東北のオススメスポット  

2019年02月20日

ようこそ「せんカフェ」へ(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その114

せんカフェフライヤー 1月16日に発行された「東北復興」第80号では、昨年4月に始めた「せんカフェ」のことについて紹介させていただいた。左がそのフライヤーである。そこに書いてある通り、毎月1回、第3火曜日の夜7時から仙台市中心部の「エル・パーク仙台」の5階「創作アトリエ」&「食のアトリエ」が会場のカフェスペースである。

 それにしてもこの「東北復興」紙もついに80号である。編集長の砂越さんには心から敬意を表したい。












ようこそ「せんカフェ」へ

食べ物と「想い」を持ち寄るカフェ
 昨年4月から「せんカフェ」を始めた。毎月第3火曜日の午後7時から、仙台市の中心部、一番町にある公共施設、エル・パーク仙台が会場である。参加する人には、食べ物一品と自分の「想い」を持ち寄ってもらう。こちらからは飲み物を提供し、ソフトドリンクのみの人は500円、アルコール類も飲む人は1,500円を会費として支払ってもらう。医療や介護の資格のあるなし、病気や障害のあるなし、老若男女問わず、いろんな人が「ごちゃまぜ」で自分たちの地域の医療や福祉やまちづくりなどについて自由に語らう集いの場である。今回はこの「せんカフェ」について紹介したい。

「地域連携」の変遷
 私が仕事で担当している雑誌は、医療側から見た地域連携がテーマである。一昔前まで、医療は多くの場合、一病院完結型で提供されていた。つまり、入院して治療してリハビリして完治して退院、という流れだった。しかし、どこの病院もそのような体制だと、効率が悪い。それで、地域にあるそれぞれの病院が自院の強みを活かして急性期や回復期、慢性期などの医療をそれぞれ担い、連携して医療を提供する、地域完結型の医療が進められるようになった。日常の医療はまず地域のかかりつけ医となっている診療所で行い、生命の危機に関わる疾病を発症した場合はそこから紹介されて急性期の病院に入院、生命の危機を脱した後は回復期の病院に移ってリハビリなどを進め、さらに療養が必要な患者は慢性期の病院に移る、といった流れに変わった。

 そこで必要になったのが、病院内で対外的な調整を行うための部署で、それが地域連携室、医療連携室、といった名称の部署だった。そのようなわけで病院の中では比較的新しい部署だが、その連携室がまず手掛けたのは地域で患者のかかりつけ医となっている診療所との連携だった。「病診連携」と言われる。病診連携がある程度出来上がってくると、次の課題は機能の異なる病院同士の連携だった。急性期を脱した患者が円滑に次の医療を担う病院に移れるための「病病連携」である。医療の連携が密になっても、それだけでは患者の問題は解決しない。高齢化に伴い、介護が必要な患者も増加し、介護事業者との連携も必要になった。そこで「医療介護連携」のための取り組みが進んだ。

 どのようにして連携を密にしていくか、まず顔を合わせる機会をつくることが有効である。そのようなわけで、全国各地に医療職同士や医療職と介護職が交流できる場ができた。それによって医療や介護の連携は大いに進んだし、それによって医療や介護が必要な人にとっても大いにメリットがあったに違いない。

 病診連携、病病連携、医療介護連携と進んできた連携は現在、もう一ステップ先に行きつつある。医療や介護の専門職ではない、地域の様々な構成員、例えば地元の自治会、民生委員、商工会、学校などと連携する必要性が指摘されるようになってきたのである。本来の意味での「地域連携」とも言えるが、従来の連携と明確に区別するためにこうした専門職同士に依らない連携を「社会連携」と呼ぶ研究者もいる。

 ともあれ、医療同士から医療と介護へと進んだ連携は、今や医療や介護領域に限らない地域全体との連携へと駒を進めつつあるわけである。「せんカフェ」もそうした流れの中で捉えることが可能である。

「せんカフェ」の「言い出しっぺ」のこと
 さて、「せんカフェ」の「言い出しっぺ」は、実は私ではない。地域包括支援センターに勤める介護支援専門員で、一緒に「せんカフェ」の共同代表を務める荒井裕江女史こそが言い出しっぺである。彼女とは最初、仙台市内で介護職が集まっての飲み会で普通に名刺交換をしたのだが、その後小学校の時に同じクラスにいた人だということに気づいた。また、彼女とは目指す方向性に似通ったところがあった。要は、つながることの重要性、つながれる場をつくることの重要性への認識が共通していたのである。それでそれ以降、医療や介護の関係者が集まれるイベントごとを一緒に企画する機会が多くあった。

 私は先述のように、仕事柄、地域の医療や介護を成り立たせるためには関係者間でお互いの顔が見えるつながりをつくることが重要だと、様々な事例を見聞きする中で強く感じていた。彼女は彼女で、普段の仕事を通して、やはり関係職種がつながることの重要性を実感していたのだろう。

 違うのは、そこからの行動力である。「せんカフェ」にはお手本がある。東京の世田谷でやっている「せたカフェ」である。その情報を、やはり「せたカフェ」をお手本に宮崎の日南市で「にちなんもちよりカフェ」を運営していた宮崎県立日南病院の医師、木佐貫篤氏から聞くや否や、彼女は「せたカフェ」を主宰しているノンフィクションライターの中澤まゆみ氏にコンタクトを取り、実際に「せたカフェ」に参加した。それが、一昨年の9月下旬。実際に見てみて「仙台でも同じ場を作りたい!」と思ったようで、11月初めには「もちよりカフェ、仙台でも開催しない?」と連絡が来た。彼女は、医療介護の壁を超えて、一般の人も気兼ねなく集える会をつくりたい、そこでいろんな人をつなぎたい、と考えたのである。

 私は私で、仕事柄、地域の中での専門職同士のつながる場ができて、実際にそこで得たつながりが医療介護の現場でも活かされていることも見てきた。仙台市内はもとより、東北の各地域でも活発に活動している連携の会も多くある。ただ、先述のように、医療や介護を取り巻く連携が新たな段階を迎えつつある中で地域全体のことを考えた時に、専門職同士がつながるだけでは不十分だとも感じていた。専門職同士の熱意ある取り組みが地域に見えるためには、地域に開かれた場も必要なのではないか、そう考えていたところに、彼女からそのような相談があったので、もろ手を挙げて賛成して一緒にやることになったのである。

 木佐貫氏や中澤氏のことは私もよく存じ上げているし、中澤氏からは「ぜひ一度せたカフェに」、とのお誘いもいただいていたが、日々のバタバタに追われて行けないでいたところに、彼女はあっという間に行動に移して、「仙台にもみんなが気軽に集える場をつくる!」と決意して帰ってきたのである。そのパワーたるや、お見事というほかない。

 彼女は会場もみんなが集まりやすいところがいいということで中心部、少ない予算でやりくりするので公共の施設ということでエル・パーク仙台をリストアップし、出掛けていって会の趣旨を説明して協力を依頼した。そうしたところ、ロッカーやメールボックスが使用できて、会場も一般の貸出開始日よりも前に予約することができる「ロッカー・ワークステーション利用団体」として認定してもらえた。

 また、デザインに強い知り合いにリーフレット作成を依頼し、必要部数を印刷して、仙台市内の公共施設に足を運んで置いてもらえるよう依頼したり、趣旨に賛同して協力してくれそうな人たちに声を掛けて運営に協力してもらえる仲間を募ったりするなど、とにかく周りを巻き込んで精力的に動き回った。その結果、「せたカフェ」の視察からわずか半年後に「せんカフェ」をスタートすることができた。

 私がこだわったことと言えば、毎月決まった日に開催するようにしたいということであった。皆、仕事を持ちながら手弁当での運営となるので、準備の大変さなどを考慮して隔月の開催にした方がという意見もあったのだが、私としては毎月決まった日にそこに来れば必ずみんながいる、という場を作りたかった。隔月の開催だとその月はせんカフェがある月かどうか参加したい人が迷ったりすることも考えられたので、毎月開催という部分は通させていただいた。そして具体的にいつがいいか検討した結果、毎月第3火曜日夜7時からの開催ということになったわけである。

毎月第3火曜日は「せんカフェ」の日
 そのようにして、昨年4月17日(火)に、第1回の「せんカフェ」開催にこぎつけた。会場の定員ぎりぎりの50名の方に参加していただいたが、医療や介護の専門職はもちろん、障害を持った人や家族に障害を持った人がいる人も含めて様々な人に集まっていただけた。「せんカフェ」の最重要のキーワードは「ごちゃまぜ」だと常々荒井女史とは話し合っているので、その意味でもとてもよかった。

 会ではまず、会の趣旨を説明し、参加者に守っていただきたい「3つの約束」を読み上げた後、あらかじめお願いしておいた参加者お一人に「話題提供」をしていただく。参加者一人ひとり、話してみると実に多様なバックグラウンドを持っていることが分かる。その一端を披歴していただくことはとても勉強になる。その意図通り、毎回実に多彩な話題が提供されている。その後、持ち寄った食べ物を食べ、用意した飲み物を飲みながら自由に対話してもらう。グループワークではないので、テーマも定めないし、もちろんどんな話をしたか発表してもらうこともしない。一人ひとりが自由に食べ、飲み、話し、その結果今までつながっていなかった人とつながり、あわよくばそこからまた新たな何かが生まれれば、と考えている。

 第1回から第3回までは毎回定員ぎりぎりの参加があったのでできなかったが、参加者数が40名前後に落ち着いてきた第4回以降は、1人1分以内の自己紹介タイムを設けた。それによって参加しているお互いのことを知ることができればと考えてのことである。第7回以降は、定員自体を40名として、毎回自己紹介タイムを設けている。

 荒井女史は言う。「結局、地域包括ケアシステムにせよ、地域共生社会にせよ、医療介護の専門職だけじゃどうにもできなくて、その地域に住んでいる人が主役、と言うか、当事者のわけだから、その人たちと話をしないと地域は変わらないよね」と。また、「仕事で疲れた時でもフラっと参加出来て、志が一緒の方々に会えたり、繋がる事で力を貰えたり。ホッとした時間を過ごせる会が出来たらいいね」とも。「せんカフェ」は小さな取り組みではあるが、参加してくれる人にとってそのような場であればよいと私も思う。

 「毎月第3火曜日は『せんカフェ』の日」ということが定着するよう、今後も地道に、着実に「せんカフェ」を続けていきたいと考えている。もし関心のある人がいれば、ぜひ第3火曜日夜7時にエル・パーク仙台5階の「創作アトリエ&食のアトリエ」に来ていただければと思う。そこにはいつも、笑顔での対話がたくさんあるはずである。


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2018年12月28日

世界遺産だけじゃない!ならどこへ行く?平泉観光の穴場スポット(「東北復興」紙への寄稿原稿)〜私的東北論その110

 9月16日に刊行された「東北復興」第76号では、平泉観光の穴場スポットについて取り上げた。今年は「東北復興」紙でも、このブログでも、東北の旅行ガイドを請け負っている「LINEトラベル.jp」でも、「平泉は世界遺産だけの町にあらず!」という観点から記事を書いているが、第76号ではその中でも特におススメのスポットについて解説してみた。以下がその全文である。


世界遺産だけじゃない!ならどこへ行く?平泉観光の穴場スポット

 ここの連載でも、自分のブログでも、「平泉は世界遺産だけの町じゃない!」ということを再三に亘って主張している。「ほら、ここにも、ここにもあるよ」と紹介した私の「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」には、現在67箇所ものオススメスポットが記載されている。
 これだけ多いと、「平泉は世界遺産だけの町じゃない!」ということはしっかり示せているとしても、実際にどこに行けばよいのかかえって分かりにくいかもしれない。そこで今回は、その中でも特にオススメの場所を紹介したいと思う。私のオススメは「鎮守社」と「月山」である。

9つある平泉の鎮守社
 鎮守社というのは、その都市を守護する役割を持った神社のことである。通常、国府所在地にしかなかった鎮守社が平泉にあったということは、平泉が国府所在地と同クラスの都市であった証左でもある。その平泉の鎮守社について、鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」には、中央に惣社(そうじゃ)、東方に日吉(ひよし)、白山(はくさん)の両社、南方に祇園(ぎおん)社、王子(おうじ)諸社、西方に北野天神(きたのてんじん)、金峯山(きんぷせん)、北方に今熊野(いまくまの)、稲荷(いなり)等の社があったと記されている。少なくとも平泉には、中央に1つ、東西南北に2つずつ、合計9つの鎮守社があったことが分かる。

 これらの鎮守社があった場所を順に紹介していこう。まず、東方鎮守の日吉社と白山社である。平泉駅を出て二つ目の信号、「毛越寺口」の交差点を右に曲がって県道300号線を300mほど北に行くと、右手に白山妙理堂(はくさんみょうりどう)という古いお堂がある。これがかつての東方の鎮守、日吉社と白山社である。以前はこれら両社が並び立っていたらしいが、現在はその名の通り白山社のみである。周辺の低地はかつてあった「鈴沢の池」という池の跡である。

 続いて、南方鎮守の祇園社と王子諸社である。平泉駅から白山妙理堂に向かった「毛越寺口」交差点を逆に左に曲がって県道300号線を南に1.2kmほど行くと、右手に八坂神社(やさかじんじゃ)がある。この八坂神社があるのは平泉町の祇園地区であるが、実は、この八坂神社が明治時代以前までは祇園宮と呼ばれていた、かつての南方の鎮守社、祇園社である。疫病退散の神として信仰されてきたそうである。

 県道300号線を挟んで八坂神社の向かいに細い路地がある。その路地を80mほど進むと、左手に「王子社跡」という案内板がある。現在はただ小さな祠が2つ残っているだけですが、ここがかつての王子諸社である。2つの祠のうち、大きめの方の祠には木製の神像が祀られているのが外からも見える。

 西方鎮守の北野天神には、平泉駅を背に真っすぐ、毛越寺に向かう県道31号線を行く。毛越寺を通り過ぎて、上を東北自動車道が走るガードをくぐって160mほど行った、駅からだと1.3kmくらい来たところにあるT字路を右に曲がる。そこから300mほど登り坂の道を行くと、正面に長い階段が見えてくる。ここがかつての西方の鎮守社、北野天神社である。歩いて1分弱ほど階段を登っていくと、社殿がある。

 もう一つの金峯山については、世界遺産の一つである金鶏山が金峰山になぞらえていたようである。その山麓に金峯山社があったとされているが、それが平泉文化遺産センターの南側にある花立廃寺跡だと言われている。県道31号線を毛越寺の手前にある観自在王院の角を右に曲がって650mほど坂を登っていくと平泉文化遺産センターがあるが、センターの南側に芝生の公園があって、その一画に石で建物跡が示された花立廃寺跡がある。

 北方鎮守については、この平泉文化遺産センターの向かいに熊野三社という神社がある。これがかつての北方の鎮守社、今熊野社である。かつては今熊野社に加え、子守社と勝手社という末社もあったそうであるが、それらが合祀されて現在の熊野三社となった。

 もう一つの稲荷社だが、実は場所が特定されていない。どこにあったのか話題になることもないようだが、江戸時代の文書などを調べてみると、隆蔵寺というお寺が別当を務める西方鎮守の稲荷社が確かに存在していたことが分かる。ただ、その隆蔵寺は明治になって火災で焼失してしまっている。恐らくその時に、近くにあった稲荷社も一緒に失われてしまったものと考えられる。

 この隆蔵寺のあった場所は分かっている。先ほど北野天神に行ったT字路のもう一つ手前のT字路、東北自動車道のガード下からは90mほどのところを右に曲がって300mほど坂を登っていくと、毛越地区の公葬地(共同墓地)がある。その下には一面に田んぼが広がっているが、この田んぼの一画に隆蔵寺があったとのことである。従って、稲荷社もこの田んぼのどこかにあったのだろう。

 最後に中央の惣社である。惣社というのは、その地域の神をすべて合祀した神社のことだが、実はこの惣社があった場所も分かっていない。いくつかの説があって、今のところ最も有力と思われるのが、金峯山社があった場所に惣社もあったというものである。ただ、金峯山社が惣社も兼ねていたというのではなく、同じ敷地に金峯山社と惣社が併設されていたのではないかと考えられる。金峯山社と見なされている花立廃寺跡の北に隣接する平泉文化遺産センターの玄関付近から、かつて礎石建物跡が出土しているので、それがあるいは惣社跡だったのではないかと推測できる。

 以上が9つの鎮守社である。先ほど江戸時代の文書に稲荷社が西方鎮守として記載されていると書いたが、位置関係から考えてみても、最初に紹介した吾妻鏡にある「西方」の金峯山社と「北方」の稲荷社は、方角が取り違えられている可能性が高い。実際には、北方の今熊野(熊野三社)の向かいにある金峯山社(花立廃寺跡)は西方ではなく北方の鎮守、西方の北野天神の近くにあった稲荷社は北方ではなく西方の鎮守であったのだろうと考えられる。
 これら9つの鎮守社のうち、白山妙理堂、八坂神社、王子社跡、北野天神社、花立廃寺跡は、「見ルベキモノアリ」として国の特別史跡にも指定されている。それぞれに風情のある場所であり、もっともっと知られてほしいスポットである。なお、鎮守社については、前述のマップと別に、「平泉の鎮守社(五方鎮守)マップ」を作成したので、そちらを参照していただきたい。

中尊寺の奥の院・月山
 もう一つのオススメスポットは月山である。と言っても、出羽三山の一つ、夏スキーで有名な山形の月山ではない。中尊寺のある丘陵と衣川を挟んだ向かいにも月山という名前の山があるのである。厳密には平泉ではなく隣の奥州市衣川区であるが、標高120mという小さな山ながら、円錐形のキレイな形をした山である。古来、霊峰として崇敬されており、中尊寺や毛越寺を開山したと伝わる慈覚大師円仁が勧請したという月山神社が山頂に鎮座している。奥州藤原氏初代の清衡が再興し、かつては毎年正月に中尊寺の僧が参拝し、中尊寺の奥の院として栄えたとも伝えられている。

 その月山神社を始め、麓には三峯神社、月山神社へ向かう参道の脇には荒沢神社、月山神社と同じ山頂には和我叡登挙神社と、この小さな山に4つもの神社が祀られている。他に月山神社と三峯神社と荒沢神社には境内社もあり、まさに神の山であることを実感する。

 三峯神社は源頼義、義家が前九年の役で安倍氏に苦戦していた折、日本武尊が東夷征討に際して武州三峰山に登って諾冊二尊を奉祀したという故事にあやかって陣中で諾冊二尊を奉祀し、安倍氏を討った後に祠を立てたというのが事の起こりで、その後、江戸時代の享保元年に秩父にある三峰神社から改めて分霊が勧請されたそうである。一つの山に奥州藤原氏に関係する神社とその敵役となった源氏に関係する神社が共に祀られているというのも興味深いことである。

 山頂の月山神社に向かう道は二つあり、一つは山の東側にあるこの三峯神社の境内を通って登っていく道、もう一つは山の北側にある鳥居をくぐって階段を登っていく道で、後者の方が本来の参道なのだろう。この鳥居の脇にある階段を少し登ったところにある荒沢神社は、かつて月山神社が女人禁制だったことと関係しており、この荒沢神社は女性でも参拝できたということである。

 そして、何より興味深いのは和我叡登挙神社である。月山の山頂にはどちらの道を行ってもおよそ10分もあればたどり着くが、山頂にある鳥居をくぐると正面に月山神社、右手に境内社がある。正面の月山神社を参拝したら「あとは下っていくか」と思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。鳥居の正面にあるのは拝殿だが、その拝殿を回り込んで後方に行くと、月山神社の本殿があるのである。そして、その本殿の前には何気なく巨石があるが、この巨石こそが和我叡登挙神社である。東北の土着の神と言われる荒覇吐(あらはばき、荒吐(あらばき)とも)の神を祀っている。東北で拝殿を持たない巨石を祀った神社は概ね荒覇吐神を祀ったもので、同じ衣川区にある磐(いわ)神社、花巻市東和町にある丹内山(たんないさん)神社などがその代表例である。これらの神社も和我叡登挙神社と同様に拝殿がなく、巨石をご神体として祀っている。

 中尊寺の奥の院として栄えた月山神社と同じ敷地に荒覇吐神を祀った神社があることも極めて興味深い。奥州藤原氏の仏教文化が、実は東北古来の神とも結びついていたことを物語っているとも言える。

 先ほど、山頂に向かう道は2つあると書いたが、せっかくなので登りと下りとで違う道を通ってみるのがよい。三峯神社経由の道の途中には、眼下に衣川や北上川を見下ろせる展望スポットもある。月山とそこにある神社の場所については、先述の「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」を参考にしていただきたい。


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2018年08月23日

毛越寺の「附鎮守社跡」ってなんだ?〜東北の歴史のミステリーその33

WP_20180721_10_55_38_Rich_LI 世界文化遺産「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群−」の構成遺産の一つである毛越寺は、国の特別史跡と特別名勝に、二重に指定されてもいる。特別史跡の名称は「毛越寺境内附(つけたり)鎮守社跡」、特別名勝の名称は「毛越寺庭園」である。
 名称から分かる通り、特別名勝としては、国内に唯一残る平安時代の浄土庭園が指定されている。一方、特別史跡としてはその浄土庭園を含む毛越寺の境内、そしてそれに付随するものとして(「附(つけたり)」)「鎮守社跡」も併せて指定されている。

 特別史跡としての毛越寺を語る際、この「附鎮守社跡」があまりにも見過ごされ過ぎているのではないだろうか。毛越寺の境内は散策しても、鎮守社跡のことを気に留める人はほとんどいないに違いない。毛越寺を訪れる人の目当てはこの、唯一現存する浄土庭園なのであって、「附」の後の鎮守社跡などは大部分の人にとっては眼中にないのである。
 仮に、この「附鎮守社跡」という文言に気づいた人がそれらを探してみても、毛越寺の中には見つからない。それもそのはず、この「附鎮守社跡」は、いわゆる飛地区域として指定されており、いずれも毛越寺の外に存在するのである。

 ちなみに、指定されている「附鎮守社跡」は、護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡、北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社、観自在王院跡である。堂宇跡や寺院跡など「鎮守社」でないものもいろいろ含まれているが、これらのうち観自在王院跡は言うまでもなく、毛越寺に隣接する世界文化遺産の構成遺産の一つである。護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡は、毛越寺に付随する堂宇であった。残る北野天神社、日吉白山社、花館廃寺、王子社跡、八坂神社は、私のこのところの平泉に関する一連の投稿を読んだ人はピンと来るかもしれないが、「平泉の鎮守社を探せ!」で取り上げたかつて平泉にあったとされる鎮守社のうちのいくつかである。
 つまり、毛越寺境内と一緒にこれらの遺跡も国の特別史跡に指定されているにも関わらず、注目されるのは常に毛越寺と観自在王院跡だけであって、残りはあってなきがごとき扱いを受けているのである。そもそも、これらの「附鎮守社跡」の場所すら、一般のガイドマップやガイドブックではほとんど示されていない。日吉白山社(=白山妙理堂)、八坂神社などは旧国道4号線沿いにあり、花館廃寺(=花立廃寺跡)は平泉文化遺産センターに隣接してあるのでまだ見つけられる可能性があるが、王子社跡は八坂神社の向かいにあったという伝承を知らなければ見つからない可能性が高く(当然案内板もない)、北野天神社に至っては、私がそうだったように、その場所を知っている人に聞かなければ見つけることはまず不可能である。
 せっかく特別史跡を構成する遺跡なのであるから(世界遺産で言えば構成遺産に当たるわけである)、もっと知られるべきだと思うのである。

 ところで、これまで論じてきた「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に特別史跡に指定されたのか。その辺りの経緯について、以前文化庁のサイトから問い合わせしてみたのだが一向に返事がないので、自力で調べてみた範囲で考えてみたい。
 毛越寺と各鎮守社跡が史跡に指定されたのは、1922年(大正11年)のことである。特別史跡に指定されたのは戦後の1952年(昭和27年)である。史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺ハモト圓隆寺嘉祥寺觀自在王院等堂塔四十餘宇禪坊五百餘宇ヨリ成リ藤原基衡夫妻及子秀衡ノ建立ニ係ル一山ノ建造物ハ廢滅ニ歸セリト雖土壘土壇礎石及庭石等殘存シテ能ク奧州藤原氏ノ盛時ニ於ケル堂塔苑池ノ舊規ヲ窺フニ足ル其ノ周圍ニ總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯アリ或ハ礎石ヲ存シ或ハ濠壘ヲ存シテ舊規ノ見ルベキモノアリ」

また、特別史跡に指定された理由は以下の通りである。

「毛越寺は吾妻鏡によれば、堂塔四十余宇禅房五百余宇があり、基衡が建立したもので、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、又嘉祥寺その他の堂宇も存したという。遺跡は現在の毛越寺の境内にあり、よく旧規をとどめ、土塁・南大門跡苑池・金堂跡その他の堂跡を存し、保存状態良好である。殊に金堂跡は桁行7間梁間6間に復原せられる礎石ほぼ完好に存し、土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造も存する。左右に翼廊跡があり前方に折れてその両端に各々楼の跡が遺存する。その他の堂宇の礎石もよく残り、苑池も亦橋脚を存し中島・庭石の旧規も見るべく、平安時代の伽藍形式を示すものとして学術上の価値がきわめて高い。」

なお、2005年(平成17年)に「毛越寺と観自在王院の間の町道部分及び関連鎮守社である白山社の南側の池跡」が特別史跡に追加指定されている。

 特別史跡に指定された理由の中には鎮守社跡についての記載はないが、その前の史跡に指定された理由の中には鎮守社跡に関する記載があることが分かる。すなわち、毛越寺の周囲に「總社日吉白山祇園北野稻荷社等ノ鎭守阯」があって、礎石が残っていたり堀や土塁が残っていたりして「見ルベキモノアリ」とされているのである。
 「總社」「日吉」「白山」「祇園」「北野」「稻荷社」とあるうち、これらの記載と実際に指定された遺跡とを対応させてみると、「日吉」と「白山」は日吉白山社(白山妙理堂)、「祇園」は八坂神社、「北野」は北野天神社だが、「總社(総社)」は花館廃寺(花立廃寺跡)がその場所として比定されていたのだろうか。花立廃寺跡は「平泉の鎮守社を探せ!」で見てきたように金峯山社である可能性が高い。熊野三社の由緒にあるようにその金峯山社が総社も兼ねていたという見解もあるが、私の導いた結論は花立廃寺跡はかつての金峯山社であるものの総社はそれとは別にあったというものであった。
 また、「稻荷社(稲荷社)」は、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で書いたように場所が特定されていない。史跡に指定された理由にあるような礎石も堀も土塁も残っていない。実際、「附鎮守社跡」に指定された遺跡の中に「稻荷社」を思わせるものはない。一方、指定された遺跡の中にある「王子社跡」に関する記載が先に引用した文章の中にはない。こうしたことから、本来は実際に特別史跡に指定されている「王子社」と書くべきところを誤って「稻荷社」と記載したのかもしれない。
 この辺りの、記載されている内容と実際に指定されている遺跡の関係についても文化庁の見解を聞きたいところだが、先述のように問い合わせても返事がない。ただ、指定が100年近く前のことなので、結局のところ今の担当者にも分からないのかもしれない。

 さて、これら「平泉の鎮守社」がなぜ毛越寺と一緒に、毛越寺に付随するものとして特別史跡に指定されているのかについてだが、それを類推する材料はいくつかある。まず、これらの鎮守社跡がある土地を所有していたのがほとんど毛越寺であったということが、毛越寺の中の宝物館にあるパネルの記載から分かった。
 また、当の毛越寺自身が、これらの鎮守社は平泉全体の鎮守社なのではなく、本来は毛越寺の鎮守社であると考えているということも影響していそうである。例えば、毛越寺貫主の藤里明久氏は、昨年八坂神社で行われた「中興の祖氷室良珍650年祭」で、「毛越寺の鎮守社は吾妻鏡の記述と符合している。吾妻鏡の『鎮守事』が、平泉の四方鎮守のことではなく毛越寺の鎮守のことをいっているのではないかと考えている」と講演している。
 すなわち、…端藜卆廚里△訶效呂鯡啀杙が所有していたこと、¬啀杙自身が鎮守社は毛越寺の鎮守社だったと考えていること、の二点が、これらの鎮守社が毛越寺に付随するものとして毛越寺と一緒に特別史跡に指定された要因だったのではないかと考えられる。
 ともあれ、特別史跡としての毛越寺を堪能するのに、毛越寺の境内だけ見ても十分ではない。ぜひ鎮守社跡の数々もじっくりと見てほしい。

 さらに言えば、鎮守社ではないが、同じく特別史跡の飛地として指定されている残りの護摩堂跡、文殊堂跡、吉祥堂跡にも注目したい。ところが、これらのうち文殊堂跡と吉祥堂跡については、存在する場所が分からない。北野天神社と同じ毛越地区にあるようではあるのだが、詳しい場所が分からない。案内板もない。そこで毛越寺の社務所で聞いてみたのだが、なんと毛越寺でもそれらがどこにあるのか分からないのだという。
 そのような有様で、特別史跡「毛越寺境内附鎮守社跡」のうち、人々に知られているのは毛越寺と、毛越寺に隣接する観自在王院跡という、世界文化遺産の構成遺産ともなっている2つだけで、白山妙理堂、八坂神社、花立廃寺跡は恐らく誰でも見つけられるものの、北野天神社と王子社跡は知らないと見つからない、文殊堂や吉祥堂に至ってはその場所すら分からない、というのが現在の状況なのである。確かに毛越寺や観自在王院跡は素晴らしい遺跡だが、こうした状況は一刻も早く改善すべきである。
 とりあえず私としては、まだ見つけられていない毛越寺の文殊堂と吉祥堂を見つけて、例の「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」に記載したいと思う。

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2018年07月13日

鎮守の稲荷社はどこだ?〜東北の歴史のミステリーその32

 前回「平泉の鎮守社を探せ!」で、五方鎮守として、かつての平泉に少なくとも9つあったとされる鎮守社の場所について検討してみた。それらのうち8つについては、中央惣社=平泉文化遺産センター、日吉社・白山社=白山妙理堂(+日吉神社)、祇園社=八坂神社、王子諸社=王子社跡、北野天神社=北野天神社、金峯山社=花立廃寺跡(金峯山=金鶏山)、今熊野社=熊野三社、と、場所を特定したが、残る稲荷社については、「毛越地区の公葬地下の田地付近」としたものの、その理由については説明していなかった。今回はそれについて取り上げたい。

 前回も書いた通り、これら9つの鎮守社のうち、中央惣社については、どこにあったのかについての論争も盛んなのだが、同様に位置が特定できていない稲荷社は、なぜかスルーされてしまっている。中央惣社ほどの重要性はないということなのか、甚だ不可解である。
 この、場所すら特定されていない稲荷社に関してであるが、平泉界隈をぶらぶら歩いていると目に付く稲荷神社が2つある。一つは中尊寺のある丘陵の一画にある「赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん」で、もう一つは達谷窟の手前にある「達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり」である。
WP_20180410_14_14_36_Rich 赤堂稲荷大明神は、旧国道4号線沿いにある。平泉の中心部から見ると「北方」である。大きな赤い鳥居が目印で、離れたJR東北本線の車窓からも見える。そうしたこともあって、平泉町内の神社の中でも知名度は高い方だと思われる。旧国道4号線沿いから石段を登っていくとまず拝殿がある。そして、そこからさらに登ると本殿がある。拝殿は赤くないのだが、本殿はまさに朱塗りの「赤堂」である。しかし、案内文等はなく、その由緒は不明である。
WP_20180410_14_18_30_Rich そこで、同じ丘陵にあるよしみということで中尊寺に聞いてみた。そうしたところ、赤堂稲荷明神の「赤堂」に関連して、かつて「閼伽堂あかどう」と称された「光勝院」という、阿弥陀如来と薬師如来を祀った寺院があったことが中世の文書で確認できる、とのことだった。場所は現在の赤堂稲荷大明神のある場所ではなく、国道4号線を挟んでその向かいにあったのではないかとされているそうである。ただ、閼伽堂光勝院と赤堂稲荷大明神の関係はよく分からず、分かることは現在の赤堂稲荷大明神の社殿が建てられたのが1871年(明治4年)ということだけだそうである。
 現在の赤堂稲荷大明神の建物が明治時代初期に建てられたことは分かったが、その前身の可能性がある閼伽堂光勝院が鎮守社の一つの稲荷社であると比定する材料には乏しいようである。そもそも、吾妻鏡に記載のある北方鎮守(当ブログでは前回説明した通り稲荷社を「西方鎮守」であったと判断している)の稲荷社であったとするならば、寺院ではなかったはずである。
WP_20180520_09_28_29_Rich もう一つの「達谷伏見稲荷」は、毛越寺から達谷窟に向かう途中にある。すなわち、平泉の「西方」に位置している。
 ところが、その入口が極めて分かりづらく、どこから入って行けばよいのかよく分からない。神社の正面(と思われる方)に向かって右側は田んぼ、前方と左側はどう見ても個人宅である。結局、神社にほど近い場所にある側溝に架けられたこの細い板を渡っていく他なさそうだった。

WP_20180520_09_23_52_Rich 鳥居が重なり合っている様子はいかにも稲荷社であることを思わせるが、社殿は比較的新しい。こちらにも案内文などはなく、その由緒は不明であったが、後述する宝積院の方に伺ったところ、この達谷伏見稲荷は昭和に入ってから建てられたものとのことであった。そうするとやはり鎮守の稲荷社と関係はなさそうである。



 鎮守社について記載のある、奥州藤原氏と同じ時代の唯一の資料である「吾妻鏡」には、それぞれの場所に関する説明までは記載がないのだが、時代が下って江戸時代に書かれた書物の中には、稲荷社も含めた鎮守社の場所に関する具体的な記述がいくつかある。稲荷社に関しては、それらは大きく二つに分けられることが分かった。
 具体的に挙げてみる。「元禄九年書上写」(1696年)( 砲砲蓮◆岼隹拌臾誠澄廚「隆蔵坊、寺内ニ仮宮有」とある。前回も引用した「平泉旧蹟志」(1760年)(◆砲砲蓮◆岼隹挂誠澄廚「文殊堂趾の南にあり」、「稲荷社」は「西方鎮守、申の六分、五町二十間」と記載されている。「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」(1772〜1780)()には「稲荷明神」について、「西方鎮守。小名、稲荷沢。社地、隆蔵寺除ノ内。社、東向、三間四面。鳥居、東向。地主、日輪院。別当、平泉村毛越寺衆徒真言宗隆蔵寺。祭日、九月廿九日。」とかなり具体的に書かれている。「磐井郡西磐井平泉村毛越寺書出」(1775)(ぁ砲砲蓮◆岼隹拏辧廚砲弔い董◆岼隹抻魁(毛越寺南大門より)三丁卅五間、申ノ六分。西方鎮守両社之内。(中略)別当、日輪院隆蔵寺。」とある。「嚢塵挨捨録」(1779)(ァ砲砲蓮岼隹挂誠澄廚蓮◆峺点梁声蘰4霍嬪貪谿隹挂誠世鯡呂憧請、神廟を造立しと云り。」とある。
 そしてもう一つ、別の稲荷社の存在も確認できる。前出のには、上記とは別の「稲荷明神社」が、「小名、毛越。社地、東西七間、南北七間。社、南向、長壱間、横五間、ご神体八寸。地主、宝積院。別当、平泉村毛越寺衆徒天台宗宝積院。祭日、九月九日。」とある。先の「稲荷明神」とは、存在した場所、建物の様子、別当、祭日などことごとく違っているので、別の稲荷社だということが分かる。い砲癲◆岼隹拏辧廚「かかみ山東。(南大門より)十丁六間、午ノ八分。別当、宝積院桜岡坊。」とある。

 つまり、どちらも毛越寺宗徒の寺院が別当を務めていることから、毛越寺からそれほど離れていない地域にあったと推測されるものの、片や「(日輪院)隆蔵寺りゅうぞうじ(または隆蔵坊)」が別当であり、片や「宝積院ほうしゃくいん(桜岡坊)」が別当という違いがある。この両社のうち、鎮守社と関係がありそうなのは「西方鎮守」と明記されている、「隆蔵寺」が別当の稲荷社(以下「隆蔵寺稲荷社」とする)の方であるが、念のためもう一つの「宝積院」が別当の稲荷社(以下「宝積院稲荷社」とする)についても調べてみることにした。
 それぞれの稲荷社の存在した場所についてだが、まず「隆蔵寺稲荷社」については、に記載のある「稲荷沢」、い傍載のある「稲荷山」とも、どこを指すのか不明である。それらしい地名が現在の平泉町内には残っていないのである。そもそも、「稲荷山」とは、京都の伏見稲荷大社の東にある東山三十六峰南端の標高232メートルの山である。それにならって、平泉の稲荷社があった場所も稲荷山と呼ばれていたのだろう。しかし、稲荷社が失われた結果、その地名も消えてしまったのかもしれない。ただ、「稲荷山」、「稲荷沢」という地名から、かつて鎮守の稲荷社があった場所には山と沢の両方があったことが窺える。場所を特定する手掛かりになるかもしれない。
 一方、「宝積院稲荷社」があったとされるの「毛越けごし」、い痢屬かみ山」については特定ができる。「毛越」は現在も毛越寺の西の地域の地名として残っている。「かかみ山」は「鏡山」のことと考えられ、現在の伊豆権現堂のある山が、かつて近江の鏡山を模したと言われて同じく「鏡山」と呼ばれていたことから、その付近であると推定できる。
 次に2つの別当、「隆蔵寺稲荷社」の別当である日輪院隆蔵寺または隆蔵坊という名の寺院と、「宝積院稲荷社」の別当である宝積院桜岡坊についてである。これら2つの寺院のうち、後者の宝積院は現在も存在する。まさに毛越地区、伊豆権現堂のある「鏡山」のすぐ近くである。もう一方の隆蔵寺であるが、調べてみたところ1875年(明治8年)に火災で全焼してしまい、今は残っていないことが分かった。ただ、その後に移転して再建された、現在平泉中学校の南にある龍玉寺りゅうぎょくじが隆蔵寺の檀家を引き継いでいる。

WP_20180615_16_30_42_Rich 実際に足を運んでみれば何か分かるかもしれないと思い、まず宝積院の方を訪れてみた。「寺」と言っても、外観は普通の民家と変わらない。ただ、敷地内に神社があった。鳥居をくぐって入ってみると、本殿には狛犬ではなく狐が一対いた。これは間違いなく稲荷社である。




WP_20180615_16_27_26_Rich 早速宝積院の方にお話を伺ってみたが、この稲荷社が祀られたのは江戸時代の文化・文政の頃とのことであった。稲荷明神だけではなく、「西磐井三十三観音」の一つである観音も祀られており、観音堂でもあるという。この観音は、かつて北上川が洪水となった時に流れ着いたものだとのことで、そこからこの稲荷社は寄水観音堂という名でも呼ばれているそうである。
 ということで、「宝積院稲荷社」については、相応の歴史はあるものの、やはり奥州藤原氏時代の鎮守とは関係のない稲荷社であることが分かった。

WP_20180410_09_15_04_Rich もう一つの、鎮守と関係していそうな「隆蔵寺稲荷社」について調べるために龍玉寺に行ってみた。ちょうどご住職がおられたので話を聞いてみたが、隆蔵寺についての寺伝は残念ながらその1875年の火災で全て焼失してしまったそうである。当時の住職は檀家帳を運び出すのが精いっぱいで、本尊さえも燃えてしまったとのことである(火災の際に持ち出す優先順位が最も高いのは檀家帳で、ご本尊はその次なのだそうである)。そのような事情で隆蔵寺については詳しいことは分からず、隆蔵寺が稲荷社の別当をしていたということも今初めて聞いた、とのことであった。結局のところ残念ながら、奥州藤原氏時代の平泉の鎮守であった可能性の高い「隆蔵寺稲荷社」については分からずじまいだった。
 ただ、かつての隆蔵寺のあった場所についてはご住職はご存じで、それは現在の毛越地区の公葬地(共同墓地)の下にある田圃の辺りとのことであった。もう一つの「宝積院稲荷社」が、別当を務めている宝積院の敷地内に祀られていた例から見ても、神社と別当寺の位置関係は、極めて近いものと考えられる。また、,痢嵶澗∨掘∋内ニ仮宮有」という記載、それからの「社地、隆蔵寺除ノ内」という記載を見ても、西方鎮守の「隆蔵寺稲荷社」はかつて隆蔵寺の境内に存在し、1875年の火災で隆蔵寺と一緒に焼失してしまったのではないだろうか。
WP_20180615_15_54_12_Rich このように考えてみると、西方鎮守の稲荷社があった場所は、かつて隆蔵寺があった場所とほぼイコールだと言えそうである。先の「平泉の鎮守社を探せ!」で、西方鎮守の稲荷社の場所を「毛越地区の公葬地の下にある田地」としたのはこのような理由からであった。ちなみに、この公葬地は高台にあり、近くには「照井堰」も流れている。「山」も「沢」もあることも、稲荷社があったのはこの辺りではないかと推定できる根拠の一つと言える。
 場所の特定について、もう一つ有力な手掛かりは、△痢嵜修力司、五町二十間」、い痢峪庵卅五間、申ノ六分」という記述である。いずれも毛越寺南大門を起点とした方位と距離を示している。この当時の方位は十二支を当てて示していた。「分」というのはその一支をさらに十等分した単位のようである。しかし、どうもイメージがよくつかめないので、角度で考えてみる。北を0°とすると、十二支の示す角度は以下のようになる。

 子:345°〜(0°=北)〜15°
 丑:15°〜45°
(艮):45°=北東
 寅:45°〜75°
 卯:75°〜(90°=東)〜105°
 辰:105°〜135°
(巽):135°=南東
 巳:135°〜165°
 午:165°〜(180°=南)〜195°
 未:195°〜225°
(坤):225°=南西
 申:225°〜255°
 酉:255°〜(270°=西)〜285°
 戌:285°〜315°
(乾):315°=北西
 亥:315°〜345°

こう見てみると、一支は30°であるので、一分は3°ということになる。
 △鉢い琶位は「申の(ノ)六分」と一致しているが、それはつまり北を0°とした場合に243°の方角である。南西(坤)は225°、西南西は250.5°なので、243°というのはほぼその間くらいの方角である。
 ただ、そこからの距離については、△鉢い楼戝廚靴討い覆ぁ△任蓮峺淞二十間」、い任蓮峪庵卅五間」である。一町(丁)は109.09m、一間は1.8182mなので、前者は約581m、後者だと約394mである。
稲荷社 そこで、地図上に毛越寺の南端から243°の線を引いてみる。赤い線はい痢峪庵卅五間」、青い線は△痢峺淞二十間」である。毛越寺から「五町二十間」の場所は青の線の終点で、これだとまさに毛越地区の公葬地に当たってしまうが、その手前、赤線の終点から青線の終点の間の場所というのは、まさに隆蔵寺があったと伝えられる田地に当たる。やはり鎮守の稲荷社はこの付近にあったと見て間違いないのではないかと考えられる。
 △鉢い砲ける距離の食い違いにしても、例えばい歪樟距離で△脇擦覆蠅紡った距離であるなど、そもそも計測の方法に違いがあった可能性もある。方角が「分」の単位まで表記されてかつ一致しているところから見ても、これら距離の表記についてもかなり信ぴょう性のあるものと言えるのではないだろうか。

 明治時代の1903年(明治38年)に刊行された「平泉名勝誌」(志羅山頼順編集兼発行)には、「稲荷社跡」について、「兒塚(ちごづか)の南にあり。其南端の五輪塔は慈恵大師を祭りし塚なりとぞ。此処を逆芝山(さかしばやま)という。厳美村にも同名の地あり。藤氏の頃、此処に移せしにや」とある。これを見ると、少なくとも明治時代のこの頃までは、稲荷社跡は具体的な場所として認識される対象であったことが分かる。
 さらに、江戸時代の文書が「稲荷社」「稲荷明神」などという表記であるのに対して、同書が「稲荷社跡」とあることは、稲荷社は少なくとも江戸時代の各文書が書かれた頃には存在しており、かつ明治時代の後半1903年の時点では失われていたことを示している。これは、1875年の隆蔵寺の火災で稲荷社も同時に焼失したのではないかというここでの推定とも矛盾しない。
 なお、「兒塚の南」とあるこの「兒塚」について同書では、「昔時、社堂郡参の日、乗與の争いより兒の殺され、之を葬りし所なり。其の下を流るる沢を兒沢(澤)といふ」とある。「兒塚」、「兒沢」とも、今のところその場所を特定できていないのだが、機会があれば今後現地でヒアリングを行うなどして探してみたいと考えている。塚、五輪塔と沢、そして逆芝山が手掛かりとなりそうであるが、それらが示す場所がこれまで述べてきた場所の近くということになれば、この場所が稲荷社であるという結論がより妥当性を増すことになるわけである。

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2018年06月29日

平泉の鎮守社を探せ!〜東北の歴史のミステリーその31

 前回、「世界遺産以外の平泉オススメスポット」で、「五方鎮守を巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけ」と書いた。
 しかし、いざ鎮守社のことを調べてみると、コトはそう簡単には進まないことが分かった。あった場所が分からなかったり、分かっていても解釈や見解が分かれていたりするものがいろいろあるのだ。
 
ここでもう一度整理しておきたい。平泉の鎮守社について書かれている資料は、鎌倉幕府の「公文書」である「吾妻鏡」である。東北に攻め入り、平泉を占領した頼朝に対して、中尊寺と毛越寺の僧侶が平泉について説明した文書(「寺搭已下注文じとういかちゅうもん」と呼ばれる)を提出しているが、その内容が「吾妻鏡」の中に丸々引用されている。その中で、奥州藤原氏三代のことや中尊寺、毛越寺のことに加えて、平泉の鎮守社のことも説明されているのである。
 それによれば、「中央に惣社そうじゃ。東方に日吉ひよし白山はくさんの両社。南方に祇園社ぎおんしゃ王子諸社おうじしょしゃ。西方に北野天神きたのてんじん金峯山きんぷせん。北方に今熊野いまくまの稲荷いなり等の社なり」とある。稲荷等の「等」の字が気になるが、少なくとも、平泉には中央の惣社に、東西南北に2つずつ、合わせて9つの鎮守社があったことが分かる。
 四方鎮守、あるいは中央を含めて五方鎮守と言われるこれら9つの鎮守社のうち、存在した場所などについてほぼ異論がないのは、南方の「祇園社」、「王子諸社」と、西方の「北野天神」、北方の「今熊野」、の4つくらいで、あとは何がしか見解の相違がある。
 それらも含めて、では、9つの鎮守社が現在いったいどんな状況なのか、私の調べた範囲でまとめてみる。

中央惣社
 惣社というのは、地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことであるが、平泉の惣社があった場所については大きく見解が分かれている。
 その主なものは3つあり、

 \省の鎮守で金峯山社にほぼ比定されている(異論はある)花立廃寺が惣社も兼ねていたという説
 花立廃寺の約50m北方(現在の平泉文化遺産センターの玄関付近)で出土した礎石建物跡が惣社だったという説
 E貶の鎮守で日吉、白山社に比定されている(後述の通りこれにも異論がある)現在の白山妙理堂が惣社だったという説

がある。
 ,砲弔い董金峯山は金鶏山だとする説が有力だが、金鶏山は平泉のランドマーク的存在であり、金鶏山東方にある花立廃寺が金峯山社で惣社も兼ねていたというのは首肯できる話ではある。についても、現在の白山妙理堂は陸奥守となった三代秀衡の居館柳之御所遺跡(平泉館)からも近く、国司が国に祀られている神に参拝するという惣社の元々の性格からすればこれまた首肯できる話でもある。
 ただ、,筬の説を取ると、ではなぜ吾妻鏡の中でそれらが惣社と別に記載されているのかの説明がつかない。もしこれらが惣社を兼ねていたのなら、例えば「白山・日吉両社(惣社を兼ねる)」といった記述になったのではないだろうか。
 そうではなく、惣社と金峯山、白山・日吉両社が別に記載されていることから考えると、惣社はやはり金峯山社や白山社とは別に存在していたと考える方が自然である。と言って△任△覲両擇發覆い、とりあえずは△鰺力な説としておきたい。

東方(日吉社・白山社)
 東方の鎮守である日吉、白山の両社があったのはJR平泉駅近くにある現在の白山妙理堂とされているが、これにも白山妙理堂の位置が平泉の中心部から見てあまり東でないということから異論があり、北上川を挟んで東の対岸の長島地区にある小島神社(日吉神社の分霊を祀る)と白山神社が東方鎮守だったのではないかとする見解も出されている。ただ、現在白山妙理堂がある場所に以前は白山社に加えて日吉社もあったとする説が今のところ大勢ではある。
 しかし一方で、市街地から南に下った大佐地区にある日吉神社にも、「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、これは嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。
 長島地区の小島神社と白山神社を東方の鎮守とする見解は、惣社が白山妙理堂だったという説とセットである。つまり、東方の鎮守という割に、白山妙理堂が平泉館を含めた平泉の中枢から見るとそれほど東に位置していないではないかというところから出発して、より東にある長島地区の両社が実は東方の鎮守で、現在の白山妙理堂が中央惣社だったのではないか、という論の展開である。
 しかし、この長島地区の2つの神社に関しては、奥州藤原氏に関連する伝承がない。いずれも由緒を見ると奥州藤原氏とは別に成立したことになっている。奥州藤原氏が既にあったこれら2つの神社を鎮守にしたということも考えられなくはないが、それならそれでそのことが誇らしく由緒に記載されていてもよさそうなものである。そう考えると、やはり長島地区のこの両社は平泉の鎮守とは無関係で、東の鎮守は現在の白山妙理堂としてよいように思う。
 もう一つ、大佐地区の日吉神社、これは東方の鎮守とするにはあまりにも南である(南方の鎮守の八坂神社、王子社跡よりもさらにずっと南である)。ただ、こちらには逆に初代清衡に関連する伝承が由緒に残っており、何らかの関連はあったものと考えられる。並立していたとされる白山・日吉両社のうち、日吉社だけが何かの理由で現在の大佐地区に移され、それで現在白山社だけが白山妙理堂として残っている、と考えると辻褄は合う。

南方(祇園社・王子諸社)
 南方には祇園社、王子諸社があったとされる。平泉の南、その名も祇園地区に現在八坂神社があるが、ここは明治以前は祇園宮と呼ばれていたことが分かっており、ここがかつての祇園社であったということに異論はない。もう一つ、八坂神社と国道4号線を挟んで向かいの路地を東方に数十m進むと、王子社跡がある。現在は小さな祠が2つ残っているだけだが、これもかつての王子諸社であるということに異論はない。

西方(北野天神社・金峯山社)
 西方の鎮守としては、北野天神、金峯山が挙げられている。このうち、北野天神は毛越寺の西の毛越けごし地区にある現在の北野天神社がそれに当たるということで異論は見当たらない。
 もう一つの金峯山については、先述の通り、金鶏山が金峯山で、その東麓にある花立廃寺が金峯山社であるという説が現在のところ最有力のように見えるが、花立廃寺は寺院であって鎮守社ではないとする異論もある。また、金峯山イコール金鶏山とした場合、金鶏山が西方の鎮守としてはあまりと言うか、ほとんど西でないという点も問題と言えば問題である。

北方(今熊野社・稲荷社)
 北方には今熊野と稲荷社などがあったとされる。今熊野については、現在の熊野三社がかつての今熊野を引き継いでいるということでほぼ異論はない。熊野三社はたびたび移転しており、かつては別の場所にあったとされるが、今も北方と言ってまず差し支えない。
 もう一つの稲荷社については、いまだに場所が特定されていない。ばかりか、私の知る限りなぜか議論の対象にもなっていない。これについては長くなるので、今回は詳述せず、稿を改める。

 さて、鎮守社に関してもう一つ問題になりそうなのが、吾妻鏡の「寺搭已下注文」の中の毛越寺に関する記載である。その中に「(毛越寺の)鎮守は、惣社金峯山、東西に崇め奉るなり」という記載が出てくる。ここに出てくる惣社と金峯山と、平泉の鎮守として記載のある惣社と金峯山が同じなのか異なるのかということも鎮守を巡る論点の一つなのだが、現在では同一のものであるとする見解が大勢のようである。
 ただ、この意味するところについて、素直に読めば、惣社と金峯山が毛越寺の東西にあって崇め奉られた、と取れるが、金峯山が惣社であったと読めなくもない。
 そこで思い起こされるのが北方の鎮守、熊野三社に残されている由緒である。熊野三社の由緒には「金峰山社はその中央総社なり」という記述があるのである。
 該当部分の内容は、「当熊野社は五方鎮守の一社にして、承安四年藤原清衡将軍が江刺の豊田城より居を平泉に移してより鎮守府の政を執るに当たり、平泉鎮護の神として五方社を建立したるなり。五方社とは、東方に日吉、白山、両社。西方に北野天神社、稲荷社。南方に祇園社、八王子社。北方に熊野社、金峰山社ありて、金峰山社はその中央総社なり」というものである。ちなみに、承安4年は1174年であるので、初代清衡ではなく、三代秀衡の時代に当たる。ただし、「江刺の豊田城より居を平泉に移し」たのは初代清衡であり、若干の混乱が見られる。
 この熊野三社の由緒の記述だが、よく見ると、吾妻鏡の記述とは一部異なっている。
 登場順に並べてみると、吾妻鏡では、

中央:惣社
東方:日吉、白山両社
南方:祇園社、王子諸社
西方:北野天神、金峯山
北方:今熊野、稲荷等社

となっているのだが、熊野三社の由緒では、

東方:日吉、白山両社
西方:北野天神社、稲荷社
南方:祇園社、八王子社
北方:熊野社、金峰山社
中央総社:金峰山社

となっている。
 すなわち、東方の「日吉社」、「白山社」と、西方の「北野天神社」、南方の「祇園社」、「王子諸社(八王子社)」、北方の「今熊野社(熊野社)」は共通しているが、吾妻鏡では西方の「金峯山(金峰山社)」が熊野三社の由緒では北方、吾妻鏡では北方の「稲荷社」が熊野三社の由緒では西方と、金峯山と稲荷社のあった方角が北と西で入れ替わっているのである。しかも、中央の「惣社(総社)」として、熊野三社の由緒ではこの「金峰山社」を挙げている。
 これらのうち、「金峯山(金峰山社)」と「稲荷社」の入れ替わりについては、吾妻鏡の記述が誤りで、熊野三社の由緒の方が正しいのではないかと判断できる根拠となりそうな近世、近代の文書もある。
 江戸時代の1760年(宝暦10年)にまとめられた「平泉旧蹟志」には、「稲荷明神」が「文殊堂趾の南にあり」と記されている。「文殊堂趾」があるのは毛越寺の西、西方鎮守の北野天神社もある毛越地区である。そして同書では、「稲荷社」は「西方鎮守」と記載されている。安永年間(1772〜1780年)にまとめられた「磐井郡西磐井平泉村風土記御用書出」でも、やはり「稲荷明神」は「西方鎮守」とある。
 さらに、1886年(明治19年)に高平真藤がまとめた「平泉志」巻之下では、「稲荷社跡」について、「西方にあり(東鑑の北方として今熊野の次に叙せるに方位違へり)」とあって、吾妻鏡(=東鑑)に記載された北方という方位は間違っていると指摘されているのである。
 もちろん、奥州藤原氏の時代には北方にあって、その後江戸時代までに西方に移築された可能性もあるが、稲荷社は少なくとも近世、近代には西方の鎮守として認識されていたことが分かる。
 もう一つ、先に挙げた、金峯山が西方の鎮守と言うほど西にないという問題についても、金峯山が熊野三社の由緒にある通り、西方ではなく実は北方の鎮守ということであれば解決する。金峯山社が花立廃寺跡だとすれば、もう一つの北方の鎮守である現在の熊野三社はそのすぐ向かいであり、金峯山社を北方の鎮守と呼んでも差し支えなさそうだからである。
 これらのことから、鎮守社の方位に関しては、ここでは吾妻鏡ではなく、熊野三社の由緒にある方位の方を採ることにしたい。
 次に、同じ熊野三社の由緒にある「金峰山社はその中央総社なり」について考えたい。「金峰山社」と「中央総社」とが完全にイコールだと、先述の、吾妻鏡がなぜ中央惣社とそれを兼ねた鎮守社を別のものとして記載したのかという疑問が解消されない。ここで、中央惣社が、金峯山社である可能性の高い花立廃寺跡の北方約50mから出土した礎石建物跡の場所にあったという△寮發鮑里譴弌熊野三社の由緒とあまり矛盾することなく、この疑問点はある程度解消されるのではないかと考えられる。
 つまり、惣社と金峯山社が極めて近接(約50m)していたのだとすれば、それらは別のものでありつつも、大きく見れば金峯山社と同じ敷地内に惣社があることになり、金峯山社イコール中央惣社という説もある程度成り立つ余地ができるわけである。こう解釈すれば、先に有力な説とみた△寮發梁電性がより増すと言える。

 以上、これまで見てきたことを踏まえて、9つの鎮守社が平泉のどこにあったのか、私なりに整理してみると、現時点で結論は次のようになる。

中央惣社:平泉文化遺産センター(の玄関付近から見つかった礎石建物跡)
WP_20180520_15_09_17_Rich




東方鎮守
日吉社・白山社:白山妙理堂

WP_20180410_08_37_08_Rich白山妙理堂



(ただし、日吉社については大佐地区の日吉神社である可能性もあり)
WP_20180520_10_18_00_Rich




南方鎮守
祇園社:八坂神社
八坂神社WP_20180410_13_21_56_Rich



王子諸社:王子社跡
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西方鎮守
北野天神社:北野天神社
WP_20180520_08_43_45_Rich
WP_20180520_08_46_00_Rich



稲荷社:毛越地区にある公葬地下の田地付近(別稿にて詳述予定)
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北方鎮守
今熊野社:熊野三社
WP_20180410_10_50_56_Rich
熊野三社



金峯山社:花立廃寺跡
花立廃寺跡WP_20180410_10_58_59_Rich



(金峯山:金鶏山)
WP_20180520_11_10_41_Rich金鶏山WP_20180410_11_44_34_Rich




平泉の鎮守社…などと書いても、それぞれの鎮守社の場所や位置関係がよく分からないかもしれないので、またしてもマップにまとめてみた。「平泉の鎮守社(五方鎮守)マップ」をご参照いただきたい。こうして実際に地図上にそれぞれの場所をプロットしてみると、金峯山社はやはり西方ではなく北方の鎮守に見えるし、稲荷社も(比定地が正しいとするならばだが)決して北方ではなく西方の鎮守に相応しいことが分かる。



追記(2018.6.29):ちなみに、平泉文化遺産センターに行って、係の人に「ここが『中央惣社』だったんですか?」と尋ねても、たぶん怪訝な顔をされるだけなので要注意である(笑)。
 以前、敷地内で見つかった礎石建物跡について尋ねてみたら、「隣接する花立廃寺跡のことじゃないですか?」とのことだったので…。花立廃寺跡とは別のこの礎石建物跡のことについては、この平泉文化遺産センターの中でも閲覧できる「花立軌篝廖廚糧掘調査報告書の中に記載されている。



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2018年05月04日

世界遺産以外の平泉オススメスポット(※7/23追記・現在67箇所)(東北のオススメスポットその13)

 「私的東北論その107」で紹介した「平泉町観光振興計画(案)」(PDF)への意見書の中で、「平泉は世界遺産だけの町ではない」ということで、「世界遺産以外の観光資源についてもしっかり情報発信を」ということを述べた。
 とは言え、駅や観光案内所で手に入るマップには世界遺産を構成する中尊寺毛越寺観自在王院跡無量光院跡、金鶏山の5つに、柳之御所遺跡達谷窟高館義経堂くらいしか載っていない。平泉文化遺産センター柳之御所資料館にも行ってみたが、これら以外の遺跡について載っているマップはない、とのことだった。
 ならば自分でつくるしかないかと思い、先月1日掛けて平泉町内と旧衣川村の一部地域を改めて巡ってみた。巡ってみて改めて感じたのは、やはり平泉は世界遺産に登録された遺跡だけの町ではないということである。もちろん、登録された5つの遺産は素晴らしいものだが、決してそれらだけが平泉なのではない。それら以外の遺跡も能弁に平泉が何たるものかを語っているように思われた。
 以下に、それらについて紹介してみた。とりわけ、「平泉の世界遺産はもう見飽きた」という方々にぜひお役立ていただきたい。
 紹介文の中に度々、平泉の中央、東方、南方、西方、北方の五方鎮守(四方鎮守とも)のことが出てくる。かつて平泉には、中央に惣社、東方に日吉、白山の両社、南方に祇園社、王子諸社、西方に北野天神、金峯山、北方に今熊野、稲荷等の社があったとされる。個人的に、それらを巡るのも世界遺産以外の平泉を楽しむのにうってつけだと思うのだが、それらのうち、東方の「日吉、白山両社」は現在の白山妙理堂、南方の「祇園社」は現在の八坂神社、北方の「今熊野」は現在の熊野三社でほぼ間違いなく、西方の「金峯山」は金鶏山、花立廃寺跡という可能性が高いと考えられるものの、中央の「惣社」については意見が分かれている。もう一つ西方の「北野天神」については、現在の毛越けごし地区に北野天神社があるとの話もあったが、今回確認できなかった。次に訪れた際に詳しく調べてみたい。 南方の「王子諸社」、北方の「稲荷社」についても同様である。
 あ、ちなみに、以下の遺跡は単に私が足の向くまま回った順番に並んでおり、並んでいる順番には特に意味はない(笑)。我ながらよく一日で回ったものである。
 なお、遺跡の中には学校や私有地などもあるので、無断での立ち入りは厳禁である。
世界遺産以外の平泉オススメマップ これらの位置関係を示した「世界遺産以外の平泉オススメスポットマップ」も作ってみた。併せてご参照いただきたい。

追記(2018.6.26)
 前回回り切れなかった場所をいくつか追加した。既存の場所にも必要に応じて説明を追加した。また、前回見つけられなかった西方鎮守の一つ、北野天神社も、やはり場所が分からず困っていた時に通りすがりの老婦人にお聞きしたところご存じで、連れて行って教えていただいた。感謝である。
 八坂神社と共に南の鎮守である王子社跡も見つかった。北の鎮守の一つである稲荷社だけがまだ見つかっていない。これについては稿を改めて検討する予定である。

追記(2018.7.23):別稿で不明だった北の鎮守(当ブログでは西の鎮守)の稲荷社の場所について特定したのでその場所も加えた。また、泰衡妻が夫を弔うために建てたとの伝承が残る奥州市前沢区の月山神社(既に掲載している奥州市衣川区の月山神社とは別)も加えた。


伽羅之御所きゃらのごしょ
伽羅之御所跡三代秀衡、そして四代泰衡の私邸である「伽羅之御所」がこの付近にあったと考えられている。政庁であった柳之御所やなぎのごしょ平泉館ひらいずみのたち)が「首相官邸」だとすれば、この伽羅之御所は「首相公邸」に当たると言える。現在は、住宅地の一画にその旨を伝える案内板が設置されている。





無量光院むりょうこういん
WP_20180520_17_14_19_Rich世界遺産の構成遺産の一つ。三代秀衡が建立した寺院。宇治平等院鳳凰堂がモデルとされるが、それよりもさらに一回り大きかった。春、秋の彼岸近くには、無量光院の西方にある金鶏山きんけいさんの山頂に日が沈み、その夕日の光を後光として本尊の阿弥陀如来が浮かび上がる意匠だった。現在、その建物は失われたが、池を含む庭園が復元されている。写真中央に見えるのが金鶏山である。

追記(2018.6.26):写真を差し替えた。


白山妙理堂はくさんみょうりどう
白山妙理堂十一面観音を祀る。平泉には中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、東には白山社と日吉社が鎮座していたとあることから、ここはその東の鎮守があった場所と推定されている。境内を囲む周辺の低地は、当時あった「鈴沢の池」の跡である。

追記(2018.6.26):現在は白山社のみだが、かつては日吉社も並び立っていたとされる。その日吉社だが、別の場所に移転していた可能性もある(後述)。


平泉町役場
平泉町役場案内板はないが、役場周辺からは大型の建物跡が出土していている。役場のすぐ北には幅20mという当時のメインストリートと思われる東西道路の遺構が出土し、役場から白山社(現在の白山妙理堂)までも幅10mの南北道路が確認されており、出土遺物からも「平泉館ひらいずみのたち」に準ずるような施設、あるいはかなり身分の高い者の邸宅があったと推定されている。



平泉中学校
平泉中学校平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、このうち西の鎮守として北野天神と共に金峯山きんぷせんが勧請されたという。この平泉中学校近くに金峯山社趾が残っているという話があったが、確認できなかった。なお、金鶏山が金峰山であるとする説もある。

追記(2018.6.26):今回分かったのだが、平泉中学校は移転して現在の地にあり、金峯山社趾が残っていたのは以前あった場所、現在平泉文化遺産センターのある場所である。ただし、現在の平泉中学校のすぐそばでも現在発掘調査が行われており、ここはここで何かあったようである。


龍玉寺りゅうぎょくじ
WP_20180410_09_15_04_Rich平泉中学校の南にある寺院。いずれ稿を改めて紹介する予定だが、北の鎮守の稲荷社の別当だった隆蔵寺りゅうぞうじが1875年(明治8年に)火災で全焼した後に移転して建立された後継寺である。(2018.6.26追加)

追記(2018.7.23):隆蔵寺と稲荷社については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく取り上げた。


観自在王院かんじざいおういん
観自在王院跡世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡の妻が建立した寺院。基衡が建立した毛越寺に隣接する。基衡の妻は、奥州藤原氏の前にこの地を支配した安倍氏の棟梁貞任の弟宗任の娘だったと伝わっている。毛越寺同様、浄土庭園を持ち、現在はそれが復元されて史跡公園となっている。元は基衡の居館で、基衡の死後、妻が夫の極楽往生を願って寺院に改修したという説がある。

追記(2018.6.26):上記で紹介した「基衡の死後、妻が」という説は成り立たないことに思い至った。基衡妻である安倍宗任の娘が亡くなったのは基衡よりも先である。それを嘆き悲しんだ基衡によって現在まで毛越寺に伝わる「哭き祭なきまつり」が生まれたとされる。尤も、安倍宗任の娘以外にも妻がいたのだとすれば、その矛盾は解消する。


毛越寺もうつうじ
毛越寺世界遺産の構成遺産の一つ。二代基衡が建立した寺院。往時には中尊寺を凌ぐ規模を誇ったという。全国で唯一、平安時代の浄土庭園が完璧な形で残り、国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けている。奥州藤原氏滅亡後、南北朝時代までに戦乱や野火などで建物は全て失われ、長らくこの浄土庭園だけが残っていたが、1989年(平成元年)に平安様式の新本堂が建立された。

追記(2018.6.26):特別史跡の指定名称は「毛越寺境内つけたり鎮守社跡」である。平泉の鎮守社跡のいくつかが毛越寺境内の飛び地として同じ特別史跡に指定されている。その件についてはいずれ稿を改めて検討したい。


平泉小学校
平泉小学校毛越寺の向かいにあり、三代秀衡の長男国衡の邸宅、国衡館くにひらだてがあったと伝わり、実際に建物跡も出土している。国衡は西木戸太郎と号し、その名の通り、平泉の南西端の関門の役割を果たしていたものと考えられる。毛越寺側からでは分からないが、平泉への入り口となる南側から見るとかなり高台にあることが分かる。なお、国衡館の南には三代秀衡の四男高衡(隆衡)の邸宅、高衡館たかひらだてがあったとされているが、場所はまだ特定されていない。なお、国衡館、高衡館のあった場所については、柳之御所の西側だという異論もある。


平泉町立幼稚園・平泉保育所
平泉町立幼稚園・保育所三代秀衡の長男国衡の居館である国衡館くにひらだてがあったとされる平泉小学校の南に隣接している。ひょっとすると国衡館の南にあったという三代秀衡の四男高衡(隆衡)の居館である高衡館たかひらだては、この辺りにあったのかもしれない。






柳之御所やなぎのごしょ遺跡
柳之御所遺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。奥州藤原氏の政庁である「平泉館ひらいずみのたち」があった場所と比定されている。長らく、北上川に削られ失われたと考えられてきたが、国道4号線のバイパス工事で出土。遺跡の重要性を鑑みて保存が決定し、バイパスの方がルートを変更した。現在、史跡公園として整備が進んでいる。おびただしい数の出土品があり、それらは史跡公園に隣接する柳之御所資料館に収蔵されている。ちなみに、柳之御所という名称は、「幕府」と同じ意味の言葉「柳営りゅうえい」から取られたものという説がある。


高館義経堂たかだちぎけいどう
高館義経堂源義経の居館「高館」があった場所で、義経終焉の地とされている。義経の木像と、義経主従の慰霊塔がある。ただ、義経が襲撃されたのは藤原基成の居館「衣河館ころもがわのたち」とあり、衣河館は高館義経堂があった場所とは全く異なる場所にあったとされているので、この地が義経のいた場所であるという確証はない。北上川を見下ろし、束稲山を望む眺望は素晴らしい。

追記(2018.6.26):「衣河館」は、別に挙げている衣川を挟んで平泉の対岸、旧衣川村にある「接待館遺跡」だという説が大勢である。


卯の花清水うのはなしみず
卯の花清水高館義経堂たかだちぎけいどうの北側の入口近くにある湧水。松尾芭蕉と共に旅をした曽良が、源義経の老臣、十郎権頭兼房を偲んで詠んだ「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」という句にちなんで名づけられた。残念ながら1993年(平成5年)の道路拡張工事の後、湧水は枯れてしまったが、曽良の句碑がある。




熊野三社くまのさんじゃ
熊野三社中央、東、南、西、北にあったという平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとされているが、この熊野三社がその今熊野であったとされている。熊野蔵王権現を祀り、子守社、勝手社という末社もあったという。ただし、元の熊野社が野火で焼失した安土桃山時代の1571年に花立山に移され、その後1891年(明治24年)に現在の平泉文化遺産センターのある場所に移され、さらに1954年(昭和29年)に現在の地に移された。焼失の際に持ち出された十一面観音掛仏は同社の宝物として保管されている。

追記(2018.6.26):「熊野三社」とはてっきり「本家」同様、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智のことだと思っていたのだが、そうではなく、上で紹介した子守社、勝手社の末社が合祀されて「熊野三社」となったとのことである。


花立廃寺はなだてはいじ
花立廃寺跡金鶏山きんけいさんの東、平泉文化遺産センターに隣接している。礎石などが出土しており、ここに寺社があったことが窺える。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、中央の惣社がこの花立廃寺だったのではないかという説がある。今は芝生の公園となっている。

追記(2018.6.26):確かにこの花立廃寺が惣社だという説もあるのだが、それよりもまず、ここは西の鎮守の一つである金峯山社の跡であるという説の方が強い。なお、文化庁の表記は「花館廃寺」だが、地元での表記や学会論文での表記はほとんどが「花立廃寺」なので、ここでは「花立廃寺」と記載する。

追記(2018.7.23):「平泉の鎮守社を探せ!」で書いたが、花立廃寺跡は、当ブログでは「西方鎮守」ではなく「北方鎮守」であったという立場を取っている。


平泉文化遺産センター
WP_20180520_15_09_17_Richかつて平泉中学校があった場所。今は見えないが、ここの玄関付近からはかつて礎石跡が出土している。花立廃寺と対をなすほどの規模のもので、五方鎮守のうちの中央惣社の跡でないかとする説もあり、当ブログでもその説を取っている。(2018.6.26追加)







花立溜池

WP_20180520_15_11_44_Rich熊野三社の一段下にある溜池。現在は溜池だが、奥州藤原氏時代には、花立廃寺と関係する浄土庭園だったのではないかとする説がある。(2018.6.26追加)








照井堰てるいぜき
照井堰三代秀衡の家臣としてその名が知られる照井太郎高春(高治とも)が築いたという、総延長64kmにも及ぶ堰。現在も1,000ha以上の水田に用水を供給している他、毛越寺の浄土庭園の大泉が池に注いで、曲水の宴の遣水の水源にもなっている。「疎水百選」に認定されている他、「世界かんがい施設遺産」にも登録されている。

追記(2018.6.26):平泉を歩いていると、そこかしこで「照井堰」に出くわして、その度に「ここもそうか」と驚かされる。












金鶏山きんけいさん
金鶏山世界遺産の構成遺産の一つ。標高98.6mの円錐形の山で、平泉のランドマーク的存在。三代秀衡が富士山に似せて一晩で築き、山頂に雌雄一対の黄金でできた鶏を埋めて平泉の鎮護としたという伝承や、子孫のために一万の漆の盃に黄金を載せて埋めたという伝承が残る。山頂からは大規模な経塚が発見され、信仰の対象であったことが窺える。5分ほどで山頂まで行ける。平泉にあった中央、東、南、西、北の鎮守のうち、西の鎮守の一WP_20180520_11_10_41_Richつとしてその名が登場する金峯山k(きんぷせんはこの金鶏山のことだとする説がある。また、熊野三社の由緒には「金峯山社はその中央総社なり」という説明がある。なお、金鶏山の読み方について平泉町、平泉観光協会は「きんけいさん」としているが、文化庁は「きんけいざん」としていて統一されていない。

追記(2018.6.26):写真を追加した。読み方については、地元の表記の方を優先させて、ここでは「きんけいさん」とした。


千手院せんじゅいん
千手院金鶏山きんけいさんの入り口近くにある寺院だが、現在は千手観音を祀った千手堂のみが残っている。詳しい由来は不明だが、千手堂内には本尊の千手観音の他、弁財天、「藤原三将軍」(初代清衡、二代基衡、三代秀衡か)の位牌、三代秀衡の木像、愛染明王、不動明王、道祖神が安置されているという。




源義経公妻子の墓
源義経公妻子の墓金鶏山きんけいさんの入り口近くにある。義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後、自害しているが、ここはその義経の妻子の墓と伝えられている。元は金鶏山の山麓にあったが、その後現在の場所に移されたという。






倉町くらまち遺跡
倉町遺跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の向かいにある。伝承の通り、大きな高床式の倉庫跡が出土している。奥大道を通ってくると突如として現れる、左手に浄土庭園と大伽藍を抱える毛越寺や観自在王院を望み、右手に見上げる高さの蔵がずらりと並んでいる光景はさぞや壮観だったことだろう。




道路側溝と塀跡
道路側溝と塀跡毛越寺もうつうじ観自在王院かんじざいおういん跡の前を東西に通る道路の遺構が出土している。幅は20mあり、当時のメインストリートだったとされている。道の両側には側溝が確認されており、ここはその南側の側溝である。同じ場所からは塀跡も出土している。大型の建物を囲んでいた塀とのことである。




稲荷社跡
WP_20180721_11_25_18_Rich_LI中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、西の鎮守である稲荷社があった場所については、「鎮守の稲荷社はどこだ?」で詳しく検討したが、現在のところ毛越地区の公葬地(共同墓地)下にある田地のどこかである可能性が高い。なお、稲荷社は一般に北の鎮守とされているが、当ブログでは西の鎮守であったという説を取っている(詳しくは「平泉の鎮守社を探せ!」を参照)。(2018.7.23追加)


北野天神社
WP_20180520_08_46_00_Rich中央、東、南、西、北の五方鎮守のうち、毛越寺の西、毛越けごし地区にあるこの北野天神社は、西の鎮守の一つとして挙げられている「北野天神」である。
案内板などがなく分かりづらいが、奥州藤原氏の時代からずっとこの地に祀られてきたようである。(2018.6.26追加)




照井道てるいのみち
WP_20180520_08_41_08_Rich北野天神社から白山社につながる小径を、地元の人たちは「照井道」と呼んでいるそうである。その名の通り、道の脇には「照井堰」が流れている。(2018.6.26追加)








白山社はくさんしゃ
WP_20180520_08_39_33_Rich北野天神社から「照井道」を辿っていくとすぐある。
白山妙理堂、中尊寺境内の白山神社、長島地区の白山神社以外にもこうしてひっそりと白山社があるところに、平泉における白山の影響力を窺い知ることができる。(2018.6.26追加)





自性院じしょういん
自性院奥州藤原氏時代にこの地にあって観音霊場として栄えた智覚院はその後、江戸時代初期に廃絶したが、1888年(明治21年)になって江刺の自性院をこの地に移すという形で再建された。聖観音を本尊とする。






伝勅使館でんちょくしたて
伝勅使○伊豆権現堂いずごんげんどう近くの空き地に、「伝勅使○」と書かれた木の柱が立っていた。○は文字が薄れて判読不能。勅使と来たら「館」か。勅使と聞いて思い起こすのは、源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた後、三代秀衡は朝廷からの勅使を勅使館に招いて饗応し、館の外に一歩も出さずに帰したという話である。ここがその勅使館であれば、平泉の中心部からも離れ、確かに勅使は平泉の様子を少しも観察することができなかったに違いない。

追記(2018.6.26):平泉町立図書館で文献を調べたところ、「勅使館跡」の表記を見つけることができたので、伏字を「館」に替えた。


伊豆権現堂いずごんげんどう
伊豆権現堂三代秀衡が伊豆から勧請したと伝わる。伊豆権現と十一面観音を安置する。急な石段を2分くらい登ると本殿がある。入り口の説明には「高台からの眺めは素晴らしい」とあるが、実際には木々に囲まれて眺望は限定的である。






稲荷社
WP_20180615_16_27_26_Rich伊豆権現堂近くの宝積院という寺院の中にある稲荷社。五方鎮守のうちの北の鎮守の稲荷社か!と思いきや、この稲荷社が勧請されたのは江戸時代の文化文政年間とのことで、残念ながら無関係のようである。昔、北上川の洪水の折に流れ着いた観音も祀っているそうで、それにちなんで寄水観音堂と名付けられ、西磐井三十三観音霊場の一つともなっている。(2018.6.26追加)



鬘石かつらいし
鬘石奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。昔、この地方を治めていた悪路王あくろおうは、美しい娘がいると聞くとさらってきていたという。逃げ出した娘はすぐに捕まり、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に流され、その首が下流のこの大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたということから、この巨石を「かつら石」と呼ぶようになったと言われている。



姫待瀧ひめまちのたき
姫待瀧奥州藤原氏とは直接関係のない遺跡。この地方を治めていたという悪路王あくろおうが、さらってきた姫が逃げ出した際、この滝で姫を待ち伏せしたと伝わっている場所である。







達谷伏見稲荷たっこくふしみいなり
WP_20180520_09_23_52_Rich平泉から達谷窟に向かう途中にある稲荷神社。追って別稿にて紹介するが、昭和に入ってから勧請された新しい稲荷神社だそうで、残念ながら奥州藤原氏時代の五方鎮守の一つ、北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。
なお、入口が極めて分かりづらい。(2018.6.26追加)




達谷窟たっこくのいわや
達谷窟世界遺産への追加登録を目指している遺跡。悪路王あくろおうが住んでいたという伝承がある。悪路王は一説には坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首領阿弖流為あてるいのことだとする見方がある。悪路王を討った後、悪路王が籠った窟屋に田村麻呂が清水寺を模してこの毘沙門堂を建立したと伝わる。浄土庭園の跡が出土しており、平泉遺跡との関連も指摘されている。源義家が彫ったという北限の磨崖仏がある。初代清衡と二代目基衡が七堂伽藍を建立、基衡は薬師如来を奉納したという。


八坂神社やさかじんじゃ
八坂神社平泉には、中央、東、南、西、北に鎮守社があったとされており、南の鎮守として、祇園社と王子諸社が勧請されたとある。祇園地区にあるこの八坂神社が当時の祇園社であったと伝わる。南北朝時代に修験の僧都、良珍が再興を図り、江戸時代まで祇園宮と称されたが、明治8年に八坂神社と改称された。





王子社跡おうじしゃあと
WP_20180520_09_44_32_Rich上記八坂神社の国道4号線を挟んで向かいにある路地を50mほど入ったところにある。五方鎮守の一つ、南の鎮守の「王子諸社」の跡とされる。現在は小さな祠が2つ残っているだけであるが、祠の中には木造の神像が祀られている。(2018.6.26追加)





日吉神社ひよしじんじゃ
WP_20180520_10_18_00_Rich南の鎮守である八坂神社、王子社跡よりもさらに南の大佐地区にある。「藤原朝臣清衡公時代、五方鎮守の一社とし、南方の守護神として嘉祥年中滋賀県滋賀郡坂本に鎮座する本宮より分祠し、現在地に奉鎮せるものである」との伝承が残っている。なお、嘉祥は848〜851年で清衡の時代と合わないので、嘉保(1094〜1095年)か嘉承(1106〜1107年)の誤りだと思われる。五方鎮守のうち、東の鎮守の一つである日吉社が何らかの理由でここに移された可能性がある。
別当である木村氏宅を通らないと行けないので、必ず一声掛けてから参拝すること。どちらにせよ、行き方を教えていただかないとまず行けない。(2018.6.26追加)


武蔵坊弁慶大墓碑
武蔵坊弁慶大墓碑中尊寺の入口付近にある、源義経の忠臣、武蔵坊弁慶の墓と伝わる場所。中尊寺の僧素鳥が詠んだ「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」の句碑があり、その句の通り、大きな松が立っている。







赤堂稲荷大明神あかどういなりだいみょうじん
赤堂稲荷大明神中尊寺がある丘陵にある。旧国道4号線沿いにある大きな鳥居はかなり目立ち、離れている東北本線からもよく見える。しかし、縁起に関する説明がないので詳しい成り立ちは不明。鳥居をくぐって急な階段を登っていくとまず拝殿があり、さらに登るとその名の通り、朱塗りの本殿がある。中央、東、南、西、北にあった平泉の鎮守社のうち、北には今熊野と稲荷等社があったとあるが、この赤堂稲荷大明神がその稲荷等社なのかどうかは不明。

追記(2018.6.26):稲荷社については別稿で論じる予定だが、中尊寺に尋ねたところ、この赤堂稲荷大明神の前身とされる「閼伽堂あかどう」の存在は中世まで遡れるものの、現在の赤堂稲荷大明神自身は明治4年の建立とのことで、どうやら北の鎮守の稲荷社とは無関係のようである。


中尊寺ちゅうそんじ
中尊寺世界遺産の構成遺産の一つ。初代清衡が建立した寺院。清衡が整備した、東北の北端外ヶ浜(青森市)と南端白河関(福島県白河市)を結ぶ幹線道路、奥大道おくだいどうのちょうど中間地点に建っている。中尊寺建立供養願文には、戦乱で多くの人が亡くなった東北をそのままこの世の浄土としたいという清衡の思いが示されている。清衡が安置したという「丈六皆金色の釈迦如来」と同じ本尊が、2013年(平成25年)に現在の本堂に安置された。


金色堂こんじきどう
金色堂中尊寺ちゅうそんじの中にある、唯一無二の皆金色の阿弥陀堂。日本の国宝第一号だった。皆金色は仏の住む浄土を表したもので、全面に金箔が押された以外にも、南洋の夜光貝を用いた螺鈿細工、象牙や宝石による装飾など、当時の芸術工芸の粋を極めた造形が施されている。初代清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体と、四代泰衡の首級が収められ、葬堂としての性格も持つ。四代に亘る遺体がそのまま保存されている例は世界的にも極めて珍しいとされる。


白山神社はくさんじんじゃ
白山神社中尊寺ちゅうそんじの開祖と伝わる慈覚大師が加賀の白山から勧請したという、中尊寺の敷地内にある神社。境内にある能楽堂は国の重要文化財に指定されている。現在も薪能などが奉納されている。







源義経衣川古戦場碑
WP_20180520_15_37_46_Rich平泉文化史館の敷地内にある、衣川の合戦の場所を伝える碑。ただ、義経の居館が高館にあるという前提での比定地であるので、実際にはここではない可能性が高い。建物の中からは「弁慶立往生跡」も見える。(2018.6.26追加)






接待館せったいだて
接待館跡中尊寺の対岸の衣川沿いにある。三代秀衡の母親がここで道行く旅人をもてなしたという伝承があり、この名がある。かなり大規模な邸宅跡が出土しており、柳之御所やなぎのごしょ遺跡と同様に大量のかわらけなども出土していることから、柳之御所と同等の重要な施設であったことが窺える。三代秀衡の正妻の父で、京の摂関家藤原氏に連なる藤原基成の居館「衣河舘ころもがわのたち」の跡ではないかという説もある。写真中央右寄りに見えるのが月山である。


衣の関道ころものせきみち
衣の関道初代清衡が北は外が浜(青森市)から南は白河関(福島県白河市)まで整備した当時の「東北縦貫道」である奥大道おくだいどうは、平泉では中尊寺の境内を通すようにしていた。これに伴って、衣河関ころもがわのせきも安倍氏時代に難攻不落と言われた場所から、中尊寺の北側で衣川を渡る手前に移されたという。その新しい衣川関から衣川を越えて北上する道の通称が衣の関道だとされる。


七日市場なぬかいちば
七日市場跡その名の通り、奥州藤原氏の時代に毎月七日、十七日、二十七日と七のつく日に市が立ったという伝承がある地。平泉の市街地内で最も繁昌した市場になったという。







神明神社しんめいじんじゃ関の神明せきのしんめい
神明神社(関の神明)初代清衡が七日市場なぬかいちば地区内の衣の関道ころものせきみちわきに伊勢大神宮を勧請し、神明神社として地区民の信仰を集めたという。衣川関の近くにあったことから「関の神明」と称された。ただ、清衡は平泉開府に当たり、天皇家の祭神である伊勢、摂関家藤原氏の祭神である春日、鎮護国家の軍神で源氏の祭神でもある八幡、蝦夷征伐の神として祭られてきた鹿島・香取などを注意深く排除し、一切勧請していないため、その清衡が伊勢大神宮を勧請したという伝承については疑問を感じる。


渕端諏訪大明神社ふちはたすわだいみょうじんしゃ旗鉾神社はたほこじんじゃ
渕端諏訪大明神社(旗鉾神社)かつてこの地を本拠とした安倍氏の棟梁、安倍頼時が兵器を祀って鎮護の神と崇めたという。その後、この地に住んだ三代秀衡の三男忠衡が再興し、自身の守り本尊である魚籃観音を祀ったと言われている。






並木屋敷なみきやしき
並木屋敷奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にここ衣川を本拠とした安倍頼時が政庁を構えたとされる場所。安倍氏を滅ぼしてその後陸奥、出羽を治めた清原氏も三代に亘ってこの地を政庁、もしくは居館としたと伝えられている。清原氏の時代には衣川柵ころもがわのさくと呼ばれていた。





泉三郎忠衡供養塔
泉三郎忠衡供養塔泉ヶ城いずみがじょうのある土地の高台にある三代秀衡の三男忠衡の供養塔。現在この地に住んでいる葛西さんが個人で建てた。供養塔のある一帯は葛西さんの私有地である。







泉ヶ城いずみがじょう
泉ヶ城三代秀衡の三男忠衡の居館だったと伝わる。平泉の北端に位置し、南端の国衡館くにひらだて高衡館たかひらだてと共に、平泉への関門となっていたと考えられる。衣川に囲まれた天然の要害で、現在も狭い橋が一本あるだけなので、車では行きにくい。橋を渡って少し行ったところに、「泉ヶ城」と刻まれたこの地に住む葛西さんが建てた小さな石碑がある。なお、忠衡の実際の居館については、柳之御所の南の泉屋いずみや遺跡の辺りとする説もある。


琵琶館びわだて成道舘なりみちだて
琵琶館(成道舘)跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の時代にこの地を治めた安倍氏の棟梁貞任の庶兄成道の居館だったとされる場所。衣川が琵琶の形に流れているのでこの名があるという。







小松館こまつだて
小松館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏の棟梁貞任の叔父の僧、良照の居館であったと伝えられる場所。前九年の役の際、ここで源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃ったとされる。







衣河関ころもがわのせき
衣河関跡奥州藤原氏よりも前の安倍氏の時代に、蝦夷の領域と朝廷の領域との境にあった関所である衣河関があった地とされる。眼前を流れる衣川の両岸が断崖絶壁となっており、「封じれば誰も破ることができない」と言われた天然の要害。現在はその上を、橋を渡して東北自動車道が通っている。奥州藤原氏の時代にはこの衣河関はここから東の中尊寺ちゅうそんじ寄りに移された。


荒沢神社あらさわじんじゃ
荒沢神社月山神社がっさんじんじゃの参道の入り口付近にある神社。月山神社はかつて女人禁制だったが、この荒沢神社は女性も参拝できたという。








月山神社がっさんじんじゃ
月山神社衣川を挟んで中尊寺ちゅうそんじの対岸にある円錐形の山、月山の山頂にある神社。かつては中尊寺の奥の院として大いに栄えたという。山頂に着いて鳥居の正面に目に入るのは拝殿であるが、実はその裏にさらに本殿がある。月山の山頂に向かうルートは、東側の麓にある三峯神社みつみねじんじゃから登る道と、北側の麓にある月山神社の鳥居をくぐって登る道の2つがあるが、どちらも山頂までは10分ほどで行けWP_20180520_15_57_54_Richる。三峯神社から登る道の途中には、風光明媚なスポットがある。

追記(2018.6.26):写真を追加した。








和我叡登挙神社わかえとのじんじゃ
和我叡登挙神社月山の山頂にある月山神社がっさんじんじゃの拝殿の奥にある本殿の前に何気なく巨石があるが、それが実は和我叡登挙神社である。東北の土着の神と言われる荒覇吐あらはばき荒吐あらばきとも)の神を祀っている。東北で拝殿を持たない巨石を祀った神社は概ね荒覇吐神を祀ったものであるが、中尊寺の奥の院として栄えた月山神社と同じ敷地に荒覇吐神を祀った神社があるのは興味深い。奥州藤原氏の仏教文化が実は東北古来の神とも結びついていた証左とも取れる。


三峯神社みつみねじんじゃ
三峯神社月山の麓にある神社。源頼義、義家が前九年の役で安倍氏に苦戦していた折、日本武尊が東夷征討に際して武州三峰山に登って諾冊二尊を奉祀したという故事にあやかって陣中で諾冊二尊を奉祀し、安倍氏を討った後に祠を立てたという。江戸時代の享保元年に埼玉の秩父にある三峰神社から改めて分霊が勧請された。




館跡たてあと
館跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、奥州藤原氏の前にこの地を治めていた安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えられている。以前は上衣川にある「安倍館あべたて」を本拠としていたが、頼時の代にこの地に本拠を移したという。






長者ヶ原廃寺ちょうじゃがはらはいじ
長者ヶ原廃寺跡世界遺産への追加登録を目指している遺跡。源義経を奥州藤原氏の下に案内した金売り吉次の邸宅跡という伝承があり、「長者ヶ原」の名があるが、発掘調査の結果、寺院跡であることが判明した。奥州藤原氏の時代には既に廃寺となっていたと考えられており、奥州藤原氏よりも前にこの地域を支配した安倍氏に関連した寺院とされている。ただ、この場所から見る夕日は春と秋の彼岸の日にはちょうど月山山頂に沈むと言い、後の無量光院むりょうこういんの意匠の参考にされた可能性がある。


室の樹跡むろのきあと
WP_20180520_16_35_42_Rich奥州藤原氏(秀衡、あるいは秀衡の母親とも)が御室御所みむろごしょの庭木をこの地に移し替えて庭園を造ったため、この名で呼ばれている。
平泉に逃れてきた源義経主従がここにあった屋敷に居住したという伝承もある。
今は春の桜がきれいである。(2018.6.27追加)






九輪搭くりんとう
九輪搭跡初代清衡が母方の祖父であり、かつてこの地を治めた安倍頼時を供養するために九輪塔を建てたと伝わる地。この一帯は今も九輪堂という地名である。清衡は九輪塔の周辺を園地として整備し、大きな池と2つの築山をつくったとされる。残念ながらそれらは現在は失われているが、地元の人が築いた安倍一族の鎮魂碑がある。



瀬原古戦場せはらこせんじょう
瀬原古戦場跡奥州藤原氏とは直接関係がないが、安倍氏が源氏と戦った前九年の役の際、安倍氏がこの地で、対する源氏をあえて本陣におびき寄せる作戦を立てて源氏に大損害を与えたと伝えられる古戦場である。







向館むかいだて
WP_20180520_16_48_26_Pro奥州藤原氏とは直接関係ないが、安倍氏の一族で前九年の役の折に安倍氏を裏切った安倍富忠の屋敷跡と伝えられる。(2018.6.26追加)









北館遺跡きただていせき
WP_20180520_17_02_23_Rich奥州藤原氏とは直接関係がないが、その前の安倍氏一族の居館の一つと伝えられる。西暦1300年頃に南蘇坊なんそぼうという行脚僧が植えたと伝わる一本桜はも毎春見事な花を咲かせる。(2018.6.26追加)







月山神社
WP_20180722_16_31_49_Rich_LI奥州市前沢区生母にある、奥州市衣川区の月山神社とは別の月山神社。四代泰衡の妻が、非業の死を遂げた夫を弔うために、羽黒派修験者の法印継清に命じて勧請させたという伝承が残る。元々経塚山にあったが、1878年(明治10年)に現在の地に遷座したという。元の神社は「奥の院」として今も京塚山に残る。(2018.7.23追加)



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2017年03月23日

私的東北論その92〜奥会津に学ぶ地域の支え合い(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 12月16日に発行された「東北復興」第55号では、11月に参加した「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」で見聞きしたことについて紹介した。奥会津の町村は、全国でも屈指の高齢化率の、いわば日本の最先端を行っている地域であるが、そこにあったのは住民同士のゆるやかかつ自然な形での支え合いであった。「限界自治体」などと称される奥会津の町村だが、高い高齢化率、決して充分とは言えない医療介護資源といった制約条件を超えて地域が生き延びていくためのヒントが随所にあった。
 以下がその全文である。そうそう、第5回の全国サミットは、今年11月25、26日に淡路島で開催されることが決定した。


奥会津に学ぶ地域の支え合い

奥会津で開催された「全国サミット」

 11月26日(土)、27日(日)に奥会津4町村で「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」が開催された。今回、会場となった4町村のうち、メイン会場となる金山町は高齢化率が実に59.7%、交流会と分科会が開催された2つの町村、昭和村が55.3%、三島町が51.4%と、高齢化が進んでいる東北の中でも、奥会津のこれらの3町村だけが高齢化率50%超のいわゆる「限界自治体」とされている。

 この全国サミットは、人口減少や高齢化が進む中、新しい福祉制度の効果的な運用や地域の福祉・生活課題について、全国の先進的な事例を学び、その解決に向け検討することを目的に、福祉関係者や行政関係者らを対象に年1回開催されている企画である。

 その第4回がこの奥会津で開催されたことはとても意義深かったと思う。奥会津は高齢化、人口減少が進む一方、医療や介護の地域資源は決して十分とは言えない地域である。豪雪地帯でもある。にも関わらず、そこに住む人々が生活を続けていけるのには訳がある。この地域では、人々の日常のつながりと支え合いがその生活を支えているのである。

 現在、「地域包括ケアシステム」という、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みが市町村ごとに構築されようとしているが、奥会津の日常のつながりと支え合いは、この地域包括ケアシステムの構築にとって大きなヒントを与えてくれそうな取り組みなのである。

 人口の半分以上が高齢者で占められるというこの地域は、ともすると地方の衰退の象徴と見られがちかもしれない。ところがそうではないのである。今回はこの奥会津における、つながりと支え合いの実際について、全国サミットを通じて見聞きしたことを中心に紹介していきたい。

昭和村における支え合いの例

 以前、宮城県主催の地域包括ケアシステム関連の会合を取材させていただいたことがある。その折に、今回の開催地の一つである昭和村の事例発表を聞いたが、そこでの地域の人たち同士の支え合いの仕組みがとても印象的であった。

 例えば、同村内の野尻地区では、新聞は集落の一角にある「集合型新聞受け」に配達され、毎朝そこに新聞を取りに来なければならない。一見不便なようだが、それが支え合いにつながっている。新聞が配達される時間帯には住民が新聞受けの場所に集まってくる。そこで毎朝井戸端会議が自然発生的に行われる。取りに来ない人の家には誰かが新聞を持って訪ねていくので、安否確認にもなる。

 この野尻地区に商店は一軒あるだけだが、この商店もまた集落の人の集う「サロン」になっている。店主は81歳の女性だが、お店に来る人にお菓子や料理をふるまい、皆売り場の奥にある居間でお茶飲みをしている。お店に来る人もそこで買い物をするのはもちろん、野菜や山菜を差し入れたりする。顔なじみの客がしばらく姿を見せないと店主や常連客が電話や訪問で様子を伺う。

 このように、お互いの支え合いが実に自然な形で行われているのである。

「便利さが豊かさなのではない」

 今回の全国サミットでは、初日は金山町を会場に、基調講演、基調鼎談、活動発表とディスカッション、パネルディスカッションが行われた。開会で挨拶した町長の長谷川盛雄氏の「ないものねだりでなく、あるものを磨き上げる。ここにしかないものを磨き上げて全国に発信したい」との言葉はとても印象的であった。

 基調講演で内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏がいみじくも「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と言っていたが、ここ奥会津で展開されているのはまさにそうしたことである。山崎氏によると、人口減少地域の地方創生には地域資源の洗い出しとその最大活用などいくつかの共通点があるという。長谷川町長の主張通りである。奥会津のような地域でこうしたことが進んでいる背景には、地域全体の危機感がある。他人任せではなく、自分たちで何とかしないと日々の暮らしが守れないのである。この点、都市部にはこの危機感がまだ薄いと言わざるを得ない。

 「奥会津の暮らしに学ぶ、支え合う地域づくりのコツ」と題した活動発表とディスカッションでは、今回会場となった4町村における地域活動の一端が、当事者の口から語られた。三島町の小柴ヨシノ氏は、代表を務める「西方カタクリの会」の取り組みを発表した。会では廃校となった小学校を宿泊研修施設として再活用している。「社員」は地域の高齢者ばかりだが、地元食材を使った郷土料理や温かいもてなしが好評で、それが皆のやりがいにつながっているそうである。小柴氏の「小さなことでも人の役に立つ、地域の役に立つことをやりたい」「お互いに自分の能力を発揮できる環境で、自分のできる範囲でやっていくことが大事」との言葉が印象的であった。

 金山町の「山入近隣会」という会の一員である栗城英雄氏は、山入地区における集落営農による集落の維持と活性化について語った。農作業の他、水路や道路の保全、道路脇の花壇整備、旅行といった取り組みを通じて活発に交流して孤立を防いでいる。9月に開催する芸能発表会の最後を飾る山入歌舞伎は町内外から多くの観客を呼ぶ。11月の農作物品評会には自分たちの自慢の作物が200点近く集まり、そこで表彰されることが農作物づくりのやりがいにもつながっているという。栗城氏は、「身の丈に合った自分にできることをやっている」としつつ、「誰でも一歳ずつ年齢を増していくが、住んでいる地域で最後まで暮らしたい。そのために、お互いを理解し、支え合い、年をとっても楽しく暮らしていけるよう集落全員で取り組んでいきたい」と結んでいた。

 昭和村の野尻集落の山内常一氏は、「地域の景観をよくしたい、地域に貢献したい」と設立された野尻営農生産組合における耕作放棄地の農地再生作業についても紹介した。その思いとして山内氏は、「荒れた土地を畑にしておけば、都会から来た人が定住しても野菜を作ることができる」「県外にいる家族たちが安心して暮らせるように、『田舎は我々が守っているよ』と伝えつつ、いつでも帰ってこれる状態をつくっておくことが自分たちの課題」と語っていた。何より印象的だったのは、「便利さが豊かさなのではない。たとえ不便でも周りで助け合うことが豊かさだ」という言葉である。都市部に住んでいると、こうした地域での暮らしについてともするとよく事情を知りもせずに「不便そう」、「大変そう」などと考えてしまいがちだが、それは決してその地に住んでいる人の実感ではないのである。

 会津美里町の斎藤やよい氏は、毎月「日々草クラブ」という会を開いている。使われていなかったコミュニティーセンターを活用し、「身近な場所にたまり場」をつくろうと始めた。料理、手芸、歌、体操など、参加者が自分たちで活動計画を立てて活動しているが、毎回最後はお茶飲みの時間を設けて、会話を楽しみながら交流を深めている。斎藤氏は、こうした取り組みは「硬く考えないで1人、2人からでも肩ひじ張らずに気軽に始める」のがよいとして、「常日頃の積み重ねでコツコツやっていきたい」と語っていた。

「お茶飲み」を中心とした支え合い
 2日目は4町村に分かれての分科会だった。私が参加した金山町分科会のテーマは「日常のつながりに注目!〜超高齢化社会を生き抜くヒントは、地域の中の小さな支え合い〜」で、金山町内の本名地区、西谷地区の西谷あゆみ会、越川・西部地区の住民の方々が登壇した。

 町内の各集落では、日々の「お茶飲み」を中心とした、自然な形での住民同士の支え合いが行われていた。そのうちの一つ、本名地区でご自宅が近所の住民の「お茶飲み」の場になっている御年86歳の渡部ツトム氏の「こんないいところに来ていただいて、私たち最高に幸せです」という言葉がとても印象に残った。東北人はとかく謙遜しがちなものだが、自分たちがいいと思っているこの地域をいいと言って、たくさんの人が訪れたことへの感謝も伝えるという渡部氏のこの言葉からは、ご自分が住む地域への限りない愛着が感じられた。

 81歳の渡部英雄氏は、地域の300世帯のガスの検針を行っていて、その際に必ず住民と「お茶飲み」をし、頼まれれば電池や電球の交換、買い物代行なども行っている。また、自分が近くの温泉に行く際には近所の住民も誘い、会津若松まで足を運ぶ際には通院する必要のあったり買い物をしたかったりする住民を同乗させる。渡部氏は、「皆さんの御用ができる限りはお役に立ちたい。毎日毎日が楽しく、明日のことは考えず今日健康に過ごせればいいと思っているが、こうしたことができるのは健康そのものだと喜んでいる」と言っていた。

 分科会の開催に先立って金山町副町長の山内建史氏は、「互いに思いやれる、気に掛ける、一人ひとりが必要とされ、大切にされる風土がここにはある。これは地域における一つの『処方箋』だ」と話したが、金山町内における取り組みからはまさにそうした気風が感じられた。

奥会津に学ぶ地域づくり

 ここまで見てきた奥会津における取り組み、すべてそこに住む人同士のつながりから始まっていることが分かる。そしてまた、異口同音に言うように、そこに住む人が自分のできることをできる範囲で、肩肘張らずに自然体でやっていることも特徴的である。

 先に紹介した通り、奥会津の町村は東北でもとりわけ高齢化が進み、いわば未来の日本の姿を先取りしている地域であるが、そこでのこうした支え合いの仕組みは他の地域にとってもきっと参考になるのではないかと思われる。何より、登壇した地元の方のほとんどは70代、80代である。この地で一番元気なのは実にこの年代なのだと考えると、これからの日本でお手本にすべきはまさにこの地域なのではないかという気がする。活動発表をされた4町村の方々の生き生きとした様子がとても印象的で、結局地域づくりというのは、地域にこうした表情をする人が多くいることなのだと強く感じさせられた2日間であった。


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2017年03月22日

私的東北論その91〜「楽都」への道(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に発行された「東北復興」第54号では、「楽都」について書いてみた。東北では仙台と郡山が「楽都」を自称しており、それぞれそれを名乗るに値する、音楽についての充実した取り組みがある。以下がその全文である。


「楽都」への道

音楽イベントの多い街・仙台
 私事であるが、今年から男声アカペラグループに所属している。活動を始めて今年で17年目になる、仙台でも老舗と言えるグループで、男声のみ、しかも無伴奏というグループは多くのバンド、グループが活動する仙台でも稀である。

 11月5日は第15回仙台ゴスペル・フェスティバルが開催され、仙台市中心部の11のステージで104の演奏が繰り広げられた。お目当てのグループの演奏を聴きに来た人はもちろん、歩いていた足を止めて演奏に聞き入る人の姿も各所で見られた。

 考えてみると、ここ仙台は年間を通して音楽関連のイベントが多い土地であるように思う。私の属するグループも1年に5回ほど演奏を行うが、そのうち4回は仙台市内の音楽イベントである。6月の「とっておきの音楽祭」、7月の「太白区民合唱祭」、9月の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、そして今回のこの「仙台ゴスペル・フェスティバル」である。

 これら以外にも仙台市内の音楽イベントは数多い。5月に「仙台コレクション」(昨年までは9月の開催だった)、6月には「ジャズ・プロムナード in 仙台」、7月に「伊達ロックフェスティバル」、「若林区合唱のつどい」、8月の仙台七夕まつり時期に開催される「スターライト・エクスプロージョン」と「七夕ヴィレッジ」、9月に「秋保温泉MUSIC BAR」、10月に「仙台クラシックフェスティバル」、「伊達な街四丁目アカペラストリート」、「MWGA☆ROCKS」、12月に「ビッグバンドJAZZ・クリスマスコンサート」、「学都×楽都コラボレーション」、「クリスマスヴィレッジ」などが開催され、他に3年に1回仙台国際音楽コンクールが開催される。

 それだけではない。「仙台・杜の響きコンサート」には、仙台市内で開催される音楽イベントの予定がまとめられているが、ここを見ると、毎月かなりの数の音楽イベントが仙台市内各地で開催されていることが分かる。

 こうしたあまたある音楽イベントの中でも、9月に開催される「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、今や国内最大の市民音楽イベントと言われる。市民の発案で始まったこの音楽イベントは、26回目を迎える今年、国内外の760のバンドが集まり、70万人が集まった。市民が中心となって運営し、市民が無料で気軽に聴けて、街角そのものがステージというスタイルで始まったこのイベントは、全国各地の音楽イベントにも影響を与えた。仙台市内はもとより他の地域でも同様のスタイルを取る音楽イベントが数多く誕生した。宮城県内では「鳴子音楽祭『湯の街ストリートジャズフェスティバル in SPA鳴子』」、東北では秋田の「ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ」と「アキタミュージックフェスティバル」などがある。

もう一つの東北の「楽都」・郡山
 このように音楽イベントがあまた催されることもあって、仙台は「楽都」と称することがある。ただ、「楽都」は仙台だけの専売特許ではない。東北ではもう一つ、福島の郡山市も「楽都」を称している。郡山の「楽都」への道は戦後すぐ始まったとのことで、かなりの歴史を持っているようである。敗戦直後の荒廃の中で郡山では、音楽が戦災からの復興を目指す市民の心の拠り所となり、当時難しかったオーケストラを招いての演奏会を実現させた。その後「良い音楽を安く多くの人に」とのスローガンのもとで進められた勤労者音楽協議会の企画で著名団体の公演などが相次いで実現し、注目を集めたそうである。1964年には毎月第3金曜日をコーラスの日とし、街頭でコーラスを歌い、広めるという「十万人コーラス」運動が興り、翌年には「二十万人コーラス市内パレード」なども実施された。

 現在、郡山でも仙台と同様に年間を通じて音楽イベントは多いが、郡山で特筆すべきは学校音楽のレベルの高さである。特に合唱においては、中学校では郡山市立郡山第五中学校女声合唱団、郡山市立郡山第五中学校混声合唱団、郡山市立郡山第二中学校合唱部、郡山市立郡山第七中学校合唱部などが、高校では福島県立安積黎明高等学校合唱団や福島県立郡山高等学校合唱団などが、また小学校では郡山市立大島小学校などが、全日本合唱コンクールや「Nコン」ことNHK全国学校音楽コンクールなどで上位入賞の常連校となっている。これは郡山市内の音楽活動のすそ野の広さや教育の熱心さなどを如実に示しているものと言える。

 ちなみに、福島県内では会津若松市も郡山に負けず劣らず、中学校や高校の合唱部がレベルが高い。中学校では会津若松市立第二中学校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部、会津若松市立一箕中学校合唱部、高校では福島県立会津高等学校合唱団がやはりコンクールの上位常連校である。会津若松市は特に「楽都」を名乗っていないが、充分それに値する存在であると言える。

「楽都」ウィーンに学ぶこと
 世界的に「楽都」と言えばオーストリアの首都ウィーンのことである。ハプスブルク家の音楽好きに端を発する、少なくとも500年以上の伝統、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといったウィーンを拠点として活動した著名な作曲家の存在、全世界に衛星生中継されるニューイヤーコンサート、現在少なくとも8つはあるオーケストラなど、まさに「楽都」と称するにふさわしい要素があまたある。

 これらに加えて特筆すべきは、音楽を楽しむ環境の充実ぶりである。ウィーンには一度足を運んだことがあるが、「すごい」と思ったのは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーンフォルクスオーパー管弦楽団という、ウィーンを代表するオーケストラによるオペラが、ウィーンではほぼ毎日上演されているということである。それだけではない。もちろんウィーンでもいい席は日本円にして2万円くらいはするが、それだけでなく、学生やお金がない人でも楽しめるように、立見席が用意されており、その値段は日本円で500円くらいなのである。

 500円でオペラ鑑賞などとは日本ではおよそ考えられないことであるが、ウィーンではその気になれば毎日、500円でオペラを楽しむことができる。このように、市民が音楽を身近で気軽に楽しめることが、「楽都」の「楽都」たる所以であるように思った。

 日本で同様の環境は望むべくもないが、少なくとも仙台や郡山で開催されているたくさんの音楽イベントは、市民自らが演奏したり、その演奏を気軽に聴いたりできるということで、そこに住む人自身が音楽を楽しむ環境をつくるのに大いに貢献しているということは言える。「楽都」にとってそこが最も重要な要素であるように思う。

「楽都」同士の連携を
 ちなみに、Googleで「楽都」と入力して検索候補として表示される地名は仙台、郡山の他に、松本、堂山、四国中央があった。これらの都市がどのような趣旨でどのような活動を行っているかについて情報を得る機会は日常ほとんどない。そう言えば、同じ東北であっても、仙台と郡山の間でも「楽都」連携はほとんどなされていないのではないだろうか。恐らく、仙台市民のかなりの割合の人は、自分たちの住んでいる仙台が「楽都」と称していることについてはある程度知っていても、郡山も「楽都」を称していることは知らないだろうし、ましてや郡山が「楽都」としてどのような取り組みをしているかについてもほとんど知らないのではないだろうか。

 しかし、「楽都」としてウィーンになることは難しくても、お互いにその取り組みについて情報交換をし、学び合うことで、「楽都」としての取り組みをより充実させ合うことはできるはずである。そもそもウィーンと違って、日本国内であれば「楽都」は一つの都市だけが名乗れるといったようなものではなく、同時多発的に複数の「楽都」があってまったく問題ないはずである。いや、むしろたくさんの「楽都」があれば、それだけ音楽を楽しめる環境が多くあるということになり、望ましい。「楽都」を自称する都市が集まって、年に1回くらい「楽都サミット」を開催してみてはどうだろうか。

 東北の中だけでもできることはありそうである。まずは先に述べた、仙台と郡山という「楽都」同士が連携する体制をつくることが必要だが、それに加えて、東北の主だった都市間で音楽に関する取り組みについて情報交換する場があるとよいと思う。

 なぜそのように思うかと言えば、最初に述べた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」と同様のスタイルで始まった東北の音楽イベントの中には、何回か開催されたもののその後開催されなくなってしまったものもいくつかあるからである。これは実にもったいないことである。

 何か新しいことを始めることはもちろん大変だが、新しく始めたことをその後も続けることは実はもっと大変なことである。始めたことをその後どのように続けるかについてのノウハウは、始めたことを現在も続けているところが持っている。運営体制の構築や維持、引継ぎや予算確保、プロモーションといった実務上のことからコミュニケーションの方法やモチベーションの維持といったメンタル面のことまで、長く続けているところには必ず工夫がある。それを共有することで、せっかく始めたことが一過性のものとして終わるのではなく、息の長い取り組みとして続き、そうすればその取り組みは地域に根付く。「楽都」はそうしたことの積み重ねの先にある。

 郡山の「楽都」への取り組みが戦後の復興を支えたことを考えても、音楽の持つ力を東北が前に進むために活かすことは必要であると思う。そのためには東北のあちこちに「楽都」ができるのがよいのではないだろうか。


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2016年10月27日

私的東北論その87〜「東北秘境ツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日に刊行された「東北復興」第51号では、先号、先々号に続いて、東北の観光について取り上げた。この回のテーマは「東北の秘境」である。ただ、秘境というのは、私の中では、あまり人に知られていないこともその大きな要素だと思っているので、秘境について紹介することは、秘境を秘境でなくする可能性があり、その点で矛盾を感じるところもある。

 とは言え、東北の秘境はとても魅力的なところが多いので、紙面では以下の通り、紹介してみた。


東北秘境ツアーのススメ

東北の秘境?
 前回は東北の「端っこ」を紹介した。今回は東北の秘境について紹介したい。ただ、、「端っこ」については、緯度と経度で異論なく決まるが、「秘境」がどこかについては、解釈の違い、意見の隔たりが多くありそうである。

 例えば、秘境と言うと、かつて「日本の秘境100選」が選定されたことがある。JTBの雑誌「旅」が創刊750号となるのを記念して開催されたシンポジウムの場において選定されたものである。この中で東北で選ばれたのは、八甲田山(青森県)、下北半島/恐山・仏ヶ浦(青森県)、津軽半島西岸(青森県)、八幡平・乳頭温泉郷(秋田県・岩手県)、出羽三山(山形県)、檜枝岐・野岩鉄道沿線(福島県・栃木県)、裏磐梯・雄国沼(福島県)、遠野盆地(岩手県)、内間木洞(岩手県)、重茂半島(岩手県)、十二湖・白神山地(青森県)、飛島(山形県)、笹谷峠(宮城県・山形県)の13か所である。

 「日本の秘境100選」に選ばれた東北の「秘境」を見て私が最初に思ったのは、「これらは秘境なんだろうか」ということである。秘境どころか、有名な観光スポットがほとんどのように見える。これらの中で私が「確かに秘境だね」ということで同意できるのは、内間木洞くらいである。岩手県の沿岸北部久慈市にあって日本で5番目の長さを持つこの洞窟は、普段一般公開がされておらず、また龍泉洞やあぶくま洞などと比べて知名度も高くないので、その意味で秘境であると言ってよいと思う。

秘境とは何か
 そもそも秘境とは何だろうか。「デジタル大辞泉」には、「外部の人が足を踏み入れたことがほとんどなく、まだ一般に知られていない地域。」とある。「大辞林」でも、「人の訪れたことのない、まだ一般によく知られていない地域。」とある。

 どちらの解釈でもポイントは二つで、一つは「人があまり訪れていない」こと、もう一つは「一般によく知られていない」ことである。私が「秘境」という言葉を聞いてイメージするのもこれらと近い。

 そうした観点から見ると、やはり先の「日本の秘境100選」は、あまりにも人が訪れ過ぎで、あまりにもよく知られ過ぎた場所ばかりである。秘境の捉え方にもよるが、辞書的な解釈からはかなり遠い「秘境」であると言わざるを得ない。

 秘境に相応しい言葉として、「人跡未踏」という言葉が挙げられると私は思う。このご時世、人跡未踏の地などあるのかと思われる向きもあるかと思うが、東北の山の中にはつい最近まで人がほとんど足を踏み入れたことのなかった地域が多くある。これぞまさに秘境である。

手掛かりはブナの森
 東北で秘境を考える時に手掛かりになるのはブナであると思う。2013年3月の第10号で東北のブナについて書いたことがあるが、ブナは東北各地に広く森を形成していた樹種である。しかし、木材としての利用がしづらかったために、各地で伐採され、代わりに木材として利用されるスギなどが植えられた。ということは、現在もブナの森が残っている地域は、人の手が加えられていない、いわばあまり人が訪れていない地域と言うことができるのではないだろうか。

bunabayashi1 その代表がもちろん、世界自然遺産として登録された、縄文時代から続くブナの原生林が今も残る白神山地である。しかし、白神山地は世界自然遺産への登録で一躍有名になり、また訪れる人も急増したため、秘境とは言えなくなってしまった。

 福島を除く東北5県の国有林を管理する東北森林管理局のデータによれば、管内国有林の樹種別蓄積では、スギが6,686万立方メートル(26%)で最も多いが、次いでブナが5,708万立方メートル(24%)で、以下カラマツ1,503万立方メートル(6%)、ヒバ1,382万立方メートル(6%)、アカマツ1,280万立方メートル(5%)、ナラ類823万立方メートル(4%)と続く。だいぶ伐採され、植え替えられたとは言え、依然ブナの木が東北には多く残っていることが分かる。

image-19 白神山地以外でブナの原生林が残っている地域として挙げられるのが、福島県の奥会津・只見町である。只見町のブナ林はその規模や原始性において、白神山地と並んで国内随一と言われている。伐採を逃れたブナ林は、やはりあまり人が入らない奥山に残っている。只見町では、町内のブナ林のパンフレットを作成しており、ウェブ上でも閲覧できる。


巨樹・巨木も手掛かり
 もう一つ、秘境の手掛かりとしてあるのは巨樹、巨木である。それが神域にあったために伐採を免れ、大事にされてきたというケースもあるが、そうでなければ単に発見されなかったために今に至るまで残った巨樹・巨木も多くある。

img481 林野庁は「森の巨人たち百選」を選定したが、100のうち27が東北にある。これらの中には、元々古くから巨樹として知られてきた木もあるが、環境省が1988年と2000年に全国で行った巨樹巨木林調査の結果、存在が明らかになった巨樹もある。岩手と秋田両県にまたがる和賀山塊もブナの原生林が多く残ることで特筆すべき地域だが、ここにある「日本一のブナ」や「日本一のクリ」の存在が明らかになったのは、まさにこの調査の結果である。和賀山塊について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「巨樹の森・和賀山塊」が参考になる。

 山形県の北部、最上(もがみ)地域もそうである。1市4町3村からなるこの地域は、総面積の8割が森林であるが、ここでも全国有数の巨樹・巨木が多く見つかっている。最上地域観光協議会のサイトで詳しく紹介されている。

奥会津の秘境
 先に紹介した只見町は奥会津と称される地域にある。会津と言うと、この地域の中心都市会津若松市が有名で、確かに市内を歩くとそこかしこに会津らしさが感じられるのだが、こと自然に関しての会津の魅力は実は、会津若松からさらに奥地に入ったところにあると私は思う。それが只見町のある奥会津地域であり、それに隣接する南会津地域である。

wgn5QT4C これらの地域には新潟県側にまたがって越後三山只見国定公園があるが、福島県側のポイントは只見町の田子倉湖と只見町に隣接する檜枝岐村の奥只見湖である。ちなみに、檜枝岐村は東北で最も人口の少ない市町村である。昨年現在の人口は614人で、東北で唯一三桁の人口である。また、村の面積の約98%が山林であるために全国で最も人口密度が低い市町村で、その数値は1平方キロメートル当たり1.73人である。つまり、1キロメートル四方に2人いない計算である。日本一人口密度が高いのが東京都中野区の1平方キロメートル当たり20,180人であるので、檜枝岐村の人口密度はその約11,665分の1である。

 田子倉湖も奥只見湖も、全国屈指の規模のダムによって生まれた湖であるが、この2つの湖を結ぶ地域はまさに人跡未踏の地として知られている。どちらのダムも建設時に多数の殉職者を出した末にようやく完成したと言い、今もお盆には慰霊祭が行われているそうである。

秋田内陸にある秘境
kimimachisugi 先に紹介した「森の巨人たち百選」の中には「きみまち杉」という、樹高が58メートルという日本一の高さの杉がある。58メートルと言うと、15階建てのビルに相当する高さだそうである。

 この「きみまち杉」があるのは、秋田県能代市の仁鮒水沢スギ植物群落保護林である。この保護林もほとんど知られていないので秘境と言って差し支えないと思うが、人工林ではない秋田杉の天然林が見られる希少な場所である。一歩足を踏み入れると、とにかくそのスギの存在感に圧倒される。植林されたスギとはスケール感がまるで違う。入口にある看板の文句が面白い。「道路沿いなどによくある人工林とは段違いのスケールを誇る巨木林です。ただ目が慣れると感激が薄れてしまいますのでご注意ください」とある。「森と水の郷あきた」のサイト内の解説が詳しい。

001 北秋田市にある森吉山周辺もまさに秘境と呼ぶに相応しい地域である。古くから霊峰として山麓住民の信仰の対象となってきたこの森吉山にも豊かなブナの森がある。水の豊かな山で、山間のあちこちに滝があることでも知られている。

 その中で、秘境の面目躍如たる滝が「九階の滝」と呼ばれる、落差が100メートル以上もある滝である。かつてはこの地のマタギでさえも「神様の沢」として畏れ、近寄れなかったと伝えられる場所で、登山道が整備されていないこともあって、これまで地元の人でさえ数えるほどしか到達していないという、まさに秘境の滝である。

 九階の滝までたどり着ける人はそう多くはないだろうが、小又峡の三階滝までなら行ける。これまた奥森吉を代表する見事な滝である。三階滝までは遊歩道が整備され、場所によって表情を変える清流を横目で見ながら散策ができる。森吉山について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「水の郷・森吉山」が参考になる。

普通の「東北」に飽き足らない方へ
 これまで紹介してきた地域は、恐らくあまり知られていないと思われる。いずれも「東北の秘境」という称号に値する地域と言えるのではないだろうか。冬ともなるとまさに人跡未踏の地となるが、今の時期であれば、もちろん奥地まで入り込むのであれば本格的な装備が必要となるが、そこまででなければ比較的軽装でも、十分秘境の醍醐味を味わうことができる。

 有名な観光地巡りには飽きたという方や、東北らしさを存分に味わいたいという方にはぜひおススメしたい。


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2016年09月30日

私的東北論その86〜「東北端っこツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙の第50号とその次の第51号では、前回第49号で考察した東北の観光の現状等を踏まえて、東北の観光資源の「掘り起こし」を図った。第50号では、東北の東西南北端を巡るツアーを提唱してみた。

 以下がその全文である。


「東北端っこツアー」のススメ

 東北は南北約530km、東西は最大約180kmに及ぶ広大な地域である。南北に長いことから、東北の南端に近い福島県いわき市の小名浜では桜の開花が平年値で4月6日なのに対し、北端の手前にある青森県むつ市では平年値が4月29日と、桜前線が東北を縦断するのには1か月近い期間を要する。

 日本の東西南北端の場所は有名で、最東端は南鳥島、最西端は与那国島、最南端は沖ノ鳥島、最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。これに対して、各地方の東西南北端はと聞かれてすぐに答えられる人はほとんどいないに違いない。こと東北に関して言えば、最北端の下北半島・大間崎は有名である。大間崎は東北の最北端というだけでなく、本州の最北端でもあることからある程度知名度があるのかもしれない。しかし、東北の最東端である岩手県宮古市の魹ヶ埼(とどがさき)も本州の最東端であるにも関わらず、知名度は今ひとつである。最南端や最西端に至っては恐らくほとんどの人が知らないに違いない。そこで今回は東北の「端っこ」を紹介してみたい。


最北端・大間崎(おおまさき)
kaikyo 大間崎は、青森県の北東、マサカリのような形をした下北半島の最北端にある。大間崎を抱える大間町は、マグロの一本釣りで有名な漁業の町である。大間のマグロは東京・築地のセリで高値がつくことでもよく知られる。

 地図をよく見ると分かることだが、北海道の最南端よりも大間崎の方が北に位置している。もちろん、れっきとした東北の一部なのだが、下北半島で見られる景色は東北の他の地域とは明らかに異なる。北海道にも通じるような雄大さとおおらかさを兼ね備えたような景色である。なにせ県庁所在地の青森市から下北半島の中心都市むつ市までは約100kmもある。同じ青森県内でも、津軽や三八上北とも違う、下北ならではの風景がここにはある。

 むつ市郊外には恐らく下北半島で最も有名と思われる、日本三大霊山、日本三大地獄の一つ、恐山(おそれざん)がある。火山ガスが噴き出す荒涼とした風景がまさに地獄を彷彿とさせ、おどろおどろしいイメージがつきまとう恐山だが、隣接する宇曽利湖(うそりこ)は波静かで極楽浄土に比せられる。つまりここは地獄だけでなく、極楽も体験できるスポットなのである。ちなみに、恐山の「恐」と宇曽利湖の「宇曽利」は元々同じ読み。ここは地獄と極楽が同居する稀有な地なのである。

 下北半島には薬研(やげん)温泉や下風呂(しもふろ)温泉など、名湯がある。が、せっかく東北最北端の地に来たのであれば、ぜひ東北最北端、すなわち本州最北端の温泉に入ってみてほしい。それが大間温泉である。おおま温泉海峡保養センターが所有する温泉で、宿泊もできる。

 マグロで有名と書いたが、実は大間町には「陸(おか)マグロ」と称されるものがある。それは大間町で肥育されている大間牛のことで、これがまた大間の本マグロにも負けない最高等級の牛肉なのである。ちなみに、おおま温泉海峡保養センターでは大間マグロとこの陸マグロの食べ比べコースもある。

 大間町には以前紹介したことがあるが、本州最北端の地ビールがある。梅香山崇徳寺(ばいこうざんしゅうとくじ)という江戸時代から続くお寺がつくる、全国でも恐らく唯一の地ビール「卍麦雫(まんじむぎしずく)」である。境内にはこれまた全国でも唯一と思われるこの地ビールの自動販売機もある。これもぜひ味わってみてほしい。

 本州最北端の大間崎、対岸の北海道が間近に見られることで有名だが、南側以外ぐるっと海に囲まれたロケーションであることから、実は海から昇る朝日と海に沈む夕日が両方見られる。このようなスポットというのは日本中探してもあまりないと思うのだが、そのこと自体あまり知られていないようである。ここはもっとアピールすべきポイントである。


最東端・魹ヶ埼(とどがさき)
27 最東端の魹ヶ埼は、岩手県の三陸沿岸、宮古市の重茂半島にある岬である。先にも紹介したように、本州最東端の地でもあるのだが、知名度は最北端の大間崎に遠く及ばない。その理由は何かと考えてみると、|鰐召読めない、辿り着くのが大変、ということがあるように思われる。,砲弔い童世┐弌◆屬箸鼻廚箸いΥ岨自体がまず読めない。パソコンでも環境依存文字で、正しく表示されるかどうかはパソコン次第である。△砲弔い討蓮宮古市の中心部から入口まで車で約50分もかかるだけでなく、駐車場に車を止めてから「山道」を約1時間ほど歩かなくては辿り着けないということがある。なぜ海のそばなのに山なのかと言うと、三陸海岸は昔習ったように「リアス海岸」であるからで、海のすぐそばまで山なのである。

 往復2時間と考えると訪れるのに二の足を踏んでしまいそうになるが、ここは行って損のないスポットである。眼前には太平洋が遮るものなく茫洋と広がり、三陸沿岸屈指のビューポイントである。

 知る人ぞ知る、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった魹ヶ埼灯台もある。映画の当時は灯台守が海の安全を守っていたが、今は無人である。市街地から遠く離れた「陸の孤島」であるこの灯台で灯台守の夫婦がどのように生活していたのかと考えると、先人たちの苦労が偲ばれる。

 最東端ということで、魹ヶ埼は東北で最も早く朝日が昇るスポットである。ちなみに、緯度の関係で本州全体で最も早く朝日が昇るのは千葉県の犬吠埼である。


最南端・矢祭町(やまつりまち)
1454037976_8a 東北の最南端は福島県いわき市であると思っている人も多いに違いない。冒頭で紹介したように、いわき市は東北で最も早く桜が開花する地である。しかし、緯度上の最南端はいわき市ではない。もっと南に存在するのが矢祭町(やまつりまち)である。この矢祭町の国道349号線沿いにある明神峠の西側の山麓が東北最南端の地である。

 矢祭町は人口7,000人弱の小さな町だが、いわゆる「平成の大合併」の折に小規模自治体が切り捨てられることに反発して、「合併しない宣言」を採択して話題となった。宣言を出しただけでなく、小規模自治体が財政的に自立できるよう、行財政改革を徹底して行って成果を上げており、全国の自治体から視察がひっきりなしに行われている町としても有名である。

 観光スポットとしては、町の中心にある矢祭山とそのそばを流れる久慈川の周辺が中心となる。矢祭山は町全体が見下ろせるビュースポットであると同時に、山つつじの名所としても知られている。久慈川流域は「東北の耶馬渓」と称される四季折々の景観で知られる。個人的なおススメは「阿武隈の秘境」と呼ばれる滝川渓谷で、全長3kmの散策路内に四十八滝がある。渓谷を上り切った先にある「滝川の里」で食べられるそば粉十割の手打ちそばも美味しい。

 矢祭町の特産品はゆずで、香り高いことで知られている。町内では、ゆずシャーベットなど、このゆずを使った加工品がある。


最西端・御積島(おしゃくじま)
osyakujima 東北の最西端について知っている人はほとんどいないに違いない。日本海側に突き出た半島がそうなのではないかと考える人もいるかもしれないが、東北地方は北東方向から南西方向に伸びている。したがって、恐らく東北の日本海側で最も有名な半島と思われる、ナマハゲで有名な男鹿半島は東北の最西端ではない。岩木山が海に浮かんだように見える、津軽半島の小泊半島も最西端ではない。

 離島を含めるかどうかでも違ってくるのだが、離島まで含めるのであれば、山形県酒田市にある御積島が東北最西端で、離島を含めないのであれば、山形県鶴岡市の鼠ヶ関が最西端である。御積島を知っている人は東北の人であってもなかなかいないと思われるが、酒田市に属する離島で、トビウオで知られる飛島(とびしま)の西約2kmに位置する無人島である。スキューバダイビングのスポットとして知られている。この御積島の西に位置する岩礁、カラカサノイボの経度は東経139度31分13秒である。

 これに対して、離島を含めない場合は鶴岡市の南端にあって、出羽と越後の境であった鼠ヶ関が最西端となる。鼠ヶ関の弁天島のすぐ西にある岩礁の経度は東経139度32分18秒で、ほんのわずかな差ではあるが、御積島の方が西である。

 御積島のある飛島には、酒田港から定期船「とびしま」で75分である。ちょっと書いたようにトビウオが多く取れる。トビウオの焼干しやつゆは特産品として有名である。海藻もいろいろ取れ、特にイギスやアラメ、ホンダワラなどは他地域のものに比べて美味しいと評判である。飛島からは御積島も回る遊覧船が出ている。

 一方の鼠ヶ関は、江戸時代には念珠ヶ関とも表記され、福島県白河市にある白河関といわき市にある勿来関と共に、奥羽三関の一つとして東北への玄関口として知られる。ちなみに、現在の鼠ヶ関の史跡は「近世念珠関址」と呼ばれ、移転された事情は定かではないものの、古代の鼠ヶ関があった場所から北方に約1km移動している。これに対して元々鼠ヶ関があった場所は「古代鼠ヶ関址」として、石標が建てられている。その西端である弁天島へは現在は遊歩道が整備され、地続きである。源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた際に上陸した地として伝わる(新潟の村上から当地までは船に乗ったとの伝承がある)。飛島も鼠ヶ関も、日本海沿岸ということで、言うまでもないが海に沈む夕日の絶景スポットである。


ぜひ「東北端っこツアー」を
 以上紹介した東北の東西南北端を巡るツアーなどは今のところないが、個人的にはやってみたら面白いのではないかと思う。それぞれ全く異なる雰囲気があり、東北の多様さを体感できるツアーになるに違いない。

 本州の東西南北端については、「本州四端踏破ラリー」がある。これまでに紹介した、本州最北端である大間町、最東端である宮古市、それに最西端である山口県下関市、最南端である和歌山県串本町で構成する本州四端協議会が、地域活性化のために協力して実施している取り組みで、すべて踏破した人には、本州四端踏破証明書と本州四端オリジナル記念品が贈られる。平成16年に始まって以来、これまでに1,792人が踏破者としてカウントされている。手始めに、同様の取り組みを東北でもやってみてはどうだろうか。


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2015年05月02日

私的東北論その69〜ふくしまデスティネーションキャンペーンが開幕!(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」第35号が4月16日に刊行された。本来なら、そこへの寄稿原稿は次の号が出てからこのブログに収載しているが、今回はあるいはGW中に福島を訪れる人も相当数いると考えられることから、少し前倒ししてこのブログでも公開することにした。今回のテーマは、現在福島県内で開催中の「ふくしまデスティネーションキャンペーン」に関連して、である。


追記(2017.1.17):下の記事で紹介した、理論上富士山が見える北限とされる花塚山で、地元の登山愛好家3人がついに富士山の姿を撮影することに成功したそうである。

朝日新聞「富士山、福島の山から撮影成功 308キロ先の『北限』

3人は初の撮影成功まで実に55回も花塚山に登ったそうで、その執念が実を結んだわけである。
下の記事では富士山が見える北限について、直線距離と緯度の点から日山と麓山の2つを挙げていたが、これで晴れて、その両山よりも北の花塚山を「北限」とできるわけである。


ふくしまデスティネーションキャンペーンが開幕!

デスティネーションキャンペーンと東北
 ふくしまデスティネーションキャンペーン「福が満開、福のしま」が4月1日、開幕した。デスティネーションキャンペーン(以下DC)とは、県、地元自治体、観光事業者等とJRグループが連携して行う国内最大級の大型観光キャンペーンで、1978年の和歌山県で開催された「きらめく紀州路」以来、今回の福島で94回目となる。
 
 このうち、新潟を含む東北圏が対象となったDCは計33回と、全体のほぼ3分の1を占めている。東北はその観光資源の多さや、首都圏からの距離の近さなどから、観光キャンペーンの対象としやすい面があるのかもしれない。

 福島が対象となるのは、1985年(この時は東北地方全域)、1995年、1998年、2001年、2005年に続いて6回目であるが、今回は何と言っても東日本大震災後初めてのDCとあって、関係者の間には期するものがあるに違いない。

 3月末に東京に行ったが、JR各線の車内広告や駅の広告でこのふくしまDCを目にしないことはなかった。いつもながらJRグループとしてもかなりの力の入れようであることが窺える。

 今回は、6月30日までの期間中、福島の「花」、「食」、「温泉」、そして「復興」を柱として、地域の特色である桜、歴史や文化、自然に加えて、福島県内の各地域が準備する「DC特別企画」などのイベントが目白押しである。このうち、福島県内の桜については、昨年4月の第23号で「そうだ、桜を見に福島へ行こう」で詳しく紹介したが、福島は、東北はもとより、全国でも屈指の桜の名所の多い地域である。

 福島はまた、スイーツが美味しい土地柄でもある。特に東北では山形と並んで「果樹王国」と称される通り、地元で取れる豊富な種類の果物を使ったスイーツが多い。そこに目をつけたJR東日本は今回のDCに合わせて、郡山から会津若松まで「フルーティアふくしま」という臨時列車を運行させる。「走るカフェ」のコピーの通り、車内ではコーヒーやフルーツジュースと共に、福島県産フルーツなどを使用したオリジナルスイーツが味わえるそうである。

充実した内容のガイドブック
 ふくしまDCの開催に合わせて、JRの各駅などではふくしまDC総合ガイドブックが入手できる。見た目は普通のパンフレットのようなのだが、その実70ページにも及ぶボリュームの、まさにパンフレットというよりガイドブックと呼ぶに相応しい代物である。

 内容も実に充実していて、これがあれば普通の観光ガイドブックはいらないのではないかと思われるくらい、福島県内各地の観光物産について詳しく紹介されている。しかも、定番のものを通り一遍に紹介するだけにとどまらない。、

 例えば会津のまんじゅうの天ぷらや喜多方のラーメンバーガー、福島のイカ人参といったあまり知られていないご当地グルメや、船引のお人形様のような独自の風習、奥州藤原氏と源氏との最大の激戦地となった阿津賀志山防塁のような歴史上の遺構、相馬の百尺観音のような地元以外には知られていない文化財など、ある意味マニアックなニーズにまで対応できそうなレベルで紹介されている。

 ちなみに、このガイドブック、ふくしまDCのサイトでも電子ブックとして閲覧できるようになっている。また、総合ガイドブックだけでなく、中通りエリアガイドブック会津エリアガイドブックいわきエリアガイドブック相双エリアガイドブックなどもPDFデータとしてダウンロードできるようになっている。

ガイドブックに載っていない穴場的スポット
 さて、このように詳細なガイドブックを作られてしまうと、私の出る幕などない、…のだが、ガイドブックに載っている以外にもまだ、私の知っている穴場的なスポットがあるので、以下紹介していきたい。

・医王寺
 福島市の飯坂温泉に向かう途中にある奥州藤原氏を支えた信夫佐藤氏の菩提寺。源義経に付き従って戦死した佐藤継信・忠信兄弟の墓碑もある。瑠璃光殿という宝物殿には佐藤氏ゆかりの品々が展示されているが、義経一行に関わるものも数多い。

 佐藤兄弟追善法会の時書かれた弁慶筆の下馬札、佐藤兄弟が旗竿に用いた二股の竹、佐藤継信・忠信所用の鐙、佐藤継信所用の鞍、芭蕉の句にも詠まれて知られている弁慶所用の笈、旗揚げの折りに佐藤基治と別れるに臨み形見に与えたという義経が着用した直垂の断片、佐藤兄弟の追悼のため書いたという弁慶筆の紺紙金泥大般若経、屋島の合戦において自分の身代わりとなった継信から義経自ら抜き取り「恨の矢の根」と名付けて基治に贈ったという能登守教経所用の矢の根、義経書状など、義経一行に関わる遺品は平泉よりもはるかに多いのではないかと思う。戦前までは義経の太刀も所蔵されていたそうである。

 近くには、信夫佐藤氏の居城と伝わる大鳥城跡が公園として整備されており、こちらも見晴らしのよいオススメスポットである。

・霊山
 中通りの福島市から浜通りの相馬市に向かう国道115号線沿いにある標高825mの山。直立する柱状節理が印象的な岩山である。あまり知られていないが、南北朝動乱期の一時期、多賀城の陸奥国府が、南朝方の鎮守大将軍北畠顕家によって、攻めるに難く守るに易いこの霊山山頂に移されたことがあった。切り立った絶壁を下から見上げると、ここを攻めなければいけなくなった北朝方はさぞや難儀したのではないかと実感する。

 現在は遊歩道が整備され、そのような見かけとは裏腹に、登りやすい山となっている。頂上からの見晴らしもよく、また秋の紅葉の名所としても地元ではよく知られている。

・日山・麓山
 これまたあまり知られていないが、富士山が見える北限の地は福島県である。現在までのところ、二本松市にある富士山から299km離れた標高1,057mの日山(ひやま)、298km離れた標高897mの麓山(はやま、羽山とも)が、富士山を遠望できる北限の地とされている。ちなみに、2つの山を挙げた理由は、富士山からの距離という点では日山の方が麓山よりも1km離れているが、緯度は麓山の方が日山よりも高く(つまりより北)、甲乙が付けにくいからである。

 なお、シミュレーション上は、川俣町と飯舘村の間にあり、富士山から308km離れた標高918mの花塚山が本当の北限であるようだが、今のところ花塚山からの富士山の撮影には成功していない。

・UFOの里
 福島市の南西部、飯野町地区は地元では「UFOの里」として知られている。地区の北部にある標高462mの千貫森周辺では、古くから発光物体の目撃例が多数あるそうで、地区にあるUFOふれあい館ではUFOに関する資料の展示や3Dシアターでの映像の上映が行われている。UFOとは何の関係もないが、展望風呂やテニスコートもある。また、隣接するUFO物産館では地元の物産品、民芸品の他に宇宙やUFOにかかわるグッズなども販売されている。物産館と同じ建物のパノラマ食堂では、UFOとは何の関係もないが、「ダブル地鶏ラーメン」と「飛び魚ラーメン」が人気である。

 UFOの里のサイトには「UFOカメラ」というライブカメラもあり、居ながらにしてUFO探索ができる。

・妖精美術館
 会津の金山町の沼沢湖のほとりには、妖精をテーマにした珍しい美術館がある。ここには世界中の妖精に関する絵画、絵本、文学資料、人形、妖精をとり入れた小道具などがたくさん揃っている。ただし、雪が深い冬季は休館しており、今年のオープンは4月28日の予定である。

・地ビール
 ふくしまDC総合ガイドブックでは、福島県内の地酒については紹介されているものの、地ビールについて紹介されていないのが残念である。福島県内の地ビールについては以前「東北地ビール紀行」の中で紹介したが、福島市の「みちのく福島路ビール」、猪苗代町の「猪苗代地ビール」、二本松市の「ななくさビーヤ」がある。みちのく福島路ビールと猪苗代地ビールには直営のレストランもあるので、出来立ての地ビールを樽生で飲むことができる。

・名誉猫駅長「ばす」
私が訪れた時ばす名誉駅長はお疲れでお昼寝中だった 会津鉄道の芦ノ牧温泉駅には猫の名誉駅長がいる。元は近所の子供達が拾ってきた野良猫だったが、それ以来芦ノ牧温泉駅に住み、2008年に名誉駅長に任命され、乗降客の見送り、出迎え、駅構内外の巡回などに活躍中である。

 昨年には子猫の「らぶ」が見習い駅員として就任、修行中である。







福島滞在に補助
 以上、ふくしまDC総合ガイドブックには載っていない、私の知っている福島県の穴場スポットについて紹介してみた。震災によって、東北を訪れる観光客数は減少した。福島県では震災のあった2011年は前年比で61.6%の3,521万人にまで観光入込客数が減少した。その後2012年に4,446万人、2013年には4,831万人と観光入込客数は着実に回復してきている。

 福島県は、観光入込客数の一層の回復を図るために、今回のふくしまDCに合わせて、宿泊代の一部を補助する「福が満開、福のしま。」旅行券事業を始めることにしている。福島県内に滞在する観光客を対象に、ホテルや旅館で使用できる1万円分の宿泊クーポン券を、宿泊予約サイトやコンビニ端末を通じて半額の5,000円で購入できるので、5,000円分お得なわけである。事業開始はどうやらふくしまDCの最後の月である6月からになりそうだが、福島を訪れる際に活用してみてはどうだろうか。


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2014年04月16日

私的東北論その56〜そうだ、桜を見に福島へ行こう(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko23 「東北復興第23号が本日発行された。同紙には創刊号から記事を寄稿しているが、寄稿した記事については、これまで概ね同紙の発行から1か月以上経過した後に本ブログでも紹介するようにしていた。

 ただ、今回寄稿した記事のテーマは「桜」である。1か月後では花は既に散ってしまっているだろう。今回、東北最大の桜の名所である福島県を取り上げたが、今の時期にこそ読んでいただきたい内容であったので、今回の記事に限り、発行人である砂越氏の承諾を得て、「東北復興」紙と同時に本ブログでも掲載することにした。

 そうそう、もちろん私の記事などよりも読み応えのある記事が他にたくさんあるので、ぜひ「東北復興」紙の方も読んでみていただければと思う。

そうだ、桜を見に福島へ行こう

東北最大の桜の名所・福島県
 今年も桜のシーズンがやってきた。東北で最も桜が早く咲く福島県いわき市では4月2日、ソメイヨシノが開花し、桜前線が東北に到達した。
 
 聞くところによると、桜前線の速度はおよそ時速0・7kmとのことである。東北の最南端である福島県いわき市の勿来の関から、東北の最北端である青森県大間町の大間崎までは直線距離で約520kmであるので、時速0・7kmで北上すると約31日掛かる計算になる。従って、桜前線はおよそ1ヶ月かけて東北を北上し、だいたい5月のゴールデンウィーク期間中に津軽海峡を渡ることになるわけである。ちなみに、いわき市の標本木は東日本大震災時に津波を被ったが、その塩害にも負けずに今年も花を咲かせたそうである。
 
 日本中がこれだけ、いつ咲くか、いつ咲くかと気にする花は、桜を措いて他にない。唯一対抗できるとすれば、花ではないが秋の紅葉であろうか。そう言えば、どちらも「前線」の動きに注目が集まる。ともあれ、それだけ日本人にとって桜は特別な意味を持った花で、桜の樹の下で花見をすることはあっても、チューリップの花を見ながら花見をすることはまずない。
 それだけに、桜の名所と呼ばれる場所、あるいは桜の名木と呼ばれる樹は、日本中至る所にある。ここ東北に関してもそうである。とりわけ有名なのは「東北桜三大名所」と呼ばれる弘前城(青森県弘前市)、角館(秋田県仙北市)、北上展勝地(岩手県北上市)の桜であるが、それ以外にも東北には各地に桜の名所、名木が存在する。
 
 この時期、ウェブ上でも桜の名所を紹介したサイトが多数存在する。それらのサイトで東北の桜の名所を調べてみると、あることが分かる。例えば、るるぶ.comの「桜前線とれたて便2014」では、東北六県の桜の名所の数は、青森10、岩手11、宮城9、秋田12、山形14、福島36である。Walkerplusの「全国お花見1000景」では、青森11、岩手26、宮城20、秋田21、山形25、福島47である。駅街ガイド.jpの「お花見ガイド2014」では、青森21、岩手24、宮城23、秋田25、山形27、福島62である。
 
 お気づきのように、先に紹介した「東北桜三大名所」にこそ入っていないものの、福島の桜の名所の数は、東北の他の5県と比べても突出して多いのである。「東北・夢の桜街道〜復興への祈りを捧げる 桜の札所・八十八カ所巡り」では、東北の88ヶ所の桜の名所(札所)を挙げているが、ここでも福島の桜の札所は全88ヶ所のうち21ヶ所に上る。ちなみに、福島におけるこの桜の名所の数の多さは全国的に見ても、概ね東京、京都に次ぐものとなっているようである。

福島の桜は咲き誇る
 地元福島県でも、こうした状況をよく理解しているのであろう。福島県内の桜の名所を紹介したサイトは実に充実している。ふくしまの旅(福島県観光情報サイト)の「ふくしま さくらスポット」には実に、195ヶ所もの桜の名所が紹介されている。福島県のサイト内にある「さくら回廊ふくしま」も、地域ごとに桜の名所、名木を詳しく紹介しており、見応えがある。
 
滝桜(三春町観光協会のサイトより) そうした中で、東北最大の桜の名所・福島を代表する桜と言えば、何と言っても三春町の「滝桜」であろう。日本三大桜の一つに数えられる、樹齢1000年以上とされる枝垂れ桜の巨木である。無数に咲いた花が、まさに滝のように流れ落ちるように見える。「滝桜」と呼ばれるようになったのもむべなるかなという姿だが、実は滝という地名の場所にある桜だから滝桜という名なのだそうである。三春町のサイト内には「滝桜ライブカメラ」があり、滝桜の現在の様子をリアルタイムに確認できる。開花している時期にはアクセスが集中するそうである。
 
 福島県内には、この滝桜以外にも大玉村の馬場桜や、猪苗代町にあって会津五桜の一つに数えられる大鹿桜など、樹齢1000年を超えるとされる桜の古木がある。また、樹齢500年以上と言われる桜も県内各地に点在している。福島の人たちがいかに古くから桜を愛でてきたかを如実に示していると言える。 他にも、小野町にある夏井川の千本桜や会津若松市の鶴ヶ城公園の桜、そして東北の「桃源郷」として知られる福島市の花見山、下郷町の戸赤集落の山桜などは実に見事である。
 
 郡山観光交通のサイト内には「平成26年春場所枝垂れ桜花番付表」がある。東西横綱2本(東の正横綱はもちろん滝桜である)以下、大関6本、関脇6本、小結6本、前頭80本の、実に100本の枝垂桜が大相撲の番付表になぞらえて紹介されている。他にも枝垂れ桜を除く「福島の一本桜best30」と、「福島のお花見名所best30」が挙げられており、その充実ぶりが窺える。

桜の花の真実の姿
 桜の名所ということで言えば、返す返すも残念だったことがある。2km以上に亘って道の両側に植えられた桜のトンネルが続く富岡町の夜の森(よのもり)公園近くの桜並木である。私も大好きで何度も足を運んだこの桜の名所は、東日本大震災による福島第一原発の事故によって今も帰宅困難区域となっており、震災前に富岡町に住んでいた人が一時立ち入りする以外の立ち入りは認められていない。
 
夜の森の桜並木のトンネル(富岡町のサイトより) 従って、今まで紹介した各サイトでも、この見事な夜の森公園の桜並木は取り上げられていないのである。いつかまた大手を振って足を運べる時が来ることを切に願う。
 
 富岡町のサイトでは、震災後の2012年に撮影した夜の森公園の桜が、写真と動画で紹介されている。また、マウス操作によって360度のパノラマ写真で富岡町の桜を鑑賞できるページもある。これらの写真、動画は実に美しいが、この美しい桜が見られない現実を思うと、本当にやるせない、悲しい気持ちになる。
 
 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、幕末から明治という激動の時代を生き抜いた新島八重の生涯を描いたドラマだったが、その最終回に会津藩の家老だった西郷頼母と新島八重との間で、桜の花を愛でながら、次のようなやり取りがある。

西郷頼母「わしはな、新政府がなじょな国つくんのか、見届けんべと、生ぎ抜いてきた。…んだげんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼ぎ付いたのは、なんぼ苦しい時でも、懸命に生きようとする人の姿。笑おうとする人の健気さ。そればっかりが、俺の心を、胸を揺さぶんだ」
 
新島八重「花は、散らす風を恨まねえ。…ただ、一生懸命に咲いでる」

西郷頼母「八重、にしゃ桜だ。…花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる。何度でも、何度でも、花咲かせろ」

 「八重の桜」で作者が一番訴えたかったことは、まさにここにあったのだろうと思う。
 
 桜は、その散り際の潔さから、かつては戦場で命を捨てる兵士の姿になぞらえられた。しかし、そうした桜の姿は、桜の一面のみを見ているに過ぎなかったのだと思う。「八重の桜」の西郷頼母の言う通り、桜は、花を散らせて終わり、では決してない。今年無慈悲な風雨にさらされてその花を散らせても、翌年再びまた見事に花を咲かせるのである。それこそが、桜の花の真実の姿である。そしてきっと、だからこそ、桜は日本人にとって、特別な花であり続けたのだろうとも思う。夜の森公園の桜も、残念なことに誰も見る人はいないにしろ、きっと今年もまた見事に咲くに違いない。
 
 折りしも、ふくしまプレDC「福が満開、福のしま。」と銘打った福島県観光キャンペーン特別企画が実施されている。その中では、福島県205の花の名所を巡る「花の王国ふくしま キビタンフラワースタンプラリー」も実施されている。サイトからは公式ガイドブックもダウンロードできるが、ガイドブックの中だけでも春爛漫の花盛りで、実物はさぞやと思わせられる。
 
 今年はぜひ、福島で咲き誇る桜を見届けに行こうと思う。


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2013年05月03日

私的東北論その45〜「一つの東北」の象徴としてのブナ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

新しい画像10 3月16日に「東北復興」紙の第10号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「郷土の祭礼と宗教と復興」と題して、各地の祭礼と宗教との関わりについて論考している。また、地名研究家の太宰幸子氏への取材から、地名を手掛かりに古代東北の実像に迫ろうとしている。このアプローチも興味深い。

 げんさんは今回、「蝦夷の国」としての庄内について、古代から近世に亘ってその足跡を紹介している。

 その第10号に寄せた拙文が下記である。





「一つの東北」の象徴としてのブナ

白神山地は見渡す限りのブナの森が広がる広すぎる東北を統合する象徴はあるか
 以前紹介した野田一夫氏の「東北は広すぎる」との言葉を引くまでもなく、東北地方は広く、大きい。日本の面積の十七・七%、新潟県まで含めた東北圏では二一・〇%を占める。同じ東北と言っても、青森の人にとっては福島より北海道の方が親近感があるかもしれない。その福島の人にとっては青森より茨城・栃木・群馬の方が親近感があるかもしれない。そう考えると、「東北は一つ」と思っているのは東北の中の方にいる人間の感覚であって、他地域と接している人間から見ると必ずしもそうは感じられないものなのかもしれない。

 地理的感覚だけではない。進もうとしている方向性にも違いがあったりする。以前げんさんがこの紙面でいみじくも書いていた通り、青森は震災後も原子力推進の立場であり、一方の福島は今も原発事故の影響が復興の最大の妨げとなっておりもちろん廃止の立場である。同じ東北でもこれだけ違う。道州制に対するスタンスも以前紹介したように、知事によって見解はかなり異なっている。

 「一つの東北」を東北にいる人が等しく実感するには、東北に共通する何かを見つけることが必要であるように思われる。例えば、この欄で何度か取り上げている、日本の中世史に燦然と輝く平泉文化。これは岩手のものと言うより、東北の至宝である。なんとなれば、平泉文化の影響を受けた仏像や建造物、遺跡が、東北各地に存在するからである。このような「一つの東北」を象徴するようなものが他にも何かあるだろうか。

世界遺産白神山地の意味するもの
 平泉の文化遺産が世界遺産に登録されたのは震災のあった二〇一一年のことであるが、東北にはそれより先に世界遺産に登録された遺産があった。知っての通り、それは白神山地である。

 青森県と秋田県にまたがる白神山地は、八〇〇〇年前の縄文時代から続くそのブナの原生林が世界的に見ても貴重なものであるとして、屋久杉で有名な鹿児島県の屋久島と共に、一九九三年に日本で初めての世界遺産として登録された。そのブナの森の面積は世界遺産の核心地域だけで一六九・七平方キロメートル、全体では実に一三〇〇平方キロメートルにも及ぶ。東京二三区の面積(六二一平方キロメートル)の倍以上である。特に核心地域に指定された地域はほとんど人の手が入っていないが、これだけの規模のブナの森が手つかずで残っているのは、世界的にもこの白神山地だけであるという。

 このブナに代表される落葉広葉樹、日本では東日本に多く分布している。秋になると紅葉し、冬になると葉を落とす落葉広葉樹の森は、針葉樹の森や常緑広葉樹の森と違い、四季の変化に富んでいる。ブナの森は特にそれが印象的である。春の目にまぶしい新緑。夏のブナの葉の濃い緑。秋の見事な紅葉。冬の葉を全て落とし寒風に耐える凛とした姿。どの季節も見る者の心を掴むものがある。もちろん、私もブナの木は大好きである。

使い道のないブナの有用性
 ところで、このブナ、漢字ではブナ、木へんに無と書く。木でない、木として使えるところがない、そのような意味合いであるそうである。確かに、木材としては腐りやすく曲がりやすく、なかなかに使い勝手の悪い材質である。それで各地に広く分布していたブナの森は次々に伐採され、代わりに木材として有用なスギなどが植林された。しかし、ブナの利用価値は、実は木材としての活用にあるのではない。

 ブナの森は、ブナの木材としての利用価値の低さとは対照的に、豊かな恵みをもたらす森である。ブナの森には実に多くの動植物が生育している。ブナを始めとするブナの森の中の植物は秋に実をつける。その実は森に住む動物の貴重な餌となる。また、ブナは冬に葉を落とす。それは大量の落ち葉となって森の微生物の餌となると共に、腐葉土層となって堆積する。腐葉土層は雨水や雪解け水を蓄え、濾過し、ミネラル分を付加して、清冽な天然水をつくる。その水はもちろん、森に住む動植物の命の源となる。ブナの森が「天然のダム」と言われるのは、そのような理由による。東北では実に数多くの天然水が商品化されているが、そのうちの少なくない天然水はブナの森から湧き出している天然水である。ブナの森のブナが老いて雪や強風などで倒れると、キノコ類が分解し、その倒木は森の土の一部となってまた植物を育てる。そのような生々流転が、ブナの森では延々と続いてきたわけである。

 我々の祖先もまた、こうした豊穣の森の恵みを得て生きていたと思われる。森に入って安らぎを覚えるのは、そうした先祖の遠い記憶が受け継がれているのかもしれない。

 もちろん、東北にあるブナの森は白神山地だけではない。規模の大きなものだけでも、福島の奥会津一帯にあるブナの森や、岩手と秋田の間にある和賀山塊のブナの森も見事なものである。その他にも、岩木山、八甲田山系、八幡平、岩手山、早池峰山、森吉山、鳥海山、月山、朝日連峰、蔵王連峰、飯豊連峰、吾妻連峰、安達太良山、会津磐梯山、会津駒ケ岳など、東北の有名な山の山麓には大抵ブナの森が広がっている。

 東北以外では、石川、岐阜、富山、福井の四県にまたがる白山山系のブナの森がその規模の大きさで有名である。白山信仰は東北各地でも広く見られるが、両者にはブナの森という共通性があるわけである。

バイオビジネスのフィールドとしてのブナの森
 ブナの森の恵みは水だけではない。最近、バイオビジネスが持て囃されているが、白神山地は有用な微生物の宝庫である。その中で最も有名なのは「白神こだま酵母」である。一九九七年に発見された、太古から白神山地に住んでいるこの酵母は、通常のパン酵母より天然の甘味成分トレハロースを多く作るため、パンに添加する糖分を少なくでき、またさすがに冬の厳しい白神山地に生息しているだけあって、低温に極めて強く、冷凍保存しても生き延びるために、貯蔵や移送もしやすいというメリットもある。このようなことから、東北だけではなく各地でこの酵母を使ったパンが作られており、その味わいは好評を得ているようである。他にも、やはり低温に強く、雑菌を駆逐する力の強い乳酸菌「作々楽(ささら)」なども製品化されている。

 また、白神山地ではないが、秋田県の別のブナの森からは、ビールを醸造するのに適した酵母も見つかっており、既にその酵母を使ったビールが、「ぶなの森ビール」として商品化されている。こちらのビールは、通常のビールよりも風味が爽やかでのど越しもよい。たとえて言えば、「森林浴」の印象である。

 余談だが、東北でも特に秋田県はこうしたバイオビジネスに東北で最も熱心な印象がある。「白神こだま酵母」も「作々楽」も秋田県の外郭団体である秋田県総合食品研究センターが特許を保有している。同センターは他にも、秋田県内の地ビール醸造所と共同で桜の木から採取した天然酵母で地ビールを醸造するなど、官民一体でバイオビジネスを推進している。秋田にはまた、麹の元菌会社として全国の九〇%以上という圧倒的なシェアを誇る秋田今野商店のような企業もある。地ビールの醸造所を見ても、ここのビール酵母を使ってビールを作っている醸造所は数多い。今後の展開が楽しみな領域である。

ブナの緑は一際鮮やかである東北人の目指す姿としてのブナ
 東北にとってブナが親しみのある存在であることを示す事実がある。ブナを市町村の木と定めている自治体は全国に三一あるが、このうち東北六県と新潟で十四もある。東北圏だけで、全国の半分に近い数の自治体がブナを市町村の木としているのである。東北にとってブナがいかに身近な木であるかを如実に示すものと言える。

 ところで、翻って東北を見ると、東北人は実にブナである。

 この地に住んだ蝦夷はかつては人ではないと言われた。蝦夷は「えみし」と読む。また「えびす」とも呼ばれた。坂東の荒武者を「あづまえびす」と言ったが、これは恵比寿さまの「えびす」ではなく、「えみし」の意味である。人ではないと言われた蝦夷は、木ではないと言われたブナにそのまま重なるような気がする。

 木材としては使いにくく、一見役に立たないブナの木が実は大いなる恵みをもたらす素晴らしい森をつくっているように、かつて蝦夷の住む地と蔑まれ、近世においても戊辰戦争での敗北が尾を引いて開発が遅れた東北を、未曽有の大震災でかつてないダメージを受けた東北を、そこに住まう我々一人ひとりが新たなものとしてつくり上げる、その象徴としてブナは相応しいように思うのである。

 ブナは厳しい風雪に晒されてその身が樹氷となっても春に向けて力を蓄え、春になれば一斉にその芽を出す。ブナの新緑は一際鮮やかである。それは厳しい風雪に耐えたからこそのものなのかもしれない。大震災からの復興を目指す東北人にとって、ブナはまさにその範となる。ブナのようにしなやかにたくましく、使い道がないと蔑まれようとも動ぜず、一致して恵み豊かな森をつくる、その姿はまさに東北人が目指す姿そのものである。


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2012年09月12日

東北の歴史のミステリーその29〜骨寺村は平泉の「浄土」の原型か

120825-121645 新聞報道によると、世界遺産に登録された「平泉の文化遺産」への追加登録を目指す5つの遺産が、日本がユネスコの世界遺産委員会に提出する登録候補一覧表、いわゆる「暫定リスト」に記載されることが決まったという。その後、推薦書を作成・提出して世界遺産委員会の判断を待つ、という手順を踏むことになるらしい(岩手日報記事毎日新聞記事)。

 今回追加登録を目指す5つの遺産とは、前回平泉の文化遺産が世界遺産に登録された際に除外された柳之御所遺跡達谷窟(たっこくのいわや)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡である。これらが除外された経緯については以前触れたが、要は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」としての関連が薄いと見なされたということである。すなわち、これらの遺跡は今回の登録で最も重要な要素である「浄土」を表すものとは解釈されなかったということである。

 その時も書いたが、これら5つの遺産全部が「浄土」という観点から追加登録されるのは現実的には難しい、と私は考えている。日本側の関係者は、仏教徒でないイコモス(ユネスコの諮問機関)の委員に「浄土」を理解してもらうのは難しいということを口にするが、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が世界遺産に登録されたという事実を見る限り、イコモスの委員はかなり的確に「浄土」というものを表す文化遺産を捉えてくれている、と言える。認められた5つは誰が見ても浄土との関わりが明らかである。

 これに対して、追加登録を目指す5つの遺産は必ずしもそうではない。と言うか、遺産によって「浄土」との関わりには濃淡があるように見える。柳之御所遺跡は奥州藤原氏の居館だったとされるが、現段階では少なくとも「浄土」との関わりが密接とは言えない。もっと厳しいのは白鳥舘遺跡で、安倍一族の白鳥八郎則任の居館跡がなぜ構成遺産となるのか、私にもよく分からない。白鳥舘遺跡が構成遺産に含まれていたのは、登録延期となった「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」の段階だが、その白鳥舘遺跡の箇所を読んでも浄土との関わりがやはり分からない。

 一方、達谷窟は発掘調査の結果、かつて浄土庭園があったことが判明しているのだが、肝心の平泉の文化遺産を遺した奥州藤原氏との関連が弱い。一説には奥州藤原氏初代清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立した、とも言われるが、その面からの関連性をさらに追求する必要があるのではないだろうか。長者ヶ原廃寺跡に関しては以前も触れたが、浄土庭園はないものの、ここから見える夕陽は春と秋の2回、初代清衡が造営した中尊寺の「奥の院」と伝えられる霊峰月山の山頂に沈むことが分かっている。この意匠が後の、三代秀衡が建立した、やはり春と秋の2回金鶏山に沈む夕陽が見られる無量光院にも引き継がれたとも考えられるので、その面からの関連を追求するのがよいのではないだろうか。

 さて、残る一つが骨寺村荘園遺跡である。これは平泉の中心部から西に約12劼里箸海蹐琉豐愡塰椹地区にある中世の荘園の遺跡である(上写真参照)。中尊寺の経蔵別当の領地であり、中尊寺に残る絵図や文書によって確認できる中世の荘園が、現在もその形を留めているという遺跡で、国内でも貴重なものだそうである。現在国宝となっている、紺の紙に一行毎に金字と銀字で書き分けながら全ての仏典を書写した「紺紙金銀字交書一切経」は、奥州藤原氏初代の清衡が発願し、自在房蓮光という僧が統括し、8年の歳月を掛けて完成させたものだが、その功績によって蓮光は清衡によって中尊寺の経蔵別当に任ぜられ、骨寺村を知行したということである。

 現在史跡に指定されている山王窟(さんのうのいわや)、白山社、伝ミタケ堂跡、若神子社(わかみこしゃ)、不動窟(ふどうのいわや)、慈恵塚(じえづか)、大師堂などは、いずれも中世の絵図にもその位置と名称が描かれており、その遺跡としての価値に疑いはない。ただし、やはり今回のこの世界遺産に登録された平泉の文化遺産との関わりについては、もちろん中尊寺との関係は密接であるものの、肝心の「浄土」との関わりについてはそれほど深くないのではないか、そう考えていた。

 しかし今回、実際に現地を訪れ、地元のガイドの方にお話をお聞きしたところ、立派に(?)浄土との関連がありそうだということが分かった。関連があるどころか、むしろ浄土の原型はこちらだったのではないか、という印象すら持った。以下にそうした骨寺村荘園遺跡の特徴を紹介してみたい。

konoatari この骨寺村、つまり現在の本寺地区のある地域の地形だが、南に磐井川、北に本寺川が流れ、周囲を山に囲まれた平地である。この本寺地区の西方には平泉野(へいせんの)という頂上付近が平らになった小高い台地状の地形がある(左写真の赤字の辺り)。まずこの地名だが、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは不明だが、「平泉」の文字が使われており、嫌でも平泉との関連を類推せざるを得ない。そして、江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」という書物には、当時の地元の古老から聞いた話として、なんと、この平泉野には平泉の中尊寺と毛越寺の前身となる寺院があった、という内容の記述があるというのである。

 そこでなるほど、と思ったのは、これら中尊寺と毛越寺の由来についてである。中尊寺の寺伝では、中尊寺は嘉祥三年(850年)に慈覚大師円仁が開山したとされているのだが、一方で中尊寺は藤原清衡が平泉を本拠と定める際に最初に建立した寺として知られているのである。また、毛越寺も中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山したと伝えられているが、実際には藤原基衡及びその子秀衡が建立している。現代の発掘調査などの結果からは円仁の開山は裏付けられてはおらず(すなわち平安時代前期の遺構が出土していない)、この、中尊寺や毛越寺に関する、寺伝と吾妻鏡などに残る開基の記録との間の相違をどう解釈するべきか、というのが私の中ではちょっとした疑問だったのである。実際、円仁開山の記録を単なる伝承と捉える見方も少なからず存在していたのである。

 この点に関して、この骨寺村に残る伝承の通りに、中尊寺や毛越寺が元は平泉ではない別のところに円仁が開山した寺院として存在して、それを清衡や基衡が移転させて平泉の地に新たに大伽藍を建立した、と仮定すれば、円仁開山と奥州藤原氏開基の間の齟齬はなくなる。すなわち、現在の場所の発掘調査をして円仁開山の証拠が出てこないとしても、それは元々別の場所にあったのであるから当然のことである。

 ちなみに、この「骨寺村」というちょっとインパクトのある地名の由来だが、慈恵塚に名を残す慈恵大師良源の遺骨が祀られてあるから(発掘調査の結果から慈恵塚からは遺骨は発見されなかったそうであるが)とか、合戦で命を落とした兵の遺骨を埋めた地であるからといった説がある。この「骨寺」がその後「本寺」に変わったのだが、この「本寺」の意味は先に紹介した、中尊寺や毛越寺の元となった寺があったことに由来する、との説もあるのである。

 他に、江戸時代の紀行家菅江真澄も、平泉野について、「大日山中尊寺」の跡があると記している他、このあたりにあった寺院を鳥羽院の治世の頃に関山に遷したということで、そちらも平泉の里になったと記している。この記載からは、現在関山中尊寺として知られる中尊寺は、平泉野にあった頃は大日山中尊寺と号されていたこと、その後移転されたのは鳥羽院の頃だということがわかるが、この移転の時期は以前紹介した有名な中尊寺建立供養願文に残る年代と一致している。

 もう一つ重要な点がある。骨寺村からは西方に中世の頃から霊峰として知られる栗駒山を望めるが、なんと、春と秋の彼岸の中日、骨寺村からは栗駒山の山頂に沈む夕陽が見られるのだそうである。これには長者ヶ原廃寺跡、無量光院跡と同様、この地の浄土との関わりを感じずにはいられない。

 これまで見てきたように、骨寺村は中世の荘園の様子が今も残る貴重な遺跡であるが、決してそれだけではない。「浄土」をキーワードとして平泉の文化遺産との関わりがあると考えられるのである。骨寺村に関しても、荘園遺跡ということよりも、こうした「浄土」との関連から追加登録を目指すのがよいのではないかと思うのである。そのためには平泉野における発掘調査が鍵となる。現在までのところ、まだ平泉野から平泉前史を窺わせる出土はないようであるが、今後に期待したいところである。


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2011年11月24日

東北に関係する書籍その1〜東北に日本の「ふるさと」の風景を見出した本

nokositainihon 私の手元に1冊の本がある。「残したいね 日本の風景」( アマゾン該当ページ )という本である。

  出版元のサイトでは本書について、

「あの頃の自分が一瞬にして蘇ってくる里山風景。何でもない、けれどその人にとってはかけがえのない風景。そんな風景がいまだに残っていればいいが、現実にはふるさとの風景はひどい勢いで消えつつある。この活動は、これが見納めとなるかもしれない、〈絶滅のおそれのある風景〉にいまのうちに足を運んでほしいという著者の切なる願いであり、誘いです。最後のDISCOVER JAPANです。」

と説明している。

 DISCOVER JAPANというのは、旧国鉄が1970年に始めた個人旅行拡大キャンペーンで、当時電通でこのキャンペーンを企画したのが、この本の著者である藤岡和賀夫氏である。この本の初版は2006年で、キャンペーン開始から36年が経っている。氏は「絶滅」のおそれのある日本の言葉、風景、習慣を書物に採録する「レッドブック運動」を提唱し、活動している。上の説明からは、自身が企画した"DISCOVER JAPAN"の締め括りとして、そしてこの「レッドブック運動」の一環としてこの本が出されたことが窺える。

 ちなみに、2008年から判佝納劼茲同名の雑誌が隔月刊で出されているが、これは旧国鉄のキャンペーンとは直接の関係はないようである。なお、藤岡氏は本当の集大成として、キャンペーンから40年目の2010年に「DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ」(アマゾン該当ページ)を出している。

 この本を見つけたのは、私が盛岡に行った時には必ず立ち寄る「さわや書店」である。さわや書店は、盛岡市に本店のある書店チェーンで、盛岡では東山堂と並ぶ老舗書店である。大通りに本店があるが、盛岡駅内のフェザン店が行きやすいので、私が行くのはもっぱらこっちである。何がいいかと言うと、このフェザン店、通路に面した一番人通りの多いスペースの一角に、地元岩手や東北に関係した書籍を多数陳列しているのである。地元出身の作家の小説から観光ガイドブック、いわゆる分冊百科のうちの東北に関係する号、地元出版社の本まで、東北に関する様々な書籍がそこには並べられており、行く度に何か新しい本が出てないか見る楽しみがある。

 普通の書店は、一番人通りが多いところには売れ筋の本を並べるものだと思うが、東北の本をピックアップして展示することにも端的に表れている、自分の店でチョイスした本をあえて並べるというこのさわや書店の姿勢は、私は好きである。こうしたさわや書店のスタイルが出来上がった経緯は、「盛岡さわや書店奮戦記」( アマゾン該当ページ ) として一冊の本になってまとめられている他、東北経済産業局の「東北21」でも紹介されている。

 さて、この「残したいね 日本の風景」のサブタイトルは、「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」である。その「残したい」日本の風景が本書では50カ所紹介されているが、なんとそのすべてが東北六県のものなのである。藤岡氏は、今なお残る「懐かしい日本の風景」を、東北の様々な地域の風景の中に見出していたということなのだろう。

 それにしても東北のあちこちをよく訪ね歩いたものである。私が知らなかった地域もいくつもあった。確かに、見ているだけで心が和むような、そんな景色がページを繰る毎に現れる。この景色をこの先も残していきたいと考えた藤岡氏の思いがよく伝わってくる。

 本書には、東北の選りすぐりの50の風景の写真と共に、その土地の料理や名産品、行事などを紹介する「ふるさとアレコレ」や「ゆかりの人」などの雑学、周辺のみどころ案内なども掲載されており、実際にその土地を訪れたいと思った時に役立つ情報も収録されている。

 しかし、藤岡氏が残したいと強く思った、この本に収められたかけがえのない50の東北の景色のうち、残念ながら失われてしまった景色がいくつかある。言うまでもない、東日本大震災のためにである。本書で紹介されている宮城県南三陸町志津川、宮城県石巻市雄勝町、福島県相馬市松川浦、などがそうである。

 志津川の風景には「平凡な幸せ 絵に描いた町」というタイトルが付いている。近景に田圃、中景に家々、遠景に志津川湾の海が写る、本当にそのタイトルのような風景である。その「平凡な幸せ」を「絵に描いた」ような風景が、あっという間に消し去られてしまったことの重さに改めて思いが至る。
 
 そうした意味でも、この本は震災前の東北の景色を捉えた貴重な本となってしまった。確かにそこに、「幸せな風景」があったことを印す記念碑的な存在とも言える。本書に収録されている風景は、単に東北の美しい自然を紹介したものではない。そのような類書は他にたくさんあるが、ここに収められている風景は、サブタイトルに「懐かしい日本の風景」という言葉がある通り、多くの人が見て懐かしいと思うようないわゆる「ふるさと」の風景である。そこには、自然と共存してつくり上げてきたその土地の人の生活の営みがある。

 本書の風景の写真の中に人はほとんど登場しないが、これらの風景の土台には間違いなくそこに住む人々の日々の営みが前提条件としてあったはずである。それがなくしてこれらの風景が残したいふるさとの風景とはなり得なかったはずだからである。言い換えれば、不幸にも失われてしまったこれらの風景がこの地で再び見られるようになった時こそ、東北が本当に復興したと言える時かもしれない。

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2009年11月29日

東北のオススメスポットその12&東北で地ビールが飲める店その46〜東北地方に64軒もある「秘湯」

PICT0057 東北地方が全国屈指の温泉に恵まれた地域であることは今さら言うまでもないが、もう一つの特長として、大規模な温泉地ではない、いわゆる「秘湯」が多いということも挙げられると思う。交通が不便であったり、山奥にあったり、小さな一軒宿だったり、といった、近代的温泉ホテルの設備とは対極にある、昔ながらの「鄙びた」という表現がピッタリの温泉宿が東北にはいまだ数多く存在しており、かえって観光地化した温泉に飽き足らない温泉好きの層に持て囃されているようである。

 以前紹介した山形県南陽市の山間にある荻の源蔵そばに行った時、「そば好きは 道の遠きを 厭わざる」と書いた色紙が飾ってあるのを見て、まさにその通りと思ったが、温泉好きにもそれに劣らず、いい温泉があればそれこそ深山を掻き分けてでも行く、という人が多いように思う。写真は、そうした温泉の一つである、岩手県の八幡平山麓にある松川温泉の松楓荘が誇る「洞窟風呂」である。

 全国にある秘湯の多くは、「日本秘湯を守る会」に加盟していることが多いが、現在185軒を数える会員宿のうち、東北の宿の数は実に64軒参照ページ)と、全体の3分の1強を占めている。このことからも、東北の秘湯の多さを窺い知ることができると思う。これら64軒の顔ぶれを見ると、同じ東北にいる私から見ても行ってみたくなる、旅情を掻き立てられるような魅力的な宿が数多くある。これだけの秘湯が昔も今も変わらず残っていることは、本当に恵まれたことであると思う。

115948.jpg さて、このような人里離れた宿に行くと、普通に考えれば当然ながらいわゆる大手のビール会社以外のビールに出会えることは残念ながら望み薄である。が、これら「日本秘湯を守る会」加盟の宿には、会限定のオリジナルビール「秘湯ビール」がある(ことが多い)。これは、「日本唯一のブナの天然酵母使用」で「ブナの地下天然水」を使ったビールであり、製造しているのは「田沢湖ビール」を醸造しているわらび座である。恐らく、同醸造所の「ぶなの森ビール」と同じものだとは思うが、私にとってはこれらの秘湯でも地ビールが飲めることは嬉しい。そもそも、世界遺産の白神山地に代表される通り、東北の山を代表する樹の一つは文句なしにブナである。

 秘湯に行くというのは、日常から離れた環境に身を置きたいということがきっかけであることも多い。その時に、宿にあるビールが日常よく見かけるビールというのは、少し興ざめな気がする。その点で、「秘湯ビール」があるのは、私のようなビール好き以外の人にとってもちょっと嬉しいことなのではないかと思う。

 ちなみに、「日本秘湯を守る会」の宿には、この「秘湯ビール」以外にもこの会限定のワインや日本酒があるそうなので、ビール好き以外の人も、普段見掛けないお酒を味わうことができそうである。これらの秘湯では、周辺で取れる食材などを使って、料理にも宿らしさを出しているところが多い。その料理とこれら秘湯限定のお酒はよく合いそうに思う。

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2009年10月27日

東北のオススメスポットその11〜岩手県平泉・衣川地区その2

a6425b99.jpg 平泉の知名度は恐らく東北でも屈指と思われるが、衣川を知っている人はそう多くないに違いない。歴史に詳しい人なら、源義経が藤原泰衡に攻められ命を絶ったという合戦が「衣川の戦い」と呼ばれていて、義経最期の地であるということを知っているかもしれないが、それ以外で人口に膾炙することはほとんどないと言っていい。しかし、本当に興味があって平泉を訪れた人にはぜひ、衣川にも足を運んでほしいと思う。

 東北の歴史に詳しい人なら、衣川は安倍氏の本拠地だということを知っているかもしれない。安倍氏の安倍頼時(頼良)・貞任親子は、前九年の役で源頼義・義家親子と戦った俘囚(朝廷に従った蝦夷)の長である。奥州藤原氏から見ると、初代藤原清衡の母親が安倍氏の棟梁貞任の妹であったので、安倍氏は母方の家系ということになる。

 旧衣川村は、合併して奥州市の一部になったが、この旧衣川村は、平泉町の北隣で、現在の平泉町の北端である中尊寺から衣川を渡るとすぐである。この衣川以北が奥六郡と言われて俘囚の地とされていた。

 旧衣川村に足を運んで驚かされるのは、その遺跡の数の多さである。前回紹介した平泉町内の遺跡よりもはるかに多い数の遺跡が、今も旧村内のあちこちに残っているのである。そのうちのかなりの割合は、安倍氏の居館跡であった安倍舘古舘(安倍新城)、政庁であったという並木屋敷(衣川柵)など、安倍氏に関係するものだが、それだけ安倍氏がこの地で勢威を振るったことが窺える。

 もちろん、四代藤原泰衡の弟で最後まで義経を支持したという泉三郎忠衡の居館泉ヶ城跡や、三代藤原秀衡の母が衣川を渡って旅をしてきた人をもてなしたという言い伝えのある接待館(せったいだて)跡、秀衡が京都の御室御所の木をこの地に移し植えてつくった庭園跡と言われる室の木(むろのき)跡など、奥州藤原氏時代とされる遺跡もある。奥州藤原氏時代の衣川は、経済の中心地だったそうである。奥羽二国の政治の中心地であった平泉をワシントンにたとえれば、衣川はニューヨークに当たると言えるかもしれない。

 ただ、最近の発掘調査の結果からは、衣川は単に経済の中心地だっただけではなく、政治的にも重要な地位を占めていたことが明らかになってきている。それは柳之御所跡などから大量に見つかったかわらけという宴や儀礼の時に使われたという素焼きの杯が、衣川の接待館跡からも大量に見つかったことによる。

 東北の歴史に詳しい人にとっては、衣川は秀衡の政治顧問的な立場にあったとされる藤原基成(もとなり)の居館「衣河館」があったとされる場所ということも知っているかもしれない。そして、義経最期の地は、吾妻鏡によれば義経堂のある平泉の「高館」ではなく、この「衣河館」だということも知っているかもしれない。「衣河館」の場所は実はまだ特定されていないのだが、地元ではこの接待館が「衣河館」だったのではないか、とも言われている。

 さらに、以前も少し書いたが、この衣川には平泉の中尊寺の「奥の院」として栄えたという霊峰月山(がっさん)もある。この月山、山形にある出羽三山のひとつである同じ名前の月山とは比較にならないくらいの小さな山で、10数分も歩けば頂上の月山神社に着くほどの山であるが、そこに私が見ただけで、月山神社と麓にある三峯神社を含め、6つもの社が祀られていた。確かに古くから尊崇されてきた様子が窺える。

 その中で最も印象的なのは、山頂の月山神社の奥の院前にある、巨石を御神体とする和我叡登挙神社(わかえとのじんじゃ)である。巨石を御神体とする社殿のない神社、これは安倍氏の崇拝したという荒覇吐(あらはばき、または現在東北の夏のロックフェスティバルの名称に冠されて名を留める荒吐(あらばき)とも)の神を祀る神社の共通項である(旧衣川村内には磐神社女石神社という、やはり共に巨石を御神体とする荒覇吐神を祀る神社があり、陰陽一体の神として崇敬されてきたが、現在は社殿が設けられている)と同時に、同じ名を持つ月山を含む出羽三山との類似性も感じられる。このように衣川は、この時代の歴史に関心のある人にとっては、とても興味深い場所なのである。

 衣川歴史ふれあい館では係の人に面白いことを聞いた。平泉の無量光院跡からは、春分、秋分の日に太陽が金鶏山山頂に沈むのが見えることが分かっているが、衣川の長者ケ原廃寺(地元では元々単に「長者ケ原」と呼ばれ、義経を秀衡に引き合わせたとされる金売り吉次の屋敷跡と信じられてきたのだが、発掘調査の結果寺院であることが判明したため、現在ではこう呼ばれている)からは、春分、秋分の日に太陽が月山山頂に沈むのが見えるのだそうである。もし、これが無量光院と同様に意図的にそうなる地が選ばれた結果ということであれば、無量光院は衣川の長者ケ原廃寺を参考に作られた可能性があるわけである。

 平泉はこれまで京の都を参考に作られたとされてきたが、実はそれだけでなく、安倍氏の本拠地、すなわち蝦夷の都だった衣川も参考に作られていたのかもしれない。この辺りのことはきっと今後衣川の発掘調査が進んで明らかになるに違いない。そして、衣川にももっとスポットが当たることを期待したい(写真は月山山頂にある月山神社である。知らないで行くと見落とすかもしれないが、鳥居の奥に見えている拝殿のさらに奥に奥の院があり、そこに和我叡登挙神社もある)。


koromogawa1追記(2009.10.28):旧衣川村内にある数々の遺跡を、位置関係も含めて分かりやすく解説しているサイトはあまりないのだが、現地で入手したパンフレットがその点とても分かりやすかったので、興味を持った方のためにここにアップしておきたいと思う。





koromogawa2 遺跡は大きく分けて、旧衣川村内の東側の月山周辺(写真上)と西側の安倍館周辺(写真下)とに分かれて分布している。見て分かる通り、これだけ多くの遺跡がいまだこの地域に残っているのである。

 なお、このパンフレットの絵地図は、北東方向から見た地図(つまり上が北になっていない)なので、その点だけ注意が必要である。


追記(2011.7.4):無量光院跡から金鶏山山頂に沈む夕日が見られるのは、春と秋2回あるが、正確には春分・秋分の日ではなく、4月中旬(13日頃)と8月末とのことであった。


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2009年10月22日

東北のオススメスポットその10〜岩手県平泉・衣川地区その1

baca37ad.jpg 5市町村が合併してできた奥州市と7市町村が合併してできた新・一関市に挟まれた小さな町である岩手県平泉町は、このブログでも何度も取り上げている奥州藤原氏の本拠地であり、現在でも岩手県屈指の観光地である。

 日本の国宝第一号となった金色堂を有する、奥州藤原氏初代藤原清衡が建立した中尊寺、平安時代の遺構としてはわが国唯一の浄土庭園が現存する、二代藤原基衡が建立した毛越寺を始め、三代藤原秀衡が京都宇治の平等院鳳凰堂を参考にさらに規模を大きくして建立した無量光院跡、二代基衡の妻が建立したと言われる観自在王院跡、「義経記」などに登場する義経の居館「高館」があったと伝えられる高館義経堂、秀衡が築き、雌雄一対の黄金の鶏を埋めたとの伝承がある金鶏山などがある。それに加えて最近では、国道4号線バイパス工事に伴う発掘作業で姿を現した奥州藤原氏の政庁とされる柳之御所遺跡が注目を集めた。

 現在でこそ平泉町は人口約8,500人の小さな町だが、奥州藤原氏時代の平泉は人口10万人を擁する、京の都に次ぐ国内第二の都市であったとされる。中尊寺の金色堂や毛越寺の浄土庭園はそうした往時の繁栄を偲ばせる貴重な遺跡であるが、観光地として見た場合の平泉のウィークポイントは、現存するのがその2つだけで、後はすべて「史跡」ということである。これらに加えて例えば無量光院や、頼朝をも驚かせたという中尊寺二階大堂などが現存、あるいは復元されていれば、観光地としての平泉のインパクトはより大きかったのではないかと思われるのである。

 もちろん、例えば柳之御所跡に立って、800数十年前に栄華を極めた藤原秀衡が間違いなくそこにいたことに思いを馳せれば、何とも言えない感慨に浸ることもできるし、無量光院跡に立って、そこに平等院鳳凰堂を一回り大きくした壮麗な寺院の姿を想像することもできる。要は見る人が見れば観えるものもたくさんあるのだが、実は決して万人受けする観光地ではないような気がする。ましてや、大型観光バスで来て、中尊寺と毛越寺、それに義経が住んでいなかったことはほぼ確実な高館義経堂くらいを見て慌ただしく次の目的地に行く、というような旅程では、見たようで観ていない、何とももったいない旅行になるような気がするのである。

 以前書いたように、平泉の世界文化遺産登録は見送られたが、現在、構成遺産を絞り込んで、平泉町内にある遺跡のみで再度登録に向けた動きが本格化しているところである。これまで平泉町と足並みを揃えて世界文化遺産登録を目指して動いてきた奥州、一関両市にとっては気の毒な話だが、「浄土思想を基調とした文化的景観」というコンセプトをより明確にするためには、必要な対応だったと思う。

 恐らく次は問題なく世界文化遺産登録が果たされると思うが、そうなればきっと多くの観光客が大挙して訪れることになる。関係者各位にはその時に、これら平泉の文化遺産が何だったのか奥州藤原氏の思いとは何だったのか、しっかり伝えてほしいと願って止まない(写真は金色堂を風雪から守っている覆堂(おおいどう)である)。


追記(2010.2.23):平泉の世界文化遺産登録に向けて、新しい推薦書が先月1月18日、ユネスコに提出された。新しい推薦書のタイトルは「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」となっている。

 この推薦書の全文をぜひ読んでみたいと思ったのだが、これがネット上どこにも見当たらない。困ったものである。概要は辛うじて岩手県のサイト内で入手できる(該当サイト)。

 この世界遺産登録推薦書作成委員会委員長の工藤雅樹氏が、先月1月31日に亡くなった。平泉の世界遺産登録を見届けていただきたかっただけに、残念でならない。

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2009年04月21日

東北のオススメスポットその9〜あまり知られていない本州最東端の地

img955 以前端っこは「秘境」ではないというようなことを書いた。東北の最北端の下北半島・大間崎(おおまさき)やその対岸の津軽半島・竜飛崎(たっぴざき)は、東北でも著名な観光スポットである。

 事のついでに、他の端っこも調べてみた。東北の最西端はこれまた有名な男鹿半島の入道崎か、と思いきや、東北日本が北東に伸びていることもあって、山形県鶴岡市の新潟県境付近が最西端のようである。ここは鼠ヶ関(ねずがせき)という奥羽三古関の一つがある、東北の日本海側の玄関口である。

 また、最南端は東北で最も温暖で最も早く桜が咲くことで有名ないわき市小名浜(おなはま)かと思いきや、これまたさにあらず、「合併しない宣言」で注目を集めた山間の矢祭町であった。東北の最北端は本州の最北端でもあり、それで下北半島は有名なのだろうが、最西端や最南端は他地域と隣接している、あくまでも東北域内での端っこであるので、あまり目立たないのだろう。

 では、東北の最東端はどこかと言うと、それは岩手県宮古市にある魹ヶ崎である。これまた地名の読みづらさだけが原因ではないと思うが、同じ東北でもあまりに知られていない感がある。「とどがさき」と読むこの東北の最東端は、実は本州の最東端でもある。千葉県銚子市の犬吠崎が本州最東端と思われていたりすることが多いのだが、本当はこちらが最東端である。と説明しなければいけないくらい、知名度が低いのである。

 もっとも、本州最東端だから陽が昇るのも本州一早い、というわけではない。緯度の関係で陽が昇るのは犬吠崎の方が早い。この辺も本州最東端について誤解される一因になっているかもしれない。

img957 もう一つ、本州最東端にして東北最東端であるこのスポットがあまり知られていない大きな理由は、そのアクセスの悪さにあるのではないかと思う。三陸のリアス式海岸の真っただ中にあるこの岬は、海のそばとは思えないくらい山である(笑)。駐車場で車を降りてから最東端まで、「山道」を3.8km歩いていかないとたどり着けないのである。対岸に北海道が望めて旅情が掻き立てられ、観光バスが行き交う下北半島や津軽半島と違い、観光ツアーに組み込みづらいというのが、この本州最東端の地が目立たない一番の理由かもしれない。

 この3.8kmの山道、普通に歩くと1時間半といったところだろうか。私が訪れた時は既に日暮れ時で辺りは暗くなり始めていた。せっかくここまで来て本州最東端の地に足を踏み入れずして引き返すのも残念である。何せ、この本州最東端(?)の駐車場まで来るにも車で山道を延々来なければいけないのである。かと言って山道の途中で暗くなられると困るので、行くなら完全に暗くなる前に行って戻ってこなければいけない。

 というわけで、私はこの山道を走って岬を目指した。そうしたら、何とか片道22分で岬にたどり着くことができた。突如鬱蒼と茂る木々が途切れ、三陸海岸で最も明るいという灯台が出迎えてくれる(上写真参照)。最東端であるがゆえに視界の左右は開けている。目の前には何も遮るものがない、見渡す限りの三陸の海がある(中写真参照)。いい景色である。もちろん、本州最東端の碑もある(下写真参照)。

img962 灯台守の悲喜交々の生活を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、実在の灯台守の妻の手記が原作であるが、その灯台守夫婦もこの魹ヶ崎灯台で7年を過ごしたとのことである。よくぞこのような場所に7年も、と思わせられるような場所である、この魹ヶ崎は。端っこの地にして「秘境」という、東北でも稀有なスポットである。

 と、ひとしきり最東端の秘境に浸った後は、来た道を再び全速力で目指す駐車場まで走ったのであった。今度来る時は昼間、もう少し余裕を持って歩いてみたいと思う。

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2008年10月06日

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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