東北のオススメスポット  

2017年03月23日

私的東北論その92〜奥会津に学ぶ地域の支え合い(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 12月16日に発行された「東北復興」第55号では、11月に参加した「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」で見聞きしたことについて紹介した。奥会津の町村は、全国でも屈指の高齢化率の、いわば日本の最先端を行っている地域であるが、そこにあったのは住民同士のゆるやかかつ自然な形での支え合いであった。「限界自治体」などと称される奥会津の町村だが、高い高齢化率、決して充分とは言えない医療介護資源といった制約条件を超えて地域が生き延びていくためのヒントが随所にあった。
 以下がその全文である。そうそう、第5回の全国サミットは、今年11月25、26日に淡路島で開催されることが決定した。


奥会津に学ぶ地域の支え合い

奥会津で開催された「全国サミット」

 11月26日(土)、27日(日)に奥会津4町村で「第4回町内・集落福祉全国サミット in 奥会津」が開催された。今回、会場となった4町村のうち、メイン会場となる金山町は高齢化率が実に59.7%、交流会と分科会が開催された2つの町村、昭和村が55.3%、三島町が51.4%と、高齢化が進んでいる東北の中でも、奥会津のこれらの3町村だけが高齢化率50%超のいわゆる「限界自治体」とされている。

 この全国サミットは、人口減少や高齢化が進む中、新しい福祉制度の効果的な運用や地域の福祉・生活課題について、全国の先進的な事例を学び、その解決に向け検討することを目的に、福祉関係者や行政関係者らを対象に年1回開催されている企画である。

 その第4回がこの奥会津で開催されたことはとても意義深かったと思う。奥会津は高齢化、人口減少が進む一方、医療や介護の地域資源は決して十分とは言えない地域である。豪雪地帯でもある。にも関わらず、そこに住む人々が生活を続けていけるのには訳がある。この地域では、人々の日常のつながりと支え合いがその生活を支えているのである。

 現在、「地域包括ケアシステム」という、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、たとえ重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される仕組みが市町村ごとに構築されようとしているが、奥会津の日常のつながりと支え合いは、この地域包括ケアシステムの構築にとって大きなヒントを与えてくれそうな取り組みなのである。

 人口の半分以上が高齢者で占められるというこの地域は、ともすると地方の衰退の象徴と見られがちかもしれない。ところがそうではないのである。今回はこの奥会津における、つながりと支え合いの実際について、全国サミットを通じて見聞きしたことを中心に紹介していきたい。

昭和村における支え合いの例

 以前、宮城県主催の地域包括ケアシステム関連の会合を取材させていただいたことがある。その折に、今回の開催地の一つである昭和村の事例発表を聞いたが、そこでの地域の人たち同士の支え合いの仕組みがとても印象的であった。

 例えば、同村内の野尻地区では、新聞は集落の一角にある「集合型新聞受け」に配達され、毎朝そこに新聞を取りに来なければならない。一見不便なようだが、それが支え合いにつながっている。新聞が配達される時間帯には住民が新聞受けの場所に集まってくる。そこで毎朝井戸端会議が自然発生的に行われる。取りに来ない人の家には誰かが新聞を持って訪ねていくので、安否確認にもなる。

 この野尻地区に商店は一軒あるだけだが、この商店もまた集落の人の集う「サロン」になっている。店主は81歳の女性だが、お店に来る人にお菓子や料理をふるまい、皆売り場の奥にある居間でお茶飲みをしている。お店に来る人もそこで買い物をするのはもちろん、野菜や山菜を差し入れたりする。顔なじみの客がしばらく姿を見せないと店主や常連客が電話や訪問で様子を伺う。

 このように、お互いの支え合いが実に自然な形で行われているのである。

「便利さが豊かさなのではない」

 今回の全国サミットでは、初日は金山町を会場に、基調講演、基調鼎談、活動発表とディスカッション、パネルディスカッションが行われた。開会で挨拶した町長の長谷川盛雄氏の「ないものねだりでなく、あるものを磨き上げる。ここにしかないものを磨き上げて全国に発信したい」との言葉はとても印象的であった。

 基調講演で内閣官房の「まち・ひと・しごと創生本部」で総括官を務めた山崎史郎氏がいみじくも「『地域づくり』と『人の支え合い』は、実は同じことを言っている」と言っていたが、ここ奥会津で展開されているのはまさにそうしたことである。山崎氏によると、人口減少地域の地方創生には地域資源の洗い出しとその最大活用などいくつかの共通点があるという。長谷川町長の主張通りである。奥会津のような地域でこうしたことが進んでいる背景には、地域全体の危機感がある。他人任せではなく、自分たちで何とかしないと日々の暮らしが守れないのである。この点、都市部にはこの危機感がまだ薄いと言わざるを得ない。

 「奥会津の暮らしに学ぶ、支え合う地域づくりのコツ」と題した活動発表とディスカッションでは、今回会場となった4町村における地域活動の一端が、当事者の口から語られた。三島町の小柴ヨシノ氏は、代表を務める「西方カタクリの会」の取り組みを発表した。会では廃校となった小学校を宿泊研修施設として再活用している。「社員」は地域の高齢者ばかりだが、地元食材を使った郷土料理や温かいもてなしが好評で、それが皆のやりがいにつながっているそうである。小柴氏の「小さなことでも人の役に立つ、地域の役に立つことをやりたい」「お互いに自分の能力を発揮できる環境で、自分のできる範囲でやっていくことが大事」との言葉が印象的であった。

 金山町の「山入近隣会」という会の一員である栗城英雄氏は、山入地区における集落営農による集落の維持と活性化について語った。農作業の他、水路や道路の保全、道路脇の花壇整備、旅行といった取り組みを通じて活発に交流して孤立を防いでいる。9月に開催する芸能発表会の最後を飾る山入歌舞伎は町内外から多くの観客を呼ぶ。11月の農作物品評会には自分たちの自慢の作物が200点近く集まり、そこで表彰されることが農作物づくりのやりがいにもつながっているという。栗城氏は、「身の丈に合った自分にできることをやっている」としつつ、「誰でも一歳ずつ年齢を増していくが、住んでいる地域で最後まで暮らしたい。そのために、お互いを理解し、支え合い、年をとっても楽しく暮らしていけるよう集落全員で取り組んでいきたい」と結んでいた。

 昭和村の野尻集落の山内常一氏は、「地域の景観をよくしたい、地域に貢献したい」と設立された野尻営農生産組合における耕作放棄地の農地再生作業についても紹介した。その思いとして山内氏は、「荒れた土地を畑にしておけば、都会から来た人が定住しても野菜を作ることができる」「県外にいる家族たちが安心して暮らせるように、『田舎は我々が守っているよ』と伝えつつ、いつでも帰ってこれる状態をつくっておくことが自分たちの課題」と語っていた。何より印象的だったのは、「便利さが豊かさなのではない。たとえ不便でも周りで助け合うことが豊かさだ」という言葉である。都市部に住んでいると、こうした地域での暮らしについてともするとよく事情を知りもせずに「不便そう」、「大変そう」などと考えてしまいがちだが、それは決してその地に住んでいる人の実感ではないのである。

 会津美里町の斎藤やよい氏は、毎月「日々草クラブ」という会を開いている。使われていなかったコミュニティーセンターを活用し、「身近な場所にたまり場」をつくろうと始めた。料理、手芸、歌、体操など、参加者が自分たちで活動計画を立てて活動しているが、毎回最後はお茶飲みの時間を設けて、会話を楽しみながら交流を深めている。斎藤氏は、こうした取り組みは「硬く考えないで1人、2人からでも肩ひじ張らずに気軽に始める」のがよいとして、「常日頃の積み重ねでコツコツやっていきたい」と語っていた。

「お茶飲み」を中心とした支え合い
 2日目は4町村に分かれての分科会だった。私が参加した金山町分科会のテーマは「日常のつながりに注目!〜超高齢化社会を生き抜くヒントは、地域の中の小さな支え合い〜」で、金山町内の本名地区、西谷地区の西谷あゆみ会、越川・西部地区の住民の方々が登壇した。

 町内の各集落では、日々の「お茶飲み」を中心とした、自然な形での住民同士の支え合いが行われていた。そのうちの一つ、本名地区でご自宅が近所の住民の「お茶飲み」の場になっている御年86歳の渡部ツトム氏の「こんないいところに来ていただいて、私たち最高に幸せです」という言葉がとても印象に残った。東北人はとかく謙遜しがちなものだが、自分たちがいいと思っているこの地域をいいと言って、たくさんの人が訪れたことへの感謝も伝えるという渡部氏のこの言葉からは、ご自分が住む地域への限りない愛着が感じられた。

 81歳の渡部英雄氏は、地域の300世帯のガスの検針を行っていて、その際に必ず住民と「お茶飲み」をし、頼まれれば電池や電球の交換、買い物代行なども行っている。また、自分が近くの温泉に行く際には近所の住民も誘い、会津若松まで足を運ぶ際には通院する必要のあったり買い物をしたかったりする住民を同乗させる。渡部氏は、「皆さんの御用ができる限りはお役に立ちたい。毎日毎日が楽しく、明日のことは考えず今日健康に過ごせればいいと思っているが、こうしたことができるのは健康そのものだと喜んでいる」と言っていた。

 分科会の開催に先立って金山町副町長の山内建史氏は、「互いに思いやれる、気に掛ける、一人ひとりが必要とされ、大切にされる風土がここにはある。これは地域における一つの『処方箋』だ」と話したが、金山町内における取り組みからはまさにそうした気風が感じられた。

奥会津に学ぶ地域づくり

 ここまで見てきた奥会津における取り組み、すべてそこに住む人同士のつながりから始まっていることが分かる。そしてまた、異口同音に言うように、そこに住む人が自分のできることをできる範囲で、肩肘張らずに自然体でやっていることも特徴的である。

 先に紹介した通り、奥会津の町村は東北でもとりわけ高齢化が進み、いわば未来の日本の姿を先取りしている地域であるが、そこでのこうした支え合いの仕組みは他の地域にとってもきっと参考になるのではないかと思われる。何より、登壇した地元の方のほとんどは70代、80代である。この地で一番元気なのは実にこの年代なのだと考えると、これからの日本でお手本にすべきはまさにこの地域なのではないかという気がする。活動発表をされた4町村の方々の生き生きとした様子がとても印象的で、結局地域づくりというのは、地域にこうした表情をする人が多くいることなのだと強く感じさせられた2日間であった。


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2017年03月22日

私的東北論その91〜「楽都」への道(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 11月16日に発行された「東北復興」第54号では、「楽都」について書いてみた。東北では仙台と郡山が「楽都」を自称しており、それぞれそれを名乗るに値する、音楽についての充実した取り組みがある。以下がその全文である。


「楽都」への道

音楽イベントの多い街・仙台
 私事であるが、今年から男声アカペラグループに所属している。活動を始めて今年で17年目になる、仙台でも老舗と言えるグループで、男声のみ、しかも無伴奏というグループは多くのバンド、グループが活動する仙台でも稀である。

 11月5日は第15回仙台ゴスペル・フェスティバルが開催され、仙台市中心部の11のステージで104の演奏が繰り広げられた。お目当てのグループの演奏を聴きに来た人はもちろん、歩いていた足を止めて演奏に聞き入る人の姿も各所で見られた。

 考えてみると、ここ仙台は年間を通して音楽関連のイベントが多い土地であるように思う。私の属するグループも1年に5回ほど演奏を行うが、そのうち4回は仙台市内の音楽イベントである。6月の「とっておきの音楽祭」、7月の「太白区民合唱祭」、9月の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、そして今回のこの「仙台ゴスペル・フェスティバル」である。

 これら以外にも仙台市内の音楽イベントは数多い。5月に「仙台コレクション」(昨年までは9月の開催だった)、6月には「ジャズ・プロムナード in 仙台」、7月に「伊達ロックフェスティバル」、「若林区合唱のつどい」、8月の仙台七夕まつり時期に開催される「スターライト・エクスプロージョン」と「七夕ヴィレッジ」、9月に「秋保温泉MUSIC BAR」、10月に「仙台クラシックフェスティバル」、「伊達な街四丁目アカペラストリート」、「MWGA☆ROCKS」、12月に「ビッグバンドJAZZ・クリスマスコンサート」、「学都×楽都コラボレーション」、「クリスマスヴィレッジ」などが開催され、他に3年に1回仙台国際音楽コンクールが開催される。

 それだけではない。「仙台・杜の響きコンサート」には、仙台市内で開催される音楽イベントの予定がまとめられているが、ここを見ると、毎月かなりの数の音楽イベントが仙台市内各地で開催されていることが分かる。

 こうしたあまたある音楽イベントの中でも、9月に開催される「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は、今や国内最大の市民音楽イベントと言われる。市民の発案で始まったこの音楽イベントは、26回目を迎える今年、国内外の760のバンドが集まり、70万人が集まった。市民が中心となって運営し、市民が無料で気軽に聴けて、街角そのものがステージというスタイルで始まったこのイベントは、全国各地の音楽イベントにも影響を与えた。仙台市内はもとより他の地域でも同様のスタイルを取る音楽イベントが数多く誕生した。宮城県内では「鳴子音楽祭『湯の街ストリートジャズフェスティバル in SPA鳴子』」、東北では秋田の「ザ・パワーオブミュージックフロムアキタ」と「アキタミュージックフェスティバル」などがある。

もう一つの東北の「楽都」・郡山
 このように音楽イベントがあまた催されることもあって、仙台は「楽都」と称することがある。ただ、「楽都」は仙台だけの専売特許ではない。東北ではもう一つ、福島の郡山市も「楽都」を称している。郡山の「楽都」への道は戦後すぐ始まったとのことで、かなりの歴史を持っているようである。敗戦直後の荒廃の中で郡山では、音楽が戦災からの復興を目指す市民の心の拠り所となり、当時難しかったオーケストラを招いての演奏会を実現させた。その後「良い音楽を安く多くの人に」とのスローガンのもとで進められた勤労者音楽協議会の企画で著名団体の公演などが相次いで実現し、注目を集めたそうである。1964年には毎月第3金曜日をコーラスの日とし、街頭でコーラスを歌い、広めるという「十万人コーラス」運動が興り、翌年には「二十万人コーラス市内パレード」なども実施された。

 現在、郡山でも仙台と同様に年間を通じて音楽イベントは多いが、郡山で特筆すべきは学校音楽のレベルの高さである。特に合唱においては、中学校では郡山市立郡山第五中学校女声合唱団、郡山市立郡山第五中学校混声合唱団、郡山市立郡山第二中学校合唱部、郡山市立郡山第七中学校合唱部などが、高校では福島県立安積黎明高等学校合唱団や福島県立郡山高等学校合唱団などが、また小学校では郡山市立大島小学校などが、全日本合唱コンクールや「Nコン」ことNHK全国学校音楽コンクールなどで上位入賞の常連校となっている。これは郡山市内の音楽活動のすそ野の広さや教育の熱心さなどを如実に示しているものと言える。

 ちなみに、福島県内では会津若松市も郡山に負けず劣らず、中学校や高校の合唱部がレベルが高い。中学校では会津若松市立第二中学校合唱部、会津若松市立第四中学校合唱部、会津若松市立一箕中学校合唱部、高校では福島県立会津高等学校合唱団がやはりコンクールの上位常連校である。会津若松市は特に「楽都」を名乗っていないが、充分それに値する存在であると言える。

「楽都」ウィーンに学ぶこと
 世界的に「楽都」と言えばオーストリアの首都ウィーンのことである。ハプスブルク家の音楽好きに端を発する、少なくとも500年以上の伝統、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといったウィーンを拠点として活動した著名な作曲家の存在、全世界に衛星生中継されるニューイヤーコンサート、現在少なくとも8つはあるオーケストラなど、まさに「楽都」と称するにふさわしい要素があまたある。

 これらに加えて特筆すべきは、音楽を楽しむ環境の充実ぶりである。ウィーンには一度足を運んだことがあるが、「すごい」と思ったのは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーンフォルクスオーパー管弦楽団という、ウィーンを代表するオーケストラによるオペラが、ウィーンではほぼ毎日上演されているということである。それだけではない。もちろんウィーンでもいい席は日本円にして2万円くらいはするが、それだけでなく、学生やお金がない人でも楽しめるように、立見席が用意されており、その値段は日本円で500円くらいなのである。

 500円でオペラ鑑賞などとは日本ではおよそ考えられないことであるが、ウィーンではその気になれば毎日、500円でオペラを楽しむことができる。このように、市民が音楽を身近で気軽に楽しめることが、「楽都」の「楽都」たる所以であるように思った。

 日本で同様の環境は望むべくもないが、少なくとも仙台や郡山で開催されているたくさんの音楽イベントは、市民自らが演奏したり、その演奏を気軽に聴いたりできるということで、そこに住む人自身が音楽を楽しむ環境をつくるのに大いに貢献しているということは言える。「楽都」にとってそこが最も重要な要素であるように思う。

「楽都」同士の連携を
 ちなみに、Googleで「楽都」と入力して検索候補として表示される地名は仙台、郡山の他に、松本、堂山、四国中央があった。これらの都市がどのような趣旨でどのような活動を行っているかについて情報を得る機会は日常ほとんどない。そう言えば、同じ東北であっても、仙台と郡山の間でも「楽都」連携はほとんどなされていないのではないだろうか。恐らく、仙台市民のかなりの割合の人は、自分たちの住んでいる仙台が「楽都」と称していることについてはある程度知っていても、郡山も「楽都」を称していることは知らないだろうし、ましてや郡山が「楽都」としてどのような取り組みをしているかについてもほとんど知らないのではないだろうか。

 しかし、「楽都」としてウィーンになることは難しくても、お互いにその取り組みについて情報交換をし、学び合うことで、「楽都」としての取り組みをより充実させ合うことはできるはずである。そもそもウィーンと違って、日本国内であれば「楽都」は一つの都市だけが名乗れるといったようなものではなく、同時多発的に複数の「楽都」があってまったく問題ないはずである。いや、むしろたくさんの「楽都」があれば、それだけ音楽を楽しめる環境が多くあるということになり、望ましい。「楽都」を自称する都市が集まって、年に1回くらい「楽都サミット」を開催してみてはどうだろうか。

 東北の中だけでもできることはありそうである。まずは先に述べた、仙台と郡山という「楽都」同士が連携する体制をつくることが必要だが、それに加えて、東北の主だった都市間で音楽に関する取り組みについて情報交換する場があるとよいと思う。

 なぜそのように思うかと言えば、最初に述べた「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」と同様のスタイルで始まった東北の音楽イベントの中には、何回か開催されたもののその後開催されなくなってしまったものもいくつかあるからである。これは実にもったいないことである。

 何か新しいことを始めることはもちろん大変だが、新しく始めたことをその後も続けることは実はもっと大変なことである。始めたことをその後どのように続けるかについてのノウハウは、始めたことを現在も続けているところが持っている。運営体制の構築や維持、引継ぎや予算確保、プロモーションといった実務上のことからコミュニケーションの方法やモチベーションの維持といったメンタル面のことまで、長く続けているところには必ず工夫がある。それを共有することで、せっかく始めたことが一過性のものとして終わるのではなく、息の長い取り組みとして続き、そうすればその取り組みは地域に根付く。「楽都」はそうしたことの積み重ねの先にある。

 郡山の「楽都」への取り組みが戦後の復興を支えたことを考えても、音楽の持つ力を東北が前に進むために活かすことは必要であると思う。そのためには東北のあちこちに「楽都」ができるのがよいのではないだろうか。


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2016年10月27日

私的東北論その87〜「東北秘境ツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 8月16日に刊行された「東北復興」第51号では、先号、先々号に続いて、東北の観光について取り上げた。この回のテーマは「東北の秘境」である。ただ、秘境というのは、私の中では、あまり人に知られていないこともその大きな要素だと思っているので、秘境について紹介することは、秘境を秘境でなくする可能性があり、その点で矛盾を感じるところもある。

 とは言え、東北の秘境はとても魅力的なところが多いので、紙面では以下の通り、紹介してみた。


東北秘境ツアーのススメ

東北の秘境?
 前回は東北の「端っこ」を紹介した。今回は東北の秘境について紹介したい。ただ、、「端っこ」については、緯度と経度で異論なく決まるが、「秘境」がどこかについては、解釈の違い、意見の隔たりが多くありそうである。

 例えば、秘境と言うと、かつて「日本の秘境100選」が選定されたことがある。JTBの雑誌「旅」が創刊750号となるのを記念して開催されたシンポジウムの場において選定されたものである。この中で東北で選ばれたのは、八甲田山(青森県)、下北半島/恐山・仏ヶ浦(青森県)、津軽半島西岸(青森県)、八幡平・乳頭温泉郷(秋田県・岩手県)、出羽三山(山形県)、檜枝岐・野岩鉄道沿線(福島県・栃木県)、裏磐梯・雄国沼(福島県)、遠野盆地(岩手県)、内間木洞(岩手県)、重茂半島(岩手県)、十二湖・白神山地(青森県)、飛島(山形県)、笹谷峠(宮城県・山形県)の13か所である。

 「日本の秘境100選」に選ばれた東北の「秘境」を見て私が最初に思ったのは、「これらは秘境なんだろうか」ということである。秘境どころか、有名な観光スポットがほとんどのように見える。これらの中で私が「確かに秘境だね」ということで同意できるのは、内間木洞くらいである。岩手県の沿岸北部久慈市にあって日本で5番目の長さを持つこの洞窟は、普段一般公開がされておらず、また龍泉洞やあぶくま洞などと比べて知名度も高くないので、その意味で秘境であると言ってよいと思う。

秘境とは何か
 そもそも秘境とは何だろうか。「デジタル大辞泉」には、「外部の人が足を踏み入れたことがほとんどなく、まだ一般に知られていない地域。」とある。「大辞林」でも、「人の訪れたことのない、まだ一般によく知られていない地域。」とある。

 どちらの解釈でもポイントは二つで、一つは「人があまり訪れていない」こと、もう一つは「一般によく知られていない」ことである。私が「秘境」という言葉を聞いてイメージするのもこれらと近い。

 そうした観点から見ると、やはり先の「日本の秘境100選」は、あまりにも人が訪れ過ぎで、あまりにもよく知られ過ぎた場所ばかりである。秘境の捉え方にもよるが、辞書的な解釈からはかなり遠い「秘境」であると言わざるを得ない。

 秘境に相応しい言葉として、「人跡未踏」という言葉が挙げられると私は思う。このご時世、人跡未踏の地などあるのかと思われる向きもあるかと思うが、東北の山の中にはつい最近まで人がほとんど足を踏み入れたことのなかった地域が多くある。これぞまさに秘境である。

手掛かりはブナの森
 東北で秘境を考える時に手掛かりになるのはブナであると思う。2013年3月の第10号で東北のブナについて書いたことがあるが、ブナは東北各地に広く森を形成していた樹種である。しかし、木材としての利用がしづらかったために、各地で伐採され、代わりに木材として利用されるスギなどが植えられた。ということは、現在もブナの森が残っている地域は、人の手が加えられていない、いわばあまり人が訪れていない地域と言うことができるのではないだろうか。

bunabayashi1 その代表がもちろん、世界自然遺産として登録された、縄文時代から続くブナの原生林が今も残る白神山地である。しかし、白神山地は世界自然遺産への登録で一躍有名になり、また訪れる人も急増したため、秘境とは言えなくなってしまった。

 福島を除く東北5県の国有林を管理する東北森林管理局のデータによれば、管内国有林の樹種別蓄積では、スギが6,686万立方メートル(26%)で最も多いが、次いでブナが5,708万立方メートル(24%)で、以下カラマツ1,503万立方メートル(6%)、ヒバ1,382万立方メートル(6%)、アカマツ1,280万立方メートル(5%)、ナラ類823万立方メートル((4%)と続く。だいぶ伐採され、植え替えられたとは言え、依然ブナの木が東北には多く残っていることが分かる。

image-19 白神山地以外でブナの原生林が残っている地域として挙げられるのが、福島県の奥会津・只見町である。只見町のブナ林はその規模や原始性において、白神山地と並んで国内随一と言われている。伐採を逃れたブナ林は、やはりあまり人が入らない奥山に残っている。只見町では、町内のブナ林のパンフレットを作成しており、ウェブ上でも閲覧できる。


巨樹・巨木も手掛かり
 もう一つ、秘境の手掛かりとしてあるのは巨樹、巨木である。それが神域にあったために伐採を免れ、大事にされてきたというケースもあるが、そうでなければ単に発見されなかったために今に至るまで残った巨樹・巨木も多くある。

img481 林野庁は「森の巨人たち百選」を選定したが、100のうち27が東北にある。これらの中には、元々古くから巨樹として知られてきた木もあるが、環境省が1988年と2000年に全国で行った巨樹巨木林調査の結果、存在が明らかになった巨樹もある。岩手と秋田両県にまたがる和賀山塊もブナの原生林が多く残ることで特筆すべき地域だが、ここにある「日本一のブナ」や「日本一のクリ」の存在が明らかになったのは、まさにこの調査の結果である。和賀山塊について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「巨樹の森・和賀山塊」が参考になる。

 山形県の北部、最上(もがみ)地域もそうである。1市4町3村からなるこの地域は、総面積の8割が森林であるが、ここでも全国有数の巨樹・巨木が多く見つかっている。最上地域観光協議会のサイトで詳しく紹介されている。

奥会津の秘境
 先に紹介した只見町は奥会津と称される地域にある。会津と言うと、この地域の中心都市会津若松市が有名で、確かに市内を歩くとそこかしこに会津らしさが感じられるのだが、こと自然に関しての会津の魅力は実は、会津若松からさらに奥地に入ったところにあると私は思う。それが只見町のある奥会津地域であり、それに隣接する南会津地域である。

wgn5QT4C これらの地域には新潟県側にまたがって越後三山只見国定公園があるが、福島県側のポイントは只見町の田子倉湖と只見町に隣接する檜枝岐村の奥只見湖である。ちなみに、檜枝岐村は東北で最も人口の少ない市町村である。昨年現在の人口は614人で、東北で唯一三桁の人口である。また、村の面積の約98%が山林であるために全国で最も人口密度が低い市町村で、その数値は1平方キロメートル当たり1.73人である。つまり、1キロメートル四方に2人いない計算である。日本一人口密度が高いのが東京都中野区の1平方キロメートル当たり20,180人であるので、檜枝岐村の人口密度はその約11,665分の1である。

 田子倉湖も奥只見湖も、全国屈指の規模のダムによって生まれた湖であるが、この2つの湖を結ぶ地域はまさに人跡未踏の地として知られている。どちらのダムも建設時に多数の殉職者を出した末にようやく完成したと言い、今もお盆には慰霊祭が行われているそうである。

秋田内陸にある秘境
kimimachisugi 先に紹介した「森の巨人たち百選」の中には「きみまち杉」という、樹高が58メートルという日本一の高さの杉がある。58メートルと言うと、15階建てのビルに相当する高さだそうである。

 この「きみまち杉」があるのは、秋田県能代市の仁鮒水沢スギ植物群落保護林である。この保護林もほとんど知られていないので秘境と言って差し支えないと思うが、人工林ではない秋田杉の天然林が見られる希少な場所である。一歩足を踏み入れると、とにかくそのスギの存在感に圧倒される。植林されたスギとはスケール感がまるで違う。入口にある看板の文句が面白い。「道路沿いなどによくある人工林とは段違いのスケールを誇る巨木林です。ただ目が慣れると感激が薄れてしまいますのでご注意ください」とある。「森と水の郷あきた」のサイト内の解説が詳しい。

001 北秋田市にある森吉山周辺もまさに秘境と呼ぶに相応しい地域である。古くから霊峰として山麓住民の信仰の対象となってきたこの森吉山にも豊かなブナの森がある。水の豊かな山で、山間のあちこちに滝があることでも知られている。

 その中で、秘境の面目躍如たる滝が「九階の滝」と呼ばれる、落差が100メートル以上もある滝である。かつてはこの地のマタギでさえも「神様の沢」として畏れ、近寄れなかったと伝えられる場所で、登山道が整備されていないこともあって、これまで地元の人でさえ数えるほどしか到達していないという、まさに秘境の滝である。

 九階の滝までたどり着ける人はそう多くはないだろうが、小又峡の三階滝までなら行ける。これまた奥森吉を代表する見事な滝である。三階滝までは遊歩道が整備され、場所によって表情を変える清流を横目で見ながら散策ができる。森吉山について詳しく知りたい場合は、「美しき水の郷あきた」のサイト内にある「水の郷・森吉山」が参考になる。

普通の「東北」に飽き足らない方へ
 これまで紹介してきた地域は、恐らくあまり知られていないと思われる。いずれも「東北の秘境」という称号に値する地域と言えるのではないだろうか。冬ともなるとまさに人跡未踏の地となるが、今の時期であれば、もちろん奥地まで入り込むのであれば本格的な装備が必要となるが、そこまででなければ比較的軽装でも、十分秘境の醍醐味を味わうことができる。

 有名な観光地巡りには飽きたという方や、東北らしさを存分に味わいたいという方にはぜひおススメしたい。


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2016年09月30日

私的東北論その86〜「東北端っこツアー」のススメ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」紙の第50号とその次の第51号では、前回第49号で考察した東北の観光の現状等を踏まえて、東北の観光資源の「掘り起こし」を図った。第50号では、東北の東西南北端を巡るツアーを提唱してみた。

 以下がその全文である。


「東北端っこツアー」のススメ

 東北は南北約530km、東西は最大約180kmに及ぶ広大な地域である。南北に長いことから、東北の南端に近い福島県いわき市の小名浜では桜の開花が平年値で4月6日なのに対し、北端の手前にある青森県むつ市では平年値が4月29日と、桜前線が東北を縦断するのには1か月近い期間を要する。

 日本の東西南北端の場所は有名で、最東端は南鳥島、最西端は与那国島、最南端は沖ノ鳥島、最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。これに対して、各地方の東西南北端はと聞かれてすぐに答えられる人はほとんどいないに違いない。こと東北に関して言えば、最北端の下北半島・大間崎は有名である。大間崎は東北の最北端というだけでなく、本州の最北端でもあることからある程度知名度があるのかもしれない。しかし、東北の最東端である岩手県宮古市の魹ヶ埼(とどがさき)も本州の最東端であるにも関わらず、知名度は今ひとつである。最南端や最西端に至っては恐らくほとんどの人が知らないに違いない。そこで今回は東北の「端っこ」を紹介してみたい。


最北端・大間崎(おおまさき)
kaikyo 大間崎は、青森県の北東、マサカリのような形をした下北半島の最北端にある。大間崎を抱える大間町は、マグロの一本釣りで有名な漁業の町である。大間のマグロは東京・築地のセリで高値がつくことでもよく知られる。

 地図をよく見ると分かることだが、北海道の最南端よりも大間崎の方が北に位置している。もちろん、れっきとした東北の一部なのだが、下北半島で見られる景色は東北の他の地域とは明らかに異なる。北海道にも通じるような雄大さとおおらかさを兼ね備えたような景色である。なにせ県庁所在地の青森市から下北半島の中心都市むつ市までは約100kmもある。同じ青森県内でも、津軽や三八上北とも違う、下北ならではの風景がここにはある。

 むつ市郊外には恐らく下北半島で最も有名と思われる、日本三大霊山、日本三大地獄の一つ、恐山(おそれざん)がある。火山ガスが噴き出す荒涼とした風景がまさに地獄を彷彿とさせ、おどろおどろしいイメージがつきまとう恐山だが、隣接する宇曽利湖(うそりこ)は波静かで極楽浄土に比せられる。つまりここは地獄だけでなく、極楽も体験できるスポットなのである。ちなみに、恐山の「恐」と宇曽利湖の「宇曽利」は元々同じ読み。ここは地獄と極楽が同居する稀有な地なのである。

 下北半島には薬研(やげん)温泉や下風呂(しもふろ)温泉など、名湯がある。が、せっかく東北最北端の地に来たのであれば、ぜひ東北最北端、すなわち本州最北端の温泉に入ってみてほしい。それが大間温泉である。おおま温泉海峡保養センターが所有する温泉で、宿泊もできる。

 マグロで有名と書いたが、実は大間町には「陸(おか)マグロ」と称されるものがある。それは大間町で肥育されている大間牛のことで、これがまた大間の本マグロにも負けない最高等級の牛肉なのである。ちなみに、おおま温泉海峡保養センターでは大間マグロとこの陸マグロの食べ比べコースもある。

 大間町には以前紹介したことがあるが、本州最北端の地ビールがある。梅香山崇徳寺(ばいこうざんしゅうとくじ)という江戸時代から続くお寺がつくる、全国でも恐らく唯一の地ビール「卍麦雫(まんじむぎしずく)」である。境内にはこれまた全国でも唯一と思われるこの地ビールの自動販売機もある。これもぜひ味わってみてほしい。

 本州最北端の大間崎、対岸の北海道が間近に見られることで有名だが、南側以外ぐるっと海に囲まれたロケーションであることから、実は海から昇る朝日と海に沈む夕日が両方見られる。このようなスポットというのは日本中探してもあまりないと思うのだが、そのこと自体あまり知られていないようである。ここはもっとアピールすべきポイントである。


最東端・魹ヶ埼(とどがさき)
27 最東端の魹ヶ埼は、岩手県の三陸沿岸、宮古市の重茂半島にある岬である。先にも紹介したように、本州最東端の地でもあるのだが、知名度は最北端の大間崎に遠く及ばない。その理由は何かと考えてみると、|鰐召読めない、辿り着くのが大変、ということがあるように思われる。,砲弔い童世┐弌◆屬箸鼻廚箸いΥ岨自体がまず読めない。パソコンでも環境依存文字で、正しく表示されるかどうかはパソコン次第である。△砲弔い討蓮宮古市の中心部から入口まで車で約50分もかかるだけでなく、駐車場に車を止めてから「山道」を約1時間ほど歩かなくては辿り着けないということがある。なぜ海のそばなのに山なのかと言うと、三陸海岸は昔習ったように「リアス海岸」であるからで、海のすぐそばまで山なのである。

 往復2時間と考えると訪れるのに二の足を踏んでしまいそうになるが、ここは行って損のないスポットである。眼前には太平洋が遮るものなく茫洋と広がり、三陸沿岸屈指のビューポイントである。

 知る人ぞ知る、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった魹ヶ埼灯台もある。映画の当時は灯台守が海の安全を守っていたが、今は無人である。市街地から遠く離れた「陸の孤島」であるこの灯台で灯台守の夫婦がどのように生活していたのかと考えると、先人たちの苦労が偲ばれる。

 最東端ということで、魹ヶ埼は東北で最も早く朝日が昇るスポットである。ちなみに、緯度の関係で本州全体で最も早く朝日が昇るのは千葉県の犬吠埼である。


最南端・矢祭町(やまつりまち)
1454037976_8a 東北の最南端は福島県いわき市であると思っている人も多いに違いない。冒頭で紹介したように、いわき市は東北で最も早く桜が開花する地である。しかし、緯度上の最南端はいわき市ではない。もっと南に存在するのが矢祭町(やまつりまち)である。この矢祭町の国道349号線沿いにある明神峠の西側の山麓が東北最南端の地である。

 矢祭町は人口7,000人弱の小さな町だが、いわゆる「平成の大合併」の折に小規模自治体が切り捨てられることに反発して、「合併しない宣言」を採択して話題となった。宣言を出しただけでなく、小規模自治体が財政的に自立できるよう、行財政改革を徹底して行って成果を上げており、全国の自治体から視察がひっきりなしに行われている町としても有名である。

 観光スポットとしては、町の中心にある矢祭山とそのそばを流れる久慈川の周辺が中心となる。矢祭山は町全体が見下ろせるビュースポットであると同時に、山つつじの名所としても知られている。久慈川流域は「東北の耶馬渓」と称される四季折々の景観で知られる。個人的なおススメは「阿武隈の秘境」と呼ばれる滝川渓谷で、全長3kmの散策路内に四十八滝がある。渓谷を上り切った先にある「滝川の里」で食べられるそば粉十割の手打ちそばも美味しい。

 矢祭町の特産品はゆずで、香り高いことで知られている。町内では、ゆずシャーベットなど、このゆずを使った加工品がある。


最西端・御積島(おしゃくじま)
osyakujima 東北の最西端について知っている人はほとんどいないに違いない。日本海側に突き出た半島がそうなのではないかと考える人もいるかもしれないが、東北地方は北東方向から南西方向に伸びている。したがって、恐らく東北の日本海側で最も有名な半島と思われる、ナマハゲで有名な男鹿半島は東北の最西端ではない。岩木山が海に浮かんだように見える、津軽半島の小泊半島も最西端ではない。

 離島を含めるかどうかでも違ってくるのだが、離島まで含めるのであれば、山形県酒田市にある御積島が東北最西端で、離島を含めないのであれば、山形県鶴岡市の鼠ヶ関が最西端である。御積島を知っている人は東北の人であってもなかなかいないと思われるが、酒田市に属する離島で、トビウオで知られる飛島(とびしま)の西約2kmに位置する無人島である。スキューバダイビングのスポットとして知られている。この御積島の西に位置する岩礁、カラカサノイボの経度は東経139度31分13秒である。

 これに対して、離島を含めない場合は鶴岡市の南端にあって、出羽と越後の境であった鼠ヶ関が最西端となる。鼠ヶ関の弁天島のすぐ西にある岩礁の経度は東経139度32分18秒で、ほんのわずかな差ではあるが、御積島の方が西である。

 御積島のある飛島には、酒田港から定期船「とびしま」で75分である。ちょっと書いたようにトビウオが多く取れる。トビウオの焼干しやつゆは特産品として有名である。海藻もいろいろ取れ、特にイギスやアラメ、ホンダワラなどは他地域のものに比べて美味しいと評判である。飛島からは御積島も回る遊覧船が出ている。

 一方の鼠ヶ関は、江戸時代には念珠ヶ関とも表記され、福島県白河市にある白河関といわき市にある勿来関と共に、奥羽三関の一つとして東北への玄関口として知られる。ちなみに、現在の鼠ヶ関の史跡は「近世念珠関址」と呼ばれ、移転された事情は定かではないものの、古代の鼠ヶ関があった場所から北方に約1km移動している。これに対して元々鼠ヶ関があった場所は「古代鼠ヶ関址」として、石標が建てられている。その西端である弁天島へは現在は遊歩道が整備され、地続きである。源義経が兄頼朝に追われて平泉に逃れた際に上陸した地として伝わる(新潟の村上から当地までは船に乗ったとの伝承がある)。飛島も鼠ヶ関も、日本海沿岸ということで、言うまでもないが海に沈む夕日の絶景スポットである。


ぜひ「東北端っこツアー」を
 以上紹介した東北の東西南北端を巡るツアーなどは今のところないが、個人的にはやってみたら面白いのではないかと思う。それぞれ全く異なる雰囲気があり、東北の多様さを体感できるツアーになるに違いない。

 本州の東西南北端については、「本州四端踏破ラリー」がある。これまでに紹介した、本州最北端である大間町、最東端である宮古市、それに最西端である山口県下関市、最南端である和歌山県串本町で構成する本州四端協議会が、地域活性化のために協力して実施している取り組みで、すべて踏破した人には、本州四端踏破証明書と本州四端オリジナル記念品が贈られる。平成16年に始まって以来、これまでに1,792人が踏破者としてカウントされている。手始めに、同様の取り組みを東北でもやってみてはどうだろうか。


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2015年05月02日

私的東北論その69〜ふくしまデスティネーションキャンペーンが開幕!(「東北復興」紙への寄稿原稿)

 「東北復興」第35号が4月16日に刊行された。本来なら、そこへの寄稿原稿は次の号が出てからこのブログに収載しているが、今回はあるいはGW中に福島を訪れる人も相当数いると考えられることから、少し前倒ししてこのブログでも公開することにした。今回のテーマは、現在福島県内で開催中の「ふくしまデスティネーションキャンペーン」に関連して、である。


追記(2017.1.17):下の記事で紹介した、理論上富士山が見える北限とされる花塚山で、地元の登山愛好家3人がついに富士山の姿を撮影することに成功したそうである。

朝日新聞「富士山、福島の山から撮影成功 308キロ先の『北限』

3人は初の撮影成功まで実に55回も花塚山に登ったそうで、その執念が実を結んだわけである。
下の記事では富士山が見える北限について、直線距離と緯度の点から日山と麓山の2つを挙げていたが、これで晴れて、その両山よりも北の花塚山を「北限」とできるわけである。


ふくしまデスティネーションキャンペーンが開幕!

デスティネーションキャンペーンと東北
 ふくしまデスティネーションキャンペーン「福が満開、福のしま」が4月1日、開幕した。デスティネーションキャンペーン(以下DC)とは、県、地元自治体、観光事業者等とJRグループが連携して行う国内最大級の大型観光キャンペーンで、1978年の和歌山県で開催された「きらめく紀州路」以来、今回の福島で94回目となる。
 
 このうち、新潟を含む東北圏が対象となったDCは計33回と、全体のほぼ3分の1を占めている。東北はその観光資源の多さや、首都圏からの距離の近さなどから、観光キャンペーンの対象としやすい面があるのかもしれない。

 福島が対象となるのは、1985年(この時は東北地方全域)、1995年、1998年、2001年、2005年に続いて6回目であるが、今回は何と言っても東日本大震災後初めてのDCとあって、関係者の間には期するものがあるに違いない。

 3月末に東京に行ったが、JR各線の車内広告や駅の広告でこのふくしまDCを目にしないことはなかった。いつもながらJRグループとしてもかなりの力の入れようであることが窺える。

 今回は、6月30日までの期間中、福島の「花」、「食」、「温泉」、そして「復興」を柱として、地域の特色である桜、歴史や文化、自然に加えて、福島県内の各地域が準備する「DC特別企画」などのイベントが目白押しである。このうち、福島県内の桜については、昨年4月の第23号で「そうだ、桜を見に福島へ行こう」で詳しく紹介したが、福島は、東北はもとより、全国でも屈指の桜の名所の多い地域である。

 福島はまた、スイーツが美味しい土地柄でもある。特に東北では山形と並んで「果樹王国」と称される通り、地元で取れる豊富な種類の果物を使ったスイーツが多い。そこに目をつけたJR東日本は今回のDCに合わせて、郡山から会津若松まで「フルーティアふくしま」という臨時列車を運行させる。「走るカフェ」のコピーの通り、車内ではコーヒーやフルーツジュースと共に、福島県産フルーツなどを使用したオリジナルスイーツが味わえるそうである。

充実した内容のガイドブック
 ふくしまDCの開催に合わせて、JRの各駅などではふくしまDC総合ガイドブックが入手できる。見た目は普通のパンフレットのようなのだが、その実70ページにも及ぶボリュームの、まさにパンフレットというよりガイドブックと呼ぶに相応しい代物である。

 内容も実に充実していて、これがあれば普通の観光ガイドブックはいらないのではないかと思われるくらい、福島県内各地の観光物産について詳しく紹介されている。しかも、定番のものを通り一遍に紹介するだけにとどまらない。、

 例えば会津のまんじゅうの天ぷらや喜多方のラーメンバーガー、福島のイカ人参といったあまり知られていないご当地グルメや、船引のお人形様のような独自の風習、奥州藤原氏と源氏との最大の激戦地となった阿津賀志山防塁のような歴史上の遺構、相馬の百尺観音のような地元以外には知られていない文化財など、ある意味マニアックなニーズにまで対応できそうなレベルで紹介されている。

 ちなみに、このガイドブック、ふくしまDCのサイトでも電子ブックとして閲覧できるようになっている。また、総合ガイドブックだけでなく、中通りエリアガイドブック会津エリアガイドブックいわきエリアガイドブック相双エリアガイドブックなどもPDFデータとしてダウンロードできるようになっている。

ガイドブックに載っていない穴場的スポット
 さて、このように詳細なガイドブックを作られてしまうと、私の出る幕などない、…のだが、ガイドブックに載っている以外にもまだ、私の知っている穴場的なスポットがあるので、以下紹介していきたい。

・医王寺
 福島市の飯坂温泉に向かう途中にある奥州藤原氏を支えた信夫佐藤氏の菩提寺。源義経に付き従って戦死した佐藤継信・忠信兄弟の墓碑もある。瑠璃光殿という宝物殿には佐藤氏ゆかりの品々が展示されているが、義経一行に関わるものも数多い。

 佐藤兄弟追善法会の時書かれた弁慶筆の下馬札、佐藤兄弟が旗竿に用いた二股の竹、佐藤継信・忠信所用の鐙、佐藤継信所用の鞍、芭蕉の句にも詠まれて知られている弁慶所用の笈、旗揚げの折りに佐藤基治と別れるに臨み形見に与えたという義経が着用した直垂の断片、佐藤兄弟の追悼のため書いたという弁慶筆の紺紙金泥大般若経、屋島の合戦において自分の身代わりとなった継信から義経自ら抜き取り「恨の矢の根」と名付けて基治に贈ったという能登守教経所用の矢の根、義経書状など、義経一行に関わる遺品は平泉よりもはるかに多いのではないかと思う。戦前までは義経の太刀も所蔵されていたそうである。

 近くには、信夫佐藤氏の居城と伝わる大鳥城跡が公園として整備されており、こちらも見晴らしのよいオススメスポットである。

・霊山
 中通りの福島市から浜通りの相馬市に向かう国道115号線沿いにある標高825mの山。直立する柱状節理が印象的な岩山である。あまり知られていないが、南北朝動乱期の一時期、多賀城の陸奥国府が、南朝方の鎮守大将軍北畠顕家によって、攻めるに難く守るに易いこの霊山山頂に移されたことがあった。切り立った絶壁を下から見上げると、ここを攻めなければいけなくなった北朝方はさぞや難儀したのではないかと実感する。

 現在は遊歩道が整備され、そのような見かけとは裏腹に、登りやすい山となっている。頂上からの見晴らしもよく、また秋の紅葉の名所としても地元ではよく知られている。

・日山・麓山
 これまたあまり知られていないが、富士山が見える北限の地は福島県である。現在までのところ、二本松市にある富士山から299km離れた標高1,057mの日山(ひやま)、298km離れた標高897mの麓山(はやま、羽山とも)が、富士山を遠望できる北限の地とされている。ちなみに、2つの山を挙げた理由は、富士山からの距離という点では日山の方が麓山よりも1km離れているが、緯度は麓山の方が日山よりも高く(つまりより北)、甲乙が付けにくいからである。

 なお、シミュレーション上は、川俣町と飯舘村の間にあり、富士山から308km離れた標高918mの花塚山が本当の北限であるようだが、今のところ花塚山からの富士山の撮影には成功していない。

・UFOの里
 福島市の南西部、飯野町地区は地元では「UFOの里」として知られている。地区の北部にある標高462mの千貫森周辺では、古くから発光物体の目撃例が多数あるそうで、地区にあるUFOふれあい館ではUFOに関する資料の展示や3Dシアターでの映像の上映が行われている。UFOとは何の関係もないが、展望風呂やテニスコートもある。また、隣接するUFO物産館では地元の物産品、民芸品の他に宇宙やUFOにかかわるグッズなども販売されている。物産館と同じ建物のパノラマ食堂では、UFOとは何の関係もないが、「ダブル地鶏ラーメン」と「飛び魚ラーメン」が人気である。

 UFOの里のサイトには「UFOカメラ」というライブカメラもあり、居ながらにしてUFO探索ができる。

・妖精美術館
 会津の金山町の沼沢湖のほとりには、妖精をテーマにした珍しい美術館がある。ここには世界中の妖精に関する絵画、絵本、文学資料、人形、妖精をとり入れた小道具などがたくさん揃っている。ただし、雪が深い冬季は休館しており、今年のオープンは4月28日の予定である。

・地ビール
 ふくしまDC総合ガイドブックでは、福島県内の地酒については紹介されているものの、地ビールについて紹介されていないのが残念である。福島県内の地ビールについては以前「東北地ビール紀行」の中で紹介したが、福島市の「みちのく福島路ビール」、猪苗代町の「猪苗代地ビール」、二本松市の「ななくさビーヤ」がある。みちのく福島路ビールと猪苗代地ビールには直営のレストランもあるので、出来立ての地ビールを樽生で飲むことができる。

・名誉猫駅長「ばす」
私が訪れた時ばす名誉駅長はお疲れでお昼寝中だった 会津鉄道の芦ノ牧温泉駅には猫の名誉駅長がいる。元は近所の子供達が拾ってきた野良猫だったが、それ以来芦ノ牧温泉駅に住み、2008年に名誉駅長に任命され、乗降客の見送り、出迎え、駅構内外の巡回などに活躍中である。

 昨年には子猫の「らぶ」が見習い駅員として就任、修行中である。







福島滞在に補助
 以上、ふくしまDC総合ガイドブックには載っていない、私の知っている福島県の穴場スポットについて紹介してみた。震災によって、東北を訪れる観光客数は減少した。福島県では震災のあった2011年は前年比で61.6%の3,521万人にまで観光入込客数が減少した。その後2012年に4,446万人、2013年には4,831万人と観光入込客数は着実に回復してきている。

 福島県は、観光入込客数の一層の回復を図るために、今回のふくしまDCに合わせて、宿泊代の一部を補助する「福が満開、福のしま。」旅行券事業を始めることにしている。福島県内に滞在する観光客を対象に、ホテルや旅館で使用できる1万円分の宿泊クーポン券を、宿泊予約サイトやコンビニ端末を通じて半額の5,000円で購入できるので、5,000円分お得なわけである。事業開始はどうやらふくしまDCの最後の月である6月からになりそうだが、福島を訪れる際に活用してみてはどうだろうか。


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2014年04月16日

私的東北論その56〜そうだ、桜を見に福島へ行こう(「東北復興」紙への寄稿原稿)

tohoku-fukko23 「東北復興第23号が本日発行された。同紙には創刊号から記事を寄稿しているが、寄稿した記事については、これまで概ね同紙の発行から1か月以上経過した後に本ブログでも紹介するようにしていた。

 ただ、今回寄稿した記事のテーマは「桜」である。1か月後では花は既に散ってしまっているだろう。今回、東北最大の桜の名所である福島県を取り上げたが、今の時期にこそ読んでいただきたい内容であったので、今回の記事に限り、発行人である砂越氏の承諾を得て、「東北復興」紙と同時に本ブログでも掲載することにした。

 そうそう、もちろん私の記事などよりも読み応えのある記事が他にたくさんあるので、ぜひ「東北復興」紙の方も読んでみていただければと思う。

そうだ、桜を見に福島へ行こう

東北最大の桜の名所・福島県
 今年も桜のシーズンがやってきた。東北で最も桜が早く咲く福島県いわき市では4月2日、ソメイヨシノが開花し、桜前線が東北に到達した。
 
 聞くところによると、桜前線の速度はおよそ時速0・7kmとのことである。東北の最南端である福島県いわき市の勿来の関から、東北の最北端である青森県大間町の大間崎までは直線距離で約520kmであるので、時速0・7kmで北上すると約31日掛かる計算になる。従って、桜前線はおよそ1ヶ月かけて東北を北上し、だいたい5月のゴールデンウィーク期間中に津軽海峡を渡ることになるわけである。ちなみに、いわき市の標本木は東日本大震災時に津波を被ったが、その塩害にも負けずに今年も花を咲かせたそうである。
 
 日本中がこれだけ、いつ咲くか、いつ咲くかと気にする花は、桜を措いて他にない。唯一対抗できるとすれば、花ではないが秋の紅葉であろうか。そう言えば、どちらも「前線」の動きに注目が集まる。ともあれ、それだけ日本人にとって桜は特別な意味を持った花で、桜の樹の下で花見をすることはあっても、チューリップの花を見ながら花見をすることはまずない。
 それだけに、桜の名所と呼ばれる場所、あるいは桜の名木と呼ばれる樹は、日本中至る所にある。ここ東北に関してもそうである。とりわけ有名なのは「東北桜三大名所」と呼ばれる弘前城(青森県弘前市)、角館(秋田県仙北市)、北上展勝地(岩手県北上市)の桜であるが、それ以外にも東北には各地に桜の名所、名木が存在する。
 
 この時期、ウェブ上でも桜の名所を紹介したサイトが多数存在する。それらのサイトで東北の桜の名所を調べてみると、あることが分かる。例えば、るるぶ.comの「桜前線とれたて便2014」では、東北六県の桜の名所の数は、青森10、岩手11、宮城9、秋田12、山形14、福島36である。Walkerplusの「全国お花見1000景」では、青森11、岩手26、宮城20、秋田21、山形25、福島47である。駅街ガイド.jpの「お花見ガイド2014」では、青森21、岩手24、宮城23、秋田25、山形27、福島62である。
 
 お気づきのように、先に紹介した「東北桜三大名所」にこそ入っていないものの、福島の桜の名所の数は、東北の他の5県と比べても突出して多いのである。「東北・夢の桜街道〜復興への祈りを捧げる 桜の札所・八十八カ所巡り」では、東北の88ヶ所の桜の名所(札所)を挙げているが、ここでも福島の桜の札所は全88ヶ所のうち21ヶ所に上る。ちなみに、福島におけるこの桜の名所の数の多さは全国的に見ても、概ね東京、京都に次ぐものとなっているようである。

福島の桜は咲き誇る
 地元福島県でも、こうした状況をよく理解しているのであろう。福島県内の桜の名所を紹介したサイトは実に充実している。ふくしまの旅(福島県観光情報サイト)の「ふくしま さくらスポット」には実に、195ヶ所もの桜の名所が紹介されている。福島県のサイト内にある「さくら回廊ふくしま」も、地域ごとに桜の名所、名木を詳しく紹介しており、見応えがある。
 
滝桜(三春町観光協会のサイトより) そうした中で、東北最大の桜の名所・福島を代表する桜と言えば、何と言っても三春町の「滝桜」であろう。日本三大桜の一つに数えられる、樹齢1000年以上とされる枝垂れ桜の巨木である。無数に咲いた花が、まさに滝のように流れ落ちるように見える。「滝桜」と呼ばれるようになったのもむべなるかなという姿だが、実は滝という地名の場所にある桜だから滝桜という名なのだそうである。三春町のサイト内には「滝桜ライブカメラ」があり、滝桜の現在の様子をリアルタイムに確認できる。開花している時期にはアクセスが集中するそうである。
 
 福島県内には、この滝桜以外にも大玉村の馬場桜や、猪苗代町にあって会津五桜の一つに数えられる大鹿桜など、樹齢1000年を超えるとされる桜の古木がある。また、樹齢500年以上と言われる桜も県内各地に点在している。福島の人たちがいかに古くから桜を愛でてきたかを如実に示していると言える。 他にも、小野町にある夏井川の千本桜や会津若松市の鶴ヶ城公園の桜、そして東北の「桃源郷」として知られる福島市の花見山、下郷町の戸赤集落の山桜などは実に見事である。
 
 郡山観光交通のサイト内には「平成26年春場所枝垂れ桜花番付表」がある。東西横綱2本(東の正横綱はもちろん滝桜である)以下、大関6本、関脇6本、小結6本、前頭80本の、実に100本の枝垂桜が大相撲の番付表になぞらえて紹介されている。他にも枝垂れ桜を除く「福島の一本桜best30」と、「福島のお花見名所best30」が挙げられており、その充実ぶりが窺える。

桜の花の真実の姿
 桜の名所ということで言えば、返す返すも残念だったことがある。2km以上に亘って道の両側に植えられた桜のトンネルが続く富岡町の夜の森(よのもり)公園近くの桜並木である。私も大好きで何度も足を運んだこの桜の名所は、東日本大震災による福島第一原発の事故によって今も帰宅困難区域となっており、震災前に富岡町に住んでいた人が一時立ち入りする以外の立ち入りは認められていない。
 
夜の森の桜並木のトンネル(富岡町のサイトより) 従って、今まで紹介した各サイトでも、この見事な夜の森公園の桜並木は取り上げられていないのである。いつかまた大手を振って足を運べる時が来ることを切に願う。
 
 富岡町のサイトでは、震災後の2012年に撮影した夜の森公園の桜が、写真と動画で紹介されている。また、マウス操作によって360度のパノラマ写真で富岡町の桜を鑑賞できるページもある。これらの写真、動画は実に美しいが、この美しい桜が見られない現実を思うと、本当にやるせない、悲しい気持ちになる。
 
 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、幕末から明治という激動の時代を生き抜いた新島八重の生涯を描いたドラマだったが、その最終回に会津藩の家老だった西郷頼母と新島八重との間で、桜の花を愛でながら、次のようなやり取りがある。

西郷頼母「わしはな、新政府がなじょな国つくんのか、見届けんべと、生ぎ抜いてきた。…んだげんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼ぎ付いたのは、なんぼ苦しい時でも、懸命に生きようとする人の姿。笑おうとする人の健気さ。そればっかりが、俺の心を、胸を揺さぶんだ」
 
新島八重「花は、散らす風を恨まねえ。…ただ、一生懸命に咲いでる」

西郷頼母「八重、にしゃ桜だ。…花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる。何度でも、何度でも、花咲かせろ」

 「八重の桜」で作者が一番訴えたかったことは、まさにここにあったのだろうと思う。
 
 桜は、その散り際の潔さから、かつては戦場で命を捨てる兵士の姿になぞらえられた。しかし、そうした桜の姿は、桜の一面のみを見ているに過ぎなかったのだと思う。「八重の桜」の西郷頼母の言う通り、桜は、花を散らせて終わり、では決してない。今年無慈悲な風雨にさらされてその花を散らせても、翌年再びまた見事に花を咲かせるのである。それこそが、桜の花の真実の姿である。そしてきっと、だからこそ、桜は日本人にとって、特別な花であり続けたのだろうとも思う。夜の森公園の桜も、残念なことに誰も見る人はいないにしろ、きっと今年もまた見事に咲くに違いない。
 
 折りしも、ふくしまプレDC「福が満開、福のしま。」と銘打った福島県観光キャンペーン特別企画が実施されている。その中では、福島県205の花の名所を巡る「花の王国ふくしま キビタンフラワースタンプラリー」も実施されている。サイトからは公式ガイドブックもダウンロードできるが、ガイドブックの中だけでも春爛漫の花盛りで、実物はさぞやと思わせられる。
 
 今年はぜひ、福島で咲き誇る桜を見届けに行こうと思う。


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2013年05月03日

私的東北論その45〜「一つの東北」の象徴としてのブナ(「東北復興」紙への寄稿原稿)

新しい画像10 3月16日に「東北復興」紙の第10号が刊行された。今回砂越氏は、一面で「郷土の祭礼と宗教と復興」と題して、各地の祭礼と宗教との関わりについて論考している。また、地名研究家の太宰幸子氏への取材から、地名を手掛かりに古代東北の実像に迫ろうとしている。このアプローチも興味深い。

 げんさんは今回、「蝦夷の国」としての庄内について、古代から近世に亘ってその足跡を紹介している。

 その第10号に寄せた拙文が下記である。





「一つの東北」の象徴としてのブナ

白神山地は見渡す限りのブナの森が広がる広すぎる東北を統合する象徴はあるか
 以前紹介した野田一夫氏の「東北は広すぎる」との言葉を引くまでもなく、東北地方は広く、大きい。日本の面積の十七・七%、新潟県まで含めた東北圏では二一・〇%を占める。同じ東北と言っても、青森の人にとっては福島より北海道の方が親近感があるかもしれない。その福島の人にとっては青森より茨城・栃木・群馬の方が親近感があるかもしれない。そう考えると、「東北は一つ」と思っているのは東北の中の方にいる人間の感覚であって、他地域と接している人間から見ると必ずしもそうは感じられないものなのかもしれない。

 地理的感覚だけではない。進もうとしている方向性にも違いがあったりする。以前げんさんがこの紙面でいみじくも書いていた通り、青森は震災後も原子力推進の立場であり、一方の福島は今も原発事故の影響が復興の最大の妨げとなっておりもちろん廃止の立場である。同じ東北でもこれだけ違う。道州制に対するスタンスも以前紹介したように、知事によって見解はかなり異なっている。

 「一つの東北」を東北にいる人が等しく実感するには、東北に共通する何かを見つけることが必要であるように思われる。例えば、この欄で何度か取り上げている、日本の中世史に燦然と輝く平泉文化。これは岩手のものと言うより、東北の至宝である。なんとなれば、平泉文化の影響を受けた仏像や建造物、遺跡が、東北各地に存在するからである。このような「一つの東北」を象徴するようなものが他にも何かあるだろうか。

世界遺産白神山地の意味するもの
 平泉の文化遺産が世界遺産に登録されたのは震災のあった二〇一一年のことであるが、東北にはそれより先に世界遺産に登録された遺産があった。知っての通り、それは白神山地である。

 青森県と秋田県にまたがる白神山地は、八〇〇〇年前の縄文時代から続くそのブナの原生林が世界的に見ても貴重なものであるとして、屋久杉で有名な鹿児島県の屋久島と共に、一九九三年に日本で初めての世界遺産として登録された。そのブナの森の面積は世界遺産の核心地域だけで一六九・七平方キロメートル、全体では実に一三〇〇平方キロメートルにも及ぶ。東京二三区の面積(六二一平方キロメートル)の倍以上である。特に核心地域に指定された地域はほとんど人の手が入っていないが、これだけの規模のブナの森が手つかずで残っているのは、世界的にもこの白神山地だけであるという。

 このブナに代表される落葉広葉樹、日本では東日本に多く分布している。秋になると紅葉し、冬になると葉を落とす落葉広葉樹の森は、針葉樹の森や常緑広葉樹の森と違い、四季の変化に富んでいる。ブナの森は特にそれが印象的である。春の目にまぶしい新緑。夏のブナの葉の濃い緑。秋の見事な紅葉。冬の葉を全て落とし寒風に耐える凛とした姿。どの季節も見る者の心を掴むものがある。もちろん、私もブナの木は大好きである。

使い道のないブナの有用性
 ところで、このブナ、漢字ではブナ、木へんに無と書く。木でない、木として使えるところがない、そのような意味合いであるそうである。確かに、木材としては腐りやすく曲がりやすく、なかなかに使い勝手の悪い材質である。それで各地に広く分布していたブナの森は次々に伐採され、代わりに木材として有用なスギなどが植林された。しかし、ブナの利用価値は、実は木材としての活用にあるのではない。

 ブナの森は、ブナの木材としての利用価値の低さとは対照的に、豊かな恵みをもたらす森である。ブナの森には実に多くの動植物が生育している。ブナを始めとするブナの森の中の植物は秋に実をつける。その実は森に住む動物の貴重な餌となる。また、ブナは冬に葉を落とす。それは大量の落ち葉となって森の微生物の餌となると共に、腐葉土層となって堆積する。腐葉土層は雨水や雪解け水を蓄え、濾過し、ミネラル分を付加して、清冽な天然水をつくる。その水はもちろん、森に住む動植物の命の源となる。ブナの森が「天然のダム」と言われるのは、そのような理由による。東北では実に数多くの天然水が商品化されているが、そのうちの少なくない天然水はブナの森から湧き出している天然水である。ブナの森のブナが老いて雪や強風などで倒れると、キノコ類が分解し、その倒木は森の土の一部となってまた植物を育てる。そのような生々流転が、ブナの森では延々と続いてきたわけである。

 我々の祖先もまた、こうした豊穣の森の恵みを得て生きていたと思われる。森に入って安らぎを覚えるのは、そうした先祖の遠い記憶が受け継がれているのかもしれない。

 もちろん、東北にあるブナの森は白神山地だけではない。規模の大きなものだけでも、福島の奥会津一帯にあるブナの森や、岩手と秋田の間にある和賀山塊のブナの森も見事なものである。その他にも、岩木山、八甲田山系、八幡平、岩手山、早池峰山、森吉山、鳥海山、月山、朝日連峰、蔵王連峰、飯豊連峰、吾妻連峰、安達太良山、会津磐梯山、会津駒ケ岳など、東北の有名な山の山麓には大抵ブナの森が広がっている。

 東北以外では、石川、岐阜、富山、福井の四県にまたがる白山山系のブナの森がその規模の大きさで有名である。白山信仰は東北各地でも広く見られるが、両者にはブナの森という共通性があるわけである。

バイオビジネスのフィールドとしてのブナの森
 ブナの森の恵みは水だけではない。最近、バイオビジネスが持て囃されているが、白神山地は有用な微生物の宝庫である。その中で最も有名なのは「白神こだま酵母」である。一九九七年に発見された、太古から白神山地に住んでいるこの酵母は、通常のパン酵母より天然の甘味成分トレハロースを多く作るため、パンに添加する糖分を少なくでき、またさすがに冬の厳しい白神山地に生息しているだけあって、低温に極めて強く、冷凍保存しても生き延びるために、貯蔵や移送もしやすいというメリットもある。このようなことから、東北だけではなく各地でこの酵母を使ったパンが作られており、その味わいは好評を得ているようである。他にも、やはり低温に強く、雑菌を駆逐する力の強い乳酸菌「作々楽(ささら)」なども製品化されている。

 また、白神山地ではないが、秋田県の別のブナの森からは、ビールを醸造するのに適した酵母も見つかっており、既にその酵母を使ったビールが、「ぶなの森ビール」として商品化されている。こちらのビールは、通常のビールよりも風味が爽やかでのど越しもよい。たとえて言えば、「森林浴」の印象である。

 余談だが、東北でも特に秋田県はこうしたバイオビジネスに東北で最も熱心な印象がある。「白神こだま酵母」も「作々楽」も秋田県の外郭団体である秋田県総合食品研究センターが特許を保有している。同センターは他にも、秋田県内の地ビール醸造所と共同で桜の木から採取した天然酵母で地ビールを醸造するなど、官民一体でバイオビジネスを推進している。秋田にはまた、麹の元菌会社として全国の九〇%以上という圧倒的なシェアを誇る秋田今野商店のような企業もある。地ビールの醸造所を見ても、ここのビール酵母を使ってビールを作っている醸造所は数多い。今後の展開が楽しみな領域である。

ブナの緑は一際鮮やかである東北人の目指す姿としてのブナ
 東北にとってブナが親しみのある存在であることを示す事実がある。ブナを市町村の木と定めている自治体は全国に三一あるが、このうち東北六県と新潟で十四もある。東北圏だけで、全国の半分に近い数の自治体がブナを市町村の木としているのである。東北にとってブナがいかに身近な木であるかを如実に示すものと言える。

 ところで、翻って東北を見ると、東北人は実にブナである。

 この地に住んだ蝦夷はかつては人ではないと言われた。蝦夷は「えみし」と読む。また「えびす」とも呼ばれた。坂東の荒武者を「あづまえびす」と言ったが、これは恵比寿さまの「えびす」ではなく、「えみし」の意味である。人ではないと言われた蝦夷は、木ではないと言われたブナにそのまま重なるような気がする。

 木材としては使いにくく、一見役に立たないブナの木が実は大いなる恵みをもたらす素晴らしい森をつくっているように、かつて蝦夷の住む地と蔑まれ、近世においても戊辰戦争での敗北が尾を引いて開発が遅れた東北を、未曽有の大震災でかつてないダメージを受けた東北を、そこに住まう我々一人ひとりが新たなものとしてつくり上げる、その象徴としてブナは相応しいように思うのである。

 ブナは厳しい風雪に晒されてその身が樹氷となっても春に向けて力を蓄え、春になれば一斉にその芽を出す。ブナの新緑は一際鮮やかである。それは厳しい風雪に耐えたからこそのものなのかもしれない。大震災からの復興を目指す東北人にとって、ブナはまさにその範となる。ブナのようにしなやかにたくましく、使い道がないと蔑まれようとも動ぜず、一致して恵み豊かな森をつくる、その姿はまさに東北人が目指す姿そのものである。


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2012年09月12日

東北の歴史のミステリーその29〜骨寺村は平泉の「浄土」の原型か

120825-121645 新聞報道によると、世界遺産に登録された「平泉の文化遺産」への追加登録を目指す5つの遺産が、日本がユネスコの世界遺産委員会に提出する登録候補一覧表、いわゆる「暫定リスト」に記載されることが決まったという。その後、推薦書を作成・提出して世界遺産委員会の判断を待つ、という手順を踏むことになるらしい(岩手日報記事毎日新聞記事)。

 今回追加登録を目指す5つの遺産とは、前回平泉の文化遺産が世界遺産に登録された際に除外された柳之御所遺跡達谷窟(たっこくのいわや)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡である。これらが除外された経緯については以前触れたが、要は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺跡群」としての関連が薄いと見なされたということである。すなわち、これらの遺跡は今回の登録で最も重要な要素である「浄土」を表すものとは解釈されなかったということである。

 その時も書いたが、これら5つの遺産全部が「浄土」という観点から追加登録されるのは現実的には難しい、と私は考えている。日本側の関係者は、仏教徒でないイコモス(ユネスコの諮問機関)の委員に「浄土」を理解してもらうのは難しいということを口にするが、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が世界遺産に登録されたという事実を見る限り、イコモスの委員はかなり的確に「浄土」というものを表す文化遺産を捉えてくれている、と言える。認められた5つは誰が見ても浄土との関わりが明らかである。

 これに対して、追加登録を目指す5つの遺産は必ずしもそうではない。と言うか、遺産によって「浄土」との関わりには濃淡があるように見える。柳之御所遺跡は奥州藤原氏の居館だったとされるが、現段階では少なくとも「浄土」との関わりが密接とは言えない。もっと厳しいのは白鳥舘遺跡で、安倍一族の白鳥八郎則任の居館跡がなぜ構成遺産となるのか、私にもよく分からない。白鳥舘遺跡が構成遺産に含まれていたのは、登録延期となった「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」の段階だが、その白鳥舘遺跡の箇所を読んでも浄土との関わりがやはり分からない。

 一方、達谷窟は発掘調査の結果、かつて浄土庭園があったことが判明しているのだが、肝心の平泉の文化遺産を遺した奥州藤原氏との関連が弱い。一説には奥州藤原氏初代清衡と二代基衡が七堂伽藍を建立した、とも言われるが、その面からの関連性をさらに追求する必要があるのではないだろうか。長者ヶ原廃寺跡に関しては以前も触れたが、浄土庭園はないものの、ここから見える夕陽は春と秋の2回、初代清衡が造営した中尊寺の「奥の院」と伝えられる霊峰月山の山頂に沈むことが分かっている。この意匠が後の、三代秀衡が建立した、やはり春と秋の2回金鶏山に沈む夕陽が見られる無量光院にも引き継がれたとも考えられるので、その面からの関連を追求するのがよいのではないだろうか。

 さて、残る一つが骨寺村荘園遺跡である。これは平泉の中心部から西に約12劼里箸海蹐琉豐愡塰椹地区にある中世の荘園の遺跡である(上写真参照)。中尊寺の経蔵別当の領地であり、中尊寺に残る絵図や文書によって確認できる中世の荘園が、現在もその形を留めているという遺跡で、国内でも貴重なものだそうである。現在国宝となっている、紺の紙に一行毎に金字と銀字で書き分けながら全ての仏典を書写した「紺紙金銀字交書一切経」は、奥州藤原氏初代の清衡が発願し、自在房蓮光という僧が統括し、8年の歳月を掛けて完成させたものだが、その功績によって蓮光は清衡によって中尊寺の経蔵別当に任ぜられ、骨寺村を知行したということである。

 現在史跡に指定されている山王窟(さんのうのいわや)、白山社、伝ミタケ堂跡、若神子社(わかみこしゃ)、不動窟(ふどうのいわや)、慈恵塚(じえづか)、大師堂などは、いずれも中世の絵図にもその位置と名称が描かれており、その遺跡としての価値に疑いはない。ただし、やはり今回のこの世界遺産に登録された平泉の文化遺産との関わりについては、もちろん中尊寺との関係は密接であるものの、肝心の「浄土」との関わりについてはそれほど深くないのではないか、そう考えていた。

 しかし今回、実際に現地を訪れ、地元のガイドの方にお話をお聞きしたところ、立派に(?)浄土との関連がありそうだということが分かった。関連があるどころか、むしろ浄土の原型はこちらだったのではないか、という印象すら持った。以下にそうした骨寺村荘園遺跡の特徴を紹介してみたい。

konoatari この骨寺村、つまり現在の本寺地区のある地域の地形だが、南に磐井川、北に本寺川が流れ、周囲を山に囲まれた平地である。この本寺地区の西方には平泉野(へいせんの)という頂上付近が平らになった小高い台地状の地形がある(左写真の赤字の辺り)。まずこの地名だが、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは不明だが、「平泉」の文字が使われており、嫌でも平泉との関連を類推せざるを得ない。そして、江戸時代の安永年間に書かれた「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」という書物には、当時の地元の古老から聞いた話として、なんと、この平泉野には平泉の中尊寺と毛越寺の前身となる寺院があった、という内容の記述があるというのである。

 そこでなるほど、と思ったのは、これら中尊寺と毛越寺の由来についてである。中尊寺の寺伝では、中尊寺は嘉祥三年(850年)に慈覚大師円仁が開山したとされているのだが、一方で中尊寺は藤原清衡が平泉を本拠と定める際に最初に建立した寺として知られているのである。また、毛越寺も中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山したと伝えられているが、実際には藤原基衡及びその子秀衡が建立している。現代の発掘調査などの結果からは円仁の開山は裏付けられてはおらず(すなわち平安時代前期の遺構が出土していない)、この、中尊寺や毛越寺に関する、寺伝と吾妻鏡などに残る開基の記録との間の相違をどう解釈するべきか、というのが私の中ではちょっとした疑問だったのである。実際、円仁開山の記録を単なる伝承と捉える見方も少なからず存在していたのである。

 この点に関して、この骨寺村に残る伝承の通りに、中尊寺や毛越寺が元は平泉ではない別のところに円仁が開山した寺院として存在して、それを清衡や基衡が移転させて平泉の地に新たに大伽藍を建立した、と仮定すれば、円仁開山と奥州藤原氏開基の間の齟齬はなくなる。すなわち、現在の場所の発掘調査をして円仁開山の証拠が出てこないとしても、それは元々別の場所にあったのであるから当然のことである。

 ちなみに、この「骨寺村」というちょっとインパクトのある地名の由来だが、慈恵塚に名を残す慈恵大師良源の遺骨が祀られてあるから(発掘調査の結果から慈恵塚からは遺骨は発見されなかったそうであるが)とか、合戦で命を落とした兵の遺骨を埋めた地であるからといった説がある。この「骨寺」がその後「本寺」に変わったのだが、この「本寺」の意味は先に紹介した、中尊寺や毛越寺の元となった寺があったことに由来する、との説もあるのである。

 他に、江戸時代の紀行家菅江真澄も、平泉野について、「大日山中尊寺」の跡があると記している他、このあたりにあった寺院を鳥羽院の治世の頃に関山に遷したということで、そちらも平泉の里になったと記している。この記載からは、現在関山中尊寺として知られる中尊寺は、平泉野にあった頃は大日山中尊寺と号されていたこと、その後移転されたのは鳥羽院の頃だということがわかるが、この移転の時期は以前紹介した有名な中尊寺建立供養願文に残る年代と一致している。

 もう一つ重要な点がある。骨寺村からは西方に中世の頃から霊峰として知られる栗駒山を望めるが、なんと、春と秋の彼岸の中日、骨寺村からは栗駒山の山頂に沈む夕陽が見られるのだそうである。これには長者ヶ原廃寺跡、無量光院跡と同様、この地の浄土との関わりを感じずにはいられない。

 これまで見てきたように、骨寺村は中世の荘園の様子が今も残る貴重な遺跡であるが、決してそれだけではない。「浄土」をキーワードとして平泉の文化遺産との関わりがあると考えられるのである。骨寺村に関しても、荘園遺跡ということよりも、こうした「浄土」との関連から追加登録を目指すのがよいのではないかと思うのである。そのためには平泉野における発掘調査が鍵となる。現在までのところ、まだ平泉野から平泉前史を窺わせる出土はないようであるが、今後に期待したいところである。


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2011年11月24日

東北に関係する書籍その1〜東北に日本の「ふるさと」の風景を見出した本

nokositainihon 私の手元に1冊の本がある。「残したいね 日本の風景」( アマゾン該当ページ )という本である。

  出版元のサイトでは本書について、

「あの頃の自分が一瞬にして蘇ってくる里山風景。何でもない、けれどその人にとってはかけがえのない風景。そんな風景がいまだに残っていればいいが、現実にはふるさとの風景はひどい勢いで消えつつある。この活動は、これが見納めとなるかもしれない、〈絶滅のおそれのある風景〉にいまのうちに足を運んでほしいという著者の切なる願いであり、誘いです。最後のDISCOVER JAPANです。」

と説明している。

 DISCOVER JAPANというのは、旧国鉄が1970年に始めた個人旅行拡大キャンペーンで、当時電通でこのキャンペーンを企画したのが、この本の著者である藤岡和賀夫氏である。この本の初版は2006年で、キャンペーン開始から36年が経っている。氏は「絶滅」のおそれのある日本の言葉、風景、習慣を書物に採録する「レッドブック運動」を提唱し、活動している。上の説明からは、自身が企画した"DISCOVER JAPAN"の締め括りとして、そしてこの「レッドブック運動」の一環としてこの本が出されたことが窺える。

 ちなみに、2008年から判佝納劼茲同名の雑誌が隔月刊で出されているが、これは旧国鉄のキャンペーンとは直接の関係はないようである。なお、藤岡氏は本当の集大成として、キャンペーンから40年目の2010年に「DISCOVER JAPAN 40年記念カタログ」(アマゾン該当ページ)を出している。

 この本を見つけたのは、私が盛岡に行った時には必ず立ち寄る「さわや書店」である。さわや書店は、盛岡市に本店のある書店チェーンで、盛岡では東山堂と並ぶ老舗書店である。大通りに本店があるが、盛岡駅内のフェザン店が行きやすいので、私が行くのはもっぱらこっちである。何がいいかと言うと、このフェザン店、通路に面した一番人通りの多いスペースの一角に、地元岩手や東北に関係した書籍を多数陳列しているのである。地元出身の作家の小説から観光ガイドブック、いわゆる分冊百科のうちの東北に関係する号、地元出版社の本まで、東北に関する様々な書籍がそこには並べられており、行く度に何か新しい本が出てないか見る楽しみがある。

 普通の書店は、一番人通りが多いところには売れ筋の本を並べるものだと思うが、東北の本をピックアップして展示することにも端的に表れている、自分の店でチョイスした本をあえて並べるというこのさわや書店の姿勢は、私は好きである。こうしたさわや書店のスタイルが出来上がった経緯は、「盛岡さわや書店奮戦記」( アマゾン該当ページ ) として一冊の本になってまとめられている他、東北経済産業局の「東北21」でも紹介されている。

 さて、この「残したいね 日本の風景」のサブタイトルは、「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」である。その「残したい」日本の風景が本書では50カ所紹介されているが、なんとそのすべてが東北六県のものなのである。藤岡氏は、今なお残る「懐かしい日本の風景」を、東北の様々な地域の風景の中に見出していたということなのだろう。

 それにしても東北のあちこちをよく訪ね歩いたものである。私が知らなかった地域もいくつもあった。確かに、見ているだけで心が和むような、そんな景色がページを繰る毎に現れる。この景色をこの先も残していきたいと考えた藤岡氏の思いがよく伝わってくる。

 本書には、東北の選りすぐりの50の風景の写真と共に、その土地の料理や名産品、行事などを紹介する「ふるさとアレコレ」や「ゆかりの人」などの雑学、周辺のみどころ案内なども掲載されており、実際にその土地を訪れたいと思った時に役立つ情報も収録されている。

 しかし、藤岡氏が残したいと強く思った、この本に収められたかけがえのない50の東北の景色のうち、残念ながら失われてしまった景色がいくつかある。言うまでもない、東日本大震災のためにである。本書で紹介されている宮城県南三陸町志津川、宮城県石巻市雄勝町、福島県相馬市松川浦、などがそうである。

 志津川の風景には「平凡な幸せ 絵に描いた町」というタイトルが付いている。近景に田圃、中景に家々、遠景に志津川湾の海が写る、本当にそのタイトルのような風景である。その「平凡な幸せ」を「絵に描いた」ような風景が、あっという間に消し去られてしまったことの重さに改めて思いが至る。
 
 そうした意味でも、この本は震災前の東北の景色を捉えた貴重な本となってしまった。確かにそこに、「幸せな風景」があったことを印す記念碑的な存在とも言える。本書に収録されている風景は、単に東北の美しい自然を紹介したものではない。そのような類書は他にたくさんあるが、ここに収められている風景は、サブタイトルに「懐かしい日本の風景」という言葉がある通り、多くの人が見て懐かしいと思うようないわゆる「ふるさと」の風景である。そこには、自然と共存してつくり上げてきたその土地の人の生活の営みがある。

 本書の風景の写真の中に人はほとんど登場しないが、これらの風景の土台には間違いなくそこに住む人々の日々の営みが前提条件としてあったはずである。それがなくしてこれらの風景が残したいふるさとの風景とはなり得なかったはずだからである。言い換えれば、不幸にも失われてしまったこれらの風景がこの地で再び見られるようになった時こそ、東北が本当に復興したと言える時かもしれない。

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2009年11月29日

東北のオススメスポットその12&東北で地ビールが飲める店その46〜東北地方に64軒もある「秘湯」

PICT0057 東北地方が全国屈指の温泉に恵まれた地域であることは今さら言うまでもないが、もう一つの特長として、大規模な温泉地ではない、いわゆる「秘湯」が多いということも挙げられると思う。交通が不便であったり、山奥にあったり、小さな一軒宿だったり、といった、近代的温泉ホテルの設備とは対極にある、昔ながらの「鄙びた」という表現がピッタリの温泉宿が東北にはいまだ数多く存在しており、かえって観光地化した温泉に飽き足らない温泉好きの層に持て囃されているようである。

 以前紹介した山形県南陽市の山間にある荻の源蔵そばに行った時、「そば好きは 道の遠きを 厭わざる」と書いた色紙が飾ってあるのを見て、まさにその通りと思ったが、温泉好きにもそれに劣らず、いい温泉があればそれこそ深山を掻き分けてでも行く、という人が多いように思う。写真は、そうした温泉の一つである、岩手県の八幡平山麓にある松川温泉の松楓荘が誇る「洞窟風呂」である。

 全国にある秘湯の多くは、「日本秘湯を守る会」に加盟していることが多いが、現在185軒を数える会員宿のうち、東北の宿の数は実に64軒参照ページ)と、全体の3分の1強を占めている。このことからも、東北の秘湯の多さを窺い知ることができると思う。これら64軒の顔ぶれを見ると、同じ東北にいる私から見ても行ってみたくなる、旅情を掻き立てられるような魅力的な宿が数多くある。これだけの秘湯が昔も今も変わらず残っていることは、本当に恵まれたことであると思う。

115948.jpg さて、このような人里離れた宿に行くと、普通に考えれば当然ながらいわゆる大手のビール会社以外のビールに出会えることは残念ながら望み薄である。が、これら「日本秘湯を守る会」加盟の宿には、会限定のオリジナルビール「秘湯ビール」がある(ことが多い)。これは、「日本唯一のブナの天然酵母使用」で「ブナの地下天然水」を使ったビールであり、製造しているのは「田沢湖ビール」を醸造しているわらび座である。恐らく、同醸造所の「ぶなの森ビール」と同じものだとは思うが、私にとってはこれらの秘湯でも地ビールが飲めることは嬉しい。そもそも、世界遺産の白神山地に代表される通り、東北の山を代表する樹の一つは文句なしにブナである。

 秘湯に行くというのは、日常から離れた環境に身を置きたいということがきっかけであることも多い。その時に、宿にあるビールが日常よく見かけるビールというのは、少し興ざめな気がする。その点で、「秘湯ビール」があるのは、私のようなビール好き以外の人にとってもちょっと嬉しいことなのではないかと思う。

 ちなみに、「日本秘湯を守る会」の宿には、この「秘湯ビール」以外にもこの会限定のワインや日本酒があるそうなので、ビール好き以外の人も、普段見掛けないお酒を味わうことができそうである。これらの秘湯では、周辺で取れる食材などを使って、料理にも宿らしさを出しているところが多い。その料理とこれら秘湯限定のお酒はよく合いそうに思う。

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2009年10月27日

東北のオススメスポットその11〜岩手県平泉・衣川地区その2

a6425b99.jpg 平泉の知名度は恐らく東北でも屈指と思われるが、衣川を知っている人はそう多くないに違いない。歴史に詳しい人なら、源義経が藤原泰衡に攻められ命を絶ったという合戦が「衣川の戦い」と呼ばれていて、義経最期の地であるということを知っているかもしれないが、それ以外で人口に膾炙することはほとんどないと言っていい。しかし、本当に興味があって平泉を訪れた人にはぜひ、衣川にも足を運んでほしいと思う。

 東北の歴史に詳しい人なら、衣川は安倍氏の本拠地だということを知っているかもしれない。安倍氏の安倍頼時(頼良)・貞任親子は、前九年の役で源頼義・義家親子と戦った俘囚(朝廷に従った蝦夷)の長である。奥州藤原氏から見ると、初代藤原清衡の母親が安倍氏の棟梁貞任の妹であったので、安倍氏は母方の家系ということになる。

 旧衣川村は、合併して奥州市の一部になったが、この旧衣川村は、平泉町の北隣で、現在の平泉町の北端である中尊寺から衣川を渡るとすぐである。この衣川以北が奥六郡と言われて俘囚の地とされていた。

 旧衣川村に足を運んで驚かされるのは、その遺跡の数の多さである。前回紹介した平泉町内の遺跡よりもはるかに多い数の遺跡が、今も旧村内のあちこちに残っているのである。そのうちのかなりの割合は、安倍氏の居館跡であった安倍舘古舘(安倍新城)、政庁であったという並木屋敷(衣川柵)など、安倍氏に関係するものだが、それだけ安倍氏がこの地で勢威を振るったことが窺える。

 もちろん、四代藤原泰衡の弟で最後まで義経を支持したという泉三郎忠衡の居館泉ヶ城跡や、三代藤原秀衡の母が衣川を渡って旅をしてきた人をもてなしたという言い伝えのある接待館(せったいだて)跡、秀衡が京都の御室御所の木をこの地に移し植えてつくった庭園跡と言われる室の木(むろのき)跡など、奥州藤原氏時代とされる遺跡もある。奥州藤原氏時代の衣川は、経済の中心地だったそうである。奥羽二国の政治の中心地であった平泉をワシントンにたとえれば、衣川はニューヨークに当たると言えるかもしれない。

 ただ、最近の発掘調査の結果からは、衣川は単に経済の中心地だっただけではなく、政治的にも重要な地位を占めていたことが明らかになってきている。それは柳之御所跡などから大量に見つかったかわらけという宴や儀礼の時に使われたという素焼きの杯が、衣川の接待館跡からも大量に見つかったことによる。

 東北の歴史に詳しい人にとっては、衣川は秀衡の政治顧問的な立場にあったとされる藤原基成(もとなり)の居館「衣河館」があったとされる場所ということも知っているかもしれない。そして、義経最期の地は、吾妻鏡によれば義経堂のある平泉の「高館」ではなく、この「衣河館」だということも知っているかもしれない。「衣河館」の場所は実はまだ特定されていないのだが、地元ではこの接待館が「衣河館」だったのではないか、とも言われている。

 さらに、以前も少し書いたが、この衣川には平泉の中尊寺の「奥の院」として栄えたという霊峰月山(がっさん)もある。この月山、山形にある出羽三山のひとつである同じ名前の月山とは比較にならないくらいの小さな山で、10数分も歩けば頂上の月山神社に着くほどの山であるが、そこに私が見ただけで、月山神社と麓にある三峯神社を含め、6つもの社が祀られていた。確かに古くから尊崇されてきた様子が窺える。

 その中で最も印象的なのは、山頂の月山神社の奥の院前にある、巨石を御神体とする和我叡登挙神社(わかえとのじんじゃ)である。巨石を御神体とする社殿のない神社、これは安倍氏の崇拝したという荒覇吐(あらはばき、または現在東北の夏のロックフェスティバルの名称に冠されて名を留める荒吐(あらばき)とも)の神を祀る神社の共通項である(旧衣川村内には磐神社女石神社という、やはり共に巨石を御神体とする荒覇吐神を祀る神社があり、陰陽一体の神として崇敬されてきたが、現在は社殿が設けられている)と同時に、同じ名を持つ月山を含む出羽三山との類似性も感じられる。このように衣川は、この時代の歴史に関心のある人にとっては、とても興味深い場所なのである。

 衣川歴史ふれあい館では係の人に面白いことを聞いた。平泉の無量光院跡からは、春分、秋分の日に太陽が金鶏山山頂に沈むのが見えることが分かっているが、衣川の長者ケ原廃寺(地元では元々単に「長者ケ原」と呼ばれ、義経を秀衡に引き合わせたとされる金売り吉次の屋敷跡と信じられてきたのだが、発掘調査の結果寺院であることが判明したため、現在ではこう呼ばれている)からは、春分、秋分の日に太陽が月山山頂に沈むのが見えるのだそうである。もし、これが無量光院と同様に意図的にそうなる地が選ばれた結果ということであれば、無量光院は衣川の長者ケ原廃寺を参考に作られた可能性があるわけである。

 平泉はこれまで京の都を参考に作られたとされてきたが、実はそれだけでなく、安倍氏の本拠地、すなわち蝦夷の都だった衣川も参考に作られていたのかもしれない。この辺りのことはきっと今後衣川の発掘調査が進んで明らかになるに違いない。そして、衣川にももっとスポットが当たることを期待したい(写真は月山山頂にある月山神社である。知らないで行くと見落とすかもしれないが、鳥居の奥に見えている拝殿のさらに奥に奥の院があり、そこに和我叡登挙神社もある)。


koromogawa1追記(2009.10.28):旧衣川村内にある数々の遺跡を、位置関係も含めて分かりやすく解説しているサイトはあまりないのだが、現地で入手したパンフレットがその点とても分かりやすかったので、興味を持った方のためにここにアップしておきたいと思う。





koromogawa2 遺跡は大きく分けて、旧衣川村内の東側の月山周辺(写真上)と西側の安倍館周辺(写真下)とに分かれて分布している。見て分かる通り、これだけ多くの遺跡がいまだこの地域に残っているのである。

 なお、このパンフレットの絵地図は、北東方向から見た地図(つまり上が北になっていない)なので、その点だけ注意が必要である。


追記(2011.7.4):無量光院跡から金鶏山山頂に沈む夕日が見られるのは、春と秋2回あるが、正確には春分・秋分の日ではなく、4月中旬(13日頃)と8月末とのことであった。


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2009年10月22日

東北のオススメスポットその10〜岩手県平泉・衣川地区その1

baca37ad.jpg 5市町村が合併してできた奥州市と7市町村が合併してできた新・一関市に挟まれた小さな町である岩手県平泉町は、このブログでも何度も取り上げている奥州藤原氏の本拠地であり、現在でも岩手県屈指の観光地である。

 日本の国宝第一号となった金色堂を有する、奥州藤原氏初代藤原清衡が建立した中尊寺、平安時代の遺構としてはわが国唯一の浄土庭園が現存する、二代藤原基衡が建立した毛越寺を始め、三代藤原秀衡が京都宇治の平等院鳳凰堂を参考にさらに規模を大きくして建立した無量光院跡、二代基衡の妻が建立したと言われる観自在王院跡、「義経記」などに登場する義経の居館「高館」があったと伝えられる高館義経堂、秀衡が築き、雌雄一対の黄金の鶏を埋めたとの伝承がある金鶏山などがある。それに加えて最近では、国道4号線バイパス工事に伴う発掘作業で姿を現した奥州藤原氏の政庁とされる柳之御所遺跡が注目を集めた。

 現在でこそ平泉町は人口約8,500人の小さな町だが、奥州藤原氏時代の平泉は人口10万人を擁する、京の都に次ぐ国内第二の都市であったとされる。中尊寺の金色堂や毛越寺の浄土庭園はそうした往時の繁栄を偲ばせる貴重な遺跡であるが、観光地として見た場合の平泉のウィークポイントは、現存するのがその2つだけで、後はすべて「史跡」ということである。これらに加えて例えば無量光院や、頼朝をも驚かせたという中尊寺二階大堂などが現存、あるいは復元されていれば、観光地としての平泉のインパクトはより大きかったのではないかと思われるのである。

 もちろん、例えば柳之御所跡に立って、800数十年前に栄華を極めた藤原秀衡が間違いなくそこにいたことに思いを馳せれば、何とも言えない感慨に浸ることもできるし、無量光院跡に立って、そこに平等院鳳凰堂を一回り大きくした壮麗な寺院の姿を想像することもできる。要は見る人が見れば観えるものもたくさんあるのだが、実は決して万人受けする観光地ではないような気がする。ましてや、大型観光バスで来て、中尊寺と毛越寺、それに義経が住んでいなかったことはほぼ確実な高館義経堂くらいを見て慌ただしく次の目的地に行く、というような旅程では、見たようで観ていない、何とももったいない旅行になるような気がするのである。

 以前書いたように、平泉の世界文化遺産登録は見送られたが、現在、構成遺産を絞り込んで、平泉町内にある遺跡のみで再度登録に向けた動きが本格化しているところである。これまで平泉町と足並みを揃えて世界文化遺産登録を目指して動いてきた奥州、一関両市にとっては気の毒な話だが、「浄土思想を基調とした文化的景観」というコンセプトをより明確にするためには、必要な対応だったと思う。

 恐らく次は問題なく世界文化遺産登録が果たされると思うが、そうなればきっと多くの観光客が大挙して訪れることになる。関係者各位にはその時に、これら平泉の文化遺産が何だったのか奥州藤原氏の思いとは何だったのか、しっかり伝えてほしいと願って止まない(写真は金色堂を風雪から守っている覆堂(おおいどう)である)。


追記(2010.2.23):平泉の世界文化遺産登録に向けて、新しい推薦書が先月1月18日、ユネスコに提出された。新しい推薦書のタイトルは「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」となっている。

 この推薦書の全文をぜひ読んでみたいと思ったのだが、これがネット上どこにも見当たらない。困ったものである。概要は辛うじて岩手県のサイト内で入手できる(該当サイト)。

 この世界遺産登録推薦書作成委員会委員長の工藤雅樹氏が、先月1月31日に亡くなった。平泉の世界遺産登録を見届けていただきたかっただけに、残念でならない。

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2009年04月21日

東北のオススメスポットその9〜あまり知られていない本州最東端の地

img955 以前端っこは「秘境」ではないというようなことを書いた。東北の最北端の下北半島・大間崎(おおまさき)やその対岸の津軽半島・竜飛崎(たっぴざき)は、東北でも著名な観光スポットである。

 事のついでに、他の端っこも調べてみた。東北の最西端はこれまた有名な男鹿半島の入道崎か、と思いきや、東北日本が北東に伸びていることもあって、山形県鶴岡市の新潟県境付近が最西端のようである。ここは鼠ヶ関(ねずがせき)という奥羽三古関の一つがある、東北の日本海側の玄関口である。

 また、最南端は東北で最も温暖で最も早く桜が咲くことで有名ないわき市小名浜(おなはま)かと思いきや、これまたさにあらず、「合併しない宣言」で注目を集めた山間の矢祭町であった。東北の最北端は本州の最北端でもあり、それで下北半島は有名なのだろうが、最西端や最南端は他地域と隣接している、あくまでも東北域内での端っこであるので、あまり目立たないのだろう。

 では、東北の最東端はどこかと言うと、それは岩手県宮古市にある魹ヶ崎である。これまた地名の読みづらさだけが原因ではないと思うが、同じ東北でもあまりに知られていない感がある。「とどがさき」と読むこの東北の最東端は、実は本州の最東端でもある。千葉県銚子市の犬吠崎が本州最東端と思われていたりすることが多いのだが、本当はこちらが最東端である。と説明しなければいけないくらい、知名度が低いのである。

 もっとも、本州最東端だから陽が昇るのも本州一早い、というわけではない。緯度の関係で陽が昇るのは犬吠崎の方が早い。この辺も本州最東端について誤解される一因になっているかもしれない。

img957 もう一つ、本州最東端にして東北最東端であるこのスポットがあまり知られていない大きな理由は、そのアクセスの悪さにあるのではないかと思う。三陸のリアス式海岸の真っただ中にあるこの岬は、海のそばとは思えないくらい山である(笑)。駐車場で車を降りてから最東端まで、「山道」を3.8km歩いていかないとたどり着けないのである。対岸に北海道が望めて旅情が掻き立てられ、観光バスが行き交う下北半島や津軽半島と違い、観光ツアーに組み込みづらいというのが、この本州最東端の地が目立たない一番の理由かもしれない。

 この3.8kmの山道、普通に歩くと1時間半といったところだろうか。私が訪れた時は既に日暮れ時で辺りは暗くなり始めていた。せっかくここまで来て本州最東端の地に足を踏み入れずして引き返すのも残念である。何せ、この本州最東端(?)の駐車場まで来るにも車で山道を延々来なければいけないのである。かと言って山道の途中で暗くなられると困るので、行くなら完全に暗くなる前に行って戻ってこなければいけない。

 というわけで、私はこの山道を走って岬を目指した。そうしたら、何とか片道22分で岬にたどり着くことができた。突如鬱蒼と茂る木々が途切れ、三陸海岸で最も明るいという灯台が出迎えてくれる(上写真参照)。最東端であるがゆえに視界の左右は開けている。目の前には何も遮るものがない、見渡す限りの三陸の海がある(中写真参照)。いい景色である。もちろん、本州最東端の碑もある(下写真参照)。

img962 灯台守の悲喜交々の生活を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、実在の灯台守の妻の手記が原作であるが、その灯台守夫婦もこの魹ヶ崎灯台で7年を過ごしたとのことである。よくぞこのような場所に7年も、と思わせられるような場所である、この魹ヶ崎は。端っこの地にして「秘境」という、東北でも稀有なスポットである。

 と、ひとしきり最東端の秘境に浸った後は、来た道を再び全速力で目指す駐車場まで走ったのであった。今度来る時は昼間、もう少し余裕を持って歩いてみたいと思う。

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2008年10月06日

東北のオススメスポットその8 & 東北の歴史のミステリーその20〜高蔵寺阿弥陀堂

4b38ce63.jpg 宮城県の南部、角田市中心部から西へ約7kmほど白石市方面へ国道113号線を走ると、勝楽山高蔵寺角田市高倉字寺前49)がある。以前も少し紹介したが、ここには東北に3つある阿弥陀堂のうちの一つ、高蔵寺阿弥陀堂写真参照)がある。私が宮城県内で最も好きな場所の一つである。

 高蔵寺の創建は平安時代初期の弘仁10年(西暦819年)に遡ると言われ、南都の僧徳一によって開山されたと伝えられている。私も見たことはないが、嵯峨天皇の筆によるといわれる「高蔵寺」の額が秘蔵されているそうである。

 この高蔵寺の境内にある阿弥陀堂は、入り口にある説明板によれば、治承元年(西暦1177年)、「藤原秀衡・妻などによって建立されたもの」とのことである。この記載だと「藤原秀衡とその妻」が建立したのか「藤原秀衡の妻」が建立したのか分かりづらいが、一般には「藤原秀衡の妻」が建立したとの説が専らである。創建当時の建物が今もそのまま残り、宮城県内最古の木造建築だそうである。

 この高蔵寺阿弥陀堂、「日本最古の七阿弥陀堂」の一つに数えられている。七阿弥陀堂とは、北から中尊寺金色堂(岩手県平泉町)、高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)、白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)、法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区)、浄瑠璃寺阿弥陀堂(京都府木津川市)、富貴寺大堂(大分県豊後高田市)である。

 平安時代から鎌倉時代初期にかけて建立されたこれらの阿弥陀堂が、京都に3つ、大分に1つある以外、東北に3つある意味は極めて大きいのではないだろうか。すなわち、当時東北においては、京の都に匹敵するくらい阿弥陀思想が浸透していたその証左であるとも考えられるのである。以前も書いたが、平泉の中尊寺金色堂を中心とする文化遺産を「浄土思想を基調とする文化的景観」と位置づけて世界遺産登録を目指すというのであれば、これら東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち白水阿弥陀堂とこの高蔵寺阿弥陀堂にももっと目を向けるべきだと思うのである。

 なお、高蔵寺以外の6つの阿弥陀堂は皆国宝であるが(高蔵寺阿弥陀堂は国指定重要文化財)、だからこそと言うべきか、この高蔵寺阿弥陀堂にはある種の親しみやすさのようなものも感じられる。中尊寺金色堂などとは違い、華美な装飾などはないが、永年の風雨に耐えた外観と言い、茅葺の屋根と言い、素朴な風情ながらも杉の大木に囲まれた一画にあって、周囲の自然とよくマッチしたしみじみとした趣がある。杉木立の中に響く鳥の声、風にそよぐ杉の葉のざわめき、凛とした空気、その静寂の真ん中に佇む阿弥陀堂、実にいい場所である。

 ところで、この阿弥陀堂、なぜここに建てられたのだろうか。というのは、東北にある他の2つの阿弥陀堂、すなわち中尊寺金色堂と白水阿弥陀堂(しろみずあみだどう、正式には願成寺阿弥陀堂)は、その建立の動機のようなものがある程度はっきりしている。中尊寺金色堂はその供養願文にもあるとおり、奥州藤原氏初代の藤原清衡がかつて東北の地で戦乱などで亡くなった数多くの人々(当然その中には父経清も含まれよう)の冥福を祈って建立されたのであろうし、白水阿弥陀堂はその清衡の娘、あるいは三代秀衡の妹と伝えられる徳尼(徳姫)が、当時その地を治めていた亡き夫、岩城則道の冥福を祈って建立したと言われている(「白水」は平泉の「泉」の字を分けて名付けたとされる)。

 これに対してこの高蔵寺阿弥陀堂はなぜこの地に建てられたのか、はっきりとした伝承がない。なぜ「秀衡の妻」はこの地に阿弥陀堂を建てたのか。これは一つのミステリーではある。

 ひょっとすると、この阿弥陀堂は、平永衡のために建てられたものだったのかもしれない。平永衡は、前九年の役の頃、この高蔵寺のある辺り、伊具郡を治めていたらしく伊具十郎と呼ばれていた。伊具郡の隣の亘理郡は藤原清衡の父藤原経清が治めていたと思われ(彼は亘理権太夫と呼ばれていた)、二人は盟友であった可能性がある。また、二人とも当時奥六郡(現在の岩手県南部)の実権を握っていた安倍頼良の娘を妻に迎えており、いわば義兄弟でもあったわけである。

 この二人、安倍氏と朝廷側との間で始まった前九年の役では朝廷側につき、源頼義の軍に従軍するが(苦渋の決断だったろうが)、平永衡はなんと安倍氏への内通の疑いを掛けられ、斬殺されてしまう。このことが藤原経清を安倍側に寝返らせた最大の要因だったようである。

 藤原経清が安倍側についたことで、源頼義率いる朝廷軍は苦戦を強いられるが、出羽の清原氏の助力を得て何とかこの戦いに勝利を収める。捕縛された藤原経清もやはり斬殺されるが、その遺児清衡は後三年の役を乗り越えて陸奥出羽両国の実権を握り、戦にまみれたこの地をこの世の浄土とすべく中尊寺を建立し、仏教国家への道を歩むわけである。

 清衡の心中には、冥福を祈るべき戦乱で亡くなった奥羽の人々の中に、父の盟友だった平永衡のことも当然あっただろうが、その後も彼の遺徳を偲ぶものが何もなかった。そこで三代秀衡の代になって、永衡ゆかりの地であるこの地に改めて阿弥陀堂を建立したのではないか、というのが私の考えなのだが、もちろんそれを証明するものは何もない。

 ところで、折りしも「仙台宮城デスティネーションキャンペーン」の真っ最中であり、12月までの期間中、宮城県内で様々なイベントが催されている。ここ高蔵寺でも、10月中の土日祝日の10時から12時まで、本尊の阿弥陀如来の特別御開帳が実施されている(参照サイト)。

 この阿弥陀如来は平安末期の作とされ、阿弥陀堂建立の翌年に安置されたとされている。この阿弥陀如来は丈六の坐像、すなわち身の丈が一丈六尺で坐るとその半分の八尺(約2.7m)になるという大きさで、とにかくその存在感に圧倒される。思わず「でかっ」と思ってしまう大きさである。中尊寺金色堂の皆金色の諸仏像の優美さとは対極にある迫力であり、一見の価値がある。御開帳の機会はめったにないので、関心のある人はぜひ一度見ておくことをオススメしたい。

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2006年11月11日

東北のオススメスポット番外編〜自転車が充実しているカー用品店

ef19ac13.jpg 秋田市内の新国道と呼ばれる通り沿いにダイリンというカー用品店がある(秋田市八橋新川向13-30、TEL018-824-6601)。たまに大手チェーン店にないようなカー用品があったりして面白いのだが、この店の本当の面白さはそんなところにあるのではない。この店の2階は実は自転車売り場なのだが、この自転車売り場が何と言うかすごいのである。品揃えが極めて豊富と言うべきなのだろうが、どうも普通の自転車量販店とは品揃えの豊富さの方向性が違うのである。

 私は、以前にちょっと書いたが、けっこう自転車好きである。きっかけはと振り返ってみると、高校の入学祝いに両親に自転車を買ってもらったことである。当時通学に自転車を使っていた高校生の恐らく過半数は乗っていたであろうと思われるのがブリヂストンのロードマンというドロップハンドル、12段変速の自転車である。

 この、車で言うとトヨタカローラに当たるのではないかと思われるロードマンのちょっと上のランクであったロードマン・スーパーコルモというのを買ってもらって、それで毎日自転車で走っているうちに自転車でどっか行くのが楽しくなったという筋書きなのだが、自転車に乗るのが楽しくなると、自転車自体をあちこちいじってみたくなる。いじってより速く、より快適に走れるようにしたくなるのである。私が高校の頃だから、今からかなり昔のことである。

 なぜそんな昔の話をしたかと言うと、このダイリンには私がその頃我が愛車につけたり、つけてみたかったりした自転車パーツが展示物として、あるいは売り物として所狭しと展示されているのである。こんな店は東北に数多くある自転車店の中にすら、恐らく一店舗たりともないだろう。自転車好き(しかもある一定の年齢層以上の)以外には分からないと思われるが、私も愛用していたシマノ600EX(現在のULTEGRA)のコンポーネントだとか、これまたこだわってつけていたダイヤコンペのセンタープルブレーキだとかが、いまだに売っているのである。今ほとんど見かけなくなった一枚皮のサドルも売るほどある(と言うか売っているのだが;笑)。いったい誰が買うのだろうと思ってしまうほどレトロでマニアックである。

 ただ、ここに有り余るほどあるパーツを使えば、これまた今やクロスバイクやマウンテンバイクに取って代わられてほとんど死語と化してしまったスポルティーフとかランドナーとかいった車種も組み上げられると思う。それはそれは貴重な店なのである。

 パーツのことばかり書いてしまったが、完成車の品揃えもすごい。私が子供の頃の自転車の乗り換えのパターンというのは、最初は補助輪付の自転車、次にそれを外して乗り、それが小さくなったら5段変速でツインのライトとかウインカーとかいろいろとついた黒塗りのジュニアスポーツ車、そしてもっと大きくなったら12段変速のドロップハンドルのロードマン、というパターンだったと思うが、ダイリンには今ではあまり見かけなくなった黒塗りのジュニアスポーツ車がこれまた所狭しと並んでいるのである。

 それらのほとんどは昭和55年製とか昭和62年製とか書いてあるが、使い古しではなく、なんと新品として売られているのである。他にも、聞いたことのないようなロードモデルがあったかと思うと、昔のだるま自転車が88万円で売っていたりする。摩訶不思議なのは、これだけこだわりの品揃えをしている自転車コーナーがあるにも関わらず、表から見ると自転車を扱っていることすら分からない店なのである、このダイリンという店は(写真参照)。一度、オーナーに会って話を聞いてみたい気もする。とにかく、何と言うか、自転車好きには一見の価値のある稀有なる「カー用品店」である。

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2006年10月19日

東北のオススメスポットその7〜「東北最後の秘境(?)」秋田県北地方

58d9ca65.jpg 秋田と言えば…、と言って思い起こせるものはいろいろある。民謡「秋田音頭」に出てくるものだけでも、八森のハタハタ、男鹿のぶりこ(ハタハタの卵)、能代の春慶、檜山の納豆、大館の曲げわっぱがあるし、それ以外にもきりたんぽ、しょっつる、とんぶり、じゅんさい、比内地鶏といった料理・食材、角館の武家屋敷&枝垂桜、田沢湖、十和田湖、八幡平、鳥海山、といった観光スポット、竿燈まつり、土崎港曳山祭り、花輪ばやし、西馬音内盆踊り、飾山ばやし、なまはげ柴灯まつり、かまくら、紙風船上げといった個性的な祭りなど、様々な「秋田」がある。

 その中で忘れてはならないのが秋田杉である。秋田杉は青森ヒバ、木曽ヒノキと並んで、日本三大美林の一つとされている。

 その秋田杉であるが、確かに秋田県内にもあちこちに杉林はあるものの、そのほとんどは人工林である。秋田杉の天然林は、秋田杉が藩政時代から有名でどんどん切り出されたということで、県内を見渡しても今ではほとんど残っていない。

 その秋田杉の天然林が辛うじて残っているのが、秋田の県北地方なのである。前回取り上げた森吉山の山麓、桃洞渓谷と佐渡谷地にある秋田杉の天然林は「桃洞・佐渡のスギの原生林」として国の天然記念物に指定されている。他に、青森県との県境の矢立峠付近にも秋田杉の天然林が残っている。また、面積の94%が森林という上小阿仁村にある上大内沢自然観察教育林も、700本以上の天然の秋田杉で構成される林である。ここには古くから地域の御神木として崇められ、林野庁の「森の巨人達百選」にも選ばれた「コブ杉」がある。

 このような天然の秋田杉と人工林の秋田杉とでは、素人目に見ても違いが分かる。それはその大きさである。天然林の秋田杉は樹齢が平均でもおよそ250年に達しており、林齢が長くても80年の人工林とは、一本一本の杉の「存在感」がまるで違う

 そうした天然の秋田杉が見られるスポットの中で、今回は能代市の旧二ツ井町にある仁鮒水沢スギ植物群落保護林を紹介したい。ここには日本一高いと言われる杉の木があるのである。

 場所は旧二ツ井町の中心部から車で30分ほど南に下った山中である。面積18.46haの林の中に天然の秋田杉が2,812本あり、それらの樹齢は180年〜300年と言われている。その中に樹高58mの日本一高い杉があるのである。

 駐車場に車を止めて林に入っていくと、ちょっと行った所に「見学の皆様へのお願い」という立て札が立っている。それによると、杉の語源は『直ぐ』の木から来ているそうで、まっ直ぐ伸びるその性質は群生するほどに良く現れるそうである。ここには日本一高い杉の木以外にも50m級の天然秋田杉が林立しており、林としても日本一の杉林と言えるとあった。

 面白かったのは次の文言である。

「道路沿いなどによくある人工林とは段違いのスケールを誇る巨木林です。ただ目が慣れると感激が薄れてしまいますのでご注意ください」

 前半部分は分かる。確かに、一歩林の中に足を踏み入れると同時に、その杉の木々の存在感には圧倒される。これが杉の木の本来の姿なのか、という印象である。人工林の杉林とはまるで違う。太さもさることながら、何よりもその高さがすごい(写真参照)。しかし、後半部分には異議を申し立てたい。「ご注意ください」と言われてもどうすりゃいいんですか、という感じである(笑)。どこを向いてもめったに見られないような巨木が目に映るので、確かにそういうこともあるかもしれないが…。

 日本一高い天然杉までは、林の入り口から普通に歩くと20分くらいだろうか。日本一と言われるだけあって、確かに高いようだ。が、周りにも同じくらい高い杉の木があり、離れてはそれらの木に隠れて見えないし、逆にすぐそばでは木自身の葉や枝にさえぎられててっぺんまで見えない。案内板によれば、この木の高さは58メートルあって、これは15階建てのビルに相当するそうである。私の職場が15階にあるので、その高さと同じだと言うと確かにすごい。職場からは仙台平野が一望でき、太平洋が望めるのである。

 太さは164cmで林内一とのことだが、太さ自体に関して言えばこれを上回るような杉は全国あちこちにある。私が見た中では、屋久島の縄文杉がもちろんそうであるし、前回紹介した白山中居神社からさらに山の手に入ったところにあるいとしろ大杉もそうであった。なお、材積は40立方mあって、この木一本で建物面積53坪の木造住宅一戸が建てられるそうである。

 ちなみに、この「きみまち杉」と名づけられている「日本一の杉」、秋田営林局が平成7年から8年にかけて、国内各地の高いとされている杉を実測したところ、実際にはどれも50m程度であったため、晴れて日本一を宣言した、とのことであるが、現在でも他に「日本一」を主張する杉の木がある。愛知県にある鳳来寺山の傘杉や高知県にある杉の大杉(南大杉)などである。傘杉はきみまち杉を上回る59.27mとされている。また、杉の大杉も樹高60mとある。

 樹高を正確に測定するのは意外に難しいらしく、それゆえ「きみまち杉」を含めて日本一を称する杉が各地に存在しているわけであるが、仮にきみまち杉が日本一の高さでなかったとしても、他にも樹高50mを超える杉が多数存在して見る者を圧倒せずにはおかないこの林は、「団体戦」では間違いなく日本一だと言える。

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2006年10月05日

東北のオススメスポットその6〜「東北最後の秘境(?)」秋田県北地方

33e305c2.JPG 東北で「秘境」と言うと、どこだろうか。ちょっと考えて思いつくのは、以前紹介した東北の北端である下北半島、あるいはこれまた以前紹介した津軽半島であろうか。確かに、仙台を起点にして考えた場合、下北半島も津軽半島も東京に行くよりも、距離的にも時間的にも、さらには心理的にもはるかに遠い。

 しかし、これらの地は確かに本州の北端ということで、「最果ての地」というイメージはあるかもしれないが、実際には石川さゆりの歌う「津軽海峡冬景色」に登場する竜飛崎ライブカメラ)を抱える津軽半島、本州最北端の尻屋崎、日本三大霊場の恐山を抱える下北半島とも知名度は高く、訪れる人も多いので、必ずしも秘境ではない。

 ちなみに、私はここで「秘境」という言葉をこんな意味で使っている。行ってみる価値が大いにあるにもかかわらず、いまだにあまり知られていない場所あるいは地域、である。だから、極端な話、行ってみる価値がそれほどなさそうな場所であれば、それは今のまま人に知られなくても構わないのである。

 ちょっと前までは、秋田県と青森県の県境に広がる世界一のブナの森である世界遺産・白神山地は間違いなく「秘境」であった。しかし、世界遺産登録後、その知名度は格段に上がり、一躍東北屈指の観光スポットとなり、今では逆に手付かずの自然をいかに保全するかが大きな課題となっているほどである。

 さて、では東北の秘境はどこにあるかであるが、それは秋田県の県北地方にある、と私は言いたい。この地域には、もちろん手付かずの自然があり余るほどある。が、ただそれだけでなく、それらは見る人を魅了せずにはおかない魅力を持っているのである。にもかかわらず、あまりに知られていない。秋田県北地方と言えば十和田湖八幡平が代表的な観光地であり、それぞれ魅力的なエリアであるが(参照サイト)、それらは「秘境」ではない。

 秋田県北地方の中で、私が特にオススメなのは2つのエリアである。一つは北秋田市の旧森吉町・旧阿仁町の森吉山周辺、もう一つは能代市の旧二ツ井町にある仁鮒・水沢スギ植物保護林である。今回は前者を紹介したい。

 森吉山は標高1454mの独立峰で、山麓には白神山地と同様ブナの原生林など豊かな自然がそのまま残っている。6月から10月までは太平湖という人造湖に遊覧船が出るので、それに乗るのがオススメである。遊覧船の着いた先からは森吉山登山にも挑戦できるが、登山道に入らなくても「三階の滝」まで続いている小又峡の遊歩道は軽装で気軽に自然を満喫できる。小又峡を流れる水は驚くほどきれいで、また場所によって様々な表情を見せる。三階の滝は、この遊歩道の締め括りとしてはうってつけのスポットである。

 秋田県内には滝が多いが、ここ森吉山にはとりわけ多くの滝がある。つい10年ちょっと前にも地元のマタギの間に古くから「神々の滝」と言い伝えられてきたという「九階の滝」が実際に発見されて話題になった。他にも「桃洞(とうどう)の滝」など個性的な滝が多いので本格志向の方は十分な装備をした上でこうした滝を訪ね歩いてみるのもよい。

 冬は北側斜面の森吉スキー場と反対側の阿仁スキー場でスキーが楽しめる。雪質は地元の人が東北随一と自慢するだけあって、正真正銘のパウダースノーである。北側の森吉スキー場の方が雪質は良さそうだが、南側の阿仁スキー場は標高が高いので、大差はない。阿仁スキー場では樹氷も見られる。

 宿泊は森吉山の北側にある国民宿舎森吉山荘がオススメである。国道から延々1時間近く山の懐に入ったところにある「秘境の宿」だが、それだけに静かで自然に抱かれてのんびりできる。温泉もある。数年前に改築されてきれいになった。道も以前は車一台すれ違えるかどうかの狭い道だったが、最近は随分拡張されたので行きやすくなった。他に、温泉通であれば、その森吉山荘に温泉を供給している杣温泉(そまおんせん)がオススメである。また、大人数でわいわい泊まるのであれば、森吉山麓にある「妖精の森コテージラウル」がよい。森吉スキー場には森吉ヒュッテもある。

 南側の阿仁は「マタギの里」として知られる。こちらにも「安の滝(やすのたき)」という名瀑がある(写真参照)。日本三大名瀑に数えられる仙台の秋保(あきう)大滝のような、圧倒的な水量による迫力があるわけではないが、流れ落ちる水の軌跡が美しい、優しげな表情の滝である。こちら側であれば宿泊は、打当温泉(うっとうおんせん)がよい。少し前に新館「マタギの湯」もオープンした。近くの熊牧場も楽しい。人を見ると立ち上がって手を叩いて遠くから餌をせがむ、やけに人馴れしたツキノワグマたちの姿が愛らしい。

 打当温泉から先の林道をそのまま行くと、峠を越えて八幡平エリアにある、かの玉川温泉の手前に出る。阿仁・森吉エリアから八幡平エリアに出る最短ルート(距離的には)で私はよく使う道だが、ほとんど通る車はない。決して万人にオススメはしないが、林道マニアにはオススメの道である。


追記(2009.9.14):その後森吉スキー場は閉鎖されてしまった。残念である。阿仁スキー場は健在である。

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2005年02月28日

東北のオススメスポットその5〜庄内

349e2990.JPG  庄内とは、山形県の日本海沿岸地域のことである。今でこそ内陸の最上、村山、置賜と共に山形県の一部だが、藩政時代は庄内藩として内陸とは別の藩であった。そのせいか、今でも内陸とは言葉も食文化なども異なっている。

 この地域の見所は、海と温泉である。海は遠浅の浜が続き、夏は波静か、水もきれいで海水浴に最適である。私はずっと仙台に住んでいるが、子どもの頃夏休みは毎年泊りがけで庄内に海水浴に連れていってもらったものである。季節風の関係で、夏の太平洋側は曇り空の日が多く、夏らしい太陽を拝める日というのは限られているが、日本海側は夏は晴れの日が多く、その意味でも海水浴にはもってこいである。それとやはり海に沈む夕日の素晴らしさはなんとも言えない。

 新潟県境付近から国道7号は天候が荒れる日は道路に波しぶきがかかるほど海岸すれすれを走っており、海を見ながらのドライブにもってこいである。7号が内陸に入る由良地区で海岸を走る国道112号に入ると、引き続き海を見ながらのドライブを湯野浜まで続けることができる。

 この地域のもう一つの特徴として温泉が多いことが挙げられる。庄内三楽郷と言われる湯野浜温泉、あつみ温泉、湯田川温泉が特に有名である。湯野浜温泉は目の前が砂浜のリゾート温泉地。温海温泉は海岸から山の手の方に登っていったところにあるが、「萬国屋」など高級旅館があり、朝市でも知られる。「大清水」という湧き水で打った手打ちそばを出すお店も有名である。湯田川温泉は春の「孟宗汁」が名物の、山あいにある落ち着いた、ひなびた雰囲気の温泉である。

 で、私のオススメはそれら庄内三楽郷とは別の由良温泉、…だったのだが、この由良温泉の中にあって、子どもの頃毎年夏に家族で泊まってお気に入りだった国民宿舎由良荘が、数年前廃業してしまった(参照サイト)。由良荘がなくなって、由良温泉の宿は、今は高級リゾートホテルのホテル八乙女と民宿数軒だけになってしまった。それでも、目の前の海はきれいだし、新鮮な海の幸は食べられるし、白山島という小さな島にも橋を渡って行けるし、やはり好きな場所である。夕日にシルエットになって浮かぶ白山島はとても絵になる風景である(写真は白山島から見た夕焼け)。


追記(2007.9.7):閉鎖した国民宿舎由良荘だが、民間に売却されて「ホテルサンリゾート庄内」としてこの4月にオープンしたようである。建物などは国民宿舎時代のものをそのまま使っているが、露天風呂付客室や岩盤浴の設備など、内装にはかなり手が加えられているようである。室数限定だが安価なビジネスプランもあり、使い勝手はよさそうである。

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2004年11月20日

東北のオススメスポットその4〜下北半島

79e71808.JPG 下北半島は、東北の他の場所とは少し違った独特の雰囲気を持っている半島である。どちらかと言うと北海道に近い雰囲気が感じられる気がする。

 横浜町菜の花畑は有名である(写真参照)。日本一の規模を誇る。菜の花を使った食べ物やおみやげが多いが、菜の花ソフトがおいしい。

 下北半島はまさかりのような形をしているが、そのまさかりの刃の付け根に位置するむつ市は下北の中心地である。釜臥山から見たむつ市の夜景はアゲハチョウが羽を広げたように見える。以前は道が細く夜間車で行くことができなかったが、今は道がよくなり、車で行けるようになった。

 下北と言えばもっとも有名なのは恐山である。日本三大霊場の一つであり(他の2つは比叡山と高野山)、日本三大地獄の一つでもある(他の2つは富山の立山と秋田の川原毛地獄)。おどろおどろしいイメージが先行しているが、実際には硫黄の吹き出す火山地帯を地獄に、そしてその隣りにある波静かな宇層利湖を極楽に見立てた、いわば「仏教のテーマパーク」とも言える場所である。

 むつ市から北西に向かうと突端の大間崎本州最北端である。晴れていれば北海道は目の前に見える。逆に北東に向かうと尻屋崎である。寒立馬という馬が放牧されている。冬の風雪に耐えて立っている姿はたくましいの一言に尽きる。

 大間崎からむつ湾の方に回ると仏ヶ浦天然の造型による奇岩怪岩の連続。恐山の奥の院とも言われる。さらに南下した脇野沢村は、最近悪さが過ぎて問題になっているが、天然記念物である北限のニホンザルがいる。「野猿公苑」で見ることができる。

 宿泊は大間崎の近くにある大間温泉海峡保養センターがおすすめ。本州最北端の温泉である。むつ市を拠点にするのであれば、街中にあるシティホテルのプラザホテルむつか、少し離れた高台にあるむつグランドホテルがよい。グランドホテルは温泉である。

 他にも、下北にはあまり知られていないが、鄙びたいい温泉が多い。薬研(やげん)温泉奥薬研温泉下風呂温泉などがその代表である。そうそう、あまり知られていないが、恐山の中にも温泉があって(参照サイト)、誰でも入れるようになっている。

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2004年09月30日

東北オススメスポットその3〜田沢湖・八幡平

50375106.JPG 田沢湖写真参照)は水深423mで全国で一番深い湖。上流の玉川温泉から強酸性の水が流れ込んでいるために魚は住んでいなかったが、大規模中和施設の完成で、再び魚が住める湖になってきている。湖面は海とも他の湖とも違う独特の色を見せる。この田沢湖を一周する道は、20kmほどの手軽で楽しいドライブコースである。

 田沢湖から乳頭岳の方に上っていくと、水沢温泉郷、田沢湖高原温泉郷、そしてその先には乳頭温泉郷がある。水沢温泉郷、田沢湖高原温泉郷は近代的な温泉ホテルやペンションが建ち並ぶ。それに対して、その先の乳頭温泉郷は国民休暇村を除けば、ほとんどが乳頭岳に抱かれたひなびた一軒宿のイメージ。

 特に鶴の湯温泉や黒湯温泉などを訪れると100年以上タイムスリップしたような感覚を受ける。実際、鶴の湯は江戸時代は佐竹藩のお殿様の湯治場だったところで、今もその頃を彷彿とさせるような建物である。ただ、昨今の秘湯ブームでだいぶ訪れる人も増え、あのような山奥にも関わらず、一番人気の鶴の湯などはゴールデンウィーク中は行列ができるほどだと言う。ひなびた雰囲気を味わいたいなら、観光シーズンを外すか、黒湯や孫六、蟹場(がにば)などに逗留するのがオススメ。

 田沢湖を北上すると八幡平(はちまんたい)がある。八幡平は秋田県と岩手県の県境にある、霧が峰などと同じ日本には珍しい楯状火山で、緩やかな山容が特徴。この八幡平の山麓には、昨今の「偽温泉騒動」とはまったく無縁の良質の温泉が多い(秋田県側はここ、岩手県側はここを参照)。

 中でも圧巻は玉川温泉。大噴(おおぶけ)と名づけられた源泉からは湯温98℃、PH1.2の塩酸を主成分とする強酸性のお湯が毎分9000箸眇瓩出している。ちなみに、この湯温、PH、湯量(一つの源泉としては)、いずれも日本一である。この強烈な成分の温泉が川底に沈殿して結晶化して積み重なると、北投石という微量の放射線を発する岩石になる。この北投石、玉川温泉以外には台湾の北投温泉にしかないという貴重な岩石で国の特別天然記念物に指定されている。

 玉川温泉は薬効がきわめて高いとされ、全国から様々な病気を持った人が訪れる。「アトピーが治った」「がんが消えた」という体験談がメディアで取り上げられたりして知名度が上がったため、宿泊の予約は非常にとりにくくなった。玉川温泉は、普通の温泉のように湯船につかるのはもちろん、飲泉(そのままではとても飲めないので水で10倍に薄めて飲む。それでもかなり酸っぱい)や岩盤浴もよく行われている。岩盤浴は源泉近くの岩場(地熱で温かい)にござを敷いて横になるものだが、温泉に入るより効くと言う人もいる。

 宿泊施設は旅館部と自炊部を備えた玉川温泉(という名前の宿)1軒だけだったが、最近近くにバリアフリーの近代的な施設、新玉川温泉ができ、また今年5月にはぶなの森玉川温泉湯治館そよ風もオープンし、快適に宿泊できるようになった。

 他にも、「馬で来て 足駄で帰る 後生掛」と言われた後生掛(ごしょうがけ)温泉や八幡平最古の歴史を誇る蒸の湯(ふけのゆ)温泉、県境を越えて岩手県側には東北で最も高所(標高1,400m)にある藤七(とうしち)温泉、松川渓谷沿いに3軒の宿がある松川温泉などもあり、いずれも八幡平山麓の名湯である。


追記(2004.10.31):秋の松川温泉「松楓荘」に泊まった(参照サイト)。松川温泉には3軒の宿があると書いたが、その1軒1軒が離れているので、一軒宿のような感じである。

 松楓荘には内湯と露天風呂の他、橋を渡って川の対岸に行くとある洞窟露天風呂もある。お湯の質は他の多くの八幡平山麓にある温泉と同様、白濁した硫黄泉でいかにも温泉という感じのよい泉質である。

 夕食でご飯のお櫃を開けたら、普通の白いご飯ではなくきのこご飯が入っていて感激した。他にも山の幸がいっぱいの夕食でとてもよかった。ああいった山の宿でまぐろの刺身などが出ると途端に興ざめしてしまう方なのである、私は。 

 川の流れる音の他は何も聞こえない。日常の諸々の雑事を忘れてのんびりと命の洗濯をするには実によい宿である。

anagma5 at 12:16|PermalinkComments(1)TrackBack(1)clip!