄(未開の蛮人)」と呼ばれている。自他ともに認める蝦夷だったわけである。

蝦夷の末裔であることを誇りに思おう
 沖縄の人は自分たちのことを「うちなーんちゅ」、九州以北の人のことを「やまとんちゅ」と呼ぶが、「やまとんちゅ」とは「大和人」ということなので、住む人がその大和人に蝦夷と呼ばれた地である東北にいる身からすると、「やまとんちゅ」と言われることにはちょっと違和感を覚えたりする。この辺りは、ウェールズ人が自らをイングランド人とは全く別と考えていることに少し通ずるところがあるかもしれない。

 思えば、奥州藤原氏はそうした「やまとんちゅ」に対する蝦夷からの強烈な自己主張だった。中尊寺供養願文の「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」という言葉、これは従来、清衡が自分の立場を卑下して「中央」の天皇家、摂関家を立てるためのへりくだった表現だと言われてきたけれども、実はそうではなかったのではないかと思う。清衡は誇りを持って自らのことを「東夷の遠酋」、「俘囚の上頭」と称していたのではないかと思うのである。清衡はここで自分を、朝廷の支配する地域とは異なる国のリーダーであることを高らかに宣言したのではないだろうか。これまた第41号で書いたが、奥州藤原氏は、天皇家の祭神の伊勢、摂関家藤原氏の祭神の春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神の八幡、蝦夷征伐の神の鹿島・香取などは一切平泉に入れなかった。奥州藤原氏は摂関家藤原氏に連なるその立場よりも、蝦夷のリーダーとしての立場を取ったのである。

 そうそう、蝦夷とは元々は強い者、荒ぶる者を指し、それがやがて朝廷に従わない者、朝廷の文化とは異なった文化を持つ者を指すようになったという説がある。とすれば、それはむしろ東北に住む人間にとっては褒め言葉とも言えるのではないだろうか。その蝦夷の末裔であることを、今東北に住む一人として誇りに思いたい。過去を受け継ぐ者が今どうあるか、ウェールズには今後さらに学びたいものである。


anagma5 at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!